風が強い‥‥ だれも‥‥いない。 なんか‥‥寒いなあ‥‥ あ‥‥雪だ‥‥ 雪‥‥ 白い雪‥‥ 白‥‥ あの人の色‥‥ ‥‥きれいだなあ‥‥ 白い‥‥雪‥‥ わたしは‥‥どんな色なんだろ‥‥ わたしには‥‥どんな色が‥‥似合うのかなあ‥‥ 風の色‥‥色なんて‥‥ない、か‥‥ 「‥‥風に色はないよ」 え? 「風はどんな色にも染まらない‥‥風は色の代わりに音色を奏でる」 あ‥‥ 「でも由里は‥‥雪の色に染まった風かな?」 隊長?‥‥ 月村‥‥隊長‥‥ 「白い風‥‥ふふ‥‥君の想い人は‥‥白い狼か‥‥」 「そ、そんな‥‥わたしは‥‥わたしなんか‥‥」 「私の赤は嫌いかな?」 「!‥‥月村隊長には‥‥かすみさんがいるじゃないですか‥‥」 「私は誰も選んだりはしないよ、由里‥‥」 「‥‥‥‥」 隊長の横顔‥‥だれかに似てる‥‥ だれだろ‥‥ 「いや‥‥選ぶ資格などないんだろうな、私には‥‥」 「え‥‥」 「ふっ‥‥私は風小僧だからな‥‥それとも風来坊かな?」 「隊長‥‥」 「そして君たちは風が運んだ花‥‥」 「花‥‥わたし、が‥‥」 「由里は‥‥そうだな、潮風に揺れる純白の浜百合だな」 「‥‥‥‥」 花組のみんなは、花の名前を持っている。 花の名を持つ少女たち‥‥それが花組だ。 桜、菖蒲、橘、菫、カンナ、蘭‥‥それは嘘偽りのない本当の姿。 雪のように舞う桜、草原を埋め尽くすアイリスの花畑‥‥ 凛と咲く一輪の白い橘、そんな無彩色の世界を彩る菫色の花弁‥‥ 太陽の化身の如く咲き誇るカンナの大輪、対照的に奥ゆかしく静かに香る蘭の 花。 それが花組の少女たち。 ‥‥わたしは違う。 わたしの名前は‥‥違う。 由里、なんて何処にでもある名前。 白い浜百合は‥‥美しく、そして強い花。 吹きすさぶ潮風に煽られて、なお、白く可憐に咲く花‥‥ わたしは‥‥違う。 わたしは‥‥浜百合じゃない‥‥ わたしは‥‥帝劇の花園、その裏に生える雑草‥‥ あははは、だから強いんだよね‥‥ うん、わたしって、結構タフだもん‥‥ 強い‥‥よね‥‥ ‥‥ほんと‥‥かな? 強くなきゃ‥‥なんの‥‥取り柄もない‥‥ あの人は‥‥振り向いてはくれない‥‥ 路地に生える雑草は、決して人目に触れることはない。 雑草は‥‥花開くことはない‥‥ 由里は必ずしも浜百合にはなれない‥‥ 「‥‥‥‥」 「想い人は白い狼‥‥ふふ、天狼、地に降りて花を愛でる、か‥‥」 「‥‥送り狼という説もありますよ」 「あははは‥‥それは由里が美しすぎるせいだろうさ」 「な、なん、なんで、そんな‥‥」 隊長がわたしを見る。 優しい瞳‥‥ やっぱりだれかに似てる‥‥ だれだろ‥‥思い出せない‥‥ 「‥‥私は君たちの傍には‥‥もう、いられない‥‥」 「え‥‥え!?」 「赤い鳳凰は風の守護を仰せ付かっていたが‥‥」 「え?‥‥それは‥‥」 「私はここにはいられない‥‥風の神は私ではなかった‥‥私は‥‥」 「‥‥なんのことですか!?、隊長と何の関係があるって言うんですっ!?」 「私は‥‥私の分身が‥‥私を呼んでいる‥‥」 「‥‥わからないですよ、わたしには‥‥わたしは今の‥‥今の帝撃が好きなの に‥‥」 何か聞こえる‥‥ わたしの中に‥‥だれかいる。 だれかが‥‥わたしの内側で叫んでいる。 「黒い龍が来る前に‥‥」 「黒い、龍?」 「白い狼が目覚める前に‥‥」 「‥‥‥‥」 「私の分身‥‥鳳凰が呼んでいる‥‥」 わたしの頭の中で何かが閃いた。 記憶‥‥ではなくて、何か‥‥黒いイメージ。 闇‥‥ではなくて、何か‥‥闇が消された後の闇。 闇が消滅した後に残る真の暗闇‥‥ 「鳳凰ではなくて‥‥朱雀でしょう?」 「‥‥‥‥」 「朱雀は風の守護神じゃなかった‥‥朱雀は‥‥地の蛇とともにある‥‥」 「由里‥‥」 だれか‥‥わたしの中にいる。 わたしの唇を動かしている。 「そして白い狼は‥‥」 わたしの声は‥‥わたしの声じゃない‥‥ だれ? 「そうか‥‥私のこと、もう気づいていたんだね‥‥」 「あなたは‥‥月、村‥‥さん‥‥じゃない‥‥」 わ、わたし、なに言ってるの? わたしの言葉じゃないっ! 「‥‥お別れ、だね‥‥由里‥‥」 ち、違うの、隊長、わたしは、わたしは‥‥ だれなのよっ、わたしの中にいるのはっ!? もうっ、出てってよっ! 隊長に言いたいこと、いっぱいあるのよっ! 月村隊長に‥‥ 月村さんに‥‥ 美影さんに‥‥ さよならなんて‥‥そんなの‥‥いや‥‥いやだよ‥‥ ‥‥間違えたらあかん‥‥由里‥‥そん人はもう‥‥月村はんやない‥‥ 紅蘭?