<その8> 

雨脚はさらに強くなっていた。 
時折雷が鳴り響く。 
稲妻が帝都を一瞬白く染め上げる。 
街の燈が消えた銀座。 
闇夜の銀座は人の気配はまるでない。 
ただ激しい雨音だけが響いていた。 

その夜の銀座にただ一ヶ所だけ燈が灯っている場所がある。 
夜の帝国劇場は雨に煙る銀座に、まるで幻のように浮かび上がっていた。 

表玄関の扉‥‥それが大砲でも打ち込まれたかのような穴が形成されている。 
ただ、それも今は内側から大時計で遮蔽されて、表からは人は入り込めない。 
そしてロビー。 
天井にも穴が開いていた。 
ロビーに外と変わらないような雨飛沫が舞う。 
赤い絨毯。 
赤い水たまりとなって、赤くない通路まで赤く染め上げる。 
絨毯からにじみ出た赤い雨水は、絨毯の色よりも鮮やかな色彩を放っていた。 

食堂には灯が灯っていた。 
人影は見えないが、厨房からはいつもと変わらない温かい空気が流れ込んできて
いる。 
湯気が立ち上る鍋。 
そして台所。 
ついさっきまでそこにいた、幼い主たちはつかの間の休憩に入ったようだ。 

角を曲がる。 
薄暗い通路の右手には中庭を覗く窓がある。 
左手には事務室、そして支配人室。 
中庭に面する窓には、雨が激しく叩きつけられて、暗闇も手伝って中庭はほとん
ど見えなかった。 

支配人室から小声が漏れる。 

その先、宿直室には‥‥いつもの主はいない。 
布団も畳まれたまま。 
ちゃぶ台のような小さな机の上には写真立てがおかれてあった。 
飛行服に身を包んだおさげ髪の少女。 
眼鏡の下で円らな瞳が優しく輝いていた。 
写真にはサインがしてある。 
李紅蘭。 
その写真の持ち主も‥‥ 

その人が眠る地下治療室。 
人の気配があった。 
特令参号作戦が終了して、帝撃五師団はその殆どが銀座に集結した。 
本来の住家である花やしきも、後処理が残っている。 
それ以前に苦悩の根源となった解答が、この場所にあったからだ。 

