歯の俳句2へ (工事中)
身近の歯に関連した俳句について語る
身近の歯に関連した俳句について語る
F H11.10
舌が葡萄の種を取り出すプログラム 島春
種無し葡萄は食べやすいが、今は昔の、種のある酸っぱいのもなつかしい。戦時下、酒造会社に中学一年生の私たちは勤労動員とやらで行かされたことがある。当時、葡萄は、何か軍事上の目的とかで、全部供出に廻されて、国民は口にすることが出来なかった。
その工場で、房の葡萄運びをやらされた。当時ねこう言い渡された。いくら粒が口に入ってもかまわない。だが一粒といえども、皮も種も絶対に外へ持ち出してはならないと。そんなに食べられるものではなかった。前歯がチリチリと牙質過敏を起こしてしまって、昼飯が食えなくなった。
粒をもぎ、口に入れて、指で果皮をつまんで中身を吸引し、舌でまさぐって種子だけを外し、皮といっしょにプッと外へ出す。中身は味わって呑み込む。房の形がそのまま枝となるまでの継続作業である。知覚、運動、それぞれの神経、筋肉の総合された活動による。
体の各部の筋肉に運動指令を発する皮質運動野は、前頭葉中心前回にある。運動野と体各部の筋の関係は、点と点で対応している。微細な運動を行う筋ほど運動野において広い範囲を占める。
ついでだが、絹が不要となり、養蚕もなくなり、桑畑は掘り返されて南瓜か藷の畑になる時勢だった。掘り出された桑の根は、やはり澱粉を含んでいるのだろう、酒蔵では、桑根酒というのを作っていた。今なら不老長寿の酒として珍重されるだろう。
秋の草花甘酸醎苦その色に 島春
秋は、花圃も山野にもさまざまな花々がその色を競い合っている。この視覚の花弁を味覚と結びつけるのはすこしおかしいのかなとも思う。身近の鉢を見ても、葉っぱのほうはあちこち虫食いの跡があるが、花びらをムシャムシャしている虫はあまり見ない。
つつじの花は食べるとほんのり甘く酸っぱかったと思う。マヨネーズなんか合うかもしれない。よくお造りの皿に食用菊の黄色が添えてあるが、赤は食用紅とかあったりして毒ではなさそうだが、黄色や青色は、細菌染色液のイメージがあって、どうもいけない。
味は、視覚によって強く影響される。暗闇で食べるとおいしくない。これは、明るいところで形作られた、物の形や色と味との間で定まった観念が、暗いところでは満たされないからである。
純白の食用百合というのがあって、ほんのり苦いのかと思うのだが、食べた人に聞くと甘みがあるのだそうだ。鬼灯の実の真っ赤な色を見て、こいつは苦いぞと思った。なのにその葉は虫にいっぱい食われている。庭でよく食われているのは、信じがたいが蓼である。蓼食う虫は蓼が好きだ。マゾだね。
間引き菜のサラダが跳ねる舌の上 島春
あのこと(O157)が起こったときが、カイワレ大根の最盛期だった。箸や楊枝のための間伐材を作るために植樹するようなものだが、大量速成の完成品は、新鮮で生気盛んだった。口に入れるとやたら弾性ではみ出そうとした。すこし噛めば大根だからヒリヒリシャキリとして、それ以上は咀嚼すべきではなく、軽石ならぬ束子で足の裏をこするような、喉での感覚を味わうのである。
食品の、「味」以外の特質の中で、「口当たり」は、「香り」を抜いて第2位にランクされている。アイスクリームや蕎麦、うどん、おこし、カステラ等々。酒ならば喉ごしのよさ。
ビタミンCに加えて、父がよく、とれ取れのものには、「ビタミン生きもの」というのがあるのだといっていた。ビタミン「生きもの」は、人を賦活する作用を持つ。生きが悪くなった材料にはないものである。それならば、ビタミン「初もの」を含むものを食すれば、三年長生きができるというものである。
