子規の俳論俳話
『春星』連載中の中川みえ氏の稿
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子規の俳論俳話(三三)
中川みえ
◇試問I
明治三十年七月～三十一年四月
松山版「ホトトギス」掲載
「試問」は、「俳句問答」の一部を成すもので、この年一月に創刊された松山版「ホトトギス」の第七号から連載が始まった。
この年、子規の容態はあまり良くなかった。腰痛がひどくなり腫れて来て、二度の手術を試みたが快方に向わなかった。そういう状態ではあったが案外元気で、小説を執筆したり、従弟藤野古白を追悼する「古白遺稿」の編纂に力を注いだ。
古白の遺稿に添えた「藤野潔の伝」を一日半を費して書き上げた夜、三十八度六分の熱が出て、そのまま春が過ぎても容態は良くならなかった。
五月には最悪の状態になり、一時は在京の門下生が交代で傍に侍する状態であつたが、七月に入ってようやく元気を取り戻した。
そこで「ホトトギス」に寄稿したのが「試問」である。
病んで雨ふる，筆をとらんとすれば詩想既に消えて
復尋ぬべからず、生きて諸君に負くこと多し。いささ
か問題を掲げて一考を頰す、蓋し余が消閑の悪戯のみ。
と冒頭に記す「試問」は、前年の「俳句問答」とは逆に、子規の方から問題を提示して解答を求め、寄せられた解答に次号で答と共に解説を加えるという様式で、「ホトトギス」が松山で発行されている間ずつと続けられた。
子規を中心とする新派俳句が、明治二十九年に至ってようやく世間に認められるようになると、新聞雑誌に俳句を掲げるものが相次ぎ、俳句の流行が文芸評論家の間でしばしば論じられるようにもなった。これまでは東京及び郷里松山という子規を中心とするごく限られた範囲で行われていた新しい俳句の運動は、新聞「日本」を通じて広く全国に伝わり、「ホトトギス」が発刊され、また、子規周辺の人が各地に転じて伝え、新たな作家達が続々と誕生して来た。「試問」がそうした後進の者達を意識した文章であることは、容易に想像される。
「試問」の設問は、俳句の一部を伏せて、そこに入ることばを問うものや、句を掲げてその意義を問うもの、掲げた句の評価を求めるものなど、さまざまに趣向を工夫してあつた。
筆者は、八月に掲載された俳句の文法について論じている部分に興味をひかれた。
この回の設問は、「子は寐入り蛍は草に放しけり」の句を批評せよ、というものであった。意見を寄せた者の多くが、文法上の「自他の相違」を指摘した。そこで子規は、本論に入る前に俳句に於ける文法ということを述ベた。
文法といふことは余程むづかしき問題にして、文法
学者が言ふ如く一定せる者にはあらず。(略)事実上
文法は時代によりて多少の変動を免れず。(略)苟も
俳句をして存在せしめんか、所謂文法違はある点迄寬
假(？)せざるベからず。韻文に於て文法違の所は多
く韻文の妙所なり。(略)簡単なる俳句の上に之を励
行せんとするは(略)文学の霊活を知らざる者なるベ
し。且つ文法中にても自他の相違は殊に寛假すべく、
韻文にては自他は特にはき違へざるべからざる必要多
し。蓋し文学にては理屈上の自他の一致よりも感情上
の印象の明瞭を望むこと切なり。故に印象を明瞭なら
しめんかためには忽ち自となり忽ち他となり、しかも
音調の都合等にて相當のてにはを中間に置く能はざる
ことあり、斯る場合に於て文法家が見て以て曖昧なり
となすは、理屈の上にてしかいふのみ。若し文法を離
れて直接に感情に訴へなば、此文法違が却て印象を明
瞭にする者なることを悟るべき苦なり。故に余は俳句
を評するに自他などといふことは言はざる積なり。
(略)斯く言へばとて文法を無視するにはあらねど、所
謂国文学者の説といささか違へる所あるを明言する
という。
ここで少々論を反れるが、筆者の体験を述べたい。
楠本先生のお宅へ初めて伺った折に、「雞頭の十四五本もありぬべし」の句が話題になった。先生は「ありぬ」は、あるだろうという"推量"であり、それと「べし」という断定の語を結びつけることの妥当性を指摘する意見のあることを提示された。
後に「試問」のこの部分を読んで、子規自身は文法違ということには強くはこだわつていないことを知つたが、筆者自身は、自分の句作に文法を強く意識する契機となった。
さて、子規の解説に戻る。子規はこの句の欠点の第一は、句尾の「けり」の二字にある。この句は情を主としたもので、その情は蛍を放つ処にある。句尾を「けり」とすると過去になるので、蛍を放った後を詠んだように受け取られかねない。蛍がかわいそうだから放してやるというのならば、そこに多少の趣味があるが、子が寐て、蛍も放して自分が楽になったというのでは、少しも面白味がないと言う。第二に、「子は」「蛍は」と「は」の字を二つ重ねることは、理屈的説明であり、却て感情を害する。但し、それは「文法上よりいふことにはあらず」とする。第三に、「子は寐入り」という表現では、子と蛍が対のように見える。二者は前後の閧係を有するので、決して別々にしてはならない、と説明した。
