2008.4~

子規の俳論俳話

 

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

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 (二一)  (二二)  (二三)  (二四)

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子規の俳論俳話(十七)

中川みえ

  

◇ 明治二十九年の俳句界 U

 

前月号につづき、子規が疑問点として指摘した、写生写実に偏して殆ど意匠のない作風について述べる。

 ○ 曰く、写生は天然を写すなり。然れども吾人の美

 術家に望む所は天然よりも更に美なる者を写すに在り。

 美術家は高尚なる理想を写し出ださゞるべからず。

という第二の疑問については、「純粋の写生といふことを非難するなり。」と解し、画家の意匠の上に殆ど見るべきもの貴ぶべきものが無いとしても、写生の技術が巧みであれば、そのことだけでも人を喜ばすことが出来る筈であると言う。例えば「ここに一本二本の野花を巧に画きたる者」があると仮定すると、「吾は之を見て美を感すべし。」「実物を見るよりも更に美なる感を起すことさへ少からず。」と言い、ことばを継いで、その理由を。

  是れ其形状配置の巧なるにも因るべけれど、又周囲

 に不愉快なる感を起すべき者無きにも因るべし、即ち

 絵画の材料として美なる者のみを摘み来りしに因るな

 り。

と述べる。

 天然を写して一つの作品にすることは、実物あるいはそれ以上の美を感じさせるものであるが、そこには形状配置、材料の選択といった作者の関与があり、そこに価値があると見ているわけで

  写生の一点より論ずるも、絵画にして幾多の変化せ

 る天然の美を容易に眼前に現出するの功あらば猶一美

 術として存すべきにあらずや。況んや純粋の写生にも

 猶多少の取捨選択あるをや。

と強調する。

 実景を詠ずるという発想の中へ「取捨選択」という人為的操作を認めているわけで、それによって写実という考え方に幅が出てくる。

 次に、印象の明瞭な句は余韻に欠けるので面白くないという指摘に、「印象明瞭を主とするがために余韻無くなるは事実なり。」と先ず認めた上で、

  然れども余韻の一点を以て俳句を是非するは、印象

 の一点を以て俳句を是非すると同じく僻論たるを免れ

 ず。印象明瞭を主とする弊が浅薄無味に陥り余韻を生

 ぜざるが如く、余韻を主とするの弊は印象不明瞭にし

 て事物の位置関係等量も知る能はざる所に在るなり。

 両者共に美の要素にして其優劣は判し難きも、一を取

 り他を捨てんことは恐らくは感情の発達せざる人の所

 為ならんか。

と評し、

 印象の明瞭を尚ぶ者は形体を尚ぶ--体の美は直

 ちに五百の感得する美である--爺婆に至る迄之を感じ

 る。

 ○ 余韻を尚ぶ者は精神を尚ぶ--精神の美は知識によ

 って抽象された無形の美である--知識ある者、連想多

 き者に限って之を感じる。

と分析して、世間の風潮は「余韻を以て最上の美」とするが、仮にそれを認めたとしても、形体の美を度外視するわけにはゆかない。「少くとも余韻無き句を評するに当りて印象明瞭を標準として其美を判定するは最も必要なるべし。」と明言した。

 余韻を尊ぶ人は、余韻意外の句を全く悪句として放擲するが、この種の人の多くは「文学の美を知って絵画の美を知ら」ぬ者で、絵画を「一小区域内に束縛」しようとするために形状の美を解さない。印象の明瞭を支える形体の美は、「殊に絵画に於ては最も必要なる者」であり、「ある点に於て他の(長篇の)文学よりも寧ろ絵画に近き俳句は殊に形体の美に注意せざる可からざる」ものであると解説する。

 そこで、本来時間的なものを本質とする文学にとって空間的なものを本質とする絵画に学ぼうとすることが、そもそも無理なのではないかという疑念に直面し、絵画と文学の本質的なちがいを分析する。

  文学の時間的なるは絵画の空間的なると性質を異に

 す。故に文学にして空間たらしめんとするは梢々無理

 なる注文なり。俳句とても多少の時間を含む所に於て

 絵画に超越せりといへども、俳句は他の文学に比して

 空間的ならざるべからざる者あり。蓋し時間は空間の

 変動に因りて始めて知覚せらるべき者にして、時間を

 現さんとせば是非とも空間を現さゞるべからず。即ち

 絵画には時間を含まざることあるも、文学には空間を

 含まざること能はざるなり。然るに俳句の如き短き者

 に在りて時間、空間共に之を含ましむることは、分量

 の上に於て極めて出来難きことなるを以て、寧ろ両者

 の一を選ばざるべからざるの必要起る。此必要に応ぜ

 んとするも時間ばかりを写すことは出来得べきにあら

 ねば、巳むなく空間ばかりを写すの勝れるを見る。是

 を以て俳句は時間的の文学に属しながら却て空間的絵

 画に接近せんとす。俳句が時間を含む能はざるは文学

 の上より俳句の大欠点として論ずべき者、しかも文学

 中に此空間的俳句あるいは亦以て俳句の特色として存

 すべき者にあらずや。兎に角俳句の空間的なる所以は

 即ち形体の美に於て特に研究せざるべからざる所以に

 して、碧梧桐が印象明瞭の句を為すは俳句の上の一進

 歩として見るべきなり。

と、俳句の持つ空間性を生かした碧梧桐の新調を 〃一進歩"と認めたのである。

 

