<その6> 青山司令本部、東側通路‥‥午後7:20分。 “ポーシュリン”のバーテン率いる七特の四人と無明妃は床に転がる兵士を暫し 眺めていた。 侵入してすぐ‥‥まるで待ち構えていたかのような兵士のお出迎え。ただ彼らに は自由意思があるわけではなかった。来訪する者を問答無用で射殺するように心 理操作されていたようだ。 七特の四人にしてみれば、これほど楽勝の相手もなかった。コケにされているの か‥‥と一瞬勘違いしたほどだ。精神を犯され、瞬間の判断も状況に応じた戦い も出来ない者が相手にできるほど、七特は甘い集団ではない。苦労したことと言 えば、せいぜい怪我をさせないように気絶させることぐらいか。根は純真な愛国 者、それもまだ‥‥戦いの裏を知らない、汚れのない青年たちなのだから‥‥ 気絶させれば、後は無明妃の出番だった。 「これは‥‥単なる洗脳とは違うな。似たようなのを昔見たことが‥‥そうだ、 確か中国で‥‥」 ポーシュリンのバーテン‥‥まだ30代前半と思しき男性が唸る。 確かに兵士たちの目の色は、薬物や催眠術程度で支配出来るような浅いものでは なかった。 「‥‥黒い影が見えます。ですが‥‥その輩はもう、この世にはいないようです ‥‥もう一人の黒い方‥‥神凪司令に消去されたようですね‥‥」 「‥‥ふむ。確かに、あの時に見た赤い月‥‥赤い中国服を着た、あの男‥‥あ れと似た症状だが‥‥あやつほど完璧ではないようですな」 「‥‥赤い、月‥‥‥‥赤‥‥」 「?‥‥どうされました?‥‥無明妃様?」 屈強そのものの七特の四人にガードされるように、一人佇む白色の美影。 純白の振り袖と真紅の帯、合わせ目に些かの乱れもない、その隙のない着こなし は、まるで日本人形を見るかのようだ。白という色がこれほど美しく映えるのも 見物だった。帯の赤が際立ち、くせのない艶やかな髪‥‥黒ではない、その髪が 肩より少し下で切り揃えられている。まるで‥‥色素が欠如したような、その 髪、肌。 雪のような肌、ではなく、白紙のような色の肌。その艶はつきたての餅のように も見えた。色素の消えた髪は白髪‥‥灰色ではなく、銀色でもなく、まさに純白 の髪の毛だった。白い髪の毛が蛍光灯の灯に反射して時折虹色に回折する。 黒という色素が何処にも見出せない女性だった。 瞳の色は‥‥わからない。目を閉じているから。 目を閉じた純白の日本人形‥‥無明妃。 その真紅に染められた唇が妖しく震える。 「‥‥赤‥‥‥何か‥‥嫌な、予感が‥‥」 「?‥‥何も‥‥感じられません、が‥‥わたしたちには‥‥」 「‥‥劇場‥‥‥銀座?‥‥‥銀座に何が‥‥!‥‥真也様か!?」 「え‥‥ここではないのですか?‥‥ん?」 暫く佇んでいると、今度は人間ではなく、別の者が現れた。 やはり、黒い霞‥‥群れを成しての襲来だった。 「おっと、団体様のお着きだ‥‥いよいよ本番か。後ろに控えていてください、 無明妃様」 「‥‥‥‥」 「黒い霞みたいですが‥‥あれですか、連中を洗脳したのは‥‥」 「いえ‥‥あれは文字通り霞です。実体化しなければ‥‥害はありません。この 方たちを‥‥虜にした、黒い影の‥‥衣だけを抽出したようですね‥‥」 ポーシュリンのバーテンは少し考え込んだ。 実体化するまでは余裕がありそうだ。 ‥‥いや、実体化する瞬間がポイントのようだ。 初期の七特を壊滅に追いやった月影。その後再編成された七特は、神凪と“板 前”によって徹底的に鍛えられた。特に‥‥通常兵器の通じない輩に対抗するべ く。 『‥‥無明妃様の目を開けるな、か‥‥大佐も厳しい注文をつけてくれる』 それは神凪がマリアに託した封書。 可憐を通じてポーシュリンのバーテンに手渡された中身は‥‥ 第七特殊部隊、作戦“乙−壱”の実行。“乙”は特令第参号と同様、国内のクー デター及びそれに準ずる内乱に対処する作戦分類。“壱”はまだ発生していな い、つまり危険性がある場合の作戦分類。弐は直前であること、参は発生してい ること、四は終結に向かっていることを示す。 七特メンバーの青山への招集、ただし可憐と中国にいる“秋緒”は除く。可憐は 浅草花やしきに向かい、“月見草”の指示に従うこと。他のメンバーは“雪を散 らす者”の指示に従うこと。分隊する場合は“板前”が指揮すること。そして “夢の扉を開く者”のうち、瞳を閉ざした者が同伴する場合は、これを決して開 けないこと‥‥ “板前”とはポーシュリンのバーテンの呼称。