<その4> 波の音が聞こえる。 風も先程から強くなってきている。 山の手の高台にまで聞こえるほど、波は高くなっているようだった。 この分では時化になるかもしれない。 蔦の絡まる古い洋館、その二階の窓の一部が開け放たれ、風にカーテンが靡く。 うっすらと漏れる赤い光に混じって群青の光沢が揺れる。 いつもは結っている黒髪も、この時は洗いざらしのまま風に揺れていた。 「‥‥雲が出てきた‥‥雨、か‥‥やだな‥‥」 大神が眠っていたベッド。 その温もりを確かめるように、そこでしばらく横になっていた暁蓮。 波の音が鼓膜に優しく響いた。 おもむろに立ち上がり、窓を開けたら‥‥潮風が入り込んできた。 何故か久しぶりに鼻孔をくすぐる感覚に、暁蓮は窓から暫く暗い家並みを見つめ ていた。 その向こうに横浜の海が遠目に見える。 左手に海岸線‥‥海岸ではなく、もう埋め立て工事が始まっているが‥‥その陸 線を眺めた。 その行き先は帝都東京。 「‥‥横浜は嫌いですか‥‥大神さん‥‥」 一人ごとを呟く。 記憶の中の少年に‥‥さっきまでそこに居た青年に。 コンコン‥‥ 「‥‥休んでるの‥‥明日にして‥‥」 『お食事を用意いたしましたが‥‥召し上がってはいただけませんか、お嬢様』 「‥‥食欲がないの‥‥悪いけど下げてちょうだい、龍塵」 『‥‥下に居ります故、ご用の際は‥‥お茶も用意しておりますから‥‥』 「ありがとう‥‥」 『お邪魔いたしました‥‥お休みなさいませ』 ドア越しに聞こえていた声、その主はゆっくりと一階に降りて行った。 カチャ‥‥ 居間に戻ると、赤い青年が何時の間にかソファに腰を沈めていた。 かなり疲れている様にも見える。 「‥‥お茶でも如何かな、月影殿」 「ありがたいな‥‥所望願いたい」 「今しばらく‥‥」 龍塵が厨房に入って行ったのと同時に、天井を仰ぎ見る月影。 精魂尽き果てるとはこのことだ。 すみれとの戦いでは力は温存しておいた。 なにしろ‥‥銀座には鬼が住んでいる。 その鬼との対峙がこれほど力を削ぐことになるとは‥‥ 二度目の神凪との戦いで肉体を失った月影、精神体の状態でも力の向上を果たし たはずだった。 魔界に入り込み、潜在能力の高い上級降魔を選択的に取り込み、素妖力の大幅な 向上を実現したのは確かだった。 そして風組隊長である月村美影と融合することで、その強大な妖力はそのまま暗 黒の霊力となり、月村の素霊力をも吸収したことも貢献し、これまでにない戦闘 力を得たはずだった。 それが‥‥大神家の闇の力を自覚した神凪の、その真の力を垣間見た末に得られ た結論は‥‥ 「今のままでは駄目だな‥‥五分どころの話ではない‥‥」 天井に向けていた視線を元に戻す。 窓の外。 カーテンの隙間に見える外の景色は‥‥闇。 そしてその闇の世界に時折光の粒が閃く。 雨。 暗い闇を儚げに照らす線香花火のようなその光。 月影は一粒も見逃さんとじっと見つめていた。 「今一歩、いや、二段階の成長が必要だ‥‥」 「‥‥なんのことですかな」 「ん?」 龍塵がトレーを持って居間に姿を現わした。 神凪と神楽を接待した時と同じように。 きっちり跪いて、月影の前にカップを差し出す。 今夜は紅茶ではなく珈琲。 紅茶の渋味が苦手だと、月影は帝都に車で上京した折り、龍塵に漏らした。 じっとそんな龍塵の仕草を微笑みながら見つめる月影。 静かな居間に珈琲の香りが漂う。 「‥‥龍塵殿は職業を変えるべきでしょうな」 「皮肉ですかな」 「いいや、わたしは本気で言っていますよ‥‥‥ん‥‥これは‥‥おいしい‥ ‥」 「お粗末様です」 「ふふ‥‥そうだ、暁蓮様の望みが成就した暁には‥‥ふふふ、紅蘭様と茶店で も開いてはどうだろう」 「な、何を申されるっ!」 