子規の俳論俳話(三四)
◇ ◇試問 Ⅱ
十月の「試問」で、東京俳人と地方俳人を比較して論じている部分も興味深い。
設問は、作者名を伏せて子規の句十二句を掲げ、佳句と思われる順にならベ替えて記せ、というもので、「成るべく諸子の意見の撞著しさうな」句を選んで載せ、「多数の答を得て多数の好む句と好まざる句」を判別することを意図したものである。
子規の元へ解答を寄せたのは三十七名であつた。それらを数字化―三十七名の付けた順番数を合計し、平均順番を求め、平均順番と各人順番との差数を求めるなどしてさまざまに分析した。
平均順番と各人順番の差が最も小さいのが草人、最も大きいのが碧梧桐であった。
・碧梧桐の意見が、多数の意見と隔離しているのは何故か。
・東京の俳人は、他の人の選句と順位の差が大きく、地方の俳人は、他の人の選句との差が小さいが、このことは、地方俳人のために賀すべき現象であるのか。東京俳人のために弔すべき現象なるか。
何が正しいのか、何が誤りなのかを断定することは困難であるが、自分がここで論じようとしているのは、草人の標準が正しいのか、碧梧桐の標準が誤っているのかという問題ではなくて、何が正しいのか、何が誤りなのかを断定することは困難
であるが、自分がここで論じようとしているのは、草人の標準が正しいのか、碧梧桐の標準が誤っているのかという問題ではなくて、「何故に東京俳人が地方俳人に圧せられたるの観あるかといふ一事なり。」と子規は言う。
選句に於て、東京の俳人は「各自の意見区々にして毫も一定せる者無き」に反し、地方の俳人は「略々一定せる方針を以て選定」した。東京の俳人は「略々一堂に会して俳句を作り且つ議論を上下すること」が多いが、地方の俳人は、各地に相隔つて居住しているので、一面識もなく、一
片の音信すら交さないものが多い。それであるのに、前者は意見がバラバラに分れ、後者は俳句の標準がやゝ似ている。寧ろ不思議と謂うべきか。この現象は偶然であろうか。子規は検討してゆくことになる。
先ず東京の俳人について考える。彼らは俳句に就いて研鑽すること深く、それゆえ工夫することも多い。日常俳句を作るにも、どのようにすれば趣向が良くなるのか、句法が良くなるのかと美を探り、雅を求めて「宇宙八荒を駈けめぐりて苦吟する傾向」がある。故に、他の佳句を見ても之に雷動することを好まず、むしろ異を立てゝ別種の佳句を作ろうという方向に向う。その上「競争烈しく褒貶著き」状況であるので、他人に負けないように、皆に誉められるようにと熱心に句作に励むので、次第に俳境の進歩を促して、「三日見ざれば刮目して待つの趣あり」という様相を呈している。それ故か、ただ一意に自分の長所に向って進み、益々好む所に偏して、遂には他と標準を異にするに至る。しかもそのことを恥と思うどころかむしろそれを以て「自家の立脚地を得た」として誇りに思う傾向がある。その故、東京の人の俳句は「変幻極りなく流行やまず、昨日の新奇なる者今日は陳腐となり」、去年古雅を尚びた者が今年は巧緻を尚び、漢語を貴ぶ者がある一方で、之を排する者がある。長短句を好む者があれば、排する者もある。また、衆人がこぞって賞する句を、一人が之を貶して議論を延々と闘わすこともあれば、反対に衆人が排する句を佳句として只一人で推し、衆論に屈することなく、かえって自らの句境の高さを誇る者もある。要するに「千種萬別、日新月進、百花爛漫、紫紅錯雑せるが如」きありさまである。
一方、地方の人が俳句を作る場合、東京俳人とは異なり、宗匠にほめられる句を作ることを念頭に置き、あるいは、新聞に自分の句が掲載されることを切望するゆえ、知らず知らずのうちに宗匠或いは新聞の選者の好みに宛て込んで句を作る傾向を生じ、自己の本領を発揮することを忘却することになる。甚しい例としては、誰それの選に当りたい為に、その人の句を調べ、その句中に用いられている材料を自分の句に詠み込み、その髪髓を得たと思い込む。このような作句方法では進歩を望むベくもない筈であるが、一たび宗匠の選にえらばれ数十句が新聞紙上に載せられようものなら、そのことを誇って慢心し、それ以上進歩することはない。
一人が進歩しなければ、他人も又進歩しない。一郷一郡、一県一州の人が、皆或る程度に達すると、必ずそこで止まる。一人の格別に優れた人がいないと、奇抜で人の心を打つような作品は生れない：誰彼皆趣味の似かよった句を、似かよった句法で作る。嗜好や技倆に於ても同様である。選択の標準も又同じようになるのは当然であり、このことが地方俳人の選句が揆を一にする所以である
