<その7> 翔鯨丸が飛び去った後の浅草花やしき。 ゲートも閉じて、表面上警報も解除された。 浅草の住民たちもようやくぐっすりと眠れる体勢になった。 地下の騒ぎも、浅草の静寂を破ることはない。 ただ雨音だけが優しく響いていた。 花やしきはいつもの静けさを保っていた。 出店を覆うカバーも雨に濡れている。 雨に煙って観覧車も幻のように見えた。 静かな花やしき‥‥ いつもは子供たちで賑わう広場も、まるで廃虚のような静けさを保っていた。 その広場にうっそりとたたずむ人影。 雨に煙る純白の巫女。 雨乞いをしているのか‥‥と言われれば信じてしまいそうな神聖さだった。 濡れる金髪の奥で妖しく輝く銀色の瞳。 「面倒ね‥‥そちらから出てきてもらおうかしら‥‥」 神楽は右手の人差指を眉間に寄せた。 銀色の瞳は見えなくなる。 目を閉じると、代って指先が銀色に輝いた。 そして指を離す。 離した指の跡、眉間に光が停滞していた。 その光は神楽の額に渡って縦に延びて行った。 そして紡錘形に光の珠が神楽の額に形成された。 「‥‥我が眉間に宿りし大光明の印よ‥‥我をしてこの地に転化せしめよ‥‥」 紡錘形の光の中央がわずかに光を減じた。 それはまるで縦に裂けて新たに生まれた‥‥第三の瞳にも見えた。 人にして人にあらず。 夢魔の化身と言われる所以なのか。 「帰命、不空光明遍照大印相‥‥摩尼宝珠蓮華焔光転大誓願‥‥」 そのまま指で地面を指す。 すると‥‥地面には円形の結界のような紋様が浮かび上がった。 「滅びの宴は‥‥この地で行うがよい‥‥」 空気が揺らいだ。 霧雨に煙る蜃気楼のように。 神楽が花やしきに到着する少し前。 翔鯨丸格納庫‥‥通称“鯨の口”ではアンカーブロックの展開を避けて墜落を避 けた兵士が通路に充満していた。勿論中には普通ではない“者”もいる。 可憐は航法管制を終えた後、役目を終えたこともあって非常通路から脱出を試み た。 が、それが逆に災いした。 目的を失い、意志も持たない兵士たちは、ランダムに行動していたため、非常通 路まで分散していたのだ。 しかもどういう訳か普通ではない“者”まで、こちらに集中していた。 餌を欲する意志がそこに導いたのか‥‥ 可憐はダクトから下り立った瞬間、連中と鉢合わせになった。 「‥‥ついてないな」 そうは言いながらも戦う意欲満々で対峙する。 可憐は神凪と出会うまで、戦いというものを経験したことがなかった。 当たり前と言えばそれまでだが、彼女は本当にごく普通の、どこにでもいる少女 だった。 ただ、破邪の血を受け継ぐ者である、ということを除けば。 裏御三家はどの家系も破邪の血統を伝承するに能って、必ず一子相伝を順守す る。 破邪の血が生み出す力の拡散と悪用を懸念したが故だが、それは諸刃の剣にもな った。 子が生まれなければ血は途絶える。 あるいはその子がさらに子を持たなければ、また血は途絶える。 子が生まれても、生き延びる力がなければ、また血は途絶える。 事実この時代、賢人機関が確認している裏御三家は真宮寺家だけだった。 だが、滅びたと考えられていた他の二家は亜流を残していたのだ。 必ず三家が必要になる‥‥その時のために、と。 四季龍が生まれたのは、亜流であるが故に迫害された破邪の血統を残す人々を導 くためでもあった。 神凪率いる四季龍は七つの家系を探し当てた。 そのうちの一つが八神家。 驚くべきことに八神は本来三家にのいずれかに属するはずの亜流の掟の外に位置 していた。 即ち裏御三家の全ての血を受け継ぐという‥‥門外不出の真宮寺家の血でさえ も。 頑ななまでの保守性を持つ真宮寺家ですら、長い歴史の中ではそういう因子も生 まれるらしい。 あるいは八神家が真宮寺家を引き寄せたのだろうか‥‥ だが今に至って八神の血は破邪の力どころか、霊力を発現させるのが困難なほど 薄められていた。 世代を追うごとに薄められていった血の継承。 それは自らを封印するための結論だったのか。 交じり合い過ぎた血を封印するために。 可憐は八神の人間だった。 八卦を読み、八方の神を司る。 可憐はそんな八神の血を恨んだ。 薄められたとは言え、破邪の血統が可憐を常に苛んでいたことも事実だった。 破邪の血を狙う輩‥‥ 普通の人生を歩みたかった。 霊力とも破邪の力とも‥‥無縁でいたかった。 そして神凪と出会った。 