正岡子規の新派俳壇結成史

『春星』連載中の中川みえ氏による総説。

 

「小日本」新聞研究(1〜48)

「二葉集」から「新俳句」へ(49〜75)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻(76〜100) のうち81から100

2000.3.1

正岡子規の新派俳壇結成史(百) 

平成12年3月号   

正岡子規の新派俳壇結成史(九九)

平成12年2月号 

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正岡子規の新派俳壇結成史(八九)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

     一二 「春夏秋冬」

 「新俳句」が幼稚で見るに堪へない、早く現役俳人の希望を充たす第二新俳句を作りたい渇望に対して、子規にも十分其の用意はあった。三十三年頃から其の材料を整備しつつ、先づこの辺で一旦打切って第二新俳句を作らう、其の台本は出来てゐた。俳人は新らしく増加する、句は日々の新聞、月々の雑誌を賑はしてゐる。どこかで打切って、それ以後は第三次集の材料へと繰り越さなければならないのは知れ切ってゐる。が、三十年以来余り急劇な変化は、どこかで一度清算する其の機会をさへ与へない程だった。          (河東碧梧桐「子規の回想」)

明治三十四年五月、「新俳句」につゞく子規派第二の総合句集「春夏秋冬」春の部が、ほととぎす発行所から出版された。

  新俳句刊行後新俳句を開いて見る毎に一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は新俳句中の佳什を求むるに十の一だも得る能はず。是に於て新に俳句集を編むの必要起る。(略)

 新俳句編纂より今日に至る僅に三、四年に過ぎざれどもその間に於ける我一個又は一団体が俳句上の経歴は必ずしも一変再変に止まらず。しかも一般の俳句界を概括して之を言へば「蕪村調成功の時期」とも言ふべきか。(子規「巻夏秋冬」序文)

子規はこの句集へ採録する選抜の標準を

  第一 佳句

  第二 流行したる句

  第三 多くの選に入りし句

等の条項に拠るとし、「日本」「ホトトギス」の俳句欄の明治三十む年以降の作品から抜粋して、春の句一二三七句を所収する春の部を出版した。

 所収作品は次のようなものである。

   笛方のかくれ貌なり薪能      碧梧桐

   出代りの櫛忘れたる棚の上     挿 雲

   灯ともせば眠たき様の雛かな    橡面坊

   摘草に未だ日の高き嬉しさよ    麦 人

   鳥篭に春の夕日の残りけり     格 堂

   忘れ来し珊瑚の鞭や朧月      露 石

   ふるひよせて白魚崩れんばかりなり 漱 石

   雪解や竹はね返る日の表      子 規

   亀鳴くや皆愚なる村のもの     虚 子

   日の縦に流るる川や芦の角     青 々

 三十四年五月に「恐らく四五百部」(「子規の回想」)の初版を出版した「春夏秋冬」春の部は、六月には再版を見る盛況で、「どれほど一般に第二句集が渇仰されてゐたかを裏書するいい証左」(同)であったにもかかわらず、夏、秋、冬の部はすぐには出版されなかった。

 総てを見透してゐる子規に、春の部の忽ち売切れが、ピンと来てゐないわけはないのだ。それにも関らず、あとを続刊することが出来なかった。それはむしろ我々が物足らなく思ったよりも、どれほど子規の方が歯痒く思ったことか。(「子規の回想」)

 「春夏秋冬」夏の部以下は、子規の準備していた台本をもとに、碧梧桐と虚子の共選・共編で俳書堂より刊行された。夏の部(三十五年五月)八一四句、秋の部(三十五年九月)七七八句、冬の部(三十六年二月)六七九句、新年五九句が所収されている。この夏・秋・冬の部について碧梧桐は子規没後、何とかしようぢゃないか、と虚子と其の結末をつけることになり、幾分の名誉心も手伝って、其の選に従事して見たものの、何だか人の借着をしたやうで、自分にしっくりしない妙な気分の付き纏ってゐたことを覚えてゐる。(「子規の回想」)

と告白している。

所収作品は次のようなものである。

夏の部

   鮓圧せば沛然として大雨かな       月 兎

   五月雨や上野の山も見あきたり      子 規

   雨蛙しきりに鳴いて流れ雲        三 允

   我恋は林檎の如く美しき         富 女

   打水にしばらく藤の雫かな        虚 子

秋の部

   朝寒やたのもと響く内玄関        子 規

   この道の富士になり行く芒かな      碧梧桐

   貝殻に秋の灯細し蜑が家         繞 石

冬の部

   遠山に日の当りたる枯野かな       虚 子

   牡蠣船や難波の浦の灯の林        格 堂

   風呂吹や蕪村百十八回忌         子 規

 子規没後「日本」俳句欄の選を引き継いだ碧梧桐は、四年後に最初の成果である「続春夏秋冬」を出版した。

 これに対抗して、「ホトトギス」「国民新聞」の句を主とした虚子派の句集「新春夏秋冬」が、松根東洋城選で四十一年から出版された。

 「春夏秋冬」は、子規存命中の最後の句集として、子規派集大成の金字塔であった。が同時に、「続春夏秋冬」「新春夏秋冬」の書名が示すように、分裂してゆく子規派のスタート点ともなった句集であった。 

 

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正岡子規の新派俳壇結成史(八八)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

   一一 「墨汁一滴」

明治卅四年は来りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病床にありて屠蘇を飲み、雑煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せり。今年もまた病床にありて屠蘇を飲み、雑煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病床にあり得るや否や。屠蘇を飲み得るや否や。雑煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を喰ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。発熱を犯して筆を執り、病苦に堪へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切にこの苦の永く続かん事を望むなり。明年一月余はなほこの苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を執りてまた諸君に紙上に見ゆる事を得るは実に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。(「書中の新年」---「日本」)