‥‥紅蘭なの? なんであなたが‥‥ 目の前にいるのは美影さんよ? 朱雀の宿命を背負っていても‥‥月村隊長は何も変わらないはずでしょ? なんであなたが‥‥横やりを入れるのよ、紅蘭!? 「‥‥帝撃から離れてくれ‥‥由里‥‥」 隊長? 「‥‥帝撃から‥‥かすみと椿くんを連れて‥‥‥私は‥‥君たちを‥‥」 隊長が‥‥月村隊長が消えていく‥‥ ま、待って、隊長っ! まだ話したいことがあるのっ! 聞いてほしいことが‥‥いっぱいあるのよっ! 「た、隊長‥‥」 雪が‥‥隊長の姿を隠していく‥‥ 雪が‥‥激しくなってきた。 だれもいなくなった。 真っ白。 少し灰色がかった空と白い大地。 無彩色の世界。 無。 それは死。 死の平原。 花も咲かない。 何も聞こえない‥‥人の声も。 生命の息吹が途絶えた空間。 寒いなあ‥‥ 雪って好きだけど‥‥ でも寒いのは‥‥いやだなあ‥‥ 誰も‥‥あたためてくれないもん‥‥ あの人は‥‥わたしを‥‥あたためてはくれない‥‥ だって‥‥わたしは雑草。 だって、わたしは道化師‥‥ 花咲く路地裏に生える、ただの根無し草。 花咲く乙女を輝かせる、ただのピエロ‥‥ 雪が降る‥‥ だれもいない。 白い世界。 寒い‥‥ 「‥‥寒いのかい、由里くん」 うん。 ‥‥え? 「そんなところにいるからだよ‥‥‥劇場へ戻ってこいよ、由里くん」 え‥‥ 「みんな待ってる‥‥俺もいる」 「あ‥‥」 だれか‥‥いる。 だれ? ‥‥ううん、わかってる。 わかってる‥‥ あの人。 名前‥‥思い出せない‥‥ ‥‥でもわかる。 いつも一緒にいたから‥‥ いつも一緒に‥‥きっとこれからも‥‥ わたしは声のする方向、雪が舞う、その先を必死で見定めた。 風華が舞う大地に人影が生まれた。 死に絶えた大地に生まれし者‥‥ それは人影ではなく‥‥光によって輪郭が作られていた。 記憶の中のあの人。 いつか‥‥夢でわたしを引き寄せた、あの人とは違ってる‥‥気がする。 でも間違いなく、あの人。 その人がわたしの前に近寄ってくる。 「劇場へ帰ろう‥‥花咲く場所へ‥‥」 「わたしを‥‥わたしを導いてくれるんですか?」 照れくさそうな微笑み。 そうだ。 この人の‥‥この笑顔を見るだけで、わたしは‥‥ 「白い浜百合‥‥花咲く乙女よ、我とともに行け」 「‥‥白い、狼‥‥違う‥‥‥いったいあなたは‥‥」 「我と奔れ‥‥空を翔けろ」 白い翼、白い鳳凰の翼が白狼の背中から雄雄しく広がる。 天狼。 それは光と時を司る神‥‥ 四神獣ではない‥‥白虎ではない。 それは四神獣を超える大いなる神の化身‥‥ 「‥‥わたしを‥‥連れて行ってくれるんですか?」 照れくさそうに微笑む‥‥太陽の神。 「勿論」 その人が手を差し伸べた。 さっきと同じように‥‥ やっぱり‥‥違う。 さっきとは‥‥違う。 わたしを見る優しい瞳。 やっぱり‥‥この人がほんとの‥‥ 雪が止んだ。 でも‥‥白い。 そして灰色の空は、いつしか青く澄み渡っていた。 眩しいぐらいの青空‥‥ ふと大地に視線を戻す。 白い景色はいつしか、緑に覆われていた。 新緑の大地に華が咲き誇る。 もう寒くなんかない。 「我を信じよ‥‥我と奔れ。再び汝を護ろう」 「‥‥はいっ!」 狼がわたしを導く。 夜空を翔ける白い天狼‥‥ 流れ星が近寄ってくる。 それはいつしか六つの衛星となってわたしたちを囲んだ。 地に降り立つ白い狼。 彼を求める人がいるから。 衛星は花に姿を変えて‥‥白い狼を歓迎した。 そして、わたしは‥‥空からその狼を見守る風になっていた。
九章.動きだす時計(前編)
<その1> 「マリア、山崎とすみれくんを地下に連れていけ」 「た、隊長‥‥」 「早く行けっ」 「は、はいっ‥‥アイリス、すみれを‥‥」 「うんっ、うんっ」 マリアは山崎を、そして涙で顔を濡らしたアイリスと十六夜はすみれを抱きかか えてロビーを離れた。 アイリスの必殺技で出血は停止した。霊力も充実したはず‥‥ 後は‥‥神のみぞ知る‥‥ 灯が消えた帝国劇場。 すみれの霊気が貫いた天井の穴、そこから白い月明かりが差し込む。 白い狼、そして‥‥紅い吸血鬼か‥‥ 今一人。 純白に輝く裸身。 羽衣を脱いだ天女‥‥ 大神の周囲に漲る怒気。 天をも貫く怒りの波動。 かつて花やしきでその片鱗を見せた、大神の中の狂える破壊神‥‥ それをも遥かに凌ぐ怒りと霊力が、夜の冷えた空気を震わす。 