正岡子規の新派俳壇結成史(九十六)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

  十八 「病床六尺」@

 ○病床六尺 これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅に一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寝て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして

(「病床六尺」)

という書き出しで始まる「病床六尺」は、明治三十五年五月五日から死の二日前の九月十九日まで百二十七回にわたって「日本」に連載された。

 内容的には前年七月二日に終了した「墨汁一滴」とほぼ同様なものであるか、子規の執筆の執念はいっそう深いものになっている。

 五月五日に連載をスタートした直後の七日から、子規は容態が悪くなり、十三日に至って未曾有の大苦痛に襲われた。体力が弱り、体温が低いまま上らなくなり、一時は子規もあきらめて、前年の秋に香取秀真の造った石膏像の裏に「自題 土一塊牡丹生けたるその下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであった。しかしこの間「病床六尺」は時々休載はあったものの、さまざまの題材を論じて書きつゞけ、六月からは一日も休まず掲載された。

 子規の病苦を心配した古島一雄(一念、古洲)が、「日本」の編集者に「貴様等は何をしてゐる、瀕死の病人に毎日書かせて新聞が売れるの売れないのとは何事だ。休ませろ。そこで一日黙って休ませてしまった。」(「ホトトギス」対談)ことがある。ところが、翌日古島が社に行ってみると、珍らしい事に「正岡常規 親展」と記された自筆の書状が届いていた。そこには

 拝啓 僕ノ今日ノ生命ハ「病床六尺」ニアルノデス

 毎朝寝起ニハ死ヌル程苦シイノデス 其中デ新聞ヲアケテ病床六尺ヲ見ルト僅ニ蘇ルノデス 今朝新聞ヲ見タ時ノ苦シサ 病床六尺ガ無イノデ泣キ出シマシタ

ドーモタマリマセン

若シ出来ルナラ少シデモ {半分デモ} 載セテ戴イタラ命ガ助カリマス

  僕ハコンナ我侭ヲイハネバナラヌ程弱ッテヰルノデス

正岡常規

  編輯主任御中

と記してあった。子規は、書くことが自分のいのちであると言うのである。

古島は好意で一日休載にしたのであるから、この手紙を見て吃驚しすぐに子規のところへ駆けつけて訳を話した。古島の顔を見て、「僕の唯一の楽しみは、『病床六尺』だけなのだョ」と言う子規の生命がけの熱心さと真剣さに打たれた古島は、「君がこんな苦しみの中でそんなにも真剣になってやってゐるのなら、これからは必ず毎日出すから」(「『日本新聞』時代余録」 )と約束して慰めた。

子規は怠らず原稿を送り、「日本」は欠かさずにこれを掲載したので、八月二十日には遂に百回に達した。

○病床六尺が百に満ちた。一 日に一 つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短かいものに相違ないが、それが予にとっては十年も過ぎたやうな感じがするのである。外の人にはないことであらうが、予のする事はこの頃では少し時間を要するものを思ひつくと、これがいつまでつづくであろうかといふ事が初めから気になる。些細な話であるが、病床六尺を書いて、それを新聞社へ毎日送るのに状袋に入れて送るその状袋の上書をかくのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字で刷って貰ふた。その之を頼む時でさへ病人としては余り先きの長い事をやるといふて笑はれはすまいかとひそかに心配して居った位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した状袋を三百枚刷って呉れた。三百枚といふ大数には驚いた。毎日一枚宛書くとして十箇月分の状袋である。十箇月先きのことはどうなるか甚だ覚束ないものであるのにと窃に心配して居った。それが思ひの外五、六月頃よりは容体もよくなって、遂に百枚の状袋を費したといふ事は予にとっては寧ろ意外のことで、この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。併しあとにまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百月である。百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。

(八月二十日)

病床の子規を思いやる古島の心遣い、状袋三百枚を刷った「日本」編集部の好意、これらに支えられて子規は死の直前まで「病床六尺」を書きつゞけたのである。

 「病床六尺」は、五月に八回の休載があるものの、八月以降は一日も休むことなく死の二日前まで掲載された。

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正岡子規の新派俳壇結成史(九十七)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

