<その6> 

雨が降る。 
銀座の街燈が霧に滲んだ。 
時折走る蒸気自動車が水しぶきをあげる。 
ヘッドライトが靄の中に煙る。 
雨の銀座。 

雨音は優しい子守歌。 
‥‥日本には四季があるのよ‥‥ 
いつだったか‥‥そう、初めての来日、その船の中であやめが呟いた言葉。 
‥‥雨もいろいろ‥‥春雨、五月雨、霧雨、雷雨、秋雨‥‥そして冬の雨は雪に
変わる‥‥ 

アイリスは厨房の窓を少しだけ開けて、銀座の街並みを覗き込んだ。 
じめじめした夏の雨は嫌い。 
でも秋雨や冬の雨は好きだった。 
優しい雨音。 
いつも子守歌のようにアイリスを眠りに誘った。 

今は少し違う。 
雨は全てを洗い流してくれる神様の涙。 
きっとそうだ。 
だから‥‥明日になれば‥‥きっと‥‥ 

「ねえ、アイリスちゃん、この後はどうしたら‥‥」 
「‥‥え?」 
「もう、ちゃんと聞いてよう‥‥」 

十六夜はようやく30人分のピロシキを作り上げていた。 
本来は油で揚げるものだが、今回のピロシキはオーブンで焼くことにした。 
二人とも揚げ物は苦手だ。 
というより、アイリスは厨房に入る条件として“揚げ物は禁止”というマリアの
言葉に従って一度も作ったことがなかったからだ。流石に大量の油を熱して万が
一のことがあったら大変だ。 
十六夜はそれ以前に料理というものをしたことがなかった。 
今回が初体験だ。 
そして自分と同じ年代の‥‥しかも自分とうり二つの少女と、こうして話すの
も。 
友達。 
その言葉の意味を初めて知った。 

「ね、ねえ‥‥」 
「うん?」 
「えと、えーと‥‥あ、あの、お兄ちゃん‥‥な、名前、なんて言うの?」 
「お兄ちゃんって‥‥え‥‥お兄ちゃんのことっ!?」 
「だ、だから‥‥お兄ちゃんの名前、お、教えてよ‥‥」 
「お兄ちゃんはっ、アイリスのお兄ちゃんなんだからねっ、十六夜ちゃんには、
あの金髪のお兄ちゃんがいるでしょっ」 
「な、名前を聞いてるだけだよう‥‥ね、ね、教えて、ね」 
「‥‥大神‥‥一郎」 
「おおがみ‥‥いちろう‥‥一郎兄ちゃん、かあ‥‥」 
「む‥‥お兄ちゃんはアイリスのお兄ちゃんなんだからねっ、くどいようだけど
っ!」 
「はああ‥‥いいなあ‥‥龍一兄ちゃんと‥‥そっくりだあ‥‥」 
「き、聞いちゃいない‥‥」 
アイリスと全く同じエプロンをして、出刃包丁を握り締める十六夜。 
その包丁の峰に頬擦りしてうっとりとする。 
むっとするアイリスは窓を閉めて、再び台所に向かった。 
玉葱と豚肉のカタマリを凝視する。 
「さあっ、続きをやるよっ」 
「はああ‥‥え?‥‥ま、まだ作るの?」 
「そうだよ。よく考えたら‥‥こんだけじゃ絶対足りないもん。カンナもお兄ち
ゃんも、それにお兄ちゃんのお兄ちゃんも‥‥すんごい食べるんだから」 
「そ、そっか‥‥うん、よしっ、十六夜、がんばるっ」 