 明治三十四年一月から、子規は「日本」紙上に「墨汁一滴」を掲載した。その日その日思い付いたことを一行以上二十行以下の予定で短い文にして、和歌や俳句に関する問題も、一切をこの文中に集中しようとした。執筆の動機を一月十四日の「墨汁一滴」に次のように記す。

 年頃苦みつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強.くなりて今ははや筆取りて物書く能はざる程になりし かば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。斯くて は生けるかひもなし。はた如何にして病の床のつれづ れを慰めてんや。思ひくし居る程にふと考へ得たると ころありて終に墨汁一滴というものを書かましと思ひ たちぬ。こは長きも二十行を限とし短きは十行五行あ るは一行二行もあるべし、病の間をうかがひてその時 胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書 かざるには勝りなんかとなり。されど斯るわらべめき たるものをことさらに掲げて諸君に見えんとにはあら ず、朗々病の床にありて新聞紙を披きし時我書ける小 文章に対して聊か自ら慰むのみ。

   筆禿びて返り咲くべき花もなし

(「墨汁一滴」 一月二十四日)

「墨汁一滴」の第一回を一月十三日に、第二回を十四日に「日本」へ送ったが、十五日になっても掲載されなかった。当時校正を担当していた寒川鼠骨に宛てて、

ソコデ朝ハソレガ出テ居ルダロト思フテ急イデ新聞 ヲヒロゲテミルト、無い。ツマラヌツマラヌ。何モイヤダ。新聞モヨミタクナイ

と失望を書き送り、紙面に余裕がないのなら

 欄外デモョイ。寧ロ欄外ガ善イカナト思フ。欄外ヲ毎日二欄借リテ欄外文学ナドモシャレテ居ルヨ。欄外二欄貸サナイダローカ。若シ僕ニ金ガアッタラ広告文学ナドモ面白イダロー。コレハ毎日広告料ヲ払ッテ自分ノ文ヲ広告欄ニ出スノサ。面白ウヂヤナイカ。

と提案した。

 「墨汁一滴」はこのような経緯をへて、翌月十六日から七月二日迄殆ど毎日、百六十四回連載された。

 「墨汁一滴」の中で子規は、節分を語り、諸国の名物を書き並べ、平賀元義を詳細に論じ、書き誤り易い漢字を例示し、不平十ヶ条を褐げた。三月十八日からは、「明星」第十一号を取り上げて、七回にわたって落合直文の歌の曖昧さを鋭く批判した。又、月並や写生について述べ、「春夏秋冬」の序文・凡例を掲げ、試験について体験を交えて論じ、外遊する中村不折との交流を数回に渡って記すなど。好奇心のおもむくままに、周辺のあらゆるものに心を向けて、みづみづしい感性で端的に語った。自らについては、次のように記している。

  

人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病床に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く歩行き得ずともよし、庭の中だに歩行き得ば、といひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得は嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず座るばかりは病の神も許されたさものぞ、などかこつ程になりぬ。しかも希望の縮少は猶ここに止まらず。座る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬ程の濃度に迄達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦は之を涅槃といひ耶蘇は之を救ひとやいふらん。

〈一月三十一日)

一 人間一匹

右返上申候但時々幽霊となって出られ得る様以特別御

取計可被下候也

 明治三十四年月日

   地水火風御中         何がし

 (四月九日)

小生の病気は(略)既に末期に属し最早如何なる名法も如何なる妙薬も旋すの余地無之神様の御力も或は難及かと存度俵。(略)発熱は毎日、立つ事も坐る事も出来ぬは勿論、この頃では頭も少し抬ぐる事も困難に相成、又疼痛のため寝返り自由ならず蒲団の上に釘付にせられたる有様に(略)丸で阿鼻叫喚の地獄も斯くやと思はるる許の事に候。(四月二十日)

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正岡子規の新派俳壇結成史(八七)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

 十、 写生文・山会

 居士の仕事は凡そ三つに分つことが出来た。其一つは俳句の仕事、其二は和歌の仕事、第三は写生文の仕事であった。(略)ホトトギス紙上の事業の一つは写生文で、居士は此方面に於ても我等の中堅となって常に努力を惜まなかった。(高浜虚子「子規居士と余」)

 子規の俳句の写生を延長した写生文の唱道は(略)俳句が天保調から更生したと同じに(略)封建趣味文章への挑戦でもあり、亦た明治の一革新でもあった。(河東碧梧桐「子規の回想」)

虚子の「写生文」(「子規について」所収)に依ると、写生文ということばは子規の存命中には未だ無く、「叙事文」という云い方をしていて、

 *「画家の写生といふ事に興味を持」った子規の、「嘘を言はない、本当の事に重きを置く」という主張に賛同を覚えた者が、子規のもとに集って文章を作った。

 *「写生文は事実を写すもの」で、「事実の選択はする、抹殺はする、併し決して事実を偽らない。」

 *写生文を書く者は、「自分で創る」のではなく、「自然の中から或る事実を採る」

 *「只自然を見てをって、その中から文章を抜き取らうといふのであります。」

  「複雑な自然の中から整った一つの文章を抜き取らうといふのであります。」

おおよそこのようなものであった、

 坂本四方太の「写生文の事」に依ると、三十二年の春に「ホトトギス」に掲載するために書いた「鎌倉紀行」を、子規は「一句々々は余程苦心してある様だが、どうも全体に山が一つもないからいかん」と批評した。子規はこの頃から「明治の美文は明治の絵画或は明治の俳句と同様に、写生で遺らなくてはいかん、写生を遣るには言文一致でなくてはいかん」と主張していた。

 「少々たるみを覚えた俳句熱を圧倒」する勢いで、四方太を中心に「新囚人」の寒川鼠骨などに文章熱が高まり、三十二年の夏頃大阪から松瀬青々がやって来て「ホトトギス」を手伝うようになるといっそう盛んになって、文章会を催す気運が生れ、十一月にその第一回の会が開かれた。「根岸草盧記事」は此会の結果であった。

