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第6章 沖縄県 太平洋上の南大東島(2001年 1月)
08.那覇05 波之上の神社と寺
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☆これまでの旅☆
久々にやってきた南国沖縄。いきなりのアクシデント3連発もなんのその。旅
の醍醐味は何でも楽しむこころ。さてさて、那覇の元中華街? の久米の散策。
ここには三国志で有名な関羽が、神様として鎮座していました。
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●波之上宮
至聖廟からすぐのところに波之上宮の大鳥居がある。なんだかいかめしい。
神社を信仰する日本とはちがい独自の御嶽(うたき)信仰を発達させた沖縄
だが、本土風の神社がいくつかある。
戦前の国家神道の下につくられたのではなく、それ以前からあった神社もあ
る。波之上宮もその一つだ。
波之上宮の祭神は航海の神で、それも琴平宮ではなく、熊野権現というとこ
ろがおもしろい。
もしかすると、中国道教の航海の神である馬祖、つまり天后を日本の航海神
と合祀してあるかもしれないと思ったが、少なくとも今は日本の神だけを祠っ
ているようだ。実際、天后があるのは下の至聖廟のほうだ。
とはいえ、この神社の本殿は、赤い瓦を白い漆喰で止めるという沖縄風の作
りだ。したがって、屋根の形も流造りでも大社造りでもない沖縄風。
ほかにも沖縄らいいところの一つが琉球の神であるヒヌカン(火の神さま)
用のお札だろうか。しかし、デザインの方はやはり神道式だが。
○波之上宮の黒鳥居
○波之上宮の本殿
●沖縄と神社
この波之上宮は大鳥居があるようにそれなりの規模の神社だ。境内の様子も
人々の参拝も神社形式で、至聖廟のように沖縄化されていない。
那覇にある大きな神社だけあって参拝の人もちらほら。その中で目立つ一団
があった。20才くらいの男女がスーツを着て集まっているので、成人式だろう
か。
沖縄と言うと伝統的な御嶽信仰だが、神社があるので初詣の習慣があるそう
だ。しかし、それは明治以降の習慣で、テレビで本土の初詣中継が写るように
なってから広まったらしい。
沖縄で参拝者が多いのは、波之上宮よりも大きな普天間天満宮で、中城村の
成田山も初詣の人出は多いという。沖縄でも本土の習慣が広まっているようだ。
洞窟を祀っている普天間宮と同じように、海を見下ろす丘の上につくられて
いる波之上宮は建てられている場所が神社らしくない。むしろ、沖縄風の遥拝
所に相応しい場所だ。だから、元は御嶽か遥拝所があったのかもしれない。
●護国寺
丘の上にある波之上宮、その足元に当たるところに寺がある。それが護国寺
だ。
明治以前の日本では、神は仏の仮の姿とされ、神は仏の守護者と解釈された。
これを神仏習合と言う。そのため、神社と寺院はセットに建てられるようにな
った。
現在でも神社と寺院が隣り合わせにあることは少なくない。しかし、寺院が
併設されていない神社もまた少なくない。
それは神社を寺院の下に置く神仏習合の反動のためか、明治の初めに行われ
た神仏分離からはじまった廃仏のためつぶされた寺が多いからだ。
そこで、波之上宮のとなりの護国寺も神仏習合のものかと思われる。
山門の仁王像の前に沖縄風のお供えをして、なにか祈っている女性たちがい
た。至聖廟と同じように御嶽で行う沖縄風のお供えと祈りだ。
これらを見ていると、沖縄の御嶽信仰と言うのは、祈りを向ける対象の様式
ではなく、祈る人の様式に重点が置かれているように感じる。対象がなんであ
れ、祈る人がそこに神を見出し、所定の様式で祈ったものが御嶽だろうか。
この護国寺は、立派な鉄筋コンクリートの建物が建っていて、寺には見えな
い。まるで新興宗教のようだが、沖縄に現存するもっとも古い寺で、境内には
ベッテルハイム記念碑がある。
ベッテルハイムはハンガリー生まれで、イギリス海軍から派遣された宣教師。
1846年から8年間波之上に滞在し、日本初のプロテスタント布教活動をした。
布教以外にも『琉訳聖書』をまとめ、医療活動も熱心に行い、「波之上の眼
鏡(なんみんぬがんちょー)」の名で人々に親しまれていたという。
●琉球の仏教受容
本土では寺というと何の違和感も感じないが、沖縄には寺は少ない。それは、
沖縄の信仰の中心が、寺ではなく御嶽だからだろう。
沖縄ではキリスト教も布教はされたが、結局少数の信者しか得られず、仏教
も本土のように檀家制度で守られなかったため、沖縄古来の信仰が存続してい
た。
沖縄でも本土同様仏教は受け入れてたが、国王自身が琉球古来の祭祀にかか
わっているためか、日本のように強く国が後押しすることはなかったようだ。
このように琉球では外来の宗教が生活に密着すると言うことは少なかったが、
理論体系がしっかりしていて、教育機関の役割も果たす仏教寺院は、信仰では
なく、教学の部分の需要が中心だったのだろう。
●旭ヶ丘公園
波之上宮のすぐ近くに公園がある。それが旭ヶ丘公園。以前来た時は真夏だ
ったのでセミが鳴いていたが、今は静かだ。温かい沖縄とは言え、冬にはセミ
はいない。どこかの工事の音が聞こえるだけだ。
この公園には、あちこちに慰霊碑や顕彰碑が立っている。その中の一つ小桜
の塔は、1944(昭和19)年に本土に向かう途中、トカラ列島悪石島周辺で米潜
水艦に撃沈された学童疎開船対馬丸の霊を弔うものだ。
公園には丘があり、頂上から那覇市街が見える。すると波之上宮の反対側は
ラブホテル街だった。図書館で沖縄のことを調べててわかったのだが、ここに
は昔遊郭があったらしい。
沖縄に限らず、江戸時代の大きな貿易港の近くには遊郭があった。そして、
遊郭のあったところは現在では性風俗関係の店が固まっているところが多い。
さらに、都市からちょっと離れた寺社の近くに遊郭が形成されることもあり、
その場合は寺社が遊郭の運営に深くかかわっていた。だから、ここにラブホテ
ル街があるのはそうおかしな話しではない。
●つづく●
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