<その4>



ロビーに向かって走るすみれは、食堂横の廊下に至って立ち止まった。

気配が二匹‥‥いや三匹。

それは横浜で対峙した、あの黒い霞のような輩と同一の気配だった。

あの時は感じ取れなかったが、今は違う。

すみれの霊的認識力は抜き身の刃のように研ぎ澄まされていた。

実体化を促さなければ駆逐できない‥‥ゴミの分際で手がかかる‥‥すみれは舌

打ちしたが、なぜか気合いが減退するようなことはなかった。

さくらはそれを斬った。

自分にできないはずはない。

「‥‥これで遅れをとるようなら‥‥わたくしは‥‥さくらさんには‥‥」

斬れる。

今のすみれにも、あの時のさくらと同じような確信があった。

「さくらさん‥‥」

さくらには自分でも嫌になるような言葉をかけてしまった。

でもそれは、以前の自分であれば決して口にする台詞ではなかった。

嫉妬深いさくらだったが‥‥本当はだれよりも奥ゆかしい、慎み深い女性だっ

た。

それを知ってて、すみれはさくらを煽った。

言わなければ‥‥背中を押さなければ、さくらの未来はもっと辛いものになる‥

‥決して明るい将来は待ってはいない‥‥

すみれは自分の娘に等しいさくらの、これからの人生を懸念した。

花やしきで介間見た、あの‥‥破壊の‥‥破滅のイメージ。破邪の血統が導くの

か‥‥それが殊更すみれに不安を呼んだ。このままさくらを放っておくなど‥‥



もし‥‥さくらが望むなら‥‥自分は‥‥

「‥‥ふっ、この神崎すみれともあろう者が‥‥」

すみれは不敵な笑みを浮かべて、長刀を握り直した。

矛先に霊気の光が灯る。

「‥‥神崎風塵流に‥‥斬れぬものなし!」

すみれはロビーに単身乗り込んだ。





「‥‥が‥‥が‥‥んんん‥‥んあああああ‥‥」

失神しては、目覚め、また失神する。いつしか神凪と大神の波動は消えていた。

ただ‥‥人知を超えた快感だけがさくらを支配していた。殆ど拷問に等しい快楽

という名の触手の蹂躙に、さくらはただ翻弄されるしかなかった。

零式が封印された理由がここにあった。

花やしきで山崎がカンナに言ったこと。

‥‥霊力を喰らう。妖力を喰らう。

取り込んだ人間を試し‥‥その人間が持つ欲望を刺激する。決して心に描くこと

がない、深い場所‥‥深層心理に埋没した想いすら抽出する。

満たされ過ぎた欲望の代償は、自らの命を削ること。自己を成すものを余すこと

なく吐き出す。それは終わることなく続く‥‥意思の続く限り。それを喰らう零

式‥‥そして取り込まれた者は廃人と化す。

‥‥主と認めた者以外は。



零式が伸ばす見えない触手が、さくらの外側と内側をすき間なく取り巻く。

外側‥‥さくらの女性。

内側‥‥その破滅を導く力。

零式の単眼から放出される赤い光は、物理的光源として放つ光量を超えていた。



そして、それまで見たこともない霊気が零式から放たれようとしていた。

零式の満たされぬ暗黒の穴が‥‥満たされていくようだった。

黒い霊力‥‥破壊の力。それは神凪の力。

白い霊力‥‥再生の力。それは大神の力。

そのいずれでもない、そのいずれでもある得体の知れない力が沸き上がる。

「‥‥だ、だれか‥‥助け‥‥て‥‥ん、ん‥‥あああああ‥‥」



突如、格納庫が真っ赤に照らされた。

大神がその巨大な霊力の奔流によって、神武を間接稼働させた時のように‥‥警

報灯が格納庫を照らした。やはり同じように警報は鳴らない。

‥‥蘇る紫色の神武。既にフレームだけの残骸が、意思を持つかのように寝返り

を打つ。

赤と青、そして今や主の記憶を失いつつある新緑とガングレーの機体が、命を吹

き返したかのように身じろぎをする。

零式の鼓動によって。

さくらの‥‥命の鼓動によって。

その四体の神武がついに起動した。そして零式を包囲するように移動する。

四体の神武とその中央に黒い神武、零式。

四体の神武から、まるでその命を与えるかのように霊光の帯が形成される。赤、

青、灰色、緑‥‥それは中央に位置する零式に集まった。

零式は最早黒い霊気を放つことはなかった。黒い身体が虹色に染まる。それはい

つしか零式自らが放つ力となった。

見えない黒い触手が虹色に輝く。

「‥‥かっ‥‥く、はああ‥‥‥ひいっ」

触手は黒かった頃を凌ぐ力を発した。

細いさくらの身体が意思の制御から離れ勝手に動く。手が桜色の振袖を胸元から

引き裂く。白い脚が狭い零式のスリットで妖しく蠢く。染み一つない、着物より

