<その2> 

「そんじゃ、やるかい‥‥遅れるんじゃねえぞ、カンナ」 
「‥‥夜叉姫っつうたな‥‥おめえはあたいの後ろにいろ」 
「‥‥てめえ‥‥人との接し方がまるでなってねえな‥‥これが終わったら、礼
儀作法の奥義を伝授してやるよ」 
「ああっ!?‥‥この桐島カンナ様にウエートレスでもやれってのか!?」 
「‥‥ドアホ」 

睨み合っていたカンナと夜叉姫はふいに正面に向き直った。 
二人の目の前に広がる闇、その闇の一部を形成する人影。 
人影という形容も、薄明かりに目が慣れたカンナと夜叉姫が見たそれは、最早人
ではなかった。ただ人の影は持っていたが。 
軍服を着ているから軍人だろう‥‥それも生前の話。 
軍服から生えている手足、そして頭部。 
これは人のそれではなかった。 
表皮を彩る爬虫類の鱗。 
哺乳類の目は前方を見るために進化の帰結として頭部の前面に移動してきた。 
しかし‥‥そのかつて軍人だった人影の頭部にある目らしきものは側面について
いた。 
前後左右、顔を動かさずに視界を保てそうだ‥‥しかも猫目。 
まさに爬虫類の目だった。 
頭部自体は流線型を成しており、そこだけ見れば爬虫類としてはなかなか美しい
形状だったが‥‥何しろ身体が人間。カンナと夜叉姫は頭にぬいぐるみでも被っ
ているのか、と最初は思った。 
口から絶えず涎がしたたり落ちる。 
時折長い舌がちろちろと牙の隙間から出るたびに、たまらない腐臭が滲みでてく
る。 
舌の出入りが呼吸と同期しているようだ。 
そして、手。 
勿論人間の手ではありえず、指は五本ついているが、これも鱗で覆われた節くれ
立った指だ。爪が異様に長く、降魔のそれを彷彿させる。指の間には当然水かき
がある。 
全部で5匹。 
先頭にいるのは‥‥胸の階級章からして、かつて大将と呼ばれた人間らしい。 
後ろにいるのも准将、大佐クラスだ。 
このぶんでは‥‥脳も退化してしまっているだろう。 

「全く‥‥哀れな連中だぜ。闇と契約した報いだな‥‥」 
「‥‥これだから軍人は‥‥ちっ、愚痴を言ってる場合じゃねえな‥‥やるぜ
っ!」 
「おおよっ」 
カンナと夜叉姫は同時に動いた。 
が、二人は目の前にいる標的を誤認していた。 
軍人だから‥‥という先入観があった。 
勿論例外もいる。米田や神凪、そして大神や山崎もそうだ。 
今の相手はいずれにしても取るに足らない‥‥楽勝の相手だ。 
それが二人の頭にあった。 
だが目の前にいたのは、人間ではなかった。 
爬虫類‥‥人間と同じ体長を持つ恐竜に等しかった。 

「シャアアアアッ!」 
「!‥‥なんだとっ!?」 
物凄い速度でカンナの肩先を鉤爪が奔る。 
勘だけで身体をひねって躱したカンナの上着、それが綺麗に切り裂かれていた。 
「こ、これは‥‥」 
「そっち行ったぞっ!」 
「!?」 
夜叉姫の叫び声を耳にしたカンナは振り向きもせず地に伏せた。 
そのカンナの元の顔があった空間に巨大な蝦蟇口を開いた恐竜の牙があった。 
カンナはすぐに起き上がって、夜叉姫と背中合わせで恐竜と対峙した。 
背中を見せるのは致命的だった。 
「あ、あぶなかった‥‥」 
「ヤバイぜ、動きが速すぎる‥‥降魔よっか素早いかもしれねえ‥‥」 
「ちっ、気配が読めねえな‥‥トカゲだからか‥‥一瞬でも動きを止めさえ出来
りゃ‥‥」 
「‥‥なんとかなるってか?」 
「‥‥まあな‥‥ここは巫女様にお願い出来るかい?」 
「‥‥そうそう、そういう態度でいいんだよ」 
夜叉姫はにこにこしながら、その豊かな胸元に大胆に手を差し込んだ。 
こんな場面でなければ、相当に刺激的な光景だったが。 
手に取ったのはタンザクのような青い札。 
「‥‥では、少し緊張してもらうか‥‥だが、一度に出来るのは二匹だ」 
「上等だ‥‥頼むぜ」 
「よっしゃ、先手必勝だっ!」 
「おうっ!」 

奔る夜叉姫。追うカンナ。 
左手にお祓い棒、右手に二枚のタンザク。 
カンナは横目で、その退魔の巫女が舞う姿に状況も忘れて一瞬魅入った。 
「そらよ‥‥」 
無造作に二枚のタンザクを放り投げる夜叉姫。 
それは磁石の如く、最寄りの爬虫類二匹の頭部に吸着した。 

「吽!」 
ピキーンッ‥‥ 

凍り付く、という表現がこれほど的を得る局面もない。
村雨の放った橘花封神とは勿論違う。 
動きを止めることさえ出来ればよかったのだから。 
二匹の恐竜人間は刹那樹氷と化した。 
そしてその一瞬を二人は見逃すはずもない。 
「消えろっ!」 
「成仏しなっ!」 
烈火の如きカンナの拳は樹氷のど真ん中に見通しのいい空洞を作り上げた。 
そして夜叉姫は何故かお祓い棒は使わず、回し蹴りで樹氷を真っ二つにへし折っ
た。 

