「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
中川みえ
一三 「仰臥漫録」
明治三十四年九月二日から、子規は「仰臥漫録」を記した。「墨汁一滴」「病牀六尺」と共に仰臥日録の三部作といえるものであるが、他の二作と異り、全くの私記であったり公表を目的としたものではない自分だけのための病床日誌であったので、子規は種々の題材の手当り次第に気の向くままに、赤裸々に記した。
「仰臥漫録」は二分冊で、第一冊目が三十四年九月二日から十月十三日まで、第二冊目は、同日から十月二十九日まで、その後中断期間を経て、三十五年三月十日から十二日まで、更に六月二十日から七月二十九日までの「麻痺剤服用日記」が残されている。
内容は、俳句、和歌、画、種々の感想、会計覚書などさまざまで、雑記的メモが、順序もなく、特には説明図付きで出され、毎日の食事の献立の明細が詳しく書かれている。自殺しようとした顛末が克明に記されている部分や、妹律への痛烈な批判や罵倒もあって、最晩年の子規のエッセンスが凝縮されて詰っている。
碧梧桐の回想によると、三十四年中月からの「墨汁一滴」は、終り頃には口述筆記となり、三十五年五月からの「病牀六尺」も大半は口述筆記で、自ら筆を執った例は稀であったが、「仰臥漫録」は「如何なる場合にも他人の筆を交へない、又た交へしめない、子規自筆で終始し(子規の回想」)したということで、それだけに子規の面目が生き生きと現われている。
興味深いのは毎日の食事の記載で、たとえば
朝 ヌク飯三ワン 佃煮 梅干 牛乳一合ココア入 菓子パン 塩センベイ
午 マグロノサシミ粥二ワン ナラ漬 胡桃煮付 大根モミ 梨一ツ
間食 餅果子一、二個 菓子パン 塩センベイ 渋茶 食過ノタメカ苦シ
晩 キスノ魚田二尾 フキナマス二椀 ナラ漬 サシミノ残り粥三碗 梨一ツ 葡萄一房 (九月二十一日)
子規の食事は概ねこのような献立であったが、その種類と量の多さには驚かされる。冷蔵庫や調理器具の普及していなかった時代に、このように多彩な献立を食卓へのせるための家人の心づかいには頭が下る。周囲の者が何かと珍しいものを届けてくれた記載もある。公表しない私記であったので、特には妹の律への不満や批判を執拗に記している。
律は理屈ヅメノ女也 同感同情ノ無キ木石ノ如キ女也 義務的ニ病人ヲ介抱スルコトハスレトモ同情的ニ病人ヲ慰ムルコトナシ 病人ノ命ズルコトハ何ニテモスレトモ婉曲ニ諷シタルコトナドハ少シモ分ラズ(略)直接ニ命令スレバ彼ハ決シテコノ命令ニ違背スルコトナカルベシ ソノ理屈ッポイコト言語同断ナリ(略)時々同情トイフコトヲ説イテ聞カスレトモ同情ノ無イ者ニ同情ノ分ル筈モナケレバ何ノ役ニモ立タズ 不愉快ナレトモアキラメルヨリ外ニ致方モナキコト也(九月二十日)
非常にきびしい批判であるが、子規はまだ言い足らないのか、翌二十一日にも
律は強情也 人間ニ向ツテ冷淡也 特ニ男ニ向ツテシャイ也 彼ハ到底配偶者トシテ世ニ立ツ能ハザルナリ シカモソノ事ガ原因トナリテ彼ハ終ニ兄ノ看病人トナリ了レリ
と、妹を批判する。しかし、「若シ余ガ病後彼ナカリセバ余ハ今頃如何ニシテアルベキカ」と考えてみたとき、「律ガ為スダケノ事ヲ為シ得ル看護婦アルベキニ非ズ〕と気づき、看護婦であると同時に「オ三ドン」であり、一家の整理役であり、同時に秘書の役もつとめる妹が、素食に甘んじ、何の報酬も求めないことを認識し、「若シ彼病マンカ彼モ余モ一家モニツチモサツチモ行力ヌコトナル也」と思い至る。しかるに、俳句数句を記した後にまたもや怒りがこみあげて来たらしく、同じ日にまた
彼ハ癇癪持ナリ強情ナリ気ガ利カヌナリ 人ニ物問フコトガ嫌ヒナリ指サキノ仕事ハ極メテ不器用ナリ 一度キマッタ事ヲ改良スルコトガ出来ヌナリ 彼ノ欠点ハ枚挙ニ遑アラズ 余ハ時トシテ彼ヲ殺サント思フ程ニ腹立ツコトアリ