も薄い桜色の肌が露出する。

‥‥熱い‥‥‥だれか‥‥わたしを、殺して‥‥‥わたしを、わたしの身体を‥

‥裂いて‥‥‥‥熱い‥‥‥この‥‥身体は‥‥邪魔‥‥

さくらの身体の輪郭がぼけ始めた。同時に光を放つ。淡い桜色の光。

精神的危機が、虹色の触手が、禁断の力の巣をも刺激する。

肉体を精神を浸食する天上の快楽に最早失神することも許されず、さくらは発狂

寸前にまで追い込まれた。

‥‥さくらさん‥‥

心の耳に母の如き少女の声が木霊する。発散しかかった意思はその悲痛な声で半

ば強引に肉体に引き戻された。

さくらの目がカッと見開く。

触手はさくらの意思の回帰とともに後退した。主の命令に従うように。

ハッチの留め金が解除される。その繋ぎ目から、カーテンからこぼれる朝日のよ

うな眩い光が放たれた。零式の内臓に太陽が創られていた。

ハッチが音もなく開く。

格納庫は白色と化した。





「‥‥一匹足りませんわね」

すみれはロビーに着くなり、目の前に現われた二匹の黒い影を瞬殺した。

霊力を付加した刃も通過するはずのそれを、すみれの長刀は斬った。それにはさ

くらの技も参考になった。

横浜では残留霊力を添加した棒が通過した。だが影は見える。それに‥‥先の銀

座の戦いでは、山崎の意思の力は確かにあの黒い輩に実体化を促した。必ず‥‥

どこかで繋がっているはず。実空間と霊的座標を狂わせる衣‥‥それを剥げばい

いのだから。

すみれは方法を変えた。神速の刃が巻き起こす風が、衣と同期する霊的波長を探

索する。そして合致すると同時に風が吹き飛ばす。

‥‥神崎風塵流・破魔烈風陣。

すみれは初めてこの技を使った。それも出来ると確信した。影の衣は実空間では

なく複素空間座標を霊的波長に有していた。負の霊力‥‥妖力とは違う、言わば

虚数霊力で成り立っていたのだ。霊力が素通りする訳だった。

衣を剥げば、あとは楽勝だった。



斬れる確信を得た背景には、神凪の指示もあった。

通常技の鍛練をしろ‥‥と言う。

基本が大事。必殺技は基本技の集大成、延長線上にある。基本を完璧にすること

で攻撃にも幅が出る。防御力も向上する。

ここ数日のさくらとすみれの鍛練はまさにそれだった。

それは事実、二人の力を底上げするものとなった。

さくらは雪華風神を放ったことを荒鷹真打によるものだと解釈した。勿論それだ

けではない。素霊力と通常技の向上が伴って初めて成立した技だった。マリアの

放つ一文字風牙が、神凪の十文字雷破と比較して大きく後退してしまうのも、そ

うした理由がある。勿論、剣術を知らないマリアが狼虎滅却活殺奥義を、修羅王

を手にした瞬間体得出来たこと自体、驚異に値するが。

すみれの場合は鳳凰蓮華の完全会得、そして亜空間の敵をも殲滅出来るに至った

こと。

無論神凪の目論見はそれだけではない。通常技の効かない甲冑降魔‥‥それに対

抗する力の会得だった。



「‥‥おかしいですわね‥‥何処にも気配がない」

確かに三匹の気配を察知した。

探索の触手を劇場内に隈無く広げる。地下司令室にはマリア。すみれの霊的認識

力は警報を解除しつつあった。それでも落ち着きを得ることができない。マリア

や可憐のそれと同じく。

“勘”が、気を緩めるな、と言っていた。

「‥‥いない‥‥それに、さくらさんも‥‥」

地下格納庫に意識を向けた時、それは再度鳴り響いた。物凄い気配がそこにあっ

た。敵ではない、が‥‥それはかつて自分を、そして大神を、間接的とは言え結

果的に殺意の霊気に駆り立てることになった、あの大神の巨大な力に類するもの

だった。

「な、なんですの、これは‥‥大尉、なの?」

「探し物はこいつですか?」

すみれは、ギクッとして声の方向に身体を向けた。‥‥反射的に刃も。

そこは売店だった。

いつもは椿がいる、その売店裏。

商品には布が掛けられている。

ロビーの薄明かりでは裏の棚の状態もわからない。

その棚の前に声の主は立っていた。いつもの椿のように。



赤い中国服。

背が高い。売店の暖簾に額が隠れて見える。

若い男のようだ。

「‥‥どなたかしら。当劇場では押し売りはお断りしておりますのよ」

すみれは刃を下に‥‥長刀を斜め前方下向きに降ろした。

いつでも旋回できる体勢におく、風塵流ならではの構え。

「ふふ‥‥押し売りではなく‥‥買い取りに参上しました‥‥」

赤い中国服の青年が売店裏から、灯が当たる場所まで出てきた。

「わたしは月影と申します」

