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 第6章 沖縄県 太平洋上の南大東島(2001年 1月)
     07.那覇04 沖縄の関帝廟、久米周辺

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☆これまでの旅☆
船に揺られてやってきた沖縄。ここは南国、暖かい。などとのんびりしてる暇
も無く、アクシデントの3連発。旅の目的地、南大東島につけるのはいつの日
か? などと言ってても仕方ない。ひさしぶりの那覇の散策だ。
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●福州園と久米三十六姓

 沖縄は歴史的に中国とのつながりが深い。地図を見ればわかるように、南西
諸島を伝って南へ、そして西へ行くと、そこには台湾がある。
 琉球と中国の交流の名残は今の沖縄に今も残っているが、わかりやすいもの
の一つが、那覇市と中国福建省の国際友好都市10周年を記念して1992年に造ら
れた福州園だろう。その名の通り中国福建省の福州地方の手法で造られた中国
式庭園だ。
 琉球は中国と貿易をしていた。日本に併合された形になっても中国に対して
は独立国としての体裁をとっていた。
 そのような関係があったから、多くの琉球人が今の中国福建省の福州に住ん
でいたと言う。そのため、今でも福州には琉球人の墓があると言う。
 那覇と福州の交流は古く、琉球と明が貿易をしていた14世紀末には福州から
「久米三十六姓」と呼ばれる人たちが那覇に渡来している。
 当時は三山時代といわれて、まだ琉球は統一以前だが、首里城に根拠を置い
ていた中山はもっともさかんに中国と進貢貿易をしていた。貿易だけでなく、
留学生の派遣など文化の交流も盛んだった。そのとき、通訳や公文書の作成な
どに携わったのが、この「久米三十六姓」の人々だという。

●沖縄の中国の庭「福州園」

 彼らが代々住んだのが、「久米村(くにんだ)」と呼ばれた一帯だ。福州園
前の松山公園の入口には、久米村発祥地碑が立っているという。
 この福州園は外観からすでに中国そのもの。中に入ると中国語のガイダンス
が流れている。もちろん、沖縄らしいものは何一つ無い。
 福州市産の資材と福州地方の手法で造られ、園内には川や池に滝、それから
橋や塔に六角形の東屋が、中国風の景色を作り出している。
 ここには福州を代表する景勝地や建築物、四季の自然が表現されているとい
う。福州に行ったことがないのでなんとも言えないが、中国の歴史的な庭園の
雰囲気はある。もちろん、今の福州の街中に当たり前のようにある景色ではな
いだろうが。
 しかし、観光客はほとんどいなかった。確かに、沖縄以外に住んでいる人が
中国の庭園を見たいなら、上海の豫園へいく方が安いかもしれない。

○福州園
福州園

●孔子廟と関帝廟

 「久米三十六姓」と呼ばれた中国からの移住者が住んでいたところが、波之
上の近く、福州園がある久米のあたり。福建省からやってきた中国人が住んで
いるのだから、忘れてならないのは、関帝廟だ。
 もちろん、那覇にも関帝廟がある。と言いたいところだが、正確にいうと、
関帝が祀られている廟がある、ということになる。
 敷地内に神を祠る建物が3棟あり、その一つに関帝も祠られているという状
態だ。だから単独の関帝廟はない。
 久米村にはかつて、1673年(尚貞王)創建の孔子廟、その隣には1718年(尚
敬王)に建てられた最初の学校明倫堂があったが、戦争で破壊されてしまった。
 戦後、久米三十六姓の末裔で組織された久米崇聖会によって、至聖廟が造ら
れた。
 緑の芝生を中央に囲むかたちで大成殿(孔子廟)、明倫堂、天妃宮、天尊廟
(龍王殿、関帝廟)が並んでいる。
 ここは灰色の石灰石の塀と赤い屋根。沖縄風の建物だ。だから道教寺院とい
う雰囲気ではないし、仏教寺院でも、もちろん神社でもなく、当然沖縄の民俗
的な信仰の対象である御嶽(うたき)ともまたちがうという奇妙な祭祀の場だ。
 名前は至聖廟で、入り口の横にかかっているパネルによると、天尊廟の中に
関帝廟があるということになっている。

●関羽健在

 このように、孔子、関帝、天后(てんこう)と、道観(どうかん)に祀られ
ている神の中でも、トップ3といえるほどの神が祀られている。
 その中でここの主祭神は孔子。ということは、中国風に言えば孔廟だ。だか
ら、関帝は主祭神ではなく、右側に小さく祠られているということなのだろう。
 ちょうどお参りしている人がいた。女性が正座し、両手を合わせている。漆
塗りの四角い膳の上に酒や米が入っていて、それを供えている。
 横につながった沖縄風の黒い線香もあり、完全に沖縄風の御嶽祭祀だ。男性
が横で何もしないで見守っているのも沖縄風。
 このようにお参りの方法も道教とはまったくちがう沖縄独自のスタイル。ぼ
くが見た感じでは、普通に御嶽にお参りしているのとかわらないようだ。とい
うことは、ここは沖縄の人にとっては御嶽なのかもしれない。
 近くに新興宗教のような仏教寺院があるのだが、そこの金剛カ士像にも同じ
ように祠っていたので、これが沖縄の御嶽にかかわらず一般的なお祈りスタイ
ルなのだろう。
 だから中国の道教寺院っぽい神戸や横浜の関帝廟とはちがい、とても沖縄的
な施設となっている。もはや道観というよりも御嶽だろう。
 ほかにも、敷地には蔡温具志頭親方文若頌徳碑や近くには波之上宮があるな
ど、このあたり一帯は、「非沖縄的」な宗教施設が固まっている。

○関帝廟が中にある天尊廟
関帝廟が中にある天尊廟

●琉球と明・清

 このように琉球と中国は長い交流の歴史がある。となると、疑問に思うこと
がある。
 1609年、江戸開幕の3年後、薩摩藩が琉球に侵攻。あっという間に首里城を
開城させた。当時世界最強とも言われた日本の戦国武将たち。その中でも勇猛
で有名な島津氏であるだけに、懸命な判断かもしれない。
 しかし、当時の琉球王国は中国の明帝国の冊封下にあり、琉球に侵攻すると
言うことは、明を敵に回すということで、それがどうなるかは秀吉の文禄・慶
長の役によりはっきりしているだろう。これは日本だけでなく、琉球にとって
も重要なことだ。
 「久米三十六姓」と称された中国系の人たちは、島津氏の琉球侵攻に対して
本国の明や清へはなにも伝えなかったのだろうか。
 島津氏の琉球侵攻の数年前の豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、明は李朝へ援軍を
出し、日本と戦っている。そのため、秀吉の死後天下を取った家康は明との国
交回復に苦労したと言う。
 しかし、朝鮮とちがい琉球へ中国が援軍をだすことは一度もなかった。
 当時の中国には琉球人も住んでいた。彼らは中国に対して琉球の窮状を伝え
なかったのだろうか。
 琉球に住む中国人と、中国に住む琉球人。島津氏の侵攻のが中国に伝わらな
かったと考えるのはとても難しい。
 この薩摩支配下の琉球と明清の外交は気になるところだ。

●つづく●

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