と記す。二度も不縁となって家に戻ったのち、兄の看病に尽した律の生活を思えば、子規のこの執拗な悪口は理不尽というほかない。粟津則雄氏はこのことを、「妹をこのように罵倒することで、この世との結びつきを確かめ得たとも言いうる」(「正岡子規」)と見ておられるが、子規は持ってゆきようのない腹立たしさ、いらだたしさのはけ口を、最も身近な存在であった妹に向けたのであろう。
「仰臥漫録」の一部をたまたま読んだ虚子が、「ホトトギス」の「消息」に「『墨汁一滴』の更に短きが如きものにて甚だ面白く覚え候。行く行くは本誌に掲載の栄を得べく候」と書いて、子規に「仰臥漫録はすこしも情をためず何もかもしるしつつあるなり。
ホトトギス誌上に公にするなどといはれては今後は筆渋りて書くこと出来ず」と叱責された。
子規は自分の中に溜めこまないで、書くことによって発散させた。書くことで、生きていることを確認した。書くことで、病苦を一時でも忘れようとした。病苦からの開放感を得ようとした。
「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
中川みえ
一四 古白曰来
此頃ノ容体及ビ毎日ノ例
病気ハ表面ニサシタル変動ハナイガ次第ニ体ガ衰へテ行クコトハ争ハレヌ。膿ノ出ル口ハ次第ニフエル、寝返ハ次第ニムツカシクナル、衰弱ノタメ何モスルノガイヤデ只ボンヤリト.寝テ居ルヤウナコトガ多イ。腸骨ノ側ニ新ニ膿ノ口ガ出来テソノ近辺ガ痛ム、コレガ寝返りヲ困難ニスル大原因ニナツテ居ル。右へ向クモ左へ向クモ仰向ニナルモイヅレニシテモコノ痛所ヲ刺激スル、咳ヲシテモココニヒビキ泣イテモココニヒビク。包帯ハ毎日一度取換へル。コレハ律ノ役ナリ。(略)僅ニ綿ヲ以テ拭クスラ猶疼痛ヲ感ズル。(略)余ニ取ッテモ律ニ取ッテモ毎日ノ一大難事デアル。(略) 歯茎カラ出ル膿ハ右ノ方モ左ノ方モ少シモ衰へヌ。(略) 物ヲ見テ時々目ガチカチカスルヤウニ痛ム(略)新聞ナドヲ見ルト直ニ痛ンデ来テ目ヲアケテ居ラレヌヤウニナツタ。(略)(略)小便ニハ黄色ノ交り物アルコト多シ。 食事ハ相変ラズ唯一ノ薬デアルガモウ思フヤウニハ食ハレヌ。食フトスグ腸胃ガ変ナ運勅ヲ起シテ少シハ痛ム。食フタ物ハ少シモ消化セズニ肛門へ出ル。(十月二十六日)
「仰臥漫録」に記されている子規の病状は、このようなありさまであった。体の腐敗した部分が真黒になり、膿の出る穴が幾つもあき、腐敗した部分の皮がガーゼに付着して、包帯を取替えるのは「毎日の一大難事」であった。取替えの痛みに号泣することも多くあった。「捨テハテタカラダドーナラウトモ構ハヌ」というものの、体が腐って穴があいてゆく吾身を想うと、やはり気がかりで、楽しみの食事も味気なく、涙ぐんだ。「体ヲドチラへ向ケテモ痛クテタマラズ」(十月二日)という記載もある。十月九日には医師の診断を受け、「病勢思ヒノ外ニ進ミ居ルラシ。」と記す。
こうした体の痛みと共に、精神の激昂が見られるようになり、「逆上ヤヤ強シ」「逆上益ハゲシ」「精神激昂」などの記載が「仰臥漫録」にあらわれるようになった。
五日ハ衰弱ヲ覚エシガ午後フト精神激昂夜ニ入りテ俄ニ烈シク乱叫乱罵スル程ニ頭イヨイヨ苦シク狂セントシテ狂スル能ハズ独りモガキテ益苦ム 遂ニ陸翁ニ来テモライシニ精神ヤヤ静マル(十月五日)
十月十三日には、激昂が殊に激しかった。「サァタマランタマラン」「ドウシヤウドウシヤウ」と苦しみ煩悶し、遂に母に頼んで四方太に宛てて「キテクレネギシ」と電報を打ちに行ってもらった。
