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 第6章 沖縄県 太平洋上の南大東島(2001年 1月)
     22.首里07 城を見下ろす弁ヶ嶽

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☆これまでの旅☆
南大東島へ行く前に、やってきたのは有名首里城。次から次へと門を抜け、上
へ上へと上がっていくと、とうとう到着。城から降りていきますと、そこにあ
るのは竜譚池。池の向こうは県立博物館。昔は琉球の王様住んでいました。
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●弁ヶ嶽

 県立博物館を出て向かったのは、首里城よりも高いところにある御嶽(うた
き)。それは、首里城の東の弁ヶ嶽(べんがだけ)という小さな山の上にある
大小2つの御嶽だ。大嶽(うふたき)と小嶽(くたき)。
 大嶽は久高島(くだかじま)への遥拝所、小嶽は斎場御嶽(せいふぁうたき)
への遥拝所で、毎年国の祭が行われていたという。
 久高島への遥拝所とは、久高島へ直接行かずに、遠くから祈願を済ませられ
るところのこと。この弁ヶ嶽以外にも斎場御嶽、知念城跡などもこれにあたる。
 説明板によると、弁ヶ嶽は首里城の東方約1キロにあり、標高約165.7メート
ル、沖縄島中南部では最も高い峰で、古くは航海の目標ともされていたという。

●大嶽

 2つの御嶽を分けるように道がある。通学路のようになっているようで、高
校生がよく通っていた。
 道の東側が高くなっていて、そこにあるのが大嶽。沖縄風の屋根を乗せたコ
ンクリートで作られた門のようなものがある。そこから、奥のほうに香炉があ
るので拝殿に相当するものだろう。以前は、石門の前に拝殿(ふぇーでぃん)
と言う建物があったという。
 御嶽の門というと、普通は薄い塀のようなものが多いのだが、ここのは厚さ
が1メートル以上あるような「門」となっている。高さも人が通れるくらいあ
る。
 説明板によると、この門は、1519年に園比屋武御嶽の石門とともに築かれ、
1938年に国宝に指定されたが、太平洋戦争中に破壊された。
 その後、1954年に現在のコンクリートの門が、ハワイのうるま一心会からの
寄付と島民の労働奉仕で再建された。
 沖縄固有の信仰である御嶽だが、神社のようなものが少なくない。もちろん
昔は違っていて、それが現代に神社風に変わってきたようだが、その御嶽の神
社化の過程を、この石門は示しているという。

○大嶽
大嶽

●小嶽

 石門がある大嶽の西側にあるのが小嶽。ここは天子(てだこ)が祠られてい
る。
 といっても、そこにはコンクリートで作られた小屋の中に御神体であるイビ
があるものから、香炉しかないものまでいくつかの御嶽が並んでいる。
 周りにある鳥居や灯篭が壊れている。まだまだお参りする人もいるようだが、
なぜこわれたままなのだろうか。
 今の沖縄では鳥居のある御嶽はめずらしくないが、それは明治以後、本土の
神社に倣って作られるようになったからだという。
 だから、本来の御嶽祭祀とは関係の無い鳥居や灯篭が壊れても、直すことは
ないのかもしれない。

○小嶽
小嶽

●頂上

 大嶽の横に上り道があり、上がっていくと弁ヶ嶽の頂上にでた。頂上には三
角点があり、北西向きの拝所もある。ここからは太平洋と東シナ海両方が見え
る。実際、頂上からは視界をさえぎるものは何もない。
 1月の夕方5時前だと言うのにまだ日が高い。さすがに日が暮れるのが遅い
西の国だ。それに気温が20℃と高い。
 首里城が眼下に見える。首里城は中国風の城に見えるが、つくりは大和風だ。
しかし、城の近くに城よりも高い山がある。防衛上よくないと思うのだが、か
まわないのだろうか。
 もっとも、ここからだと遠すぎて近代以前の兵器では、首里城を攻撃するこ
とはできないが。
 首里城はいい水が豊富だと聞いたことがある。だから、首府の城が置かれた
と。ということは、弁ヶ嶽は、周囲よりも高い分、水が無くて首里城のように
要塞化することができなかったのかもしれない。

○弁ヶ嶽から見た首里城
弁ヶ嶽から見た首里城

●沖縄の御嶽の歴史

 今回は御嶽について書いたので、もう一度沖縄の御嶽について簡単にまとめ
てみよう。
 沖縄人のYHさんはこう言う。御嶽とは、光・風・木があいまって人間に神
聖な感覚を呼び覚ます神さびた場所。そのため、その気になれば新宿の公園に
だって御嶽は見出せる。
 確かに、ぼくもYHさんの住む沖縄島の御嶽はそのように感じる。しかし、
八重山(やえやま)の御嶽は祖霊を祀っているような感じのものが多かった。
 以前、沖縄とその南に広がる八重山列島を旅したとき、沖縄の人々の御嶽に
対する信仰は、「氏子のためだけの御嶽」という感じがした。特に八重山の御
嶽は。
 「八重山」とは石垣島を中心として、波照間島、与那国島を含めた八重山列
島の俗称で、有名な西表島もここにある。基本的には琉球という地域にくくれ
るが、歴史的には琉球王国に吸収された形になる。そのため、沖縄島周辺とは
違う文化があるが、基層は同じ文化を持っている。
 また、都市化の激しい沖縄島南部とちがい、まだ御嶽の古いスタイルが残っ
ているところも少なくはないという。

●人々と御嶽

 同じくYHさんの話では、普通の沖縄人のイメージでは、御嶽についてなん
となく神聖っぽいところとして把握している人が大部分のようだという。それ
は、ぼくも感じる。
 ただ、沖縄島と八重山は都市化の差が大きい。沖縄島は八重山と比べ物にな
らないほど都市化が進んでいる。それに合わせるように御嶽の様子もちがうよ
うに感じる。
 本土の大きな神社は近世には地域の神社でなくなり、信者を地方に求める宣
伝活動をしていた。それとくらべると、沖縄本島の御嶽ですら、信者獲得のた
めの広域化はしてないように感じる。それだけ、地域に密着しているのだろう。
 実際、YHさんも沖縄の村の祭祀を司る神女であるノロの組織がのこってい
るところでも、信者獲得活動をしているところなど聞いたことがないといって
いる。

●つづく●
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