 一八 「病床六尺」A

「病床六尺」で子規はさまざまな主題を取り上げた。身のまわりの出来事や時事的な問題ばかりでなく、回想や文明論、美術論、それに、釣や硯や盆栽や猟や酒や果物を話題に論じたり、死について考察するなど、論題は多岐にわたった。束の間の安らぎもない病苦に在って、子規はあらゆるものをみずみずしい感性で捉え、自在に論じた。そして、迫り来る死に直面して、

○余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

(六月二日)

という境地に至ったが、病苦は更に激しく彼を攻めた。

○ここに病人あり。体痛み且つ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れ易く、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を採ってものを書く事は到底出来得可くもあらず。而して傍に看護の人無く談話の友無からんか。如何にして日を暮すへきか。如何にして日を暮すべきか。(六月十九日)

○病床に寝て、(略)この頃のやうに身動きが出来なくなっては、精神の煩悶を起こして、ほとんど毎日気違いのやうな苦しみをする。(略)絶叫。号泣。ますます絶叫する。ますます号泣する。その苦その痛なんとも形容することは出来ない。寧ろ真の狂人となって仕舞へば楽であらうと思ふけれどそれも出来ぬ。若し死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、併し死ぬることも出来ねば殺して呉れるものもない。一日の苦しみは夜に入ってやうやう減じ僅に眠気さした時にはその日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか、誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。(六月二十日)

○「如何にして日を暮らすべきか」「誰かこの苦を救ふて暮れる者はあるまいか」情ある人我病床に来って予に珍らしき話など聞かさんとならば、謹んで予は為めに多少の苦を救はるることを謝するであらう。(六月二十一日)

このような病苦の中で、子規は「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」(七月二十六日)と、モルヒネで痛みのおさまっている間に写生を楽しむようになった。子規を西洋画へ導いたのは、「小日本」発刊に際して知遇を得た中村不折であった。不折との交流で西洋画の写生の理論を識り、そのことが子規の写生理論の重要な背景になったことは周知のことであるが、その後浅井忠からも教えられ、絵画に愛着と興味を持つようになった。

六月末に青梅を画いたのを手はじめに、果物だけでなく南瓜や茄子や胡瓜を写生した果物帖、草花を画いた草花帖など、うまく画けても画けなくても、だんだん写生帖が埋められてゆくのを、子規は嬉しく思った。

啓蒙家である子規にとって、俳句や和歌は楽しむものであると共に常に改革の対象であった。しかし写生は純粋に楽しみであった。啓蒙とか改革という意識がないだけに、自由に楽しむことが出来た、と筆者は想像する。

○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。(八月七日)

○或絵具と或絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふような色が出ないと又他の絵具をなすってみる。同じ赤い色でも少しづつの色の違ひで趣きが違って来る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいふものを出すのが写生の一つの楽みである。神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽しんで居るのであらうか。(八月九日)

「病床六尺」 に“渡辺のお嬢さん"といつ記事がある。朝顔の写生をしていた子規のところへ、伊藤牛歩、鈴木芒生が訪ねて来た。芒生が持参した「南岳草花画巻」を子規は是非譲ってほしいと申し入れた。一度は断られたが、子規の重ねての切望に、斡旋の労をとった碧梧桐の「策」で子規存命中のみ手元に提供することで落着した。子規は大満足でその顛末を“渡辺のお嬢さん“と恋物語のように記した。日頃「蒐集家らしい所有欲が少しもなかった」(河東碧梧桐「子規の回想」)子規のこの折の熱烈な願望と執着を、碧梧桐は「大なる不可解」な永久の謎でおると回想している。

「病床六尺」は、九月十一日に足の先がブクブクと腫れ上ったことを記し、十二日以降記事がめだって短くなった。最終回は、

○芳菲山人より来書

拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸に過ず頗る不穏に存候間御見舞申上候達磨儀も盆頃より引篭り縄鉢巻にて筧の滝に荒行中御無音致候

   俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに

   誰がかけたか

(九月十七日)

で、子規自身の文章は芳菲山人より来書」の八文字のみ、翌日の深更には没したのである。

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正岡子規の新派俳壇結成史(九八)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