「‥‥言いたいことはあるか?」 「謝罪はしません。我が主のためなら‥‥わたしは修羅になる」 ゆっくりと月影に歩みよる大神。 月影もまた、大神に向かってゆっくりと歩く。 まるで磁石が引き寄せ合うように。 火花が散る。 大気が歪んだ。 「‥‥我逆鱗に触れし者‥‥天に滅せよ‥‥」 「今のあなたでは‥‥わたしには及びませんよ、大神大尉‥‥」 「‥‥じゃあ、俺が相手してやるよ」 「!!!」 月影は息を飲んだ。 二人の脚が止まる。 青白い光を放つ大神‥‥その後方に現れた黒い影。 「お久しぶりですね、大神‥‥いや、神凪大佐」 「月影‥‥お前‥‥まずいこと、してくれたな‥‥」 「‥‥のようですね。あなたの‥‥真の力を解放することになりそうだ‥‥」 ゆっくりと月影に近づいていく神凪‥‥まるで三途の川で手招きをする死神の様 相で。 月影の顔からは、哀れみや悲しみの色‥‥さくらや、すみれ、山崎に見せた表情 は消えていた。 神凪のそれを見て。 「久しぶりに‥‥冷汗をかいてますよ」 神凪の歩行は止まらなかった。 「冷汗?‥‥心配する必要はない」 「‥‥‥‥」 神凪の言葉に含まれるそれを感じて‥‥月影は言葉を失った。 龍塵の感じたそれを遥かに凌ぐ、暗黒の霊力が月影の顔面に降り注ぐ。 「瞬殺してやるからよ‥‥」 「‥‥今のわたしは昔とは違います‥‥なにもかも」 「そうか‥‥ご苦労だったな‥‥」 月影の30センチ程前で歩みを止める神凪。 目の色が血の色に染まる‥‥吸血鬼の如く。 口元が吊り上がる‥‥まるで悪魔の如く。 赤い闇、それに纏わり付く黒い闇。 無の世界への穴、その先は事象の地平線が広がる。 それは出口などない宇宙の墓場。 「“入れ物”が代わったか‥‥」 「‥‥わたしの名は月影。主を護るため、主の意思を護るために甦った」 「‥‥‥‥」 「正義という名の元に迫害された悲しい人々‥‥その復讐のために、ね」 「‥‥‥‥」 「月村の記憶も、意志も、私の中に息づいている‥‥そう、わたしは知った‥‥ この国は必ず災いをもたらすと、ね‥‥」 「‥‥‥‥」 「そして‥‥帝国華撃団の存在は我が主たちの歩む道を阻む‥‥故に‥‥抹消し なければならない」 「‥‥口数が多いな」 神凪の放つ暗黒の霊力が光を吸収し始めた。 月影の放つ紅い稲妻をも。 まるで渦に巻き込まれる落葉のように儚げに消えていく。 「取り付くしまなし、か‥‥」 しかし月影の“霊力”は枯渇することはなかった。 かつて地下格納庫でその片鱗を見せた大神の力、それをも凌駕する巨大な霊力が 月影の周囲に立ち上がる。 それはあたかも地殻にあいた巨大な穴に海水を注ぎ込むようにも見えた。 大気が悲鳴をあげた。 そして赤と黒が動く寸前‥‥ 「相手を間違えないでもらいたいな‥‥神凪司令」 大神がいつの間にか横に来ていた。 神凪が動く寸前の大神の言葉だった。 「‥‥‥‥」 ただ無言で大神を横目で見る神凪。 変わらない目。 悪魔の目で大神を睨む。 「決着をつけるのはこの俺‥‥あなたではない」 「‥‥いい気になるな、大神‥‥‥‥黙って見ていろ‥‥」 「‥‥その目。さくらくんが泣いているよ‥‥兄さん」 「!」 「麗一さん‥‥」 「さくら‥‥くん‥‥」 「‥‥わたしは‥‥わたしは‥‥」 神凪は我に還った。 さくらの悲痛な声で‥‥ 周囲に立ち上がった暗黒の霊力は、文字通り影も形もなくなっていた。 ただ、じっと輝く桜色の肌を悲しそうに見つめるしかない。 そして床に視線を落とす。 さくらの目を見つめていることが出来ない。 自分の‥‥悪魔のような目では‥‥ 視線の先に広がる血痕。 それはすみれの涙。 山崎の‥‥涙。 ‥‥純白の花弁。 マリアが胸に挿していたあやめの花。仙気雷刃を放った際に舞った花。 それが血だまりの上にぽっかりと浮かんでいる。赤い池に咲く白いあやめの花。 神凪の口元が震えた。 何が‥‥このような結末に追い込んだのか‥‥ 俺か? 俺の‥‥存在が、か? 俺の中の‥‥破壊神が‥‥導いたのか? 大神もさくらを見つめた。 同じように床を。 そして、俯き震える自分の兄を。 破壊神の憂い‥‥いつか見た、あの夕陽の‥‥横顔‥‥ どうして‥‥こんなことに‥‥ 月影に視線を移す。 月影はじっと大神を見ていた。 二人の視線が交錯する。 神凪とは違った。 大神の霊力が形成する光の円環は、月影が放つ紅い闇を飲み込むことはなかっ た。 