二人は再び台所に向かった。 
十六夜が包丁で豚肉を細切れにする。 
アイリスは玉葱をみじん切りにする。 
十六夜は肉団子を煉瓦亭で食べた経験もあって、そのプロセスを踏んでいると勘
違いした。 
確かに肉団子にしては豚肉のサイズが大きすぎる。 
「違うよ」 
「え?」 
アイリスが先手を打った。 
「今回のポトフは野菜メインだから‥‥ひひひ、メインディッシュは新作に挑戦
するんだ」 
「え‥‥肉団子じゃ、ないの?」 
「ふっふっふ‥‥これでお兄ちゃんもメロメロよ‥‥‥アイリス、もうお嫁さん
に行けるよね‥‥お兄ちゃんのお兄ちゃん‥‥あ‥‥そうだ、そうなったら、お
兄ちゃんのお兄ちゃんじゃなくて‥‥お兄様って呼ばなくっちゃだめなんだ‥‥
それで、お兄ちゃんのことは‥‥うひひひひ‥‥」 
今度はアイリスが玉葱に頬擦りしてうっとりとした‥‥当たり前だが泣きなが
ら。 
「な、なんなのよ、いったい‥‥」 

トントン‥‥トントン‥‥ 
規則正しい音が厨房に響く。 
十六夜の手並みは、料理は初めてと言うわりには見事だった。 
横で見るアイリスも唸る。 
ポトフの火加減を調節しつつ、追加の料理に励む。 

ふいに気配を感じた。 
十六夜が奏でる包丁とまな板の音も途切れる。 

振り向くと‥‥厨房の入り口に立っていたのは、ずぶ濡れの女性。 
マリアの髪よりも少し銀色が強めの金髪。 
プラチナブロンドの髪。 
それが濡れて目元にまでかぶさる。かすかに見える瞳は瑠璃色‥‥海の色にも見
えた。 
濡れた白い生成りのシャツは身体にぴったりと張り付いて、未だ幼さの残るアイ
リスと十六夜をして嫉妬心を刺激した。 
そのシャツの胸元‥‥胸の谷間にそこだけ赤い光を放つものがあった。 
ペンダント?‥‥違う。 
アイリスはその紅く輝くペンダントのようなものに暫し魅入った。 

「だれ?」 
「‥‥冬湖」 
「ふゆ、こ‥‥!」 
十六夜の目が輝く。 
遠い記憶を呼び覚ましたかのように。 
「‥‥あなた‥‥四季龍の冬湖、ね‥‥」 
「十六夜、だったわね‥‥そちらは、アイリス、でしょ‥‥」 
「何しに来たの?」「‥‥‥‥」 
「‥‥そんなに冷たくしないで‥‥少し暖めさせて‥‥」 
「あ‥‥ま、待ってて、今お茶を‥‥」 
「いいのっ、アイリスちゃんっ‥‥この人には‥‥余計なお世話なんだからっ
!」 
「そんな‥‥風邪ひいちゃうよ‥‥」 

アイリスは台所から離れ、壁際の棚に置かれた茶筒を取りだした。 
お茶を入れるのはあまり得意ではないが、それでもすみれからは及第点をもらっ
ている。 
十六夜は少しむっとした表情で冬湖を見つめた。 
そんな十六夜を見て、冬湖は少しうつむいた。 
嫌われるのは慣れている。 
でもこんな幼い少女にまで冷たい目で見られるのは‥‥流石の冬湖も辛かった。 
身に覚えがない訳ではない。 
大戦中、孤立した夢組。 
その大元の理由は‥‥神楽と、そして‥‥この冬湖だった。 