地方の人は、「大悟に到るの道は一直線なり」と考えているようであるが、「道は多岐なり」と知って、雄渾、繊細、典雅、滑稽、艷麗、奇抜、荘重、平易など、どこから始めてもよいので、只々一意に研究し、専心に工夫
すべきである。他人に附和雷動し、慢心して研究をおろそかにするのが最も悪いことである。
東京の俳人は今人悟に到達する過程で迷ひに迷っている。自分はそれを興味深く見守っていると、子規は記す。
「明治二十九年の俳句界」に記した新調の生れた時期とほぼ同時期の発言であることに筆者は注目したい。
この件については、後に「明治三十年の俳句界」でも取り上げて論じることになる。
子規の俳論俳話(三五)
◇ ◇試問 Ⅲ
「試問」の第四回(十月)に「蒼虬と梅室とを比較して優劣を判せよ。」という設問がある。寄せられた意見について何の言及もなく、もっぱら子規が自説を主張した。
はじめに、二人を比較するため二人の集中から比較的佳句と思われるものを五十句ずつ掲げ、「此両者を見るに梅室の句の蒼虬に比して比較的佳なるを覚ゆ。」と第一印象を述べた。更にそこから厳選して各十二句を掲げ、
椿落ち雞鳴き椿又落る 梅室
我思ふ人は落ちにきくらべ馬 同
人もなき蚊帳に日のさす宿屋かな 同
川越しに見えつ蚊帳つる眞裸 同
等閑に牡丹提げゝり僧の供 同
月の雲鶴はなしたるけしきかな 同
足もとに雨吹き起る紅葉かな 同
日暮るるに凩吹くに磯の鶴 同
枕より水鳥高し浦の宿 同
雲散らし散らし寐に入る杜の鷺 同
雪もちて水にひたりぬ淀の家
同
海苔柴や遠浅かけて雪の花 同
梅室の句について「多少の欠点無きにあらねど、雅趣の味ふべき者、風致の画くべき者、意匠の斬新なる者、句法の奇警なる者各々見るべし。蒼虬の句には殆ど之に匹敵する者を見ず。」と評価した。
蓬莱の橙赤き小家かな 蒼虬
朧月夜の更けてある九條かな 同
朝雉の走下りけり二尊院 同
只二つ雁は行くなり石部山 同
西院の梅正月毎に遠く見る 同
夜は花に梟鳴いて東山 同
家毎に山吹散るや桶の水 同
雞の親子涼しさ麻の中 同
猶寒し茨棘の中の日のはしり
同
寒月の加茂にも一つ小家かな 同
砂清し時雨過ぎ行く華表先 同
散る紅葉裏表がちなる日和かな 同
蒼虬については「抜群の佳句なる者無きなり。蒼虬は一個の平凡なる俳人に過ぎず。」と言い、彼の長寿と卑俗が俗人の信仰を得て、関西に勢力を得たにすぎないと、その実力を認めなかった。
二人はほぼ同じ時代を生き(蒼虬が梅室より八歳年長)生国(加賀)、居住地(京師)も、俳諧の師(共に闌更に学ぶ)も同じで、お互の間に交際もあった。二人の句が類似しているのはその為である。
俳句に於て相似た二人は、名声も又伯仲していた。しかし関西の俳諧社会では、蒼虬の名が梅室よりも尊ばれ、蒼虬を正風の粋とし、梅室を覇となした。
陳腐と卑俗の蒼虬を「正風の」と称すること自体笑止千万であるのに、最も善く似た句風を持つ梅室と区別するのに「正覇」の称を用いるとは「いよいよ以て笑ふべし。」と子規の両者への批判はかなり手厳しく、 二人共有の欠点は、「意匠陳腐又は野卑にして、語句弛みたる」ところにあると断じた。
梅室の句を「奇抜なり。」と言う人がある。たしかに梅室は蒼虬よりも奇抜であり、天保時代の他の俳人よりも奇抜である。奇抜は失敗することがあるが、古を踏襲しない意匠には、多少の価値があると考えられる。自分はその奇抜なものを梅室の中に数句認めるが、その他の幾百かは皆平凡であり、奇抜な句とは、言はば「鳥なき里の蝙蝠の類」で、もし梅室の句を奇抜と言うならば、蕪村以下天明前後の俳傑の句々の新奇なものを評するには何の語を用いたらよいのであろうか。「梅室は平凡なり、況んや蒼虬をや」ということに尽きる、と辛辣である。
天保以後のいわゆる〃月並調"なるものは、主として蒼虬、梅室の広めたものである。今日から見ると、二人の,句は極めて陳腐なものに思えるが、それは後世の俳人が一世を風靡した彼らの調をまねて言い古したことに由来するとも考えられ、彼らが活躍した時代に於ては、少しは新しいところがあったにちがいない。
しかし、彼らの句に新奇なものがあったとしても、野卑という一点に於ては如何とも致しがたい。
野卑なる意匠と野卑なる語句とは、二人の〃本色"であつたが、極端に俗なものを選べば、梅室の方が蒼虬よりも更にその傾向が甚しい。
語句が野卑であるのみならず、たるみの多いのは、彼らの技倆の稚拙を示すものである。技倆の拙は、往々にして健全なる意匠を腐敗させることになる。