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子規の俳論俳話(十八)

  

◇ 明治二十九年の俳句界 V

 

碧梧桐の新調として、俳句の持つ空間性を活かし得た点を認めた子規は、一万で、虚子の句のうちで俳句の時間性を活かしたものを新調と認めた。

 この論に先立って雑誌「日本人」に連載した「文学」では、

  明治二十九年が碧梧桐の俳句に一紀元を与へたるが

 如く虚子にも亦一紀元を与へたり。否寧ろ虚子が明治

 二十九年の俳句に一紀元を与へたり。

と記して、年の初めには「狂態乱調、珠玉粉砕して復収拾すべからざる」状態であった虚子の句が、「夏に至りて精神稍沈静したりとおぼしく、半ば平易の句を成し半ば新想異調の句を成」し、「秋に至りて此等の新想異調は全く調和して一種未曽有の新調として現れ」たと説明する。その「句法」の新しさを「特種の切字、動詞等と其外漢語の多きこと、漢文直訳的の文法を用ゐたること」のうちに、「意匠」の新しさを「時間を含みたること、複雑なる人事を詠じたること、客観中に一種小量の主観を現したること」のうちに認めた。

 「明治二十九年の俳句界」では、先ず時間性を活かした句を取り上げた。

 虚子の句のうち「現在の時間の接続する者」を「客観的時間」、「過去又は未来の時間を以て現在を連接せしむる者」を「主観的時間」と名付け、前者の例として、

   しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く 虚 子

   窓の灯にしたひよりつ拂ふ下駄の雪 同

を掲げ、多少の時間を含んだ句は古来例が無いわけではないが、虚子の客観的時間を現した句は、それらの古句と比較すると「遥に複雑なる変動」を現している点に特色があると言う。

 後者の「主観的時間」の例としては、

   盗んだる案山子の笠に雨急なり   虚 子

   住まばやと思ふ廃寺に月を見つ   同

を挙げ、「雨中に笠著たる人を見て誰か其笠を案山子の笠なりと想像せんや」、「廃寺の月を見る人をして誰か此人が此寺の未来の住持なるべきを想はん」と述べて、古句が事物の上に変化のない―現在の事と同じ事物の過去の事、あるいは、現在の事と同様の未来の事に推及したにすぎない―のに比して、虚子の句は「現在の事よりしては読者が想像し得ざる程の無関係なる事(天然的に無関係なるを言ふ)を挙げ来りて(偶発的なる)特殊を付けたる」ところに新機軸があると言う。また、

  時間的の俳句を作るは難きに虚子が此等の句を作り

 しは難中の難を為したるなり。故に此点に於ける虚子

 の名誉は難中の難を為したる処に在り。然れども難中

 の難といふことを裏面より言へば無理を為したりと云

 ふが如き者にして俳句の短所を出来るだけ巧に成した

 るなり。

とも述べて、碧梧桐の場合と同様に俳句の弱点を新調に活かした点を評価した。

 この外に虚子の句の特色として、「人事を詠じたる事」を挙げる。

 俳句は元来天然を詠むことに適するものであるが、明和、安永の頃に蕪村が別に一機軸を生み出した。俳句の趣向として、天然と共に人事を採用し、しかもその点で成功した。虚子は、その蕪村を一歩進めて、蕪村の為さなかった「趣向の複雑」を為したところに新機軸があると言うのである。そして、「複雑なる人事を俳句中に収めんとしたる結果は、具象的なる叙述を用ふる能はずして抽象的の叙述を用ふるに至れり。」として、次のような句を例に挙げて

屠蘇臭くして酒に若かざる憤り   虚子

老後の子賢にして筆始めかな    同

年の暮の盗人に孝なるがあり    同

先生や易吉にして複を得たり    同

自炊して雁来紅を見あきたり    同

  寺に幽せられて庭の芙蓉に悲む   同

  大なる竃蝉鳴いて用ゐさる     同

これらの句の「酒に若かざる憤り」「老後の子賢にして」「孝なるがあり」「易吉にして」「自炊して」「寺に幽せられて」「用ゐざる」が、皆「抽象的の語」で、古来殆ど用いられなかった趣向であることを指摘し、

  客観の事物は成るべく具象的に即ち印象明瞭に現し

 てこそ美を感じ得べきに、却てここに虚子が抽象的に

 ものしたるは前の時間的の句と同じく俳句の短所を成

 るべく巧にものし得たるに過ぎず。故に俳句の世界よ

 り見れば其区域を拡めたる者にして俳句の一進歩と見

 るべく

と言う。但し、

  虚子、碧梧桐が多少の新機軸を出だしたるは古来在

 りふれたる俳句に飽きて、陳腐ならぬ新趣向を得んと

 渇望せし結果なるべし。()知らずや、俳句は将に

 霊きんとしつつあるを。知らずや、二人の新機軸を出

 したるは消えなんとする燈火に一滴の油を落したるも

 のなるを。

とも記して、碧梧桐の場合も虚子の場合も、俳句の弱点や短所を巧みに活かして、今将に消え尽きようとしている俳句の大に一滴の油を落す試みであることを強調する。新調を俳句の一進歩と見るものの、決して「楽天的な自己主張」(粟津則雄「正岡子規」)ではなかった。