 翌三十三年九月の「ホトトギス」の「消息」に、「先日拙宅に於て山会なる者を相催候」とあり、俳人歌人が一丸となった文章会が生れたのである。

 山会は文章会のニックネームともいふべきもので、当日銘々の文章を持ち寄り、作者自ら朗読し、其の批判によって、大いに写生文の為めに気を吐かうといふのだった。恐らく子規と四方太あたりから出た説であらうが、いくら写生文でも、たゞ矚目の光景や事実の漫然たる記録では文章とは言ひ難い。文章には文勢も文脈も必要であるが、肝要なのは、其の山だ。つまり歴々叙し来った感興のクライマックスが光らねばならぬ。(略)といふので山会の名が生れたのだ。(「子規の回想」)

 銘々の作った文章を持ち寄っては朗読し批評するので毎月催すことになった。会毎に子規子の新説を聴く事が出来るので非常に利益を受けたのは云ふまでもないが、特に子規子が工夫せられた山の図といふものが出来て、各作者の特色やら又或る一文章に就ての構造やらを一目の下に明瞭ならしむる事が出来た。(「写生文の事」)

というものであった。

子規の創始した写生文について、碧梧桐は

 三十四五年を隔てた今日から見れば、子規の文章だって、さえ完璧であるとは言へない。可なり衒気もあれば、生硬なところもある。(「子規の回想」V)

と言い、虚子は

 写生文の方面に於ける指導はまだ種々の点に於て到らぬ所が多かったやうである。其一二の例をいへば、居士は頻りに山といふことを唱へて、山の無い文章は駄目だとし、特に水滸伝などを講義して居士の認めて山とするものを指示してくれたが、今日から見ると其山なるものは余程境界の狭いものであった。--文章会を山会と言ったのも其に基いたものであった。--又居士は山を製造することを頻りに唱道したが、其も晩年になって、自然を寸毫も偽はることは大罪悪なりといった言葉から推すと、自ら否定したものともいへるのである。--少くとも其処に矛盾した二個の主張があったともいへるのである。(「子規居士と余」)

と矛盾を指摘する。しかし同時に居士も嘗て斯ういふことを言ったことがあった。

 「此間紅緑が何かに書いて居ったが、俳句の事業は革新とはいふものの寧ろ復古で、決して新らしい仕事といふ事は出来無いが、.写生文は純然たる新らしい仕事で、これは我等仲間が創始したものと言って誇ってもいいのである。」

という子規の発言も紹介し、「写生文が存外重きを為して又其方面に著しい進歩のあったことは特に記憶せねばならぬことであった。」と認めているのである。

新しい文学の創始は子規の大きなよろこびであった。

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正岡子規の新派俳壇結成史(八六)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

   九 誕生日の賀筵

 小生近日元気消耗甚しく候につき向後策として百二歳の賀筵にても開かんかと存候。小生百二歳は明治百一年に当り候につき本年に繰上げ候はば六十八年前取りする訳に相成候。賀筵はまだ早過ぎると申す人も有之候へども小生は時期既におくれたりと存候。それにつき何か善き趣向もがなと考居候 (明治二十三年 「ホトトギス」『消息』)

百二歳賀筵という趣向ではなかったが、三十三年の誕生日(旧暦九月十七日)には、碧梧桐、虚子、四方太、鼠骨の四氏を招いて賀筵を開いた。

  三十五の誕生祝ひでもあったか、平生の親しい仲間へ何か御馳走を持って来いといふ註文の上に、それぞれ色の題が附け加へられた。鳴雪には白、虚子には赤、四方太には緑と言ったやうな命令だった。虚子がニコライの宗教の儀式でやる方法だと言って鶏卵を赤く染めて来たのなどが、眼立ってゐた。 (河東碧梧桐 「升さんと食物」)

碧梧桐の記憶間違い---鳴雪は出席していなかったし、「色」についても子規の記事と異っている。

子規が思ひ立って私達仲間を四、五人招いて、会を開いたことがあった。それは唯、雑談会であったか、俳句会であったか忘れたが、兎に角さういふ会合が暫く無かったので病床のつれづれなるま)に、子規の思ひ立ちで開いたものであった。その時、主まうけとして、庭の鶏頭の林のうしろに白い幕が引いてあった。何のために白い幕を引いたのかと思ったら、鶏頭の紅いのを引き立たせるためであった。---この頃問題になってゐる「鶏頭の十四五本もありぬべし」といふ句はこの時の句であったかと思ふ。そんなことをして強ひて病床の寂寥を慰めてゐたこともあった。 (高浜虚子 「子規について」)

  鶏頭の句については、虚子の記憶ちがいであると思われる。松井利彦氏の研究によると、この句の作られたのは九月九日、根岸子規庵に門下生一八名が集まり、句会をした折の即吟。(日本近代文学大系」)であり、初出は十一月十日の「日本」である。

この会合は非常に愉快であったらしく、翌年の「仰臥漫録」に、この日を回顧して次のように記している。

  去年ノ誕生日ニハ御馳走ノ食ヒヲサメヲヤル積リデ碧四虚鼠四人ヲ招イタ。コノ時ハ余ハイフニイハレヌ感慨ニ打タレテ胸ノ中ハ実ニヤスマルコトガナカツタ。余ハコノ日ヲ非常ニ自分ニ取ッテ大切ナ日ト思フタノデ先ヅ庭ノ松ノ木カラ松ノ木へ白木綿ヲ張りナドシタ。コレハ前ノ小菊ノ色ヲウシロ側ノ鶏頭ノ色ガ圧スルカラコノ白幕デ鶏頭ヲ隠シタノデアル。トコロガ暫クスルト曇リガ少シ取れテ日ガ赫トサシタノデ右ノ白幕へ五、六本ノ鶏頭ノ影ガ高低ニ映ッタノハ実ニ妙デアッタ。