「ぐひっ、ぐひっ‥‥ひーん‥‥お館様あ‥‥お館様ああ‥‥」 
舞姫は銀座に着くなり、山崎が眠るポットにしがみついて泣きわめいた。 
そんな舞姫をただ、見つめるしかない‥‥何も出来なかったが故に、自己嫌悪に
陥るしかない仲間たち。 
雪組の氷室、玲子、村雨。 
月組の弥生、朧、十六夜。 
花組のアイリス。 
そして‥‥冬湖。四季龍の一人。 
「こんなことになってるとは‥‥こんなことになるんだったら‥‥青山なんぞに
配置するんじゃなかった‥‥」 
歯ぎしりして悔やむ氷室。 
山崎が夢組隊長として赴任したことを一番歓迎したのは氷室だった。 
月組を希望しても‥‥山崎の性格が、決して幸せな将来を約束するとも思えなか
った。 
当時崩壊寸前だった夢組を建て直すことが出来る唯一の人材としての期待もあっ
た。 
事実、山崎は夢組隊長としての力を期待通り発揮してくれた。 
そして技術士としても。 
それを一番喜んでいたのは、勿論仲間である氷室であり、そして‥‥紅蘭だっ
た。 
「すみれさんは出血多量‥‥微妙なところね。真也くんはそれ以上よ‥‥おまけ
に腹部を貫かれた際にかなりの霊力を吸い取られてる。アイリスがいなかったら
‥‥」 
玲子はポットに付属されている計測機器を見て唸った。 
「‥‥無謀ね‥‥月影に対抗できる人間は限られている‥‥」   
表情を変えずに呟く冬湖。 
その名の通り、厳冬の湖に響く声にも聞こえた。 
氷室のこめかみに血管が浮き出た。 
「‥‥弁明の手続きは無用のようだな‥‥表に出ろ‥‥」 
冬湖の意外に華奢な腕をとる氷室‥‥表へ連れ出そうとする。 
新緑のチャイナドレスも、氷室にとってはかなり不愉快だった。 
護るべき大切な仲間の象徴‥‥それを何故、この女が身に付けるのか? 
そんなことまで考えること自体、氷室らしからぬことではあったが‥‥ 
「やめようよ‥‥そんなことしてる場合じゃないでしょ‥‥」 
アイリスがいさめる。 
さすがの氷室も思い直すしかない。 
もっと辛い想いをしている少女がそこにいた。 
「それに冬湖ちゃんは‥‥悪いこと、してないよ」 
「‥‥ごめん」 
「ううん‥‥きっと、山崎のお兄ちゃんも‥‥すみれも‥‥元気になるよ。明日
になれば‥‥きっと‥‥いつもどおり‥‥いつもと同じ‥‥」 
「ぐひっ‥‥ひーん‥‥」 
舞姫の泣き声だけが響く。 
「今夜が峠、か‥‥‥おなかが空いたわね。アイリスが言ったとおり、明日にな
れば状況がわかるわ。それまでは‥‥こっちの体調を整えておかないと」 
花やしき支部長らしい言葉を放つ玲子。 
司令と副司令、そして隊長たちは支配人室にいる。 
ここを取り仕切るのはやはり玲子しかいなかった。 
「さあさ、とりあえず食堂に移動しましょう。あんた、ちゃんと飯作ったんでし
ょ、十六夜」 
「む‥‥十六夜は厨房係じゃないよっ」 
「ふ‥‥さあっ、この泣き虫の巫女がっ、あんたも行くのよっ」 
「びええええっ、いやぢゃ、いやぢゃああっ、わらわはここにおるうううっ」 
「全く‥‥柿の字、頼むわ」 
「ふっ‥‥さ、舞ちゃん、ちょっと我慢してくれよ」 
舞姫の軽い身体をすっと抱きかかえて出口に移動する氷室。 
じたばたする舞姫だったが、アイリスと十六夜にからかわれては黙るしかなかっ
た。 
「あれえ‥‥いいな、いいな、だっこされて‥‥」 
「にひひ‥‥泣き虫巫女だあ」 
「う、うるさあいっ‥‥ひーん‥‥」 
「ふふふ‥‥」 

治療室を後にする面々。 
最後に出る村雨と冬湖。 
ちらっと冬湖を見つめる、言葉を発することのできない少年。 
「‥‥‥‥」 
「‥‥何か?」 
「‥‥‥‥」 
村雨は懐から何かを取り出した。 
短冊。 
それは青い短冊だった。 
押し花が飾られている。 
蒼い花‥‥蒼い薔薇。 
ありえないことの例え‥‥それは蒼い薔薇。 
生まれることのないものの例え。 
だが現実としてそこに存在する蒼い薔薇。 
それを冬湖に差し出す村雨。 
「‥‥美しい‥‥わたしに?」 
「‥‥‥‥」 
すっと目を閉じ、頷く仕草を示す村雨。 

村雨は治療室を出て行った。 
無表情の冬湖の顔に一瞬感情の色が浮かび上がる。 
不思議な色‥‥神楽の放つ夢魔の色とも似ていた。 
そして暁蓮の持つ淫靡な色とも。 
そしてすぐにその元の氷のような顔に戻る。 
短冊の裏にはやはり歌が書き込まれてあった。 
‥‥月読は‥‥四季を彩る‥‥舞いさして‥‥桜の華に‥‥夢も散るらん‥‥ 
「‥‥真宮寺さくら、か‥‥結局‥‥わたしの過去は無意味だった‥‥」 
白いブラウスのポケットに短冊を収める。 
「麗一様を狂わす‥‥放置しておく訳にはいかない‥‥」 

