2008.4~

子規の俳論俳話

 

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

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子規の俳論俳話()

中川みえ

  

◇俳諧一口話

  明治二十七年四月―七月

  「小日本」掲載

 明治二十七年二月十一日、紀元節を期して、日本新聞社より「小日本」新聞が創刊された。「日本」新聞の度重なる発行停止に備えたものであったが、同時に上品な家庭向けの小新聞の発行をも意図したものであった。

 家庭向けの新聞発行となると、多士済々の「日本」にも適任者が見当らず、仙田重邦を事務総裁とし、前年入社したばかりの子規を、思いきって編集責任者に抜擢した。古島一雄などが推薦者であったが、社内には成果を危む声も少くなかった。

 この「小日本」に、子規は小説を執筆し、原稿の検閲や絵画(さし絵)の手配など編集の仕事をする傍ら、余力があると自ら雑報の筆を執り、募集俳句の選をするなど、大活躍であった。

 「小日本」に掲載された俳句俳話には、「雛の俳句」(三月九日)「俳諧一口話」(四月二十六日―終刊まで)「亡友山寺梅龕」(七月九日―十五日)がある。

 「雛の俳句」は、古くからの雛を詠んだ句を集めたもので、無署名の文章である。

 「亡友山寺梅龕」は、子規が前年椎の友の仲間と共に発刊した俳句雑誌「俳諧」の俳句募集に、句を投じて子規に認められた山寺梅龕への追悼文である。子規がこの人物に対面したのは、子規庵での小会の席に梅龕が病を押して出席したたゞ一度だけであったが、俳句を始めて僅か一年ばかりの梅龕の雄勁、高雅な作風に期待をかけていた。梅龕は病気がちで、子規が「はてしらずの記」の旅(二十六年七月―八月)に出かけている間に、二十七才の若さで没した。子規周辺の俳人としては、最も早く世を去った人物である。

 「俳諧一口話」は、四月二十六日から終刊まで、四・五月は殆ど毎日、六月は七回、七月は九日と最終日の二回、計三十六回掲載された。「獺祭書屋俳話」を更に短くしたような俳話で、天明期の俳人について論じている部分が注目される。

  俳諧は元禄以後全く地に堕ちて徒に卑しき俗なるも

 のとなりしを、安永、天明に至りて中興したるなり。

 此間に出でたる五傑あり。即ち

  夜半亭蕪村 暮雨庵暁臺 半化坊闌更

  春秋庵白雄 雪中庵蓼太

 なり。

と天明の五傑を挙げた。

 五人の中で、漢語を多く用いるのは蕪村、和語を多く用いるのは白雄であり、句体の硬いのが蕪村、軟かいのが白雄であると言う。

 佳句の最も多いのは蕪村、最も少いのは蓼太であるという発言は、前年の「歳旦閑話」での評価―雪中庵蓼太を第一となす―とは大きく異なってきていることに注目すべきであろう。(七月号を参照して戴きたい。)

 各人評では、先ず蕪村を取り上げ、その特色を「漢語を用ゐ漢文調を為す」と言い、「蕪村の特色は芭蕉以後一人として賞揚すべきもの」と述べるも、この時点では全面的に推すというところまでには至っていない。

 次いで取り上げた白雄については、その特色を「雅語を用ゐ又雅語的の新語を用ゐる」「極めて美文的な語」を用いると述べる。

 闌更の句については、「稍々勁健」な句と「稍々繊麗」な句の二種があるが、勁健な句に暁臺の粗豪さは無く、繊麗な句に白雄の句の持つ軟弱さは感じられなく、それらの中間の作風を持つと共に、幽婉清麗な句は闌更の特色であると説明する。

 暁臺の句については、「蕪村よりもやさしく闌更よりも強し。」暁臺と闌更との句は十中七八まで同じ」と解説している。

 蓼太については「歳旦閑話」で論じたからか、ここではとりたてて論じていない。たゞ五人を並べた時に、蓼太の句は「諸種の体を兼ねたけれども()最俗気紛々たる句多し」と評価を下し、俳句の価値から見ると、「佳句の最も多きは蕪村にして最も少きは蓼太」であるとこの時は結論づけているのが注目される。

 「俳諧一口話」は、非常に短い文章であるので子規は多くを語っていないが、この五傑について、蕪村と白雄の句が用語、句体に於て対照的であり、暁臺、闌更はその中間の作風を持ち、蓼太は諸種の体を兼ねると概観して、

  時鳥平安城をすぢかひに     蕪 村

  時鳥嵐にかかる夜の聲      暁 臺

  時鳥聞くや濡れ行く古烏帽子   闌 更

  馬に鞍こは誰が夜明時鳥     白 雄

  耳かきの卯の木もをかし時鳥   蓼 太

の五句を掲げて、「五人各々巧拙あり。されど終に天明の五傑たるに恥ぢざるなり」と総括したのである。

 「小日本」は、七月十五日を以て廃刊となった。

 最終日の「俳諧一口話」は、「孟蘭盆会」と題して古人の句数句を挙げた。その末尾の、

 わけて無常なるは

  盆に死ぬ佛の中の佛かな     智 月

を特に大きく三号活字で組んで載せ、盆に廃刊となる「小日本」を惜しんだのである。

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子規の俳論俳話()