七特副隊長の彼は元海軍中尉。大 陸に渡った折りに神凪と知りあい、二人で母体となった旧七特を大改造したのが 始まりだった。神凪が16歳の折りに初めて戦った異形の戦士‥‥月影によっ て、その大部分を抹殺されてしまったために。 “板前”の呼び名は海軍中尉だった頃、駆逐艦の副艦長であったにも関らず、人 手が足りず料理長まで兼任させられたことに由来している。勿論今のポーシュリ ンのバーテン業も捩っている。神凪の“零”の由来は零式と同じ、“可憐”はそ の名の通り。可憐の少女期は本当に可憐だったらしい。その後神凪が、後に四季 龍と兼任する“秋緒”を見出し、“板前”が旧知の精鋭を絞り込んで参入させ た。 瞳を閉ざした者‥‥つまり無明妃。 “板前”は、だいぶ前に可憐から無明妃のことを聞いていた。夢組の結成するに 至った立役者らしい。舞姫と夜叉姫の存在を探し当て、夢組に参加させた人物で もあった。 決して瞳を見せない‥‥常に瞼を閉じたままの、睫毛の長い日本美人。 舞姫や神楽、そして夜叉姫とはまるで違う位置にある美しさだった。先の三人は 何方かと言えば美少女に類するが、無明妃は違った。まだ20歳前後と思われる が、あやめやかすみ、そして可憐を凌ぐ美貌を有している。閉じた目がそれを助 長するのか‥‥何れにしても、幼さは微塵も感じさせない、完成された大人の美 がそこにあった。黒の欠如が殊更に不浄な物を受け付けない、神聖な雰囲気を醸 し出している。 山崎を“真也様”と呼ぶところに、何か含むものがありそうだったが‥‥ 瞳を見せずに人を見る。物を見る。目に見えない物を見る‥‥無明妃の目は目に あらず‥‥無明妃の目を開けるべからず‥‥それは彼女を知る夢組、そして帝国 華撃団上層部の鉄則だった。 「‥‥どうも、これは‥‥目に余るな‥‥片付けるが‥‥よろしいか?」 「‥‥‥‥」 黒い霞の群れを目の当たりにして、“板前”が無明妃に問う。 無明妃は先程から何か目に見えないもの‥‥遠くにある何かを必死で見届けよう としている仕草を見せていた。目の前の現象は、それこそ眼中にあらず、といっ た様相だった。 「‥‥無明妃様?」 「‥‥いけない‥‥いけませんっ、真也様っ!」 「まずいな‥‥銀座か‥‥大佐から聞いてはいたが‥‥急ぐぞっ!」 「はっ」 それまで雲間に隠れていた月‥‥赤い月が青山を赤く照らした。 赤い月は銀座の豪華な洋装建築物をも赤く染めていた。 夕陽の赤ではない、暗い赤。 帝国劇場には不釣り合いな色だった。 「ゴボッ‥‥ゴフッ‥‥はあっ‥‥はあ、はあ‥‥うぐっ‥‥」 「‥‥お願いです‥‥もう、抵抗は‥‥しないでください‥‥」 「ふ、ふふふ‥‥な、情けないですわ‥‥こ、こんな‥‥がはっ」 すみれは言葉にならないまま‥‥替って血の塊を吐いた。 全身は‥‥もう、いつもの美しく妖艶な姿ではなかった。 紫色の着物は、それが着物であるかすら判明できないほどに切り刻まれ‥‥その 色柄が判別できないほどに別の赤で染まっていた。 すみれの顔からは、もう血の気がなくなって‥‥唇の赤とそこから流れ出る赤 が、青白い顔をかえって妖艶に彩っていた。 必殺技を出すどころか‥‥刃が素通りしてしまう‥‥破魔烈風陣すら捕捉できな い影‥‥空気のような存在‥‥ 長刀を持つ手が‥‥重い‥‥身体を支える脚が‥‥動かない‥‥ 対峙する月影。 その表情には決して迫害者の色はなかった。 唇を噛みしめ‥‥一瞬目を閉じ、そしてカッと見開く。 必殺の気合いを溜め込む。 相手を侮って手加減した結果がこれだった。これ以上は‥‥せめて一瞬で葬って やるしかない。 「すいませんでした‥‥約束を護れず‥‥」 「ふ、ふふ‥‥い、痛みを、感じさせ、ない、でしたわね‥‥お、おほほ‥‥ご ぼっ、ま、まだまだですわよ‥‥ま、まだ、わたくしは‥‥」 長刀で身体を支えるすみれを前に、月影は腰を落として‥‥左掌を前に、右拳を 腰に付けた。八極拳の構え‥‥神凪と全く同じ構えだった。 「そのまま‥‥下手に躱さないで、ください‥‥すみれ、さん‥‥」 『‥‥さくら、さん‥‥あなたの勝ち、ですわ‥‥』 すみれはそれでも長刀を構え直した。 水鳥の構え。風前の灯火のような、その儚い霊力を矛先に集める。 『‥‥大尉‥‥‥忘れないで‥‥わたくしの、ことを‥‥‥忘れないで‥‥大 神、さん‥‥わたくしの‥‥愛しい人‥‥』 すみれは必殺技の体制に入った。 