サア静カニナツタ コノ家ニハ余一人トナツタノデァル 余ハ左向ニ寝タママ前ノ硯箱ヲ見ルト四、五本ノ禿筆一本ノ験温器ノ外ニ二寸許リノ鈍イ小刀ト二寸許リノ千枚通シノ錐トハシカモ筆ノ上ニアラハレテ居ル サナクトモ時々起ラウトスル自殺熱ハムラムラト起ッテ来タ 実ハ電信文ヲ書クトキニハヤチラトシテヰタノダ併シコノ鈍刀ヤ錐デハマサカニ死ネヌ 次ノ間へ行ケバ剃刀ガアルコトハ分ッテ居ル ソノ剃刀サヘアレバ咽喉ヲ掻ク位ハワケハナイガ悲シイコトニ今ハ匍匐フコトモ出来ヌ 巳ムナクンバコノ小刀デモノド笛ヲ切断出来ヌコトハアルマイ 錐デ心臓ニ穴ヲアケテモ死ヌルニ違ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカラ穴ヲ三ツカ四ツカアケタラ直ニ死ヌルデアラウカト色々ニ考へテ見ルガ実ハ恐ロシサガ勝ツノデソレト決心スルコトモ出来ヌ 死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦ガ恐ロシイノダ 病苦デサへ堪へキレヌニコノ上死ニソコナフテハト思フノガ恐ロシイソレバカリデナイ失張刃物ヲ見ルト底ノ方カラ恐ロシサガ湧イテ出ルヤウナ心持モスル 今日モコノ小刀ヲ見タトキニムラムラトシテ恐ロシクナツタカラジット見テヰルトトモカクモコノ小刀ヲ手ニ持ツテ見ヨウト迄思フタ ヨッポト手デ取ラウトシタガイヤイヤココダト思フテジットコラエタ心ノ中ハ取ラウト取ルマイトの二ツガ戦ツテ居ル 考ヘテ居ル内ニシャクリアゲテ泣キ出シタ ソノ内母ハ帰ツテ来ラレタ 大変早カッタノハ車屋迄往カレタキリナノデアラウ(十月十三日)
この自殺の誘惑の顛末を記した文の末尾には、「古白曰来」の四文字と小刀と錐の絵が添えてあった。
錐は「俳句分類」のとじ穴をあけるために子規の手元にいつも置いてあったものである。
「古白曰来」の古白は子規の徒弟で、その衝撃的な自殺の顛末は以前この稿に記したが、従軍直前にその報に接した子規の対応は少なからず冷淡であった。古白の死をしみじみと感じるようになったのは、帰国後の大喀血によって自らが死に直面してからのことである。それ以来子規は、死が現実味を持って近づくに従って、古白のことを語るようになった。
十一月六日にロンドン滞在中の夏目漱石に出した手紙に、子規は「僕ハモーダメニナッテシマッタ 毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ」「錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ」「僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思フ」と記し、「僕ノ日記ニハ『古白曰来』ノ四字ガ特書シテアル処ガアル」と告げるのであった。
正岡子規の新派俳壇結成史(九十二)
「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
中川みえ
一五 病状悪化--看護番
明治三十五年の年頭は比較的無事であったが、一月十九日に至り不安な容態になって来た。痛みが特に烈しいというのではないが、どことなく苦痛を感じ、ほとんど危篤状態となる。知人友人や弟子が相ついでかけつけ、夜は必ず誰かが泊って警戒することになった。
明治三十五年一月十九日 日曜 午後大風 午後三時頃碧梧桐から電話で、子規君の容態が悪い、柳医も来て、衰弱が強い、注意しろ、との事だから、今夜か明朝来いとのこと、直ぐ来る。(略)今度の苦痛といふのは、痛みが烈しいのよりも唯何処となく苦しいのぢやさうな、衰弱の為めであらう。(略)
一月二十日 月曜 晴天
昨夜はよく眠られたる由也。(略)子規君本日の容態、昨日よりは宜しきやうなれど、尚苦しげにて、疲労甚しき様也。(略)
一月二十一日 火曜 晴天