  

◇地図的観念と絵画的観念

 明治二十七年八月

 「日本」掲載

 

 「小日本」の廃刊によって、編集の主宰という重責から解放された子規は、未達成感が胸中に煙っていたものの、時間的には余裕が出来て、毎日のように郊外を巡って句作に励んだ。この頃子規の句境は大いに飛躍し、後に“俳句開眼"はこの時期であったと記している。

 「時々鳴雪老をとひ中村画伯と放談する」(五百木飄亭宛)ことなども刺戟となった。

 「地図的観念と絵画的観念」という文章は、そのような中から生れた。

 或る夜、内藤鳴雪を尋ねて座談した折に、蕪村の

   春の水山なき国を流れけり

という句が話題となった。鳴雪はこの句を「蕪村集中の秀逸、俳諧発句中の上乗と断定」し、子規はそれ程まで高く評価する句ではないと考えていたことが論点となった。その顛末を記した文章である。

 子規が問題にしたのは、「山なき国」という表現である。「山なき国」は「文学的客観の景象」ではなく、「地理学的主観の抽象」に似ると言い、この句が「単に目前の有形物を詠ずる」ものではなくて、「幾多の観念を綜合したる後に始めて生じ得べき無形語」を用いているので、文学的の感情を刺戟することが薄いと述べ、句の巧拙は別として、たとえば、

   山もなし武蔵流るる春の水

   春の水武蔵の国に山もなし

とでも詠むのが、「抽象的の無形語」を用いない詠み方として妥当であろうと言う。

  抽象の要は事物を簡単に説明するに在るを以て、文

 学上にも必要なるは言を挨たず。唯々抽象に過ぐれば

 理窟に落ちて殺風景となり文学趣味を没し去るの憂あ

 り。

と論じ、「過度なる抽象的観念に文学趣味少し」という点に於ては、鳴雪にも異論のないことを確認した上で、両者の評価の違いについて、更に検討を重ねた。

 一時間近く議論を尽した果てにようやく「鳴雪翁は地図的観念を似て此句を視、余は絵画的観念を以て之を視る」ことが、両者の評価の違いであるとつきとめた。

 子規は、「地図的観念、絵画的観念とは主観的人事の上には何等の関係もなく、只々客観的萬物の見やうの相異」であると説明し、一言で表現するならば「地図的観念は萬物を下に見、絵画的観念は萬物を横に見る」ものであると言い、そのことを具体的に説明する。

 我々が実際に目にしている景色は絵画的で、山々は相畳み、樹々は重なり合う。一つの山は他の山より遠く、一樹は他の樹木より深く繁る。空間には遠近があり、色彩には濃淡がある。前方に在る者は大きく、後方の者は小さく見える。近くにある者はよく見えるが、遠くの者は前方にある者に隠されることを免れ得ない。

 それに対して、地図的観念では、あたかも風船に乗って虚空高くから下界を一望の裡に見下すようなものであるから、遠近濃淡は一切無く、全ての者がのがれることなく眼下に広がる。

 地図的心象は全景を余すところなく目に納めるものであり、絵画的心象は一部分に視線を注ぎ、全体は模糊の間に没し去る。

 これらの事柄を鳴雪との対話を通して明らかにしたのが、「地図的観念と絵画的観念」という文章である。

 子規は俳句を始めた頃から、類題句集中に散在する蕪村の句を見て「其非凡なるを認め之を尊敬した」(「俳人蕪村」)が、それは主として、蕪村の句が漢語を用い、漢詩的な調子や内容を持っていたこと、ほゞ同時代の蓼太の俗気紛々たる句に比べて、離俗的な句風であったことを好ましく思ったからであるが、この論ではそれに加えて、蕪村の句を「絵画的観念を以て之を観る」ようになつて来ていることが注目される。

 この考え方には、「小日本」のさし絵画家として浅井忠から推挙された中村不折との交流が、大きく影響していると思われる。

 当時「頑固なる日本画崇拝者」(「墨汁一滴」)であった子規に、不折は日本画、西洋画について丁寧に説明し、それに対する子規の弁難攻撃にも答えたので、子規は西洋画について次第に理解を深め、「悟る所あり。退いて之を文学上我が得る所の趣味と対象するに符節を合す」(「病牀譫語」)と考えるようになった。「君の説く所を以て今までの自分の専攻したる俳句の上に比較して其一致を見るに及んでいよいよ悟る所多く、半年を経過したる後は稍々画を観るの眼を具へたりと自ら思ふ程になりぬ」(「墨汁一滴」)と後に回想している。

 不折に説明を受けた絵画論の中で、子規が最も共感したのは、実景実況を写生するということであった。

 この年の八月半ばに、鳴雪、不折と共に王子へ出掛けた折に子規が詠んだ句を、不折は「王子権現の実景である」「途中の実況である」(「追憶断片」)と記しているが、実景実況を写生する方法で句を詠むことを、子規はこの頃体得したと見ることが出来る。

 写生説について、不折は「お互いに共鳴したと見るべきであらう」(「同」)と記しているが、不折の影響が大きいことは明らかである。

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子規の俳論俳話(十一)