 

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子規の俳論俳話(十九)

  

◇ 明治二十九年の俳句界 W

 

  虚子、碧梧桐の俳句を見て世人が(俳句を知らぬ人

 迄も)先づ異様に感ずるは其句法と用語とが従来の俳

 句に異なりたることなり。

と、「明治二十九年の俳句界」は、虚子や碧梧桐の俳句の特色として、五七五という定型に対する大胆な破戒について論じる。従来の俳句との相異点を、

 第一、五七五の調を破りたること

 第二、十七字以上の句を作ること

 第三、漢語を用ゐ又は漢文直訳の句法を用ふること

   (洋語を用ふることもあり)

 第四、助辞少くして名詞形容詞多きこと

と分析し、句法の変化の原因を、

・古来ありふれたる五七五調に飽きて新調を得んと欲し

 たること

・複雑なる趣向を詠ぜんとしたること

・印象を明瞭ならしめんとしたること

・新車物を詠ぜんとしたること

の四ヶ条に帰するとした。

 定型を大胆に逸脱することに先鞭をつけたのは虚子であった。

  炉塞いでこの夕暮を如何ん僧    虚 子

  花に豆腐味噌買ふことを忘れ男   同

  見つけたる野茶屋の鮓や蝿群れたる 同

  むすべば濁る浅き清水に値遇の縁  同

  夕嵐青嵐吹き去って高楼に灯    同

  野の犬に残飯くれてやりつ秋    同

  削るが如き岩畳める如き雲の秋   同

  大竃寒蛩鳴りて用ゐざる      同

  村天子新酒醸し得たり口に髭    同

 碧梧桐は「子規の回想」にこれらの句を引いて、

  これらの作は当時我々を圧倒して、一語三嘆を禁じ

 得なかったものだ。我々も其の驥尾に附して、いづれ

 劣らじと犇めき合ったのだが、当時の虚子の奔放自在

 な鋭鋒には、到底当るべからざるものがあった。

と回顧する。虚子の破調は「初め殆んど無意識の境界に在りき、作句のいたく乱調なるに自らも危み又驚きたり」(「子規の回想」)という状況で始った。

 子規は「比較的に多くの俳句を見、比較的に多くの俳句を作りて単調に飽きたる二人が」「いづこかに古人未開の地を得て自己の詩想の花咲かせん」として「此新調を成すは固より怪むに足らざるなり。」と言い、「趣向複雑なれば文字自ら多くなること論を俟たず。文字多くなれば五七五の調は自ら破るるなり。」「印象を明瞭ならしめんとすれば其客観の光景中に在る者は成るべく多く之を現さゞるべからず、又其事物の位置と形状と運動との模様は成るべく細かに之を言はざるべからず。さてこそ自ら文字多くなれるものなれ。さてこそ助辞少くして名詞、形容詞多くもなれるものなれ。」「明治時代の新車物の名称には漢語(又は洋語)を用ふること多し。」などと述べて、彼らの新調の必然性を認めた。

 「一度子規子の破天荒の新調として之を同人に説くや、其気焔愈猛烈を如へて」(「子規の回想」)新調はまたたく間に日本派の俳人の間に広がって行った。

 子規自身も「十八字句」を試みているが、その一方で「蓋し二人が五七五調を破りたるは事実なるも、二人は只々破壊したるのみにして未だ創造の功を奏せざるなり。見よ、二人の長句は五七五より長しといふ迄の事にて一定の調子無きに非ずや。」とも述べて「進化か、退化か、消滅か、兎に角に今の所謂新調は永久なる能はじ。」「所謂新調なる者は一時の現象に過ぎずして永く繁栄することなかるべし。唯々俳句の一変体として存在すべきのみ」と冷静にその行く末を見通している。

 「十七字以上の句を俳句と称すべきか否かは虚名の問題に属す」と言い、「俳句漸く長くなり行かんか、漸くに俳句の範囲を脱して短篇の新体詩とならんと。」という意見には、「吾人は実に此傾向あるを認むるなり。俳句専門の人或は此傾向を以て俳句のために悲むべしとなす。然れども吾人は俳句のみを重んずる者に非れば、他の文学を俳句の犠牲に供ふる程には俳句に忠ならず。俳句今全く尽きたりとするも吾人は之を悲まず、又それがために今迄俳句を学びたることを悔いず、又一句なりとも俳句残りあらんには之を学ぶ人あることを喜ぶなり。」と述べる。

 子規は早くから俳句終末感を抱いて、従来「和歌俳句の外に一種の新詩歌を創造することを熱望」(「獺祭書屋俳話)し、「十七文字と定めし事もと是れ人間が勝手につくりし掟なれば()試みに字余りと云ふ文字の代りに()十八字の俳句十九字の俳句と云ふが如き文字を用ゐなば字余りは是れ字余りにあらずして一種の新調の韻文なる事を知るに足らん。」と述べ「若し十八字十九字等の句にして俳句といふべからずといふ人あらば、之を俳句といはずとも可なり。」(「俳句問答」)という立場を示したこともあったが、ここでは俳句の定義を「他の文学と区別すべき特色は五七五的の調子に在り」「五七五的の調子は実に俳句の最大要素なり。」と述べて、虚子らの破調をあくまでも俳句の中の〃新機軸"と捉え、「新篇の新体詩」ではなく「俳句」という様式の中での変革を念頭に置いて論じたのである。