「や、やるじゃねえか‥‥」 
思わず唸るカンナ。 
「‥‥まだ終わっちゃいねえよ」 
残る三匹。 
トカゲのように地面にはいつくばるその姿。 
着ているのが軍服であるが故に、恐ろしく醜怪だった。 
集まらずに、カンナと夜叉姫を包囲するように三方に配置している。 
おまけに、はいつくばっているために、迂闊に攻撃できない。 
必ずしも脳は退化していないかもしれなかった。 

「ちっ‥‥やりにくいったらねえな‥‥こう低いと‥‥」 
「‥‥だったら立たせりゃいい」 
「‥‥さっきの札か?‥‥種は他にもありそうだな」 
「まあな‥‥諸刃だが‥‥おめえ雷は嫌いか?」 
「はあ?‥‥へそでも取られるってか?‥‥あたいは別に‥‥」 
「抑え目にやる。少し痺れるかもしれねえが‥‥ひるむなよ」 
「‥‥なんだかわかんねえけど‥‥よろしく頼むぜ、それしかねえんだろ」 
「よく言った‥‥行くぞっ!」 
夜叉姫はまたも懐に手を入れ、手に取った一枚のタンザク‥‥金色のそれを自分
とカンナの真上に放り投げた。 
そして今度はお祓い棒の羽根でそれを叩く。 
宛ら、庭球の仕合開始の如く。 

「吽っ!」 
ガガ−−−ンンッ! 

物凄い音響が地下空洞に響き渡った。 
そして無数の落雷が縦横無尽に奔る。 
術を放った夜叉姫、そしてカンナに対しては放電密度が薄くなっているものの、
それでも身体の自由が束縛されるほどの威力がある。勿論、直撃された恐竜人間
はその比ではない。 
「くくっ‥‥こ、これは‥‥き、きついぜ‥‥」 
「我慢しろ‥‥」 

ウギャギャ−−ッ! 
たまらず地面から飛び起きる大トカゲ。 
降魔を凌ぐ反応速度を示す恐竜人間だったが‥‥半ば宙に浮いた状態で、しかも
その動きを予測していたカンナと夜叉姫にしてみれば、最早結果は見えていた。 
「へっ‥‥阿呆が‥‥」 
「南無阿弥陀仏‥‥」 
二人はすかさず姿を消した‥‥ように恐竜人間には見えたかもしれない。 
その360度、視界を保てる爬虫類の目ですらカンナと夜叉姫の姿は追うことが
出来なかった。 
二人は奔る雷と殆ど並行して奔っていたから。 
そして気合の入った二人の発生する速度は、明らかに恐竜人間を凌いでいたから
だった。 
大戦時を凌駕するカンナの運動能力‥‥まさに猛虎だった。 
そのカンナが始めて目にする帝撃五師団の戦闘力‥‥夢組の夜叉姫と呼ばれる女
性が示す体捌きは、やはりカンナの目には白い毛皮の豹のように見えた。 

恐竜の側面に、いきなり姿を現す二つの影。 
「四方攻相君ッ!」 
「三進転掌ッ!」 
カンナが放つ両腕の正拳突き、そして夜叉姫が放った二連脚と瓦割の連係技。 
一匹は10メートル余りも吹っ飛ばされ、もう一匹は地面に亀裂が生じるほど激
しく叩き付けられた。 
有り余る霊力と勁の力が与えられ、恐竜人間は塵と化した。 

「げげっ、やりすぎたかな‥‥」 
「しょうがねえよ‥‥!‥‥やべえっ、一匹逃がしたっ!」 
「何!?」 
最後の一匹‥‥それは入り口方面に向かって這い蹲って逃げ出していた。 
さながらトカゲのように。 
だが‥‥その前に陣取る人影。 
氷の青年。 
かなり遠い位置まで来たにも関らず、残った恐竜人間‥‥大将の階級を持ったそ
の大トカゲはカンナと夜叉姫が目を離した隙に、100メートル余りも移動して
いた。 
もう斯波の目の前まで接近している。 
斯波は左腕に何かを抱えたまま立っていた。 
「斯波の旦那っ!、すまねえ、頼むぜっ!」 
斯波は右手に持った剣を無造作に振り上げた。 
まるでそれに促されるように、大トカゲが飛び上がる。 
カンナと夜叉姫は遠目に何か銀色の光が数条奔ったように見えた。 
そして‥‥ 
大トカゲには縦縞が生え、そのまま陽炎のように消えていった。 

