正氣筆録(補遺)

 

『春星』の春星舎雑記より、補遺として抽出した。大体、1970年代に相当する時期である。

 

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正氣筆録(拾遺)

 

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  70年代だといわれている。世紀単位が急に10年単位になったようである。人類の世は等比級数的に進まねばならぬが、それも悪性インフレ的に進むのは悪性進歩ではないかと思っている。

  近頃世代の断層が言われているが、世代の断層を作ったのは若い方の世代が作ったのではなく、餅をたくさん食ったほうの世代が自分たちの憧れだったことを未経験で副作用を知らずしてこんな時代を作ってしまって唖然としているのではあるまいか。

  拮抗作用の有意義をいろいろの面で知らなければならぬと思っている。小生は各界の知恵者がこの方面に知恵を働かせて呉れたら、人類の世がよい方向へ進歩するだろうと思っている。

  月斗先生から「蹄筌」の二字額をいただいているが、蹄はわな、筌はもんどらで、共に獲物を捕る道具である。所詮獲物を得る手段に過ぎず、目的は獲物を得ることである。現今騒がれている公害問題など、目的と手段を転倒した人達の愚?悪?である。

  能力もないくせに時流に逆らって押し流される徒は愚の骨頂。明日の時流をよりよくする努力をせぬ徒は風上に置けぬ。

  誌友はよりよき句稿を期して投稿が遅れがちになり易く、編集発行人はよりよき雑誌を期して遅刊になり易いのである。よりよきを期すそのことは当然のことであり、立派なことである。そのことによって投稿が遅れたり、遅刊になることがよくないのである。その兼ね合いがなかなか難しいのである。

  産業発展と公害の問題が今頃になって騒がれているが、これは悪人と愚者の社会がここまで来てしまったので、兼ね合いをよくするのに荒療治を要するだろうと思うが、我が『春星』の場合は難事ではあるが後味の良い努力で事足りるのである。

  顧みればかつての小生は一気呵成に作句し、月斗先生からも「軽車無軌道を走るが如し」と評されたことがある。月斗先生は晩年までなかなかの速吟で、句座で即吟を競っても大抵小生が兜を脱いでいた。

  小生は月斗先生が他界されてから遅吟になってしまった。そして推敲の楽しみをだんだん深めつつあるのである。しかし、推敲は句を必ずしもよくするものではない。

 

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  かつて王樹翁と小庵で杯を交わしつつ「僕は学生時代にカフエーやダンスホールに吟行?して、モダン俳句を提唱しようとしたが、圭岳さんにブレーキを掛けられてしまったんですよ。その圭岳さんがそれから十年後には新興俳句へ走るとは」「君は圭岳君に感謝せにゃならん。圭岳君のお蔭で君はプロ俳人にならずに済んだんじゃないか」と。小生は左様かと新しい経験をしたことであった。

  職業とする仕事は、食わねばならぬために必死になる。必死になるから仕事が出来る。また、食わねばならぬために良心を失わねばならぬことが多いようだ。業余にする仕事はその仕事に専念することは出来かねるが、食うことのために仕事をよごさずに済む。

  子規崇拝の茂野冬篝居士は、子規居士の自らの墓碑銘を高く評価して、ブロンズで鋳造して御墓の傍に碑を建てた。冬篝居士は、同病(肺病)にスタートして、子規居士が新聞記者としての月給で飯を食い、職業俳人ではないぞという心意気に感じていたのである。

  歳を取ったり、病気になったりすると、気儘を言っても許される気がする。だから小生は老人や病人になりたくない。

  小園は着々整ってきた。朝、昼、夕、夜半と何回も見て廻り、手入れをする。臨機応変の心の準備も必要である。昨是今非の心の成長も養わねばならぬ。小生の俳句の向上が小園の向上を援け、小園の向上が小生の俳句の向上を援けるであろう。

  俳句を作る時間は量よりも質である。暇があり過ぎる時に反って句が出来ぬのを経験して来たが、それは「質」が然らしめたのであろう。「質」をよくするには精進を重ねて自得すべきである。

  俳句は相撲とも野球とも異なる点が有るのは当然だが、或る「通ずる点」も多い。解説者はかつての名力士や大選手が多く、身につけた豊富な体験からものを言っているので、小生は首肯することが多い。

  プロ作家の場合は「食う」ために我慢せねばならぬので「執念」で頑張る。「食う」ための「執念」より「遊ぶ」ための「執念」のほうが高等ではあるまいか。

 

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  小生は天寿を全うせずに生命を失うことを「取り返しのつかない失敗」とし、取り返しのつく失敗は「経験」の内に入れています。「経験」は「人間の知恵」を深めるための勉強になるものだと思っています。