地下は人の気配が消えた‥‥地下格納庫を除いて。 
 

プレハブの中に収容されている四体の卯型霊子甲冑。 
完成間近の純白の神武、そして卯型には見えない山吹色の骨格を持つ機体。 
いずれも自分を創りだす主を待ち侘びるかのように青白い霊気をまとっていた。 
そして桜色の機体。片腕が紫色に染まっている。まるで弓道の袖抑えのように。 
最後の機体は‥‥完全な紫色。深い菫色はまるで命の鼓動が聞こえてくるようだ
った。 
いつもはこの時間も化粧を施す人がいた。 
が、今は違う。 
鋼鉄の鎧も涙を流すのか‥‥常時接続されている外部電源から少し悲しい音色が
聞こえる。 

そのプレハブの外。 
そこには真紅と群青の神武が並んでいる。 
その機体の前に立つ二人の長身。 
カンナと夜叉姫は銀座に到着した後、治療室にいたのは一瞬だった。 
じっとしていられなかった。 
眠る二人を黙って見ていることなど‥‥出来るはずもなかった。 

「‥‥これがおめえの乗ってる神武か?」 
「ああ‥‥横の蒼いのが旦那の機体だ」 
「ふむ‥‥」 
夜叉姫は暫し値踏みするように真紅の機体を見つめた。 
「‥‥おめえ‥‥左利きか?」 
「え‥‥なんでそんなこと知って‥‥」 
「‥‥左肩の装甲が消耗してる。利き腕で受けるのも攻撃の幅を狭めるだけだ
ぜ」 
「‥‥‥‥」 
「ふーむ‥‥それに‥‥右肘、か‥‥うーむ‥‥」 
「な、なんだよ‥‥」 
「おめえ‥‥まだ鍛える余地がありそうだな」 
「‥‥そりゃどういう意味だ?」 
「それは後だな‥‥とりあえず呪文処理をするか。特に左半身を重点的にやらん
といけねえな。おめえ、左肩、怪我してるみてえだけど‥‥」 
「も、もう直ってるよ‥‥」 
「‥‥処理が終わったら特効薬をくれてやる。明日以降はあたしが相手をしてや
るよ、カンナ」 
「あ?」 
「おめえ、山崎隊長とペアを組むんだろ?‥‥おめえが撤退するようなことにな
ったら、隊長に負荷がかかる。そんなことは‥‥許せねえ‥‥」 
「‥‥‥‥」 
「おめえの神武は司令と隊長の手で殆ど完璧に仕上がってる。そしてあたしの手
で‥‥その鎧は完全になる。おめえが撤退するとしたら‥‥それはおめえの腕の
責任だ」 
「‥‥‥‥」 
「だから‥‥あたしがおめえを鍛えてやるよ、カンナ」 
「‥‥おもしれえな‥‥あたいに‥‥この桐島流那覇手の後継者に、能書きをた
れるってか‥‥」 
カンナの燃えるような瞳も意に介さない夜叉姫。 
持参した水筒の口を開け、筆をその口に突っ込む。 
そして襷をかけて、袖をまくりあげる夜叉姫。 
「能書きなんぞたれるか‥‥身体で教えてやるよ。それも明日だ。今は他にやる
こともあるしな」 
「‥‥‥‥」 

筆が描く梵語。 
薄い墨絵のような字も、すぐに透明になって見えなくなった。 
滑らかに描かれていく呪文は真紅の機体に埋め込まれるように消えていく。 
「ふーむ‥‥炙り出しと逆だな‥‥どういう原理なんだ?」 
「ん?‥‥花組の神武のシリスウス鋼表面には薄い被膜が形成されてる。李‥‥
紅、蘭‥‥だったか?、彼女が開発した壱型シリスウス硬化溶剤が塗布されて
て、それに染み込むと透明になるんだよ」 
「へえ‥‥」 
「呪文の保護と装甲の保護。なかなかいい仕事してくれるぜ、おめえらの技術参
謀殿は‥‥確かに山崎隊長が師事を仰ぐだけはある」 
「へ‥‥へへ‥‥」 
「おめえの機体は少し時間がかかるが‥‥明日中には終わらせる。すぐにでも出
撃できるようにな」 
「‥‥頼りにしてるぜ」 
「‥‥ん?‥‥なんか言ったか?」 
「な、なんでもねえよ‥‥」 
 
