(句作篇)正氣筆録

 

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2001.6.28

(句作篇)正氣筆録

 

12

 

*俳句のある人生は楽しき哉。俳句に遊ぶ時間を大いに作ってください。そして長生きをして、立派な作品を人生の足跡として遺すことまた愉快ではありませんか。

 

*老人達は余生の楽しみとして俳句を作るんだから…と、甘い気持ちで句作してはならぬ。それでは俳句の方が泣く。青壮年諸君に比べて感覚が鈍るのは仕方ないが、人生経験には富んでいる。プラスマイナスしたら引け目を感じることはない。

 

*春秋高くなれば意欲がなかなか燃えぬので、芸道に上達するそのことには遅れがちになりやすい。しかし本当の芸は名利の欲を脱却してからのことだ。

 

*「俳句のある人生」を楽しむことは、所詮句作の「行」にある。

 

*「俳句のある人生」は彼岸に向かって句作することに意義がある。

 

*「俳句ある人生」は上達しつつ秀句を生む運を待つべきである。「運」をつかむにも努力を惜しんではならぬ。

 

*俳句が盛んになって、俳壇はいよいよ「品ン」を失っている。

 

*病生の体、熱情に任せてベストを尽くすことは危険だ。乃ち「ベターを尽くす」という語を作っている次第である。

 

*加齢と共に、病状の進行と共に、時間は量的に減ってゆきましょうが、質的には精進次第で、より豊かなものを得るかも知れぬと楽しみにしています。

 

(平成3811日口述より)俳句を始めたのは大正九年三月十三日、以後一日の休みなし。

 

*蕪村子規に問う。ホ句の秋そのフィクションも神業も。       ()

 

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2001.5.28

(句作篇)正氣筆録

 

11

 

(俳句の上達を期するための条件として)

一、自然に親しむこと。

一、作ること。

一、読むこと。

一、良き師友を持つこと。

 

*教える人と教えられる人とはその立場の位であって、その人の位ではないのである。三歳の童子が二歳の童子に教えている光景を見受けることがある。三歳の童子でも立派な教える人に成りえることがあるのである。また、自他共に許す大人が子供に教えられることもある。

 

*また難しくなり、また面白くなり、これを繰り返しつつ上達するのである。句作が難しい時期に努力し、面白い時期に努力して上達するのである。

 

(良い句とは)俳句は具眼の士を相手として、

一、明解であること。

一、俳味があること。

一、新案特許を得る価値があること。

 

*秀句を得るには、手段として知識を豊富にし、技術を磨かねばならぬが、決定的なのは「心」である。

 

*良い句ができるのは、天分と努力と運である。結果が自分の天分を知らせてくれるのではあるまいか。努力の上昇線と上達の上昇線とは過程においては平行せぬものである。運をつかむのは機会を多くつかむのが確率が高いのではあるまいか。

 

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(句作篇)正氣筆録

 

10

 

*句作第一義。先師の遺風である。小生はあえて多作を奨励する。質の向上は多作で錬うべきである。百錬より千錬である。

 

*毎日の生活に追われて自然観察の余裕がなかったり、疲労して句魂が鈍ったりすることは仕方がない。しかしまた、こんなときに僅かな時間を句に親しむことは、俳人に恵まれた幸福でもある。

 

*心ここにある人々こそ我々の朋である。心ここにある人は不振の月があってもそれはそれとして尊い。

 

*課題句の募集は、実作に重点を置く我々が句作の機会を多く持つためである。題詠には副作用がある。副作用は定型にもあるし、季題にもある。俳句そのものが副作用を大いに持っている。要は作家の心がけ次第である。

 

*活字や講演などによる健康管理法は公約数的に他ならぬ。ケースバイケースでなければならぬ。俳句の指導も同じ。

 

*一人前の作家をもって任ずるクラスの誌友は、主宰が指す月を仰いで作句し、主宰が月をさす指を見て作句してはならぬ。

 

*小生の俳句コーチは、まず作句してその作品を小生に示し給え、である。俳句が出来ぬというのは作句せぬからである。

 

