松本正氣俳歴(後篇)

『春星』より改補

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その21

 

昭和六十年(八十二歳)

「寒い日が続くので一日二十時間はベッドの中。人工膀胱を装着してより三ヶ月になるが、中々慣れぬ。加うるに老人性のカイカイに悩まされ、不快の連続であるが、三日に二人ぐらいの割合で句友が訪ねてくれる。持参の句稿に評を加えたり、常連には編集の手伝いを頼んだりしている」。「今年はいつまでも寒さが続いたので、一日の約六分の五はベッドで、あれこれ考えたり、テレビを見たり、うとうとしたりして暮らしているので、運動不足が気になり、暖かくなる日を待っている。「昨の苦は忘れ今は耐え」ることに努めているからか、時の長さがかなり主観的になって、「今日は何日だったか」を毎日何回も忘れることが多い。又、度忘れがひどくなった」。

三月、月斗忌。下関の魚山、岡山の季観ほか岩国、竹原、忠海からも。

「八十何年もいろいろなことを覚えてきたので、もうかつがつ忘れて、今後、大切なことを覚える場所を大脳に用意せねばならぬのではないか?大切なことを選択することにその人なりの価値が決まるのではなかろうかとも思うことがある」。

「只今では、バリケアによる皮膚炎と老人性の寒皮症に日夜悩まされている次第です。一応生命には別状ないことの由で、老生もそれを信じています。掻痒感は所詮、掻痒感を忘れる術を身につけることらしいです。「忘れたい事」を忘れるという事は不可能に近い難事です」。

「俳句と皆様のお蔭でガンバって居ます。「俳句」と「皆様」から見捨てられないよう期しています」。

「青鼓居士の一周忌。諫早では句集が出版され、正氣、里鵜、丈義、青鼓の俳交六十年四人句碑が除幕される由である。四人の俳交は大正十年からで、既に六十年を過ぎ、途中夫々の道を歩いたが、最後に『春星』に集まった。青鼓は四人の俳交六十年を俳諧史上他に無かるべしと、三人の友に図り、四人の句を一基の碑として諫早の地に建てることにした。世話の一切を引き受けた青鼓は先ず緒方君江さんに石探しを頼んで、昨年いつだったか、寒風の中、多良山麓に、病に衰えた身を運んで石を見に行ったと、その折の写真を添えて、句碑の見取り図に各自揮毫の寸法を示してきた。青鼓は己が死期を予感していたらしく、四月末までに除幕式をと願っていたが希望がかなわず残念だったと思う。

さて、私は除幕式に参列し、青鼓居士の墓前に香を焚き、諫早の句友達ともお会いしたいのだが、まだ旅行するのは甚だ覚束無い。青鼓居士も私の旅行を堅く止めるだろう」。

 

 友情の句碑 野火は手を振るよ郷関立つわれに 正氣、 森ふかく蝉あをあをと鳴きにけり 里鵜、

       曼珠沙華一揆この地に亡びたる  丈義、 大寒を霽らしたる虹朱に克ちて  青火  

 

七月、春星四十周年、扉に「たゆまざる歩みおそろし蝸牛 西望」を頂く。「今後も「たゆまざる歩み」を続けて行く覚悟である」。


 

「皆さん、おのがじしの知恵で長生きするように努力しましょう。僕は俳句に専念して病苦に耐え、長生きするように努力しています」。

赤司里鵜喜寿金婚句集「墨牡丹」に祝句を末広に揮毫、「喜寿めでた金婚めでたホ句の春」。 

 

 

「編集がおおよそ出来て第一稿を印刷所へ渡したその日、悪寒戦慄。急遽入院。白血球が増加して腎盂炎を起こしていた。多量の水分を摂ることと点滴の連続で一週間で退院できた。是からも活火山だろうが、大噴火はさせぬ。

「生」をつづけるには、「苦」に耐え続けねばならぬこともある。「生」の深みであろう」。「生きていねば仕事が出来ぬ。仕事をするために絶対必要なのは生命である。死んでからも仕事をすることが出来る人になるために、生きている間に仕事をしておかねばならぬと思っている」。

九月、大雨の三原子規忌。九州より君江、ハル子、郷。岩国、竹原、忠海よりも。

「小生は、この世に生を享けたからには何か足跡を遺したいと念願している。小生の足跡は、正氣作品、小生が育成した後進の作品。そのどちらか一つだけでもいい」。「仕事が大成するには「運」と「努力」を必要とする」。