「なんだ‥‥あんなあっさりやりやがって‥‥」 
「‥‥へっ、さすが、雪の頭はってるだけはあるな‥‥」 
カンナと夜叉姫はしばし唖然として遠目に見える氷の青年を見つめた。 
思いだしたように斯波のいる場所まで走る。 
「‥‥そうだ、おめえ‥‥さっき使った技‥‥」 
「ん?‥‥ああ、あれは昔、地元で教えてもらった」 
「地元?‥‥だれに?」 
「あたいは北海道生まれだからな。相手は、ええと‥‥桐島‥‥そう、てめえと
同じ姓を名乗ってた」 
「!」 
「知りあいか?‥‥なんでも修業とかで沖縄から出てきたとか‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「強え人だったが‥‥あたしが帝都に出る直前に‥‥‥なんか‥‥若い男とやり
合ったらしくて‥‥」 
「!‥‥それ、で?」 
「‥‥最後の仕上を教えてもらおうと待ちあわせ場所に行ったら‥‥もういなか
った」 
「‥‥‥‥」 
「近くに住んでた人の話じゃ‥‥その若い男、なんか黒ずくめだったそうだけ
ど、その人を追ってどっか行ったっていう話だ‥‥ん?‥‥なんでそんなこと聞
くんだ?」 
「そうか‥‥そうだったのか‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「最後に会った時‥‥その‥‥桐島って人‥‥元気だったか?」 
「‥‥ああ」 
「そっか‥‥そっかあ‥‥」 
「‥‥‥‥」 

いつしか二人は奔るのを止めて歩き始めていた。 
俯きながら歩くカンナ。 
少し前を歩いていた夜叉姫は、歩幅を抑えてカンナと並んだ。 
なんとなく‥‥横にいたほうが話しやすい。 
夜叉姫はそう自分に言い聞かせた。 

「‥‥おい」 
「‥‥ん?」 
「青山がこんな調子だったら‥‥花やしきも絶望的だな‥‥」 
「‥‥そうだな」 
「だから‥‥銀座に行く」 
「そうか‥‥ん?、なんのことだ?」 
「あたしは銀座に居候することに決めた。山崎隊長もいることだしなっ!」 
「‥‥ちょっと待て、劇場に空部屋はもうねえよ」 
「心配すんな。倉庫でも屋根裏部屋でも構わねえよ」 
「だからそれは神凪支配人に‥‥」 
「そうだな、それがいい」 
「わっ!?」「おっ!?」 
目の前に斯波がいた。 
話し込んで歩いているうちに元の場所に戻って来ていたようだ。 

「‥‥結局、拘束は無理だったな‥‥」 
「ああ‥‥」「尋問でもするつもりだったのかい?」 
斯波は少し考え深げにうつむいた。 
右手には剣、左手には‥‥何か筒のようなもの。 
「‥‥少しばかり確かめたいことがあったんだが‥‥ま、どっちにしろヤツらに
してみれば長生きは出来なかった」 
「‥‥‥」「‥‥‥」 
「用が済んだら始末するように言われていたからな‥‥生かしておいてもいいこ
とはない」 
「‥‥なるほど、ね」「‥‥なかなか‥‥司令もクールだぜ」 

斯波は右手に持っていた剣を何気なく地面に突き刺し、左手に持っていた筒を右
手に持ち替えた。 
そして地面‥‥鉄板で覆われた地面から剣を、これも豆腐から箸を抜くように左
手に持つ。 
右手に持つ筒のような物。 
それが先程から探していた物らしい。 
「ところで‥‥それ、いったい何だい?‥‥ん‥‥なんだこの感触‥‥」 
「‥‥なんか‥‥妙に、こう‥‥力抜けそうな気配が感じられるんだが‥‥」 
「ほう‥‥鋭いな、二人とも‥‥」 

斯波は二人の先頭を切ってすたすたと目的地に向かって歩きだした。 
500メートルほど先。 
降魔の死骸が蟠る‥‥ミカサの跡地。 
「‥‥今度は俺が護衛する。君たちには‥‥こいつを動かしてもらいたい」 
「え‥‥」「それは‥‥」 
「筒の細いほうを下にする。向こうにも差込口があるはずだからな‥‥これのた
めの」 
「‥‥‥」「‥‥‥」 
「そして、この頭の部分‥‥ケーブルの端子が二つあるだろ?、向こうにもまだ
生きている電源供給ユニットがあるから‥‥そこにまずは一本繋ぐ」 
「‥‥‥」「‥‥‥」 
「もう一本‥‥結構複雑なピンで構成されてるが‥‥この端子は制御回路と霊子
反応基盤に直列に接続される。制御回路はいいが問題は霊子反応基盤だな。この
筒が置かれていた場所には見つからなかったし‥‥それと制御回路の記憶素子へ
の刷り込みだな」 
「‥‥あのさ」 
「ん?」 
たまらずカンナが口を開いた。 
斯波が何をしようとしているのか、皆目見当がつかない。 