ポトフとピロシキの香りが漂う厨房。 
新茶の香りがうっすらと漂い始めた。 
「いい香り‥‥ここが帝国劇場、か‥‥」 
厨房の床に腰を下ろす冬湖。 
服から滴り落ちる雨水で、冬湖がうずくまる床には水たまりが出来ていた。 
「はい‥‥」 
「ありがとう‥‥」 
「あ、あの‥‥着替えたほうが‥‥」 
冬湖はアイリスから湯飲みを受け取った。 
一瞬手が触れる。 
「!!!‥‥あ、あなたは‥‥」 
「‥‥花組の癒しの巫女は‥‥人のこころがわかる‥‥人の痛みがわかる‥‥麗
一様が、そして紅蘭が言っていたとおりね」 
「紅蘭を‥‥紅蘭のことを‥‥」 
「え‥‥どういう、こと?」 
十六夜も台所から離れて冬湖の近く、アイリスの横に来ていた。 
湯飲みに口をつける冬湖。 
血の色の唇。 
冬湖がお茶を嚥下するのにつられて、アイリスも思わず生唾を飲み込んだ。 
「‥‥おいしい」 
「よ、よかった‥‥」 
「ねえ、アイリス‥‥」 
「うん?」 
「あなた‥‥わたしと一緒に来ない?」 
「え‥‥」 
「わたしと一緒に‥‥もっと自由な場所へ‥‥」 
「自由って‥‥」 
「ここから離れて‥‥帝劇から‥‥帝都から離れて、もっと広い世界に‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「きっとあなたも変るはず‥‥そして、わたしも‥‥」 
「‥‥アイリスが‥‥篭の中の小鳥だ、って言うの?」 
「‥‥‥‥」 
「今のアイリスは子供の頃とは違うよ。アイリスはもう自由だよ‥‥今のままが
一番幸せだよ」 
「‥‥‥‥」 
「アイリスは一人じゃない。アイリスのことを必要だ、って言ってくれる人がい
る。そして‥‥アイリスの大好きな人たちが‥‥ここにいる」 
「‥‥‥‥」 
「ここはアイリスのおうちなの」 
じっとアイリスの瞳を見つめる冬湖。 
そしてアイリスも冬湖の瞳を見つめた。 
冷たい海の色。 
そして温かい草原の色。 
「‥‥そっか‥‥そうだね‥‥」 
冬湖は堅い壁に背中を預けた。 
壁も濡れる。 
冬湖の服は乾く気配すらなかった。 
体温などないのかもしれない‥‥ 
「麗一様が‥‥あなたに拘った理由がよくわかった‥‥」 
「?」 
「あなたがいてくれてたら‥‥きっと四季龍も‥‥」 
「ね、ねえ、お姉ちゃん‥‥着替えようよ。ほんとに風邪ひいちゃうよ」 
「‥‥ありがとう、アイリス‥‥」 
「じゃ、じゃあさ、衣装部屋に行こ。あそこなら、サイズもいっぱいあるし‥
‥」 
「うん‥‥」 
「あ、十六夜ちゃん、すぐ戻るから、火加減見ててね」 
「ア、アイリスちゃん‥‥」 

一人厨房に残った十六夜。 
少しうつむく。 
いつだったか‥‥そう、二年前‥‥日本橋決戦の後もそうだった。 
夢組のせいで月組の仲間が死んだ‥‥そう十六夜は思っていた。 
神楽という女のせいで‥‥龍一兄ちゃんの次に好きだったお兄ちゃんが死んだ。 
十六夜は夢組を恨んだ。 
いや、殆どの帝撃要員は夢組の存在を疎ましく思っていた。 
それも大戦の終了時には‥‥ 
なんとなく胸がモヤモヤする。 
大嫌い、が、そうでもないんだ、と気づく瞬間。 
認めたくない‥‥でも本当はそうじゃない。 
ほんとは仲良くしたい。 

十六夜は床に向けた視線をアイリスが言ったように、火の元へ戻した。 
火加減を見ててくれ、と頼まれた。 
友達が頼んだ。 
心の底では‥‥アイリスのようになりたい、そう願っている自分にも気づいてい
た。 
ついさっき出会ったばかりの少女のように、と。 

「ごめんください‥‥」 
「え‥‥」 
声が聞こえた。 
厨房の入り口に立つのは‥‥今度は青年だった。 
逆立った髪形、少し赤い目。 
「あ‥‥れ?、アイリスかと思ったら‥‥」 
「あ‥‥あの、あの‥‥」 
「挨拶が遅れてごめんね。俺は大神一郎‥‥花組の隊長をしてます。いつもはモ
ギリだけどね」 
「わ、わた、わたしは‥‥は、葉山十六夜と言います」 
「十六夜さん‥‥月組の十六夜さんだね。よろしくお願いします」 
「は、はいい‥‥」 
「少し落ち着いたから見回りをしてたんだけど‥‥一人なの?」 
「う、うん‥‥」 
「アイリスは?」 
「い、衣装部屋に行ったよ」 
「そっか‥‥ん?‥‥もしかして、料理してるのかい?」 
「う、うん」 
「へえ‥‥よかったら俺にも食べさせてくれる?」 
「う、うんっ」 
「ありがとう。楽しみにしてるよ‥‥じゃ、また後でね」 
「あ‥‥」 