 

地下格納庫から階段を二階まで上る。 
すぐに花組の少女たちの部屋が目に移る。 
無音。 
人の気配は感じられない。 
‥‥ただ、さくらの部屋と大神の部屋には間違いなく人はいた。 
さくらの部屋には、その部屋の主が。 
大神の部屋には‥‥約束の時を待つ少女が。 

さくらの部屋にはさくら以外の人もいた。 
金髪の白拍子。 
背徳の巫女‥‥それは夢魔の化身。 
神楽は眠るさくらをじっと見つめていた。 
暗い部屋で。 
光を失ったさくら‥‥神凪がかけた毛布をはぎ取る。 
神が作り上げた彫刻。その裸体が再び浮かび上がる。 

「‥‥く‥‥こ、この小娘が‥‥大佐を‥‥大佐を‥‥」 
さくらの柔らかな乳房を手でわしづかみにする神楽。 
「ん‥‥っ‥‥」 
「この‥‥小娘が、大佐を‥‥わたしから‥‥」 
そしてそのまま首元に手を移し‥‥締め上げる。 
「う‥‥」 
「殺してやる‥‥お前がいなければ‥‥花組さえなければ‥‥」 

‥‥よせ‥‥神楽‥‥ 
「殺して‥‥え‥‥だ、だれっ!?」 
‥‥やめるんだ‥‥神楽‥‥昔に戻りたいのか‥‥ 
「た、隊長?、隊長なのっ!?」 
‥‥お前は‥‥夢魔ではない‥‥お前は夢組の神楽‥‥俺の片腕だ‥‥ 
「‥‥許してください‥‥わたしは‥‥わたしは所詮‥‥」 
‥‥俺の元へこい‥‥俺の傍へ‥‥ 
「で、も‥‥」 
‥‥お前を導くのは‥‥司令ではない‥‥ 
「‥‥‥‥」 
‥‥お前は‥‥俺の傍にいろ‥‥ 
「は、い‥‥」 

あやつり人形のように‥‥ただ呆然と立ち尽くす金髪の人形。 
‥‥俺の傍にいろ‥‥ 
「おおせ、の、まま、に‥‥」 
神楽の瞳から妖しい光が放たれる。 
淫靡な光‥‥それは夢魔の光ではなく、夢魔に処された者の光。 
吸血鬼に血を吸われた乙女‥‥同じ闇の世界の住人と化した者の放つ光だった。 
「ご主人、様‥‥」 
神楽は夢遊病者の如く、さくらの部屋を後にした。 
 
「‥‥あら?」 
「‥‥‥」 
一階から二階へ上がる踊り場ですれ違う二人の夢魔。 
冬湖の声に反応することなく、夢を見るような表情で階段を下る神楽。 
一瞬、すれ違う神楽の横顔をちらっと見つめ、冬湖も階段を上る。 
「‥‥面倒なお嬢さんは‥‥取敢ず棚上げできそうね‥‥」 

冬湖は二階に到達して立ち止まった。 
暫し思案する。 
神楽が出ていった後のさくらの部屋‥‥扉が少しだけ開いている。 
じっと見つめる冬湖。 
「順番を間違えては‥‥まずは‥‥」 