「あはははは、これはいい考えだ。うん、わたしも便乗しよう。そうだ、そう だ、杏華様も一緒に‥‥暁蓮様と‥‥紅蘭様‥‥そして、杏華様と‥‥三人で‥ ‥」 明るかった月影の声も、最後は聞き取れなかった。 少しうつむく。 それを見つめる龍塵。 「そして‥‥龍塵殿、貴殿とわたしで‥‥三人をお護りするのだ‥‥」 「月影殿‥‥」 「‥‥神凪大佐と‥‥大神大尉は‥‥場合によっては諦めねばなるまい‥‥」 「‥‥‥‥」 龍塵は月影と斜めに向かい合うように一人掛けのソファに座った。 先程と同じ‥‥神凪の座っていた位置には、今は月影が腰掛けている。 神凪と月影。 どこか似ている。 神凪と対峙した時に感じたことは、やはり間違いではなかった。 本当に美味そうに珈琲を飲む月影を、龍塵は不思議な気分で見つめていた。 「暁蓮様は?」 「ん‥‥お休みになられた。先程まで神凪殿も居られたのだが‥‥」 「‥‥そういうことだったのか」 「‥‥‥‥」 「お食事は‥‥されたのだろうか」 「いや‥‥」 「‥‥そうか」 「‥‥‥‥」 月影はカップを置いた。 ソファに深く腰を沈める。 天井を見つめ、そして閉じる。 群青のチャイナドレスが心に浮かんだ。この地に相応しい海の色。 ‥‥涙の色にも思えた。 「不憫なお人だ‥‥これも‥‥帝撃があるが故に、か‥‥」 「‥‥‥‥」 「‥‥人であるが故に、か‥‥」 「人としての幸せを得ていただく‥‥それが我々に出来る唯一の恩返しだ」 「‥‥そうなのか?‥‥いや、そうだな‥‥杏華様も‥‥」 「紅蘭様も‥‥」 「やはり答えは一つ、か‥‥」 「うむ‥‥」 月影は目を開けた。 月影と龍塵の視線が交錯する。 珈琲を飲み干し、すっと席を立つ二人の従者。 「‥‥手を貸して頂きたい」 「承知している」 「今のままでは‥‥とても暁蓮様の望みは叶えてさしあげることはできん」 立ったままじっとお互いの目を見つめる月影と龍塵。 絡み合う視線で空気が歪んで見えるほどに。 「大神大尉も‥‥今のままなら勝ち目はあるが‥‥あの潜在能力は侮れない」 「‥‥尤も、大神殿が目覚めなくとも‥‥巨大な壁があることに変わりはない が」 「そこで、だ‥‥吸収する獲物‥‥召還すべき相手も選ばなくてはならん‥‥」 月影はそこで再びソファに腰を下ろした。 「かなりの‥‥大物、か‥‥」 「ああ‥‥こっちが逆に消滅するかもしれんが、ね‥‥」 「ふっ‥‥望むところ。それで消え去るぐらいなら‥‥所詮、紅蘭様の従者には 値しない」 「流石は龍塵殿‥‥冥界を統べる者よ‥‥」 「‥‥それも昔の話‥‥紅蘭様に出会う前の‥‥‥‥陸軍はどうする?」 「放置しておこう。帝撃があの程度で破綻を来すとは思えんが‥‥時間稼ぎには なる」 龍塵はカップを片付け始めた。 暁蓮の従者としては行き届き過ぎという気もしないではなかったが。 厨房に向かう龍塵の後姿をただじっと見つめていた月影だが‥‥その日常の風景 が維持できない現状を思い出した。 「おっと、そうだ、引っ越しの準備をしないと‥‥」 「ん?」 「この屋敷は破棄する。場所が知られた以上、後手に回るのは避けんとな」 月影と龍塵は暫し思案した。 格段に向上したはずの自らの力を更に上昇させるつもりなのだが‥‥ それより先にやることがあった。 「そうか‥‥神凪殿は望まなくとも‥‥周りには隠密行動や暗殺が得意な人間も いるようだし‥‥」 「そういうこと。まあ、これまでのわたしたちの行動も似たようなもんだが‥ ‥」 「‥‥場所はどうする?