酒席の月斗先生
漣艸紙より(石原初子)
(前略)月斗先生も、お酒を愛されたが、酒仙と云ふ方ではなかった。日夜、酒客となられる機會が多くて、時には大醉もされたが、一人の時は、自らの限度を超えるやうな飮み方はされなかった。
月村老は、酒座は好きで、長時闃ャへられるが、ほとんど飮まれない。二三杯で眞赤になられる。時には、人に強ひられて泥鰌掬ひを踊られるが、我流乍らなかなか輕妙である。
(以下十數氏については中略)
露舐老は、酒樓にのぼると、部屋の隅か、控ゑの閧ナ、懷から新しい足袋を出して、はき替へてから座につくと云ふ通人ぶりであった。
好々爺夜臼老は、怒り上戸で、先生は、酗(さかがり)の翁と呼んでゐられた。いつかも、酒座に茄子が出てゐるのを見て「市場で茄子が一個一錢で賣られてゐるのは安過ぎる」と云って怒り出された。夜臼老は、丹波出身で農家の勞をよく知ってゐられるので、平素の感謝の念が、酗となって現れたのである。
闍試≠ヘ、泣き上戸であった。晩年、酒薗毒で、口が思ふやうにきけなくなってからは、餘計涙もろかった。
先生は、親しい人と飮んでゐられる時には、よくその人の短所をとらへて、からかはれる事があったが、闍試≠ェ醉うて、金時の樣に赤くなり、片時もはなさぬ愛用のパイプを、少し斜に銜へて、首を微かに上下に振り出すと、先生は、汐時よしとばかりに、「闍視モュな」と云はれる。闍試≠ヘ、「ハイ、先生」と答へるなり、もうその大きな眼は時雨空である。ひそかに先生の袖を引いて「泣かしなさんな」と、私が止めると、先生は面白がって、もう一押しとばかり、「寒雷(闍試≠フ長男)は、どないしてんねん」と云はれる。とたんに、闍試≠フ眼からはらはらと、大粒の雨が降り、「機嫌ようしとります」といふ返事も、涙にかすれてしまふのである。そんな時傍から誰彼が慰めると、雨はいよいよ本降となる。それで、白けた座の中に沈默を守るか、さりげない話をするかして、他の者は、雨のリるるのを待つのである。理由も何もないのに、いとも簡單に泣かれるので、先生は、女の子が、いちま人形のお腹を押へて泣かすやうに、時々、この問答を繰返された。
心月女史は、大酒家であった。長醉を願うてやまぬ、といふ飮みぶりであった。(後略)
おもひ出
谷村凡水
(一)
酒をすすむる人の嬉しくいましむる人
の情の嬉しくもうたて 月斗
先生は酒豪ではなかったが愛酒家であった。酒座の趣に同調し、旺すれば時に感涙し或は叱咤された。これが僕等にはたぐひなく魅力的だった。
その折は先生の御気分が勝れず杯の数が少なかったので側近四五子のうち半ばが「先生に酒をすすめ」半ばが「先生に酒をいさめ」たのである。道学者流に云へば後者が正しいが、情の上から云えば前者も悪くない。暫くののち、先生が筆を採って示されたのがこの歌一首である。
「先生なるかな」とその時僕は心うたれた。同席の人々には最早記憶にないであらう。十五六年も昔の忘れがたい春夜の一席であった。
(二)
z鞫垂ミらく十圓金貨かな 月斗
某子曰く「この句は月並ではないか。比喩に金銭をもってするのは賤しい」。
月斗曰く「金銭の卑しさを連想することこそ賤しい」。