                       

◇俳諧大要 1

  明治二十八年十月二十二日

 「日本」掲載

 「小日本」廃刊後の子規の未達成感は、日清戦争従軍への強い願望となって表出された。子規の体調を気づかう周辺の人達は、挙ってこれに反対したが、子規は耳を貸さなかった。遂に陸羯南も根負けして、子規の従軍が決った。

 明治二十八年三月三日東京を発ち、大本営の設置されている広島へ向ったが、日清間に講和の気運が高まった為に、この地でしばらく待機となり、子規が宇品港を出発したのは、休戦条約締結後の四月十日のことであった。そのため、戦火に接することなく五月十四日には帰国の遂に着いたが、その船中で大喀血し、神戸病院へはこばれた。一時はかなり憂慮される病状であったが、快方に向い、退院後は須磨保養院で約一ヶ月を過ごし、八月末に松山へ帰郷して、この地で更に二ヶ月ばかり静養することにした。

 松山では、当時松山中学の教師として赴任中の夏目漱石の下宿へ同宿したが、ここへ地元の俳句愛好家の集りである松風会の人達が訪ねて来て、共に句作に励むようになった。松風会員ばかりでなく、「毎日つめかける熱心の連中は禄堂、愛松、三鼠、梅屋、叟柳の徒に有之候」(十月十日内藤鳴雪宛書簡)というありさまで、同宿の漱石も句座に加わるようになって、静養というには賑やかすぎる様相であった。

 同じ十月十日の鳴雪宛の書簡に、

  当地俳士少しは眼あき候へども何分にも速成教授故

 不完全至極にて残念に存候。しかし近日法華涅槃を説

 て出立のつもりに御座候(あるいは恐る今日の説法は

 華厳となりて法華涅槃はなほ数年の後にある事を)

と書き送り、子規は十月十九日に松山を出立した。広島から須磨を経て、大阪、奈良に遊び、東京へ帰り着いたのは、十月三十日であった。

 「俳諧大要」は、子規の帰京後十月から十二月にかけて「日本」 へ連載された。もともとは「養痾雑記」の一部であったが、四回目以降は独立の読み物として「俳諧大要」の題の下に掲載された。

 はじめに、執筆の経緯を、松風会に属する盲目の俳人花山の求めに応じて記した俳句の心得を説く文章であると言い、この内容を花山に伝える役割を、松風会員に課した。そのことを通じて、松風会員の俳句理解を深めることを意図したのである。鳴雪宛の書簡に記された「法華涅槃を説て」とは、この文章を指すものであろうと考えられる。

先ず概論として、「俳句の標準」「俳句と他の文学」「俳句の種類」「俳句の四季」について述べる。 「一般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし」という考え方に立脚して、

 俳句は文学の一部なり、文学は美術の一部なり。故

 に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標

準なり。

と述べ、「絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし。」とする。「美の標準は各個の感情に存す」るものなので、「美の標準も亦各個別」であるが、「全体の上に於て()略々同一方向に進むを見る」と言い、この観点から俳句を考えて、論を進めてゆくことになる。

 「俳句の種類」では、意匠と言語について説明する。

 先ず、「俳句を分ちて意匠及び言語(古人の所謂心及び姿)とす」と言い、意匠そのものについては、「勁健なるあり、優柔なるあり、壮大なるあり、細繊なるあり、雅樸なるあり、婉麗なるあり、幽遠なるあり、平易なるあり、荘重なるあり、軽快なるあり、奇警なるあり、淡泊なるあり、複雑なるあり、単純なるあり、真面目なるあり、滑稽突梯なるあり、其他区別し来れば千種萬様あるべし。」と述べてその範囲を示し、文学美術の土台になるものの多様性を認めた。

 次に、この意匠を伝える言語について、「言語に区別あるは意匠に区別あるが如し」と言い、「勁健なる意匠には勤健なる言語を」「優柔なる意匠には優柔なる言語を用いるべきであり、「雅樸なる言語は雅樸なる意匠に」「平易なる言語は平易なる意匠に」通するものであるから、作者の内面はふさわしい言語が選ばれるべきであると教示する。

 又、意匠の表わし方には、主観的と客観的の二つがあり、「主観的とは心中の状況を詠じ、客観的とは心象に写り来りし客観的の事物を其儘に詠ずる」と説明し、俳句を詠むに当って、自分の感じたことをそのまま言葉にして言い出すか、客観の事物だけを詠むことで表現するか、ということの相違であると言う。従来「実物実情をありの儘」「理想」という言い方で説明してきた意匠について、主観的、客観的という考え方を新たに導くものであった。

 意匠と言語のどちらに重きを置くべきかということについては、「優劣先後あるなし。只々意匠の美を以て勝る者あり、言語の美を以て勝る者あり」、「意匠に巧拙あり、言語に巧拙あり、一に巧にして他に拙なる者あり、両者共に巧なる者あり、両者共に拙なる者あり。」と述べて、各種の区別に優劣はないという立場をとった。

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子規の俳論俳話(十二)

 

○ 俳諧大要2

 