片手に、先程の黒い霞‥‥その首と思しき括れを握っていた。

黒い影がキーキーと耳障りな悲鳴を挙げる。実体化していないはずの、その不浄

の輩を手で捕獲する‥‥すみれはそれだけで相手の技量を理解した。すみれの霊

的認識力にも、そして生体が発する気配としても捕捉出来ない、空気のような存

在感‥‥

まさに暗殺者だった。

視覚だけが頼りだった。目を閉じればそこに居ることすら把握できない。

「‥‥なかなか、いい男ですわね。わたくしの好みよ‥‥人間なら」

「お褒めにあずかり恐悦至極‥‥神崎すみれさん、ですね」

「ほほほ‥‥わたくしの名は魔界にまで浸透しているようですわね」

月影はにっこりと微笑み、手に力を加えた。

黒い不浄の物の怪は、塵となって消えた。

表情には出さないものの、長刀を握る手がじっとりと汗ばむ。

得体の知れない力に、こちらの気力まで吸い取られてしまいそうだった。

すみれは必殺の気合を腹部に溜め込んだ。

「言っておきますが‥‥これらはわたしが差し向けたものではありません。わた

しの美学に反する体裁ですから」

「‥‥でしょうね。でも同じ穴のムジナ、ではありませんこと?」

「これはきつい‥‥‥時間がありませんので、手短かに用件を述べます」

「‥‥‥」

「買い取るものは二つです。あなたは‥‥天塵、という名の銀時計をご存知あり

ませんか?」

「てんじん‥‥?」

「懐中時計です。帝撃花組の‥‥大神隊長が所有しているものですが‥‥」

「‥‥‥」

二人の間で視線が交錯する。

赤い光と紫色の光が絡み付くように。

「‥‥!!!‥‥紅蘭様が‥‥お持ちになったのか‥‥」

「!‥‥心を、読みましたわね‥‥‥紅蘭、様?‥‥知りあいですの?」

「‥‥むう‥‥なるほど‥‥あの下衆が‥‥あなたを使って、紅蘭様を‥‥暁蓮

様もむごいことをなさる‥‥」

「‥‥しゃおれん?」

「あなたも‥‥杏華様には、優しくしてくださったようですね‥‥すみれさん」



月影は視線を天井に向けた。その目がまるで大神や神凪が自分に向けるような優

しさと暖かさをにじませていた。

「杏華様?‥‥わかりませんわね‥‥あなたは‥‥」

「お会いしたい‥‥‥この手で、あなたを‥‥杏華、様‥‥」

月影は暫し顔をうつむけた。

拳を握る手が白くなり、そして震える。

「‥‥今は休んでおりますの。面会は日を改めてお願いできないかしら」

「‥‥そうですね。護衛の気も感じられます。懐かしい限り‥‥お出かけです

か、大神少尉は」

「?‥‥大神“少尉”?‥‥大尉に昇進されたのですよ、大神“大尉”は」

「あっと失礼、神凪大佐、でしたね‥‥鬼神の如き様は、以前とお変りなく‥

‥」

「!」

「そう言えば‥‥最後にお会いした時は‥‥そうだ、神凪少佐でした‥‥なぜ、

名前を変えたのか‥‥」

「‥‥司令の知己ですの‥‥あなどれませんわね‥‥」

すみれは記憶をたどった。

自分を、そしてさくらの精神を犯したあの黒い不浄の輩。それを始末した神凪‥

‥

‥‥以前中国で見たことがある‥‥

『‥‥戦ったことがある、でしょう、大佐‥‥』

戦ったとして‥‥あの神凪と戦って、こうして目の前に五体満足でいるだけで、

この青年の実力がわかる。すみれの背中に冷たい汗がつたった。



月影はゆっくりとすみれの近くまで歩み寄ってきた。

それに応じてすみれも後退する。

「あなたは‥‥敵、ですわよね」

「ええ。杏華様に対するあなたの優しさ‥‥そのお礼は、すみれさん、痛みを感

じさせないことで償わせてください」

「‥‥‥」

「これが二つ目です。買い取りの代償は‥‥墓前に菫の華を捧げます」

「‥‥魅力に欠けますわね。わたくしの遺骨を大神家に供する、とでも言えば考

えてもよろしいのに‥‥」

月影は少しの間目を伏せ、そして開けた。

その目に悲哀の色が浮かぶ。

「あなたが‥‥大神大尉と、あのようなことにならなければ‥‥残念です」

「!!!」

「‥‥お命、頂戴仕る」

月影の目が真紅に輝く。

すみれはありったけの霊力を矛先にかき集めた。

相手は無手。少なくとも間合いはこちらが上だ。勿論それも有利と判断できる材

料にはならない。この青年が‥‥神凪と同等だとすれば‥‥

目の前の敵が尋常ではないことは始めからわかっていた。

だが戦わずして撤退など神崎風塵流の継承者としてのプライドが許さなかった。

それ以上に帝国華撃団・花組、神崎すみれのプライドが。