神凪‥‥即ち大神麗一‥‥花組隊長大神一郎の兄、そして帝国華撃団第二代総司 令長官。 初めて出会ったのはお互いに16になったばかりの頃。 横浜。 既に悪魔の如き力を振るう神凪。 惹かれた。 何故かはわからない‥‥助けてくれたから?‥‥違う。 神凪と共にあるためには力が必要だった。 可憐は片鱗すら見せない破邪の力の代りに、自らの肉体に根ざす力、霊力によら ない自然の力を神凪の元で身に付けて行った。 金剛の力を用い、水の流れを読み、木の命を讚え、大地に触れ、火を友とする。 風水の理り‥‥気の力を得ることによって、可憐は七特でも神凪と秋緒に次ぐ戦 闘力を持つまでに成長した。 「わたしは帝国華撃団雪組の可憐‥‥牙を剥く者には牙を持って応じる‥‥」 兵士たちは獲物を見つけた歓喜のあまり、涎を流しながら可憐に襲い掛かってき た。 目の色が違う。 七特の戦士であり、雪組の副隊長でもある可憐。 容赦などするはずがない。 「んぎゃっ!?」「ごわっ!」「んぶっ」「がひっ」 小指一本で気絶、肘で悶絶、つま先で即死に至らせ、膝で瞬殺した。 流れるような可憐の美技は、はからずも大神が杏華に見せた白鳥の舞にも似てい た。 白鳥の翼は羆の爪なみの破壊力を持って。 白鳥の細い脚は闘牛の蹄なみの重量を持って。 容赦などない。 軍人が相手ならば尚更だった。 意志を奪われた軍隊ほど始末に負えないものはない。 可憐は手加減ぬきで戦った。 静寂が戻った。 「はっ、はっ‥‥ふーっ‥‥‥‥さて、と‥‥これからが本番、か‥‥」 床にころがる兵士たち。 一人たりとも息をしている者はいなかった。 抹殺。 粛正。 外道に哀れみなど無用。 銀弓を叱咤したのは、あるいは自分自身に対するものだったかもしれない。 そして銀弓の純真さを誰よりも理解していたのは可憐だったかもしれない。 自分と同じ道は歩ませたくはない‥‥ ギギギギ‥‥ 可憐の想いとは裏腹に不愉快な泣き声が聞こえる。 「ほんと‥‥わたしって、ついてないよね‥‥」 暫しうつむく。 床にころがる兵士から日本刀を取り、そして呼吸を整える。 「でも甲冑降魔が相手なら‥‥ふふっ、死んでも言い訳が立つわね‥‥」 いつの間にか通路は黒い影で埋め尽くされていた。 可憐が始末した兵士たちはいない。 そう、それを喰らった者がいた。 獲物を選ばない物の怪。 生きとし生ける者全てを喰らう暗黒の輩。 ‥‥降魔。 花やしきの広い通路を塞ぐほどの体躯を持つ降魔。 その表皮は外骨格で覆われている‥‥新型シリスウス鋼の鎧で。 花組の必殺技を持ってしか駆逐出来ない相手。 ‥‥涼子‥‥‥戻ってきなさい‥‥‥涼子‥‥ 藍色の着物を着た女性が可憐の脳裏に浮かぶ。 さくらに似た女性‥‥大神の銀時計に添えられた写真の女性の悲しい顔が。 忌み嫌った霊力を、破邪の力を‥‥この時だけは神に願った。 「叔母様‥‥今だけ‥‥せめて今だけは、わたしに力を与えて‥‥」 可憐は抜刀の構えを取った。 鍔を迫り上げると刃の峰が一瞬薄紅色に閃いた。 ギギギ‥‥ 目の前に迫る甲冑降魔。 それも五匹。 花組をして苦戦せしめた鋼鉄の鎧に護られた不浄の物の怪。 その時と全く同じ数の甲冑降魔が、可憐一人に迫る。 「‥‥我が血に眠りし八神の力よ‥‥大神を惑わし物の怪を殲滅せしめよ‥‥」 可憐の瞳が真紅に輝いた。 それに応じるように刃が、真紅に輝く。 「破邪剣征‥‥」 ギガアアアッ 迫り来る魔界の獣の群れ。 横殴りに一閃、そして袈裟掛けで十字を斬った。 「‥‥桜花放神っ!!!」 ザワッ‥‥ 風が吹いた。 風と共に雪が舞った。 桜の花びら、桜色の光は生まれない。 ただ雪が舞い、そしてその雪が白い波となって通路を伝搬した。 悲しい音を奏でながら。 儚い雪明かりを灯しながら。 破邪剣征・桜花放神‥‥ それは人の生き様をも乗せて放たれる奥義だったに違いない。 グギャーーーッ 雪嵐は甲冑降魔の内部にまで浸透した。 シリスウス鋼を貫通し、中にわだかまる不浄の物の怪を凍りつかせる極寒の風。 ギ‥‥ギガガ‥‥ 甲冑降魔は健在だった。 甲冑の隙間から湯気が立ち上がる。 巨大な霊波を受けて蒸発する汚らわしい肉体も、その力が途絶えるまで捕食を続 ける。 餓鬼だった。 時折痙攣する姿は醜悪以外の何物でもなかった。 後方のダメージの少ない甲冑降魔が先頭の降魔を押しのけて前進してくる。 