「狼虎滅却‥‥」「神崎風塵流‥‥」 月影の踏み込みが劇場を揺らした。 すみれの振り上げた長刀、その気合いが吹き抜けロビーの天井をも貫いた。 『大神さああんっ!』 大神との記憶が‥‥すみれの脳裏に過った。 「仙気雷刃!!」「飛燕の舞!!」 「な、なに?」 地下司令室にいたマリア。 すみれの長刀が貫いた天井の破壊音、その必殺の霊力、そして‥‥すみれの声無 き悲鳴がマリアの霊感に突き刺さった。マリアはそこで、侵入者が存在している ことに気付いた。すみれさえも感知できなかった月影の存在を、マリアは気付い た。狼虎滅却奥義を放つもう一人の人物であったが故にか‥‥ 「し、しまった‥‥迂闊だった」 マリアは走った。 先程のすみれの様子では‥‥おそらく一人で戦っている。 気配はロビー。 すぐだ。 「‥‥それでね、お兄ちゃんたら‥‥?‥‥どうしたの?」 「‥‥‥‥」 「?‥‥アイリスちゃん?」 浅草から銀座方面の路面蒸気機関車に乗ったアイリスと十六夜。 夜7時を既に廻って乗る人も少ない。ぎりぎり最終に間に合った二人。日本橋止 まりのため、そこからは歩かないといけない。 後ろの席に並んで座る二人の少女。アイリスの様子が突然おかしくなった。 「‥‥だ、大丈夫?、アイリスちゃん」 「い、いや‥‥す、すみれが、すみれが‥‥」 アイリスは十六夜の手を握った。 そして‥‥二人の廻りを金色の光の粒がとりまいた。 「神楽、もうすぐ着くから、大神を‥‥!」 「?‥‥どうしました?」 「月、影、か‥‥」 神凪は銀座の繁華街に入った時点で、不穏な気配に気付いた。 霊的認識力とは違う‥‥宿敵同士が作る切れない糸のようなものだった。 神凪の眉間が歪む。霊子力機関を搭載したハマイチ、それが神凪の怒りに触発さ れたのか、爆発的な加速を上げる。 ‥‥大神さあああん! ビクッ‥‥ 「‥‥大神隊長?」 大神の身体が一瞬震えたことに神楽が気付いた。 ハマイチがさらに加速する。まるで暴れ馬のように。 機関部から火花が散った。 夜の銀座を花火が走った。それは‥‥青白い花火だった。 「う、うう‥‥ん‥‥んん‥‥」 「‥‥大丈夫ですか、大神隊‥‥」 大神の目がカッと見開いた。 「‥‥んぬおおああああああああああああああっ!!!」 大神は目覚めた。 狼の咆哮と共に。 目が‥‥瞬間、虹色の光を放つ。 神凪と神楽の間から、まるで白鳥のように飛び立つ。青白い稲妻が、さながら翼 のように展開する‥‥神の翼、鳳凰の如く。 ハマイチから飛び立った白鳥は、地に降り立ち狼に変貌した。 銀座帝国劇場への最短距離を疾走する白狼‥‥白い翼を展開して飛翔する白い 狼。 走る白狼の後を追うように路面が削られていく‥‥外壁に亀裂が走っていく‥‥ それは花やしきで見せた、大神の中の狂える破壊神ではなかった。 意思が生まれた。意思によって生み出された墜天使、再生するために破壊する鬼 神‥‥不動明王のようだった。 銀座の街に狼の咆哮が響き渡った。 「大神隊長っ!」 「こっちがはええよ、大神‥‥」 神凪の周囲に黒い稲妻が立ち上がる。暴れ馬を飼いならす漆黒の騎士。 闇を喰らう闇の霊力‥‥その本家本元、破壊神の力が解放されつつあった。 長刀から銀色の飛燕が飛び立つ‥‥それはすみれの想いを乗せて鳳凰の如く翼を 広げた。 すみれは立ったまま意識を失った。涙が青白い頬をつたった。 もう全ての霊力は使い果たした‥‥もう、防御することもできない‥‥何も思い 残すことはない‥‥最後に呼んだ、あの人を‥‥あの人に抱かれた、あの日の‥ ‥あの青い海が自分を包む‥‥ 神速の飛燕が月影を襲う。 月影の拳から放たれた‥‥赤い爆炎。 大神家に伝わる狼虎滅却奥義を、何故月影が使うことが出来るのか‥‥天の怒り に触れ、全てを焼き尽くすような爆炎は、弾丸の如き速度の飛燕をも捕獲した。 そして、すみれの想いも虚しく燃え尽きた‥‥ 仙気雷刃・天‥‥八卦炎陣。 狼虎滅却・第六奥義の封印技だった。一文字風牙、十文字雷破に別れる陰陽の第 六奥義の外に位置する、亜流の技‥‥外道の技と言ってもよかった。それは燃え 尽きることのない炎の牙‥‥燃やすことに飢えた炎の亡霊が乗り移っているかの ように‥‥ 爆炎は飛燕を喰らうだけでは飽き足らず、次の標的に襲いかかった。 すみれは長刀を掲げたまま‥‥ぴくりとも動かない。 振り上げた腕の勢いに‥‥破壊された天井の周辺に、すみれの血が散る。 「遺骨も残らない‥‥‥‥!?」 月影は目を瞠った。 