たとえば、擬人的の語は、真面目な意匠には用いるベきではない。擬人法は「物の活動する場合、又は滑稽の意を帯びたる場合」に用いると成功することがあるが、「沈静なる景色、真面目なる趣向」には用いるべきではない。蒼虬、梅室共に好んで擬人法を濫用し、俗人は好んで之を濫賞する。このことも又月並調の特色である。
感情に訴えず理窟に訴える趣向の句(謎の類など)も俗人には好まれるが、これも又月並調の特色である。
「梅室は勇壯を好めりといふ。されど梅室には勇壯なる句なし。」「蒼虬の句を自然なり、天真爛漫なりと評するとは何事ぞや。蒼虬の句は盡くこしらへ、たくみたる句なり。」と評し、無学で俳句に用いるべき古事古語さへ知らない彼らを「俳人の資格なし。」とまで言いきった。
子規の俳論俳話(三六)
〇明治三十年の俳句界I
明治三十一年一月三日，四日
「日本」掲載
明治三十一年の年頭、子規は「日本」紙上に上下二回に渡って、前年の俳句界を総括する文章「明治三十年の俳句界」を執筆した。
前回の「明治二十九年の俳句界」では、主として碧梧桐と虚子の新調について詳細に論じたが、今回個人的に名を挙げて論じたのは、碧梧桐一人だけである。
(上)では、その碧梧桐の句の新しい傾向について論述した。
冒頭に「明治三十年の俳句界は明治二十九年の俳句界に比して幾多の進歩を成したるを見る。」と記し。俳句界全体の進歩を認めた。
進歩には「種類あり」は、初学の人が漸く上達する進歩で、それは単に「望を未来に属せしむる」に過ぎないが、もう一つの進歩は、既に上達した俳人が、古人の進み得なかった領域まで進むことを言い、それにこそ「真成の価値」があると認め、そのような進歩を成した作者の代表として碧梧桐の名を挙げた。
碧梧桐は元来「意匠の奇抜を以て勝りし者」であるが、昨年末はかえつて平易な、それでいて陳腐ではない作風に変化して来ているように見受けられると言い、句調については、前々年の末頃から長、短句を好んで作り、乱調に流れたこともあったが、現在は普通の五七五調に戻つてきていると見ている。句調が戻ったことは進歩ではないが、意匠に於て古俳句と全く趣を異にしている処と、それに伴う句調の変化は、「古人が未だ曽て知らざりし未開の地を開きたる者」であって、その価値を容易に評定することは出来ないものゝ、少くとも「彼が一機軸を出だしたる功」は、俳諧史上に特筆すべきであると認めた。
そこで例句を挙げて、具体的に碧梧桐の句の進歩の説明を試みた。先ず、
夜に入りて蕃椒煮る臺所 碧梧桐
の句を、
・ 些の理屈も無い所。
・殆ど工夫の痕跡を留めない所―工夫を凝らした句であるが、その痕跡を留めないよう 工夫した句であり、そのことが成功している―
・意匠は日常の瑣事であるが、毫も陳腐ではない所。
・句法も平易で、切れ字が「あるが如く無きが如く」しかもよく働いている所。
・劇烈に感情を鼓動するものではなくて、「淡泊水の如き」趣味を寓する所。
の数々条が、この句が極端に新体を現している所以であると指摘した。
従来の俳風に拘泥する人にこの句を示したならば、おそらく没趣味の句であると言うにちがいない。そういう輩にこの句の趣味を説明せよと求められたならば、自分は「虚心平気此句を翫味せよ、全く自己の量児を拠却し、身を此句中に置きて此句の中より新趣味を探り出だす可し」と答えると言う。
更に、元来趣味とは感じるべきものであって、説明するものではない。ただヒント的に説明することは可能であり、その不完全な説明を聞く中から一句の妙所に悟入することも無くはないが、掲出した碧梧桐の句のような淡泊なものは、その不完全な説明さえもなすことは不可能である。強いて言うならば、二点の厭味無し」と評するのみであると述べる。
次に
客を率て夜半に帰るや月の門 碧梧桐
の句について、子規は、複雑な意匠や新奇な意匠は、句法を佶屈なものに成し易いものであるが、この句の場合意匠が複雑且つ新奇であるにもか、わらず、句法は平易で大道を行く。このことも又碧梧桐の新体の特色の一つであると説明した。
続いて
隠々として秋の山鳴ることを知る 碧梧桐
滞陣や久しうなりて秋の雨 同
此頃や末枯の芝刈る遅し 同
水に落ちて泳ぎかしこき螽かな 同
尚生きて生くさきものに秋の蝇 同
鹿に興ぶ煎餅を買ふ旅心 同
蜻蛉やせはしい中へ臺所 同
古里の先生の軸や梅もどき 同
の句を列記し、「此等の句を見て余が謂ふ所の新体なる者を求めなば解する人は必ず解すべし。」と言い、この新体と従来の俳句を比較するのは、あたかも油絵の新派(紫派)と旧派を比較するようなものであるとして、
一は簡単(画題小なり)、は複雑(画題大なり)、
一は平易、一は屈曲。一は淡泊、一は濃厚。一は軽新、
