<その3> 

「こんな粘土みたいなものがパンになるなんて‥‥知らなかった」 
「ピロシキって言うんだよ。ロシアの‥‥肉饅頭かな?」 
「へえ‥‥そっちの‥‥これ、おでんみたいだけど、何?」 
「え?‥‥あ、それはポトフーだよ」 
「ぽ、ぽとん、腑?‥‥な、内臓とか、入れるの?」 
「pot-au-feu。フランス風のおでんだね。へへ‥‥マリアのボルシチに対抗し
て、今回初挑戦なんだ」 
「ぼ、ぼる質?、す、すごいなあ‥‥アイリスちゃんって、もう花嫁修行とかし
てるんだ」 
「そ、そんな‥‥」 
「‥‥やっぱり、料理とか上手なほうが‥‥お兄ちゃんたちも喜ぶのかなあ‥
‥」 

厨房でいそいそと料理の下ごしらえをするアイリスと十六夜。 
背の低い二人は台座に乗らないと台所仕事は出来ない。 
それもアイリスのために去年の暮れに大神が大工仕事で作ったものだ。 
おせち料理を作ると言って聞かないアイリスに、紅蘭が専用の台所を作ると進言
したのだが、それは大神が取り下げた。みんなと同じ場所でやってもらいたい、
という大神の意向でもあったし、それはアイリスの願いを本質から酌んでやった
結果だった。 
台座には落書きが書かれてあった。アイリスが刻み込んだ相合傘。 
傘の下にたたずむのは当然、大神一郎とイリス・シャトーブリアン。 
さりげなく、その横に‥‥大神一郎と真宮寺さくらバージョンもある、 
さらにその表面にはデカデカと大神一郎と神崎すみれ‥‥ 
どうも、全員が書き込んだようだ。 
アイリスの腕からジャンポールがいなくなったのも、このあたりの時期。 
彼女の料理の腕前はその日から格段に上達したようだった。 

「何人分ぐらい作ればいいのかな」 
「そうだね‥‥ポトフーはいいとして‥‥ピロシキは30人分ぐらい作って」 
「30人ね‥‥ええーっ!?、そ、そんなにっ!?」 
「カンナがいるんだよ。それに‥‥あのお姉ちゃん、えっと、や、夜叉姫ちゃん
だっけ、あのお姉ちゃんも結構食べそうだし‥‥」 
「う‥‥確かに」 
「ふふ‥‥」 

暗い雰囲気の漂う中、厨房だけは明るさを取り戻しつつあった。 
辛いことがあっても、帰る家がある。 
待つ人がいる‥‥そこは帝国劇場。 
それは大神が願ったこと‥‥アイリスに求めていたのは復活の花園そのものだっ
たから。 
 
 

「‥‥腹へった」 
「同感」 
目的地にたどり着いたカンナと夜叉姫。 
着くなり黒い霞の大群と遭遇したが、これは公約通り、斯波が残さず駆逐した。 
亜空間に居を構える実体化する以前の姿を‥‥斬ることの出来ないはずのそれ
を、斯波の剛剣はいとも簡単に一蹴した。横殴りの剣は霞の胴体を二分割にし、
そのまま塵に返した。 
「‥‥すげえ剣だな、斯波さんよ」 
「あの‥‥一応腕のほうも褒めてほしいんだけど‥‥」 
「その剣、何か曰くでもあるんか、斯波の旦那」 
「だから‥‥腕のほうを褒めて‥‥」 
「腹へった‥‥」「全く‥‥」 
「‥‥‥‥」 
無視された斯波は、しょんぼりしながら持っていた筒を最寄りの差し込み口に挿
入した。 
電源ケーブルを接続する。 
筒の頭の部分にある、発光端子が淡く輝き始めた。 
「‥‥これで取り敢えずは大丈夫だ。どうだい、大分静かになったろ?」 
「ありゃ?‥‥確かに‥‥どうなってんだ?」 

もう目の前にまで位置している降魔の死骸。 
数万匹にも及ぶ、その死骸は獣の如く異臭を放っている。 
ここに至る道すがら、壁から発していた吐き気を催す異臭とはまた別だった。 
そこからボウフラの如く湧き出す黒い霞。 
‥‥ここが発生源、出所のようだった。 
湯気のように立ち上がる人型の霞は、降魔の元とも言える人間の胴体部から成り
立っているようだ。 
それも実体化した後の話だが‥‥その腐臭を発する肉片を覆い隠す霞の衣。 
それは降魔の頭部から成り立っていた。 
頭部‥‥即ち降魔本体。 
霊力でのみ駆逐出来るその本体が、如何なる変形を受けたらあのような衣になる
のか‥‥ 
それが不可解ではあった。 
霊力すら通過する異次元の衣。 
それでも帝撃の戦士たちは斬った。 
さくら、すみれ、村雨、そして斯波。 