「‥‥ああ、これはつまり‥‥霊子核機関のコアだよ」 
「‥‥え?」 
「‥‥霊子核機関って‥‥ミカサに搭載されていた‥‥」 
「まあな‥‥でも、これはコンパクトに出来てるだろ?‥‥試作型なんだよ、霊
子甲冑に搭載する目的で造られた」 
「?‥‥??」「?‥‥?‥‥?」 
「‥‥まあいいじゃないか。結果はやってみりゃわかるよ‥‥霊子反応基盤につ
いては、俺とカンナくんで探す。かなり特殊だし」 
「‥‥はい?」 
「場所は‥‥俺が予想しているのは些か面倒な場所でね‥‥君の出番って訳だ」 
「?‥‥うーむ、まだわかんねえよ」 
「そして夜叉姫さん、コアの駆動とか制御回路のセッティング‥‥細かいところ
は君が担当してくれ。電源が入ったら、おかしな輩はとりあえず近寄ってはこな
いはずだから」 
「‥‥あたしがそんなこと出来るって‥‥なんで知ってる訳?」 
「えっ、そうなのか!?、お、おめえ‥‥技術士の資格でも持ってるんか?」 
夜叉姫の意外な一面を知ったカンナ。 
驚きの余り見返してしまう。 
「君の隊長はそれが専門だろ?‥‥いつも傍にいれば‥‥そりゃ、身に付くわ
な」 
「う、うるせえっ!」 
「ほほう‥‥なるほど‥‥」 
「う、うるせええっ!!」 
「さて、これからが本番だ‥‥覚悟はよろしいな、お嬢さんたち」 
「おうっ」「ちっ、わかってるよ‥‥」 
  
洞窟と呼ぶには余りにも広大な地下空洞を進む三人。 
局地戦闘を指揮する雪組、その隊長。 
帝撃の主力、対降魔部隊・花組、その特攻隊長。 
そして大戦末期、帝撃最後の壁となった‥‥夢組、やはりその特攻隊長。 
帝撃の特攻三人組が暗闇を駆ける。 
  
  

同じ頃‥‥ 
広大な空洞に入り込んだ三人が、最初に足を踏み入れた場所。 
青山陸軍総司令本部。 
白い満月が照らす広い敷地。 
静寂に覆われていたその敷地も、一角がにわかに騒がしくなり始めた。 

「‥‥これは‥‥まずいわね‥‥」 
「‥‥銀弓隊長が言っていたのは‥‥こういうことだったの‥‥」 

青山の外回りを担当していた、やはり同じように青年一人と二人の女性。 
建物を取り巻く結界石を全て破壊した後、ぞろぞろ現れた兵士の群れ。 
斯波がカンナたちの救出の際に出した破壊音に反応して現れたのだが‥‥ 
兵士たちを眠らせたのは雪組の玲子と月組の弥生。 
弥生は月組のくノ一を襲名するだけあって、まるで陽炎のような戦いぶりだっ
た。 
兵士たちにしてみれば、月の女神が舞い下りたような感覚だったろう。 
その女神の手招きによって夢の世界に旅立ってしまった訳だ。 
そして玲子。 
玲子は、こと局地戦闘‥‥特に近接戦闘において実力を発揮できるタイプらし
い。 
ペアを組んだ弥生とは対照的に、こちらは女神ではなく、しなやかで美しい肉食
獣。 
柳のようなカポエラ独特の動きから繰り出される棍棒のような手刀と鉄筋のよう
な回し蹴り。 
制圧に時間はかからなかった。 
だが‥‥ 
人間とは思えない物の怪が兵士たちの間に混じり込んでいる。 
弥生が見出した“虫”は、黒い霞のように見えた物の怪だったが‥‥ 
隠れ蓑である兵士たちが眠りに入ったため本来の姿を明らかにせざるを得なかっ
たようだ。 
それはこの世のものではなかった。 
人間を頭部を捕食し、胴体に寄生する。 
即ち降魔。 
人間とほぼ同じ身長の三匹の下級降魔。 
問題は先程の兵士たちは自分たちのすぐ傍に猛獣がいたにも関らず気にも留めて
いなかったこと。 
既に毒されていたらしい。 

「これでは確かに‥‥夢組の出番かもしれないね。早いとこ汚染処理をしないと
‥‥」 
「どうします?‥‥降魔なんて‥‥些か手に余りますよ」 
「あら?‥‥弥生ちゃんらしくもない‥‥」 
「‥‥一応、わたしにも選ぶ権利が‥‥」 
「ふふ‥‥そうね。おーいっ、出番だよっ、柿の字っ!」 
「‥‥ふっふっふ‥‥お呼びかな、お嬢さんがた」 

土俵入りの横綱よろしく、胸をはって玲子と弥生の前に姿を現す氷室。 
玲子に貶され、いじけていた氷室だったが、立ち直りは早いらしい。 
手に持つのは二刀‥‥大神と同じ二刀流。 
ただ、大神の所有する雷神と風神のような長めの小太刀ではない。 
正真正銘の太刀、それもかなり大型の太刀だった。 
神凪の修羅王と同じほどの長さ、そして身は厚い。 
まるで鉈のようだ。 
鎬を削る、鍔迫り合いなどの形容は、こと氷室の剣には当て嵌まらないらしい。 
矛を交えたら相手の剣もろとも砕いてしまいそうだ。 
まさしく戦場の剣‥‥斯波の剣に匹敵するほどの業物だった。 