‥‥兵器工場に居を構えて頂く訳にもいかんだろう」 「心当たりがある。この山手の裏‥‥葉山の方角だ。何やら妙な結界が敷かれて いて最初は気付かなかったが‥‥寧ろ好都合だ。住人には申し訳ないが立ち退い てもらう」 「‥‥穏便に願いたいな、月影殿‥‥この地は意外に心根の優しい人々が多い」 「わかっているよ‥‥急ごう。今夜中にセッティングしておかないとな」 「ああ」 月影はメモを残して龍塵と共に屋敷を出た。 眠れぬ暁蓮が客間に降りてきたのは、二人が出払った一時間程後のこと。 そこに書かれていた月影の伝言は‥‥ 暁蓮様 謝罪せねばなりません。 約束を守ることが出来ませんでした。 お許しください。 天塵は既に紅蘭様が持ち去り、かの地に渡ったことが判明しました。 それと大神大尉を拘束しているのは天塵だけではない様子です。 神崎すみれさんの意識を垣間見て、それだけはわかりました。 すみれさんについては‥‥暁蓮様の無念は私が代わって晴らしました。 もう、彼女のことはお忘れください。 今夜は龍塵殿と外出します。 お休みになられているご様子なので、無礼ながらこの置き手紙を以て ご承知おきください。 外出理由はおわかりのことと思います。 すぐに帰還いたします故、身の回りの品々をまとめておいてください。 暁蓮様の大事な物だけで結構です。 では後程。 月影 灯りの消えた居間に月明りが差し込む。 雨の月。 時折雲に隠れ、そしてまた現われる。 月影の置き手紙に月光が被さる。 雨粒が創る影。 その月も暁蓮が居間に来る頃には姿を消していた。 厚い雲と降りしきる雨。 もう星明りも見えない。 同じ横浜。 暁蓮の屋敷がある山手の丘とは反対側‥‥葉山から少し内陸に入った平地に神崎 邸がある。 広大な敷地は樹木で覆われて、しかも高い外壁が取り囲んでいて、外から中を伺 知ることは出来ない。 しかも、どういう訳か、正門前に幹線道路が走っているにも関わらず、行き交う 人々はその外壁に対して関心を払うことはなかった。そこには何もないかのよう に。 翔鯨丸を格納した後、かすみと椿は執事によって客間に案内された。 広大できらびやかな内装は、帝国劇場に優るとも劣らない。 いや、そもそも帝劇には客間など存在しないから、ロビーだけで比較してもやは り神崎邸のほうが上手のようだった。 「すんごい家ですよね‥‥」 「そうね‥‥」 「‥‥あーあ、この部屋の半分でいいから‥‥わたしの借家に分けて欲しいなあ ‥‥」 「わたしなんて、その半分でいいわよ‥‥でも‥‥遅いわね‥‥」 「‥‥由里さんがいるって‥‥なんで神崎家に‥‥」 「それは会って見ればわかるわ‥‥」 暫く待っていると、執事がお茶を持参して再び現われた。 かすみと椿が座る長椅子、その両脇に小さなテーブルがある。 茶器を置くためのテーブルのようだった。 そこに紅茶を置き‥‥かすみのところにはメモのようなものも置かれた。 執事は無言で客間を後にした。 「‥‥なんです?」 「‥‥お茶を飲んだら‥‥三階に上がってきてくれ、って書いてるわ。三階の‥ ‥客室ね」 「?‥‥お茶を飲んだらって‥‥今すぐはだめってことなんですかね」 「どうかしら‥‥とりあえず、出されたものは頂きましょう」 「は、はい‥‥」 かすみと椿は琥珀色に呈した紅茶を口にした。 珍しい色だった。 まるで薄めの珈琲のような色の紅茶は、香りまでも珈琲に似ていた。 「!‥‥ぐふっ、げほっ、げほっ‥‥な、なんですか、これ‥‥」 その珈琲色の紅茶が嚥下された瞬間、椿は咽ばんで苦情を漏らした。 紅茶にあるまじき‥‥ましてや珈琲でもない、鼻にまで刺激を与える味だった。 