一は沈著。一は些細なる者の極めて微なる感じを現すに適し、一は壮大なる者の最も深き趣味を写すに宜し。と説明し、いずれにも一長一短があるのは免れ難く、両者が並立して相互の短所を補うことこそ、文学を大成し、美術を大成する所以ではあるまいか、と論を結んだ。
虚子については、「碧梧桐と最も善く似たるを虚子とす。別に句を挙げざるベからず。」と記すのみで、こゝでは具体的な記載はなされなかった。
子規の俳論俳話(三七)
◇ 明治三十年の俳句界 Ⅱ
「明治三十年の俳句界」は、(上)で碧梧桐の句の新しい傾向を論じた後、(下)では、
・碧梧桐、虚子、紅緑、露月、把栗、四方太、秋竹、蒼苔、漱石、霽月、極堂、繞石等は俳人の錚々たる者なり。此外地方に在りて昨年中に歩を進めたる者を茶村、菰堂子、青嵐、緑、瀾水、森々、香墨、桂堂等とす。鳴雪俳壇を退き、墨水亦多くは俗事に礙げらる。
・俳句界の雑誌は「ほとゝぎす」伊豫に起り「秋の聲」東京に倒る。
・一昨年の末より昨年にかけて俳句会続々として地方に起る。雨後の筍の如し。地方俳句会の最も古き者を松山の松風会とす。起源数年前に在り。京阪の満月会は一昨年の秋を以て始まる。是より後、仙台の百文会、金沢の北聲会、松本の松聲会、松江の碧雲会、駿遠の芙蓉会、越中の越友会相続いて起る。其の他京都には猶幾多の団結あり。各地方亦小団結を作る者多し。昨年の上半に在りては松風会、百文会、北聲会等威を一方に振ひし者漸次に衰へ、下半に在りては満月会独り其隆盛なるを見る。然れども一盛一衰は種々の原因に出づる者にして、必ずしも其地方の俳句の退歩を示す證掾とは成し難し。
などと前年の俳句界全般の状況を述べた。各地方に続々と俳句会が発生し、広がっている様子が窺われる。
続いて、「試問」で展開した東京俳人と地方の俳人の俳句に対する考え方の相異を再び狙上に乗せた。
昨年余は同一の俳句を取りて各地の俳人に
示し之に優劣を附せしむ。地方俳人の評する
所十中八九迄は相同く、東都俳人の評する所
一々其結果を異にす。而して地方の俳人は各地
に散在する者にして敢て気脈を通ずるに非ず。
東都の俳人は屡々一堂に会して議論を上下し居
る者なり。
子規の疑問は、各地に隔つて住み、それぞれの間に面識無く交流のない地方の俳人の選句が、非常に似かよって地方俳人についての記述は、「試問」とは異る。
「試問」では、地方の俳人を、宗匠の賞讃を得るために、或は新聞に掲載されることを希むあまりに、知らず知らずのうちに宗匠や新聞の好みに宛て込んで句を作る傾向を生じ、自己の本領を忘却する。そのため進歩せず、皆或る程度に至るとそこに止る。誰彼皆趣味を同うし、句法を一にする。当然選句の標準も似かよったものになるのではあるまいか。「他人に附和雷動するが最も悪きなり。慢心して研究せざるが最も悪きなり。地方俳人が選択の相似たるは偶々以て恥辱を現すに過ぎざるなり。」
とかなり厳しい言葉で評したが、「明治三十年の俳句界」ではこれに類する記載は一切なく、
地方の人は一はプリミチーフなると一は小学校の先
生の如きコムモン，センス的に発達するの傾向あり。
という簡略な記述があるのみで、「句法に心を留めざる東京俳人と地方俳人の選句の相異に関連して、「最も衆評(略)に遠き者を碧梧桐とす。衆の推したる句は即ち碧梧桐の斥けたる句なり。衆の斥けたる句は即ち碧梧桐の推したる句なり。」(「明治三十年の俳句界」)「碧梧桐氏の意見が多数の意見と隔離すこと何故に此の如く甚しきか」(「試問」)と疑問を持つが、衆の押す句は「句法上の観察精細ならずして、徒に極端の趣向に眩燏せられ」しものであるのに対し、碧梧桐は「句法の緊弛を吟味すること詳密」で、句法にしまりがあれば「無理なる趣向も寛恕する」弊があると見ている。
この論の(上)に於て、碧梧桐が古人の進み得なかつた領域リ平淡リにまで進歩したことに「真成の価値」を認めたのは、平易.平淡な意匠がこの頃の自らの志向と合致するものであつたからにほかならない。
「明治二十九年の俳句界」に於て余が新派と称へし
者、即ち碧梧桐、虚子により唱道せられし俳句は其意
匠の上に於て殆ど全国の俳壇の一半を占むるに至れり。
子規の俳論俳話(三八)
◇「新俳句」のはじめに題す
明治三十一年三月
句集「新俳句」序文
明治三十一年三月、子規派初めての句集「新俳句」が東京民友社から刊行された。
子規派の句集については、これ迄にも計画されたことはあったが、いずれも実現されないまゝに終っていた。
我々の句集を作る意志は、始めて「新俳句」に現は
れたのでなく、既に数年前に計画されてゐた。名を
「案山子集」と題した稿本三四冊、新海非風によって
残されてゐる。それに子規の書込み、訂正等(略)用
意周到を極めてゐるが、(略)何人も目にも触れず流