喰らうはずの爆炎が喰われた。 そこに突然現れた‥‥白い光に。 「なんだ‥‥?」 白い光は人を創った。 「光あれ、か‥‥事実なら悔い改めねばならんが‥‥」 月影は暫しその光に魅入った。 白い光が創る人‥‥廻りの空間が歪んでいる。 実空間座標に縛られない存在。あの黒い霞とは違う。明らかに違った。 月影は理解できなかった。 「なんだ、いったい‥‥闇の力ではないのか‥‥」 その人は光が創る輪郭から、人本来の姿を示し始めた。 輝く肌の、その肩越しに靡く‥‥漆黒の髪。 円らな瞳の奥に輝く‥‥得体の知れない力、それが月影の心を貫いた。 その天使のような身体は、後光がさす、と言う表現では稚拙なほど、神々しく輝 いて見えた。 「あなたは‥‥もしや、真宮寺さくら、さん、か?」 「‥‥立ち去るがよい」 「‥‥‥‥」 さくらの声は、さくらの声帯から発しているのではなかった。 口は動かさず、なお、身体の芯まで響き渡る声。 月影は暫し思案した後、確認することにした。 このあたりは、普通の物の怪とは全く違う。どのような相手だろうと、決して冷 静さを失うことがない。 物理的な攻撃は無効であることは先程わかった。霊的なそれも‥‥ 「精神的圧迫には、耐えられるかな‥‥試させてもらおう」 月影の目が真紅に輝く。 それはすみれに対して施した‥‥虚無感に誘う精神操作。 抵抗の意欲を失わせることで、一瞬で決着をつけようとした月影だったが‥‥す みれは耐えた。花組の少女たちには、あらぬ精神操作は加えたくなかった月影。 さくらは‥‥ 「!!!‥‥な、なんだ、これは‥‥」 月影は驚愕した。 意思の触手が触れたもの‥‥それは‥‥ 破滅。死滅。破壊。矛盾。無‥‥無の世界。 その闇の奥底‥‥そこは‥‥ 生産。再生。復活。調和。光‥‥光の世界。 巨大な海‥‥禁断の力の巣、亜空間の入り口。出口のない光と闇の世界。境界の ない混沌とした原始宇宙。 山崎が施したシールドの存在した領域、それを超えるほど巨大に成長してしまっ た‥‥さくらの奥底に眠る破邪の力の源。零式の何が、さくらをそこまで育ませ たのか‥‥ 「くっ‥‥」 月影はかろうじて触手の奪還に成功した。 触手を介して自らの精神まで無の祠に引き込まれるところだった。 「あ、あぶなかった‥‥」 「‥‥我が心に‥‥触れるべからず」 「!?」 「我が心に触れる神‥‥白虎と玄武なり‥‥」 「‥‥‥‥」 「朱雀にあらず‥‥立ち去るがよい」 「‥‥白虎と玄武は‥‥共に我が同胞になる運命。その折りは?」 「白虎と玄武は共にあらず‥‥白虎と玄武は四神獣にあらず‥‥‥‥我はその何 れかの伴侶となる者なり‥‥礎となる者なり‥‥」 「‥‥その役目は‥‥地の蛇、ではないのか?」 「‥‥立ち去るがよい‥‥地の蛇は朱雀と青龍が守護すべし‥‥荒ぶる蛇の目覚 めし時まで‥‥」 「‥‥‥‥」 月影は今一度構え直した。霊的攻撃も無効であるはずなのに‥‥ 「終末の力をも喰らうなら‥‥ふっ、あなたはまさに神の申し子だな」 月影の周囲に恐るべき霊力が立ち上がる。 すみれに対しては放った仙気雷刃、それとは比較にならない黒い霊力。 神凪のそれと同じく、そして違う力だった。 始まりの闇と、終わりの闇。そのような違いかもしれなかった。 「やはり、物真似では‥‥いかん。破邪の力か‥‥しかと見届けた」 「‥‥繰り返す‥‥立ち去るがよい」 「あなたの存在も‥‥我が主を悲しませるだろう‥‥少なくとも、大神大尉と‥ ‥神凪大佐の傍においておく訳にはいかない」 「‥‥芳しき蘭の花‥‥汝の主はまだ蕾のまま眠っている」 「!!!」 「朱雀の主は朱雀のためにあらず‥‥青龍の主もまたしかり‥‥」 「これ、は‥‥ますます、生かしてはおけないな‥‥」 「汝、速やかに立ち去るがよい‥‥‥‥光と影を司る神‥‥その怒りに触れては いけない‥‥」 月影の周囲に赤い稲妻が立ち上がる。 カンナが神武を駆って見せた、あの霊力の稲妻とは違っていた。 血の色‥‥終末の美。終わりの赤。 「帝国、劇場を‥‥破壊するのは、忍びないが‥‥」 「さくらさんっ!?」「さくらっ!」 月影はちらっと廊下側を見た。 食堂脇の裏玄関から入ってきた山崎とマリアだった。 山崎が追尾したさくらの意識が消えた後、聞こえたのは‥‥すみれの悲鳴だっ た。声にならない魂の叫びだった。 「‥‥山崎、少尉‥‥それに‥‥タチバナ、副司令、か‥‥そこで、見物してい たまえ」 「な、何故、わたしを‥‥何者、なの‥‥」 「貴様‥‥月影、だな‥‥!