 一九 最後の蕪村句集輪講・「九月十四日の朝」

 かくて九月に入って、三四日頃より先づ下痢症に罹り、日に三四回の便通を見、同八日に初めて脚の水腫を発見した。()医師は運動不足の病体には普通に見る徴候だと言ってゐるが、子規は「甚だ不気味なものぢゃな」と不安な言葉を漏してゐる。七八月小康を得ていた病勢は、この水腫を皮切りに、再び猛威を逞うして、十日の朝には腰部以下の自由を失ひ、且つ左右両足の位置によって劇烈な痛みを感じ、モヒ剤も功を奏しないので、十二日には皮下注射を行ってゐる。子規の苦悶状態は其の極度に達したらしく、自ら「拷問」と歎息してゐる。十三日再び注射、十四日水腫腰部及び、という風に加速度の昂進を示し

河東碧梧桐「子規の回想」)

 臨終前には大分足に水を持ってゐた。其処で少しでもと足を動かすと忽ち全体に大震動を与えるやうな痛みを感じたので其叫喚は烈しいものであった。居士自身ばかりで無く家族の方々や我々迄戦々競々として病床に侍していた。

 居士は其水を持った膝を立ててゐたが、誰か其を支へてゐるものが無いと忽ち倒れさうで痛みを感ずるといふので()其いたましい脚に手を支へ乍ら暫くぶりに見た居士の顔は全く死相を現じてゐたのに余は喫驚した。

(高浜虚子「子規居士と余」)

このような状態になってもなお子規は「病床六尺」の掲載を止めなかった。

 ○一日のうちに我痩足の先俄に腫れ上がりてブクブクとふくらみたるそのさま火箸のさきに徳利をつけたるが如し。医者に問へば病人には有勝の現象にて血の通ひの悪さなりといふ。兎に角に心地よきものには非ず。

(「病床六尺」九月十一日)

○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。

(「同」九月十二日)

○人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度に迄想像した様な苦痛が自分のこの身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。

(「同」九月十三日)

○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば大地震動、草木号叫、女媧氏未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。

(「同」九月十四日)

これらの文章は、代りあって枕頭に侍していた門人達が口述を筆記したものであるが、子規は毎朝「日本」 に掲載された自分の文章を見ることを唯一の楽しみにし、生きている証にしたのである。

 最後になった蕪村句集輪講が子規の枕頭で行われたのは、九月十日のことであった。虚子の付記によると、

 既に脚部に水気を持ち非常に苦痛を感じ居られた時であったから従前の通り矢張枕頭にて開くべきか、他にて開くべきかたづねたところ矢張枕頭にてやれとの事。例のモヒを頓服して始めの間は苦悶の間に尚我等の説を聞いてゐて、時々意見を吐かれるに皆驚いた。

 ……輪講半ば頃からは苦悶甚しきを加へて我等は最早枕頭で喧しく論議するに忍びぬやうな心持がしたので止めようか、とたづねしところ、やれとの事なりしまま更に続けて規定通り一枚を講了したのであった……

というまことに痛ましい状況で、子規は苦悶で中途から殆んど無言であったが、「やり得る限りはやる」という信念に、参会者は苦悶の唸りを素知らぬ風に会を進めたのである。苦悩と酸鼻の雰囲気は、いたたまれないものであったにちがいない。

 九月十三日の夜は、虚子が泊り番であった。

  この頃の子規は、少し言葉が不明瞭になって来た。舌がやや縺れるやうに思はれた。併し病苦を訴へることは却って少くなって来た。数日前は両足が水腫れになってしまって、自分で自分の脚を支へる力が無く、微動しても痛みを訴えるのであった。そんな数日が過ぎてのち子規はげっそりと衰へたやうで、その言葉は不明瞭になり、体全体にむくみが及んで来た。そのかはり痛みを訴えることば前のやうに激しくなくなった。神経が鈍くなって来て疼痛を感ずることも少くなったものであらうか。殊に九月十二日の夜はよく眠って、その晩当直に当って居た私も、夜中に起されることはなかった。翌日の未明、私は一寸目を醒ました時分にも子規はまだよく眠ってゐた。

(高浜虚子「子規について」)

翌朝、子規は「非常に気分かいい」と言い、虚子に「九月十四日の朝」(没後「ホトトギス」に掲載)を口述した。

 「余は病気になって以来今朝程安らかな頭を持って静かに此庭を眺めた事は無い。体だか苦痛極って暫く病気を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなって余は口に綴る」というこの一文は、子規が世の中に残した最後の文章と見るべきであろう。

「口をついて出る文句がそのまま文章になってゐた。けれども腐朽しつつあったその体は最早半ば死んで居た。」(虚子「子規について」)というこの文章は、一種独特の透明感と純粋さを持つものになっている。