「貝割菜」は、本来、貝殻の開いたような双葉というきれいな語感であった。生き生きとした言葉であったものを…。
身近の歯に関連した俳句について語る
E H11.6
枇杷の種ころりと太く閑日月 島春
口腔に残った枇杷の種を吐き出す。つるつると滑らかなので、その一つくらい、喉のほうにも入ったような気がしてならない。子供の頃は本気で呑み込むのを心配した。
嚥下には、舌骨の上と下とに付着する10種類ほどの筋が活躍する。舌骨に指を当てて嚥下運動を試みれば、はじめに舌骨が上がり、ついで舌骨が下がるのを確認できる。
閑なひとときを与えられることがある。オイシイ時間である。爪をかけて枇杷一顆の皮を剥き上げる。指を濡らした果汁とも口中へ。皮とへそ?と種子累々。
なかに大型の種子があったりする。やや球形で、掌の上に置けば、濃褐色に光っていて座りもよい。ちょつとした英雄の感がある。暇な作者の今の感じである。
夏風邪に鼻詰まらせて碁に負けつ 正氣
寝冷えとか、暑気中りとか、歳時記にあるが、俗に夏風邪はなかなか治りにくいという。そんなにひどくはないのに、いつまでも鼻をぐすぐす言わしている。
碁に負けたのは、碁が弱かったせいである。そう自認するわけには行かない。鼻詰まりのせいで見落としたのだ。二三番続けて負けた。もう今日は止めだ。
ヒトは、玉露を啜りながら、おしゃべりしながら、息をしながら、碁を打つ。特性であるヒトの気道の不連続性、食物路との咽頭での交差が、これを可能にしてゐるのである。
この句の作者は、正式に碁を習ったわけではないが、けっこう強かった。筆者が井目に風鈴までつけようとも、その気になれば、皆殺しに出来た。
日焼けては唇ウイークデイに入る 島春
こどもが小さい頃は、日曜のたびに海へ連れて行った。日に焼けてひりひり乾く唇で、翌日から仕事が始まる。翌々日ぐらいに、紅唇の表面の上皮が粉のようになって取れる。
鼻の頭はもっと敏感だ。太陽にもっとも近いせいだろう。唇は何ともなくても、目の下のほうの視界にひらひらと微細な粒が散らばっているのを感じることがある。顔を横に振ると一緒に動く。
自分の鼻の存在が自分の目で見えるのは、このときである。普段は見えていても見ていないのである。鼻の表皮の落屑が終ると、また見えなくなってしまう。
紫外線による唇の炎症は、舐め舐めしてゐるうちに、一週間も経たないで消褪する。そしてまたまたウイークエンドである。
身近の歯に関連した俳句について語る
D H11.5
くちびるへ柄の力学やさくらんぼ 島春
くちびる、口唇は、口裂で上唇、下唇に分れ、そこでまた皮膚から粘膜へと移行する、消化管の入口である。赤い花の莟のようである。可動性に富む。
さくらんぼの柄をつまんで、顔を上げた口に近づける。細いその柄の微妙なたわみの曲線と、風に吹かれるような震えの力学。
そっと見ているのである。どんな小さな動きをも見逃すことなく、ただ見ていたいひとなのである。本当は情感と呼ぶべきものだろうが、はにかんで、これを力学と呼ぶ。
もう一つの解。さくらんぼの柄のところをつまんで差し出すのである。ハイ、アーンして…と唇の前に。その、ある距離を作る力学?。
早口を戒められつ莨盆 正氣
「莨盆」は、座敷の間で、冬からの火鉢に替えて用いる。端居などの時は、縁側に持ち出して脇に置き、一服する。
刻みタバコを煙管に詰めて、ジューと吸い切ってポンとはたく。煙管がヤニで詰まったりすると、紙縒りを捲いて吸い口からそれを通すのだ。幼い頃、羅宇屋というのが笛を鳴らして来て居た記憶がある。
対座して談笑している。或いは何かの談判に来たのかもしれない。そんなに早口でペラペラしゃべったら、何言ってるのか分らんではないか。