「‥‥これは‥‥薬草を煎じているわね‥‥月桂樹も入ってる‥‥それに‥‥」 「え‥‥別にわたしは病気なんて‥‥」 「‥‥‥‥」 かすみは暫くじっとその琥珀色の紅茶を見つめ、そして再び口にした。 「だ、大丈夫ですか、かすみさん‥‥」 「‥‥ん?‥‥おいしいわよ」 「‥‥‥‥」 いつもと変わらないお茶を嗜む姿を見せるかすみ。 そんなかすみを横目で見つつ、椿も今一度挑戦した。 「んぐ‥‥んぐ‥‥‥‥うげえ‥‥まっずーっ」 「ふふふ‥‥全部頂くのよ、椿」 「そ、そんなあ‥‥」 カチャ‥‥ 扉が開いた。 入ってきたのは杖をついた初老の男性。 老人と呼ぶには鋭い眼光だった。 かすみはカップを戻し、席を立った。 椿も従う。 「よくおいでくださった。どうせなら劇場の方もみな連れてきて頂きたかったが ‥‥」 「恐れいります‥‥神崎会長」 目を閉じ、少しだけ頭を下げるかすみ。 「ふ‥‥その節は世話になったな、藤井くん‥‥そちらは高村くん、だったな」 「は、はい、あ、あの、お目にかかれて‥‥」 「ふふ‥‥社交辞令はよそう。部屋に案内する。友達ももうすぐ目が覚めるだろ う」 「はい」「は、はい」 忠義に促されるように、かすみと椿は客間を出た。 広い廊下。 そして長い廊下を暫く進み、行き止まりの壁にあたる。 その横には神崎邸には如何にも不釣り合いな梯子があった。 「これは屋上に続いておる。すまんが、この梯子を上ってもらうことになる」 そう言って忠義は杖を口にくわえ、すいすいと梯子を上っていった。 「うわ‥‥」「さすがね‥‥」 三人娘は神凪から指令を受けた直後に浅草へ向かったため、普段着のままだっ た。 忠義の後を追うにも如何にも登りにくそうなかすみ。 下から追う椿。 かすみの生脚を見上げる格好になる。 「かすみさん‥‥」 「うん?」 「‥‥きれいな脚、してますね」 「は?‥‥あ、あんた、何考えてんのっ!?」 「‥‥く〜っ、ええ眺めや‥‥神凪司令にも見せてあげたいわあ」 「こ、この‥‥」 「ぬひひひ‥‥」 火照ったかすみの顔に冷たい滴が落ちてきた。 意外に長い梯子を登りきる。 天井はない。ただ暗い曇天が天井さながら、目の前に広がっていた。 二人が渡った星の海はもう見えない。 冷たい雨。 ぽつぽつと落ちてきた雨粒は見る見る本降りになっていった。 「こりゃ‥‥他の面子にも見せてやりてえぜ‥‥」 ウガガガ‥‥ 青山軍司令本部の裏手。 三匹の降魔と対峙していた氷室だったが‥‥すぐに妙な気配に気付いた。 氷室が動く前に中級降魔はいきなり苦しみ始めた。 何かをした訳でもないのに‥‥ その訳はすぐにわかった。 降魔の表皮に亀裂が入る。 ビリビリと、いやな音をたててその亀裂は頭から背中に走った。 その亀裂の中から、出てきたもの。 それは桃色の表皮を持つ降魔だった。 普通の人間が見たら、即座に嘔吐してしまいそうな光景。 ひくひくと表面が波打つ。 完全に脱皮した桃色の降魔は一段と巨大化した。 妖力も上がっている。 そして、桃色の表皮はすぐに本来の暗い爬虫類の色を呈した。 寧ろ、そのほうがまだ正視に耐えた。 「そこまで俺を試したいかな‥‥化物の分際で‥‥」 一匹の降魔がぼやけた。 そして次の瞬間氷室の目の前に姿を現わす。 ギッ! 物凄い風が起こった。 降魔の鈎爪。 大柄の氷室を真横から襲う‥‥が通り抜けた。 ギッ!? 「‥‥動きが向上してるな‥‥大戦の時より‥‥」 氷室はその降魔の背後に姿を現わした。 ギガッ! 他の二匹が氷室を背後から襲う。 また通過した。 降魔の鈎爪は氷室の残像だけを削いだ。 「そらよっ」 ズンッ! 