  寿命がすくすくと伸びている。生きている時間の数だけでなく、時間そのものが(距離で言えば)非常に長くなった。ところが近頃になってその副作用が深刻化してきた。

  何とか手を打たねばこのままでは日本人の寿命は縮む。今度は微生物系の病気に対して顕微鏡が発明されたように、それとは次元を異にするであろう発明を待たなければならぬと思う。

  蚊が減れば蛍も減り、蛍が殖え出したら蚊も殖え出した。

  締め切りを甘くすると、投稿がルーズになり易い。小生は投稿が少しルーズでもいい作品が集まることを喜ぶものであるが、ルーズにも限度がある。その程度は相撲を例にとれば立合いにおける「待った」までにしていただきたい。

  「眼光紙背に徹す」ることなくしては俳句の鑑賞は全きを得ない。俳句の鑑賞のみならず、近頃の情報時代にも「眼光紙背に徹」せざれば、マスコミにまんまと乗ぜられてしまうのである。

  この人は俳句を作ってみようかとの気があるなアと思ったら、小生はその人に強引に作句をすすめて来た。そして成功した例は多々ある。近頃は、俳句を作ってみようかとの気があるなアと思われる人に滅多にぶつからない。淋しいことの一つである。

  体力には峠があって、その峠を越したら下り坂になるのは生物としての宿命である。精神力は人間のもので、頭脳が耄碌するまでは鍛えることでいよいよ強くなるものだと思う。

  俳人にも、「もう、としでだめです」と言う人がある。よく聞く言葉である。人間としての精神力を忘れて、生物としての体力を以ってして自らを後退せしめるのは愚の骨頂だと思う。

  小生は十代から六十代と体験はして来たが、昭和四十九年の十代から六十代は体験体験出来ぬのは仕方ないことである。それは赤外線、紫外線を視覚することが出来ぬように。然し、努力次第で感得はできるものと思う。

 

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  俳句においては稽古、本番の区別はない。秀句はすべて公認記録と成るのである。

  万事「頃合い」が最も大切で、一つ一つの事柄に「頃合い」を会得することは非常に難しい。「頃合い」を知らぬ知識は落第させねばならぬと思う。小生は「頃合い」が如何に大切であるかを、そして如何に難しいかを多年俳句に遊んでしみじみ覚った。

  小生は諺の「岡目八目」を諾い、その「岡目」によき師友の助言を以ってしたら何目かに当たるだろうと思うのである。「よき師友」に先輩後輩はない。よき「岡目」に感謝するのである。

  俳句募集に応じることも選者の「岡目」の助言を得るためである。選句は無言の助言である。

  俳句は俳句の容器が容器だから、文学のジャンルとしては桑原説の如く所詮「第二芸術」であろう。しかし俳句には文学プラスアルファがある。プラスアルファを持ってこそ俳句は尊い。しかし、プラスアルファが低俗に堕したら鼻持ちならぬものになる。

  われわれはこと作句においては名利の俗念を絶つ事も修行しましょう。名利の欲望は進歩を期す事にプラスはするが、ホンモノの俳人にはなれぬ。

  俳人は俳句を作る楽しみと共に俳句を教える楽しみを持ちましょう。

  よく指導者めいたことを書くが、それは小生の後悔を書くことが多い。失敗を多く重ねたものが経験者だから。進歩の捷径は先輩の仕事を基礎としてその上積みをしてゆくことと、先輩の失敗を繰り返さないことである。

  句論を戦わす時には、相手の句論をよく聞いてなるほどと思ったら兜を脱ぐことである。兜を脱いだほうが句論をして儲けた訳である。兜を脱がせたほうも自己の句論に自信を持たせて貰って儲けはするが。

  作品の評価は選者の主観によるのです。だから選者好みの句を投稿することが好成績を挙げることになり、気骨のある作家はそうは行かぬのです。大いに気骨を持ってください。

  われわれは元来生物だから、他に勝って生きて行き、勝つことをこよなく喜ぶかなしさを持っている。

  たくさんの人間の遊びは勝負が単次元で決まるので簡単だが、俳句は勝負が複雑きわまる次元で決まるので、生物的に「勝」を完全に手中にすることができぬ。

 

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  たとえ自分が佳作を得ずに不快になっていても他の作家の佳作に接すると、自分が佳作を得ずに不快であったことが吹っ飛んでしまう。小生はこの気分が一座にない句会は楽しくない。

  元来人間は他の動物より知恵が多い上に相互理解が深いので、知恵と集団の力で他の動物を征服してきたのである。われわれの句会は楽しくかつエゴイズム時代への抵抗でもある。