大神は厨房を立ち去った。 
そのままロビーへ。 
十六夜はまた一人になった。 
だが、今度はもう少しうれしい余韻が残った。 
「龍一兄ちゃんとそっくり‥‥声も‥‥笑顔も‥‥」 
十六夜は再び包丁を握った。 
厨房に規則正しい音、懐かしい音が蘇っていた。 
 
 

「ほら‥‥これなんか、どう?」 
「サイズが合うなら‥‥」 
「にひひ‥‥」 
「?」 
衣装部屋でアイリスが冬湖に手渡した替えの服。 
新緑の服だった。 
照明に反射して、その生地は虹色に回折していた。 
表面に何かコーティングしているようだ。 
「これは‥‥チャイナドレスね‥‥」 
「そうだよ。実はそれ、紅蘭のなんだ」 
「え‥‥」 
「さくらが紅蘭のために作った冬用のチャイナドレス。袖が長いでしょ?‥‥紅
蘭って年中袖のないチャイナドレス着るもんだから、冬になるといっつも鼻水流
してるんだよ。だからアイリス言ったのよ、ちゃんと‥‥」 
「‥‥クスッ」 
「あ‥‥」 
冬湖の笑顔。 
意外にも子供のような笑顔だった。 
笑ったことのない不器用な表情に浮かび上がる純真で無垢な笑顔。 
それはアイリスをひどく感動させた。 

「若草色は紅蘭のもう一つの色。そしてアイリスの色でもあるの‥‥アイリスと
紅蘭はいつも一緒にいるようにって‥‥さくらに頼んだの」 
「‥‥そうなんだ」 
「着てみて。きっと紅蘭も、それにさくらも喜んでくれると思う」 
「‥‥ほんとに?」 
「うん。アイリスが約束する。そしてアイリスが‥‥その服を着ることを認める
から」 
「‥‥‥‥」 
アイリスの言葉は、きっとまわりの人間が批判した時のことを考えてのことだろ
う。 
冬湖はそんなアイリスの優しさもすぐに理解した。 
紅蘭が一番大好きな少女。 
分隔てなく、全ての仲間たちに同様の信頼を与え、そして得る紅蘭だったが、そ
んな中で一番大切に想っていた少女がアイリスだった。 
‥‥もし‥‥アイリスが涙を見せたら‥‥友達になってあげてな‥‥冬湖はん‥
‥ 
共に‥‥辛い人生を歩んできた者同士。 
それを決して表に出さない少女たち。 

新緑のチャイナドレスをぐっと抱きしめてアイリスを見つめる冬湖。 
悲しい過去が拭われていく気がしていた。 
「ありがとう‥‥ありがとう、アイリス‥‥」 
「う、ううん‥‥じゃ、じゃあ、アイリスは厨房に戻るから‥‥着替えたら来て
ね、ふ、冬湖お姉ちゃん」 
「冬湖、でいいよ、アイリス‥‥」 
「ふ、ふゆこ、ちゃん‥‥じゃ、じゃあねっ、また後でねっ」 
アイリスは真っ赤になって衣装部屋を出ていった。 
冬湖はそんなアイリスの後姿をじっと見つめて、そして新緑のチャイナドレスを
再び見た。 
若草色は紅蘭の色。そしてアイリスの色。 
赤、黄、緑‥‥それは自然の色を司る三原色。 
全てがそこから始まる。そしてそこから生み出される。 
「優しい色‥‥わたしに似合うのか、な‥‥」 
濡れた服を脱ぐ。 
滑らかな肌。透き通るような柔肌はまるで雪のようにも見えた。 
背中を除いて。 
冬湖の白い肌、その背中には傷があった。 
村雨の傷にも似ていた。 
ただ違うのは、冬湖の傷は明らかに人為的に創られたものだった。 
いや、傷というより、入墨に近かった。 
それは‥‥十字架の形をしていた。 
そしてその十字架の頂点、北を示す位置には、まるで蝙蝠のような刻印が施され
ていた。 
 