昨夜は碧梧桐夫婦にて泊りし由、夜十二時過ぎより種々談話などあり、寝ねたるは二時頃なりしと、今朝夜明け頃苦しまれし由にて、例の粉薬(モヒ?)を頓服ありしとの事也。(略)
一月二十二日 水曜日 雪後雨
子規君の眠り覚めたるは午前七時頃か。昨夜十時頃より続け様に眠むられたる也。(略)本日の容体も非常に力なげに、時々ウン唸られ、又ウトウトせらる、枕頭にありても談話もはかばかしく出来ず。
以上思ひ出せし荒筋丈けを記す
二十二日 午後 虚子記
二十三日には気分がよくなって小康を得たが、これ以来子規も周辺の人々も再発を危惧する不安の念が片時も去らなくなった。そこで、三月末に友人門下が多数集まり、看護番を常設することが話し合われた。和歌の門人から、伊藤左千夫 香取秀真 森田義郎 の三名、俳句の方から、河東碧梧桐 高浜虚子 寒川鼠骨 の三名、がこの任にあたることを決した。
これが却々の大役で、枕元で紙をもしやくっても、少し大股に歩いても、頭にひゞくといふのだから、余り大きな声も出されず、勝手な口はきけず、それに始終病人の様子や気の向き方を注意してゐなければならず、看病人と立会人を兼ねたやうな、さうして、病人がまァ此分なら眠れさうだ、と落着いて枕を引きよせるまで、立つことも帰ることも出来ない、こっちは半に監禁でもされたやうな、気苦労な骨の折れるお伽だつた。(河東碧梧桐「子規の回想」)
番に当ったものはその日の内に何時行っても差支はないのだが、午前から行く者は稀で、多くは午後一時乃至三時頃までに病床に侍し得るやうに出かけたものだ。(略)六日目に一度来るのではあるし、非番の日でも気がかりになる時はお伺ひするのであるから、さう新しく変った話が沢山ある筈がない。(略)それゆゑ非番の日には次の当番の日にお話する種を探り歩くのであった。(略)折角に仕入れて来た話が無くなって、黙然として相対する時が梢々長くなる時など、誰か来客でもあればよいのに、さうすれば又まぎれることもあるのにと思ふことも屡々であった。併し、さうした思ひをする時には、穴憎くや誰れも来ないことが多かった。そんな場合は何んでも構はず、話材を見出すことに腐心した。(略)庭先や上野の森に見えるもの、聞えるものなどを取り立てて話をする。豆腐屋の売声まで真似して見せたりもする。(略ぼこちらは唯もう居士の気分を転換し、まぎらせれぱ良いとしてゐるのであったが、それが又思ひの外に、居士の御気に入って笑ひ出されるやうな場合も少くなかった。(寒川鼠骨「看護番と子規庵の庭」)
碧梧桐の回想によると、話の冒頭は先ず前日の病状報告で、病人自らゆっくり静かに話す。その後でお伽人が話題を提供する。話材は子規に縁故のある世間話が主で、根岸界隈の風聞、「日本」社員の消息、芝居話、寄席話、市区改正状況、故郷松山の古今雑談、政界文界業界有名人士の逸話、流行物など、肩の凝らない、どこかユーモアのある話を心がけた。そのため「これは話の種になると言った話材を、平生からストックしておかなければ、お伽の役日に欠ける思ひで、写生文でも書きに往ったやうに、よく話材を求めて歩きもした」が「けふは五つも六つもいい話材がある、少くも二時間や三時間は、これで持ちこたへる」と勇んで出掛けたものの、呆気なく話が尽きてしまうこともしばしばあった。
子規の方でも愉快に楽しく過こそうと、看護番の者の来る前に用便を済ませモルヒネを服用して準備したが、身体の痛み、寝具合の如何、モルヒネの効き按排、持ち越しの疲労、胃腸の加減などで体調の悪い日は、唸る、泣く、わめく、うわ言を言うなど「惨憺たる阿鼻叫喚の地獄の責苦を現出する。」(「子規の回想」)ことがあり、そんな時は看護番の者も「五臓六腑のちぎれる思ひで辛棒してゐねぱならない」(同)ので、「お伽を始めた時分から、大分食慾も減じ」(同)たほど大変な役目であったが、「慰め、まぎらせることによって、少しでも居士の生命を延長させたい」(「看護番と子規庵の庭」)との思いが強く、その役割をよろこんで果した。