「弥生ちゃん、悪いけど無明さんたちに知らせてくれる?ここはあたしと柿の字
でなんとかするから」 
「そ、そんな‥‥たった二人で‥‥」 
「‥‥お前も弥生ちゃんに同行しろ、玲子」 
三匹の降魔を前に、弥生と玲子を庇うように対峙する氷室。 
花組のカンナと同じ、雪組の特攻隊長。 
「ああ?‥‥あんた、自惚れてるんと違う?」 
「青山のキーマンは無明さんだ。彼女に大事が起こったら全てが終わる‥‥わか
ってるだろ」 
「だからと言って、あんたを一人にする訳にはいかないわ」 
先程とは打って変わって、年上ならではの視線を氷室に送る玲子。 
「‥‥いつか、同じようなことを‥‥俺が言った気がするな‥‥」 
「え?」 
「まあ、任せておけ。さっき言ったろ?‥‥俺はこの一年遊んでいた訳ではな
い」 
「あんたね‥‥」 
「柿右衛門さん‥‥」 
「早く行けっ!」 
「‥‥ちぇっ、格好つけちゃってさ‥‥」 
少し悲しそうに背中を見せる玲子。 
そして氷室には聞こえないように‥‥ 
「ミカエルの加護があらんことを‥‥」 
走り出す。 
「行くわよ、弥生ちゃん」 
「‥‥‥‥」 
弥生は自分よりもずっと背の高い氷室の、その背中に少しだけ寄り添った。 
自らの力を分け与えるかのように‥‥細い腕を氷室の胸にまわして、背中に口付
けをする弥生。 
「月の女神があなたを祝福しますように‥‥ご無事で‥‥」 
そう言って弥生は風のように走り去って行った。 
氷室の背中に、その柔らかな肌のぬくもりを残して‥‥ 

「月の女神と真夏の雪娘、か‥‥ふっ、だが二人とも、まだまだ聖母様には程遠
いな」 
二刀を目の前で交差させる氷室。 
三匹の降魔を指して、まるで巨大な金鋏を突きつけるように。 
燃える髪型と同じく、燃えるような闘気と霊気が身体から吹き荒れる。 
「‥‥聖母マリア様を悲しませる物の怪よ‥‥我が剣の錆となるがいい」 
  
  

「ちっ、まるでゴキブリだな‥‥無明妃様、大丈夫ですか?」 
「真‥‥也‥‥様‥‥」 
未だ影の状態の黒い霞の群れを前に、舞姫と同じように床に蹲る無明妃。 
血に染まった山崎の姿が脳裏を過ぎる。 
それは予感ではなく明確な映像となって、無明妃の見えないはずの網膜に焼き付
いていた。 
青山軍司令本部東側通路から侵入した七特の四人と無明妃。 
目の前に現れた黒い霞を、実体化する一瞬を狙って始末した“板前”率いる七特
だったが‥‥ 
浅草花やしき同様、元が絶たれていないために霞が次々と沸き出してくる。 
変調を来たした無明妃を庇うように四方に配置する七特の戦士たち。 

「いかんな‥‥銀座にトラブルが発生したのは明らかだ」 
「‥‥どうする、板前」 
「やることは決まっている。目的地まで無明妃様を護り‥‥しかる後に夢の扉を
開けて頂く」 
「‥‥では急ごう。無明妃様がこの様子では‥‥長びくのは不利だ」 
「うむ‥‥“畳屋”と“才蔵”、お前ら二人は無明妃様を護衛しつつ先行しろ‥
‥場所は‥‥」 
「地下通信室‥‥斯波隊長が向かった方向とは反対だな」 
“畳屋”と呼ばれた一際大柄な青年が板前の指示に対応する。 
手に持っているのは畳屋が茣蓙を縫うために使う極太の縫針。 
畳屋という呼称は板前同様、伊達や酔狂ではなさそうだ。 

「作戦乙ノ壱、大佐の指示どおり‥‥無明妃様の身に危険が生じたら‥‥わかっ
てるな?」 
「勿論」 
そして応えるのは七特の忍“葉隠才蔵”。 無論本名ではない。 
伝説上の忍者‥‥真田十勇士の一人、霧隠才蔵から取ったもの。 
初代月組隊長の息子である彼は、父親が同じ月組の朧を庇って戦死した翌年、つ
まり大戦勃発の年に七特入りした。七特の七人を為す最後の一人として。 
やはり父の後を追いたかったのか‥‥陸軍から帝撃月組への配置転換を希望して
いたのだが、神凪の命によって板前が七特に引き入れることになった。 
理由は‥‥朧の存在。 
遺恨がある訳ではない。ただ、そこにかつての隊長の子息が着任するとなると‥
‥朧にとっては、とても冷静ではいられなくなるだろう。 勿論、才蔵にしてもそ
うだ。 
そして空席だった月組隊長に、才蔵に代わって着任したのが神凪だった。 
もともと、神凪は五師団要員として登用される予定ではなかった。 
陸軍の指揮下にはなく、そして帝撃配下でもない‥‥辺境遊撃隊、四季龍。 
賢人機関ですら、その詳細は把握できず、また、手を出せないと言われている神
凪の懐刀。 
七特とともに、それを指揮することが神凪の仕事だったからだ。 

帝撃に想いを馳せていた頃の、帝国主義の理想‥‥ 
だが現実がどのようなものかを、七特という、言わば反駁する存在によって思い
知らされた才蔵。 
いつか父に聞かされた帝国華撃団の行動指針‥‥悪を斬り、正義を示す‥‥そし
て、仲間を護る。 
言葉だけでは理解できないその意味を、七特という、戦争の悪がはびこる世界を
駆ける部隊に身を置くことによって思い知らされたのだった。 
消すことが出来ない過去、拭い去ることの出来ない辛い記憶が、今日この日のた
めにあるかのように‥‥今日この日に全てが清算されるかのように‥‥才蔵の目
が強く輝く。戦争のための戦争ではない。 