「これも長続きはしない。そのコアを本格的に稼働させんと‥‥」 
「ちょっと待ってくれ。その前に一応、動作手順を確認したいんだけどね、あた
しとしては」 
「‥‥夜叉姫さんの想像している通りだよ、多分」 
「‥‥確率1/3に命懸けろって?‥‥担当者としては作業マニュアルでも欲しい
くらいさね」 
「さっきから何の話だよ、二人とも‥‥」 

差し込まれた霊子核機関コアユニットに無造作に肘をつく夜叉姫。 
壁のチューブを差し、最寄りの操作盤で何やら照会中の斯波。 
ミカサの眠っていた巨大なホール、その片隅に山積みされている降魔の死骸を暫
し眺めた後、二人の傍まで戻ってきたカンナ。 
「そうだな。それを動かす場合、想定される霊子効果は3パターン考えられるが
‥‥」 
「‥‥結局1/3じゃねえかよ。あたしが操作してる間に逃げたりすんなよ」 
「ふっ‥‥それはいい考えだ」 
「‥‥血も涙もねえヤツ」 
「?‥‥なんだよ、いったい‥‥」 

霊子核機関は元々大型揚陸艦艇用に開発されたもの。 
外部から強制的に霊子力または妖力を採取、これを霊子力または怨霊子力に変換
する。 
乙型霊子反応基盤によって採取した霊子力または妖力を、霊子核機関コアユニッ
トが一度“素”である“霊子”に分解し、そして高密度に凝縮、加速器によって
指向性を得た霊子はコア内部で対に向かい合う霊子銃から放出され衝突する。 
そして霊子と霊子が衝突する際に出す霊的波動。 
これが霊子力と定義されており、実験上での霊子力学の基礎を成すものであり、
また霊子核機関の基本原理となる。 

霊子反応基盤は本来機関制御だけに用いられるものだったが、ある種の“石”を
搭載した乙型と呼ばれる基盤の完成によって、それが制御のみならず大気中に滞
在する霊子力の採取までも行うようになった。 
そして霊子核機関コアユニット。 
霊子の衝突によって生成されるのは霊子波動、即ち霊子力だけではなく、霊子そ
のものも複製される。 
つまり一度衝突した霊子はその子供、孫まで生み出し、衝突が起こる限り殆ど半
永久的に霊子力を生み出すことになる。 
霊子核機関がそれまでの霊子力機関を凌ぐ理由がここにあり、また常に霊力を放
出し続ける霊力保有者を運用条件に加味されない理由でもある。 
勿論これらの話は理論上のものであり‥‥前記霊子分裂に関しても、実際は孫、
ひ孫の霊子は減速しているために衝突確率は世代を追うごとに低下していく訳だ
が。 
このようにして得られる高密度の霊子力は、再び乙型霊子反応基盤に還元され、
今度はコアに直結された霊子力機関ユニットへ伝送される。 
これらの命令セットを実行するために、制御基盤はそれまでの基盤を上回る処理
能力を要求された。大型艦艇にしか用いられなかった理由の一つでもあるが、現
在に至って初期型光武の100倍以上の集積度と処理速度を実現した乙型基盤の
完成と、さらに機関部専用の制御回路を分離することによって、霊子甲冑への搭
載が現実化してきたのだ。 
残るは付属部品‥‥コアの冷却系と強制吸入システムさえ小型化出来れば、機関
部全体の小型化は時間の問題だった。 
空想上の話ではなかった。 
事実先の大戦でも黒之巣会の幹部級が搭乗した霊子甲冑には、霊子核機関の試作
型と呼べるものが搭載されていたのだから。 

‥‥ミカサや翔鯨丸の機関部に使用されているものは初期型で大型の補助部品か
ら構成される。 
しかも制御回路や霊子反応基盤もかなり大型で、帝国劇場地下にある霊子演算機
並み。 
それが大戦終了後に小型化の目処が立ったことにより、霊子核機関を霊子甲冑に
搭載しようという動きも出て当然だった。 
無論、侵略戦争の尖兵として、だ。 
神崎重工総帥の重樹が拉致されたのも、こうした裏付けがあった。 