正岡子規の新派俳壇結成史(九十三)
「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
中川みえ
十六 「病床苦言」
此頃は痛さで身動きも出来ず煩悶の余り精神も常に緩やかならんので、毎日二三服の麻痺剤を飲んで、それでやうやう暫時の麻痺的愉決を取って居るやうな次第である。(略)それでもだまって居るのは尚更苦しくて日の暮しやうがないので、けふは少ししゃべって見やうと思ひついた。(「病床苦言」)
「病床苦言」は、毎日二三服の麻痺剤を服用して暫時の麻痺的愉決の間に、心に浮ぶところを述べた口述筆記で、三十五年四月及び五月の「ホトトギス」に掲載された。「例の秩序なしであるから、その積りで読んで貰ひたい。」と断ってあるが、病床に於ける出来事と、子規の内面の問題が、比較的長い文章で語られている。先ずはじめに、肉体の苦痛から死を論ずる。
二六時中少しの間断もない激痛に、客の前を憚ることも我慢出来なくなり、痛い時には、「泣く、喚く、怒る、うわ言をいふ、人を怒りつける、大声あげてあんあんと泣く」など最早遠慮なくしたい放題をすると、「野心、気取り、虚飾、空威張、凡そ是等のものは色気と共に地を払って仕舞つ」た。そうすると、「今迄悟りと思ふて居たことが、悟りでなかった」ことに気付き、自分は「余りの苦みに天地も忘れ人間も忘れ野心も色気も忘れて仕舞ふて、もとの生れたままの裸体にかへりかけ」た。
また、病気に関連して、他人の多くが死の問題を誤解しているように見受けられるが、「今日の我輩は死を恐れて煩悶して居るのでない。」「寧ろ苦痛の甚しい為めに早く死ねばよいと思う方が多くなって来た。」と自らの心境を述べながらも
併しかくいへばとて自分は全く死を恐れなくなったといふわけではない。少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思ふけれど、その苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覚悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し余計つゞいた時に、不図死といふことを思ひ出すと、常人と同じやうに厭な心特になる。人間は実に現金なものであるといふことを今更に知ることが出来る。
と率直に心中をうちあけている。
「病床苦言」は、次に、庭に据えた大鳥籠の歴史を述べ、妹や母が碧梧桐にさそわれて土筆取りや花見に出かけて喜こんだことを記し、「彼らの楽しみは則ち予の楽しみである」と次の句を掲げた。
家を出てて土筆摘むのも何年目
病床を三里離れて土筆取
たらちねの花見の留守や時計見る
最後に、碧梧桐や虚子と俳句について語りあったことに関連して、次のように述べる。
つくづくと考へて見るに吾々の俳句の標準は年月を経るに従って愈一致する点もあるが、又愈遠かって行く点もある。寧ろ其一致して行く処は今日迄に略一致してしまふて、今日以後はだんだんに遠かって行く方の傾向が多いのではあるまいかと思はれる。(略)或点まで一致した後は他人の真似をするといふ事よりも自己の特色を発揮するといふ事が主になって従て其句風が違って来るに違ひない。(略)芭蕉の弟子に芭蕉のやうな人が無く、其角の弟子に其角の様な人が出ない許りで無く、殆ど凡ての俳人は殆ど皆独り独りに違って居る。其が必然であるのみならず、其違って居る処が今日の吾々から見ても面白いと思ふのである。