‥‥す、すみれさん!?」 すみれはいつしか崩れ落ちるように床に横たわっていた。 ぴくりとも動かない。血まみれの‥‥金色夜叉‥‥ 「すみれっ!?」 「すみれ、さん‥‥」 「‥‥今の、わたしと、立ち合う、のは、得策、では、ない、ぞ」 月影の口調は何かに耐えているようでもあった。 目の前に立つ赤い青年、その周囲に集束しつつある霊力‥‥妖力ではない、その 黒い霊力が、自分たちの持つ力とは比較にならないほど巨大であることは、マリ アと山崎は対峙してすぐにわかった。現に‥‥花組で最も高い潜在能力を持つで あろう、すみれが‥‥最早臨終の吐息を漏らすほどに‥‥ マリアの背中に冷たい汗が流れた。 手に持った修羅王が‥‥物凄い悲鳴を上げる。早く抜いてくれ、と‥‥ 山崎は‥‥ 山崎の脳裏には、初めてすみれと会った花やしきの夜が、初めて共演した舞台 が、そして共に戦った時の白い鳳凰が‥‥走馬灯のように甦っていた。 「‥‥すみ、れ‥‥さん‥‥すみれさああん‥‥」 高飛車で、そして誰よりも優しい少女。 ‥‥おほほほ‥‥わたくしの肩を揉んでくださいまし‥‥ 悲しくても涙を見せない少女。 涙で、濡れて‥‥大神を呼んでいた‥‥叫んでいた‥‥ ‥‥ちゃんと指揮してくださいな、少尉さん‥‥ 花組の一番下で支えてくれた‥‥孤独な美少女、神崎すみれ。 脳裏に浮かぶその優しいイメージが‥‥音を立てて壊れた。 割れたガラスの、その向こうに先輩の少佐、そして由里がいた。 二人とも悲しそうな顔をしていた。 その更に向こう側‥‥そこには、さくらがいる。 さくらの涙。桜の花びらが‥‥枯れるイメージ‥‥ 銀座帝国劇場。そこは夢の回廊。 死の平原が覆った‥‥劇場は消えた。山崎の脳裏に、花やしきで見た、あの暗い イメージが再び甦る。それを齎した者‥‥赤い月。 「く‥‥く、くく‥‥ぎ、ぎぎ‥‥き‥き‥‥」 「‥‥静観‥‥して‥‥いたまえ‥‥山、崎、少尉‥‥」 山崎の目から‥‥血の涙が流れた。 それは自分に対する怒りだったのか‥‥気付かなかった自分への‥‥ 「待ってっ、山崎少尉っ!」 「き、き、貴っ様あああああああああっ!!!」 夢組隊長が疾駆する‥‥赤い終末に向かって‥‥ 帝国劇場が見えた。 疾走するハマイチ。その能力の全てを吐き出すように走る。 「間に合うか‥‥まだ、いろよ、月影‥‥!‥‥山崎かっ!?」 「た、隊、長‥‥‥‥山崎隊長−っ!!!」 神楽が叫ぶ‥‥生まれて初めて‥‥ 神凪の脳裏に、初めて月影と戦った16歳の頃の‥‥その時と同じ屈辱にも似た 焦りが、再び甦ってきていた。同胞の叫びが、破壊神へと駆り立てる。神凪の目 は嘗てないほど真紅に輝き始めた。 それは‥‥大神と戦った時に見せた、その力ではなく、それ以上の‥‥月読を超 える力を得るに至った、真の破壊神の力だった。 浅草花やしき支部、正面ロビー‥‥同時刻、午後7:30分。 「さすが、舞姫様‥‥あっと言う間でしたね‥‥ん?」 「‥‥?」 「‥‥あ‥‥ああ‥‥」 村雨と朧がロビーにかき集めた黒い霞を、舞姫は一瞬で片付けた。 その直後‥‥舞姫の様子が急におかしくなった。 「‥‥舞姫、様?」「‥‥‥‥」 「いやあああああああああああああっ!!」 舞姫の悲鳴は破壊の意思を伴って、未だ花やしきロビー周辺に息ずく不浄の物の 怪、そして感染した不貞の軍人をも瞬殺した。 浅草花やしき支部、待合室‥‥その10分ほど前、午後7:20分。 天井裏にへばりつく銀弓と可憐。 薄明かりが漏れて、そして聞こえる声‥‥少なくとも10人はいる。 「‥‥由里さんは無事みたいね」 「ああ‥‥怪我してるのは‥‥神崎社長か‥‥」 『‥‥困りましたな、神崎さん‥‥ただ、ここにサインしてもらうだけで‥‥い いんですがね‥‥』 『侵略‥‥戦争の‥‥加担など‥‥誰がするかっ!』 神崎重樹は椅子に座らされ、そして後ろ手に拘束されていた。 少し離れて由里が同じように‥‥目が死んだ魚のように、光を失っていた。 由里の傍には山崎が侵入した折りに同席した中佐が陣取っていた。 『ふ−む‥‥なかなか、会長に似て頑固だ。だが‥‥こちらのお嬢さんが同じ目 にあっても‥‥強情でいられますかな』 『!‥‥貴様ら‥‥』 『美しい‥‥ふふっ、このような美しい女性を‥‥くっくっく‥‥』 『やめんかっ!それでも帝国軍人かっ!?‥‥恥を知れっ!』 「‥‥‥‥」 銀弓の周囲に銀色の霊気が立ち上がった。 