悪鬼だった。 「はっ、はっ、はっ‥‥や、やっぱり、つ、付け焼き刃じゃ、だめ、かな、はは は‥‥」 可憐はがっくりと膝を折って床に蹲った。 もう動く力もない。 でもやれるだけやった。 きっと神凪も‥‥褒めてくれる。 可憐はじっと床を見つめて想い人の笑顔、その記憶を呼び起こしていた。 「‥‥もうちょっと‥‥もうちょっとだけ、一緒にいたかったよ‥‥大佐ぁ‥ ‥」 涙が頬をつたって床を濡らした。 ギガアアアッ! 可憐は目を閉じた。 ズゴーーーーンッ‥‥ 鼓膜が破れそうな破壊音。 通路の壁に穴が開いた。 破片が甲冑降魔に激突する。 可憐に振り下ろした嫌らしい鉤爪は、その軌道を完全にずらされていた。 「あ‥‥」 ガーンッ‥‥ガゴーンッッ‥‥ 立て続けに衝撃波が甲冑降魔に襲い掛かる。 可憐から遠ざけんと。 「はあ、はあ、はあ‥‥か、間一髪、間に合ったぜ‥‥」 「はっ、はっ‥‥ふーっ‥‥」 白銀の霊気を吹き出す青年二人。 すかさず可憐の前に陣取る銀弓。 そして村雨は迷うことなく可憐を抱きかかえて後退した。 そういうふうに打ち合わせたらしい。 「遅れてすまん、可憐さん‥‥さみしかったろ?」 「遅いよ‥‥ばかあ‥‥」 床にへたりこんで涙ぐむ可憐。 文字通り可憐な涙だった。 「‥‥ずっと待ってたんだからあ‥‥ばかあっ!」 銀弓はまたまたグラッときた。 年上もいいかな、と。 「うん‥‥‥もう心配はいらない‥‥後はこの銀弓華月にお任せあれ」 銀弓の笑顔。 それは銀弓自身初めて作った満身の笑顔だった。 大切な人がもう一人そこにいたから‥‥それが今わかった。 そして視線を戻す。 すぐに目の色は変った。 帝国華撃団、月組隊長のそれに。 歴代月組隊長の伝統、破壊神の目に。 「‥‥二度目、だな、これほど激怒するのは‥‥しかも、同じ日に、とはな‥ ‥」 ギガガガ‥‥ 甲冑を纏った降魔は、妖力も格段に上がっている。 大戦時のそれよりも。 銀弓は一歩も引かなかった。 最初の戦闘では花組をも圧倒した甲冑降魔を前に、些かの逡巡も恐れもない。 ただ怒りだけ。 ただ殺意だけ。 「‥‥殺す‥‥ぶっ殺すっ!!」 ギ‥‥ガアアアアッ 銀弓のこめかみに血管が浮き上がった。 怒り、そして気合いとともに。 「オラアアアッッ!」 ズシッ‥‥ゴワッ‥‥雀連手。 バンッ‥‥ギシュッ‥‥上歩掌拳。 ドンッ‥‥アギャッ‥‥架捶掌。 舞を舞うような滑らかな動きとは裏腹に、降魔の甲冑をも揺るがす銀弓の連続 技。神凪の八極拳や八卦掌にも似ているが、もっと柔らかく地を滑るような技。 銀弓風塵流は戦争の歴史の中であらゆる格闘術を吸収していった。その結果だっ た。そこに神崎風塵流との決定的な違いがあった。 降魔の鉤爪は風のような体術を示す銀弓に触れることすら出来ない。 ただ空気を斬り裂くだけだった。 甲冑降魔は箒で掃除されるが如く、可憐から遠ざかっていく‥‥ 側壁に向かって走る銀弓‥‥そのまま天井まで。まるで脚に磁石でも付いている かのように。 通路全面に螺旋を描いて突っ込む銀弓の姿は、さながら轟雷号の発進プロセスを 見るようだった。 銀弓が消えた中央の空間をすぐに光の波が奔った。 村雨が放つ橘花封神‥‥銀弓を援護する一瞬を逃さない、村雨の神技。 降魔は一気に通路末端まで押し込められた。 螺旋を描いて突っ込んだ銀弓は、もう甲冑降魔の目の前まで来ていた。 両拳に稲妻が宿る‥‥斯波の放つ菊華雷神とも違う。 「‥‥消えろっ、クソ野郎がっ!!!」 銀色に輝く華‥‥それは銀色の鳳仙花。 薙刀を持った時の“脇構え”と全く同じ技の動作を踏む銀弓。 銀弓の拳の輝きは実体のない光の薙刀を作った。 「銀弓風塵流・月華一輪ッ!!!」 光の薙刀が不浄の物の怪を貫く‥‥それは刹那、輝く花びらとなった。 銀色の花びらは白金の如く。 風に舞う花びらは横殴りの雪嵐の如く。 月華一輪‥‥花一輪の生命力は降魔一匹のみならず、周辺の不浄の物の怪をも浄 化した。 純白の月明かりが闇夜を照らすように。 白い雪が地上の汚らわしいものを凍りつかせるように。 可憐の桜花放神、村雨の橘花封神、そして銀弓の月華一輪を立て続けに喰らっ て、流石の甲冑降魔も沈黙した。そして、風化するかのように塵となって消えて いった。 「はっ‥‥月華一輪まで出す羽目になるとは、な‥‥」 銀弓は塵となって消えた甲冑降魔の跡、その影がこびりついた壁を見つめた。 