子規はおのおのが賦性のままに自由に自らの芽を伸ばし、自己の特性を発揮することを望んで、進むべき俳句の方向を示した。
又、前々号に掲載した「俳諧評判記」が、匿名であったこともあって、「徒らに人を罵言した様に聞こえ」「仲間同志の悪口をいふた」ようで弊害があるようなので、自分一個の意見を断った上で、数名の俳人について次のような評価をした。
碧梧桐の句はいつも幾らかづつ変化してをる。これは碧梧桐の碧梧桐たる所以で感心する外はないが、(略)其弊害はいつも常理に欠げる事が多い処に在る様に見える。(略)今少し理屈的に研究して貰はたいと思ふ。
虚子の句は(略)或鋳型の中に一定したといふ事は無い為に善いと思ふ事もあり悪いと思ふ事もあり、老成だと思ふ事もあり初心だと思ふ事もあり、しっかりとつかまへる事が出来んから、更に他日を待って評論するであろう。
露月の句は(略)真面目な雅致のある方の句はわかって居るが微細な点に意を注いだ句の味は少しわかり兼るやうである。(略)今少し進歩的研究的の精神が必要である。 青々の句はしっかりして居って或点で縦横自在であるが、(略)露月とは趣を異にしてゐるけれど矢張微細なる趣向に於ける趣味を充分に会得しないやうに思はれる。
格堂の句は旨い事は実に旨いものであるが、其句法が一本筋であるだけに幾らか変化に乏しい処がある。
此外鳴雪、四方太、紅緑、等諸氏の句に就ては近来見る処が少ないのでわざと評を省いて置く。
子規は最後まで門人達の俳句に目を配った。「病床苦言」は、最晩年の子規の俳句観が窺え、興味深い。
正岡子規の新派俳壇結成史(九十四)
「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
中川みえ
一七 「獺祭書屋俳句帖抄」上巻 @
明治三十五年四月十日、俳書堂より「獺祭書屋俳句帖抄」上巻が上梓された。明治二十五年から二十九年に至る五年間の子規の俳句の中から七百四十四句を自選によって抽出し、年代順に配列した句集である。この年の九月に子規が没したので、下巻は出なかった。わずか九十四頁の句集であるが、子規の唯一の自選句集である。
刊行に先だって、一月中に、「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻を出版するにつきて思ひつきたる所をいふ」という長文の序文を口述し、虚子、格堂、鼠骨に筆記させて、二月の「ホトトギス」に掲載した。
俳句のやり始めの少しく趣味がわかったといふやうな時代には向ふ意気が強いのでおのづと自分の句集を出版して見たいといふやうな考へは勃々として起って来る。(略)一年一年と立つ内にだんだん自分の考が発達するやうに思ふと同時に前に大得意であった句が皆つまらない句のやうに思はれて来る。(略)だんだんに自分の考が変って見れば前年の作などは到底自分にも信用出来ん事になる。よし今日の標準で厳格に句を選んで見たところで来年になって其を見たらばどんな厭やな感じがするかも知れん。さう思ふと白分の句集を自分が選んで出すなどといふ事は到底出来る事でない。(略)ところが此の頃になってふいと自分の句を選んで見たいといふ考が起って来た。其はどういふわけであるか自分にもわからぬけれど、自分の病気はだんだん募る、身体の衰弱と共に精神の衰弱も増して来て去年以来は俳句を作ることも全く絶えてしまうてをる。そんなことからさきに少しも望みのない身の上となって従て自分の俳句はこれ迄で既にに結了してをるやうな考から、それならば昔の苦吟の形見を一冊に纏めて見たらばどんなものになるであらうか、といふやうな考へが出て来て句集でも拵えて見たいといふこと になったのかも知れない。
句集出版の動機をこのように述べ、自らの俳句開眼の経緯を振り返る。