舞姫に匹敵する月組随一の霊力保有者である銀弓。月組隊長に抜擢された、その 触れれば斬れんばかりの凄絶な霊力‥‥それが横にいる可憐をも圧倒する。 「まだよっ‥‥まだ、村雨くんたちの‥‥合図が‥‥」 「‥‥も、もう限界だぜ‥‥‥審判は‥‥死刑、だ‥‥」 「だめ‥‥‥!?」 ドンドンッ‥‥ドンドン‥‥ 『‥‥無粋な‥‥なんだっ!?』 扉を開けて入ってきたのは、下士官らしい青年兵士だったようだ。 『失礼します、大佐殿。表玄関に侵入者を発見した模様です。仕掛けは突破され ました‥‥ロビーに集結しつつあるようです。予備が応戦中です』 『ふんっ、だからあんなもの、いらんと言ったのだ‥‥衛兵を招集しろっ、中 佐、君が指揮したまえ』 『はい‥‥久しぶりですなあ、この手で人を‥‥ふっふっふ‥‥』 『ふっ、あまり楽しんでやらんことだな‥‥さて、私は‥‥風組副隊長を少し尋 問するとしよう‥‥少将とは‥‥ふふっ、違うやり方でな‥‥』 待合室には護衛の兵士を含めて3人の軍人が残った。 「‥‥阿呆どもが‥‥一緒について行けば長生き出来たものを‥‥」 だが出ていった軍人たちは、舞姫の地獄の悲鳴を聞いて‥‥結局、二度とここへ は戻ってくることはなかった。銀弓の手にかかるまでもなく。 「うまくやってくれたみたいね‥‥行きましょうか」 「さっき言ったように‥‥可憐さんは見てるだけでいいから‥‥」 「冗談でしょ‥‥あなたを解任させる訳にはいかないのよ‥‥うちの隊長命令で もあるしね」 「‥‥何も聞こえないよ」 「銀弓くんっ、あなたは月組隊長なのよ?‥‥そんなんじゃ、彼らと一緒じゃな いの‥‥しっかりしなさいっ」 「もう、聞く耳持たんよ‥‥これは花やしき担当指揮官としての判断だ。可憐さ んには‥‥迷惑かけないから‥‥」 「銀‥‥弓、くん‥‥」 青山司令本部、会議室‥‥同じ頃、午後7:20分。 斯波が破壊した扉、その中は会議室ではなかった。 壁面は煉瓦などの石材ではなく、木材でもない。 肉、だった。 明らかに植物以外の生体のみが持ち得る命の脈動が伝わってくる。蛋白質と動物 性油脂、それが酸化・分解して発生するメタンガスが暗い部屋に漂う。赤黒い壁 の至るところに血管が奔っていた。それがビクッと不定期に脈打つ。鯨の胃袋に 飲み込まれたらこうなるだろうと思わせる異様な部屋だった。 「‥‥随分と凝った内装だな」 斯波が表情を変えずに呟く。 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 夜叉姫は何かをじっと見つめていた。 カンナも同じだった。ただ、カンナの目は少しばかり宙を睨むような格好だっ た。 「二人とも、やけに静かだな‥‥どうした?」 「なんか‥‥いやな予感がするぜ‥‥」 「ああ‥‥」 「‥‥この部屋から、か?」 「いや‥‥違う‥‥なんだ、いったい‥‥山崎、隊長、か?」 「‥‥カンナくんは?」 「わかんねえよ‥‥いや、待て‥‥すみれ?‥‥すみれ、か?‥‥すみれが何だ っつうんだ‥‥」 「隊長の顔が、頭にこびりついて‥‥離れねえ‥‥」 「すみれの顔が‥‥泣いてるのか?‥‥なんで‥‥なんでだよ‥‥」 「‥‥銀座か」 「なんか‥‥胸がムカツク‥‥‥くそっ、早いとこ始末して、あたしは銀座に向 かうぜ」 「‥‥同感だぜ‥‥あたいも心配になってきた」 「向こうは‥‥かなり手薄だ‥‥ちっ、今は司令が戻っていることを願うしかな いな‥‥」 三人は元会議室とおぼしきその部屋を手早く探索し、その一角が、螺旋階段の “ような”構造になっていることに気付いた。肉眼では全く判別がつかないが。 「これが、地下への入り口か‥‥“鬼”は逃げたようだな」 「らしいな‥‥しっかし、この臭い‥‥どうになんねえのか‥‥」 「‥‥これでよくバレなかったもんだ。司令部は上のほうまで相当イカレてるみ てえだな、これじゃ‥‥」 夜叉姫が“お祓い”棒のような、その金属羽根で肉壁の一部をこづいた。 すると、まるで焼き肉のような音をたてて‥‥決して食欲をそそるような臭いで はない、焦げ臭い匂いが部屋に漂いはじめた。そしてその一部の焦げ付いた領域 は、明らかに人型に沿って本来あるべき壁面を表わし始めた。その人型部分の肉 片は夜叉姫のお祓い棒によって、文字どおり浄化されたようだ。 「‥‥犠牲者の冥福を祈るしかない。この部屋の処理は後だ。浅草と‥‥それ に、銀座のこともある。