 「俳諧大要」は、「修学第一期」「修学第二期」「修学第三期」と三つの期間について論を進める。

 初心者を対象とする「修学第一期」では、「巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ。」と「思ふままをものすべ」きことを先ず第一に求めた。

 言語、文法、切字、仮名遣などは、初心のうちは、「一切無き者」と心得て、とにかく思うままに句に詠んでみることが大切であると言うのである。

 「初心の句は独活の大木の如きを貴ぶ。」とも言い、月並の宗匠俳句は、庭木にもならない独活の大木よりも、無理にひねくった松を好むので、その俳句は、小さくまとまって箱庭的になり、小細工に落ちて活眼を開くことはないが、俳句界は「かかる窮屈なる者に非ず。」と断じて、「巧者を求め婉曲を王とす」る宗匠の導き方を批判し、先ずは思いのままに詠むことを奨励した。

 又、「俳句は只々己れに面白からんやうにものすべし。己れに面白からずとも人に面白かれと思ふは宗匠門下の景物連の心がけなり。」と説くのも同様の趣旨で、「三笠付、懸賞発句募集、其外博奕に類し私利に関する事」は堅く禁じた。

 古俳書については、「総じて元禄、明和、安永、天明の俳書を可とす。」とし、中でも「俳諧七部集」「続七部集」「蕪村七部集」「三傑集」などを「善し」とした。家集では、「芭蕉句集」「去来発句集」「丈草発句集」「蕪村句集」などを読むことを勧め、これらの句集にも多少の悪句があるが、「猿蓑」「蕪村七部集」「蕪村句集」には悪句が少いと記しているところに、子規の好みが色濃く感じられる。

 「初学者の為に古句の解説」を記した部分では、

  朝顔に釣瓶取られてもらひ水   千 代

を、「人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とはいふべからず。」と排訴し、

  井戸端の桜あぶなし酒の酔    秋 色

を、「此の句も千代の朝顔の句と同じく俗にして見るに堪へず。只々千代のに比すれば俗気少からんか。」と評す。

  何事ぞ花見る人の長刀      去 来

については、この句が多少の理想を含んでいるので、世間に伝わり称せられているが、此種の句は「最も卑俗なり易きもの」であるから、「初学者の此種の句を学ぶは最危し。」と警告する。

  我雪とおもへば軽し笠の上    其 角

は、「其角の句としては斬新を以て賞す可し。若し之を模倣する者あらば直ちに邪路に陥ること必要なり。」と、

   世の中は三日見ぬ間に桜かな  蓼 太

は、「誰にも能く分る句にてしかも理想を含みたれば世人には賞翫せらるる」が、「此句の如き格調の下品なる者は俳句とも言ひ難き位なり。」と手きびしく批判した。同じ蓼太の著名な句。

   むつとして戻れば庭に柳かな  蓼 太

についても、「俗気十分にして本色を現せり。千代の朝顔の句よりもなほ厭な心地す。」と月並色を厳しく戒めた。

 子規が認めたのは、次のような句である。

   御手討の夫婦なりしを衣がへ  蕪 村

を、「人世の複雑なる事実を取り来りて斯く迄に詠みこなすこと、蕪村の一大俳家として芭蕉以外に一旗幟を立てたる所以なり。」と誉め、

   時鳥鳴くや蓴菜の薄加減    暁 臺

を、「時鳥の音の清らなる蓴菜の味の澹泊なる、能く夏の始の清涼なる候を想像せしむるに足る。此等の句は取り合せの巧拙によりて略々其句の品格を定む。」と言い、

   菊の香や奈良には古き佛たち  芭 蕉

では、「菊香と古佛との取り合せは共にさび尽したる庭、少しも動かぬやうに観ゆ。ここ作者の闊眼と知る可し。」

   秋風や白木の弓に弦張らん   去 来

は、「此句無造作に詠み出でて男らしき処を失はず。有り難き佳句なり。」

    時鳥鳴くや雲雀の十文字   去 来

を、「最も巧妙なる句なり。」と言い、これらの句を高く 評価した。

 そして、初学者は「平易より進む方最も普通にしてしかも正路なりと思ふ」と「標準とすべき者十数句」

   五六本よりてしだるる柳かな  去 来

   永き日や大佛殿の普請聲    李 由

   凩や刈田のあとの鐡気水    惟 然

   清水の上から出たり春の月   許 六

   声かけて鵜縄をさばく早瀬かな 涼 菟

   鎌倉の街道をのす燕かな    尚 白

   夕立や川追ひあぐる裸馬    正 秀

   山松のあはひあはひや花の雲  そ の

   市中はものの匂ひや夏の月   凡 兆

   旅人の見て行く門の柳かな   樗 良

などを参考に掲げ

  皆句調の巧を求めず、只ありのままの事物をありの

 ままにつらねたる迄なれば、誠に平易にして誰にも分

 るなるべし、而して其句の価値を問へば即ち多くは是

 れ第一流の句にして俳句界中有数の佳作なり。

と記して、初心者に、巧を求めず平易に「ありのままの事物をありのままに」詠むこと、「議論するより作る方 こそ肝要」であると説いた。

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子規の俳論俳話(十三)

 