「甲冑降魔、か‥‥こいつらが陸軍の標準兵器として配置されるとなると‥‥ち っ、見通しは暗いな‥‥花組に負担はかけられんし‥‥確かに山崎が言ってた通 りだな‥‥」 壁の黒い染みを一瞥して、銀弓は可憐と村雨の元へ戻った。 「‥‥無理したんじゃないか?、可憐さん」 「ぐすっ‥‥」 「‥‥歩けるかい?」 「ぐすっ‥‥ぐすっ‥‥」 村雨から可憐を預かり、肩を貸す銀弓。 立ち上がりざま、可憐は銀弓に抱きついた。 「ばかあ‥‥」 「う、うん‥‥あ、あの‥‥」 大神と同じほどの身長の可憐、やはり銀弓とも同じくらいだった。 無頼漢の如き銀弓の生き様は、女性に対しても何処か距離を置いていた。 外見は飄々としていても、心を許せる相手などだれもいなかった‥‥由里を除い ては。 母の香りとはこんな感じなのか‥‥ 姉の優しさとはこんな感じなのだろうか‥‥ 柔らかく、芳しい人。 ‥‥だが、そんな想いも銀弓にとっては最も遠い位置に置くべきだった。 なぜなら、自分は月組隊長なのだから。 「‥‥か、可憐さん‥‥り、立派な、む、胸、してますね」 「‥‥‥‥」 抱きついた可憐の胸の感触が、薄手のブラウス越しにはっきりとわかる。 「こ、腰も、こ、こ、これ、これは‥‥」 「‥‥‥‥」 そして可憐の腰のあたりにしっかりと手をまわす銀弓。 すけべ目を通り越して、目がらんらんと輝いている。 可憐は銀弓の顔をぐいっと自分の胸元に引き寄せた。 そのまま自分の豊かな胸元にうずめる。 「あ‥‥」 「‥‥‥‥」 「あ、あの‥‥」 「‥‥あなたはわたしの傍にいなさい、銀弓くん」 「え‥‥」 「わたしがあなたを導いてあげるから‥‥わたしが‥‥いつでも傍にいてあげる から‥‥」 「か、可憐、さん‥‥」 「‥‥って言おうとしたのにっ、このクソガキッ!」 ズゴッ、ズシッ‥‥ 「あがっ、おげっ」 再び唸る銀弓。 抱きかかえられながら肝臓と脾臓に鉄拳と膝蹴りを喰らい、流石の銀弓もあっさ りと地面に屈した。 「お、おお‥‥い、息が、息が、できないいい‥‥きゅ、急所を、寸分の狂いも なく‥‥あ、天晴れなり、可憐殿‥‥」 「ふんっ、行くわよ、村雨くんっ」 「くっくっく‥‥」 ほうほうの体裁でしんがりに付く銀弓を尻目にスタスタと歩きだす可憐と村雨。 村雨の口元には、もう完全に優しい笑みが形作られていた。 そして可憐の表情は‥‥うっすらと頬を朱に染めて、瞳も少し潤んでいた。 涙の名残‥‥横目で見る村雨はそう思った。 可憐自身は違った。 自分が口にしたことは、決して嘘ではない。 ‥‥傍にいてあげるから。 そうなんだ‥‥ 彼は一人にしてはいけない‥‥自分が一緒に‥‥ 神凪に抱いていた初恋の情は、自分より年下の青年にも向けられようとしてい た。 さくらとマリアを悩ます究極の選択は、可憐をも苛むことになった。 静かな夜。 雨の銀座はいつも静寂が覆う。 人の往来も途絶える。繁華街にも人影はまばら。 この夜の銀座帝国劇場は殊更に静かだった。 静かな劇場の地下は更に静かだった。 呼吸音さえ大音量で聞こえる。 自分の呼吸音。 吸い込む空気は温かく花の香りが満ちている。 でも吐息は冷たい。 極寒の地で生きてきた者は、流れる血まで冷たいのか‥‥ そして吐息までも。 作戦司令室に一人たたずむマリア。 通信ユニット前の椅子に腰を下ろしたまま、じっと下をうつむいて微動だにしな い。 眠っている?‥‥違った。 カッと目を見開いて、自分の手を見つめていた。 ‥‥ロシアで人殺しだけしていればよかったものを‥‥ ‥‥あなたは要らない人間‥‥花組は肥やしに過ぎない‥‥ 神楽の言葉が胸に突き刺さる。 マリアを常に苛んでいた辛い記憶。 花組にいることで、大神とともにあることで、それはいつしか消えて行ったはず だった。 ‥‥君だけではない‥‥もっと辛い過去を持つ人もいる‥‥だがそれは過去に過 ぎんということも‥‥ 神凪の言葉は勇気を与えた。 それも‥‥ 「わたしは‥‥いらない人間‥‥わたしは、隊長の足枷になってる‥‥?」 冷たい空気。 雨で湿っているはずの空気も、マリアにとっては何故かひどく乾いているように 思えた。 心に吹きすさぶ極寒の風。 「わたしは‥‥」 「‥‥いらない人間なんていない」 「え‥‥」 マリアはうつむいていた顔を振り上げた。 