急ごう」 「ああ」「そうだな」 三人は螺旋階段の“ような”構造のそれを地下へ向かって下った。 「‥‥さて、榊原君‥‥色よい返事を聞かせて貰えるといいが‥‥」 「わたしは‥‥わたしは‥‥大神、さんと‥‥一緒に‥‥一緒に‥‥」 「ふっ‥‥そうだろう?‥‥私が導いてあげよう‥‥さあ‥‥がっ!?」 「‥‥薄汚ねえ手で触るな‥‥貴様に浜百合は似合わん」 浅草花やしき、待合室‥‥午後7:25分。 護衛の二人の兵士は声を立てる間もなく、可憐に眠らされた。 そして大佐。由里の口元に近付けていた顔、それが真後ろから唐突にその襟首を がっしりと万力の如き握力で鷲掴みにされ、さながら絞首刑の体裁で脚を宙から 浮かせていた。 「が、が‥‥だ、誰、だ‥‥」 「知りてえか?‥‥そんなに俺のツラ見てえか?」 その万力が緩んだと思いきや、すぐさま壁面に顔面から激突する。 「がぼっ‥‥あががが‥‥」 「‥‥ほれ‥‥よく見てみろ‥‥これが今生の見納めだからな」 「うぐぐ‥‥!‥‥き、貴様‥‥銀弓‥‥少尉の分際で‥‥私を誰だと思って‥ ‥」 「知らねえよ、阿呆‥‥それと誤解があるようだな‥‥俺は帝国華撃団・月組隊 長の銀弓華月だ。陸軍のカスどもを皆殺しに参上したんだよっ!」 「‥‥愚か者が‥‥志を持たぬ無頼漢め‥‥帝撃は‥‥もう終わりだと言うのに ‥‥がはっ」 壁際に寄り掛かる陸軍大佐‥‥その月影の影響下にある目が闇に覆われる。銀弓 の足の裏に。帝撃に未練はない、が、下衆に帝撃をとやかく言われるのは更に気 分を害する。 「‥‥なんか言ったか?」 「ごはっ‥‥ぶっ、無礼者っ!‥‥き、貴様は、極刑だっ、銃殺刑にしてくれる っ!」 「‥‥阿呆の極みだな‥‥同じ大佐でも、神凪司令とはえれえ違いだぜっ」 銀雪は今一度足の裏を浴せ掛けた。 「ぐげっ‥‥お、おのれ‥‥神凪‥‥龍一‥‥あの若造が‥‥暁蓮女史のお気に 入りとは‥‥世も末だ‥‥なぜ、あのような風来坊を‥‥」 「ああ?‥‥しゃおれん?‥‥‥ん?‥‥聞き憶えが‥‥‥!‥‥まさか、横浜 華僑の‥‥あの、李暁蓮か!?」 「銀弓くん、もういいわ‥‥二人は‥‥大丈夫だから」 可憐が呼びかける。 由里の視線は焦点がまるで合っておらず、立っていることも間々成らない様子だ った。可憐が横で支える格好で寄り添った。 神崎重樹は多少顔が腫れているものの、自力で歩くにはなんの問題もなさそう だ。相当鍛えられているらしい。あれだけの拷問を受けていながら‥‥横目で見 た銀弓は内心驚いていた。 「神崎氏は大丈夫か‥‥由里先輩は‥‥」 「くっくっく‥‥貴様らの慕って止まない、神凪龍一はなあ‥‥もうすぐ我々の 同志になるのだ‥‥そしてええっ、貴様らゴミはああ、我らのミレニアムの肥と なるのだああ‥‥はーはっはっは‥‥」 「‥‥演説の続きは‥‥あの世でやれ」 「あ‥‥ま、待ちなさいっ、銀弓くんっ!」 遅かった。 銀弓の鉄拳は陸軍大佐の眉間を貫いていた。 その陸軍大佐はぐったりと壁際で横たわった。壁に人間の証である、血の跡を残 して‥‥銀弓の霊力は頭蓋骨を貫通して、その真後ろの壁に物理的な破壊力を及 ぼしたようだった。壁は、まるで蜘蛛の巣のような亀裂を形成していた。そして 陸軍大佐本人には‥‥霊力のみを。それが銀弓のせめてもの優しさだったかもし れない。 「懺悔を忘れるなよ‥‥ミカエルの加護があるように、な‥‥」 「なんてことを‥‥」 「‥‥俺はまるで心が痛まないよ。こいつらをこのまま放置しておいたら‥‥近 い将来、迫害される人間が必ず生まれる。そしてその代償は‥‥」 銀弓はそこで頭を振った。破滅的なイメージが脳裏を過る。 「何より、李暁蓮と言う名を聞いた以上、余計‥‥生かしてはおけん」 銀弓の言葉はある意味間違ってはいなかった。 間も無く昭和に入ろうとする、この時‥‥ 昭和初期の悪夢を‥‥銀弓は予見したのか‥‥ 「わたしが言っているのは、あなたのことよっ、銀弓くんっ‥‥あなたのことな のよ‥‥何故あなたが‥‥手を汚す必要が‥‥あるのよ‥‥」 「‥‥‥‥」 「あなたには‥‥まだ、先があるのよ‥‥こんな、こんなことで‥‥」 「‥‥可憐さんは‥‥優しいな‥‥‥可憐さんみたいな姉貴がいたら、俺は‥‥ 俺は大神隊長みたいになれたのかな‥‥」 「ばか‥‥」 「だが‥‥根は絶たんとな。山崎は汚染処理で済むと考えているらしいが‥‥あ めえよ。根が腐ってるから付け込まれる。まだまだ下衆野郎はいる。