声帯の振動による音波は、口の中の形や舌や歯の位置により、特に共鳴して強化されて音声となる。早口は、頭の回転がよいか、気が弱いのをカバーしているかである。
セロリ芽キャベツ喉の白さの上下動 島春
嚥下運動は、食べ物を口から喉へ送る随意運動に始まり、後は反射運動として、食道から胃へ送られる。咽頭腔と喉頭腔とが連絡を断たれる1、2秒が呼吸停止、声が出ないときである。
襟ぐりの深い服装の季節になった。ダイエット志向の若人たちがテーブルを囲んで、ナフキンしてナイフォークを使っている。
小鳥たちの食事のようである。ソプラノで唄うように囀りながら、果てしがない。お飲み物は、グラスから見てワインのようである。
プチトマトの赤も句に加えるのだったな。これからワゴンがやってきて、何やら分からぬカタカナのケーキの名前が発せられるのだろう。
身近の歯に関連した俳句について語る
C H11.3
春眠や白玉の歯にむしの穴 正氣
「春眠」を詠んだ句は、俯瞰的である。人の寝顔を見たり、自分の魂が身体を抜け出して自身を眺めていると解されることもある。
「ムシバは夜作られる」である。歯の衛生週間のポスターは、お餅のような真っ白な歯を、黒い蟻のような鬼形の者が、つるはしやショベルを振り上げ振り下ろしして掘っている。
この場合は、幼い我が子を眺めているのである。その内側に何かが起こりつつあるという、大げさに言えば、幸福の崩壊への不安、みたいなものがあるのかな。
何かを始める動機ともなればともかく、知って行なわざるはなんとやらである。お土産のケーキを与えた父親のほうは、こんな感じでおれば、さぞ寝付きが悪かろう。
人中のうぶ毛に花の白埃 正氣
「人中」は、人相で、鼻を山とし、口を海とすると、山海之通路に当る部位だそうだ。ここに黒子があれば云々とある。ノミナ・アナトミカ・ヤポニカでも同じく、人中である。
「花の埃」は花見の人ぼこりのこと。「花の屑」「花の塵」は、地に散り敷いた桜の花びら。「花埃」「花疲れ」は語感が汚い。「花冷え」もそうである。「花の疲れ」「花の冷え」がよろしい。
埃さえもが綺麗に見えるのだから、若い美しい女性であろう。ここまで接近して観察したというよりも、「花の疲れ」、花見の物憂い疲れを見て取ったのであろうか。
さらに考えれば、お化粧もしていないようだから、もっと若い少女が正解かもしれない。埃だけでなく、世の風に吹かれ、世のうすら汚れにこれから浸っていくエイジである。
チューリップ曖の如く散りにけり 島春
おくびは、口偏に愛という、この漢字がよろしい。下世話に言えばげっぷだが。おくびにも出さないというのは、奥深く秘めているのである。
百万本と称するチューリップの観光農園とやらへ行ったことがあるが、最近のチューリップの品種は、パチンコ台のあの典型的な形が崩れて、まことに多種多彩である。
幼稚園の頃のクレヨンで描いたあの形、チューリップの形としか言えないが、懐かしい。花園の王者の風格であった。一輪挿なんか豪華版であった。見て飽かず、見ていて心豊かになった。
鬱金香ともいうのである。ウッコンコウの重厚な調べも好いね。むかしの気持で、私は、これを堪能するまで眺めるのである。
身近の歯に関連した俳句について語る
B H11.1
歯固や三十二枚揃へる歯 正氣
「歯固」、歯がためは、小さな鏡餅を折敷に載せ、押し鮎とか大根、橙などを添えたものを食い祝うこと。齢を固めるというのが原義である。
人の永久歯は、上顎、下顎も、左右に切歯2本、犬歯1本、小臼歯2本と、大臼歯3本で計32本が基本の形であるが、第三大臼歯は埋伏しているか、先天的に欠如している場合も多い。