冬湖が向かったのは大神の部屋だった。 
再び部屋の前で立ち止まる。 
入室禁止の札がかけられている。 
その札に手をかける冬湖。 
「‥‥麗一様も‥‥随分優しくなったもの‥‥」 
何気なく札を裏返す。 
「いや‥‥不思議じゃない、か‥‥わたしも‥‥アイリスがいてくれたら‥‥」 
ドアノブに手をかけ‥‥扉を開ける。 
すみれの時とは違った。 
開ける意志を根こそぎ奪った不可解な力は、少なくとも冬湖には効かないらし
い。 
「‥‥藤枝、杏華‥‥約束の時を待つ女、か‥‥」 
灯の消えた部屋。 
それでもぼんやりとにじみ出る光。 
それはベッドに眠る人から発せられていた。 
その光に呼応するように‥‥冬湖の胸元で輝く真紅の懐中時計。 
「古の約束は‥‥我が血を以て為す‥‥ふ‥‥ふふ‥‥ふふふ‥‥」 
笑う冬湖。 
北風にも似ていた。 
神凪が下げた入室禁止の札を元通りに戻す。 
そして大神の部屋に入り、内側から扉を閉める。 
元通りに‥‥ 
他の人間が入れないように‥‥ 
 
 

「な、なあ、なんか手伝うことねえか?」 
「ん?‥‥いや。おめえは少しやすんでろ」 
「そんな‥‥お、おめえだって疲れてるだろ‥‥夜叉姫‥‥」 
「‥‥‥‥」 
真紅の機体に黙々と筆を入れる夜叉姫。 
カンナは居心地が悪そうに見守っていた。 
夜叉姫が施す呪文は浮き上がっては消えていき、そして呪文が施された領域は、
明らかにそれまでと違う光沢を放つように見えた。 
「な、なあ‥‥」 
「‥‥一つ頼みたいことがある」 
「お、おう」 
「‥‥中庭に‥‥花が咲いてた。さっき見たんだけど‥‥」 
「お、おう?」 
「‥‥確かにあれは‥‥あやめの花だった。雨に濡れてて‥‥」 
「‥‥あやめの花‥‥か」 
「それを七本摘んできてくれ」 
「花‥‥花を七本、か?」 
「ああ。そして、香りを逃さないよう密閉してドライフラワーにする‥‥出来る
か?」 
「ドライフラワー、って‥‥あ、そう言えば、さくらと紅蘭がいつだったか‥
‥」 
「間違えるなよ、あやめの花、だぞ」 
「お、おう‥‥?」 

カンナは格納庫を飛び出した。 
花を摘む理由などわかる訳がないが、夜叉姫が必要だと言う以上、夢組の為す技
にでも関係しているのだろう‥‥カンナはそう思うことにした。 
静まりかえる格納庫。 
筆の奏でるしっとりとした音が、雨音の届かない地下格納庫に優しく響いた。 

‥‥夜叉姫‥‥ 
「ん?、まだいたのか、カンナ?」 
‥‥夜叉姫‥‥ 
「!‥‥隊、長?‥‥山崎隊長かっ!?」 
夜叉姫は筆を止めた。 
格納庫の天井はクロム・モリブデン鋼の梁が無尽に張り巡らされている。 
そしてその梁に被さるようにシリスウス鋼板が覆う。 
冷たい天井。 
でも温かい天井だった。 
おさげ髪の守護天使、そして二人の青年が護った優しい地下牢の優しい天井。 
夜叉姫は天井をじっと見つめた。 
声の主を探して。 
「な、なんか言いたいのか?‥‥あたしに頼みたいことがあるのかっ!?」 
‥‥プレハブへ行け‥‥ 
「プレ、ハブ‥‥?」 
‥‥プレハブで眠る‥‥俺と司令の娘‥‥お前が育てろ‥‥ 
「隊長と司令の‥‥娘‥‥?」 
プレハブから発する気配。 
人ではない‥‥が、まるで生きているかのような気配。 
「隊長と司令が手を加えた神武のことか?」 
‥‥“Halcyon Lorelei”と名付けた‥‥ 
「ハルシオン‥‥ローレライ?‥‥水の精霊が飛び立つ、とでも?‥‥神武、じ
ゃないのか?」 
‥‥お前の目が俺の目になる‥‥お前の手が俺の手になる‥‥ 
「あ、あたしが、その機体を?」 
‥‥そうだ‥‥癒しの巫女の衣‥‥お前が育てるんだ‥‥ 
「あ、あたしには‥‥そんな‥‥無理だよ‥‥」 
‥‥夢組は夢を与える‥‥花組が花を齎すように‥‥ 
「‥‥で、でも」 
‥‥あきらめるな‥‥あきらめてはいけない‥‥夢組はそのためにある‥‥ 
「‥‥‥‥」 
‥‥俺も傍にいるから‥‥ 
「あ‥‥う‥‥うん‥‥うんっ!」 
声が途切れた。 
そして夜叉姫はじっとプレハブを見つめた。 
中で眠る四体の卯型霊子甲冑‥‥山崎の意志はその中の一体を指示していた。 
夜叉姫は筆を持ったまま、外からは見えない山吹色の機体が眠る位置をじっと見
つめていた。 
 