◇ 俳諧大要 V

  「俳諧大要」は、修学第二期」へ論を進める。

 第二期とは、初め五里霧中に迷っていた者が、句数と歳月とを積んで「古人の句を見ても自分の句を見てもあらましの評論も出来、何となく自己心中に頼む所あるが如く感ずる」に至った頃からだとする。

 ここでは、先ず「壮大雄渾」について述べる。「諸種の変化を要する中にも最も壮大雄渾の句あるを善しとす。」と言い、「壮大」とは、「空間の広き者」であるから、「湖海の縹渺たる、山嶽の巍峩たる、大空の無限なる、或は千軍萬馬の曠野に羅列せる、或は河漢星辰の地平に垂接せるが如き」ものであり、「雄渾」は「勢力の大き者」のことであるから、「大風の颯々たる、怒涛の澎湃たる、飛瀑の號々たる、或は洪水天に滔して邑里を蕩流し、或は両軍相接して弾丸雨注し、艨艟相交りて水雷海を湧かすが如き」ものであると既念を説明する。

 壮大雄渾、繊細精緻ということに、一般的な美術上の価値の上で差異はないが、壮大雄渾の句は最も数が少いので、一層渇望される。数の少い理由としては、第一に世間でこの種の句の趣味を解する者が少いこと、第二にこの種の天然的人事的大観が少いこと、第三に俳句は字数が少いのでこの種の大観を詠みにくいことを挙げた。合せて、壮大雄渾な事物は種類が少く、目撃することが稀であるので、句に詠んでも陳腐に陥り易いことも指摘する。

 壮大な事物は少く、繊細な事物は多い。しかし、工夫して数個の繊細な事物を合せれば一個の壮大な事物となり、同様に一個の壮大な事物を分かてば数個の繊細な事物となる。このことに気付くべきであるのに、壮大を見る者は繊細を見ず、繊細を見る者は壮大を見ないという傾向があることを指摘し、そのことに注意をうながした。

 壮大にも繊細にも雅俗があり、それを判することが肝要であるのに、「今の宗匠者流は繊細に偏してしかも雅致を解せず、俗趣を主とす。故に其句俗陋なり。今の書生者流は壮大に偏してしかも熟練を欠く。故に陳腐に陥らざれば必ず疎豪にして趣味の解す可らざる句を為す。」という指摘は、月並批判と共に自分達の俳句の欠点も認めているわけで、この批判意識が「明治二十九年の俳句界」(後述)の強い主張を支えるバックボーンになっているのである。

 「修学第一期」では「意匠と言語」について筆を賀したが、「修学第二期」では発想の契機としての「空想と写実」を論じている部分が注目される。

 発想の契機を空想と写実に分ける考えは、既に「芭蕉雑談」の中などにも断片的に見られるが、この相反する、あるいは並立するものをどのように共存、綜合をはかるかが課題であった。

  俳句をものするには空想に倚ると写実に倚るとの二

種あり。()写実には人事と天然とあり。偶然と故

 為とあり、人事の写実は難く天然の写実は易し。()

 故に写実の目的を以て天然の風光を探ること最も俳句

 に適せり。()

  空想より得たる句は最美ならざれば最拙なり。而し

 て最美なるは極めて稀なり。()実景を写しても最

 美なるは猶得難けれど、第二流位の句は最も得易し。

 旦一写実的のものは何年経て後も多少の味を存する者

多し。()

  作者若し空想に偏すれば陳腐に堕ち易く自然を得難

 し。若し写実に偏すれば平凡に陥り易く奇闢なり難し、

 空想に偏する者は目前の山河郊野に無数の好題目ある

 を忘れて徒らに暗中を模索するの傾向あり。写実に偏

 する者は古代の事物、隔地の景色に無二の新意匠ある

 を忘れて目前の小天地に跼蹐するの弊害あり。

  空想にあらず、写実にあらず、なかば空想に属し、

 なかば写実に属する一種の作法あり。即ち小説、演劇、

 謡曲等より俳句の題目を探り来り、或は絵画の意匠を

 取り、或は他国の文学を翻訳する等是れなり。此手段

 甚だ狡猾なるを以て往々力を賀さずして佳句を得るこ

 とありと難も、老熟せざる者は拙劣の句をものして失

 敗を取ること多し。蓋し絵画、小説の長所は時に俳句

 の短所に属し、支郡文学、欧米文学の長所は必ずしも

 俳句の長所ならざればなり。

と記す発想の素材としての空想と写実をめぐる子規の思考過程を、注意深く読みとることが肝要である。

 「修学第三期」では、

  空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出

 せざるべきからず。空想に偏僻し写実に拘泥する者は

 固より其至る者に非るなり。

と言い、

  一俳句のみ力を用ふること此の如くならば則ち俳句

 在り、則ち日本文学在り。

という結論を導き出した。

 「俳語大要」は、松風会員に俳句の心得を説くという形式で執筆されているが、子規自身にとっても、二十七年秋から冬にかけてのいわゆる"俳句開眼"、二十八年の従軍渡清の際の実地吟詠によって身につけた実景を詠むという発想形式を、理論として整理するものであった。それらのことにとゞまらず、文学としての俳句、美という認識にも及ぶ論述は、この時期までの子規の俳句観を総括するものであったといえよう。