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子規の俳論俳話(二十)

  

◇ 明治二十九年の俳句界 V

 

碧梧桐や虚子の新調はどのようにして生れたのであろうか。

  新調なるものが凡そいつ頃始まったか、はっきりし

 た記憶はない。大方子規不在中に其の端を発したので

 あらうが、其の帰東を迎へて句作に熱中し始めてから、

 一層著しくなったと記憶する。

(河東碧梧桐「子規の回想」)

と記す碧梧桐に依ると、松山での静養の後に東京へ帰って来た子規が、松山の俳句仲間、松風会、極堂、叟柳、霽月など-のことを伝えたのが刺戟となって、碧梧桐や虚子が自分達も「大いにやらうぢゃないか」という気運になったこと、新進後輩の作者が、ヒシヒシと背後に迫って来て、佐藤紅緑、石井露月、夏目漱石、福田把栗、梅津墨水、吉野左衛門、中村其村などが、例会や新聞の俳句欄で抬頭して来て、碧梧桐、虚子に焦燥を感じさせたことなどが契機となったようである。虚子は、前年末道濯山で子規の後継委嘱を断り、碧梧桐は、戦地から先輩記者が帰国して人員過剰になった「日本」新聞社を退社させられて、この頃二人共不安定な状況に在ったが、二人が二高を退学して上京した頃とはまわりが一変していた。俳句を取り巻く環境が、仲間うちの内輪のものから広く世間に公認された公のものになっていて、碧梧桐も虚子も日本派の中堅どころとして遇され、文学雑誌の選を頼まれるようにもなったので、無責任な生活を送るわけには行かなくなっていた。

 このような中で、蕪村の「新花摘」の発見ということがあった。

  子規の東帰後のことと思ふが、蕪村の「新花摘」の

 発見は、サア根抵からと言ってもいい程、先づ子規を

 動かし、其の感奮が我々にも伝染して、初めて俳句の

 大鉄槌で脳天をなぐられた驚きを感じてゐた。俳句の

 神様にしてゐる芭蕉は、世間で崇拝する程の仕事をし

 てゐるかどうか、随分月並臭い句が多いぢやないか、

 と世間に追随することを潔しとしなかった独得の反抗

 も手伝って、古人恐るLに足らず位の気焔を挙げてゐ

 た我々も、「新花摘」には一も二もなく参ってしまっ

 てゐた。それまでに持ってゐた俳句の概念が、俳句と

 はかういふ程度のものだと多寡を括ってゐた観念が、

 「新花摘」によって動揺したのだから、我々の俳句観

 念もここに一エポックを画したと言ってもいいのだっ

 た。

めず、単に其の形骸の模倣に努め、「新花摘」によっ

て示された一題十句を、句作の最善の方法だと心得た

りして、半ば浮かれ調子であった当時の我々は、言は

ば傍若無人でもあったが、其の余勢に生れた、虚子を

先陣としての我々の新調、又た乱調なるものは、とり

も直さず、我々の当時の雑煩的心境を反映したもので

あった。我々の不平不安、心の焦燥、どうともなれ、

構ふもんか、と言った捨鉢的な気分の濃厚な雰囲気に

蕪村の魂が乗り移った。そんな気のする新調であり乱

調であった。

(「同」)

と碧梧桐は記しており、当時の雰囲気が伝わってくる。

 子規はこの新調を賛成、反対という第三者的立場ではなく、「其の発端の機微の動きに著眼し、人知れず、其の動向の推移を注視」(「子規の回想」)していた。子規には、明治俳句の元禄天明と異なる特色を樹立するという使命があった。「百年千年の後から見て、元禄天明にまさる明治俳壇でなければ」生き甲斐はないと思っていた。たゞそれがどういうものであるか明確には見えていなかった。その希求に仄かな曙光を感じさせたのが、蕪村であり、虚子や碧梧桐の句の新機軸であった。

 子規は「明治二十九年の俳句界」で「材料多く印象明ている。とりわけ、「主観的時間」を現わした句について論ずるにあたっては、「虚子が主観的時間の俳句に於て古人以外に新機軸を出だしたりと言ひしは蕪村の句を忘れんとしたるなり。」と述べて、

   御手討の夫婦なりしを更衣     蕪 村

   打ちはたす総論つれ立ちて夏野かな 同

の二句を掲げ、「前者は過去の事件を挙げ来りて俳句の一部とせしもの、蕪村を以て嚆矢となすのみならず、蕪村以後にも多く之を見ず。」と言い、後者については「『打ちはたす』の五字に未来を含めて複雑なる光景を想像せしむること、蕪村が大力量を見るに足る。」と記し、虚子のこの種の句と比べて「技倆遥に勝れり。」とさえ言う。

 子規は、碧梧桐や虚子の新調に、蕪村の句の持つ空間性、時間性を見た。ある部分に於ては、蕪村を乗り越えたところも見出した。一万蕪村が、碧梧桐、虚子のそれぞれ持つ新調の要素=空間性、時間性=を一人のうちに兼ね備えていることをはっきりと認識した。

 蕪村と、碧梧桐、虚子の新調に、子規は歴史的意味あいを確認すると共に、自らの俳句の進むべき道を見出した。蕪村を自派の旗幟とすることを定め、碧梧桐、虚子の新調を推し進めると共に、「俳人蕪村」の執筆にとりかかったのである。