神崎重工は大戦終了後、聖魔城と共に沈没したミカサの撤収作業を帝国議会の依
頼で実施した。 
その際発見し、秘密裏に回収したのが“神威”と呼ばれた霊子甲冑。 
神崎重工技術陣はその中味を見て驚愕した。 
二基配置された霊子核機関。 
それは神武に搭載される蒸気併用霊子力機関の直列二基型とは意味が違う。 
虚数空間座標に展開する霊子波動を利用する‥‥怨霊子力を用いるということ。 

霊子の衝突の際に出す霊的波動は単一ではなく、理論的には複数に分波する‥‥
つまり、霊子力が正の実空間座標にあると仮に定義した場合、負の座標を有する
帯域、そして虚数空間座標を有する波動まで随伴すると考えられている。 
負の座標にある波動は妖力もしくは怨霊子力とみなされ、霊子力の一部と相殺さ
れる。 
そして虚数空間座標に展開する波動‥‥これが問題だった。 

実空間に展開された虚数霊子波動は、正の霊子力ではなく負の怨霊子力の帯域に
生まれる。 
これがある“しきい値”を超えると霊力が妖力の一部に相殺されるという、逆転
現象が生じてしまう。 
俗に言う“霊力が喰われる”ということ。 

従って霊子核機関を稼働させた場合、斯波が言ったように結果として3の増幅パ
ターンが考えられる。 

非霊力保有者がコアユニットを本格稼働した場合、強制採取された霊的波動によ
って霊子反応基盤が霊子力機関を駆動する。運用者が霊力保有者である場合、基
盤は運用者の霊的波長に同期するよう、強制採取された霊子力を増幅するのが通
常。 
採取する霊的波動の如何に関わらず‥‥つまり妖力を採取しても、これを正の霊
的波動に変換するケースも含んでいる。これが夜叉姫姫が言った1/3の“よい”
結果。 
残る二つはいずれもマイナスにしかならない。 
妖力など、採取される霊子力、その母集団が負の帯域であった場合、分解される
過程で虚数因子を持つ霊子が増加するため、結果的に負の霊的波動‥‥つまり怨
霊子力が生成されてしまう確率が高い。 
現在の状況はまさにこれであり、起こり得る可能性が最も高い。 
“霊力が喰われる”ことによって、運用者の気力を著しく損ない、場合によって
は廃人にされる可能性も否定出来ない。意志そのものが空白になることも有り得
る。これは非霊力保有者も例外ではない。 
最後の一つ‥‥ 
もともと“存在しない”ものを作りあげる訳だから、それにとって代わり消えな
ければならない因子が発生する‥‥古典力学的に言えばエネルギー保存則の上に
現象は成り立つ、ということ。 
過剰な霊的波動は本来存在しないものを生み出す。 
魔界の物の怪を実体化させる等。 
そして、それをキャンセルするために、自然が働きかけることは‥‥ 
運用者の消去。 

「‥‥死ぬときはみんな一緒だよ、夜叉姫さん。いずれにしても‥‥このままで
は先は見えているしね」 
「そりゃそうだ。けど‥‥隊長に会えずに‥‥消えるのは‥‥さみしいよ‥‥」 
「‥‥‥」 
「あ、あたいは隊長のためになるんだったら‥‥別に‥‥構わねえ、よ」 
「‥‥二人とも、そんなに心配することはない。モノさえ手に入ったら‥‥最後
のキー入力は俺がやるから」 
「え‥‥」「おめえ‥‥」 
「俺はそのためにここに来た。これは試験も兼ねているんだよ‥‥」 
「え?」「‥‥‥‥」 

斯波は壁際の作業が一通り完了したらしく、コアの近くで佇む夜叉姫とカンナの
近くに歩み寄ってきた。 
表情はいつもと変わらない。 
氷の戦士。雪組隊長。 

「‥‥ぐずぐずしている暇はない。浅草のほうにも影響が出てるだろうし‥‥お
まけに銀座の状況も見えない。やることは決まっているんだよ、ここに来た時点
でね」 
「‥‥まあな」「そんじゃ‥‥あたいはその、なんとかってのを探せばいいんだ
な?」 
「ああ。ここは夜叉姫さんに頼む。行くぞ、カンナくん」 
「おおっ」「よっしゃ」 
 

 