産したのである。
(河東碧梧桐「子規の回想」)
さらに
廿八年神戸病院でも子規からの話があつたので、「日
本」の俳句欄を切りはりすれば、十日か廿日の労力で
済むやうに思ってゐた私は、子規から神業だなどと笑
はれて手をつける元気もなくなってしまった。
(「同」)
と二度も頓挫したことを碧梧桐は回顧している。
ところが、明治三十年に子規の身辺ではなく、上原三川、直野碧玲瓏、その他の人々の間で、句集刊行の話が思わぬ経緯で持ち上った。北里病院の病室を発端とする。
長野県出身の教育家上原三川が、肺結核で北里病院へ入院した。同室になったのが、国民新聞の編集局に勤務する子規の門人直野碧玲瓏と舂風庵、竹采庵の三人であつた。このことがきっかけで三川も俳句に興味を持ち、子規に師事するようになつた。
彼らが、「日本新聞」「国民新聞」「日本人」「世界の日本」などに掲載された子規、虚子、碧梧桐、鳴雪の選句約八千句を書き抜いて集め、これを素に子規が厳選して五千句に絞り、翌年一月に序を記して、正岡子規閲、上原三川、直野碧玲瓏共編という形式で、三月に東京民友社から刊行されたのが「新俳句」である。
四六判四百二べ—ジ、出句者六百余名、季題別句数五千句、下村為山のさし絵三十枚を挿入し、巻頭に子規の序文「『新俳句』のはじめに題す」。次に鳴雪の
「新俳句」の首に
百年にして天明二百年にして明治の初日影
の句、続いて虚子の序文を載せる堂々たる句集であった。
三川、碧玲瓏から分類された句稿が子規の手元に届けられたのは、子規の体調が甚しく悪い時期であったので、はじめは碧梧桐、虚子の両名に選句をまかせるつもりであったらしいが、思うようにはかどらず、結局子規のところへ戻され、秋以降元気を回復した子規が、なるべく削る方針で句の削除、入替などを行い、ようやく十月中にその作業を終了した。
三千の俳句を閲し柿二つ
の句は、草稿校閲が完了した時の子規の句である。
但し、子規はこの句集については最初から表に立たず自ら取捨選択に当ったことにも一言も触れず、序文にも「三川、碧玲瓏諸子こゝに観るあり」とのみ記した。
「新俳句」の序文に、子規は「俳句は元禄に始まる。」と冒頭記し、「明治の今日に及びて俳句再び興り俳風一新す。」「時勢の赴く所、俳句は古来未曾有の盛運に達するを得たる。」が、未だにこの「新鮮なる明治の俳句を蒐楫したる一俳書だに」現れないことに「豈多少の遺憾なからんや。」と述べ、「新俳句」刊行に携つた三川、碧玲瓏の功を認め、喜んだ。
子規の考えでは、いわゆる"明治の俳句"が世に出たのは、明治二十五年以後で、
明治二十五年以後は漸く元禄の高古を摸し文化の敏
贍を学ぶ。之をすら世人は以て奇を好み新を衒すと為
せり。其後蕪村を崇み天明を宗とするに及んで、文人
学者は始めて俳句の存在を認めしが如く、可否の聲諸
處に起る。可否の聲忽ち消えて俳句は其価値の幾分を
世に知られたる時、元禄にもあらず、天明にもあらず、
文化にもあらず、固より天保の俗調にもあらざる明治
の特色は次第に現れ来れるを見る。此特色たる天明に
似て天明より精細に、蕪村に似て蕪村よりも変化多し。
芭蕉、其角の夢にも見ざりし所、蒼虬、梅室の輩の到
底解する能はざる所に属す。しかし此特色は或一部に
起りて漸次に各地方に伝播せんとする者、此の種の句
を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」
は主として模倣時代の句を集めたるにはあらずやと思
はる。然れども模倣は様に依りて故蘆を描くの謂に非
ず。模倣の中自ら其時代の発現しあるさ疑はざるなり。
但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨集むる所の「新俳
句」は刊行に際する今巳に其幾何か幼稚なるを感ず。
刊行し了へたる明日は果して如何にか感ぜらるべき。
と記す。
子規は「新俳句」を「明治の特色を表し盡した」とも、「明治を代表する唯一の俳句集」とも考えていない。「明治に於ける俳句集の嚆矢」と評価し、俳句の益々の変化と、第二、第三の「新俳句」の登場を信じると記し、「明治の俳句が如何に其特色を現し来るかを知らんと欲せば試みに『新俳句』を読め」と宣言した。
「『新俳句』は我々の『冬の日』『春の日』であり、子規七部集の発端であると碧梧桐は凱歌を挙げた。
子規の俳論俳話(三九)
○ 古池の句の辯I
明治三十一年十月
東京版「ホ卜トギス」
明治三十年の年頭、子規の郷里松山で友人柳原極堂が創刊した「ほと、ぎす」は、一年ほどで発行継続が困難となり、三十一年十月から東京に於て虚子の手で刊行を継続することになつた。松山で刊行された二十号までを第一巻、東京で発行するものを第二巻とし、その第一号に掲載した子規の俳論の一つが「古池の句の辯」である。