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子規の俳論俳話(二一)

  

◇ 明治二十九年の俳句界 Y

 

 「明治二十九年の俳句界」は、碧梧桐、虚子の新調に多くの筆を費した後に、露月、紅緑、霧月、漱石、極堂、牛伴、把栗、墨水、蒼苔、肋骨、其村、東雲、左衛門、の句を掲げて、その特色を述べた。

 先ず露月について、「碧虚の外に在りて昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす。露月喜んで漢語を用ふれども用語自ら碧虚と異なり。」と記し、

   夕風の墓門の桜花もなし     露 月

   一山の堂塔古き若葉かな     同

   雁を聞く夜船の底の進土かな   同

など数多くの句を挙げて、「漢詩、漢史より来りし語多く、従って支郡の事物を詠じたることも多し。」「題目は大なる者、壮なる者を取りて句調は多く古調に捕る。」という点に於て、碧梧桐や虚子とは異なる句を作ると記す。

 露月石井祐治は秋田県に生れ、「何か文章上で糊口をしながら勉強をしたいの志で」(石井露月「吾家の子規居士」)明治二十六年の秋上京した。たまたま友人の同窓生に子規の従弟の藤野古白を知っているという者があって、その伝で「小日本」編集部に子規を訪ね、しばらくして入社が決した。

 「小日本」では五百木飄亭のもとに属して雑報を担当し、飄亭召集後はその後任をまかされたのであるが、

  原稿を書いてしまへば余と拈華と俳句を子規君に示

 す。これは前日子規君から題を課されて作って来たの

 である。序に子規君自分の句も示される。遠慮なしに

 批評する。

という経緯で俳句を作るようになった。

 子規は「明治二十九年の俳句界」に、

  露月は壮大を好み、奇警を好み、理想を好み、而し

 て他を知らざるが如き不具にあらず。時に柔軟なる雅

 語を用ゐ、時に微妙なる情味を説く。或は脱兎の如く

 或は魔女の如く、或は鬼神を嚇し或は赤子を愛すが如

 き者、是れ露月の露月たる所以なり。

 (略)

  露月沈黙寡言、迂の如く愚の如し。然れども其句を

 見れば縦横奔放、藻思爆発、真に恐るべき者あり、勉

 めて巳まずば造詣する所豈測るべけんや。

と記し、「露月鬼才あり。」という評価を下した。

 つゞいて、露月と対をなす者として紅緑を挙げた。

  紅緑に一種の理想あり。露月の如く支那的にもあら

 ず、壮大的にもあらざれども、其奇なる處似ざるにあ

 らず。

と記して

   蜊蜆小桶に何を語るらん     紅 緑

   青簾蝶と蜘との喧嘩かな     同

   鮓桶に猫と鼠の別れかな     同

を例として掲げた。

 紅緑佐藤洽六は青森県弘前に生れ、明治二十六年春に上京して、陸羯南宅の書生をしていた縁で子規と知り合い、後に日本新聞社へ入社した。「小日本」廃刊後に「日本」へ戻った子規が社へ持って来た類題集に興味を示し、これが契機となって句作を始めようになった。この日 沿六の作った句を翌日の新聞に掲載するに当って、子規は「紅緑」という雅号を考えてくれた。

 紅緑の句の特色を、「小景を詠じ瑣事を賦する」ことが極めて多いと見る子規は、

   引越や車に縛る鉢の梅      紅 緑

   永き日を膝の小猫の鼾かな    同

など「普通の人ならば尋常の事として見逃すべき者をも紅緑は取って以て趣味ある詩料とせり。」「普通の人ならば俳句中の一部分と為すべき小趣向をも紅緑は全句の趣向として毫も懈弛を感ぜしめず。」という点に於て、その技倆を「すぐれたるなり」と認めた。

 子規はこの論で、両者を「一は沈黙。一は多弁。一は遅鈍にして牛の如く、一は敏捷にして馬の如し。」「露月は大に健に、紅緑は小に巧なり。」と記し、露月を「沈黙寡言、迂の如く愚の如し。然れども其句を見れば縦横奔放、藻思煥発、真に恐るべき者」、紅緑を「時に雄健の句、雅正の句をさへ吐くに至りては、彼亦一個の稍々完備せる俳人と言はざるべからず。此点に於て露月は一歩を紅緑に譲る。」と言い、「性質に於て相反し、俳句に於て相反す。然れども其句奇警人を驚かすに至りては両者

或は似たる所あり。蓋し一時経歴を同じうせしためか。」と総括した。

 なお、紅緑の記した「子規翁」に、

  虚子碧梧桐の二氏が変調をやり初めた時、余は仙台

 から翁に向けて両氏は邪道に陥ったのである。あれを

 黙視して居らるるは何かわけがある事であるかと不平

 旁々手紙を送った。すると其返事に、両氏の変調は今

 に於てこそ変調なるかも知れねど後に考えれば正調か

 も知れず、兎も角も進歩は開拓なり、開拓は其時に困

 難にもあり、又た無理にも思はるれど、升がために新

 天地を得れば何より喜ぶべき事であらう、二子は我派

 の急先鋒で我れ我れは殿であるから、前車は一に先鋒

 に一任するがよいではないかとのことであった。之が

 ために余は釈然として大に得る所があったのである。

という記述がある。虚子や碧梧桐の変調、乱調を巡っては、日本派内部にも異論があったが、それに対する子規の考え方が示されていて興味深い。

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子規の俳論俳話(二二)

