2006.7.2
正氣筆録
春星舎雑記より抄録したもの
1 2 3 4 5 6
同じく 句作篇
7 8 9 10 11 12 補遺 13 14
さらに 補遺篇
15 16 17 18 19 20
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正氣筆録
1
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「田も作れ。詩も作れ」と呼びかけたい。
- 新しい句を期する勇猛心だけでは、火薬力だけ強い砲丸の如く遠い遠い標的へ達しきれないのである。伝統を温ぬる砲身の長さが必要である。
- 仕事の疲れ世事の疲れを句に癒すことは山登りの疲れを入浴して癒すようなものだ。不精してはならぬ。
- 変化しての新は採らず、進歩しての新を採るのである。
- 俳句は、少しずつでも上達せねば飽きが来る。少しずつでも上達していると楽しいものである。
- 俳句では(俳句だけではないが)、一般論的には「いかぬ」といわれる事を「し」て高く評価される事がある。そして初心者である「烏」は「鵜」の真似をして水に溺れる事がある。
- 豊富な経験が大切である。「取り返しの付く失敗」を重ねて豊富な経験となる。「取り返しの付かぬ失敗」は一度でもしたら落伍者だ。
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正氣筆録
2
- 句に遊ぶものは、実質年齢が名目年齢より五パーセント以上若くして然りである。もしそうでない方は、俳句の遊び方を考えるべきである。
- 俳誌において数は夏扇であり、質は冬扇である。俳句を冬扇とすれば、俳誌もまた冬扇とすべきである。
- われわれは、五読する二十頁は、一読する百頁に勝ると思っている。
- 「暇」(俳句は夏炉冬扇だから)というものは、「有る」のではなくて「作る」のだ。
- 師に似るのは奇(大いに可)。師に似せるのは鼻持ちならぬ。鼻持ちならぬのも稚気があるうちは可愛い。
- 井の中の蛙は大海を知らぬ。しかし、井の中の蛙は日夜そして生涯、ごく狭い範囲では有るが空を見詰め考えているであろう。さて、どちらが世界をよく知っているであろうか。
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正氣筆録
3
- 私たちは余命が一日も永からんことを期すのである。と同時に、余生の質的充実を期すべきである。前者は足し算的に生き儲けをし、後者は掛け算的に生き儲けをする。
- 「生」をつづけるには、「苦」に耐え続けねばならぬこともある。「生」の深みであろう。
- 死んでからも仕事をすることが出来る人になるために、生きている間に仕事をしておかねばならぬと思っている。
- 畫龍は点睛をして生きる。俳句は「畫龍」に「点睛」をすべく、舌頭に千転して推敲せねばならぬ。
- 秀句を生むのは「運」であるが、「努力」の裏打ちの無い「運」には価値が無い。
- 小生が採る句は、小生の可視光線的能力でまず理解し且つ味解した上でのことである。小生にやや不可視光線的句も恐る恐る採ることもある。
- 小学校の運動会を見に行って熱狂するのは自分の子供が出場している競技である。われわれは自然に接して「季のもの」に特別の感情を持ち表現欲に駆られる。運動会に出場する子供を持っているのも幸せ、人生に俳句を持っているのも幸せ。
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正氣筆録
4
- 老人は、「山高きを以て尊しとせず」を心掛けて、その人生経験の積み重ねの知恵を、可視光線的にしか物事が分からぬ若者達にアドバイスせねばならぬと思う。
- 人間の能力に「可視光線」というものがある事をしみじみ感じ、「精神一到」と発奮し努力すべきだとつくづく思っている。
- ベターを積み重ねてベストにせまらんとする努力が生き甲斐であると思う。ベストでなければ気が済まぬというものは、所詮、怠惰であるといったら叱られるだろうか。
- 筆硯多祥は、棚から牡丹餅が落ちてこぬように、あなた自身が立ち上がって手で取らねばなりません。
- いわゆる「美しい」ということは「美」として安っぽいものであるように、いわゆる「新しい」ということは「新」として安っぽいものであると思う。
- われわれは自然を心から愛しましょう。打算的な愛では駄目だ。天は天である。
- 文語体の仮名遣いを大切に守ることは、自然保護の精神に通じる。われわれ俳人の義務であると思う。
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正氣筆録
5
- われわれ老人は、元気で長生きするだけで立派な第三種産業の戦士である。お情けみたいな老人福祉は以ての外である。元気で長生きする事は将来老人になる人々へのこの上ないサービスである。
- 俳句を通じて「老人如何に生くべきか」を考えていきたい。
- 小生は数十年来、たかが俳句というものに打ち込んでいることに自嘲を感じたことも折々あったが、今日でははっきりと俳句に縁があったことを有りがたく思っている。
- 景勝地の土地の者と旅行者と、どちらに秀句が出来るか?
- 温故を怠っての知新は怪しい。「変化」には価値が無い。われわれが期するのは「進化」だ。温故して「不易」を知るべきだ。不易を知らずして進化ありや?
- われわれの自分一人一人は実に淋しい。「実に淋しい自分」を幸せにしてくれるのは「他」(人間に限らず)ではないか。「実に淋しい自分」は「他」へ常に感謝せねば罰が当たる。
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正氣筆録
6
*「作品」は、熟読玩味するに値しなければならぬ。
*われわれは「実のある経験」を積まねばならぬ。実のある経験を積む第一歩は、われわれが大自然のうちで生きていることの自覚である。
*今日からの自分の人生で、一番若いのは今日であることを知り、諦観して今日からさらに発奮努力してください。
*「人間」たらんとするには、「詩を作ら」なければならぬ。紳士税を払わねば、紳士になれぬのである。
*俳句は短歌とともに、多くを語ることができぬが、原作のままで読者の胸に棲みつきやすい。
*私は近頃少々チエがついてきたことと少々ボケてきたことを自覚、老いにも長短あり。
*私は何事にも、能力に自信はないが、一所懸命に打ち込むことに生きがいを感じるものである。
*昼夜、うつつとゆめが繰り返す。苦痛を覚えているときが「うつつ」であり、苦痛を忘れているときが「ゆめ」である。毎日こんなに苦痛が続いても、過ぎ去った日々はみな過去となり、過去となれば夢のようになってしまう。
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