  文字を書く場合に理解用と味解用とがある。短冊などに書く場合は味解用だから難解なのも面白みがあっていいが、原稿を書く場合は理解用だから明確でなければならぬ。

  生理的老懶には順応し、心理的老懶は撻たねばならぬと思うが、その判別が至難の業である。至難の業と取っ組んで質・量的に長生きすることは尊き哉。

  老人も動物であるから食わして貰わねばならぬことは勿論であるが、老人も人間であるから食うだけでは事足りません。

  すぐれた句を生むにはすぐれた心が第一である。初心者も時折、秀句を生むことがあるのは、初心者がすぐれた心になった折、その心を表現するのに高度のテクニックを要しない場合である。

  俳句は表現である。表現にはテクニックが必要である。テクニックは習得するものである。故に、すぐれた心を表現するのに高度のテクニックを必要とする場合には、高度のテクニックを身につけていないとすぐれた句を生むことができないのである。

  俳句の可能は極めて厳しい。われわれは「季題」の暖かさと「詩形」の親しさに支えられて、「精神一到」秀句を書かねばならぬ。

  赤ん坊は這うことを期し出すと、はじめのうちは両腕に力を入れ両脚をばたばたさせて、前進どころか反って後退する。そして反復努力して後、前進するようになる。俳句の上達も然り。

  初心者は初心者並みに、また、ベテランもベテラン並みに、毎月一句は必ず遺し置く事は、俳人の立派な足跡であり、一寸むづかしいことでもある。われわれはこの「一寸むづかしいこと」に挑戦しているのである。

  現俳句界には参加料をとっての懸賞俳句が流行しているようだ。勝つためには相手を知ることが必要だ。プロの野球や相撲で分かる。懸賞俳句の相手は選者群である。応募者と選者群とは「信」で繋がっているか。選者群を充分研究せずに応募して当選するのは「抜群」か「幸運」である。俳句会行事のお楽しみ程度のものだったら、ほほえましく見る。俳諧史で、賞を懸けての発句が流行した時代を思って憂えるのである。

 

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正氣選櫻鯛俳句募集に就て

*僕の朝寢は先天的のものかもしれぬ。生後三百六十五の二乘の十分の一程朝を迎へた譯だが、自分から目を覺ました例は幾ばくもない。曾ては學校に遲るるといって起され、長じては患者だといって起さるるのである。起されても中々目が覺め切らぬが、郵便の聲がすると忽然として僕の夜が明けるのである。寢床にゐたまま煙草を吸ひながら今着いたばかりの句稿を見て行く、いい句はピンピンと來る。〇や◎をつけてゆく。〇や◎を澤山つけられる時は何ともいへぬ樂しみである。朝の郵便で着いた句稿は幸bナある。

*作句も選句も考へ出したらわからなくなって仕舞ふ。

*選者の責任は重い。沒になった句は闇へ葬られる。その中には玉もあるかも知れぬ。又緩選すれば恥ざらしをしてやる事もある。

*俳句雜誌の募集句の選をすることは、應募句稿を審査することと應募作家を指導することとを兼ねてゐるのである。

*どうせ先の見込みの無い作家はなるべく澤山採ってやる方が親切だし、前途有望の作家は嚴選してやる方が親切だと思ふ。又緩選嚴選を適度に利用することが作家指導上效果をもたらすものである。

*今回改めて櫻鯛俳句を募集し、主幹として僕が選に當ることにした。會員ゥ子擧って力作を示されたい。

*競爭するといふことも上達の一方法である。美しき友情を持しながら競爭するのはいいことである。

*入選句、落選句、添削句に對して物云ひをつけること結構である。

*或る程度以上の熱を持しながら一ケ年投句を續ける作家は必ず上達する。二年續ける作家はもっと上達する。三年五年十年續ける作家はぐっと上達する。

*先づ俳句になってゐること、その上に專賣特許若くは新案特許の價値を認むれば入選。

*俳壇で先頃問題になってゐた所謂難解句の作家達は專賣特許をねらってゐるのだろう。その努力は大いに結構だが、謂はるる如く難解句では困る。偉大なる未完成といふ語は我等若い者には魅惑を感ずるが、作品としては無價値である。我レ拙速を尚ばず。

*專賣特許を疎んずれば發展が無い。新案特許を疎んずれば向上が無い。

*理論が無ければ沈滯して衰へ、理論が盛んになれば混亂して衰へる。

*理論を腹藝でやる方法もある。

 

(『櫻鯛』昭和十五年七月號より)

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