松尾芭蕉の著名な
古池や蛙飛びこむ水の音
の句について、古今の傑作として人口に膾灸し、馬丁走卒でさえも知っているにもかゝわらず、その意義を問うと誰一人説明する者はない、そのことを論題とした。
子規の考えでは、古池の句の意義は「一句の表面に現れたるだけ」のもので、他には何も無い。しかるに俗宗匠輩がこの句に「深遠なる意義があるが如く」言い做し、しかもその「深遠なる意義」は、到底普通の俗人には理解出来ないものであるとして説明しょうとしなかつた。その理由を主に
一、俗宗匠輩が、自家の本尊を奥ゆかしがらせて、俗人を瞞着しようと意図した。
一、此の句の歴史的な関係を知らない。
の二点にあると見る。先ず最初のテ—マについて述べる。
古池の句が人口に膾灸するに至ったのは、芭蕉自らがこの句を「自分の新調に属する劈頭第一の作」と見なして、「此句を以て俳句変遷の第一期を劃する境界線」となした為に、後の人が相和してそのように考え、口にするようになったからだと考えられる。
時代の推移に従って、この記念的俳句は、その記念の意味を忘れられて、芭蕉集中第一の佳句と誤解され、終には臆説百出し、奇々怪々の附会を為して、俗人を惑わせる結果を生じるに至つた。
意義に於ては、「古池に蛙の飛び込む音を聞きたり」ということ以外、何も加えるものはない。もし何かを加えたならば、それは古池の句の真相とは異るものになる。「明々白地、隠さず掩はず、一点の工夫を用ゐず、一字の曲折を成さざる處」がこの句の特色である。
次に「古池の句の歴史的関係」について解折する。
「たまたま蛙だった。」「蛙の句が少かつた。」「芭蕉の俳句を一変した。」「芭蕉の遺言」がキ—ワ—ドである。
世の中の人は皆「俳句の発達せる今日の心を以て古池の句を観る」故に「惑を生ず」るのであり、俳句の未発達の時代に身を置いて、俳句のそもそもの始まりから歴史的に道をたどれば、古池の句は必ず理解出来ると子規は言う。
俳句の歴史を説明するには、先ず連歌を説明することが必要である。
連歌は十七字句と十四字句とを相互関連して、百韻を以て終るのが一般的で、その間にはさまざまな規定があるが、こゝでは「連歌の発句」についてのみ語る。
連歌の発句と俳諧の発句は、ほぼ同一のものと考えてさしつかえないが、発達上連歌は和歌より派生したものであるから、和歌慣用の言語材料を用いて自ら束縛し、区域を広げ材料を豊富にすることがなされなかつたので、陳腐と平凡を免れ得なかった。その為連歌の発句は、規則づくめで腐敗し尽した和歌を共に腐敗するのみならず、詩形が小さいだけに範囲も狭くなり、腐敗は却って和歌より濃縮されたものになつた。
連歌師が力を尽したのは、主として霞、月、花、紅葉、時鳥等のありふれた題目ばかりで、例えば今論じようとしている蛙の句は、二百年間に僅か一句あるのみであつた。連歌の単調さはこのようなものであったから、永正、天文の間に早くもニ轉機」の動きが見られる。
山崎の宗鑑と山田の守武が共に永正、天文の間に現れて、連歌に不満を持ち、共に俳諧の上に新方面を開いた。
宗鑑、守武の興した俳諧は、連歌以外の新しい詩形を創造したのではなくて、同じ詩形ながらそれ迄用いられることのなかった俗語、漢語を用い、今迄に無い滑稽の趣味を採用したにすぎないものであつた。
俳諧は、陳腐で、窮屈で、まじめなる連歌に、斬新の元素を加え、広い区域を借し、おどけた趣向を与えたが、無趣味な連歌に趣味を加えること無く、模型的連歌に写実を教えること無く、僅かに滑稽の一方面に於てのみ新味を発揮した。
彼らの俳諧即ち滑稽は、一、擬人法又は譬喩を用いる。一、言語上の遊戯、一、古事、古語、鄙諺等の応用又は翻案の三要素から成る。
文学者と言うには彼らは余りにも無識であり、俳諧師と言うには余りにも野卑であつたが、彼らが「沈澱腐敗せる連歌を蕩搖して他日一新の機を與へたる功は、俳諧史上特に書すべき価値あり」と子規は評価した。
宗鑑、守武の俳諧は、彼らが自ら作り自ら娯んだものに過ぎず、継承者もなかった。
寛永年間に至って、松永貞徳の俳諧が世に広まった。徳川氏の基礎が固まり、平和な時代の到来と共に、俳諧は当時の嗜好に合致してもてはやされ、印刷業の発達とも相まって、都も遠境でも未曾有の盛運に達した。
但し、この一派の俳諧は「連歌よりも更に趣味少く、鑑武より更に活気乏しき」ものであった。
子規の俳論俳話(四十)
◇ 古池の句の辯Ⅱ
前回に続いて古池の句の歴史的関係を見てゆく。
延宝時代に西山宗因が起って談林派を唱え、貞徳の幼稚な俳諧を一掃した。