  

◇ 明治二十九年の俳句界 Z

 

 「明治二十九年の俳句界」は、碧梧桐と虚子、露月と紅緑について論じた後に、霽月、漱石、極堂の俳句に論を進める。

 先の二人(露月、紅緑)の共通項を「日本」新聞社とするならば、霽月、漱石、極堂に共通するのは、明治二十八年の松山ということになろう。

 子規は二十八年に日清戦争従軍の帰途、船中で大喀血し、神戸病院でかろうじて一命をとりとめた後に、須磨で保養し、更に郷里松山で静養することとした。

 この頃、夏目漱石が英語教師として松山中学校に赴任中であったので、子規は漱石の下宿の階下の部屋を借り受けて静養することにした。

 当時松山では、松山高等小学校の教師が「松風会」という俳句の仲間を作っていたのへ、画家の下村為山(牛伴)が帰省して日本派の俳句を伝え、教職員以外にも柳原極堂、正宗寺住職の釈一宿、子規の叔父の岡村三鼠などが参加するようになり、会員ではなかったが村上霽月も時折出席するようになっていた。

 そこへ子規が帰省して毎日のように句会が開かれるようになり、漱石も加わるようになったのである。

 「明治二十九年の俳句界」では先ず村上霽月について、

  地方俳人の中梢々古き者を霽月とす。霽月終始僻地

 に在りて独り蕪村を学ぶ。蕪村流の用語と句法を極端

 に摸したる者は実に霽月を以て嚆矢とす。明治二十七

 年の頃既に特殊の調子を為す。() 霽月初より全く

 師事する所無し。其造詣の深さは潜心専意古句を読み

 て自ら発明する所に係る。畏るべさかな。

と記して「勁抜緊密」を霽月の句の特色として認め、

  残雪や胡騎長駆して関に入る   霽 月

  半切や一蝶が画の涅槃像     同

  長谷の雲雀扇が谷の雲雀かな   同

などの句を例示した。また、新しい語や新しい材料を用いなくても、配合の妙によって読者に清新さを感じさせる句を作るのも霽月の特色であると言い、

  子雀や運縄にとまり竹にとまり  霽 月

  須磨の松海から見たる春の雪   同

などを掲げた。

 また、霽月の蕪村を学ぶ姿勢を、「最も初に蕪村を学びたるも霽月なり。最も善く蕪村を学びたるも霽月なり。」と賞賛した。

 つづいて、「霽月とは何等関係も無くしてしかも隠然霽月と対臆する者を漱石とす。」と記し、夏目漱石の俳句について多方面から検討する。

  漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る

 時より既に意匠に於て句法に於て特色を見はせり。其

 意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来たりし者多し。

と記して、

   永き日や韋陀を講ずる博士あり  漱 石

   此土手で迫ひ剥がれしか初桜   同

   蘭の香や聖教帖を習はんか    同

などの句を例として挙げた。また、「滑稽思想」を有するものが見られる例として、

   出代の花と答へて涙なり     漱石

   南瓜と名にうたはれてゆがみけり 同

らの句を掲げた。

 更に、「漱石の句法に特色あり。」とも言い、漢語を用い、俗語を用い、「奇なる言ひまはし」を用いて、

   冴え返る頃をお厭ひなさるべし  漱石

   明月や丸きは僧の影法師     同

のような句を詠む一方で、「雄健なるものは何處迄も雄健に、真面目なるものは何處迄も真面目」に

   短夜の芭蕉は伸びてしまひげり  漱石

   王章や袖裏返す土用干      同

と詠む漱石の「一方に偏する者に非ず」という柔軟性、多様性を大いに認めたのである。

 「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。」という記述は文章のアヤで、漱石が俳句を始めたのは明治二十二年頃で、子規との交遊を契機とするものであった。「明治二十八年始めて俳句を作る。」とは、先に述べたように、松山で子規の仲間の句会に加わって、"本格的に俳句を始めた“という意味であろう。

 次に、「霽月、漱石と共に立つべき者」として、子規.は同級生で松山中学以来の旧友である柳原極堂の名を挙げた。明治二十八年の子規の帰郷中に俳句の緑を結び、最も熱心に子規のもとに通った俳句仲間の一人であった。

 子規は「極堂は巧緻清新を以て勝る」と記して、

   痩馬に提灯つけて時鳥      極 堂

   家は皆海に向ひて夏の月     同

   燭を取る人影黒し森の中     岡

を例に挙げると共に、極堂が好んで「を」の字を用いることを指摘し、その言いまわし方の極めて珍しいものを「自家の生面を開く。」と評価した。

   笥の竹になる日を風多し     極 堂

   夕立のあとを小草に入る日かな  同

 極堂はまた、初五文字に代えて三字を用いるとも述べて、たとえに

   病起婢を呼び僕を呼び春の風   極 堂

   病起小春の縁に出でつ      同

を挙げ「是れ古今未だ曽てあらざる所なり。」と断じた。

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子規の俳論俳話(二三)

  

◇ 明治二十九年の俳句界 [

 