「ここは俺と“黄泉”で何とかする。斯波隊長が出所を抑えたら俺たちもすぐに
合流する」 
「‥‥お願いします」 
 二人の屈強な青年に両脇を護られ、ゆっくりと通路を進む純白の巫女。 
動く物、全てに反応するのか、黒い霞は無明妃たちが歩む方向に移動しようとす
る。 
すかさず、板前と“黄泉”と呼ばれた白髪の青年がそれを妨げるように立ち塞が
った。 
「‥‥お前らの相手はこっちだよ」 
「そういうこと」 

足取りのおぼつかない無明妃の、まるで骨がないような柔らかい手をとって先導
するのは才蔵。 
通路側を畳屋がガードする。 
「‥‥わたくし‥‥は‥‥」 
「無明妃様‥‥今しばらく‥‥ご辛抱下さい」 
「‥‥申し訳‥‥ありません‥‥才、蔵、殿‥‥」 
「そんな‥‥」 
「‥‥才蔵‥‥お前、意外と優男だったりするんだな」 
「う、うるさいっ」 
「ふっ‥‥今なら月組に入りたいっつうたら、大佐も考えてくれるんじゃねえか
い?」 
「‥‥‥‥」 
「お前も‥‥可憐とおんなじ、七特向きじゃねえよ」 
「‥‥‥‥」 
「おっと、喋ってる暇はねえな‥‥急ごう」 
「‥‥ああ」 
「‥‥信、也‥‥様‥‥」 
 
 

銀座の街には夜の活気が生まれつつあった。 
先程までは人通りも少なかった銀座の繁華街。 
まるで白い月が導いたかのように息を吹き返す。 

それとは裏腹に死んだように静まり返る、灯りの消えた夜の帝国劇場。 
ロビーには月明りだけがうっすらと灯っている。 
いつもは窓からにじみ出る明りも、外からは全く見えない。 
住人が消えてしまったかのように暗い外壁。 
地下の照明だけが灯っていた。 

地下治療室。 
ポットに横たわる白い蝋燭のような肌のすみれ。そして土気色の山崎。 
脈拍はある。 
ただ、それももう、いつ消えてもおかしくないほどに儚い振幅を見せていた。 
ただ見守るしかない、マリア、アイリス、十六夜、神楽‥‥そして大神。 

「‥‥大丈夫だよね、二人とも‥‥絶対に大丈夫だよねっ!?、お兄ちゃんっ」 
「‥‥‥‥」 
「隊長‥‥わたしは‥‥」 
「‥‥マリア、君は‥‥持ち場に戻れ」 
「え‥‥」 
「作戦は終わってないんだろう?‥‥ここには俺がいるから‥‥」 
「何故、隊長がそれを知って‥‥」 
「タチバナ副司令。ここは花組隊長である自分にお任せ下さい」 
「!‥‥わかりました」 

姿勢を正してポットから離れるマリア。 
少しだけ悲しげにすみれを、山崎を‥‥そして、大神を見つめる。 
それもすぐに厳しい表情に変わる。 
まだ作戦は終わってはいない。 
銀座がこのような結果になってしまった以上‥‥当然、花やしきも青山も、とて
も楽観視出来るものではない。 
花組隊員としての、帝劇の女優としての、そして一人の女性としてのマリア・タ
チバナに戻るのは、全てが終わった後‥‥作戦が終了した後だ。 
マリアは踵を返して治療室を後にした。 

そのマリアをじっと見つめていた神楽。 
銀色の瞳が明らかに殺意を催している‥‥存在を抹消する、神凪の暗い瞳と同じ
く。 
マリアが去って行った後も、神楽はしばらくドアを見つめていた。 
「‥‥神楽さん」 
「え‥‥」 
「山崎には‥‥いや、山崎隊長には言葉では言い表せないほど恩義を受けてい
る。それでも‥‥本来なら彼に直接言わなければいけないところだが‥‥代わっ
て受け取って欲しい」 
「‥‥‥‥」 
「ありがとう‥‥そして、これからも‥‥よろしく頼む」 
「大神‥‥隊長‥‥」 
「山崎は俺たちにとって‥‥もう、家族同然だ。山崎は必要なんだ。今も‥‥そ
してこれからも」 
「‥‥‥‥」 
「絶対に死なせはしない」 
「‥‥はい」 
「それに‥‥来週からは舞台の裏方を手伝ってもらうことになってるからね」 
「‥‥あまり苛めないであげてください。傷つきやすい人ですから」 
「ええ」 
神楽の表情が少しだけ明るさを取り戻したように見えた。 
神凪とは違う、少し照れ臭そうな笑顔‥‥全てを許容させる大神の優しい笑顔
に、神楽はただじっと魅入った。 