鉈の如き一撃が降魔の脇腹に炸裂した。 ギガッ 明らかに氷室よりも重量のある準巨大降魔だったが、氷室の剣で10メートルあ まりも飛ばされて壁に激突した。 ギガガガ‥‥ 消滅しない。 が、表皮は意外に脆い。 傷を与えることが出来る。 妖力を格段に上昇させる代償として、強靭だった表皮が大戦以前のレベルまで弱 体化している。 ただし鈎爪は別だ。 爪だけは大戦時のそれをも凌いでいる。 擦違い様にその爪を受けた氷室の二刀、その一本がスッパリと絶ち切られてい た。 「‥‥なるほど、な‥‥こいつが甲冑降魔のベースになっているのか‥‥」 氷室は諸刃の巨剣に霊力を集中した。 大戦時を凌ぐ妖力を有する降魔に手加減などしている余裕はない。 甲冑を込みにしても、花組ですら必殺技を投入するしかない相手だ。 「‥‥へっ‥‥願ったり叶ったり、ってか‥‥剣を持ってる分、こっちにハンデ があるからな」 剣を持つことがハンデになる‥‥ それは氷室本来の技が剣ではない、という意味なのか‥‥ 降魔は三匹同時に姿を消した。 甲冑がない分、速度が増している。 氷室は使い物にならない剣を捨て、残る一本を青眼に構えた。 前に一匹、斜め後方に二匹。 降魔は同時にその鈎爪の射程内に氷室を捕えた。 ギギギギギ 笑う降魔。 皮膚が軟化したためなのか‥‥その恐竜のような口が釣り上がる。 鈎爪が同時に空を凪いだ。 またしても残像。 ギガッ!? 氷室は‥‥空に舞っていた。 「ふははは‥‥死にやがれっ!」 ズンッ‥‥ 氷室が放った一撃は降魔を分断するに留まらず、残る二匹の降魔にまで打撃を与 えていた。 本来は二刀で放つべき技も一本で放った故にか、弧を描くように地面を削り取 り、それが最寄りの降魔にまで波及したようだ。 「天翔十字鳳・弧月。本来なら大神に食らわすところだが‥‥光栄に思えよ、化 物どもが」 ギガガガ‥‥ 嫌らしい口元から絶え間なく涎がしたたり落ちる。 氷室の霊波を受けた痛みなのか、残る二匹の降魔は時折ブルブル震えながらも氷 室に接近してきた。 氷室は今一度剣を構えた。 痙攣しながら歩み寄る不浄の輩‥‥目を覆いたくなる光景だった。 「視界のゴミだな‥‥おめえらもすぐ始末してやる」 一歩踏み出す。 氷室の剣が再び輝きを増した。 降魔は‥‥ 突然動きを止めた。 「?」 鱗に覆われた身体を襲っていた痙攣も鎮まっている。 鉤爪を空に延ばしたまま、人形のように微動だにしない。 「?‥‥はて‥‥改心でもしたか?」 そして降魔はそのまま崩れ落ちた。 鉤爪から身体に沿って順番に。 まず爪がぽろっと落下し、腕が腐るように溶け落ち、そして頭がもげ、身体が粉 になった。 「これは‥‥退魔の業だな‥‥無明さん、じゃない‥‥!‥‥だれだっ!?」 崩れ落ちる降魔の背後‥‥かなり距離があったが、それは人間だった。 氷室の知っている気配‥‥無明妃のそれではなかった。 すっくと立ち尽くす人影。 カッ‥‥ ‥‥ゴゴ‥‥ゴゴゴ‥‥ 雷が鳴った。 一瞬雲間を奔った稲妻がその人影を闇夜に浮かび上がらせた。 美しい人影。 それは女性だった。 腰まで伸びた金色の髪が雨にぬれていた。 瑠璃色の瞳が闇を貫いていた。 雨脚が強くなってきた。 濡れた金髪がまるで彫刻のように瞼にかかる。 マリアとも神楽とも違う、長い金髪。 薄手のブラウスも濡れて、その美しい曲線が浮き出される。 雨と共に地上に舞い降りた月の女神‥‥泡沫の美影身。 だが氷室にとっては、その艶かしい姿も殆ど効果はなかった。 「‥‥何者だ?」 カッ‥‥ ゴロゴロ‥‥ 空が悲鳴をあげた。 再びその白い顔を浮かび上がらせるために。 