そしてその逆も‥‥ いかなる闇もその光を消すことはないだろう。 決して交わることのない太陽の光と月光の影。 そのような違いかもしれない。 「汚い真似はしなかった、ようだ、な‥‥礼は言わないが」 「‥‥‥‥」 大神がハマイチで眠っている間に見た夢。 後ろに乗っていたのが神楽だった故か、神楽の“綻びの接吻”を受けた故なのか ‥‥月影と戦ったすみれ、すみれの声によって生還したさくら、そしてその声に 導かれた大神。 呼び起こしたのは‥‥何だったのか。 時間は戻らない。 大神は暫し俯いた顔を振り上げて、月影を見た。 青い光を放つ瞳。 「あなたの心が読めなくなっている‥‥‥先の評価はわたしの過ちだったかもし れないな‥‥」 「‥‥‥‥」 「負けるつもりはないが、楽な相手でもなさそうだ‥‥」 「かすみくん、由里くん、そして椿ちゃん‥‥みな、あなたの帰りを待ってる よ、月村隊長」 「!」 「だが‥‥」 大神の周囲に形成されていた青白く輝く光の円環‥‥それがゆっくりと大神の身 体に収束していく。 刃、拳、脚、という媒体を用いて霊力の充実を促す大神家の狼虎滅却抜刀術。そ れがいよいよ収まりきらずに大神の全身に蓄積されていく。 紫光の数珠が、神凪と戦った時を凌ぐ密度と力を以って周囲を旋回し始めた。 紫色に輝く光の玉が、赤い稲妻を蹴散らす。 青白く輝く稲妻が、赤い闇を埋める。 「ほう‥‥これはすごいな‥‥」 「これが最初で最期の警告だ‥‥」 「‥‥‥‥‥」 大神と月影の視線が交錯する。 神凪とのそれとは明らかに違っていた。 「そうか‥‥もう、覚醒が始まりつつあるのか‥‥紅蘭様はそのために‥‥」 「我が名は大神一郎‥‥それ以外の何者でもない。そして紅蘭は帝国歌劇団の一 員として戻ってくる」 「‥‥‥‥」 「ここは‥‥俺の居場所‥‥俺の一番大切な場所‥‥俺の一番大切な人たちが住 む場所だ‥‥」 「大神大尉‥‥」 「それを壊す者‥‥汚す者は‥‥斬る!」 月影に向かって真っ直ぐに拳を突き出す大神。 立ち上る霊気が陽炎のように空気を帯電させる。刃のように空気を裂く。 「あなたが戻られた上は‥‥わたしの用も終わりました」 「‥‥‥‥」 「あなたの意思は暁蓮様にも伝えておきます。ですがこれだけは憶えていてくだ さい‥‥」 月影は歩き出した。 そして二人の大神の間を何気なく通りすぎる。 気配も感じない、まるで風の如く。 故に‥‥風組隊長なのか。 帝国劇場の正面玄関で立ち止まる。 大神の破壊した扉の前で。 「あなたがた、お二人は‥‥わたしたちと共にあるべきなのですよ。このままで は決して幸せにはなれない‥‥その理由はあなたがたならお解りのはず‥‥」 「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 「そして‥‥わたしたちの想いを理解してくださるのなら、わたしはいつでもお 迎えにあがります。その時は‥‥紅蘭様、そして杏華様も共に‥‥」 月影は銀座の街並みに消えていった。 空気に溶け込むように。 風が入り込んできた。 それは月の囁きを伴って‥‥ ‥‥すみれさんと山崎隊長‥‥あのお二人のこと‥‥償いはいつか必ず‥‥ ロビーに血の華が咲いていた。 すみれと山崎が咲かせた深紅の華の、その傍らに、まるでかすみ草のように儚げ に彩られる赤い血の華。 月影の血‥‥それは山崎が放った拳がかすめた傷から流した、人間の血だった。 静まり返った帝劇ロビー。 天井の穴から零れる月明かり。 スポットライトのように裸身の少女を照らす。 月から舞い下りた女神の如く。 「大神‥‥」 「‥‥はい」 「お前‥‥死ぬつもりだったのか?」 「‥‥‥‥」 「お前の力はまだ不完全だ。とても月影には敵わん‥‥ヤツが言ったとおりだ」 「‥‥‥‥」 「月村と融合している以上、それは尚更‥‥知らなかったとは言わせんぞ」 「わかってるよ。だが、少なくとも今の俺でも‥‥相打ちなら不可能じゃない」 「お前‥‥」 「大事な人を傷つけられて‥‥大事なものを壊されて‥‥黙っていられるほど俺 は大人じゃない」 「‥‥‥‥」 「帝国華撃団に絶望はない‥‥花組隊長に撤退という選択はないんだよっ!」 「‥‥‥‥」 「‥‥それに、俺がいなくとも‥‥みんながいる‥‥兄さんもいる‥‥」 バシッ‥‥ 乾いた音がロビーに響いた。 血で濡れたロビーに‥‥ 「この‥‥大馬鹿者がっ!」 「‥‥‥‥」 「作戦が終わったら‥‥もう一度叩きのめしてやる‥‥覚悟しておけっ!」 