自分が俳句を始めたのはいつからといふ事もない。又誰れに習ったといふ事もない。(略)何とはなしに十七字を連ねて見たのは明治十八年の事であったらう。(略)十句許り書き並べてをったのを或人が見て、是非宗匠に見て貰へといふて自分に紹介して呉れたのは其戎といふ宗匠であった。(略)其宗匠は自分が逢ふて後あまり久しからず此世を去ってしまうた。終に此宋匠に糸口をあげて貰ふと迄も行かなかった(略)
自分が俳句に熱心になった事の始りは趣味の上からよりも寧ろ理屈の上から来た原因が多く影響してをる。其は俳句分類といふ書物を編纂せうと思ひついた為に非常に熱心になり始めた。而して此理屈的研究は他の一方に於て俳句の趣味を自分に伝へるやうになったのである。(略)
俳句分類の研究が(略)佳境に入り始め、はじめて「猿蓑」を繙いた時には一句々々皆面白いやうに思はれて嬉しくてたまらなかった。(略)これが自分が俳句に於ける進歩の第一歩であった。少し眼が開いたやうに思ふ(略)其が明治二十四年暮の事で此句抄も二十五年から始める事とした。
そこで、二十五年から二十九年の自らの俳句の変化を回想して、次のように述べた。
明治二十五年の始には、「何やら俳句を呑み込んだやうな心持がして」無暗に句を作ったが、「見るに足るべき句は殆どない。」しかし、「俳句の寂といふ事を知ったやうに」思い、「天然の景色を詠み込む事がやや自在になった。」
明治二十六年は、「前年に実景を俳句にする味を悟った以来ここに至って濫作の極に達したやうである。実景ならば何でも句になると思ったのは間違ひであった」と言う。行脚と多作が修業にはなったが「進歩しなかった。」
明治二十七年には、元禄調から天明調へ趣味が移り、蕪村調の理解は十分ではなかったが、艶麗、雄健、強い句調を好むようになった。「小日本」の廃刊で暇が出来たので、手帳と鉛筆を携えて毎日のように根岸郊外を散歩し、得るに随て俳句を書きつけ「写生の妙」を体得した。
明治二十八年は、「自分の一身に取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍ら、(略)俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ」と、従軍、大喀血の年を振り返る。
明治二十九年は、足が立たなくなり、歩行困難で病床に就くようになった。俳句を研究する機会は多くなり、「蕪村の新花摘の句をいたく感心したのは此年の一小出来事である。」「蕪村調の俳句の味が始めてわかったやうな心特がした。」と回想する。
この子規の序文を見て、「徹頭徹尾自己否定に終始してゐる。」「子規かこれ位弱音?を吐いた前例かない」と感じた碧梧桐は、子規の枕頭で「随分思ひ切って謙遜しておいでるな」と話しかけた。子規は、自分の句がくだらないと言っても、まさかこんなぢゃなかった筈なんだか、実にひどいことになったものぢゃ、と今度本統に愛想がつきたんだが…(「子規の回想」)
と言い、「あの序文を本統に解釈して、自分の気持を正直に享け容れて貰ひたいのだ」と答えたのであった。
正岡子規の新派俳壇結成史(九十五)
「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
中川みえ
一八 「獺祭書屋俳句帖抄」上巻 A
子規の俳句稿は,「寒山落木」巻一,巻二,巻三,巻四((明治十八年…十九年)と,「俳句稿」巻一,巻二(明治三十年…三十五年)がある。非常に多数の句を所収する「寒山落木」の中から,最晩年の子規が自ら選抜した七百四十四句を以て出版されたのが「獺祭書屋俳句帖抄」上巻である。