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正岡子規の新派俳壇結成史(九九)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

二○ 絶筆

子規の容態はいよいよ予断を許さない状況になって来た。九月十四日迄については前稿で述べたので、その後について調べてみた。

伊藤左千夫から赤木格堂に宛てた九月十七日付の書簡には、子規の状況をこまごまと記した上で、足の腫れについて触れて

十五日の朝宮本医師の云ふ所によれば、スグドウト云ふ様な事はないとのことに候

と記している。しかしすぐその後に

併し昨日小生が朝より看護致居りし模様を印せば、飲食物とてはソップ少し、牛乳少し、懐中汁粉一碗許、西洋梨一個、近頃は毎日大抵こんな訳に候。足の腫は始めは足の甲の辺ばかりなりしが、今は膝から股まで参り候ために、大便は仕流しにて、綿をあてて拭きとる迄に相成候。小用の方もゴムの管をあてて致居候。身体は寝返りなどは勿論の事、一寸も動かす能はず、縦に敷きたる布団に、横に仰臥致したるまま少しもさはること出来不申候。

と記し、「如何にも心許なく、唯ハラハラと致居候。」と、切羽詰った状況を伝えている。十六日については、同じく格堂宛左千夫の九月二十四日付書簡に、

僕は十六日に訪問し、深更迄看護、新聞など読み聞かせ(尤も此夜など終始昏々として夢現で居られた)などして帰った。

と記されている。

十七日は誕生日で、「例によって赤御飯を炊きました()頂戴したと思ひます。」と妹律が語っている。

絶筆三句を書いたのは、九月十八日の朝であった。「どうも様子が悪い」という知らせに駈けつけた碧梧桐は、「高浜も呼びにおやりや」という病人の要請に、電話をかけに行った。戻ってみるといつも画を描く紙を貼る画板に唐紙を貼付けたものを妹の律に持たせて、何か書こうとしている。碧梧桐は子規の使い馴れた筆に墨を含ませて手渡した。

病人は左手で板の左下側を持ち添へ、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ

  糸瓜咲て

とすらすら書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくさうにあったのでここで墨をついで又た筆を渡すと、こんどは糸瓜咲てより少し下げて

  痰のつまりし

まで又た一息に書けた。字がかすれたので又墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駈られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに

  佛かな

と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるやうに感じた。書き終って投げるやうに筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つゞけざまにして痰が切れんので如何にも苦しさうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言はないで無言である。又た咳が出る。今度は切れたらしく反故で其痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれ迄どんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壷を自分で取って吐き込む例であったのに、けふはもう其痰壷をとる勇気もないと見える。其間四五分たったと思ふと、無言に前の画板をとりよせる。予も無言で墨をつける。今度は左手を画枚に持添へる元気もなかったのか、妹君に持たせた侭前句「佛かな」と書いた其横へ

  痰一斗糸瓜の水も

と「水も」を別行に認めた。ここで墨をつぐ。すぐ次へ

  間にあはず

と書いて、失張投捨てるやうに筆を置いた、咳は一二度出る。如何にもせつなさうなので、予は以前に増して動悸が打って胸がわくわくして堪らぬ。又た四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ちかたが少し工合がわるさうであったが、其侭少し筋違に

  をとひのへちまの(との字は変体かな、筆者注)

と「へちまの」は行をかへて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」の字のやうに、其下の方が「ら」の字の略したもののやうに見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうかと聊か怪みながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはひるもののやうなしるしをした。それで始めて「をととひの」であると合点した。其あとはすぐに「へちまの」の下へ

  水も

と書いて

  取らざりき

は其右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂の方が先きに落ちたので、白い寝床の上へ少し許り墨の痕をつけた。

(河東碧梧桐「子規の回想」)

辞世を書き始めてからは、病人の咳が時々静寂を破る外、シーンとして誰一人口をきかない。重苦しい空気が伝わって、来客も長居せずに去った。

間もなく、電話を受けた虚子が来た。

 

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正岡子規の新派俳壇結成史(百)

「獺祭書屋俳句帖抄」上巻

中川みえ

 