その声を聞くために。その人を見つめるために。 「足枷になる人なんて、ここにはいない‥‥」 純白の海軍服は今朝出かけて行った時に着用していたものと同じ。 襟のホックを外している様は少し不良っぽく見えもした。 「君は必要なんだよ、マリア‥‥みんなにとって‥‥そして、俺にとって」 「‥‥‥‥」 「いつだったっけ‥‥」 「‥‥え?」 「‥‥そうだ、愛ゆえに、でマリアと共演した、あの日の前日‥‥あの夜のこと ‥‥」 「あの、夜‥‥あの夜は‥‥」 「給湯室で一緒に煎れた珈琲‥‥あれ、今まで飲んだ珈琲で一番おいしかった よ」 「あ‥‥」 作戦指令室の机、いつも大神が座る場所‥‥米田が座っていた場所と真向かいの 位置。 今、マリアが座っている位置と長い机を挟んで大神は座った。 肘を机に乗せ、少し伏せ目がちにマリアを見つめる。 杏華の歓迎会が終わった夜、神凪と三人でサロンでお茶を飲んだ夜と同じような 仕草で。 「俺はマリアの珈琲が好きだよ‥‥マリアの作ってくれるボルシチも‥‥」 「‥‥‥‥」 「マリアが演じるオンドレも‥‥そして‥‥マリア・タチバナも‥‥」 「‥‥あり、がとう‥‥ございます‥‥」 「変かな?‥‥でも、さ‥‥俺は思うんだよ‥‥戦うことが日常になっていって ‥‥そこで必要になる人って‥‥本当に必要な人なのかな?」 「え‥‥」 「ありきたりの日常の中で必要な人、大切な人は‥‥勿論、戦いの中でも必要な 人だよ、大切な人になるんだよ。それこそが戦う理由だからだ」 「‥‥‥‥」 「その逆は‥‥必ずしも正しいとは言えないけど‥‥ただ‥‥」 大神は少し背を正した。 じっとマリアを見つめたまま。 「ここは違う。帝国劇場は違う。もう日常と戦いの明確な区別はない‥‥誤解し ないでくれ、戦いと背中合わせ、という意味ではないんだ‥‥」 「‥‥わかります」 「そう‥‥もう俺たちは、だれ一人欠けても‥‥花組としては成り立たないレベ ルに来ている‥‥すみれくんも、紅蘭も‥‥そして‥‥君もだ、マリア」 「大神、隊長‥‥」 大神は席を立った。 そしてマリアの座るすぐ横に歩み寄る。 「さっき、さ‥‥兄さんに思いっきりヒッパタかれたよ」 「えっ?」 「俺が何を言って兄さんを怒らせたかは、内緒だけどね‥‥でも想像つくだろ ?」 「‥‥‥‥‥」 大神は膝を折ってしゃがんだ。 マリアのうつむきがちな視線の中にいようと。 まるでアイリスを諭すように。 「ふふ‥‥なかなか、大変だろ?、副司令も」 「はい‥‥正直言って‥‥今頃になってあやめさんのこと、尊敬しなおしてま す」 「ふふふ‥‥そうだ、もう一つ‥‥マリアに言ったことがあった」 「え?」 「あれは‥‥うっ、は、花やしき、だ、ね‥‥」 「花やしき‥‥あ‥‥」 マリアと大神はそろって真っ赤になった。 ただ、マリアはうつむいて下を向いても、そこには大神がいる。 「あ、あはは、あ、あの時は、その‥‥い、いきなり、その‥‥」 「い、いえ、いええ‥‥」 沈黙が暫し続いた。 カチッ‥‥カチッ‥‥カチッ‥‥ 時を刻む音。 時計の音がした。 ロビーの大時計の音ではない。 何か、もっと小さい‥‥そう、懐中時計が時を刻む音のような。 「時計の音‥‥マリア、の?」 「時計‥‥?」 マリアには聞こえていないようだった。 でも大神には聞こえている。 「なんだろ‥‥時を刻む音‥‥あの時もそうだ‥‥」 「え?」 「さっき言いかけたこと‥‥花やしきで‥‥俺がマリアに言ったこと‥‥」 「‥‥‥‥」 「風水の話さ‥‥マリアは副司令として見立てられたんじゃないか、って‥‥」 「わたしが‥‥副司令に‥‥でも、それは神凪司令の推薦で‥‥」 「‥‥それだけとは思えないんだよ。あの後、ちょっと調べたんだけど‥‥風水 を見立てるためには“羅盤”という一種の方向指示器を使うらしいんだけど‥ ‥」 「羅盤、ですか?」 「うん‥‥それ、時計に似ててね」 「時計に、ですか?‥‥‥時計‥‥」 時を刻む者。 時を待つ者。 時間はその時を告げるために流れているのか‥‥マリアは大神の懐中時計を思い 出した。 大神が倒れて、そして紅蘭がいなくなった。 それを告げるかのように、あの銀時計は花組の少女たちの前に姿を見せた。 「‥‥あ‥‥まさか‥‥あの‥‥隊長の懐中時計‥‥」 「‥‥‥‥」 「紅蘭が隊長の銀時計を持っていったのは‥‥まさか、わたしにも関係してる、 と?」 