人が歯を失うのは、殆どが虫歯と歯周病が進行してのことであるが、先祖よりの要素とか、本人の努力とかによって、永久歯が、文字通り無事に存在していることはおめでたい事である。
特に、小顔なるものが賞美される現代において、第三大臼歯(親知らずと呼ばれているが)までしっかりと生え揃っている顎の所有者は素晴らしい。
お正月はおめでたいのがよろしい。おめでたい句がよろしい。この句は、単に慶祝というよりも、そこに、真、善、美をも感じる。
若水や珊瑚の歯茎真珠の歯 島春
「若水」は、元朝第一番に汲み取る水、使う水をいう。「井華水」「福水」ともいう。ここでは洗面、歯磨きに使っているのである。
「若水」は「若返りの水」である。中国の不老不死の薬に象ったものである。養老の泉を汲んで新年変身するのである。
正常な歯ぐきは、薄ピンクで弾力があり、唇側には点々とスティップリングが見られる。磨き上げた桃色珊瑚だね。
パールホワイトのエナメル質は初日ざしに輝くばかり。何だか額入りの貴石細工みたいだが、豪華な豊かな感じはめでたいではないか。
ともあれ、歯のPRである。何よりも宝物のように大切に取り扱いたいものだというのである。長寿だけでなく、不老でなくてはならぬからである。
歯朶をもう一枚重ね無数の歯 島春
歯朶の葉は、新年の飾りとして用いられる。「穂長」「裏白」ともいう。葉茎共にかんたんに枯れないので、新年を寿ぐに使う。
「歯」はヨハヒ、「朶」はエダで、朶は長く延びるものだから、齢を延べるのでめでたいというのだともいわれる。
正月飾りの歯朶の葉の余りをもう一枚重ねて敷いたのである。葉が重なって「無数の歯」になったというのである。
自然は数学で書かれているというが、マンデルブローのフラクタルの世界である。歯朶の葉は自己相似性のフラクタルである。
落語の「じゅげむ、じゅげむ」のめでたさである。無数、無限とは、限りなく多く、大きいのである。魔物も数え切れずに退散するだろう。
歯の俳句
身近の歯に関連した俳句について語る
A H10.10
吾が赤き口腔を雪へあくび 島春
一夜明けて家の外は雪に覆われている。ガラス窓を開ければ、直接にその世界に触れることとなる。寒気は真空のようで、白さ故にか荒々しく、鼻も耳も頬もその中に吸いこまれる気がする。
その感じは、窓を開けた一瞬に身を守る構えを取らせるのだが、そのうちに慣れてしまう。珍しい景色も眺めているうちに普通となるものだ。
ここで大あくびをしたならば、というバーチャルな世界に入る。白一色の三次元に、赤い空間がある。壷の中の空間がある。それを、「吾が」と意識し、頭の中で見ているのである。
「赤き口腔」は、歯科の知識で言えば、口腔粘膜は毛細血管に富み、とくに唇は、皮膚に移行するところだが、上皮に色素がなくて、角化が少なく透明度が高いので赤いということ。
「赤き口腔」は、一方では、積雪の白さをこのようにして感覚し、表現しているのである。同時の句に、「窓開けて雪の白さは鼻襲ふ」がある。寒さの白さ、温さの赤さ。
渡舟呼ぶ息三尺の白さ哉 正氣
乗客がやって来て、大声で船頭を呼ぶ。満目枯れ色の河原に土手から下りて来る小道があって、水辺まで来れば板が並べてあり、霜が光り、そこが舟着場である。
男がやってきた。鳥が散乱する。感覚的には素浪人である。枯れ葦をわたる風の脚が見え、日輪は小さくて白い。
「おぅーい」。練り鍛えた声である。野球の投手の投球でいえば、重い球種である。腹中より発して口の先で散らず、遠方まで達する声である。
