2006.12~

子規の俳句

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

109に続く)

 

(九一)  (九二)  (九三)  (九四)  (九五)

(九六) 2008.3.17

 

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子規の俳句(九一)

松本みえ

   室外(病牀口吟)二句

○ 隣住む貧士に餅を分ちけり(憶鼠骨)

烏帽子著よふいご祭のあるじ振(憶秀真)

 

明治三十五年作。

 子規の門人寒川鼠骨、香取秀真を詠んだ句である。

 鼠骨寒川陽光は、子規と同郷の松山に生れ、碧梧桐や虚子との交流から子規に師事し、陸褐南や子規のはからいで「日本」「日本及日本人」の記者をつとめた。

 子規の病状が悪化して傍に誰かゞ侍することになった時、「鼠骨の酒脱な話述は、子規を喜ばせて、お伽第一人の称を得た。」(河東碧梧桐「子規の回想」)という。

  余ノ内へ来ル人ニテ病人の介抱ハ鼠骨一番上手也

 鼠骨ト話シ居レバ不快のトキモ遂ニウカサレテ一ツ笑

 フヤウニナルコト常也 彼ハ話上手ニテ談緒多キ上ニ

 調子ノ上ニ一種ノ滑稽アレバツマラヌコトモ面白ク聞

 カサルルコト多シ

(「仰臥漫録」十月十日)

と子規自身も記している。鼠骨は掲出の句について

  私はまさに貧士であった。ただ独り上野の空寺を借

 り住んでゐたのであった。その空寺の縁側から子規居

 士の居間が見られた。子規居士も私の住む寺の老松を

 寝ながらに眺められた。()山と麓とに分れてゐる

 けれども、隣に居るのも同じ気持がして心丈夫だなど

 と居士は言って居られた。「隣り住む」の句は、さう

 した気持から出来た句である。

(「子規居士の追憶」)

と記している。そういう間柄であるから、この句は「貧士」という語を用いながらもあたたか味が感じられる。

 鼠骨は、新年になるとどこよりも一番先に、子規庵へ行くのを恒例としていた。雑煮も食べずに年始の挨拶に来た鼠骨のために、子規の母は正月の膳をととのえてくれるのであった。

 秀真香取秀治郎は、千葉生れの鋳金家で、子規の和歌の方の門人である。子規塑像の作者として知られている。

 

○ 紅梅の落花をつまむ畳かな

 

明治三十五年作。

 「盆栽紅梅六句」の中の一句。

畳に散り落ちた盆栽の紅梅の花びらを、ふとつまんでみた感触が、この句のポイントである。白梅と比較するとやや艶なる風情のある紅梅の落花が、畳の上にあるのをふとつまんでみた時の微妙な感触を、病臥の日々のとき澄まされた感覚で捉えた一句である。他の五句は、

  紅梅の鉢や寝て見る置処

  火を焚かぬ暖炉の下や梅の鉢

  紅梅や平安朝の女たち

  紅梅に中日過し彼岸かな

  紅梅の散りぬ淋しい枕元

前年の十月末で中断していた「仰臥漫録」を再び書き始めた三月十日に

  午後四時過 左千夫蕨真二人来ル 左千夫紅梅ノ盆

 栽ヲクレ

という記載がある。紅梅の下に土筆などを植えた盆栽であったらしい。

同じ題材を和歌に詠んだものが、三月二十六日の「日本」に掲載されている。比べてみると興味深い。

  紅梅の下に土筆など植ゑたる盆栽一つ左千夫

  の贈り来しをながめて朝な夕なに作れりし歌

  の中に

 くれなゐの歌散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

 つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘にせよ

 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく

 春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの梅も花咲く

 枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏し居り

 

○ 鬚剃ルヤ上野ノ鐘ノ霞ム日ニ

 

明治三十五年作。

病床が安定して気分のいい長閑な春の日に、霞むように響いてくる上野の鐘の音を聞きながら、自分は幾日ぶりかで鬚を剃っている、という句である。

健康な人にとっては、日常いつも行っている鬚を剃るという行為も、長く病床に就いている子規にとっては、特筆すべきことがらであった。その思いが、上五の「鬚剃ルヤ」という特別なことを行うような表現として表出されたのだと思われるが、おおげさに言いたてたことによって、自然なユーモアが生れている。

 「鐘霞む」とは古くから立てられた季題であり、

()その月並な季題に対して、子規は無造作に「鬚

剃ルヤ」と置いたのである。そこにこの句独特のユー

モアが生まれたのである。

(「現代俳句」)

と山本憲吉氏は言われる。

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子規の俳句(九二)

 

○ 家を出でて土筆摘むのも何年目

  病牀を三里離れて土筆取

  たらちねの花見の留守や時計見る

 

明治三十五年作。

 河東碧梧桐の「子規の回想」によると、前年の春に、碧梧桐夫婦(碧梧桐の妻繁枝子は、青木月斗先生の妹である)が目黒を散策した折に見つけたほんの少しばかりの土筆を、お国風の煮方をして子規に届けたところ、子規は非常に喜んだ。そこで翌年のこの春に、子規の妹の律を土筆摘みにさそった。碧梧桐は、看病する人のストレスを考慮したのである。