「‥‥たぶん‥‥他にもあるんじゃないか、とは思ってるんだけどね」 「それは‥‥」 大神は再び立ち上がった。 そして先程座っていた位置まで戻り、さらに奥まで進んだ。 蒸気演算機のある場所へ。 「紅蘭がいればな‥‥尤も、蒸気演算で割り出せる解だとは思えないけど‥‥」 「‥‥‥‥」 「すみれくん‥‥そして、銀時計‥‥」 「え‥‥」 「あと二人‥‥それとも二つ、か?‥‥他にいったいどういう要素があるんだ、 紅蘭‥‥」 「?‥‥??」 「‥‥それが‥‥マリア、なのか?‥‥それとも兄さんなのか?」 「え‥‥?」 「それともマリアは‥‥四つの鎖の外に‥‥?」 「?‥‥??」 「マリア‥‥」 「は、はい」 大神はおもむろに振り返った。 「俺、紅蘭がいなくなる前日、体調くずしたろ?」 「ええ、よく覚えています‥‥」 「今だから言うけど‥‥俺、あの日を境にして‥‥君を見る目が少し変った」 「えっ!?」 「そして‥‥さくらくんには言ったけど‥‥君は街娘にはなるべきではない」 「え‥‥え?」 「なぜなら、マリア、君は‥‥」 「‥‥ここにいたのか、大神」 振り向かなくとも大神とマリアには、その声の主はわかった。 導く者をさらに導く者。 優しく、そして強い人。 兄であり、父親‥‥ 「見回りの途中さ‥‥さくらくんは?」 「‥‥‥‥」 何も言わない神凪、そしてマリア。 神凪は少しうつむいたまま、作戦指令室の奥、マリアと大神の傍まで歩み寄っ た。 いつもと違う‥‥ 大神は少し首を傾げた。 神凪の周囲は必ず暗かった。 明るい陽光を浴びていても、神凪はまるで闇のオブラートに包まれているかのよ うだった。 それが違う。 うっすらと輝く‥‥黒い天使。 闇を食らう漆黒の天使は、まさに漆黒の輝きを取り戻したようだった。 「‥‥ルシファー?」 なんとなしに呟く大神。口が勝手に動いたような感じだ。 神凪の眉が一瞬ぴくりと動いた。 そして大神と向き合う。 「俺の守護星は金星、ルシファーだ‥‥天に反逆した堕天使と同じ名‥‥」 「‥‥ビーナスでもある。あなたの周りにもいる」 「ふ‥‥もし俺が‥‥堕天使になったら‥‥」 「!!!」 「‥‥お前はどうする?」 「二度と繰り返しはしない。あやめさんはいない‥‥でも、あやめさんが成そう としたこと‥‥それは俺が引き継ぐ」 「‥‥‥‥」 光と影が交錯する。 見守るのは聖母マリアだった。 「大神、お前はまだ完全には目覚めてはいない。そしてその受け皿も出来てはい ない‥‥お前自身の身体と、そして‥‥霊子甲冑も、な」 「‥‥‥‥」 「その時のために‥‥徹底的に鍛えあげなければならん‥‥この俺が‥‥そし て、杏華くんが、な」 「杏華、さん‥‥?」 「そう、お前こそが俺の最高傑作になる‥‥お前こそが、俺の歴史の証人になる んだ‥‥」 「‥‥‥‥」 「お前は俺を超えねばならん‥‥お前こそが大神の名を冠する唯一の戦士だから だ」 「‥‥‥‥」 「月影は俺が倒す。そして俺を倒すのは‥‥お前だ」 「言うな‥‥」 「俺は‥‥」 「黙れっ!、二度と繰り返さないと言ったはずだっ!」 何故か悲しい音色を奏で始めた神凪の声に何を感じたのか‥‥大神は神凪の台詞 を自分の言葉で斬った。 神凪はマリアを見つめた。 優しい瞳はいつもの神凪とは違った。 大神が感じたことを、マリアも見つめられて同じように感じた。 「‥‥疲れたろ、マリア‥‥交代しよう」 「え‥‥」 「司令が復帰したんだ、俺が指揮を取ろう。ま、もうすぐカタは着くだろうが、 ね‥‥」 「‥‥はい」 マリアは席を立った。 入れ替わるように神凪が座る‥‥ ‥‥桜の花びら? 擦違う神凪から、何故か花の香りがした。 気のせいではない‥‥林檎の香り?‥‥いや、桜の香りだった。 暗闇は満開の桜で埋め尽くされて、マリアの脳裏を貫いた。 神凪から発する闇のイメージは、桜が滲ませる薄明かりでかき消されていた。 「あ、あの‥‥」 「マリアの珈琲が飲みたい。頼めるかな?」 「あ‥‥」 「‥‥俺も飲みたいな‥‥今度はマリアが煎れてくれる珈琲を」 「‥‥はい」 マリアは作戦指令室を出た。 マリアを苛んでいた神楽の言葉は、もう完全に記憶の彼方に消えていた。 それ以上にマリアを悩ます要素が入り込んだから。 それが何なのか‥‥時間がそれを示してくれるのだろうか? 