子規の「明治二十九年の俳句界」は、前年活躍した大勢の俳人についても、短く論評した。

 先ず、「松風会」に日本派の俳句を伝えた牛伴(画家の下村為山)を、

  牛伴は学ばずして俳句を善くす、亦巧緻なり。句法

 は成るべくたるみ無きやうに作る、故に「や」「かな」

等の切字太だ少し。

と言い、

   藤紫に明けつつじ紅に夕す   牛伴

の句を記し、つゞいて、把栗、墨水、蒼苔、肋骨を、

・ 昨年中著き進歩を為したるは把栗なり。把栗昨春始

 めて俳句を試み、秋冬に至りて既に一家を成す。其趣

 向多く漢詩より来る。清幽瀟洒誦すべき者多し。

・ 把栗と対峙する者を墨水とす。墨水の句澹泊中に趣

 味深き處あり。句法も亦平凡にして奇を衒はざる處に

 雅致を寓す。昨春に至り大に進歩したるが如し。

・ 蒼苔も昨年中に著く進歩す。其句奇抜なる者、又は

 実景を写して新鮮なる者多し。

・ 肋骨も夏より秋にかけて俳境に一歩を進めぬ。冬に

 至りて稍々新調を学ぶ。

と分析し、それぞれの句を掲げた。

   舟入の魂祭る火や荻の中     把 栗

   蔓をもて提る西瓜の覚束な    墨 水

   水の上や蜻蛉飛べば蜻蛉飛ぶ   蒼 苔

   鎌立てて蟷螂こちら向いて来る  肋 骨

 次に、其村、東雲、左衛門について、三人は鼎立しているが、先ず初めに其村が上達し、次に東雲が、最後に左衛門が上達したと記し、三人の句の特色を、

・ 其村漸く進んでそれより後進まず。()其村は趣

 味の深き處を解せず、眼前の瑣事却て人の道破せざる

 處を詠ず。

・ 東雲の句は其村に比して梢々曲折多し。

・ 左衛門は口を衝いて立どころに数百句を成す。句法

 趣向共に無造作なれども、なかなかに俗気少し。

と言い、それぞれの句を示す。

   絵日傘を異人の子供さして行く  其 村

   宮の前の川に銀杏の落葉かな   東 雲

   宰相は牡丹の君と申しけり    左衛門

 更に「四方太、繞石深く軌道に悟入する所あらんとす。鼠骨、秋竹亦侮りからず。花叟、叟柳、別天楼、愛桜子、月人、霊子、燕子、無事庵等各々進歩せざるはなし。」と述べて、句を記し短く論評した。

   喰へもせぬ茸沢山生えにけり   花 叟

   況んや盥輪朽ちて坐上さみだるる 霊 子

   源八を渡れば菜種ばかりかな   別天楼

   望夫台に登れば長し春の雲    無事庵

   のどかさや鶴九皐に舞ひ上る   叟 柳

 釣鐘に花の夕日のあたりけり   燕 子

 村と見えて雪の野末の煙りけり  繞 石

   雪の折戸あくれば雀さっと飛ぶ  四方太

   月更けて雁鳴く海の広さかな   愚 哉

   焼茨昼顔咲いて荒れにけり    愛桜子

 泥亀の氷の上を這ふて居る    秋 竹

これらの句を紹介した後に、子規は、

  要するに昨年に於ける俳壇の諸子は著く進歩せり。

併し一個人の進歩は何れの年にもあることにして昨年

に限りたるに非ず。昨年に限りたる俳句の進歩は調子

の上に新調の生れ出でたると、趣向の上に印象明瞭な

る者、時間を含みたる者、人事を詠じたる者多くなり

し等なり。一昨年にかありけん、吾人の俳句の天然多

く人事少きを難じたる人あり。吾人は当時俳句に人事

の賦し難き所以を論じたる事ありしが、昨年に於ける

人事句の発生は事実の上に於て吾人の論を打ち消した

るなり。只々其の人事句は旧来の五七五調の形を仮ら

ずして他の新しき形を以て現れたる者なることを忘る

 べからず。

と、明治二十九年の日本派の俳句を総括した。

 子規が明治二十七年に「小日本」の付録として「二葉集」を編纂した時に、最も多く所載したのは五百木飄亭の句であった。その飄亭と、同様に多数の句を所載した内藤鳴雪については、「明治二十九年の俳句界」に先立つ「文学」(雑誌「日本人」連載)に於て、各々の句の特質を分析し論じたのであるが、その後飄亭は次第に俳句から遠ざかり、鳴雪も一時句作を休止した。

 飄亭と同様に早くから子規の俳句仲間であった新海非風は、結核を発病して自暴自棄の生活を送り、子規に疎まれて去って行った。子規の従弟古白は自殺、投句者の中から頭角を顕した狙酔は病没、雑誌「俳諧」を共に発刊した椎の友の仲間とも次第に疎縁になり、紫影や洒竹も自分達のグループを持つようになった。僅か一、二年で子規を取り巻く俳句仲間は大きく変化していた。

 今や名実ともに子規の両輪となった碧梧桐、虚子が新調を生み、「小日本」「日本」新聞社で子規に俳句の世界へ導かれた露月、紅緑が異彩を放つようになり、郷里松山では松風会が生れ、また霽月、漱石、極堂がそれぞれ特色のある句を寄せるようになった。新聞の投句者の中からも力を付けてきた者が続出した。日本派が新たな陣容と共に確固たるものになってゆく過程を総括し、詳らかにしたのが、「明治二十九年の俳句界」である。