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子規の俳論俳話(十四)

 

俳句問答

  明治二十九年五月~九月

  「日本」掲載

 明治二十九年の年頭、この年三十才になる子規は、

    三十而立ち古の人もいはれけん

   今年はと思うことなきにしもあらず

と自らの而立の年の決意を詠んだ。

「日本」には、一月から四月に「俳句二十四體」を掲げた。真率体、即興体(真率体に似る者で、人事に関する句)即景体(真率体に似る者で、天然を主とする)音調体(音調のみめずらしい句)擬人体(人間以外の万物を人間に擬えて詠む)広大体(空間の広き句)雄壮体(勢力の強き者)勁抜体(雄壮体の小なる者)雅樸体(消極的なる句)艶麗体(見た所の美しきもの)繊細体(空間の小さき者、勢力の弱き者)滑稽体(一読して笑を催させる句、但し川柳とは異なり滑稽のうちに品格あり趣味あるもの)奇警体(あらぬ事をあるが如く、或は仰山に形容する類)妖怪体(妖怪の現在する所、或は将に現れんとする凄涼の光景)祝賀体(人を祝う、行事を祝う句)悲傷体(悲みいたむさま)流暢体(句調の安らかに語呂の滑らかなる句)佶屈体(句調のぎくぎく語呂のむずかしきさま)天然体(天然物を詠む)人事体(人事を詠む)主観体(作者の意志、感情を現した句)神韻体(実ならず虚ならず、主観ならず客観ならず)などと句を分類し、一体各十二句を四季の順に並べた。二十八年作の句が多く用いられたが、新に作ったものもかなりあった。分類好きの子規らしい考え方が窺われる。

 この文章に対しては、「俳句問答」(後述)に質問が寄せられている。

  貴紙上に於て死木とか申さるる人、体の解剖を御始

 めなされ候。猶此後には赤裸体、起立体、横臥体抔と

 申すものあらはれ候にや。

というかなり皮肉の露骨な質問であったが、子規はこれに対して、

  死木とは子規の事なるべし。子規の何体、何体と分

 ちて自己の俳句を掲ぐること、何となく人に手本を示

 すが如き観無きに非ず。しかも其何体は蓋し悪句を以

 て充満したるには誰か之に唾せざらん。()作者は

 幾多の苦辛を経て成したる者にして、問者の想像せら

 るる如き笑談半分の仕事には非ず。

と丁重に応答している。

 五月に入ってから、「日本」に「俳句問答」を掲載するようになった。

  吾は世の毀誉に関せず、自ら行かんと欲する道を行

 く者、敢て門戸の見を張らんとも思はず、敢て俳宗信

 仰者を増さしめんとも思はず、とはいへ疑問を発する

 人に向っては答弁を興へ、誤り想へるに向っては其誤

 りを正すこと、亦吾等の義務なるべきか、ここに俳句

 問答を記して人の疑問に答ふる所以なり。

という趣旨の文章で、俳句を作ることを志す人に進むべき道を示し、反対意見を持つ者の嘲罵に答え、その疑惑を解くことを主眼とした。

 注目されるのは、新派俳句と月並俳句に関する部分である。

  新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へら

 る。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし、

 月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや。

という質問に答えて、

 一、(新派)直接感情に訴える。

   (旧派)知識に訴えようとする。

 二、(新派)意匠の陳腐を嫌う。

   (旧派)陳腐を好み新奇を嫌う傾向がある。

 三、(新派)言語の懈弛(たるみ)を嫌う。

   (旧派)懈弛を好み緊密を嫌う傾向がある。

 四、(新派)音調の調和する限りに於て、雅語、俗語、洋語を嫌わない。

   (旧派)洋語を排訴し、漢語の使用は自己の使い

     慣れた狭い範囲に限定し、雅語も多くは

      用いない。

 五、(新派)自分に限って言えば、俳語の系統とか流

      派というものは関係ない。

   (旧派)俳語の系統と流派を有し、且つ、これが

      あるために特殊の光栄があると信じる。従

      って、其の派の開祖及び其の伝統を受け

      た人に特別の尊敬を表し、その人達の著

      作を無比の価値あるものとする。

の五項目に於て両者を比較し、自らの俳句革新のねらいを明確にした。

  俳句に理窟をいふことの悪さは既に命を聴く、如何

 なる考えに称して理窟といふや。

という問いには、

  理窟とは感情にて感じ得可らず、知識に訴へて語始

 めて知るべき者を謂ふ。()理窟多き句は何の面白

 き感をも起さゞる。

と述べ、理窟の句を読む時に「人は知識の上に事実を納得するに止まり、感情の上に趣味を感ずること無し。」と説明し、感情と区別することが不可能な短時間の記憶を句に用いることを妨げるものではないが、「理窟多き句は何の面白き感をも起さゞるべく、之を無趣味とし趣味少しとも評するなり。」と、この種の句を否定した。

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子規の俳論俳話(十五)

 

◇我が俳句

  明治二十九年七月-八月

  「世界之日本」掲載

 