 待チカネタ四人ハヤウヤウ夕刻ニ揃フテソレカラ飯トナツタ。余ハ皆ニ案内状ヲ出ストキニ土産物ノ注文ヲシテオイタ。ソレハ虚子ニ「赤」トイフ題ヲ与ヘテ食物カ玩具ヲ持ッテ来イトイフノデアッタガ虚子ハユデ卵ノ真赤ニ染メタノヲ持ツテ来タ。コレハニコライ会堂デヤルコトサウナ。鼠骨ハ「青」ノ題デ青蜜柑、四方太ハ「黄」ノ題デ蜜柑ト何ヤラト張子ノ虎トヲ持ッテ来タ。碧梧桐ハ茶色、余ハ白デアツタガ何ヤラ忘レタ。食後次第ニ話ガハズンデ来テ余ハ昼ノ間ノ不安心不愉快ヲ忘レル程ニナッタ。

子規がこの会合を非常に楽しんだ様子が窺われる。

 それと比べると、一年後の三十四年の誕生日は、

  ソレ程ノ心配モナカッタガ余り愉快デモナカッタ。体ハ去年ヨリ衰弱シテ寝返りガ十二分ニ出来タ。ソレニ今日ハ馬鹿ニ寒クテ午飯頃ニハ余ハマダ何ノ食慾モナカッタ。ソレニ昨夜善ク眠ラレヌノデ今朝ハ泣カシカッタ。ソレデモ食へルダケ食フテ見タガ後ハ只不愉快ナバカリデ且ッ夕刻ニハ左ノ腸骨ノホトリガ強ク痛ンデ何トモ仕様ガナイノデ只叫ンデバカリ店タ程ノ悪日デアツタ。        (「仰臥漫録」)

という状況で、一年間にかなり体調が悪化している。この年の誕生日の祝は、前日の十月廿七日に家族三人でごくささやかに迎えた。同じ「仰臥漫録」に

明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。(略)イササカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。(略)平生台所ノ隅デ香ノ物バカリ食フテ居ル母ヤ妹ニハ更ニ珍ラシクモアリ更ニウマクモアルノダ。

と記している。

 「子規は三十三年の誕生日を、最も身近な弟子を招いて「御馳走ノ食ヒヲサメ」の会食をし、三十四年には、母と妹をねぎらう気持も含めて料理を取り寄せて共に食べ、「誕生日ノ祝ヒヲサメ」と献立を書き記した。三十五年のこの日のことを、妹の律は碧梧桐との対談で次のように述べている。

  誕生が十七日ですから、例によって赤御飯を炊きました其の翌晩のことでした。赤御飯も頂戴したと思ひます。      (「家庭より観たる子規」)

 子規が没したのは、九月十七日の未明のことである。

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正岡子規の新派俳壇結成史(八五)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

  八 興津移転問題

明治三十三年八月十三日の朝、子規は突然喀血した。二十八年以来の多量の喀血であったが、幸にも一度だけですんだ。しかし、喀血後は疲労が甚しく、来客その他の煩を逃れるためにも、気候の変化の少い空気のいい海岸へ移転してはと、八月二十六日の夜子規は訪問した伊藤左千夫に勧められ、興津移転への思いが芽生えた。翌二十七日には、早速大原恒徳に宛てて

私此頃の衰弱は前便にも申上候如くにて昨年さへ冬こしには困り候もの此冬の事ハ初より気遺申処昨夜ふと友人の勧めにより興津転地の事俄に思ひ立候 それがため昨夜もろくに寝られぬ程の事に候

という手紙を書いた。そこには

私松山に住む事十六年、東京に住む事、今又転じて興津に行く時期到来偶然の事ニ非ずと存候

と、興津移転を既定の事実のように話してあって、子規の決意が窺われる。

 しかし、子規の近辺の者は、移転に危惧を抱いていた。

 虚子は、

 誰かゞ病床に来て、興津の風光の明媚なことを説き、それに冬は暖かであって、病を養ふには最も適してゐる土地である、といふ話をしたことが子規の心を動かして、興津に移転したいといふことを言ひ出した。はじめは只だ空想半分の好気心でいふのであろうかと思ってをったのが、段々真剣になって来て、一時はその考へは動かせないもののやうに見えて来た。(略)私は、子規の慰安になることならば移転も亦必ずしも悪いとはいはんが、さて実行が出来るものであるかどうかその点に疑ひを抱いて居た。病床に寝たきりの体をどうして興津まで運ぶか、その事がまづ問題であるし、それは運べるとしても、私等仲間がさうたびたび見舞ふことも出来ないし、兎に角それは空想であってとても実行に移すことは出来ないものと多寡をくくってゐた                        (「子規について」)

 碧梧桐は

 我々が子規の心情に立ち入って、前後不可解と思ったことは、この興津転地の一件以外、さ  したる記憶はない                         (「子規の回想」)

と言い、

夜汽車の一室を借り切る東鉄との交渉、興津へわざわざ私を派遣して、寓居の間どりまで、萬遺漏のないやうな調査をさせ、いよいよ転地決行の段取りを進めた理由は、今だに我々にも判然合点の行かない心的経過である              (「同」)

と、「段々乗気になって来る子規の心情がどうしても我々には酌みとれなかった」と回想する。 最も強く反対したのは鳴雪であった。

 第一に途中汽車の動揺、次には往ってから後に病気が重った其時、医療や介抱人萬端の不便から、まだ取留めの出来るものも取留め得ない残念があろうといふ心配で、どうしても転地がさせたくないから、代る代る留めた。或る夜僕も出掛けて往って或は人情、或は道理、様々の方面から説いたけれど居士は一切聞き入れない。          (「追懐雑記」)