*自己の才能乏しきを云々するは神を恐れぬ徒である。自己の才能なんて本人にわかるものか。努力して努力してその結果で診るべきである。

 

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(句作篇)正氣筆録

 

9

 

  我々の俳句生活は、我々が「俳句する」ことを我々の家族が永い目で見て喜ぶ(喜ぶとは行かないまでも嫌わない)程度のものでなければ、我々は我々の俳句生活を反省してみなければならぬと思う。

 

  毎日毎日命を一番大事なものと思っているが、苦吟の結果、も一人の輝かしい自己が会心の表現を成し得たとき、このまま死んでも悔いはないと思う、そんな句を毎日毎日作りたい。

 

  私は季題に縋ることが出来るようになった。季題に縋れば安心(あんじん)がある。

 

  永劫に「時」があるから、「消耗品みたいな句」は作りたくない。読んでは楽しむこともあるが。

 

  天分を云々するのは結果論だ。努力を認めるのは実験のデータだ。

 

  使わねば朽ちる。使い過ぎれば傷む。

 

  寡作に二種あり。自作に厳しきと、句作に不精なると。

 

  生きていることが俳句の題材である。

 

  句に遊ぶことが職業と相乗作用をせねばならぬ。句に遊ぶことが職業と拮抗作用をしてはならぬ。

 

  俳句を愛する人たちよ。俳句に対して責任を持ち給え。

 

  片足踏み外して落ちなければそれでよし。両足踏み外せばもちろん落ちてしまう。

 

  俳句は詩であり、そして俳句である。

 

句によるつながりは来世まで。

 

 

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(句作篇)正氣筆録

 

8

 

*多作にも、遠心的多作と求心的多作とがある。

寡作にも、平凡的寡作と平明的寡作とがある。

 

*指導者が指示する食餌療法を小心に守ったら、スタミナが減却する。指導者の教えを小心に守るものは小人である。

 

*プロ作家の場合は「食う」ために我慢せねばならぬので「執念」で頑張る。「食う」為の「執念」より、「遊ぶ」為の「執念」のほうが高等ではあるまいか。

 

*若人は「若さ」を知っても、「老い」を体験していぬ。老人は「老い」を知り且つ「若さ」を体験している。俳句には本当の「若さ」と本当の「老い」を兼ね備えねばならぬ。

 

*俳人たるもの、生涯に「一句の主」たれば足るのである。

 

*同じ自然でも、対する人の「こころ」で「平凡」となり「平明」となる。そして平明には「深さ」があり、深さには深度がある。われわれは生涯かけて「より深く」を期すべきである。

 

*われわれはわれわれの一句が、読者の(現存の、百歳後の)胸に棲みつく秀句を願うのである。

 

*牛若丸は弁慶に勝つほど強くなった。鞍馬山で天狗さんに習ったからである。誰でも天狗さんに習えば強くなれる。ただ誰にでも天狗さんは出て来ない。なぜ牛若丸に天狗さんが出てきたか。それは必死に修行したからである。

 

*いい句を作るには「一所懸命」になることである。「下手」な人はなかなか「一所懸命」になれぬ。「下手の考え休むに似たり」である。休むに似ていても努力せねばならぬ。努力を重ねているうちに本物の「一所懸命」を会得することができる。

 

*私はいい句が出来たときが「一所懸命」になったときだと思っている。「一所懸命」はわれわれには結果が出てからしか判らない。「一所懸命」という神業を望むには不断の努力が必要である。

 

 

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(句作篇)正氣筆録

 

7

 

*小生は小生の信ずる光明へ向かって、一歩一歩不断の努力を重ねているのみである。

 

*チーズなどは食い慣れるほうがよく、煙草などは喫み慣れぬほうがよい。

俳人は、チーズか煙草かを正しく見分けるために芸術一般を勉強せねばならぬ。

 

*われわれは毎月「これでよいか」と反省し、昨是今非である。

われわれは和而不同である。

 

*俳句は健全に進歩せねばならぬ。進歩を急ぐあまり脱線することを恐れるのである。

科学の実験だったら失敗がはっきりする。しかし俳句の脱線か否かは各自の主観判断だから結論が出ぬ。俳句の健全な進歩には厚き壁の存在が必要である。

 