「‥‥気に入りましたわ‥‥相手にとって不足なし!」

身体が青紫に、そして白く輝く。

翼が見えるようだった。

鳳凰蓮華‥‥その純白の鳳翼がすみれの身体をくるむ。

それは一年前、聖魔城で降臨した天使の再来を思わせた。







夜の青山はいつも暗い。そして無音。

そこは住宅街ではない。往来する人は昼でも少ない。

今はただ、そこに建物があることを示す灯が、窓と思しき場所から漏れていた。



三階建てのようだ。

そこだけではない。

広い敷地には銀座の帝国劇場並の建物が点在していた。

その建物から微かに、星のような灯が見える。

空は闇。

先程雲間から少しだけ顔を覗かせた赤い月も、再び雲に隠れて星も見えない。

そして星は地上に場所を代えたようだった。

その星が点らない一角‥‥最も大きい建物の影、その闇から囁き声が聞こえてき

た。

青山午後7:00。

「‥‥夢の扉が開くぞ。俺と十六夜ちゃん、それと‥‥夜叉姫さん、と言った

か?‥‥この三人で西側‥‥青龍の方角から侵入する」

「はーいっ」

「さっさと行けよ‥‥おめえが先行しなきゃ始まらんだろうが、このクソガキ」



「‥‥十六夜、子供じゃないよっ」

「ちっ、なんであたしが、こんなガキと一緒に‥‥」

「‥‥仲良くやれとは言わんけど‥‥宜しく頼むよ、夜叉の姫君‥‥山崎隊長は

いないけどね」

「‥‥ふんっ、せいせいすらあ」「ひひひ‥‥無理して」

「俺達は目的の三人を救出次第、“鬼の眠る間”に移動する‥‥七特の方々は東

側、朱雀から侵攻‥‥護衛の兵士、それと、おそらく虫が湧いてくると思います

から、よろしく」

「承知した」

「司令と可憐、それに‥‥そっか、四季龍の仕事があったんだな、“秋緒”君

は。三人がいないから‥‥四人ですか。なるべく早めに出所は抑えますから‥

‥」

「ふふっ、心配ご無用だ‥‥斯波隊長」

その声は‥‥マリアがいれば判別出来ていたかもしれない。

“ポーシュリン”のバーテンの声だった。

「わかりました。玲子と氷室、お前らは外から回り込め。騒ぎが起きそうだった

ら鎮圧しろ。結界がそこら中にあるからな、それも残さず破壊しろ。索敵と二班

の連絡は弥生くんにお願いする」

「了解」「はい」「わかりました」

「なるべく朱雀班と一定の距離を保ってな‥‥無明妃さんは七特の方々の後方に

位置してください。汚染が発覚したらお願いします」

「‥‥汚染だけでよろしいのですか?」

「まあ‥‥やばそうだったら、ね」

「‥‥かしこまりました」

「よし‥‥行くぞっ!」







浅草花やしき、観覧車下‥‥午後7:00。

「さて‥‥布陣を決めますかな」

「‥‥やはり、わらわは巫女役かのう」

「当然。村雨君と朧の後方に位置、玄武‥‥表玄関から向かってくんさい。一番

厄介な場所ですきに。特に役割分担する必要はないよ‥‥改心する気配がなかっ

たら、片っ端から始末していい‥‥相手が人間でもな。つまらんことで苦労する

ことはない。俺が許可する」

「豪気よのう‥‥」「‥‥‥‥」「了解」

「白虎からは俺と可憐さん‥‥ただ、鯨の口に向かうのは少し遅れる」

「‥‥速やかに、と言うわけにもいかないのね」

「ええ‥‥奪われたものは、きっちりと取り返さんと。それと‥‥問題が生じた

ら“月に吠える”。今回は新月、三日月、満月の三段階だ‥‥いいな、朧」

「了解ですよ‥‥ないとは思いますがね」

「ふっ、そっちは頼んだわよ‥‥村雨くん」

「‥‥‥‥」

「おほほほ‥‥では、わらわが必勝祈願の詠でも朗じて‥‥」

「さ、さあ、各々がた、出陣ぢゃっ!」







暗い部屋。

赤いランプが灯す、赤黒い闇の世界。

ベッドに横たわる白い青年も、その白がくすんで見えてしまうほどだった。

無表情の寝顔。先程来、寝汗で濡れていた額と首もとは、きれいに拭い去られて

いた。死んだように眠る白い青年‥‥大神。

そしていつもは群青の麗人のためにある赤い光は、別の女性の横顔を照らしてい

た。

金髪の白拍子、退魔の巫女‥‥神楽。

「美しい‥‥」

「‥‥如何いたします?‥‥運ばれるなら、私が‥‥」

「よろしいのですか?‥‥あなたは主の指示で大神隊長を‥‥」

神楽の問い掛けに、少し目をうつむけて、ただドアの近くに佇む龍塵。

神楽は大神の枕元に膝をついて大神を見つめていた。

「‥‥これは大神殿の意思ではありませんでした。大神殿には‥‥私共の主旨を

理解して頂いた上で‥‥もう一度来てもらったほうがよろしいでしょう」