鳴雪は、子規の機嫌を損ずることもかまわず直裁に反対し、子規もそれに対して大いに抗弁した。子規が、興津行の理由として、来客の応接の緩和を挙げ、鴫雪は「来客謝絶」の貼紙を掲げるよう提案し、子規はそういうことは好まぬと主張する、そのようなやりとりもあった。

叔父の加藤恒忠(拓川〉も興津行には反対であった。拓川は、そんなばかなことが実行出来るものか、と頭から問題にしなかった。

さて、碧梧桐が「不可解」という子規の心中を推測してみたい。

粟津則雄氏は、著書「正岡子規」に於て、左千夫がこ話を持ち出した八月二十六日という日に注目している。この日の昼間・寺田寅彦を伴って夏目漱石がやって来て、英国留学に旅立っための別れを告げた。もはや再会は出来ないだろうと思うと、「この友との別れは、子規のなかに埋めようのない空虚を作りあげたはずである。興津転地の考え方は、まさしくこの空虚のために激しく燃えあがったのだろう。」(「正岡子規」)という氏の推測は、非常に興味深い。

碧梧桐はこの時の子規の心情を 

子規はたゞ動いて見たかったのだ。旅らしい気分が味はひたかったのだ。(略)一里でも二里でも、一時間でも一日でも、旅らしい気分を味っておかなければ、もう二度と其の機会は来ないかも知れぬ。来年になっては生きてるかどいかもわからない。来月になってもダメかも知れぬ。幸ひそんなことを言ひ出してくれたのをきっかけに、思ひ切って、かねての気分を満喫しよう。さう思って矢も楯も堪らなかったのだ         (「子規の回想」)

と窃かに想像している。この想像もうなづける。八月廿六日の夜に発案された、大原恒徳宛八月廿七日の書簡に昨夜とあり-興津転地説は、約一ケ月半もみにもんで、十月十六日遂に廃案となった。さうして十一月一日、其の償ひといふのであろう、興津発案者の左千夫が、根岸病室にストーヴ裾ゑつけの工作を進めた。         (「同」)

というのが、興津移転問題の顛末であった。

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正岡子規の新派俳壇結成史(八四)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ 

 七 厄月の五月

明治三十二年の五月の初め頃より、子規は発熱が乱調子となり、三日も四日も睡ることが出来ず、腰痛も又烈しくなって、容態が急に悪化した。

 私ノ病勢其後やうやく重り五日頃より発熱乱調子にて昼夜おし通しに苦められ三四日は睡眠も出来ず宛然一昨年の容態に類似致居侯 此二三日稍心地よく昨日よりハ熱ノさしひきが毎日一回ときまり眠も出来申候、熱ハ昨日の夕方ハ卅九度四分に候。今の処でハまだ一昨年のやうに衰弱不致侯へとも此上毎日つづけさまにやられたら終にハ全く弱り可申候。腰部ハ痔瘻にてハなく矢張同しものの由其痛の鋭敏なるにハ困りきり侯

毎日縫帯のとりかへには大声あげて泣申候 平時にても痛みて堪へ難きこと多く誠にもてあまし侯

(五月十日付 大原恒徳宛)

 小生病気は先月二十日頃臀に新しき穴を生じ夫が為臥褥の処本月五日頃より発熱乱調昼夜の焦熱地獄には閉口いたし候。十日過ぎより梢々順当に向ひ臀の痛みもすこし減じ熱も夕刻一回のぼる事に相極り侯故梢落付申侯。然し今に身かへり困難にてドチラ向いて寝ても何所かの痛みに障り兎角眠りを妨げ居り候。熱は全くなきかと思へは忽ち四十度に上ることもあり不定候。世人は又かと云ふ位にて別に今度の病気に驚きも不申候。小生も亦同じく警き不申候(以上代筆)

しかしつくづくと考へ候へば今度の病程望なきはあらず候。生死の事は知らず、すわれると云ふ望殆ど絶申候。すわれぬ程ならば死んだも同じ事に侯。否徒に苦痛をなめんよりは死んだ方が余程ましに侯。こればかりは毎日屈托致侯。

(六月一日付 石井露月宛)

九日に杷栗と鼠骨が牡丹の鉢を持って見舞に来た。その花が散った十一日迄のことを、「牡丹句録」として記録した。その十日の項に、子規は吉野左衛門に筆記させて次のように記した。

 あまりの苦しさを思ふに、何んのためにながらへてあるらん。死なんか死なんか、さらば薬を仰いで死なんと思ふに、今の苦しみにくらぶれば、我が命つゆ惜からず。いで一生の晴れに死別会といふを催すも興であらむ。試にいはば、日を限りて誰彼にその旨を通じ、参会者には香典の代りに花または菓を携へて来ることを命じ、やがて皆集りたる時、各々死別の句をよみ、我は思ふままに菓したたかに食ひ尽して腸に充つるを期とし、そのま)花と菓の山の中に、決く薬を飲んですやすやと永き眠りに就くは、如何に嬉しかるべき。

このときに成った句が

   林檎食ふて牡丹の前に死なんかな 子 規

である。

 発熱はしばらく続いたが、二十日過ぎには徐々におさまって、食欲も次第に平生に戻り、絶望していた坐ることも可能であり、思いの外に軽くて済んだ。

 この時期虚子も病気で寝込んでしまった。先記の露月宛書簡の末尾に

 折節生憎虚子も病気にて山竜堂病院へ入院致候。腸胃加答児の急性にて衰弱甚しく傍人は非常に気遣ひ申候処

と記している。碧梧桐の回想によると、前年の「ホトトギス」東京移転発行に拘る種々の疲労の為か、三十二年五月下旬に虚子は胃痛、嘔吐が止まらず、入院したが、一時は生命危篤とも言われる状況に至ってしまった。

「小生病気したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病気したら小生一人でやらねばならぬ」(虚子宛書簡)と懸念していたのが、はからずも両者同時に病むという予想外の事態が発生してしまったのである。子規は自ら筆を執れないまでも、「ホトトギス」の原簿だけは口述して、発行の継続を維持しようとはかった。