脇のほうから見ている者には声は届かない。が、目には定かである。朝の光の中、発する息の白さ、三尺はありと見た。「哉」だからどっしりとした身の構えである。
さて、この句の作者は、ヘビースモーカーで、これほど吸えばガン細胞も育つまいとうそぶいていたが、晩年は肺気腫で息が切れ、在宅酸素療法を行っていたのを思うと切ない。
身近の歯に関連した俳句について語る
@ H10.7
晩夏天日金歯に呵々大笑せられ 島春
ノンフィクションのテレビ画面で時々、前歯開面金冠にお目に掛かったりする。鎮守のお祭りに立ち並んだ露店の懐かしさ、の要素も含んでいる。
占領軍が来てから、蛇蝎の如く忌み嫌われたキンバ、こう片仮名で記すと、何だか、流行のピアスに類似する。抹殺されたのは、医療行為だったからである。
タレントがらみで、「審美歯科」のネーミングが一般的になってきたが、医家は、美術家ではない。美を押しつける存在ではない。押しつけるのは医家ではない。
あれはゴールドが疎まれたのではないのだから、鋳造法に依らないせいなのであろう。それとも、茶髪やある種のメイクみたいに、これを笑ったのだろうか。
この句は、金歯が高笑いをしているのである。こう屈託もなく大口開けられると、戸惑ってしまう。自然を限りなく離れたゆえに、醜と呼べるのか。
太陽を、こうした文句で置かねば、金歯の高笑いに負けてしまう。この金歯を笑う審美の何と弱弱しいこと。この金歯は大輪の向日葵のようだ。
歯を以って麦酒の栓を抜かんとす 正氣
若者が集う。あいにくとビールの栓抜きがないのだ。なかの1人が、エイッとばかりに口の脇に壜の先を銜えたのである。シュワルツネッガー的魅力。
はじき豆、乾燥した蚕豆を炒ったものを見かけなくなった。油で揚げたフライビーンズなら、今どきの子の顎でもガスガスッと噛み砕けるのだが、はじき豆は無理だろう。
海へ行くときに、子供たちは越中ふんどし、今様で言えば、Tバックであるが、それに小袋を結わえつけ、なかにはじき豆を入れていた。長時間泳げば塩水でふやけるのである。
ところが待ち切れない。小袋の紐を緩めて一つ取り出して口にする。褐色の皮はふやけているが、身のほうはまだまだ。前歯の切縁で擦り取るようにする。味がしてくる。
総入れ歯のおばあさんが、古いのはよう慣れていた、糸でも切ったという。はさみという便利なものを使いなさいといっても。針のめどに糸も通しているのかもしれない。
この句は、1928年の作である。この時代の俳句が追求していた美としては、だいぶん異色の傾向と言われた。が、句として歌舞伎の見得を切ってるようでもある。
食いしばる顎開くかに石榴割る 島春
牙関緊急という医学用語があった。何かの原因で口が開きにくくなる状態である。上下の歯の間に指を入れてみて、指一本が入れば1横指と測るのである。
理由があって、少し無理して開けさせるための道具に、開口器というのがある。ばねの力を使う鉗子ようのものや、回転する螺子ようのものがある。中世の拷問器具みたいだ。
裂け口に両手の親指を曲げて入れ、一気に力をこめてバクリと割る。一瞬閃光が走った、気がする。叫びが聞こえたような、気がする。こちらに思い入れがあるからだ。
果物を食べるのに、たいていは刃物を使うものだ。そうでない場合は、無花果や蜜柑のように簡単にむいだり出来るものである。石榴的処理に該当するのは動物界のやり方だ。
だから、裂く、割る、ちぎるなどの鈍的な作用は、鋭利な作用に比べて、どこか心情的でもある。真綿で首をしめられるように、というが如し。
石榴を割って引き裂く行為が、野獣が餌にありつく残忍さに通うものがあるから、石榴の堅さを「顎の食いしばり」と感じたのである。それに、石榴は肉感的である。