「あなたは‥‥敵、のはずでは?」

「‥‥大神殿、そして神凪殿には‥‥そう思って欲しくはないのですがね」

「‥‥それ以外は無用、と?」

「‥‥‥‥」

神楽は横目でちらっと龍塵を見て、再び大神と対峙した。

「李紅蘭、か‥‥」

「!‥‥」

大神一郎‥‥神凪の弟。帝国花撃団・花組隊長。大戦の英雄‥‥そして、銀座の

花を育む庭師、モギリ。神楽は改めて大神に魅入った。士官学校時代から大神の

ことは知っていた。監視していた張本人なのだから。米田が命じた月組とは別に

‥‥神凪の命で監視していた神楽。だから大神がここに連れ去られてきたことも

感じ取れた。

だが、こうして面と向かって顔を見るのは勿論初めてだった。

初めて神凪と出会った頃の、少し幼さの残した面影そのまま。

‥‥確かに花組の少女ならずとも心惹かれる。

神楽は大神の額にその小さな手を乗せた。

「熱はない‥‥まるで冬眠しているよう‥‥」

「‥‥‥‥」

「‥‥赤い海‥‥すみれ色の波‥‥‥なるほど、大神家の力か‥‥」

「?‥‥薬を処方してはみましたが‥‥あまり効果はありませんでした」

「‥‥いつから?」

「おそらく‥‥お嬢様と会われて‥‥」

「‥‥あの人、中国からいらしたみたいね」

「ご存知で?」

「‥‥ここの窓際に立っていたのを見た‥‥遠い記憶‥‥捨てた想いは“蛇”に

よって導かれたようね」

「!!!」

「それ故に‥‥大佐と大神隊長を望むのね。哀れな‥‥」

「‥‥他言無用に願えませんかな。手に架けるには‥‥あなたは優しすぎるよう

だ」

「ふっ‥‥日を改めては?‥‥今は大佐がいる」

人形の如く無表情のはずの神楽の幼げな顔立ち、その不釣り合いなほどに妖艶な

唇が、そこだけは妥当な笑みを創りだしていた。

魔女‥‥いや、夢魔か‥‥

思い出すことも困難な遠い過去、西洋の何処かの国だったか‥‥そこで会った一

人の美少女が龍塵の脳裏をかすめた。金色の髪、そして銀色の瞳‥‥

自分を封印した少女‥‥幼い無邪気な笑みで、退魔の技を振るう同じ魔界の者。



魔界に背を向ける魔界の者‥‥人間を愛した魔女。

魔物の命を啜る夢魔‥‥闇を喰らう闇の化身。

似ていた。

目の前の巫女はその美少女によく似ていた。

それとも神凪と共にあるからか‥‥

人間を愛した魔界の者‥‥それは自分も変わらない。

その人のために自分は甦った。

「‥‥‥」

「‥‥李紅蘭‥‥藤枝杏華‥‥そして、真宮寺さくら、か‥‥ん?」

「‥‥?」

「これは‥‥副司令‥‥なぜ、彼女が‥‥」

「?」

「消したほうが‥‥いや、大佐が許さない、か‥‥」

「?‥‥??」

神楽は大神の額から手を離した。指先だけが触れる。

そしてゆっくりと鼻梁をなぞり、唇に停止した。

‥‥マリアがそうしたように。

「同じ唇‥‥同じ匂い‥‥同じ、人‥‥」

「‥‥席をはずしましょうか?」

「‥‥随分と気を使ってくださるのね」

「‥‥‥‥」

「では‥‥部屋の外で待っていてくださる?」

「‥‥かしこまりました」

「すぐ終わります‥‥」

龍塵は退出した。

赤いランプが照らす、白い装束、赤い袴‥‥金色の髪、銀色の瞳。

いつもは群青のチャイナドレスを照らすはずの、その赤い薄明かり。

心変わりでもしたのか、それはいつもよりも更に妖しく輝いていた。

銀色の瞳が艶やかに潤む。

妖艶な唇が、さらに妖しく濡れる。

「‥‥これは治療‥‥これはあなたのため‥‥」

赤いランプが大神の顔に別の影を創った。

壁に創られた影絵。それは癒しの巫女が創る禁断の影絵に違いなかった。





「‥‥そうか‥‥やはり‥‥銀時計の君か」

「‥‥‥」

「‥‥10年ぶりか‥‥随分と艶やかになったな」

「‥‥‥」

「なぜ、こんなことをする?」

「‥‥‥」

「‥‥大神が欲しいのか?」

「‥‥‥」

「逆効果だと思うがな。あいつは“悪”とはっきりしている者に加担したりはし

ないよ。君の行いが善の要素を持ちえるとは‥‥とても思えんが」

「では、力のない者が蹂躙されるのは正義だと?」



神凪は客間の窓際に立っていた。厚手のカーテンを開けて、窓の外を見つめる。

ただ闇しか映らない庭。

神凪が座っていたソファのすぐ横に、俯く暁蓮がいた。

想いは届けられた‥‥声がそれを示していた。



「‥‥辛亥戦争のことか?」

「‥‥あなたは‥‥わたしを助けてくれた。だから、わたしは‥‥あなたも欲し

いの‥‥二人の大神さんが」