 

低気圧が帝都を覆った。 
翔鯨丸が飛び立った時には満天の星空が広がっていたが、それが嘘のように厚い
雲で覆われてた。 
全てを隠す雲。 
霧雨が本格的な大雨になっていた。 
風が少し出てきている。 
厚い雲もゆっくりだが北へ流れて行く。 
風がくる方角、地平線の向こうには雲は見えない。 
明日になれば晴れるだろう‥‥ 
椿とかすみは空を見上げてそう思った。 
雨が二人の髪を濡らした。 
「さ、入りましょう」 
「はい‥‥」 
横浜神崎邸は三階建てになっている。 
表から見ると屋根も見える豪華な洋風建築の家だったが、その屋根に隠れるよう
に細長い屋上が創られていた。幅10メートル程度。その行き先には、小屋、と
いうにはあまりにも頑丈そうなコンテナのような納屋があった。 
神崎忠義は先に入っていた。 
窓はない。 
そこに何があるかは外から伺い知ることは出来なかった。 
そしてこの部屋に入る手段は、先の梯子を使うしかないこともわかった。 

ギ‥‥ 

椿とかすみは重い扉を開けて中に入った。 
扉を開けると、また扉があった。 
二重構造になっている。扉と扉の間、狭い空間を為す壁には何か妙な文字列がび
っしりと書き込まれていた。 
「なんでしょうね、これ‥‥」 
「‥‥退魔の呪文かもしれないわ‥‥以前、光武の装甲に呪文処理をしていたの
を見たことがあるんだけど‥‥夢組の女の人、確か、夜叉姫さん、だったかな
?、あの人が描いていた呪文によく似てる」 
「へえ‥‥」 
そして二つめの扉を開けると、今度こそ部屋の中に入ることが出来た。 
意外に広い。 
十二畳‥‥しかも二階建てのようになっている。 
「よく来てくれたね、二人とも‥‥狭いが、少し我慢してくれ」 
迎えたのは、翔鯨丸で通信を送ってくれた人‥‥神崎重樹だった。 
「あ‥‥お邪魔します」 
「友達はまだ眠っている‥‥目が覚めるのはもう少し時間がかかりそうだ」 
「あの‥‥由里はいったい‥‥」 
「‥‥来てくれ」 
重樹はその二階構造の部屋の一階部分‥‥屋上から入った訳だから、神崎邸全体
から見れば、三階にあたる位置の部屋に降りて行った。勿論通常の三階通路か
ら、その部屋に入ることは出来ない。 
下に降りていくと、忠義がいた。 
ベッドの枕元。 
ベッドには人が横たわっていた。 
くせのある髪形、切れ長の眉、長い睫毛、柔らかそうな頬、そして唇。 
眠っていても変わることのない美しい人。 

「由里‥‥」「由里、さん‥‥」 
「なんとか上手く行ったようだが‥‥後遺症が残るかもしれんな」 
「‥‥記憶を司る部分は?」 
「そこは問題ない。心配なのは‥‥この娘の‥‥眠っている力が健在化するかも
しれん、ということだな」 
「‥‥風の踊り子の、ですか?」 
「ああ‥‥」 
「あ、あの、いったいどういうことですか?」 
忠義と重樹の話の内容がまるで見えないかすみが、たまらずに聞いた。 
そもそも何故、由里がこのような状況に陥ったのかがわからない。 
「‥‥月村、という青年のことは知ってるだろう?」 
「!‥‥た、隊長が関係しているのですかっ!?」 
「経歴は不明だが‥‥少なくとも、月村の意志が入り込んでいることは間違いな
い。ただ‥‥それが本当に月村という青年‥‥風組隊長によるものなのかはわか
らん」 
「え‥‥」 
「間接的だが精神操作を受けたんだよ。それは治療出来た。ただそれらの過程で
‥‥彼女の埋もれていた力に触れてしまった‥‥」 
「由里の力?‥‥それは‥‥」 
「風の踊り子‥‥風を呼び、嵐を呼び、風神と雷神を召喚する‥‥そして岩に隠
れた天照大神をひっぱりだすのさ。まさに巫女、だな‥‥恐らく月村隊長ですら
気づいてなかったんじゃないかな」 
「?‥‥よくわからないんですけど‥‥」 
「‥‥あるいは、このことは起るべくして起ったのかもしれん」 
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 
「もしかしたら‥‥君たちにも似たような力があるかもしれないな。時間があっ
たら確認したいところだが‥‥そうも言ってられんし」 
「‥‥‥‥」「‥‥‥‥」 