帝撃司令と花組隊長ではなかった。 兄と弟。 いや、父と息子だったかもしれない。 神凪と大神はさくらの前に立った。 さくらは泣いていた。 二人の姿を認めた瞬間から。 零れる涙‥‥まるで真珠のように。 「‥‥麗一さん‥‥大神さん‥‥わたしは、わたしは‥‥」 「心配しなくていい‥‥大丈夫だよ、さくらくん‥‥」 「‥‥さくら、くん‥‥」 さくらの身体からは絶えず光が放たれていた。 それが無尽蔵に続くとは‥‥とても思えない。 神凪がさくらの額に手を当てる。 さくらは‥‥再び眠りについた。 想い人に看取られて。 桜色の肌からは絶えず光が漏れる。 ボーン‥‥ボーン‥‥ ロビーの大時計が時報を鳴らす。 午後八時。 みな部屋で思い思いの時を過ごす時刻。 さくらは‥‥いつもなら舞台で一人稽古をしている時間だった。 「こんなことになるとは‥‥早すぎる‥‥」 「‥‥まさか、こうなる運命だったと?」 「‥‥‥‥」 「あの時‥‥歓迎会で言ったことは嘘か?‥‥さくらくんは‥‥さくらくんは、 大丈夫なんだろう!?」 「大神‥‥お前はすみれくんと山崎を見てくれ‥‥さくらくんは俺が‥‥」 「‥‥後できっちり説明してもらうからなっ!」 大神は地下治療室に走った。 薄暗いロビー。 月明かりが照らす‥‥さくらの身体から放たれる光、まるで月明かりに共鳴する かのようだった。 「神楽‥‥入ってこい」 「‥‥彼は追わなくても?」 「放っておけ‥‥」 「‥‥山崎隊長を‥‥あのような‥‥それでも見逃せと?」 「いいから降りてこい」 「‥‥はい」 破壊された天井から舞い降りて来たのは金髪の巫女。 さくらを抱く神凪の横に立つ。 ほんの少しだけ表情が曇る神楽。 そんな神楽の顔色に気付く余裕など、今の神凪にはなかった。 今の神凪の目には‥‥さくらしか写っていなかったから。 「‥‥どうだ?」 神楽がさくらの額に手を当てる。その後の反応は月影と同じだった。 「あ、あぶなかった‥‥こ、これは‥‥」 「‥‥まずいな。山崎が健在なら、まだ‥‥」 「‥‥消すことは出来ますよ、わたしでも」 「だめだ。破邪の血統は‥‥絶やしてはならん‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥神楽、お前も‥‥大神たちのところへ行け」 「‥‥‥‥」 「山崎に付き添ってやれ‥‥」 「‥‥は‥‥い」 神楽が地下治療室に消えた後、神凪はさくらの部屋に向かった。 未だ光を弱めないさくらを抱いて‥‥ 二階まで上がると少女たちの部屋が並ぶ。 誰一人いない。 無人。 神凪はさくらの部屋に入った。その部屋の主とともに。 暗闇の中でうっすらと滲む人型の霊光。 眠る天使‥‥破邪の少女。 その柔らかな天使の肢体がゆっくりとベッドの上に横たわる。 閉じた瞼、その長い睫毛に涙の名残りが粒となって閃く。 そして頬に‥‥耳に‥‥そして唇に。宝石のようだった。 しっとりと濡れたように輝く桜色の唇は、少しだけ開いていた。 何かを言いたかったのか‥‥それとも、何かを求めていたのか。 大戦中にその可憐な肢体を大神の前に見せることになったさくら。 そのさくらの肢体は、一年半あまり経って‥‥最早少女のそれではなくなってい た。 アイリスの夢の中に現れたさくら‥‥さらに美しい女性となって。 その成熟した女性の要素をいち早く抽出したような妖艶な曲面が、さくらの肢体 を形成する。 輝く天使の肉体を影が覆った。 「さくら、くん‥‥」 闇が光を包む。 「俺と‥‥俺と一緒に‥‥さくら‥‥」 無人と化した帝劇ロビー‥‥ 眠る時間。 いつもと同じ静けさ。 ただ、赤い絨緞は更に赤く染めあげられて。 その紅い絨緞を照らすのは‥‥白い満月だった。 白い満月が照らす横浜の街。 神凪と神楽が向かった山手の丘の中腹‥‥つまり暁蓮の館がある場所とは反対 側、葉山方面に存在する広い敷地。そこに神崎邸がある。 神崎側も暁蓮側もお互いに場所は把握していなかったようだ。 勿論、暁蓮の館は神楽をして迷わせるほどの結界が敷かれていたが‥‥ 神崎邸についても同じような処理が施されているらしい。 それが誰の手によるものか、また何故そのような結界を施す必要があったのかは 知る由もなかったが。 かすみと椿を乗せた翔鯨丸は九段下方面に舵をとり、その後かなり大回りで神崎 邸に進路を向けた。大回りとは東京北部から神奈川北部、そして厚木を経由して 江ノ島方面に向かう、と言うこと。 