俺がやらな きゃ‥‥俺が‥‥」 「ばかな‥‥子‥‥」 「李‥‥暁蓮、か‥‥その名前、私も聞き覚えがある‥‥」 何事もなかったかのように、神崎重樹が銀弓の傍まで歩み寄った。 体格は確かに銀弓より一回り大きい。横幅は痩せぎすの銀弓のさらに二回りほ ど。 修羅場を見ても平然とするあたり、並みの神経ではない。 何より拷問にも耐える屈強な精神と体躯‥‥ 「神崎さん、だったな‥‥おたく、なかなかタフじゃねえの‥‥もしや‥‥神崎 風塵流の‥‥」 「ああ‥‥先代継承者だよ」 「‥‥大佐から聞いたことありますよ、神崎社長」 「ん?‥‥神凪くんのことか?‥‥君は‥‥そうか、七特の‥‥」 「‥‥可憐と言います‥‥本名は‥‥もう忘れましたが」 「そうか‥‥そう言えば、私が初めてあった頃は大神麗一少尉だったが‥‥ま、 その話は後だな、とにかくここを出たほうがよさそうだ‥‥気になることもある し‥‥」 神崎重樹の脳裏に、何故か‥‥娘であるすみれと、そして今は亡き七瀬の泣き顔 が過った。 何故こんな時に‥‥ すみれとは一年足らずしか顔を合わせていないのに、最後に会った時よりも遥か に美しく成長していた。その美しい瞳から‥‥涙が零れていた。七瀬は昔よりも ‥‥往ってしまったあの日よりも、まるですみれの分身のように美しく成長して いた。その七瀬の瞳も涙で濡れていた。二人の傍らに‥‥白い狼がいたようにも 見えた。 「‥‥私を恨んでいるのか‥‥」 「?‥‥神崎さん?」 「神崎社長の言う通りだな。長居は無用だ。せっかくの待合室が薄汚ねえ連中の 血で‥‥それだけは心苦しいぜ。ここは帝撃の憩いの場所だったのに‥‥」 「‥‥李暁蓮か‥‥成程な、私を呼んだ訳がよくわかったよ‥‥」 銀弓、可憐に支えられる形で由里、そして神崎重樹の四人は裏玄関に向かった。 なるべく人目につかないように、だが‥‥人手の殆どは表玄関に集合してるはず だ。 それに裏玄関‥‥地下駐車場にも近い。そこには翔鯨丸格納庫への通路がある。 オオ−−−ン‥‥‥オオ−−ン‥‥オオオオ−ン‥‥ 「!!‥‥これ、は‥‥」 「‥‥どうしたの、銀弓くん」 「月に吠える‥‥新月の遠吠えだ‥‥まずい、玄武班内部にトラブルが発生した ようだ」 「え‥‥」 「信じられん‥‥あの面子でいったい‥‥それに‥‥出所がまだ処理されてない らしい‥‥ちっ、何やってんだ、斯波の旦那は」 「‥‥悩んでる暇はなさそうだな。榊原君は私が保護しよう。君たちは‥‥任務 があるのだろう?行きたまえ」 可憐が支えていた由里を、神崎重樹が背負った。 「‥‥うう‥‥大神、さん‥‥大神さあん‥‥うう‥‥」 「‥‥この娘には‥‥少し荒療治が必要かもしれん。私と‥‥そうだな、親父で なんとかしよう」 「‥‥親父‥‥神崎会長か?」 「ああ‥‥まあ、任せておけ。榊原君は私の家に運ぶから‥‥“作戦”が終わっ たら迎えに来なさい」 「!‥‥なかなか‥‥侮れませんわね」 「よし、由里先輩は神崎社長にお願いしよう。可憐さんは“鯨の口”に向かって くれ。かすみさんと椿ちゃんだけでは‥‥辛いはずだ」 「わかったわ‥‥はやく来てね、銀弓くん‥‥あなたが‥‥頼りだから‥‥」 舞姫と同じことを‥‥ 銀弓はまたもやグラッときた。帝撃は‥‥悪くないかも、な‥‥ 「ふふ、身に余る光栄‥‥すぐに参上いたす故、暫し耐えられよ、可憐殿」 銀弓はその姿を掻き消すように消えた。 神崎重樹は由里を背負ってそのまま駐車場へ‥‥そして可憐はすぐ脇の搬送用通 路、翔鯨丸格納庫へ。 「‥‥不憫だな。帝国劇場は‥‥命を与える場所のはずだが‥‥すみれも‥‥こ の娘のように‥‥いや、考えまい‥‥」 神崎重樹は漆黒の蒸気自動車を運転しながら呟いた。護衛は‥‥どうも連中に消 されてしまったようだ。状況は思ったほど楽観出来ない。 地下駐車場から裏玄関の脇へと続く地上への通路。表に出ると妙に景色が赤らん でいた。 「赤い月、か‥‥思い出の君は‥‥あの時のままか?‥‥大神君よ」 10年前、松島が見える東北の浜辺で見た赤い月‥‥雪と波しぶきで煙る赤い月 ‥‥その瞳を宿す者、大神麗一。 神崎重樹は赤黒く染まった浅草路を、暗い面持ちで走破した。 神崎風塵流が初めて敗北した、その若き破壊神の面影を脳裏に描いて。
Uploaded 1998.1.16
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