俳句を選ぶ事の難さ,殊に自分の俳句を選ぶ事の難きは今更いふ迄もない。(略)自分のやうな生来不器用なものが病気其他のみに今迄に十分の研究を遂げる事が出来なかったのであるから,其句の拙いのはいふ迄もなく,其選抜の標準なども甚だ覚束ないものである。(略)唯自分が見て選び度いと思ふのを選ぶだけの事だ。(略)それでもまだ自分の句集を選んで見るだけの色気が残って居るのが不思議な位である。(「獺祭書屋俳句帖抄」上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ))
長文の序文の後に子規の俳句が年代順に,新年(二十九年は無し),春,夏,秋,冬に分類して掲載されているが,各年のはじめに,その年の出来事の概略を添えている。掲載句は次のようなものである。
明治二十五年
若鮎の二手になりて上りけり
樵夫二人だまって霧を現はるる
汽車道の一筋長し冬木立
冬枯や蛸ぶら下る煮売茶店
明治二十六年
玉川や小鮎たばしる晒し布
すずしさや島かたふきて松一 つ
栴檀の実ばかりになる寒さかな
薪をわるいもうと一人冬籠
明治二十七年
山道や人去て雉あらはるる
梅を見て野を見て行きぬ草加迄
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり
鳥啼いて赤き木の実をこぼしけり
ぽっかりと日のあたりけり霜の塔
明治二十八年
朝寒やたのもと響く内玄関
行く我にとゞまる汝に秋二つ
秋風や生きてあひ見る汝と我
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
汽車道の一段高き冬田かな
明治二十九年
くくりあげて片そよぎする薄かな
しぐるるや蒟蒻冷えて臍の上
小夜時雨上野を虚子の来つつあらん
いくたびも雪の深さを尋ねけり
筆者は以前に「俳句研究」の依頼により「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻について」(昭和四十一年十一月号)という文を執筆したが,その折に唯一の自選句集であることに注目して,虚子選の「子規句集」(岩波文庫)と子規自選の「帖抄」の掲載句の比較を試みた。
(自選) (虚子選) (共 通)
二十五年 五二 一一八 二二
二十六年 七二 四八四 三三
二十七年 一〇一 二七四 三四
二十八年 二〇五 六八一 一〇七
二十九年 三一四 二六八 九三
(計) 七四四 一八二五 二八九
自選……「獺祭書屋俳句帖抄」上巻
虚子選 …「子規句集」(岩波文庫)
両者はたとえば,二十七年の「冬籠」の句では
(自 選) 一村は留守のやうなり冬籠
(虚子選) 一村は冬ごもりたるけしきかな
二十八年の「柳」では
(自 選) 大門や柳かぶって灯をともす
(虚子選) 大門につきあたりたる柳かな
を,それぞれ他を排して採録している。そこに選者の俳句観が現われ,自選の意味があると思われる。
余談ながら,下巻が刊行されたならば,そこに「鶏頭の十四五本もありぬべし」を,子規は採録したであろうか,多分採ったと思う,が,虚子はこれを採らなかった。他の句についてもいろいろと想像がふくらむのである。
子規は作品を精選する作業を通して,自らの俳句活動を総括した。
「春夏秋冬」と「獺祭書屋俳句帖抄」とは,子規が俳句に残した最後の二事業であったことを否めない。(略)しかも其の二事業が,共に未完成に了ってゐることは,偶然のやうでもあり'また皮肉な暗示のやうでもある。(「子規の回想」)
と碧梧桐は回想する。
「獺祭書屋俳句帖抄」は,未完に終ったものの「子規の新しい俳句連動が興ってから一番最初に刊行された個人句集」(池上浩山人「忘られぬ句集」)であった。
序文で自らの体験を通して明治俳壇の変遷を述べ,実作で明治俳句の実態を提示した本書は,近代俳句の資料としても注目されるものである。