「読書して知識を豊かにすることは出来ぬが、「面壁して己を深くする」方法で、この世に足跡を遺したい。それには「生きていること」が必要である」。

「文章を理解してもらうには書き手が読み手にわかるように書いたらいいが、味解してもらうには読み手の味海力を必要とする。味は読み手の味解力によって深浅がある。味解を要する論議は文章にするより談話としたほうが遥かに好結果を得られる。読んで味解を深くするには、回数と年数を重ねることが必要である」。

 

(老生句作を始めてより六十五年)俳句には倦まず候老の春

初風呂や人工膀胱に知恵しぼる

初句会西望筆の御神号

初句会教へることで学びけり

雪女郎のっぺらぼうの顔なりし

(王樹居士の夫人幸子大姉へ)雪見酒十一年振りの逢瀬にて

恙忘るる一刻が欲し老の春

玄関の薄暮黄梅朱鷺色に

吾が供花は鶯神楽鶯忌

壷の数書斎で花見して感謝

はくれんを活けよ白磁の鶴首に

書斎に入った雀充分は飛べぬ子よ

春雨や試歩にさしかけ傘させて

我庭や弥生の閏ふ花暦

母の日や老妻の幸子宝に

松本仙翁同正氣同島春

梅雨の庭虹明かりして少女像

梅雨の庭何を引抜き何植ゑん

やれ火燵やれ扇風機梅雨篭

菖蒲湯やしっこさせゐる孫を待つ

青鼓忌や心眼に観し晦日月

山間に雪達磨置き半夏生

雲岫のありそな山や夏の旅

草庵の向日葵に睨まれに来い

老妻に全身委ね行水す

 (青鼓句集「水のこころ」出版祝賀会の宴さなか見事な虹が懸かり一同を感激させた由)

おお青鼓水のこころが虹となり

蔵澤の竹風を呼ぶ夏座敷

朝顔のはせをの句畫で茶を淹るる

秋風が涼しくなりし子規忌哉

扶けられて焼香するや糸瓜仏

一大事近き秋思に月を観る

残念の悔ひ秋風に浮き沈み

秋の蝶ワルツ踊って見舞ひけり

(背の君を亡くされしかすみ様へ)白菊の装束作り参らせよ

ホ句のこと命のことの秋思のみ

句に遊ぶことに懸命老の秋

(悼中坪潦月居士)潦しぐれて月の消えにけり

岩海に蔓竜胆と鶺鴒と

鶺鴒の八千代に巌老いにけり

小春凪紅葉ダルマの島幾つ

しろがねを分厚に貼りて海小春

 

昭和六十一年(八十三歳)

「正氣庵では、昭和八年春三原に卜居以来、毎週(水曜会時代あり土曜会時代あり)句会を開き(戦争末期の空襲警報がよく出るようになってからは休会したが、終戦後早速復活、九月十七日に枕崎台風の洪水で正氣庵倒壊で休会、湧原の寓居で昭和二十一年初句会より復活)二千回ばかり続けているが、数年前より毎月隔週土曜日午後に開くことにしている。暑い日も寒い日も雨の日も風の日も毎回会場いっぱいの出席者である」。

「皆さん、三原月斗忌に振るって御参修下さい。病生もう旅行は出来ぬものと諦めています」。月斗忌句会には季観、萩女、また岩国よりも。俳句観を語る。

 月斗忌

 

「涼しき日一日も無き土用かな 車春」の句を思い出したが、この冬は三ヶ月一日も暖かき日が無かった。病生の老生は、躄風邪(〜肺炎)に若かず、「俳句」のある此の世に「長命」の欲を出している。病生の老生は大乗的に「俳句」を愛している」。

「皆さん、「不易」を多読して「流行」を苦作して下さい」。

「皆さん、相済みません。今でも狐につままれたような心地です。小生は通信簿があったら家庭科が「不可」、内助の功に甘えねばどうにもならぬ男、その上、手のかかる病人だが島春、文武の嫁達のおかげで助かっている。だが、原稿の探し役である老妻に怪我で寝こまれて、編集室を隈なく、何回も探したが、どうしても句稿の一部が見当らぬ。お手数ながら再送給わらば幸甚に存じます」。「ベターを尽くす芸当で6月号の編集をやっと終えた」。

「病生は現在のところ、一日三時間か四時間ぐらいがハイジン(俳人)で、残りの時間はハイジン(廃人)。十坪の庭には西望先生の「喜ぶ少女」像と句碑、月斗句碑、正氣句碑を囲んで数十種の花暦」。