「わたしは冬湖‥‥」 「ふゆ、こ‥‥?」 「‥‥麗一様の側近」 「れい、いち‥‥」 「そのお方は破壊神‥‥無の世界の使者なり」 「!!!‥‥貴様‥‥四季龍の冬湖かっ!?」 氷室は思わず身構えた。 樹氷のような雰囲気を発散させる雪の精霊‥‥それが女性の形をとって顕在化し たように思えた。 マリアとは明らかに違う。雪娘とは違う、雪の女王のようだった。 いつの間にか氷室の目の前まで接近していた。 黒い龍に従うのは、やはり四季を司る龍の化身だったらしい。 帝国三軍及び帝国華撃団のいずれにも属さない、神凪直属の四人の戦士。 正式名称、国連査察部・特務工作課・零四季辺境遊撃隊。 通称、四季龍。 賢人機関の裏で暗躍する暗殺集団、というまことしやかな噂まで帝撃では流れて いたが、実際はその賢人機関ですら手を出せない存在だった。 かつて神凪がアイリスをスカウトしようと試みたのも、この部隊の人材確保のた め。 今や世界中に広がる賢人機関網も、結成初期は難題が蓄積していた。 特に命令系統が行き届かない末端部。時として“癌”に犯されていることもあっ た。 完全無欠と思われた団体に腐食が発覚したのは李紅蘭が発見された頃。 賢人機関は紅蘭を発見すると同時に監視を開始、そして能力を確認したと同時に あやめをスカウトに要請した‥‥が、あやめが中国に到着する直前、監視してい た偵察部隊が造反したのだ。 紅蘭の有する霊的才能がそれまでの事例とまるで違うことに気づいた賢人機関の 偵察班は、保護するよりも“消費”すべきという判断を下した。紅蘭の発する不 可解な力が“賢人”にはあるまじき俗物的な部分、その私利私欲を刺激してしま ったのだ。 喰らえば神になれる‥‥と。 まだ10歳を少し越えたばかりの紅蘭‥‥偵察部隊は獣と化した。 ‥‥しかし、彼らは目的を果たすことは出来なかった。 野獣から紅蘭を護ったのは四方を司る神の獣‥‥まさに人の形をした四神獣だっ た。 雪が降る北京。雪の中で海の色のような瑠璃色の瞳が映える冬湖。 そしてもう一人は‥‥少年?‥‥だった。 紅蘭よりも幼い、銀色の髪にやはり瑠璃色の瞳。 何故か真夏の満月を思わせる‥‥少女のような華奢な身体つきの、まだ10歳に も満たない子供だった。自分の身長よりも巨大な双槍を棒切れのように扱う子 供。 四季龍は偵察部隊のみならず当時の賢人機関中国支部のメンバーを一人残らず暗 殺し、そしてまた散っていった。この時点で四季龍はまだ二人しかいなかったが ‥‥いずれにしても癌の除去は徹底された訳だ。 疑わしきは抹殺。 それが四季龍の四季龍たる所以であり行動指針だった‥‥七特とは根本的に違 う。 音信不通となった支部に送られてきたのは賢人機関アメリカ支部の人間。 彼は即座に中国支部の一部が賢人機関として機能しなくなっていたことを認識、 そしてその処理を行ったのが‥‥賢人機関が最も危険視していた人物の部下であ ることも見抜いた。賢人機関が神凪の存在に気づいたのも、この事件のわずか数 ヶ月前だった所為もある。 あやめには勿論報告されなかったが‥‥ 国際連盟の裏認可を受け、超法規的保護の下に世界中で対降魔迎撃活動を実践す る四季龍。 帝国華撃団の世界版であり、従って個人に要求される能力は帝撃五師団全ての素 養を満足していることが前提になっている。 四季龍が通った後は一片の草も残らない。 四季龍が戦う相手は必ずしも妖魔や悪霊の類だけではなかった。 四季龍の存在が帝撃で認知されているのは、七特と兼任している秋緒と、今氷室 の目の前にいる冬湖の二人に由来する。残りの二人の情報は全く闇の中‥‥無論 当時紅蘭が接触した今一人の銀色の髪の少年?