 明治二十九年の後半には、子規は「日本」へ寄稿する傍ら、しばしば他の紙上へも文稿を寄せた。「世界之日本」に掲載された「我が俳句」もその一つである。

 「美の主観的観察」「美の客観的観察」の二部構成で、美の基準について考察した論であるが、自らの俳句の嗜好の変遷について述べている部分が注目される。

 子規は、自分が俳句を始めた頃に、先ず面白いと思ったのは、譬喩的な句であったと記す。たとえば、千代が婚姻の時に詠んだとされる

   渋かろか知らねど柿の初ちぎり

や、遊女高尾が気に染まぬ客に伏猪の画の讃を所望され、

   猪にたかれて寐たり萩の花

と詠んだ句などを「皆我が最愛の句なりき」と回想する。

 譬喩の句の外に子規が好んだのは、

   起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな 千 代

   朝顔に釣瓶取られて貰ひ水     同

など「最も強く感情を現したる句」であった。この時期の自分の嗜好は、「実に右二種の外に出でざりしなり。」と振り返っている。

 しかし、「譬喩といふことは純粋の文学に非ず、即ち題と合せて完全すべき不具の文学なり。」と悟り、感情の強き句についても、「大概実際に外れたる句」「実際にあるまじき事実」を詠んだ句であることに気付き、後にはこの種の句を厳しく批判するようになる。以後、種々の俳論で千代の句を手厳しく叫弾する由来は、自らへの戒めも込めて、このあたりにあるのだと筆者は考える。

 子規は、自分ではこの種の句を作ることは不得手で、その頃は「陳腐にして俗気を含みたる宗匠流の句に非ざれば、言語の遊戯を主とせし貞徳流の句」を作っていたと言い、書風の句についても、「感情を強く現さんとして現し得ざりし」拙なる句であったと省る。

 その後数年間の句の傾向を、やや理窟を離れたものの、感情に訴える部分に於ては柔軟、繊細を好み、「柔軟を優美とし、繊細を微妙とし、以て文学の蘊奥を尽したりと信ぜり。」と言う。

 二十三年には、一種の「無常的観念」が流行し、前年までの柔軟繊細を好む感情に変化が生じた。二十四年頃から俳句に熱心になり、句作、研究に励むようになった。

 この頃武蔵野を往復して十数句を得るが、往路の「尾弱なる音調」「繊細なる意匠」の句に比して、復路では「実景を得たる者、空想を加へたる者、皆多少の新趣味を具へて斧鑿の痕少き」句になっていて、句法も懈弛を脱し緊密になっていることを実感した。

 二十五年以後は、「殆どが俳句を生命とし」、古書を読み多数の句を作るようになり、それと共に子規の俳句は複雑多様に変化することになる。

 先ず、「犀弱なる者」から「雄壮」へ、「繊細なる者」から「高大」へ傾くが、「雄渾壮大」は「疎大」に陥り易く、「疎大」なる者は句意を模糊とさせる弊害があることに気付くや、一変して精微に興味を向ける。

 「優柔」「浮華」なる者は、蕉風に近い「古雅」に変じたが、「古雅」が美の全体ではないことを悟ると共に「艶麗」へと向った。

 「主観的」から「客観的」へと変化した。はじめは、自分が美を感じた事物を表現すると共に、自分が感じた結果をもことばにして現わそうとしたが、次第に蛇足であることに気付き、感想を直接言わないでそのことを伝える表現を用いるようになった。

 「客観的」にはもう一段の変化があって、「初めは天然物を客観的に写したるを、後には人間界をも客観的に写す」ことを好むようになったことも認めている。

 意匠に於ては、空想より写実を重んじるようになったが、そのことは陳長を脱する上でも効力を発揮した。

 極端なものを好む傾向は、漸次平淡なものを好む方へと変ったが、このことにも写実が大きく寄与した。

 子規は自らの俳句観のこのような大きな揺れを、振子の原理にたとえて、

  物を空中に釣って之を強く右に向って振れば、其物

 必ず左に向って亦強く振れ戻るべし。而して左右に振

 ること数次、漸く平を得て本の位置に復す。()

 の繊巧を捨てて雄壮に傾き、空想を捨てて写実に傾け

 るが如き、一時は雄壮の一方に趨り、写実の一方に趨

 るを免れずとはいへども、梢々時を経るに従ひ両者自

 ら平均して、一句の中に両者の調和を見る事もあり、

 然らざるも両種の句は相併立して毫も相戻らざるに至

 る。

と述べ、「幾多の人よりも多くの変遷を為」した自らの嗜好の変遷を「美と感ずる者漸次種類に於て増加し、程度に於て減少した」「嗜好の種類多きを加ふるに従ひ、一種類に於て美と感ずる句は次第に少」くなったと言い、

  文学に於て我が美とする所は、()理想をのみ美

 とするに非ず、写実をのみ美とするにも非ず、将た理

 想的写実又は写実的理想をのみ美とするにも非ず、我

 の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的

 写実、写実的理想にもあり、而して我の不美とする所

 も亦此等の内に在り。

と総括した。

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子規の俳論俳話(十六)

 