斯波たちが青山を離れてから30分あまり‥‥ 
無明妃、そして伴をする七特の二人、才蔵と畳屋は青山司令本部の三階‥‥斯波
らが侵入した方角とは反対側に位置する作戦指令室の入り口に到着した。 
その中にある物、あるいは居る者の汚染処理。 
それさえ達成出来れば、後は斯波の結果待ちだ。 

「ありがとうございます、才蔵殿‥‥もう大丈夫ですから‥‥」 
「‥‥あまり無理をしないでください、無明妃様‥‥斯波隊長の帰還を待っても
遅くは‥‥」 
「いえ、銀座のこともありますから‥‥今やれることは、早めに片付けておかな
いと‥‥」 

才蔵の腕に導かれるように‥‥本当の盲人のように歩いていた無明妃は、ここに
至って視界を確保出来たようだった。 
ゆっくりと扉の前に歩みよる。 

畳屋は極太の縫い針の束を、才蔵は真っ白な紙‥‥和紙の束を持って、無明妃の
両脇に配置した。 
無明妃は、ただじっと、目の前の扉を、瞳を見せずに凝視していた。 

「ナゥマク・サマンダ・バザラ・ダン・カーン‥‥」 
「‥‥?」「これは‥‥」 
無明妃は扉の前に左掌をかざした。 
そして右手は胸に‥‥その手には数珠を持って。 
その数珠は無明妃の内側から発する言葉を受けて青白く輝いていた。 
無明妃が唱える無明の言葉。 
唇が動いている訳ではない。 
薄紅色の唇はあくまで少女のまま‥‥微動だにしない。 
にも関わらずその呪文は聞こえてくる。 
耳を塞いでも‥‥ 
瞳を見せずに物を見る無明妃の意思を受け継ぐかのように、耳ではなく魂に刻ま
れる音だった。 

「帰命普遍諸金剛暴悪魔障大忿怒者摧破恐怖忿怒聖語不動明王‥‥」 
「!‥‥不動明王呪だっ!、下がれ、才蔵っ!」 
「!?」 
数珠を持った右手をぐいっと引き寄せ、左掌を扉に当てる。 
無明妃の姿はまさしく不動明王の様だった。 
「‥‥吽ッ!」 

グニャ‥‥ 

扉が歪んだ。 
まるで豆腐か蒟蒻のように。 
そのあたりの空間が起点となる座標を失ったかのようだった。 
畳屋と才蔵は目を擦り、そして今一度しっかりと見開いた。 
「な、なんだ、これは‥‥」 
畳屋が唸る。才蔵はすぐさま無明妃の前に陣取る。 
扉は原形を留めてはいなかった。 
金属の光沢は最早ありえず、有機物が腐ったような茶褐色を呈していた。 
それもはっきりとは判別できない。 
同じ形状を維持出来ないようだ。 

「目に見える物、空にして無相‥‥」 
「え‥‥」 
「そこにある物は‥‥虚構に過ぎません。真の姿は‥‥間もなく現われるでしょ
う‥‥」 
「む、無明妃様‥‥」 
「‥‥斯波殿には申し訳ありませんが‥‥不動明王の力を拝借しました」 
「?‥‥斯波、隊長‥‥ですか?」「それは‥‥いったい‥‥」 
「少し感情的になっていたようです。わたくしの中にある迷いも断たなければ‥
‥」 
「?‥‥?」「?‥‥??」 
「‥‥時間ですね」 
「!」「!」 
横にたたずむ日本人形、無明妃をじっと見つめていた畳屋と才蔵は、すぐに臨戦
体制で正面に向き直った。 
不定形だった“元”扉はいよいよ形を明確にし始めた。 
扉とは名ばかり。 
まるで蛙の口だった。 
巨大な蝦蟇の口。 
悪臭が漂ってくる。それは幻覚ではなかった。 
明らかに有機物の腐った臭い‥‥外見の色にぴったりの悪臭だった。 
このままこの場所に止まっていたら、魂にまで悪臭が刷り込まれてしまいそう
だ。 

「こ、これはたまらんな‥‥」 
「臭い物は蓋をする前に元を断たねば‥‥」 

悪臭の発生元、その蝦口の向こう側に何かがうごめいていた。 
そこは間違いなく指令室だった。 
ただ通信設備と演算機器類が、まるで有機物のような管で覆われている。 
時折ビクッと脈打つ様は心臓か肺のようにも見える。 
正視に耐えない光景だった。 
その肉の操作盤を操るのは‥‥五つの影。 
それも設備の一部と化しているらしい。 
壁から伸びた無数の管が行き着く先が、その五つの影だった。 
動きがカンナと夜叉姫が地下空洞で対峙した“鬼”‥‥を通り超して爬虫類にな
った陸軍将校にも似ていた。 
影の高さにバラツキがある。 
まさにガマガエルのような形態に見えるのもあれば、美しい人影を示すものもい
る。 