「長寿国日本の平均寿命を八年ばかり長生きしている次第だが、高齢者だという実感が無い。身体が動けぬので、ものを考える。この頃やっと「老人」になりかけた実感が湧いてきた。もっともっと長生きして立派な「老人」になりたいと願っている次第」。

「老生が立派になったら、「春星」も立派になるだろう」。「病生風邪気味ですでに半歳、カタル性の気管支炎がなかなか治らず、一寸の動作にもすぐ息切れがして、肺炎になったら一大事と、静養を命ぜられています」。

「戦後、婦人の俳句愛好者が激増するのに都合のいい世の中になった。そして高齢化国家になってからは高齢の俳句愛好者が激増した。若い人と高齢者との俳句の進み方は兎と亀との競争に似ている。俳句愛好度の浅い人々には自分の作品が活字になることがお楽しみである。俳句は活字にするのに僅かの量で済むので、作品を活字にしてあげるのに至って便利である。この事は現今の俳句隆盛(量的に)の原因であろう。俳誌の発行部数を増加するには、寛選してなるべくたくさんの句を活字にしてあげるに限る。それを承知の上で実行せぬので、誌友の方々の支持を受けているのだと喜んでおり、励まされてもいる。だが、厳しいだけが能でないことも知っているつもりである」。

子規忌句会に大阪より光雄参会。

 子規忌 (挨拶より・一部音声)

 

「左程永くはないと思うが、目前に迫っているという感もない。寿命は前世より決まっているかも知れぬが、当人の努力によって延長するものだと思うほうが私には九割何分であり、うつし世を「味わう」ために寿命の延長を期している。皆さんのご協力で「春星」を「仕事」することで、皆さんに感謝しながら私はうつし世を味わっている」。

NHKテレビの「北村西望」。「百一歳(十二月十六日には百二歳になられる。数え年では百三歳)の西望先生をお訪ねしている心地になった。数えると六年振りである。お別れしてその翌年の夏から私は病魔に襲われ、今日に至っている。先生は至ってお健やかで、制作を続けられ、最近まで長旅もされていた。先生はお足だけが強いほうでなかったが、テレビの画面で、車椅子の先生を初めて見て、も一度先生をお訪ね出来たらと胸がいっぱいになった。

 

初刷や『春星』の品世に問はん

屠蘇祝ふ黄金の杯のこの重み

西望の屏風ひいたり年酒の座

日向ぼこ禁煙パイプ慣らしゐる

冬篭短冊を書き溜めにけり

(西望賛)百あまり三つを数ふや年の豆

牡丹雪の影舞ふ障子を見て病めり

雪景を描き了へたり月の貌

不老門長生殿やホ句の春

癌の手術に耐へし媼やホ句の春

長命の慾を出しけりホ句の春

(富松万雲長男篤典君新婚)大阿蘇の野火の如くに燃ゆるべし

(緒方君江長男睦也君新婚)多良より雲仙より風薫る日ぞ

阿伏兎詣宮島詣春の潮

(病室)部屋もせに桜活けたり病む吾へ

病室の花見や句友の志

二三日箒なとりそ花の部屋

宿墨となりて落花を浮べゐる

全集の天金に花の塵となり

花冷えや窓より覗く風邪の神

植物の花を選べる蝶の彩

しろたへのぼうたんのしろがねのかげ

ハタバコや正星形の白と赤

三千の年輪作り楠若葉

蝶が弄ぶ虎の尾竜の髭

甘草の花が燃えけり梅雨の雷

日と水に育ちて熟れしトマト哉

帰省すや棕櫚の太緒の下駄鳴らし

(青鼓忌)虹二つ描き七色の眼鏡橋

読書より習字がよろし熱帯夜

はせを掛けて朝の心を涼しくす

闘病の日々は草花夜々は蟲

心ン澄むや空を変へ行く風の色

窓前の萩が煽ちて風送る

蟲澄むやわれを忘れてゐしわれに

茶山忌や我が秘蔵せる句短冊

うつし世は味はふものや秋は夜を

連休に松茸貰ひ栗貰ひ

(喜寿の老妻へ)アルバムの渡辺つゆ子秋燈下

(春星舎)少女像洗うてやるや庭小春

帰り咲く花何々ぞ庭小春

同甲の友の訃報や冬篭

冬篭心にいつも俳句あり

二三日遅れの疲れ冬篭

 

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