 以前に本稿で触れたが、碧梧桐がピンチヒッターで「ホトトギス」発行に拘わったのは、この時のことである。

八月になって、父方の叔父佐伯政直宛の書簡に

 「坐る事も少しハ出来るやうに相成申侯 歩行く事を只今計画中に御座侯

(八月二十三日付)

と記して、松葉杖の購入の希望を記している。

 その杖にすがって、子規は隣の陸羯南の家まで行き、帰りは背負われて帰った。車で日暮里から道灌山に出掛けたり、神田猿楽町に虚子をたづね、「ほととぎす」東京移転二周年記念の「闇汁会」を開いた。又秋田へ帰る露月の送別会(「柚味噌会」)を道灌山胞衣神社で催し、歌人岡麓や香取秀真宅を訪問し、中村不折の画室開きに行くなど、後で振り返ると「この年が当時一番健康的であったといふことになる」と碧梧桐は回想する。

 しかし、十月に大原恒徳へ宛てた手紙に依ると、一月半も前から毎夜三十九度、四十度の発熱があり、その熱の中で夕食を探り、来訪者と談話し、句作に及ぶこともあるという状況で、「熱ハ夜ありて昼間ハ存外心地よく侯」というものの

先頃迄はたとひ病気いかに強くとも自分ハ百年も二百年も生きるやう存侯処此頃はいたく弱りたとひ此冬ハ辛くこし得たりとも来年の冬まてハとても思ひ及ばず候(十月六日付)

と、死はもう決定的というほど迫って来ているのである。

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正岡子規の新派俳壇結成史(八三)

--「獺祭書屋俳句帖抄」上巻--

中川みえ

  六 「俳人太祇」

明治三十二年三月、子規は「ホトトギス」に、「俳人太祇」を掲載した。

「蕪村の天才に及ばぬ事は言う迄も無いけれど、蕪村を除けば天下敵なし」の太祇が、蓼太や暁台、蘭更の盛名に埋もれ、蒼虻や梅室よりも知られていない不遇に同情し、その存在に光を当てようというのが執筆の動機である。   

 「太祇の長所は趣向の方では複雑な趣向をつかまへて来るのが得意で、極めて複雑な事を存外容易にいふて居る。それだから大根の句には人事を詠んだものが多くて、一句々々尽く斬新だ。陳腐などといふべき句は呪にしたくも無い。季の題目も人事的の題目には句が多くて、普通の人がむづかしいとして成るべく避けるやうな題目を平気でやって居る。中には今日の新派と極めて似て居る者もある。今日新派の人も太祇の句を研究したといふではない、太祇のえらいといふ事を知ったのも去年位の事からであるから、特に太祇を学んだといふ訳は無いが、いはゞ太祇は新派の先鞭を著けて居たのである。」

子規は太祇の句の特色を例を挙げて示し、次のように言う。

 ・句を読めば訳も無いやうだけれど、初めから此趣向を考へて句にせうと思ふたら、誰も先づ手の着けやうが無いのに困るであらう。

 ・太祇の専売特許ともいふべきは、人の話す言語を其侭句の中へ入れる事である。十七字の中へ人の言葉を入れるのは実にむづかしい筈であるが、大概はうまくそれを言ひこなす。それが自分にも得意であったと見える。

 ・人の難題として避けし者や、俗な題として嫌ひし者や、又は些細な事として見逃した者を持って来て、太祇が自在に詠みこなしたのは、今日の新派でやって居る傾向を此時既にあらはしたのだ。

そこから、太祇の名の世に出ぬ原因を、「一般の人は流暢の美を解して屈曲の美を解せぬ傾があるから。屈曲を以て勝りたる太祇の句は俗受が悪く」、「複雑の実は簡単の美よりも解せられにくい」上に、俗受には「趣味にも字句にも多少油濃い処、厭味な処が必要であるに、太祇の句は全く垢ぬけがして居る」からであると分析している。 

子規が太祇太祇を「新派の先鞭」として見ていることは、非常に注目される。

 つゞいて、「太祇の句は、趣向の複雑にして入事的なる点に於て、印象の明瞭なる点に於て、古語俗語(漢語は極めて少し)を使ひこなす点に於て、句法のしまりたる点に於て固より蕪村時代の特色を十分に備へて居る」と言い、太祇の俳句を蕪村の俳句の関係(主として類似点)について考察する。

一、太祇の俳句と蕪村の俳句とが如何なる関係を持っているか。

一、太祇の俳句と其時代の俳句とが如何なる関係を持って居るか。

一、太祇と蕪村との俳句の上に類似点があるが、其類似点はどちらが先づ作り出してどちらが真似したのであらうか。

一、享保、宝暦の俳風を打破して明和、天明の特色を組み立てたのは、太祇が先であらうか、蕪村が先であらうか。

が、子規の疑問点である。

先ず年齢から見ると、太祇は蕪村より七才年長であるが、年上だから太祇が先ず始めたとは断定できない。

次に、力量の点で比較する。

 o大根の句は斧鑿の痕が多いけれど、蕪村の句には自然な処がある。

 o太祇の句は乾いて光沢が無いが・蕪村の句は霑ふて光沢がある。

 o太祇には学問の素養が無いが、蕪村は和漢の書に渉って居る。

 o太祇は勉めて到るのだが、蕪村は躍然として飛び上る。

これらの点から、「蕪村が先鞭を著けて、太祇が模倣したといはねはならぬ」という一応の結論に達した。

但し、「時代の機運」ということも忘れてはならない要因であり、太祇も蕪村も共にその機運を作り、その機運を扶けた、と想像する。又、二人以前にいくらかその機運を作たであろう人物として、移竹の名を挙げている。柴田宵曲は「評伝 正岡子規」に於て、天明調の先駆者として移竹の名を挙げているところに、子規の見識を認めている。