「それで‥‥地元を粛清すると、こういうわけか?」

「‥‥‥‥」

「君の腹心に月影という男がいるだろう?‥‥なぜヤツを組み入れた?」

「‥‥知ってます、戦争を煽ったのも‥‥でも、それは彼の心が閉じ込められて

いたからなの‥‥」

「‥‥‥」

「人間の愚行など、国境を問わない‥‥月影が煽らずとも、だれかが引き金を引

いたはず。それに月影もあなたと二度目に戦った時には、もう彼は完全に元の優

しい青年に戻っていたの。あなたとの戦いは‥‥ただ彼を傷つけるだけだったの

‥‥」

「‥‥優しいな、相変わらず」

「そんな‥‥わたしは、ただ‥‥」

「日本を選んだのは‥‥脅威を先に潰す意味もあったんだな?」

「‥‥この国の亡者どもはいずれ中国に侵攻する。だからそれに付け込んだだ

け。共倒れさせるつもりでね。でもそれは副産物。もっと大事なことがあった‥

‥勿論それは、大神くん‥‥そして‥‥あなた‥‥」

「‥‥俺と大神が必要とは思えないが」

「‥‥戦うためだけではないの。わかって、神凪さん‥‥わたしは‥‥あなたが

‥‥あなたが、好きなの‥‥」

「‥‥‥‥」



暁蓮はいつの間にかソファを立って、神凪の後ろまで歩み寄ってきていた。

窓に黒と群青の美影が映し出される。

闇が広がる窓の向こう側‥‥客間の灯が反射してもう何も見えないほどに暗闇が

覆っていた。来た時には黄昏時の薄明りが照らしていた外の景色も、もう何も見

えない。

時折高台に吹き込む潮の香りを伴った柔らかい風が、闇の一部の輪郭‥‥人の背

丈ほどの幼い樹木の若い枝を揺らす。

雲間から月が一瞬見えた。

赤い月。

神凪は少し顔を上に向けて、その月を見た。

それは夢の扉が開く刻。



「‥‥確かに‥‥君なら降魔を召喚する程度のことは稚技に等しいか」

「‥‥あの愚かな物の怪は、元々龍脈の乱れが生んだ闇の落とし子。帝都にはそ

の傷跡が残っていたから、それを刺激するだけでよかった‥‥」

「‥‥白と黒、それに赤いヤツは?」

「あれは中国で拾ってきたの。白はともかく‥‥黒と赤はどうしようもない輩だ

ったわ。人の心に付け込むカス。でも、それは人間の持つ暗い部分と繋がってい

るの‥‥毒は毒を以って征す。事が成就した暁には始末するつもりだった」

「‥‥‥」

「‥‥黙ってわたしの言うことを聞いていればいいものを‥‥所詮、贋作ね‥‥

消す手間が省けたわ」

「‥‥青いヤツ‥‥龍塵か、あの男は別格のようだ」

「彼は‥‥元々‥‥」

「?‥‥君の‥‥従者ではないのか?」

「‥‥‥‥」

「‥‥大神を選んだ理由を聞かせてくれるか?」

「‥‥大神くんも同じなの。あの人も‥‥わたしを助けてくれたの‥‥」

「大神が‥‥君と会う機会があったとは‥‥」

「‥‥きっと、大神くんは憶えていないと思います‥‥わたしが日本に来たばか

りの頃だったから‥‥それに、大神くんも‥‥まだ士官学校にいた頃の話だし‥

‥」

「そうか‥‥」

「‥‥わたしの国では、受けた恩は倍にして返します‥‥恨みはその倍で」

「‥‥‥」

「あなたと大神くんにとっては‥‥きっと些細な事だったかもしれない。でも‥

‥でも、わたしにとっては‥‥とても‥‥とても大事なことなの。とても‥‥大

切な人なの‥‥」

「‥‥優しさに飢えていたのか?」

神凪はカーテンを閉め、暁蓮に向き直った。

同時に暁蓮は下を向いた。面と向かうのが辛いのか‥‥その姿はだれが見ても初

恋の人に想いを打ち明けようとする、ひた向きな少女そのものだった。

そんな暁蓮を見る神凪。その瞳には先の破滅的な色合いは微塵もない。



「なぜ‥‥俺に銀時計を託した?」

「‥‥あなたは選ばれた人。あなたの力を完全なものにするために‥‥天塵はあ

なたを選んだ‥‥そして解放されたの。ただ‥‥それも一部分だったみたいね‥

‥」

「‥‥成程な‥‥それで、止まってしまったのか。銀時計が再び動き出す時、大

神を拘束する鎖も解かれるのか‥‥」

「天塵には二つの属性が備わっていた‥‥わたしも今日まで知らなかった」

神凪は少し暁蓮に近づいた。

そしてその長い黒髪‥‥後ろで束ねた、その後れ毛が飾る首筋を、そっと撫で

た。

ビクッと身体を硬直させ、そして導かれるように顔を振り上げる暁蓮‥‥

背の高い大神‥‥暁蓮は少し上目使いで神凪を見つめた。

「‥‥思い直してくれないかな」

「‥‥‥‥」

「まだ間に合うよ」

「‥‥神凪さんは?‥‥あなたは今の状態が‥‥正しいと、そう思っているの?