指令室には二人の大神が残された。 「あ、ただいま戻りました、副司令」 「朧くんっ!?」 厨房に向かう途中でマリアは朧と鉢合わせになった。 朧は白い着物を着た女性を背負っていた。 「舞姫様が急に変調を来して‥‥わたしも一体何が何だか‥‥」 「花やしきは?」 「銀弓隊長が支えてます。村雨さんもいることだし‥‥問題はないでしょう‥‥ 神楽さんさえ行ってくれていれば」 「‥‥わかったわ。とにかく地下に運びましょう」 マリアは再び地下に戻ることになった。 朧の背負う白い少女。 雨に濡れて髪から雫が滴り落ちる。 不思議だった。 夢組の隊員とは初対面だ。先の神楽にしてもそうだ。 山崎と出会ったことも‥‥花やしきでの事件がなければ有り得なかった。 そして、今、目の前の少女は、そんな初対面の夢組の中でも、一際マリアの感情 に漣を立てた。 不思議と感じた想いも、それが自分のよく知っている人にあまりにも似ていたか らだった。 ‥‥似ている。 それは花組の仲間‥‥山崎と同じようにポットで眠りにつく少女に。 「すみれ‥‥」 「う‥‥ん‥‥」 「大丈夫ですか、舞姫様」 「あ‥‥こ、ここは‥‥?」 舞姫が目覚めた頃、もう治療室は目の前だった。 「銀座です。もう心配はいりませんよ‥‥後は銀弓隊長に任せておけば大丈夫」 「あ‥‥もしや‥‥わらわは‥‥華月殿の脚をひっぱって‥‥‥ぐしゅっ‥‥」 「だ、大丈夫ですって‥‥だから‥‥舞姫様はゆっくりと休んでください」 朧は舞姫を背中から下ろした。 びっしょりと濡れた白い十二単。 その重さ故に、舞姫の身体の線が殊更にくっきりと浮かび上がった。 「あ、あの、わ、わたしはそ、そろそろ‥‥」 慌てふためく朧を、マリアがフォローした。 「厨房は知ってる?そこに十六夜とアイリスがいるから‥‥手伝ってあげて、朧 くん」 「は、はいっ、了解しましたっ、タチバナ副司令」 さっと移動する朧。 なんとなしに頬が紅い。 ちらっと氷室の顔が脳裏に横切る。 『お、思ったよりも素敵ですね、氷室さん‥‥ぼ、僕もファンになっちゃうかも ‥‥』 朧が去った後も、舞姫は額に手をあててじっと佇んでいた。 そんな舞姫をじっと見つめるマリア。 『‥‥舞姫‥‥この娘が、夢組の舞姫、か‥‥』 「‥‥わらわは‥‥そんなに“すみれ”なる姫君に似ておるのかえ?」 「!」 「お館様は‥‥何処に?」 「‥‥ここよ」 「ここは‥‥治療室ではござらぬかっ!?、ま、まさか‥‥」 「‥‥入って」 プシューッ‥‥ 治療室の蒸気圧で自動開閉する扉が開く。 治療室の中は、何故か霧が掛かっているように見えた。 向こう側の壁が曇って見える。 三つ並んだ集中治療用ポット。 その二つから感じられる気。 一つは絶対に間違えようがない‥‥舞姫の一番大切な人の気配。 そしてもう一つ。 不思議な感覚だった。 だが、そんな想いも、今の舞姫にとっては注意を止めておくだけの力はなかっ た。 すぐに一番左のポットに移動する。 曇ったガラス。 人がいることはわかった。 震えながら‥‥手でガラスの曇りをとる。 無表情の青白い顔。 唇から血の気が失せた‥‥本当は優しい笑顔の持ち主が、そこにいた。 治療室を後にするマリア。 閉じた扉越しに声が聞こえてきた。 「‥‥お、お館様‥‥お館様あああああ!!!」 雨は止む気配を見せない。 夜の帳もシェードが掛かったようにように、ぼやけて見える。 浅草の路地裏に軒を並べる店も、今日は早じまいのようだ。 客脚も遠い。 浅草花やしきも暗闇が覆いつつあった。 雨音が奏でる、やけに規則正しい音だけが花やしきに響いた。 ‥‥それ故に、人の声は、まるで歌のようにも聞こえた。 白拍子の歌。 ‥‥夢魔の子守歌。 「‥‥これは、これは‥‥意外な大物がひっかかってくれたものね‥‥」 「‥‥我を召喚するとは‥‥身の程をわきまえよ、小娘‥‥」 「あら‥‥誰もあなたなんか呼んでないわ。この地にわだかまる下衆どもを一掃 しようとしているだけ‥‥」 「‥‥‥‥」 「まさかとは思うけど‥‥‥あなたが仕切っていた訳?」 「‥‥汝、魔界の血を受け継ぐ者だな‥‥何故、人間に与する‥‥?」 「あなた‥‥李暁蓮という女性と‥‥関係があるの?」 「我は孤高の魔王なり‥‥我を従わせる者などいない‥‥我は再び蘇った‥‥」 「‥‥‥‥」 「汝、感謝するがよい‥‥我が復活を祝う最初の生贄になることを‥‥」 「世迷言を‥‥あまり時間がないの。