これは可憐の指示によるものだった。 川崎、そして横浜上空は経由しないこと。 可憐は理由を言わなかったが‥‥勿論、説明している時間的余裕もなかったが、 少なくとも山手の丘を通過するのは避けてくれ、と言うことだった。 二人が神崎邸上空に到達したのは発進してから、約30分ほど経過した後だっ た。 「‥‥こちらは鋼鉄の鯨を駆る者‥‥風の踊り子、神の衣を創りし者への拝謁を 所望したく、参上しました。ご返答をお願いします」 『‥‥闇より生まれし者どもが聞き耳を立てている。神の言葉を使うがよい』 「‥‥わかりました」 かすみは非常時の通信回線を使用していたが、もう一つ、帝撃には戦時回線と呼 ばれる高周波帯域の回線が何種類か存在する。その一つ、通常無線よりも遥かに 波長が短い可視光線近傍の帯域‥‥盗聴の危険性がほとんどない、指向性の高い 単色光を利用する手法が最近になって確立されていた。勿論これは紅蘭の手によ るものだ。 その戦時回線を、かすみの指示によって椿が切り替える。 「‥‥聞こえますか?」 『‥‥感度良好だ。映像も送れるから‥‥こちらの指示に従ってくれ』 「了解しました」 椿が受け持つ翔鯨丸の航法パネルにスーツ姿の男性が映し出された。 威厳のある精悍な顔立ち。でも何処か優しそうな‥‥父親のような顔立ち。 椿は少しだけ緊張して対応した。 「わたしは帝国華撃団風組の高村椿と申します。特級指令第参号に基づき、翔鯨 丸を帝撃花やしき支部から離脱させました。着陸の許可をお願いします」 『了解した。私は神崎重工社長の神崎重樹だ。社長として‥‥この屋敷の主とし て君たちを迎え入れる』 「!!!‥‥お、恐れ入ります」 『ふっ、堅くならずに行こう。北側第壱格納庫に収容する。誘導灯は点かない が、この通信回線が君たちを導く。パネルの指示に従って航法をお願いする』 「りょ、了解です」 『‥‥では後ほど‥‥そうだ、忘れていた』 「?」 『風の踊り子‥‥その次女は私が保護している』 「えっ!?」 『今は休んでいるから‥‥着陸したら客間のほうに来てくれ。執事に案内させ る』 「は、はい、わかりました」 『‥‥高村‥‥椿、くん、と言ったかな?、もう一人は確か‥‥藤井かすみく ん、だよな?』 「えっ!?」 『‥‥ふふっ、うちの娘が世話になってるな‥‥では後ほど』 パネルに映し出されていた神崎重樹の姿は消えて、変わって進路を示す航法図が 送られてきた。 椿が速やかに現在位置を投入し、位置補正を行う。 かすみが舵をとりながら、そんな椿をちらっと横目で見つめた。 「‥‥大丈夫?、椿」 「そのまま‥‥速度を少し落してください」 「了解」 「‥‥約3分後に格納庫収容口が肉眼で確認出来ます‥‥メインエンジン停止し てください」 「了解‥‥推進出力50%から30%に‥‥10‥‥0‥‥霊子核機関停止、補 助蒸気機関へ移行します」 「1分後に第壱から第参気球ブロックをヘリウムから空気に置換します。航法は そのまま‥‥」 「了解よ‥‥椿‥‥」 「はい?」 「‥‥あなた、もしかしたら一人でも翔鯨丸を動かせるかもしれないわね」 「えっ!?」 「‥‥近いうちにわたしが受け持つところも教えるわ。翔鯨丸は‥‥あなたが管 理しなさい、椿」 「そ、そんな‥‥出来るわけが‥‥」 「いいえ。轟雷号もそうね‥‥この件が片付いたら言うけど‥‥わたしと由里は 他に担当するのがありそうなのよ、米田大将の指示でね」 「そ、それは‥‥」 「‥‥後でね。とにかく今は翔鯨丸の保護と、由里の安否の確認が先よ」 「は、はい‥‥ヘリウム放出、大気導入‥‥翔鯨丸、着陸態勢に入りました」 「了解‥‥着陸地点を確認、10秒後に補助機関部より制動をかけます」 星の海を渡った鋼鉄の鯨。 そして暗夜航路を経た鋼鉄の鯨は、今、神の衣を創りし者が待つ港に到着しよう としていた。 第二の港。 本来の母港に帰還出来る日が来るまでの安息の地。 少し時間は溯る。 かすみと椿がまだ浅草花やしき翔鯨丸格納庫に足止めを食らっていた時間帯。 「あ‥‥ああ‥‥うああ‥‥」 「舞姫さまっ!、しっかりしてくださいっ!」 「‥‥‥‥」 白い満月が照らす帝撃花やしき支部ロビー。 黒い霞を、その退魔の瞳で一瞬で殲滅した舞姫だったが‥‥ 突然舞姫の様子がおかしくなった。 目に見えないもの、遠くに起った何かを、その目が見たのか‥‥ 夢組隊長側近としての力が、その夢組隊長に起った何か不吉なものを予感したの か‥‥ ほどなく陸軍の兵士が駆け付けた。