‥‥あなたの属する帝国陸軍が正義の象徴であると‥‥あなたは本当にそう思っ

てらっしゃるの?」

「‥‥‥」

「‥‥お願い、わたしと来て。わたしの傍にいて。あなたと大神くんには‥‥あ

んな連中に染まって欲しくないの‥‥」

「‥‥‥」

「お願い‥‥」

「‥‥闇を喰らうには、それ以上の闇を以って、か‥‥俺も今の状態が最良とは

思っていないよ。もし‥‥君の言うように‥‥帝国が悪に変貌するなら‥‥俺は

それを喰らうまでだ」

「では‥‥」

「だが、帝国の未来が暗いとは思いたくない‥‥もう一度聞く。思い直してもら

えないか?」

「‥‥‥‥」

「‥‥これは‥‥俺の願いだ」

「大神、さん‥‥」

暁蓮は思い出の中の少年を呼び、そしてゆっくりと後退した。

少女は消えていた。

そこにいたのは紛れもない李暁蓮だった。

「‥‥今日はお引き取りください、神凪大佐。大神大尉も連れて‥‥奪われたも

のを取り返しに来ただけなのでしょう‥‥」

「‥‥‥」



客間の扉が開いた。

龍塵と神楽‥‥そして大神。

大神は龍塵が抱きかかえる格好で客間に登場した。

「お嬢様‥‥」

「車に‥‥」

「お気遣いは無用です。大神大尉はわたしが抱いて行きます」

暁蓮の言葉を斬る神楽。暁蓮を見る神楽の銀色の瞳は、まるで氷のような冷やや

かさを伴っていた。

見え返す暁蓮の目。

暁蓮の瞳は明らかに殺意に満ちあふれていた。

それを平気で受け流す神楽‥‥そして龍塵が抱えている大神に目を向ける。暁蓮

に向けるそれとは違って、銀色の瞳は潤み、人形のような肌は何故か赤らみ始め

た。

「‥‥表に単車を停めてある。すまんがそこまで大神を連れていってくれるか‥

‥龍塵」

「わかりました」

龍塵は神凪の言葉に頷き、そして暁蓮を見た。

暗い瞳。

先程の神凪と対峙していた時の、あの少女のような瞳ではなかった。

元に戻ってしまったのか‥‥龍塵は溜め息をついた。

その暗い視線の先にいたのは神楽だった。

‥‥龍塵の内にそれまでになかった明確な意思が芽生えた。それは月影が大神に

発した言葉。そしてそのために月影はすみれを手にかけようとしていた。

‥‥主の望みは我が望み。

元々月影と龍塵は心からそう思っていた訳ではなかった。本来の主は他にいるの

だから。勿論暁蓮は本来の主と無関係な人ではない‥‥それに恩義もある。

それが、暁蓮の本来の優しさを垣間見ることになった二人の従者、その意思を尊

ぶほどに敬愛せしめたのだった。

‥‥主の意思を迫害する者には死の返礼を以て応じる。

今の龍塵も同じだった。

神楽と名乗るこの少女‥‥生かしておいては主を悲しませることになる‥‥

目の前の金髪の巫女は決して殺意を促すような存在ではない。

事実、龍塵は相手に対して微笑み返すなど、月影以外では初めてだった。しかも

魔界の香りもする少女‥‥たとえ辛い過去を思い起こさせる存在であっても。

龍塵は迷いを振り切るように客間を出た。

それは月影が見せた、悲しい表情にも似ていた。





客間はまた神凪と暁蓮の二人となった。

カーテンが覆う窓越しに風の音が聞こえる。潮風の音。

夜になって波も高くなってきていた。

二人は風の音、そして遠くに聞こえる波の音に耳を澄ませた。

「最後に一つだけ聞かせてくれ」

「‥‥‥‥」