そして‥‥すみれに視線を移す大神。 
「‥‥アイリス」 
「グスッ‥‥うん?」 
「‥‥作戦指令室に居てくれないか」 
「え?」 
「‥‥マリアの傍にいてくれ‥‥マリアを一人にさせないでくれ」 
「お兄ちゃん‥‥」 
「‥‥ここは‥‥俺がいるから」 
「でも‥‥」 
「お願いだ‥‥」 
大神の視線を真正面から受けたアイリス。 
涙目で霞がかって見えた大神の表情は、やはり曇ってよく見て取れなかった。 
もしかしたら‥‥お兄ちゃんも泣いてるの‥‥ 
聞けるはずもないアイリス。 
「‥‥うん‥‥わかった‥‥十六夜ちゃん、行こ‥‥」 
「うん‥‥」 
大神だけを見つめていた十六夜。 
勿論、花組隊長をその目で見たのは初めてだった。 
まさに‥‥大好きな龍一兄ちゃん、その人でしかなかった。 
聞きたいこともあったが‥‥アイリスと同じく、今は耐えるしかない。 
二人の天使は大神と神楽、そして眠る山崎とすみれを残して治療室を後にした。 

再び静けさを取り戻した治療室。 
大神はゆっくりとポットに近づき、そして静かにそのカバーを開けた。 
プシュー‥‥ 
うっすらと蒸気が立ち上がる。 
曇った視界に写る戦いの女神‥‥ 
いつか自分の前に白い鳳翼に包まれて見せた、その無垢な姿そのままで。 
月影に受けた傷はどこにも見えない。 
アイリスの放った癒しの霊光は、かつてないほどの復元力をすみれと山崎に与え
たのだった。 
純白の肌。 
神が創った人型だった。 

「すみれ‥‥くん‥‥」 
開け放たれたポットの傍にゆっくりと膝をつく大神。 
まぶたに掛かった栗色の前髪を、まるで壊れそうなガラス細工に触れるように、
そっと避ける。 
長い睫に蒸気が滞って、光の粒が創られていた。 
前髪からその白い頬に手を移す。 
柔らかい肌‥‥ 
それは昨日触れた肌。 
自分のものにしてくれと‥‥望んだ肌。 

「すみれ、くん‥‥すみれ‥‥」 
大神は神楽が傍にいるのも忘れて‥‥泣いた。 
零れた涙がすみれの睫に落ちる。 
まるですみれが泣いているように‥‥ 

神楽の瞳に妖しい光が灯る。 
どうしようもなく不愉快な感情が沸き上がる。 
さっきもそうだ。 
さくらを抱く神凪。 
自分の存在など‥‥まるで気にも止めていないように。 
何故、自分は愛されないのか。 
何故、花組だけが‥‥神凪と大神を占有するのか。 
何故‥‥何故? 
夢魔の見る夢‥‥それはごく普通の少女の見る夢。 
ただ、それが叶えられない現実に対する報復は‥‥普通の少女が為すものではな
い。 
夢魔が与える夢‥‥それは色欲しか満たさない魔界への片道切符。 
今の神楽にとって、敵対するはずの暁連たちと花組との明確な区別はついてはい
なかった。 
自分にとって大切なものを奪うという意味では違いはなかったから。 

神楽は音も立てずに治療室を後にした。 
他にも‥‥確認しておくことがあった。 
 
 

「‥‥大丈夫?、マリア」 
「え‥‥ええ、ごめんね、アイリス、心配かけて‥‥」 
「‥‥早く明日にならないかな‥‥そしたら、みんな、また‥‥元どおりだよ
ね?」 
「‥‥ええ」 
「早く明日にならないかな‥‥」 
アイリスは司令室の壁際に背をあずけて、ただ床に視線を落としていた。 
それを横でじっと見つめる十六夜。 
「‥‥花やしきも青山も大丈夫だよ、アイリスちゃん」 
「え‥‥」 
「だって‥‥花やしきはうちの華月ちゃんがいるし‥‥青山にはお兄ちゃんがい
るもん」 
「‥‥‥‥」 
「アイリスちゃんは知らないだろうけど、すんごく強いんだよ、雪と月の隊長
は」 
「‥‥そうだよね‥‥カンナもついてるし‥‥花やしきには、かすみお姉ちゃん
たちも行ってるって聞いたし‥‥そうだよね」 
「うん。だから‥‥十六夜たちは、みんなが帰ってきたら‥‥ちゃんと元気づけ
られるようにしておかないと‥‥」 
「そうだね‥‥そうだっ、みんなお腹空いて帰ってくるんだ、ご馳走作ろうっ」 
「えっ!?」 
「そうだ、そうだっ‥‥マリア、アイリスと十六夜ちゃん、厨房にいるからね、
なんかあったら放送で呼んでねっ」 
「‥‥ふふ‥‥わかったわ、アイリス‥‥今回はわたしもご馳走になるわ」 
「えへへ‥‥楽しみにしててね。行こう、十六夜ちゃん」 
「ま、待ってよう、十六夜、料理は‥‥」 
「いいから、いいから‥‥」 
アイリスと十六夜の後姿に魅入るマリア。 
少しだけ気が晴れたようだ。 
「ありがとう、アイリス‥‥ん?」 