 

「‥‥疲れたろ。アイリスたちがご馳走を用意してくれたようだ。飯を食ったら
‥‥楽屋を開放するから、ゆっくり休め」 
窓際に立って銀座の街並みを見つめながら呟く神凪。 
マリアが横に立つ。 
横顔だけの神凪の表情からは、その想いを読み取ることは出来なかった。 
夜に相応しい、雨に相応しい静けさが覆った。 
雨音だけが支配人室に響いた。 
向かい合うように立ち並ぶのは‥‥ 
大神、斯波、銀弓、無明妃。 
「聞いておきたいことがあるんですがね‥‥」 
沈黙を破ったのは銀弓だった。 
「‥‥なんだ?」 
「この件は‥‥国家レベルの話ではありませんな?」 
「‥‥横浜華僑のことか?」 
「‥‥承知しているようですね。では話がはやい‥‥明日にでも横浜に出向くつ
もりですよ。ここにいる‥‥斯波隊長と、そして無明さんと一緒に、ね」 
「‥‥‥‥」 
神凪はそこで向き直った。 
目が不思議と悲しい色に染まっていた。 
「妙だとは思ったんですよ。その理由がはっきりとわかりました。向こうには由
里先輩や可憐さんたちもいるし、ほんとは今すぐにでも行きたいところですが‥
‥確認したいこともありますし、ね‥‥」 
銀弓は無明妃を、そしてマリアと大神をちらっと見つめて台詞を切った。 
一瞬きょとんとするマリアだったが‥‥ 
「‥‥任せるよ、銀弓。ただし‥‥矛は交えるなよ」 
それまでじっと目を閉じていた斯波。 
目を開けているかもわからない。 
斯波はゴーグルをかけていた。 
「‥‥それは花組が決着をつける、という意味ですかな?」 
「そのとおりだ」 
「‥‥‥‥」 
斯波はちらっと横にたつ大神を見つめた。 
やけに寒いと大神が感じた理由がそれだった。 
横目で隣の斯波を見ても、斯波の目は見えない。 
「可能かな、大神隊長?」 
「‥‥是非もないこと」 
「今の状態で?」 
「‥‥‥‥」 
「無理はしないように。時間が解決してくれる、とは言っても‥‥あまり悠長に
構えている訳にもいかない‥‥銀弓が言ったとおりだ」 
「‥‥‥‥」 
「それと、おかしな手合いには参加していただかなくとも結構ですよ、神凪司
令」 
「‥‥冬湖のことか?」 
「大戦の時もそうでしたがね、どうも目に余るんですよ‥‥ウチの氷室をあれだ
け激らせるのも問題ですが‥‥如何せん、月の動きの妨げになっている。連携が
とれませんからな」 
「‥‥冬湖の件も含めて明日発令を下す。斯波以外は知らんと思うが‥‥人事異
動だ」 
「人事異動って‥‥どういうことでしょう?」 
さすがにマリアも黙ってはいられなかった。 
寝耳に水とはこのことだ。 
「帝撃の一部再編を実施するが‥‥基本的には変わらんよ、マリア。具体的には
花組と月組の増強だ‥‥だから明朝9時にもう一度ここに集合しろ」 
「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」「‥‥‥」 
四人四通りの表情を見せる風組を除く五師団のヘッドたち。 