「君は‥‥李紅蘭という女性をどう思う?」

「‥‥どう、思う、と、は?」

「今一人‥‥彼女の面影を抱いた‥‥藤枝杏華という女性は?」

「‥‥‥‥」

「‥‥君とは、もっと早く再会するべきだった」



ボーン‥‥ボーン‥‥

客間の大時計が時報を鳴らした。

もう夢の扉は開いている。

「‥‥望むらくば、戦場で俺の前に立たないで欲しい」

「‥‥‥‥」

神凪は背を向けた。

「邪魔したな‥‥」

「‥‥忘れないで、神凪さん‥‥わたしはいつでも‥‥いつまでも‥‥待ってい

ることを‥‥」

神凪の背中に暁蓮の声が弱々しく伝わってきた。

涙で声が震えていた。

‥‥敵は必ず悪か?

神凪の心には厳冬のロシアで過ごした日々と同じ冷たい風が吹いていた。





「‥‥よろしいですか?」

「なんとか‥‥ありがとうございます、龍塵殿」

龍塵は大神をハマイチのタンデムシートに括り付け、さらにその後ろに神楽を位

置させて大神を支える形を取らせた。

元々単座二輪車だったが、大戦終了後、紅蘭は後部フェンダーの上に大型のタン

デムシートを作り付けた。勿論そこに座る人は決まっていた。

大神は一度そこに座った。それは海軍司令本部に招集された後。出迎えに来た紅

蘭‥‥青山と銀座の短いランデブーだった。

大神は再びそこに座った。

記憶には残らない‥‥実の兄とのドライブのため。

「‥‥神楽殿と申されたな」

「ええ」

「私は主のためにおります」

「‥‥‥」

「二人の主‥‥あなたの存在は‥‥そのお一人を悲しませる」

「‥‥大佐がいない時にお願いできませんか」

「遺恨は残したくありません。次に会う時は戦場で‥‥」

「‥‥お心遣い、感謝します」



「‥‥悪かったな、龍塵」

神凪が姿を見せた。

やはり表情は明るくない。

龍塵は何かを言い掛けたが‥‥結局それを言葉にすることはしなかった。

暁蓮と同じ悲しい瞳をしていたから‥‥闇の血潮は微塵も感じられなかったか

ら。

「大神殿に於かれましては‥‥健やかな回復を願ってやみません」

「‥‥世話になったようだ。先の無礼、許せ」

「身に余るお言葉‥‥勿体のうございます」

「‥‥そして今から‥‥再び、我々と貴殿らは敵同士だ」

「神凪殿‥‥」

「次に会う時は全力で向かってこられよ、龍塵殿」

「‥‥承知」

神凪はハマイチに乗った。

そして海に向かって下って行った。

蔦の絡まる屋敷を経由した。

高い外壁が視界を阻む。壁に沿って走ると‥‥自ら破壊した門を通過する。

一瞬屋敷の外観が視界をかすめる。

あの窓‥‥

「大佐‥‥」

「大神を離すなよ、神楽」

「‥‥これでよかったのですか?」

「わからんよ‥‥ただ‥‥俺の未来は‥‥決して明るくないことだけは確かだな

‥‥ふっ、別に不思議ではないがな‥‥」

「‥‥‥‥」

‥‥あの窓。

カーテンは開けられていたような気がした。

人が立っていたような気がした。

群青の影を率いて‥‥

泣いていたような‥‥気がした。









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Uploaded 1998.1.16




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