黙って見物している訳にもいかない。 
少なくとも影の実体を明らかにする必要がある。 
「!?」「!?」 
だが、蝦口にあたる境界線に足を踏み入れる寸前、畳屋と才蔵は停止しなければ
ならなかった。 
「‥‥‥‥」 
ただじっとその空間を“凝視”する無明妃。 
影が増えた。 
五匹の影の周囲に三つの影‥‥人間にしたはかなり大きい。2メートルはある。 
しかも‥‥羽が生えている。それだけは影でもわかる。 
時折、バサッ、バサッ、という哺乳類のはばたきとは少し違う異音を放つ。 
ギギギギ‥‥という音は、何かをこすりつける音ではなく、その増えた三匹の影
から発っしているようだった。 

「これは、どうも‥‥マズイことになってるな‥‥」 
「‥‥‥‥」 
才蔵は手に持っていた和紙を何気なく放り投げた。 
蝦口に吸い込まれるように和紙が舞う‥‥ 
それは口の中に入るやいなや、鳩に変わった。 
式神。 
和紙に刷り込まれた架空の意識は和紙を和紙とせず、新たな生命を一片の紙に与
えた。 
八枚の和紙から生まれた八羽の鳩‥‥ 
それは鳩にあるまじき飛燕の如き速度で影に襲いかかった。 

ギギッ‥‥ 
ガシュッ‥‥ 
ガッ‥‥ギギィ‥‥ 

「‥‥な、ん、だ‥‥これ、は‥‥紙ぢゃ、ない、か‥‥」 
「くえ、くえええ、くっくええ、食えな、なな、ないい、いいんん‥‥」 
「がぎがぎ‥‥がぎぎ‥‥」 
「‥‥うじゃ、うぎゃぎゃ‥‥あぎゃ?‥‥くわわわ‥‥」 

後から増えた影が最も早く反応した。 
そしてその正体を明らかにすることも。 
後の反応は人間の声のようだったが‥‥ 
しかし一羽の鳩だけは食われることなく、一つの影の肩に泊まった。 
唯一美しさを保っているその影に。 

「‥‥下級でよかったな‥‥しかも中型とは‥‥まだ希望がある」 
「尤も。板前と黄泉がいれば‥‥もう少し確率は高くなるんだが‥‥」 
畳屋は鳩が泊まることを許された美しい影をじっと見つめた。 
記憶の片隅をくすぐる存在。 
思い出そうにも影だけでは‥‥ 
「しかし‥‥あの中央の‥‥あの影は‥‥」 
「‥‥気になるが‥‥始末したほうが早い」 

畳屋と才蔵は今度こそ蝦口に足を踏み入れた。 
が、またしても停止せざるを得なかった。 
「‥‥待ってください」 
止めたのは無明妃だった。 
「後手を踏んで勝てる相手ではありませんよ、無明妃様」 
「畳屋殿‥‥中央の‥‥あの人影を‥‥」 
「‥‥了解です」 
畳屋は縫い針の一本を、無明妃が指示した人影‥‥一際美しいその影に向かって
投射した。 

キンッ 

縫い針は有機物と化した壁の、まだ金属が残っている部分に突き刺さった。 
つまり、影は素通りした、と言うことだ。 
「‥‥私を一番に選ぶとは‥‥たいしたものだわ」 
「!」「女、か‥‥」 
「‥‥貴殿がここの責任者ですね‥‥お名前を聞かせてはもらえませぬか」 
「わたし?‥‥名前なんてどうでもいいじゃない」 
「ギャヒヒヒ」「そう、だ、そうだ」「ウヒウヒヒ‥‥」「ふんぎいい‥‥」 
「‥‥まだ“人間”のままでいられるとは‥‥あなたはいったい‥‥」 
「ふ‥‥無明妃の眼を以ってしてもわからない?」 
「?‥‥‥‥!!!」 
無明妃は畳屋と才蔵の間に割り込み、そして二人の前に滑るように移動した。 
「え?」「む、無明妃様?」 
影は相変わらず影のまま。 
近づくと、その影はかなりの長髪なのは判明した。 
しかも、その身体の線‥‥ 
明らかに女性のものだった。 
「‥‥わたくしの記憶にあるお人なら‥‥このような行いは‥‥」 
「二度としない?‥‥ふふ‥‥そうでもないのよ‥‥」 
「あなたは‥‥本当に人間ですか?」 
「勿論よ。わたしがここにいる訳は‥‥そうね‥‥群青のチャイナドレスを着た
女性は知ってる?‥‥李暁蓮と言うらしいけど、彼女にでも聞いてみるといいわ
‥‥」 
「‥‥‥‥」 