山崎はいない‥‥無明妃が代って出頭している。 
神凪は机の前に移動して、机に腰を下ろすような格好で向かい合った。 
マリアも大神も、そんな姿を米田前司令の時は勿論見たことはない。 
腕を組んで、じっと斯波と銀弓を睨む。 
「繰り返すが‥‥横浜に行っても手は出すなよ。向こうには赤鬼と青鬼がいる。
お前らでは‥‥負ける、とは言わんが、勝てる見込みも薄い」 
「ほう‥‥」「具体的には?」 
銀弓の周囲におかしな気合いが立ち上がった。 
斯波はやはりゴーグルに隠された視線を今度は神凪に向けるだけだった。 
暗黒の視線を真っ向から受ける月と雪。 
「熱くなるなよ‥‥山崎やすみれくんの二の舞いになるぞ‥‥月影、という名は
知ってるだろ?」 
「‥‥勿論」「‥‥‥」 
「ヤツはもう、俺とほとんど変わらないほどに‥‥強大に成長している。尤も、
俺としては負ける気はせんがな。ただし、もう一人‥‥青鬼が絡むとかなり面倒
だ」 
「青鬼、ですか‥‥」「‥‥‥‥」 
「斯波‥‥」 
「なんでしょう」 
「特にお前だ。お前には他にやるべき仕事がある‥‥わかってるだろう?」 
「ええ」 
「絶対に月影には手を出すなよ‥‥それもお前が一番よくわかってるはずだ」 
「‥‥どうでしょう。状況次第、でしょうな」 
「そして俺もお前の力はよくわかってる。少なくとも‥‥お前とまともに立ち会
える人間は、帝撃では俺しかいないが‥‥」 
「!」「!」 
息を飲む大神とマリア。 
初めて対面した雪組隊長の実力とは‥‥花組のそれを凌ぐものなのか‥‥ 
「‥‥だが、それも相手による。今の月影は外も中も昔とは違うからな」 
「ふむ‥‥なかなか興味深い話ですな」 
斯波はそこで腕組みをした。 
特に感慨深い様子も見えない。 
やはり雪組隊長らしく。 
「月影、でしたか‥‥彼とわたしの具体的な差異についても‥‥これは実践して
みないと不明でしょう」 
あくまで冷静に淡々と口を開く斯波。 
神凪は溜め息をついた。 
横でマリアが何も言えずにそんな神凪を見つめた。 
自分ごときでは助言もままならない。 
「これは命令だ。絶対に月影には手を出すな‥‥最悪、お前が吸収されることに
でもなったら‥‥」 
「‥‥‥」 
「そうなったら‥‥もう、俺でも抑えられん。大神の覚醒を待たないと‥‥あ‥
‥いや‥‥」 
「逆もあり得るのでは?」 
「‥‥お前‥‥俺と戦いたいのか?」 
神凪は机から腰を下ろして斯波の目の前まで歩み寄った。 

再び支配人室に沈黙が訪れた。 
雨音だけが聞こえる。 
不思議と気持ちを和ませる音だった。 
ただじっと立ち尽くしていた無明妃‥‥その薄紅色の唇が震えた。 
「‥‥少し‥‥冷えてきましたね」 
「ん?‥‥そうだな‥‥そうだ、せっかくのご馳走が冷めてしまう。みんなを食
堂に集めてくれるか、無明妃」 
「はい」 
「あ‥‥わたしも行きます」 
白と黒の女性二人が支配人室を出た。 