◇明治二十九年の俳句界 1

  明治三十年一月-三月

  「日本」掲載

 明治三十年一月二日から、子規は「日本」に「明治二十九年の俳句界」(新聞掲載時の題名は「明治二十九年の俳諧」)を二十四回に渡って連載した。

 前年、越智処之助の筆名で「日本人」誌上に八月五日から七回に渡って掲げた文芸時評「文学」に於て、鳴雪、飄亭、碧梧桐、虚子について論評し、それぞれの句風とその持つ意味とを解明したが、「明治二十九年の俳句界」では、碧梧桐と虚子の〃新調" を中心に据えて、日本派の俳句並びに自らの俳句観を詳しく論じた。

 先ず、二十九年に作られた俳句が、前年に比べて著しく進歩した事実を、「今迄曽て有らざるの変化ありし」と認め、その特色を「芭蕉の深遠に非ず。檀林の滑稽に非ず、蕪村、暁臺の蒼健典麗にも非ず、白雄・闌更の巧緻清婉にも非ず。さればとて成美・乙二の流にもあらねば固より蒼虬・梅室に似るべくもあらず。殆ど全く種類を異にする者なり。」と、文字通りの"新調"であると認定し、「幾多の俳人の間に行はれつつありといへども就中虚子と碧梧桐二人の句に於いて特色の殊に著しきを見る」と、この二人の句風について特に詳しく論じた。

 最初に碧梧桐の句について、

   赤い椿白い椿と落ちにけり     碧梧桐

   乳あらはに女房の単衣襟浅き    同

   葉鶏頭と鶏頭とある垣根かな    同

   かんてらや井戸端を照す星月夜   同

   白足袋にいと導き紺のゆかりかな  同

   炉開いて灰つめたく火の消えんとす 同

   妻の手や炭によこれたるを洗はざる 同

   盥の雪更に霰の吹きたまる     同

を例に掲げ、「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り。」と認めた。

  印象明瞭とは其句を諒する者として眼前に実物実景

 を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむ

 る処、恰も写生絵画の小幅を見ると略々同じ。

と言い、例として挙げた椿の句について、

  椿の句の如き之を小幅の油画に写しなば只々地上に

 落ちたる白花の一団と赤花の一団とを並べて画けば則

 ち足れり。蓋し此句を見て感ずる所、美に此だけに過

 ぎざるなり。椿の樹が如何に繁茂し如何なる形を成し

 たるか、又其の場所は庭園なるか、山路なるか等の連

 想に就きては此句が毫も吾人に告ぐる所あらざるなり。

 吾人も亦之れ無きがために不満足を感ぜずして、只々

 紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足する

 なり。

と説明する。そして、

  印象の明瞭といふ事は美の一分子なれども、一句の

 美を判定するは印象の明不明のみを以てすべからざる

 こと勿論なり。印象の不明なる句の中に幽玄深遠なる

 者もあり。印象の明瞭なる句の中に浅薄無味なる者あ

 り、即ち印象不明なるがために却て善く印象明瞭なる

 がために却て悪しき者さへあるなり。

と記して、印象明瞭を句の良否の基準とするということではなくて、碧梧桐の句の特色である印象明瞭を、明治の新調の特質の一つとして推すという自らの立場を明確にした上で論を進めてゆく。そこで

  印象の明瞭といふことは絵画の長所なり。俳句をし

 て印象明瞭ならしめんとするは成るべくたけ絵画的な

 らしむることなり。

と言うものの、短詩型文学である俳句に於ては、「到底複雑精緻なる絵画を学ぶ」ことは出来ないので、「簡単明快なる絵画を学ばざる」をえないことを指摘した。

 絵画に「一枝の花、一羽の烏、数化顕の果物、婦人半身の像」があるが、碧梧桐の俳句はそれらと似たもので、「此の如き絵画、此の如き俳句は写生写実に偏して殆ど意匠なる者」は無い。この「意匠無き絵画、俳句が美術文学の上に幾何の価値を有するかといふことは一疑問に属す。」という問題提起がなされることになる。

 印象の明瞭、意匠の無い句風は、従来の子規の俳論で「雅味」「趣味」ということばで言い表わされた、実景実情に働きかける作者の心(意匠)や感情を重視する考え方とは矛盾するもので、子規が「疑問」をいだいたのは、この矛盾を自覚したからにほかならない。

 そこで、写生写実に偏して殆ど意匠のない作風を排斥する二説を挙げて、反論を試みる。先ず

 ○曰く、一花一鳥の簡単なる事物は尋常にして無味を

 免れず、同じく写生なりとも今少し珍しき事物、複雑

 なる事物を写すべしと。

という説には、「簡単と複雑との美の比較にして」「説者は複雑を以て簡単よりも美多きもの」としているが、自分はそうではなく、「制作の上に於て簡単なる者は変化少〈複雑なる者は変化多」い、「従って多数の意匠を得ることは複雑なる者簡単なる者に勝」ると考えると言い、「然れどもこれは美の区域の広狭にして美の程度の高低に非るなり。」と言いきった。

 これは、意匠を得るという点では、簡単は複雑に劣るが、美の程度には関係ない、意匠のあり方は単純であっても、複雑なものと同じ価値があるという考え方で、写生的にも意匠があると認めたことになる。

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