談林の俳諧も貞徳の俳諧と同様に滑稽の域を出るものではなかったが、趣味を增し、活気を生じたる点に於て、貞門より一段と進歩を為した。
延宝の末年に至って、其角、杉風が、滑稽を離れることはないものの、言語の遊戯的な滑稽とは一線を画す、趣味の上の滑稽を主とする句を作るようになつた。
その三年後の天保三年に「虚栗」(其角編)が世に出た時、俳句は一般に全く滑稽を離れ、僅に雅致を認めるものになっていて、俳諧はようやく "正路"に向った。
ただ、意匠や語句は未だ発達していない状況で、「正風の萌芽発せんとして未だ発せざる」時期に該当するが、「虚栗」の中には「略々完全せる句」や「語句佶屈に失すれども其趣向は殆ど俳諧の骨髄を得た」句もあって、この時俳句界に曙光がさしたように思われる。
翌年の貞享元年には、「冬の日」の撰集があり.芭蕉の「野ざらし紀行」がある。
「野ざらし紀行」の句は、「虚栗」を更に一歩前進させたものであつたが、句の上になお工夫の痕跡が見られ、未だ自然圓満の域には達していない。芭蕪はこの時まだ自然という事に気がついていなかった為に、句に細工を加える行為を脱していなかった。未だに「俳諧特有の妙處の存し得べき」ことを認識していなかった。
貞享三年になって、芭蕉は「未曾有の一句」を得た。
古池や蛙飛び込む水の音
という句である。
この時芭蕉は、「自ら俳諧の上に大悟せり」と感じたにちがいない。これ迄は「いかめしき事をいひ、珍しき事を工夫して後に始めて佳句を得べし」と思つていたが、「日常平凡の事が直に句となる」ことを発明した。
従来は、一句の中にさまざまな趣向を畳み込み、或いは極端な感懐、極端の悲哀を言はなければ面白い句にならないと誤解していたが、蛙が池に飛び込んだというだけのごくありふれた事を一句にまとめた自分に驚いた。いろいろなものを一句に無理に畳み込み工夫した句が、「蛙飛びこむ水の音」の簡単で趣味のある句には及ばないことを知った。芭蕪が「終に自然の妙を悟り工夫の卑しきを斥け」、「今迄人の知らざりし處をつかまへた」のは明らかである。とにかく、芭蕉が古池の句について感じたのは、”自然”ということであり、其後の彼の方針は皆自然に向つて進んだ。
もう一つ着目すべきことは、この句の題目が多くの人に忘れられていた「蛙」にある。蛙は和歌にも連歌にも詠まれることが少く、貞門には多少あるものの、蛙の趣を詠んだ句とはとうてい言えず、「蛙の句は古池を初と言ふて可なるべし。」「古池の句に至りて全く其種類を異する」感があった。芭蕉自らが感じたのもこのことであると子規は指摘する。
芭蕉は蛙という小動物の上に活眼を開いたのであるが、それは特に蛙に雅致があって、愛すべきものと思ったからではなく、蛙の上に活眼を開いたということは、即ち自然の上に活眼を開いたと言うことである。自然の上に活眼を開いた時の第一句が、たまたま蛙の句であつたと言うだけのことで、俗宗匠輩がこの句を語る時に、特に蛙に重きを置くのは、取るに足らない謬見である。
古池の句は、俳諧の歴史上珍しい句であると共に、芭蕪の俳諧はこの一句を以て一変した。従って当時の俳句界も又この一句を中軸として一転した。
芭蕉の死が迫ったとき、門人が辞世の句を問うた。
昨日の発句は今日の辞世、けふの発句は明日の辞世、
吾生涯いひ捨てし句は一句として辞世ならざるは無し。
我辞世いかにと問ふ人あらば此年頃いひ捨て置きし句
いづれなりとも辞世なりと申し給はれかし。(略)古
池や蛙飛びこむ水の音、此句に我一風を興せしよりは
しめて辞世なり。其後百千の句を吐くに此意ならざる
はなし。こゝを以て句に辞世ならざるはなしと申し侍
るなり。
と芭蕉は答えたと言う。
「其後百千の句を吐くに此意ならざるはなし」とは、古池の句によつて感得した自然的趣味を以て一生俳句を作ったという意味で、古池の句を蕉風の境界線であると芭蕉自らが明記するものの、「此句を以て自家集中第一等の句なり」とは言っていない。芭蕉自らが言はなかつたばかりか、門弟も何も言わない。最も深く芭蕉に教えられた去來や、芭蕉を本尊として自説を誇張する支考ですら、古池の句を批評したことはなかった。
しかるに、いつの頃からかこの句を無上の佳句と言い、不思議な説を言い出す者も加って、古池の句は広く世間に知れ渡ると共に誤解されることにもなつた。
芭蕉自身「古池以後いづれの句も皆我句として傅ふべし」と誇りを持ったのに、後世古池の一句が別格に挙げられることには不満を抱いたにちがいない、と子規は言い、自分も「古池を以て芭蕉の佳作と思はず」むしろ「古池以外に多くの佳作」があることを認めて論を結んだ。
「古池の句の辯」は、「芭蕉雑談」を更に詳しく、歴史的観点も加味して論述したもので、古池の句の論としては最も精到なものであつたと言えよう。