二一 終焉

九月十八日、子規が辞世を書いて間もなく、電話で呼ばれた虚子が来た。

子規は昏々として眠ったり醒めたりの状態であった。

午後五時頃になって、苦痛が甚だしくなり、苦悶の声を上げはじめたので、モルヒネを頓服したが効き目がなく、叫喚号泣の惨鼻に医者を呼ぶ。「どの辺が苦しいですか。」との問いに、子規は「此辺一面に……」と左の手で胸の当りを示した。「体の他の所はどこも苦しいとは言はなかった。もうそれは麻痺しつくして何の苦痛も感じなかったものであらう。只弱って行く心臓の苦痛を訴へたのである。」(高浜虚子「子規について」)医者は「楽にしてあげますよ。」と胸部に注射をし、子規は再び昏々と眠った。

碧梧桐は「ホトトギス」の校正が追っていたので、夕方子規が眠ったのを見て出掛けて行った。

子規は八時頃に目を覚まし、「牛乳を飲もうか1と言ってゴム管を通してコップ 一杯を飲む。その折に、「だれだれが来ておいでるのぞな」と問い、妹の答えるのを聞いて、又眠りこんだ。これが子規の発した最後のことばであった。

この日は虚子が泊り込んだ。夜半、「清さん清さん」という律の狼狽した声に仮眠を起された。

()母君は子規君の額に手を当て、「のぼさんのぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令 閨も同じく「のぼさんのぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁へず、同じく「のぼさんのぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹 部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額亦僅に微温を存するのみ。時に十九日午前一時。()

○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。唯余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさへ見れば同じくやや微温を感ずる許りなりしに始てうち驚きたるなりと。 (高浜虚子「終焉」)

子規は眠りながら静かに没したのである。明治(三十五年九月十九日午前一時、数え年三十六才であった。

律は直に陸家へ行き、医者に連絡した。

虚子は碧梧桐を鼠骨へ子規の死を伝えるため、病室を辞した。帰って来たとき、「升は清さんが一番好きであった。清さんには一方ならんお世話になった」と子規の母が傍らの鷹見大人(子規の父の叔母)に話していた。虚子は答えようがなかった。

やがて碧梧桐がやって来た。陸羯南と虚子、碧梧桐の三人が話し合って次のように決めた。

 一、土葬の事

 一、東京近郊に葬る事

 一、質素にする事

 一、新聞には広告を出さぬ事

 一、国許の叔父上には打電して上京を止むる事

鳴雪を座長にして、戒名は「子規居士」、菩提寺は田端大龍寺と決した。

十九日の通夜は、ほんの親近の五六名のみであったが、翌二十日の夜は、「日本」新聞関係者、俳句和歌の仲間二十余名が集り、故人を偲ぶ談笑が尽きなかった。

二十一日の葬儀には、百五十余名の会葬者が根岸庵より徒歩で田端大龍寺に参列した。

子規自筆の墓誌銘のあることは当時判明していなかったので、「子規正岡常規 慶応三年九月十七日生明治三十五年九月十九日没享年三十六」とのみ記された。〔完〕

 

連載の経緯     

平成三年八月、父の没する十日ばかり前のことであった。和田先生のご都合で子規に関するご研究が暫時掲載不能になったので、私の旧稿をピンチヒッターに宛てたい旨父から話があった。急なことであったが、「春星」を案ずる病人の依頼であったので了承した。

第一部「小日本新聞研究」は、昭和二十八年十二月末に提出した私の日本女子大学国文学科の卒業論文で、その一部は「春星」(昭和四十年九月号他)に掲載した。卒論仝文を楠本憲吉先生の個人誌「国文学ペン」に順次掲載する予定であったが、同誌廃刊のためその一部を近代作家叢書「正岡子規」(楠本憲吉著、明治書院 昭和四十一年刊)に所収した。

第二部「『二葉集』から『新俳句』へ」は、日本女子大学国文学料の機関誌「国文目白」(昭和四十年)に掲載された。

第三部「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻」は、楠本先生の配慮で「俳句研究」(昭和四十一年)に執筆した。

「正岡子規の新派俳壇結成史」という題名は、第二部の旧稿執筆の折に楠本先年より提示されたものである。本稿の連載に当って、全て一から資料を調べなおし全く新しい構想のもとに全文を書き上げたが、題名だけは旧稿そのままを用いて、自らの青春を懐かしんだ。

初めに記した事情で突然の依頼であったので、全体を考える間もなく連載をスタートしたので、いろいろと不手際のあったことをお詑びしたい。                       2000,2

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