無明妃はさらに前進した。 
三つの影‥‥即ち下級降魔の補足範囲にまで。 
ギガガガ‥‥ 
「い、いかんっ!」「無明妃様っ!」 
「この無明妃を試すとは‥‥ずいぶん出世したものですね‥‥」 
「ふ‥‥」 
「あなたが知っている夢組の無明妃‥‥それが全てとは思わないでください‥
‥」 
「‥‥そうかもね」 
「手加減はしませんよ‥‥あやめさん」 
「なっ!?」「にっ!?」 
「うふふ‥‥」 

影は遂にその姿を現わした。 
美しい影はその真の姿も美しいままだった。 
長い黒髪は肩まで伸びて‥‥風もないのに揺らめいていた。 
全てを許容する優しい瞳‥‥その先には宇宙がある。 
薄紅色だった唇は、いつしか真紅に染まっていた。 
柔らかな輪郭は、さらに妖艶な曲線に。 
軍服に締め付けられたタイトな腰が、見る者の理性を奪う。 

名前は、藤枝あやめ、と言っていた。 
帝国華撃団副司令だった人‥‥本当なら。 

「な、何故‥‥何故、あなたが‥‥」「た、他界、された、はず‥‥」 
唸るしかない畳屋と才蔵。 
七特に所属する人間が、藤枝あやめの名と姿を知らぬはずはなかった。 
米田と神凪の命によって、必ず誰か一人はあやめのガードに従事していた。 
その美しい姿‥‥ 
確かに人間のままで正しい年月を経過した相応の姿だった。 
チャイナドレスの暁蓮に優るとも劣らない。 

「ふふ‥‥お久しぶりね、二人とも‥‥神凪くんは元気?」 
「!!」「!!」 
「ふふふ‥‥司令になったんだわね‥‥」 
「な、な‥‥」「これは‥‥夢では、ない、のか‥‥」 
「うふふ‥‥副司令に復帰するのも悪くないわね‥‥大神くんもいることだし‥
‥」 
「それは無理でしょう」 
無明妃はあやめの目の前まで接近していた。 
周りの、それこそ、あやめとは不釣り合いな人影と降魔には眼もくれない。 
対峙する二人の女性。 
それも対照的な美があった。 
「今はタチバナ副司令がおられます。そしてあなたは‥‥ここで死ぬのですか
ら」 
「あらあら‥‥言ってくれるわね」 
「‥‥あなたがここにいる理由は聞きません。そして何故あなたが再び現われた
のか、も」 
「残念ね」 
「あなたは天使のままでいてください‥‥少なくともわたくし以外の方たちにと
って」 
「天使、か‥‥あなたはわかってくれると思ったけどね、無明妃‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「ふふ‥‥想い人を共有した者同士‥‥」 
「言うなっ!!」 

ギガガガアアアアッ‥‥ 
影のままの物の怪は、無明妃の叫びに触発されたように、その白い身体めがけて
襲いかかった。 

バアアアアアンッ 

「うわっ!?」「な、なんだ!?」 
無明妃の周囲が一瞬歪む。 
空気が悲鳴を上げた。 
金色の稲妻が蝦蟇の体内を走る‥‥それは天の怒りにも似て。 
極寒の樹氷がその内臓に突き刺さる‥‥まるで墓標のように。 
そして地獄の業火が、全ての不浄の物の怪を焼き尽くさんと暴れまわる。 
地面がめくれ上がり、地に円陣を描く。 
無風の室内‥‥いや、体内に突風‥‥神風が起こる。 
生きとし生ける者全てを無に帰す自然の怒り‥‥それが指令室を席巻していた。 

畳屋と才蔵はかろうじて脱出した。 
魔界の入り口、その境界線上に位置していたのが生死を分けた。 
「な、なんてこった‥‥」 
「む、無明妃様‥‥」 
「阿修羅降臨、か‥‥」 
「!!」「!!」 
地獄絵と化した蝦蟇、その蝦口にたたずむ美影。 
あやめは何事もなかったかのように、改めてその美しい姿を二人の前に現わし
た。 