*俳句の初心者もカーブ的作句をするより、直球的作句で基礎を作ることが将来の大成のために有意義ではないかと思う。

 

*われわれ俳句作家の暇を作ることも最適度、多読も最適度、多作も最適度、新を追うことも最適度。

 

*われわれは、多かれ少なかれ、俳句によって救われている。俳句は、物のない人をも楽しませてくれる。俳句は、物の有り余る人をも楽しませてくれる。俳句は、暇のない人をも楽しませてくれる。俳句は、暇の有り余る人をも楽しませてくれる。

 

*俳句の優劣は、勝負事のように単純なルールによって決せられない。全知全能なるものの審判で決せられるのである。

生涯精進を続ければ、死ぬまでは上達に終止符を打たれることはないと、小生は信じている。

*指導のレベルが高いほど、初心者には消化不良を起こす恐れもあると思う。われわれは初心者の消化不良による発病に注意せねばならぬと同時に、作句意欲を減退せしめてはならぬ。

 

*まことの句は、真剣に生きているものでなくては出来ぬ。

まことの句は、「まことごころ」と「あそびごころ」が奇しき調和をしたときに出来上がる。

まことの句は、不断の精進なくしては出来ぬ。

 

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2005.7.1

正氣筆録(補遺)

 

13

 

  「春星作品」は、胸を広くして全部を見渡し、心を深くして一句に見入って頂きたく存じます。

 

  いわゆる「食わず嫌い」で自分の嫌いなものを悪しきものとしてしまうのはよくない。私が学生時代にはトマトさえ食わない友人が多数あった。食いなれたら好物になるものはたくさんある。

 

  作品は個性と明解さとの奇しき調和によってその意義を持つものである。

 

  誌友が春星作品を休むことは『春星』を休刊することと同罪と考えて頂きたい。

 

  俳壇に名をなす目的には『春星』は最も不向きである。『春星』は厳しき修行を共にし、暖かい友情を以て交わる集いである。

 

  作句を生涯続けるためには「克己」が必要であります。

 

  春星作品は誌友の文学的消息である。

 

  『春星』の刊行は呼吸の如く、一回でも怠ると、『春星』の生命に関するので、誌友各位のご協力を切望します。

 

  われわれは「未だ作句せざる俳句作家」に、作句の機縁を与えるべく努力せねばならぬと存じます。

 

 

 

 

 

 

 

2005.8.14

 

正氣筆録(補遺)

 

14

  『春星』は従前通り初心者を甘やかさない方針である。

 

  結社俳誌のバックボーンはその誌の雑詠欄で、俳誌の評価はその雑詠欄の甲乙丙丁で決すべきだと思う。

 

  雑詠欄の甲乙丙丁はその選者に責任がある。

 

  芭蕉の求道的、蕪村の離俗、子規の懸命的、月斗の純粋、裸馬の閑日月、小生のほれ込むところである。

 

  「ケース・バイ・ケース」である。俳句の勉強で有意義なことの一つは、秀句の評釈を数多く味読して自得することである。

 

  句才の貧富を問わず、積極的にスランプを打開すべきである。「執念」があったら必ず打開する事が出来る。

 

  誌は毎号作品を発表している方には実に安いものであり、作品を発表せぬ人には中々高いものである。小生は前者を歓迎すること勿論である。

 

  大自然は母、われわれ人間はその嬰児である。母はその嬰児の心と体がジカに触れて母性愛を発揮するのである。われわれはわれわれの心と体を大自然にジカに触れて作句せねばならぬ。

 

  投句者は選者に甘えるがいい。

 

  投句者は選者に抵抗するがいい。

 

  俳句とは「俳句の味」を持った詩の一つのジャンルである。

 

  俳句の上達は「良く」作る事、「良く」読む事の二事に尽きると云ってもいいでしょう。

 

  小生の足跡は、正氣作品。小生が育成した後進の作品。そのどちらか一つだけでもよい。

 

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