ピッ‥‥ピッ‥‥ 
部屋の一角にある赤い非常灯が点滅していた。 
静かな部屋に、静かな警告音が響く。 
「‥‥招かれざる客、かな?」 
「‥‥あまりいい予感がせんが‥‥どれ、一つ趣向を凝らしてみよう」 
「?」「?」 
「‥‥相手が普通の人間だったら大変ですよ?」 
「招いてもいないのに、こんな夜に来るほうがどうかしている。文句は言えんだ
ろうが」 
「それはそうですがね‥‥」 
忠義は二階に上って行った。 
重樹は部屋の片隅にある簡易炊事場に行ってお茶の用意をし始めた。 
かすみと椿は、ただ由里の傍らに寄り添って気配を伺うしかなかった。 
「何か‥‥始まるんですか?」「や、やだな‥‥」 
「ん?‥‥親父のヤツ、ああ見えても機械弄りマニアでね。君たちの仲間‥‥そ
う、李紅蘭女史とおんなじ。暇さえあればおかしなもの創って‥‥全く、さっさ
と隠居してくれりゃいいのに‥‥」 
「はあ?」「な、なんですかあ?」 
「さあさ、お茶でも飲んで一服しよう。私も疲れたよ‥‥長い一日だったしな」 
「で、ですが‥‥」 
「悪気がない客なら問題なく入れるよ‥‥気にしないでいこう」 
 

「どちら様でしょう?」 
「月影と申します。お願いがあって参上いたしました。主の方に面会を所望した
いのですが‥‥」 
「‥‥お約束がおありでしょうか?」 
「いいえ」 
「お一人ですか?」 
「龍塵と申す者もおります」 
「‥‥暫くお待ちを」 
雨の葉山。 
道なりに進めば湘南海岸にぶつかる。 
月影と龍塵は雨に濡れたまま、暫し視線をその道なりの海の方向に向けた。 
「潮の香りがする‥‥なかなかいい街ですな‥‥」 
「ああ。わたしは海が好きだからね‥‥引っ越しも海沿いがいいと思って‥‥こ
の屋敷なら、きっと暁蓮様も気に入ってくださるだろう」 
「うむ‥‥しかし‥‥この屋敷、妙な気配がする。結界が張られているだけとも
思えないな‥‥」 
「まあね。表札を見てごらんなさいな」 
「‥‥ほう‥‥これはこれは‥‥こんなところにあったとは‥‥灯台元暗し、だ
な‥‥」 
「追い出す、という線ではなく、共存という方向で行こうと思うが‥‥どうか
な?」 
「結構ですな。神崎殿には一度お目にかかりたいと思っていたし‥‥」 
「ふふ‥‥」 
巨大な門が開いた。 
入っていい、ということらしい。 
「歓迎されるとは、ありがたいな‥‥」 
「すみれ殿のことは内密に、ですな、月影殿‥‥全ては白紙に戻った、そう考え
ましょう」 
「ご尤も。さ、行きますか‥‥」 
 