「‥‥夢組五人で使う技なのに‥‥無理しちゃって‥‥そんなにわたしが憎いの
‥‥」 
「あ、ああ‥‥」「ふ、藤枝、副司令‥‥」 
「うふふ‥‥そうよ、わたしは藤枝あやめ‥‥新生する帝撃を率いるのは、この
わたし」 
「え‥‥」「!」 
いかなる状況下に於いても冷静さを失わない氷の戦士たち。 
それが帝国陸軍第七特殊部隊だった。 
そのはずだった。 
それも例外はある、そして彼等も人間だった‥‥という証明がされた。 
畳屋と才蔵は戦場の判断を見失った。 
敵対すれば反応する。 
が、目の前の美女は‥‥敵にはとても思えなかった。 

『‥‥即帰命‥‥本不生如来大誓願虚空無相‥‥』 
その般若波羅密多は地獄の嵐が吹き荒れる蝦蟇の体内から聞こえてきた。 
退魔の巫女の声は如何なる場所に於いても心に染み渡る澄んだものだった。 

「‥‥たいしたものね」 
あやめは蝦蟇だった領域の蝦口だった部分に、相変わらずじっと立っていた。 
すっと目を閉じると‥‥その輪郭は陽炎のようにぼやけた。 

「破邪七滅・魔気功天破ッ!」 

ドーーーーンッ 

蝦蟇の蝦口は内側から大砲でも受けたように破壊された。 
畳屋と才蔵はまたしてもかろうじて回避した。 
あと一瞬遅れたら、肉体の一片も残ってはいなかっただろう。 
そしてその蝦口へ導く通路‥‥そこまで大砲の余波は及んだ。 
通路はその間口をさらに広げることになった。 
その先の壁まで貫通して、夜の青山を映し出している。 

「‥‥話し合いが通じる状況じゃないわね」 
「!」「なっ!?」 
いつの間にか、畳屋と才蔵の真後ろに立つあやめ。 
後ろを取られるなど、勿論初めての経験だった。 
「‥‥撤退するわ。みんなによろしく。じゃあね」 
あやめは風のように立ち去った。 
無明妃が破壊した通路を駆け抜ける後姿‥‥畳屋と才蔵は我を忘れて魅入った。 
そして壁に開けられた穴から‥‥飛び立つ。 
「あ‥‥」「まさか‥‥」 
畳屋と才蔵の眼には、あやめの背中から翼が生えたように見えた。 
黒い翼‥‥だが、その翼は魔界の者の翼ではなかった。 
まるで白鳥が黒く染まったような‥‥翼だった。 
あやめの姿はすぐに消えた。 

「逃げられた、か‥‥」 
「む、無明妃様‥‥こ、これはいったい‥‥」 
「‥‥‥‥」 
ただ呆然と立ち尽くす才蔵、そして我に帰って元蝦蟇だった部屋を見つめ返す畳
屋。 
うっそりと立つ純白の日本人形‥‥無明妃。 
額にうっすらと汗の珠が光る。 
蝦蟇は沈黙していた。 
有機物で構成された壁も干からびて、すぐに塵となった。 
中にいた影も、結局、影のままでこの世を去ったようだ。 
元は人間だったのかも、もう、畳屋の知るところではなかった。 
降魔も無明妃の技に瞬殺されたようだ。 

無明妃が放った技‥‥吽・帝国華撃団・阿修羅降臨。 
あやめが呟いたように、本来は夢組五人によって生まれる。 
隣接しない二人との相関が五芒星を形成、その中央に生まれた高密度の霊力を先
頭の山崎が触媒となって放たれる。 
それは花組の正義降臨と双璧を成す、帝国華撃団最強の退魔の技だった。 
先の大戦末期、聖魔城に突貫した花組‥‥帝都には降魔があふれ出していた。 
花組不在の帝都を守護する帝撃五師団、その最期の壁になったのは夢組だった。 
御所に配置する山崎と四人の巫女たち。 
降魔折伏の究極奥義は、群がった降魔を一瞬で蒸発させた。 
だがその技も未完成でしかなかった。 
夢組の連携は当時はまだ花組のように完全ではなかった。 
その代償は‥‥夢組の崩壊。 
全員、意識不明の重体に陥ってしまったのだ。 