非常通信用のランプが点滅する。 
非常時以外の通信は禁止‥‥のはずのランプが点滅している。 
マリアはアイリスと十六夜が出て行ったのを確認してから通信に応じた。 

「‥‥こちらは花を愛でる者」 
『‥‥朧月です。そちらに向かっています。花畑で夢の扉を開く者が病に倒れま
した』 
「!‥‥それでは‥‥」 
『月見草は神楽の舞を望んでいます‥‥よろしく』 
「‥‥了解」 
マリアは通信を切った。 
振り替えって治療室に向かおうとすると‥‥ 
そこにはいつのまにか一人の少女が立っていた。 
白装束に赤い袴。 
退魔の巫女は、マリアとは少し違う色の金髪。 
瞳はまるで違う銀色。 
その銀色の瞳がマリアの瑠璃色の瞳を貫く。 

「神楽さん、ですよね」 
「‥‥‥‥」 
「浅草に向かってください。花やしき担当の夢組の方が失調を来したようです。
急いで‥‥」 
「何故、大佐に近づくのですか?」 
「え?」 
「あなたは‥‥大神家には関わりないはず。なのに何故ここにいるのです?」 
「な、何を‥‥」 
「‥‥ロシアで人殺しだけしていればよかったものを‥‥なぜ日本に、帝撃に来
たのですか?」 
「!‥‥あ、あなたは、い、いったい‥‥」 
神楽の銀色の瞳が霊光を帯びる。 
殺意の霊気。 
夢魔の瞳。 
「わたしですか?‥‥わたしは夢組の神楽‥‥神凪大佐と常に共にある者‥‥」 
「え‥‥」 
「それはいい。山崎隊長もあんな目にあって‥‥あなたは何をしていたのです
?」 
「‥‥そ、それは‥‥」 
「山崎隊長は‥‥わたしを‥‥護ってくれた‥‥大切な人‥‥それを、あのよう
な‥‥」 
少女の唇が、妖艶な笑みを作る。 
それが神楽の憤りを物語っていた。 
「副司令などと名ばかり‥‥お笑い草ですね」 
「‥‥‥‥」 
「それとも‥‥指揮をする者は‥‥多少の犠牲には目をつぶりますか?」 
「‥‥‥‥」 
‥‥あなたは隊長失格です‥‥ 
自ら発したあの言葉がマリアの心をよぎる。 
そんなマリアの想いなど、知りたいとも思わない神楽。 
目の前にいる女性は、自分の人生に横たわる邪魔な倒木でしかない。 
それも‥‥共に歩むべき想い人の足をすくう、色づいた倒木だ。 

「それとあの男‥‥月影か‥‥必ず始末してくれる‥‥終末の赤い闇など‥‥夢
に終わらせてくれるわっ」 
これほど激高するのは勿論生まれて初めてだった。 
それをマリアに見られてしまったこと‥‥神楽は舌打ちをして、すぐさま元の鉄
面皮に戻った。 

「‥‥帝撃を守護するのは、わたしたち夢組‥‥大佐に対しても、大神隊長に対
しても‥‥お二人を護るのは‥‥わたし一人で十分‥‥他は要らない」 
「え‥‥」 
「‥‥覚えておいてください。あなたは要らない人間です。必要なのは‥‥大佐
と大神隊長だけ‥‥」 
「‥‥わたしは‥‥要らない?」 
「ふふふ‥‥勘違いがあるといけませんね。あなたは大神隊長を花組の触媒と思
っていませんか?‥‥それは違う。逆よ。あなたがた花組は‥‥大神家の単なる
肥やしに過ぎないんですよ」 
「何を‥‥あなたは何を言ってるのっ!?」 
「ふふふ‥‥大佐の導きによって、大神隊長も目覚める‥‥そう、帝撃はあのお
二人と夢組だけで十分‥‥他は‥‥カスよっ!」 
「神、楽‥‥」 
「ふっ‥‥まあ、せいぜいがんばることですね‥‥あなたがた花組が不要である
ことは遠からず明らかにされるでしょうけど‥‥わたしとあのお嬢さん‥‥十六
夜って言いましたっけ?、あの娘と、そして‥‥斯波さんの三人でね‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「尤も、あのお子様も邪魔者以外の何者でもないわ‥‥それと、斯波隊長‥‥あ
の人も面倒な存在だわね‥‥いずれ決着はつけなければ‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「いずれにしても大佐はわたしが護る‥‥大神隊長もね‥‥その報酬は‥‥ふふ
ふ‥‥あはははははははは‥‥」 

笑ったことのない神楽が声を上げて笑う。 
まるで、青山で大神を拉致した時の暁連のように。 
マリアに背を向け、そして司令室を出る神楽。 
目が笑っていない。 
口元だけが不気味な笑みを形作る。 
それは夢魔が獲物を絡み取った時の勝利の表情にも見えた。 
神凪や大神、そして夢組の仲間たちの前では絶対に見せない狂気の笑顔だった。 

「‥‥花組は要らない?‥‥そんな‥‥そんなはずはないっ!‥‥わたしたちは
‥‥わたしは‥‥」 
ただじっと神楽が出て行ったドアを見つめるマリア。 
そして‥‥ただ、自己嫌悪に陥るしかないマリアだった。 
紅蘭が失踪する前日、そして大神とすみれの逢瀬を目撃してしまったあの日と同
じく‥‥ 
孤独な戦いはマリアを拭い去ったはずの過去へと回帰させた。 
厳冬のロシアで過ごした、あの悪夢の日々へ。 
 



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