 しかし結局、誰が天明調の機運の創始者であるのか、疑問を解くことは不可能であった。

「太祇の句には蕪村のやうなうるはしい句は少いけれど、一句々々皆面白き事、即ち句の揃ふて居る点に就いては蕪村にも劣るまい。況して暁台、蘭更などに比しては二等も三等も上に居る。(略)長く地中に埋れて居た者が忽ち明るみに出た時には、其光が殊に強く感ぜらる。吾々が今日太祇に対する感じはその通りであるが、若し世人が此と同じ感じを興した時があったら、其時が即ち太祇が真成の名誉を得た時である。」

というのが、熱のこもった結論であった。

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正岡子規の新派俳壇結成史(八二)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

 五 「俳句新派の傾向」

 「俳句新派の傾向」は、明治三十二年一月に「明治三十一年の俳句界」に先だって「ホトトギス」に掲載された。これまで「日本」、に掲載していた前年俳句界の総評もこれ以後「ホトトギス」に載せられるようになり、俳句関係の仕事は、概ねこちらに集約されるようになった。

、先づ概論で、・進歩、多様、変化について述べ、「俳句は詩形の簡単にして作者の多かりし為、短日月の間に最も多くの変化を為すことを得た」として、「俳句の進歩斯の如く速なるは、他方に於て俳句の終極の近づきつつあるに非るを得んや」と俳句終末の危倶を指摘する。

本論では、明治俳句の複雑性を古句と対比して説明する。たとえば

   将軍の雉打って帰る玄関かな   秋 竹

を、「雉提げて帰る」とするならば、其の光景は全く瞬時の事となり、将軍の印象も漠然とするが、「打って」の語があるために「将軍の軽装して猟犬を伴ひたる様をも眼に浮ばし」め、「玄関に書生下婢或は細君迄も出迎へたる様」を想像することが出来ると説明する。又、

    箒木は皆伐られけり芙蓉咲く    碧梧桐

    枯葛を引き切りたりし葎かな    虚子 

について、

 「右の二句は時間的に二箇の光景を連想して、しかも二箇の中心点を有する者なり。(略)前句は先づ箒木の多く生えたる処を想像せしめ、次に箒木の伐られて後芙蓉のあからさまに咲きたる処を想像せしむ。後句は先づ枯葛を引き切る様を想像せしめ、次に枯葛の無くなりし後の葎を想像せしむ。」

と言い、中心を一個とせず二個としたのは「明治の技量なり」と評価する。

人事句では、「抽象的説明を加へて却て具象的連想を多からしむ」蕪村の傾向が、普遍的になったことを明らかにし、これも明治の特色であると認めている。印象の明瞭については、「平凡の意匠、尋常の句法」で「別に新趣向あるにあらず、他に配合物あるにあらずといへども、(略)一見して真物の眼前に在るが如き感じに一驚の快感」があると言い、この点に於ても「一歩進めた」と見る。

以上検討した上で「余は更に進んで明治俳句に現れたる新趣味を研究せんとす」と論を続ける。

 「此新趣味は、油絵に在りては所謂紫派となり、小説に在りてはスケッチ的短篇となり、以て今日に現れたり。絵画、小説、俳句界の潮流はいづれを摸するとなくて自ら同一揆に向ひつつあり、、(略)此新趣味たるや、濃厚なる趣味に非ず、高遠なる趣味に非ず、寧ろ淡泊平易なる趣味にして、従て中心は一点に集中せず、やや、放散せる傾向あり。(略)印象明瞭も此新趣味に付随する。「高遠なる趣味は、古き代(例へは元禄)に発達すべく、濃厚なる趣味はやや進みたる代(例へは天明)に発達すべく、而して淡泊平易の裏に寄する微妙の趣味は明治に至って始て其発達を始めたり。」

このことを説明するのに、蕪村の

   牡丹ある寺行き過ぎし眼かな   蕪 村

   宿借さぬ火影やきの家つゞき   同

と虚子の   

   宿借さぬ蚕の村や行過ぎし    虚 子

を比べて、虚子の句を次のように解説する。

「行き過ぎし娘をいふにもあらず、宿借さぬ時の光景を述ぶるにもあらず、蚕飼に宿ことわられし前の村は既に行き過ぎて宿借すべき後の村は未だ来らず、過去を顧ず未来を望まず。中途に在りて歩む時、何となく微妙の感興る。芭蕉、其角は勿論、蕪村、大祇もここに感得する能はざりしなり。」

子規のこの見方は、前年の「明治三十年の俳句界」で碧梧桐の新調を、意匠、句法が平易で「淡泊水の如き趣味」で「従来の俳風に拘泥する人」には「没趣味の句」と見過されるであろうと発言したことと通ずるものである。平易、淡泊を写実に結びつけることによって、子規の写生の考え方は微妙に変化してきたことが窺われる。

 この論文の末尾に、子規は俳句の将来を見通す。

 「明治の俳句は大体に於て天明に一歩を進め、猶多少の新趣味を加へて、大勢のまにまに変化し進歩しつつあり。既往数年の間に現れたる此傾向は少くも今後数年の間、其方位を変へずして、其程度を高むべし。然りといへども俳句の形式は十七八字を限りとして定められたる者、更に之を拡張すべきにあらず。限りある文字、僅に十七八字、如何程之を複雑にせんとするも、如何程之をして印象明瞭ならしめんとするも、終に容易に其極度に達せん。余は思ふ、今日の進歩は殆ど極端の進歩にして、最早此上の程度に迄複雑ならしめ明瞭ならしむる事能はざるべきを。若し今後の進歩として期すべき者ありとすれば、そは或る特別の事物に於ける観念の未だ進歩せざりし者が満遍に進歩して極度に達するの外あらざるなり。」