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子規の俳論俳話(二四)

  

◇俳諧反故籠

  明治三十年 一月〜三月

  松山版「ほととぎす」掲載

 

 明治三十年一月、子規の郷里松山に於て、中学以来の友人柳原極堂の手によって、俳句雑誌「ほととぎす」が創刊された。

 前年末に極堂が上京して俳誌発刊の意志を明らかにし、編集並びに経営は松山に於て自分が中心となってその任に当るので、原稿は主として東京で用意してほしいという依頼があり、早速実行に移されることに決った。

 松山で生れた「ほととぎす」第一巻は、表紙に下村為山(牛伴)筆の「ほととぎす」という五文字を木版で刷っただけの非常にシンプルな雑誌で、ピンクの絹糸で綴じてあった。巻首には、蕪村の「時鳥平安城をすぢかひに」を画題にした中村不折の画が描かれていた。

 子規はこの号に「ほとゝぎすの発刊を祝す」と「俳諧友故籠」を執筆し、前年「日本人」に掲載した「文学」の中から「河東碧梧桐」の部分を越智処之助の筆名で転戴した。また、内藤鳴雪と共に募集句の選に当ったが、極堂の一存で当初選者名を "子規宗匠"と記したことが、新しい俳句を表傍する「ほととぎす」が月並宗匠の選者称を用いたと後に問題になったと、極堂は回想し反省している。

 「俳諧反故籠」は一号から三号の三回に渡って掲載された短い文章で、第一回目には、俳人=句作=の心構えを記し、第三回目には、真似、模倣ということと、文学美術の上の美・不美について論じた。第二回目の写実について記した部分が、特に注目される。

  美醜錯綜し玉石混淆したる森羅万象の中より美を選

 り出だし玉を拾ひ分くるに文学者の役目なり。無秩序

 に排列せられたる美を秩序的に排列し、不規則に配合

 せられたる玉を規則的に配合するは俳人の手柄なり、

 故に実景を詠ずる場合にも醜なる處を捨てて美なる處

 のみを取らざるべからず、又時によりては少しづつ実

 景実物の位置を変じ、或は主観的に外物を取り来りて

 実景を修飾することさへあり。()此の如く選択し

 修飾して得たる句は俳句中の上乗なる者なり。

と記す。

 実景を詠ずるという発想の中へ、選択のみならず、位置を変じ、主観的に外物を取り入れて実景を修飾するという人為的操作までも容認する発言である。つまり、写実ということに空想的な要素の参与を認めているわけでこのことによって、写実ということばの意味はかなり幅のあるものになってゆくのである。

 また、

  文学者は原料を造化より取ると共に、其原料を精製

 して自己理想中の物となす、此の点に於て文学者は第

 二の造化とも謂ふべし。()修飾して成功したる者

 は完全にして第一流に位すべく、修飾して成功せざる

 者は俗気多くして最下等に位すべし。実景を直写し天

 然を模倣して毫も修飾を加へざる者は、多少の欠点無

 きに非も最下等に落つること無し。

という記述からは、写実句を選択、修飾という作業を加えたものと、単なる写実句に分けて考えるようになっていることが窺われる。このことも、これまでの写実の観念から一歩踏み出したものとして注目すべきであろう。

 更に、

  俳句は簡にして尽さんとする必要より実の最も多き

 部分のみを取り、其他醜となる者と不要なる者と実の

 少き者とは之を捨つるの己むを得ざるに至る。

とも述べて、僅か十七字で構成する俳句のような短詩に於ては、「天然を写しても詳細なるを得ざる」ので、取捨選択が自ずから必要になることも指摘している。

 明治二十七年の春、「小日本」のさし絵画家として浅井忠を介して紹介された中村不折に、子規は絵画論に於ける写生を教示され、自らの作句に導入するようになった。実景実況を写生する方法で作った二十七年八月の「王子紀行」の句を、同行した不折が、「王子権現の実景である」「途中の実況である」と「追憶断片」に評しているが、この「有のまま」を写すことを主眼としてスタートした子規の写生―そのまま絵になる一は、翌二十八年の従軍渡清で実地吟詠に力を尽すことによって確固たるものになって行った。そのことを中心として論じたのが二十八年の「俳諧大要」である。

 ところが、実景実情だけではない作者の働きかけ―雅味、趣味―を重視する考え方も子規は当然意識していたので、この両者は内部矛盾をもたらすことになる。「明治二十九年の俳句界」で、碧梧桐の "印象明瞭" の句を論ずるのに当って疑問を提示したのも。まさにそのことにあった。

 子規はさまざまな観点から論究の後に「純粋の写生にも猶多少の取捨選択あるをや。」という考えを導き出しこのことによって従来の写生論の幅を広げた。

 さらに「俳語反故籠」では、実景を詠ずるという発想の中へ、選択だけではなく、位置を変じ、或は主観的に外物を取り入れて写景を修飾するという人為的操作までも認めて、写実に空想的な要素の参与を容認する発言をしているわけで、写実の意味はさらに幅広いものになって行った。そういう意味で、本論はこれまでの写実の観念から更なる展開を開いたものとして注目される。

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