そして黒い霞も、また‥‥ 舞姫を保護するように周囲を固める村雨と朧。 ついに舞姫は悲鳴を上げた。 退魔の巫女が発する悲鳴。 それは破魔の叫びだった。 大戦末期に舞姫とともに戦った村雨と朧は、その“破魔の歌声”も当然知ってい たために、予め自己防衛の手段‥‥つまり耳にそれを打ち消す呪文を施してい た。耳なし芳一の逆だ。 破魔の歌声は、魔界から生まれし者だけではなく、正常な人間の意思をも破壊す る。 それは当然、村雨と朧にも影響を与える。 舞姫の悲鳴は近隣に存在した生きとし生ける者を、生まれ出ずる前の世界に戻し たのだった。 再び静寂が戻った花やしきロビー。 だが舞姫は頭を両手で抱えて蹲るだけだった。 「まずいな‥‥村雨さん、潮時です、撤退しましょう。取りあえず当面の目標は クリアしましたし‥‥」 「‥‥‥!」 村雨はうなずきかけて、視線を舞姫から格納庫方面に移した。 何もない。気配もないが‥‥ 少年のような村雨の表情が険しくなる。 「‥‥ちっ、出所がまだだったのか‥‥斯波隊長はいったい何を‥‥」 「‥‥‥‥」 舞姫を支える朧、その二人の前面に村雨がゆっくりと移動する。 「‥‥すいません、任せていいですか?」 「‥‥‥‥」 ゆっくりと頷く村雨。 木刀を青眼に構える村雨のいつものスタイル‥‥ではなかった。 右手に持った木刀を左下‥‥袈裟懸けに流すように、まるで柳の木のような静け さを以て構える。左手は右手から木刀の鍔にあたる部分に添えるだけ。 目がそれまでになかった光を帯びる。 「‥‥村雨さんが放つもう一つの破邪剣征奥義、か‥‥見たいが、ここは我慢」 オオオーーン‥‥オオーーーンン‥‥ 朧が月に吠える。 その遠吠えに呼応するように、ロビーの入り口の一角、格納庫への通路に黒い霞 と、別の何かが姿を現した。 黒い霞に囲まれるように現れる影。 明らかに人ではない。 人にはない妖気を放っている。 「む‥‥なんだ?」 「‥‥!」 4‥‥5つ‥‥見る見る湧き出す不浄の物の怪。 人ではない証拠に、その影には尾が生えていた。 背中が歪にねじ曲がり、顔の半分が口‥‥しかも牙で覆われている。 降魔。 準巨大降魔だった。 今や数えるのも困難になるほど大量に湧き出した降魔は、シルスウス鋼の通路壁 に身体をこすらせながら、ロビーに這出ようとしていた。 まるで腹腔に蟠る寄生虫のような醜怪さを以って。 「な、なぜ、降魔が‥‥」 「‥‥‥‥」 「や、やばい‥‥村雨さん、こりゃ、マジで撤退しないと‥‥」 「‥‥‥‥」 村雨の目が輝く。 さくらの瞳に似ていた。 さくらが破邪の力を解放した時の‥‥破壊と再生の力、その混在した混沌とした 光と闇の力が、瞳に宿る。 「こういうことだったのか」 「え‥‥銀弓隊長!?」 朧の背後に唐突に現れた焦茶色の影。 放つ霊気は銀色に輝き始めた。蹲る白拍子を見て‥‥ 「‥‥舞姫様が‥‥いったい、どうしたと‥‥」 「う‥‥ああ‥‥」 「わかりません。突然‥‥」 「こんな舞姫様は初めて見るな‥‥!‥‥まさか、銀座が‥‥山崎の身に何か‥ ‥」 「‥‥!」「そ、そんな‥‥」 「朧、お前は舞姫様を連れて銀座に行け。ここは俺と村雨くんで支える」 「で、ですが‥‥鯨の口は‥‥」 「‥‥今は可憐さんに頼るしかない。こっちが片付いたら俺もすぐに向かう‥‥ だから朧、お前は舞姫様を銀座に送るんだ」 「しかし‥‥」 「それと副司令に打電しろ。銀座には神楽さんが戻ってるはずだ‥‥彼女を派遣 するようにな。このままじゃ花やしきの夢の扉は開かない」 「‥‥わかりました。二人とも無理をしないでくださいね」 朧は舞姫を背負って駆け出した。 残る村雨と銀弓。 村雨の瞳から発する霊光は今や必殺の気合が臨界にまで達していた。 木刀が揺れる。 「甲冑なしの降魔か‥‥さっさと終わらせて可憐さんと合流しよう」 「‥‥‥‥」 「朧とは少しスタイルが違うが‥‥よろしく頼むぜ、村雨くんよ」 木刀が螺旋を描く‥‥ その螺旋の光は、橘の花びらが集まって創られていくようだった。 塵のような白色の霊光が螺旋を形成していく‥‥ 「‥‥はああ‥‥‥‥んんん‥‥」 言葉を発することの出来ない村雨。 その口から裂帛の気合を伴った吐息が吐き出される。 「んっ!!」 そして袈裟懸けに空気を切り裂く。 二陣の風ではなく、音のない大きな波のうねり‥‥嵐の大海、押し寄せる氷河‥ ‥しかし無音。 