は秋緒とは別人のようだ。 そしてその片鱗を知る者は帝撃五師団には、これも二人しかいない。 それは花やしきでペアを組んだ二人‥‥銀弓と可憐。 何れも冬湖との繋がりだった。 可憐と冬湖の出会いは神凪とのそれにリンクしている。 つまり冬の横浜。 斯波が秋緒のことを知っているのは、可憐からの七特の情報によるもの。 そして氷室が冬湖と言う女性の存在を知っているのは、銀弓の話によるものだっ た。 雪組の亜流と言われながら、その雪組に匹敵する戦闘力を持つ女戦士。 夢組の為す退魔の技、それをいとも容易く振るう巫女。 月組の忍びの術をもコピーするくノ一。 風組の移動能力を単独で実践する女豹。 銀弓が月組隊長に赴任してすぐ中国に渡った折り、神凪と出会う前に遭遇した女 性。 氷室は銀弓に対して戦闘力だけでも一目置いていたが、その銀弓をして苦汁を舐 めた相手だった。銀弓風塵流をまるで稚技のように手玉にとる鬼神のような女 性。 まさに神凪の側近。 それが四季龍の冬湖だった。 「あなた‥‥氷室さん、ね‥‥」 「こ、紅蘭のガードをしていたんじゃ‥‥何故、ここに‥‥日本にいるっ!?」 「‥‥紅蘭が言っていた‥‥帝撃屈指の技術屋にして、雪組の特攻隊長‥‥」 「うぬぬ‥‥紅蘭は‥‥紅蘭はどうしたんだっ!?」 「‥‥おさげ髪のかわいい娘‥‥あなたもファンなの?」 「貴様‥‥」 「‥‥話し込んでる暇があるの?‥‥無明のお姫様は‥‥心配じゃないの?」 「!‥‥弁明の筋書でも用意しておけ‥‥紅蘭に‥‥何かあったら‥‥貴様は‥ ‥」 「女を脅すなんて‥‥酷い人‥‥そんなムキにならなくたって‥‥いいじゃない ‥‥」 「‥‥帝撃をナメるんじゃねえよ‥‥死にてえかっ!?」 氷室は踵を返して走った。 冷たい雨の中を奔る。 仲間に対して敵意を持ったことなど一度もない。 どんな状況下に置かれていても。 決して仲間を蔑むことはない。決して期待を裏切らない。 そして仲間を見捨てることなど絶対にない‥‥それが雪組の氷室柿右衛門だっ た。 氷の戦士たち、その雪組の中で最も熱い男だった。 それは氷室を知る帝撃の人間全てが納得している。 その氷室が‥‥あからさまに殺意を催した。しかも女性に対して。 『あれが本当に四季龍の冬湖だとしたら‥‥紅蘭は‥‥』 冬湖のことは気にはなったが、今は無明妃たちのほうだ。 先ほどの破壊音も爆発物によるものではない。 明らかに霊的作用によるものだ。 氷室の姿はすぐに見えなくなった。 その後姿をじっと最後まで見つめていた冬湖。 「なかなか‥‥いい子がいるみたいね、帝撃は‥‥」 ゆっくりと歩き出す。 濡れた金髪が瞼にかかる‥‥その奥で輝く、瑠璃色の瞳。 「大陸にも面白い輩はいたけど‥‥ここはどうなってるのかな‥‥」 そして走る。 風組の移動力を持つ四季龍。 風組隊長だった月村美影は、月組を凌ぐ駿足をそのまま月影に与えた。 冬湖はその月影に匹敵する脚力を持っていた。 帝撃最速の脚を持つ銀弓に肉薄する速度だった。 「麗一様に会うのも久しぶり‥‥でも‥‥約束が先ね‥‥」 風と雨でブラウスが煽られる。 胸の谷間に流れ込む雨粒‥‥ その雨粒の行き着く先には‥‥時計があった。 紅い時計‥‥ 時計に付着した雨が、まるで血の色のように変色する。 時計から命を与えられたかのように。 紅い時計が時を刻む。 それは“月影”という名の懐中時計。 心臓の鼓動にも似た音が、冬湖の胸に紅い少女の意思を伝えていた。
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