「現状はかなり厳しい、か‥‥」 
大神が漏らす。 
「‥‥まあ、なんとかなるっしょ」 
銀弓が応える。 
横にあるソファに移動し、ドカッと腰をおとす。 
「‥‥辰型の建造を急いだほうがよろしいのでは?」 
斯波。 
「‥‥いや‥‥あれは最後だ。まだ周りも落ち着いていないし‥‥何より、斯
波、お前はともかく、神楽と十六夜の準備が完了していない」 
神凪は机から移動して、椅子に腰を下ろした。 
そして窓の外に視線を固定する。 
雨は止む気配がない。 
「‥‥ふむ‥‥ということは‥‥辰型は今回の件とは無関係と考えて‥‥」 
「別件とは言いきれんが‥‥ただ、花組の別動隊は必要になる」 
「ふむ‥‥まだ裏がありそうですな」 
「ああ‥‥それも‥‥銀弓、お前にいずれ依頼する」 
「は?‥‥またどっかに飛ばされるんすか?」 
ソファに身体をうずめていた銀弓は首をひねって愚痴った。 
如何にも眠そうな目をしている。 
「お前、月組隊長だろうが‥‥俺だって地方回りはさんざんやったんだからな」 
「へいへい‥‥」 
「‥‥辰型、というのは‥‥神武の後継機種があるんですか?」 
大神が聞く。 
辰型霊子甲冑の話など、勿論初耳だった。 
「ん?‥‥まだ紙の上の話だよ。俺個人として試しておきたいこともあるしな‥
‥」 
「?」 
「さて、と‥‥腹へったな‥‥食堂に行こうぜ。腹がへっては戦はできんから
な」 
「そりゃそうだ」「そうしますか」「ええ」 

すぐに支配人室は人の気配が消えた。 
雨が降る。 
ただ雨音だけが無人の支配人室に木霊した。 
窓の外。 
銀座の路面に叩きつけられる雨。 
人の気配が消えた銀座。 
 

支配人室の窓に面する銀座の横道、帝国劇場の向かい側の建物。 
軒下で雨宿りをするかのような‥‥美しい人影。 
神凪ですら気づかなかった、その気配。 
軍服の深い緑色は海の色ではなく、底が見えない湖の色にも見えた。 

「‥‥もっと早く来るべきだったわ」 
栗色だった髪も、今や闇に溶ける黒髪に変わって‥‥雨に濡れて妖艶さを助長し
ていた。 
「神凪さんは‥‥振り向いてくれますかね?」 
その傍らに姿を表す白い影。 
作り物だった顔は、もう完全に美しい人間が持つ美しい顔に変貌していた。 
「ふふ‥‥そういう運命なのよ‥‥李暁蓮、彼女には悪いけど、ね‥‥」 
「‥‥ではわたしは‥‥先に‥‥」 
白い影は雨に溶けるように消えた。 
そしてもう一つの美しい影も、すぐに軒下から離れ、雨の銀座に溶け込んで行
く。 
「‥‥もうすぐよ‥‥楽にしてあげるから‥‥期待してなさい、神凪くん」 
その後姿‥‥軍服に裂け目が奔る。 
艶めかしい素肌が見えた。 
背中に浮かび上がるのは陽炎‥‥それは漆黒の翼。 
だが決して魔界の者の翼ではない。 
紛れもない天使の翼‥‥黒く染まった堕天使の翼だった。 
 
 

<九章終わり>


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Uploaded 1998.7.13



ふみちゃんさんの「花組野外公演」第九章です。

な、なんというか・・・急転直下、って感じですね。(^^;)
タイトル通り、時計は動き出し、様々な人々の思いが走り出す・・・・

月村、神楽、暁蓮、無明妃、氷湖、可憐、銀弓・・・・そして、いよいよ”あの方”が復活!!
さらに、”あの人”まで・・・・!!

弱ったなぁ・・・ツバキ大戦とちょっとかぶってる ^^;; ちょっと修正して重ならないようにしなくちゃ・・・(笑)

・・・ま、そ、それはともかく、ますます目が離せなくなってきました。

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