子規は新派俳句の進歩がある頂点に達しつつあると考えていたふしが窺われる。先の「俳句の終極の近づきつつある」の発言と共に、この時期の俳句観を表出したものとして注目される。筆者には、後の碧梧桐俳句の行末までも見通して暗示しているようにさえ思われて、非常に興味深い。

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正岡子規の新派俳壇結成史(八一)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

四 前年俳句界の総評

 (1)「明治三十年の俳句界」(三十一年一月)

 「明治三十年の俳句界は明治二十九年の俳句界に比して幾多の進歩を為したるを見る。進歩に二あり。一は初学の俳人が漸く上達するをいふ。一は既に上達したる俳人が古人の進まざりし区域に迄進むをいふ。」(「明治三十年の俳句界」)

子規は後者を代表する者として碧梧桐を取り上げ論じた。

 「碧梧桐は意匠の奇抜を以て勝りし者、昨年来却て平易なる(しかも陳腐ならざる)方に赴けり。句調は一昨年の末より喜んで長短句を為し乱調に流れし者、今は却て首通なる五七五調に返りしは固より進歩に非ざるも、其意匠の全く古俳句と趣を異にしたる処とそれに伴ひたる句法の変化とは、古人が未だ曽て知らざりし未開の地を開きたる者にして、其価値は容易に之を評定するを得ざれども、少くとも彼が一機軸を出だしたる功は俳句史上に特筆すべき者に属す。」

と言い、

    夜に入りて蕃椒煮る台処    碧梧桐

を例に挙げて、この句が、些も理窟がなく、工夫を凝らした句であるのにその痕述を留めていないこと、意匠が日常の瑣事であるにもかかわらず陳腐でないこと、句法が平易であり、切れ字が目立たないでよく働いていること、感情の劇烈な鼓動ではなく、淡白な趣味の句であること、などを説明して「此句が極端に新体を現し」ていると評価した。

 ただ、この種の俳句は、従来の俳風に拘泥する人には没趣味の句を解されるであろうし、ことばでこの句の趣味を説明するのは困難であるから、「身を此句中に置きて此句の中より新趣味を探り出す可し」と忠告する。そして、この新体を従来の俳句を油絵にたとえて説明し、いづれも一長一短があるので両者並立して相互に短所を補いあうことが文学の大成に寄与すると説明する。

次に、「雨後の筍」の如く続々と地方に興る俳句界の動静に触れた上で、

 「明治二十九年の俳句界」に於て余が新派と称へし者、即ち碧梧桐、虚子により唱道せられし俳句は其意匠の上に於て殆ど全国の俳壇の一半を占むるに至れり。只々音調(字数)の上に於ては寧ろ保守派に降りたるが如し。地方俳人時に長短句を為す者あり。」

と総括する。

  (2)「明治三十一年の俳句界」(三十二年一月)

 明治三十一年の俳壇の状況として、先ず子規は鳴雪の俳壇復帰を挙げ、蕪村句集輪講に於ける活躍を期待した。次に子規派の両雄を「碧梧桐の老練にして遵勁なる」「虚子の高朗にして活動せる」と言い、「共に天下敵なき者」として「其勝敗する所を知らざるなり。」と言う。

 露月の「跌宕」、四方太の「勁直」を、「熊の如く」(露月)「猪の如し」(四方太)と言い、一対の好敵手と見ている。漱石の「超脱にして時に奇警なる」、紅緑の「円活にして虚子を利用する」、極堂の「敏捷にして語句緊密なる」、を「一騎当千の勇将なり」と評価する。

 前年度著しい進歩を現した者としては、東京の五城(「練磨不捷、一日一日より進む。前途望多し。」)、越後の香墨(「漸を追ふて進む者基礎既に竪し。」)、大阪の青々の名を挙げる。この論で子規が最も筆を割き詳しく迷べたのは、大阪の松瀬青々についてであった。

 「其句豪宕にして高華、善く典故を用ゐて勃率に堕ちず、多く漢語に挿みて渋晦ならざるを得る者、以て其技技量を見るに足る。但年月多からず、経験猶少し、嗜好偏局、未だ変化する能はず。専ら高遠に馳せて時に失墜を免れず、却て平淡の中に至味あるを知らざる者、 其欠点なり。若し勉めて巳まざらんか、造詣する所測るべからざる者あり。」

子規は、青々の中に消息を絶った狙酔を連想した。狙酔の再来として青々に期待するところは大きかった。その他進歩の著しい者として、預の花叟、常の芳水、京の青嵐、越の竹の門・花笠、の名を挙げている。

 明治三十一年の俳句界を、子規は「各地盛衰ありといえども、概するに俳句界と俳人と共に増加の傾向」を現した年であったと総括した。

  (3)「明治三十二年の俳句界」(三十三年一月)

 明治三十二年の俳句界を振り返って、子規は「俳人俳社俳誌の増加」と共に、作句技量の進歩が選句の標準を高めたと評価した。

 俳諧的文学雑誌の勃興は、子規の予想外のことであった。その機運が熟したのを「未だ夢寝の感を免れず」と言いながらも、「芙蓉」(静岡)「車百合」(大阪)「種ふくべ」(京都)「吹雪」(金沢)「星影」(伊豆)「うもれ木」(仙台)の誌名を紹介している。この「車百合」こそ、青木月斗先生の俳壇スタートであった。

 俳人の増加と共に各地に俳社が著しく増加し、「其数一百半」、国内ばかりか外地の仁川やウラジオストックにまでも同好の士のあることを子規は最も喜こんだ。

この年頭角を露はした者として、東京の潮音、格堂、三子、狐雁、竹子、道三、紫人、抱琴、牛歩、大阪の鬼史、月兎(青木月斗先生のこと-筆者注)、井蛙、因幡の寒楼、紫瞑 郎、などの名が掲げられている。「俳人一覧表抄」には、「春星」にゆかりのあった武蔵の三允(中野三允)の名が掲出されている。

(続く)

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