一月あまり経過して夢組は復活した‥‥神楽を除いて。 
日本橋決戦後もそうだったように、神楽は大戦終結後と同時に姿を消していた。 

そして今、無明妃は単独でその技を放った。 
勿論、本来の威力からは程遠いものだったが。 
たかが中級降魔など、最初の電撃で消滅してしまった。 

目的は中途半端ではあったが達成した。 
この作戦指令室から洗脳の“指令”が発せられていたのは間違いない。 
しかし‥‥その中枢にいた人間が‥‥ 

「どうして‥‥藤枝副司令が‥‥」 
「間違えては、いけませんよ、畳屋、殿」 
「え‥‥」 
「帝国、華撃団、副司令は、マリア・タチバナ‥‥花組の、副隊長でもある、彼
女が‥‥帝撃を、そして神凪司令を、支えているんです‥‥藤枝、前副司令は、
既に死亡、されました」 
「‥‥‥」「‥‥‥」 
「そう‥‥藤枝あやめ、は‥‥あの時に死んだ‥‥ここにいたのは‥‥幻‥‥」 
「え‥‥」「あ‥‥」 
無明妃は畳屋と才蔵の前までくると、ふいに二人の手をとった。 
武骨な手。 
そして二人にとってはまさに天女の手だった。 

「ここにいたのは‥‥不浄の物の怪‥‥降魔‥‥そして‥‥亡霊‥‥だけ‥‥」 
「あ‥‥う‥‥」「‥‥は、い‥‥」 
「‥‥それを駆逐したのは‥‥あなたがた‥‥お二人‥‥」 

ピシッ‥‥ 

畳屋と才蔵の脳裏に柔らかな光が閃いた。 
「!‥‥無明妃様!?」 
「!?‥‥ここは‥‥はっ‥‥ご、ご無事でしたか、無明妃様」 
「‥‥‥‥」 
「何とか処理は完了したようですね」 
「‥‥顔色がすぐれないようですが‥‥大丈夫ですか、無明妃様」 
「ええ‥‥なんとか‥‥」 
「取り敢えず戻ろう‥‥こんなところに長居は無用だ」 

無明妃は二人の記憶を操作した。 
かつて山崎がさくらに施した時ほど、状況を留意する必要もなかった。 
上書き出来る要素など、いくらでもある。 
畳屋と才蔵の脳裏に、もはやあの女性の姿はない。 

二人の後ろにつく無明妃‥‥額ににじみ出る汗の珠が少しだけ大きくなってい
た。 
白い顔が青みを帯びる。 
連発して放った大技のためか、無明妃の霊力は枯渇寸前だった。 
そして無表情のはずの顔に奇妙な感情の色が生まれた。 
勿論前を歩く二人には見えない。 
『‥‥何故彼女が復活したのか‥‥しかも人間だった頃の意識とも少し違う‥
‥』 
無明妃はあやめの声に隠された、その深層意識の一部を手探りながら感じ取っ
た。 
天使となったあやめ‥‥それとは違う。 
天使から受け継がれた部分のみが欠落した、純粋な人間の意識‥‥そんな感じだ
った。 
いわば意識が分裂して、限りなく人間的な部分が人間の肉体に宿った‥‥無明妃
はそう結論づけた。 
無論、判断出来る材料は乏しいが、それ以外に考えられない。 
だがいったい何故‥‥なんのために‥‥ 
それに、あの黒い翼は‥‥ 

『‥‥死体は確認されていない‥‥あるいは代替があるのか‥‥』 
大戦終了後、聖魔城を探索した雪組と月組。 
神威と呼ばれる霊子甲冑の残骸を発見し、それは秘密裏に神崎重工に受け渡され
た。 
が、そのコクピットには人の痕跡はなかった。 

『‥‥これは司令に確かめてもらったほうが‥‥‥いや‥‥』 
理由など聞く耳もたず、という態度も、今にして思えば少しばかり後悔の種だ。 
無明妃は、ほんの少しだけ眉にしわを寄せた。 
『李暁蓮と言ったか‥‥その女性に聞いてみるのが一番はやいわね‥‥』 

美しい顔に生まれた不気味な表情は消え、無明妃の顔はいつしか元の日本人形に
戻っていた。 
そして再び悲しい表情に。 
脳裏に刻み込まれた想い人の悲痛な叫び声が、無明妃を我に帰す。 

青山の夢の扉は開いた。 
開けた本人の無明妃にはパンドラの箱のようにも思えた。 
悪が詰め込まれたパンドラの箱、その奥底には“希望”が残っている。 
‥‥あやめの復活。 
夢の扉から飛び立ったのは、果たして希望だったのだろうか。 
 
 



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