「まいったな‥‥」 
「‥‥秘密兵器は効きませなんだか」 
忠義が二階から降りてきた。 
深い皴が更に深く刻み込まれたような深刻な表情。 
「うーむ‥‥重樹、お前、月影、という名前に聞き覚えはあるか?」 
「月影、ですか‥‥月影‥‥‥月‥‥‥」 
「龍塵と名乗る男も一緒だ」 
「月影‥‥ん‥‥待てよ‥‥」 
「知ってるのか?」 
「関係あるかどうか‥‥杏華くんが卯型の量産に着手した際、部品につけた名前
がそれだったような‥‥」 
「卯型の部品?」 
「ええ‥‥霊子反応基盤の同期信号送出用内部時計に“月影”という名前を刻印
したような記憶があります。ただし、花組専用機にのみ、ですがね‥‥李紅蘭女
史の開発した霊子動力増幅器と非常に整合性が高いんですよ」 
「‥‥杏華くんの関係者‥‥まさか、な」 
「そうだ‥‥李紅蘭女史の増幅器にも同じような機能を持った内部時計があって
‥‥こちらは“龍塵”という名前がつけられていましたね」 
「うーむ‥‥」 
「そして‥‥指揮官専用機、つまり大神君の機体に搭載した、あの遠隔防御壁形
成装置。神凪君が手を加えたこの装置にも同様の部品が組み込まれています。こ
ちらは“天塵”です」 
「‥‥‥‥」 
「結論は早いでしょうが気にはなりますね。李暁蓮‥‥彼女の件もありますし‥
‥どれ、私が対応しましょうか」 
「あの‥‥」 
それまで黙って聞き入っていたかすみが口をはさんだ。 
月影という名前に、妙に心が騒いだ。 
「わたしも連れて行ってもらえませんか」 
「‥‥知ってるのか?、月影という名を」 
「いえ‥‥ただ、その‥‥なんとなく‥‥会ってみたいような‥‥」 
かすみにしては歯切れの悪い応答だった。 
重樹は少し悩んだ末、結局かすみを同伴して応接間に向かうことにした。 
椿は由里のもとに残して。 
「気をつけてくださいね、かすみさん‥‥わたしを、ひとりぼっちに‥‥しない
でくださいね‥‥」 
「何言ってるの、椿‥‥すぐに戻ってくるから」 
胸騒ぎがする。 
椿は眠る由里を見つめた。 
由里の閉じた目、その長い睫毛がちらっと輝いて見えた。 
ちらついて光はすぐに珠になって流れ落ちた。 
「由里、さん‥‥」 
「‥‥行か、ないで‥‥わた、し、を‥‥ひとりに、しない、で‥‥」 
 

「さて、鬼が出るか、蛇が出るか‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「“お茶”はちゃんと飲んだろうね、藤井君」 
「‥‥はい」 
「結構だ‥‥」 
カチャ‥‥ 
執事が入ってきた。 
開けた扉の向こう側、気配を感じる。 
尋常ではない。 
重樹は腹の底に気をため込んだ。 
「お客様をお連れしました」 
「入っていただきなさい」 
「‥‥どうぞ」 
「失礼します」 
二つの影が応接間に姿を現した。 
青いシャツの大柄な男性。 
そして赤い中国服の青年‥‥美しい青年だった。 
「夜分遅くの訪問、無粋とは思いましたがご容赦ください‥‥わたしは月影と申
します。こちらは龍塵です」 
「‥‥神崎重樹です。よくぞ参られた‥‥どうぞ楽になさってください」 
「ありがとうございます‥‥‥おや?‥‥すみれさん以外にお嬢さんが?」 
「‥‥すみれを知っている、か‥‥なるほど」 
『しまったな‥‥俺としたことが‥‥口が滑った‥‥』 
ほんの少しだけ眉をよせる月影だったが、神崎重樹の横に座っている女性はすみ
れとはあまり似てはいない。親娘の線から攻める社交辞令的形容も今回ばかりは
いい結果は齎さなかった。 
それによく見ると‥‥ 
「ん?」 
ゆっくりと歩み寄る月影。 
目を細める仕草はどこか神凪と似ていた。 
「!!!‥‥き、君は‥‥」 

月影は凍りついた。 
美しい顔にそれまで創ったことのないような驚愕の色が刻み込まれて‥‥ 
「‥‥どうされました、月影殿?」 
ただならぬ雰囲気に龍塵が聞く。 
相手の女性もやはり目を皿のように見開いて凍りついていた。 

「か、かすみ‥‥」 
「た、隊長‥‥月村隊長っ!?」 
 
 



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