無音の技。無音の嵐。 破邪剣征第八奥義、橘花風神‥‥別名、雪華風神。 陰陽に分派する北辰一刀流の分岐点でもあった。 それは大神家の狼虎滅却第六奥義、仙気雷刃と酷似している。 雪華風神・陰‥‥破邪剣征・雪華冥王風牙。 それは破邪の血に逆らう者が成せる業。 そして村雨が放ったのは橘花風神・陽‥‥破邪剣征・橘花封神。 全く読みが同じ技も、それが本当の姿かもしれなかった。 その無音の雪嵐を疾風の如き速度で追う銀弓。 銀弓の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。 それは魔界の物の怪が相手だからか‥‥ 地獄に送ることに、躊躇する必要のない相手を目の前にしたからなのか。 村雨の放った強烈な霊波を受けた不浄の物の怪は、その場で凍り付き、そして消 滅した。 黒い霞は跡形もなく消え去っている。 ダメージを受けながらも後方で難を逃れた数匹の降魔、その群れに迷うことなく 突っ込む銀弓。 凍り付きながらも最後の悪足掻きか‥‥その嫌らしい鉤爪を銀弓に振るう降魔。 そんな攻撃も意に介さず、銀弓は舞を舞うかのように、するりと懐に入り込む。 「消え失せろ‥‥」 拳が銀色に輝く‥‥銀弓の拳はその名に相応しく、弓の如く弾け飛んだ。 「銀弓風塵流・餓狼の舞!!!」 ズンッ!!! 先頭にいた降魔の一匹、その巨大な体躯をも揺るがす銀弓の鉄拳。 その霊力は近隣に凍り付いていた降魔をもあっさりと貫いた。 不浄の物の怪を食らう餓えた狼。ゆっくりと心行くまで租借する。 グギギギギ‥‥ 降魔は苦悶の悲鳴を上げて消滅した。 銀弓は楽には死なせなかったようだ。 「‥‥ふんっ、貴様らが食らった人の痛み‥‥地獄で思い知れ」 「‥‥‥‥」 本来は長刀で伝搬する霊力を、銀弓は拳もしくは脚を媒体として放つ。 神崎風塵流を知る銀弓、それは己自身が長刀を使う銀弓風塵流の伝承者であった からだが、それも勿論、神崎家から派生した訳ではない。神崎家とは立ちあった こともない。 長刀という霊力を媒体とする手段を必ずしも必要とせず、己の体躯を以って霊的 攻撃を行えるところが神崎風塵流とは違っていた。無手の風塵流、それは戦場で 生まれた格闘術と言っていい。 ロビーは再び静寂を取り戻した。 「さて、これからが問題だが‥‥」 銀弓は自分より少し背丈の低い村雨を見つめた。 村雨の瞳からは先ほどの裂帛の気合は消えていた。 いつものように静かな瞳で銀弓を見つめる。 「‥‥取りあえず鯨は飛び立ったようだな、さっきの振動は‥‥」 「‥‥‥‥」 村雨は視線を銀弓から花やしき玄関に向けた。 「‥‥もうここにいる理由はないな、舞姫様がいない以上‥‥朧が戻ってくるま での間は可憐さんを援護しよう。可憐さん一人じゃ、お客さんの接待も大変だろ うしな」 「‥‥‥‥」 村雨は再び視線を銀弓に戻して、ゆっくりと頷いた。 ロビーを後にして疾走する銀弓と村雨。 「‥‥そういや‥‥君とは一度立ちあいたいと思ってたよ、村雨くん。これが片 付いたら‥‥一度手合わせ願いたいもんだな」 走りながら、銀弓は後につく村雨に声をかけた。 「‥‥‥‥」 「そん時は大神隊長と山崎、それに斯波の旦那と朧、全員巻き込んで果たし合い と行こうぜ」 「‥‥‥‥」 「ん?‥‥おっと、氷室先輩と‥‥そうそう、肝心の神凪司令を忘れちゃいけね えや。これで八人だな。勝ち抜き戦だ‥‥けっけっけ、こりゃ楽しみだぜ‥‥」 「‥‥‥‥」 「うーむ、我ながらグッドアイデアだぜ‥‥大神隊長には士官学校時代に一度後 塵を拝したからな、不覚にも‥‥いつまでも先輩面されちゃ叶わん」 「くっくっ‥‥」 「おっと、余計なことは考えちゃいけねえぜ、今は‥‥少し真面目にいこう、う ん」 「‥‥ふっ」 村雨の笑い顔。 前を走る銀弓には見えなかったが、笑ったことのない村雨が初めて見せた笑顔だ った。 少年の笑顔。 ひとりぼっちではない。 必ずハッピーになれる‥‥帝撃はそんなところだ‥‥ いつか氷室が紅蘭に、山崎に、そして村雨に言った言葉。 走りながら、その言葉を村雨は噛みしめていた。 窓から見える月明かり。 それは相変わらず真っ白に輝いていた。 暗い闇を照らす純白の月。 その月影の下で月組隊長が導く‥‥それは新しい雪降る月の調べ。
Uploaded 1998.7.13
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