さっさと始末させてもらうわ‥‥潔く地獄 へ戻りなさい、山崎少佐」 神楽が創った魔方陣に召喚された魔界の者。 花やしきの夢の扉を開く‥‥つまり、花やしきを支配していた怨念を絶つこと が、舞姫、そしてその代行に派遣された神楽の成す使命だった。 花やしきを縛っていた物の怪‥‥それは神楽の予想外の人物だった。 深い緑の服、軍服に身を包んだ青年将校。 自分の恩人、夢組隊長とうり二つの青年。 山崎真之介。 夢組隊長、山崎真也の実兄。 そして‥‥ 「‥‥来たれ‥‥来たれ‥‥」 周囲の空気が澱み始めた。 「!‥‥そうはさせないわ‥‥即帰命、訶訶訶、威神力尊成就吉祥‥‥」 人の気配がした。 「‥‥汝、感謝するがよい」 「!‥‥ちっ、邪魔が‥‥」 「‥‥神楽さんか?‥‥な、なんだ、そいつはっ!?」 花やしき管理室の正面口から三人の人影が現れた。 勿論、銀弓、可憐、そして村雨の三人。 真之介の輪郭がぼけ始めた。 再び魔界へ戻ろうとするのか‥‥ 「逃がさんっ!」 神楽の掌から光の触手が無数に飛び出した。 まるで光の蛇のように。 そして消えかかる真之介の身体に溶け込むように絡まりつく。 「‥‥蛇を使うには‥‥まだ未熟だな、娘よ‥‥」 「ちっ‥‥」 「だが‥‥なかなか力はありそうだ‥‥汝の名を聞いておこうか‥‥」 「わたしは神楽‥‥神凪と常に共にある者」 「!‥‥ほう‥‥」 「そして‥‥夢組の神楽‥‥あなたの実弟の従者‥‥閨を共にする‥‥」 「!!!」 「この名を聞いて生き延びた物の怪など‥‥いない。貴殿はわたしが始末する。 それまでは‥‥せいぜい地獄で余生を謳歌するがよい」 「ふふ‥‥よきかな、神楽‥‥我に食われるまで‥‥死ぬではないぞ‥‥」 山崎真之介は消えた。 以前のような険は顔には創られていなかった‥‥少なくとも最後の神楽との会話 では。 全く同じ顔。 山崎隊長と全く同じ‥‥優しい主の顔だった。 「ちっ‥‥なんなの、全く‥‥やりにくい相手が出てきたものね‥‥」 「‥‥まさかとは思うが、今、軍服着てたヤツは‥‥」 「‥‥‥‥」 「なかなか‥‥奥が深そうね‥‥今回の件は」 神楽の周りに集う花やしき担当班。 ずぶ濡れの神楽に混じって、可憐、銀弓、村雨も雨に濡れる。 水も滴る美男美女だった。 特に村雨の顔は中性的な魅力を放って、神楽をも感動させた。 「‥‥とりあえず、夢の扉は開いたわ。ただしあまり長くは持たない‥‥今回の 件は短期決戦で決着をつけないと‥‥」 「ええ。それは神凪司令も言っていたわ。とにかく帰還しましょう‥‥銀座のほ うも気になるでしょう?」 「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」 既に現状を把握している神楽、そしてそんな神楽を見て言葉を失う銀弓と村雨。 可憐は三人を残して翻った。 「お、おい、何処行くんだ?、可憐さん」 銀弓が可憐の元へ走る。 「‥‥湘南のほう」 「湘南?‥‥だが、横浜を経由するのは、今はマズイぜ?」 「ええ‥‥ただ、向こうには風の踊り子が待っているからね」 「あ‥‥そうか‥‥俺も一緒に行こうか?」 「いいわよ、銀弓くん‥‥あなたは少し休みなさい‥‥‥‥明日にでも来てくれ ればいいわ」 可憐は別れ際に銀弓の頬に口づけして去って行った。 雨でその感触が消えないよう、掌で覆う銀弓。 この作戦は本当に意味があるのか? ‥‥あった。 少なくとも銀弓は確信した。 なんのために戦うのか‥‥それがわかった。 あたりまえのことに今更気づいた。 銀弓は可憐の姿が消えるまで、その後姿を見送った。 「さて‥‥戻りましょうか、銀弓くん、村雨くん」 「あ、ああ‥‥」「‥‥‥‥」 「銀座は‥‥きっとあなたたちを優しく迎えてくれるわ‥‥あなたたちを、ね‥ ‥」 走り出す三人。 夢を先頭に月と雪。 雨の煙る花やしき。 作戦は終わった。 だが終了を告げる花火は上がらない。 花火を上げる意欲もない‥‥そもそも、根本的な解決には至ってない。 謎は謎を呼び始めていた。 雨は本降りになっていた。 そして花やしきは再び静寂を取り戻した。
Uploaded 1998.7.13
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