  病人の苦痛は、見るに見かねたところで、どうにも

 手の下しやうがない。其の苦しい病人と、或点まで歩

 調を合せて行かなければならない、健康な看病人の身

 にもなって考へなければ、追ひ追ひには病人と共倒れ

 といふことになってしまふ。今お律さんの身体に故障

 が起ったのでは、それこそ萬事休すだ。そこで思ひつ

 いたのが、赤羽の土筆取りなのだ。

(河東碧梧桐「子規の回想」)

 碧梧桐夫妻があらかじめ土筆の沢山ある所を見つけた上で律をさそったので、この日は短時間に驚くほどの収穫があった。

 気分転換と大量の土筆の採取に、律は大喜びした。そんな妹を見て、子規も嬉しくなり、「病牀苦語」に、

  大きな風呂敷に溢れる程の土筆は、吾が目の前に出

 し広げられた。彼はその土筆の袴をむきながら頻りに

 ひとりで何事かしやべつて居る。()何となく愉快

 さうな調子で居る彼を見ると、平生の不愛橋には似も

 つかぬ如何にも嬉しさうに見えるので、それを病床か

 ら見て居る余は更に嬉しく感じた。

   家を出でて土筆摘むのも何年目

   病牀を三里離れて土筆取

と記したのである。

土筆摘みが好評であったので、碧梧桐は次に、子規の母を向島の花見にさそってくれた。

  花盛りの休日、向島の雑閙は思ひやられるので、母

 の上は考へて見ると心配にならんでもなかったが、夕

 刻には恙なく帰られたので、余は嬉しくて堪らなかっ

 た。

  たらちねの花見の留守や時計見る

  内の者の遊山も三年越しに出来たので.余に取って

 も病苦の中のせめてもの慰みであった。彼らの楽みは

 即ち余の楽みである。(「病牀苦語」)

と、このことも「病床苦語」に記している。句にも文章にも、久し振りにささやかな遊山に出かけた妹や母と共に喜ぶ気持が溢れている。

 

  自題

○ 土一塊牡丹いけたる其下に

 

 明治三十五年作。

 「病牀六尺」五月十八日記載の句。

 「病牀六尺」は、この年の五月五日から九月十七日まで、子規の最晩年に「日本」へ掲載された随筆である。

  病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の

 病牀が余には広過ぎるのである。

と書き始めたのであるが、スタート早々の五月七日の朝から、子規はそれ迄に例のない苦痛に襲われた。八日には少しよくなったが、十三日に「未曽有の大苦病」(「病牀六尺」)となり、「心臓の鼓動が始まって呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず」(「同」)、十四日は比較的無事であったが、前日の反動で非常に弱り、一日中眠って過した。十五日の朝には、体温が三十四度七分から上らなくなり「それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず」(「同」)という状蓬におちいった。自分でも最早あきらめて、その時牡丹の花生けの傍に置いてあった、前年秋に香取秀真が造った石膏像を手にとって、その裏にこの句を記した。「若しこの儘に眠ったらこれが絶筆であるといはぬ許りの振舞」(「同」)であった。

 短歌の門人の香取秀真が、一塊の土をこねて作ってくれた自分の像が、牡丹を活けた花瓶の傍に置かれている。艶麗豪華な牡丹の前に置かれた一塊の土、それが、死が迫っている今の自分の姿であろうか。人は死ねば土に還る。長い間病の床に在って動けない自分は、既にこの土塊と同じなのだ、と詠んだのである。

 この日は根岸の三嶋神社の祭礼日であった。午後から次第に苦痛のやわらいだ子規は、豆腐汁に木の芽和えの御馳走に葡萄酒を傾け、次のような句を作った。

  この祭いつも卯の花くだしにて

  鴬も老て根岸の祭かな

  修復成る神杉若葉藤の花

  引き出だす幣に牡丹の飾り花車

  筍に木の芽をあへて祝ひかな

  歯が抜けて筍堅く烏賊こはし

  不消化な料理を夏の祭かな

  氏祭これより根岸蚊の多き

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子規の俳句(九三)

 

        /ニ逢ヒケル朧哉

○ 背ノ高キ人彳メリ朧カナ

 

明治三十五年作。

 「仰臥漫録 二」の末尾の、俳句のみを記したところには、この句の右の傍に、「ニ逢ヒケル朧哉」と記している。

 「人彳メリ」は、背の高い人が佇んでいるという状景を詠んだ写生句であり、「人ニ逢ヒケル」は、背の高い人に逢ったという、自分を主にした主観的な句であるといえるであろう。

 

○ 薔薇を剪る鋏刀のおとや五月晴

 

明治三十五年作。

 六月二十一日の、水落露石宛の書簡に記されている句である。

 からりと晴れ上った五月晴の日に、どこからか鋏刀の音がきこえてくる。あの音は、折から開きはじめた薔薇の花を襲っている音であろう。その乾いた冴えた音は、五月晴のさわやかな青空と相挨って、何とも心地のよいものだ、という句。

 五月晴は、梅雨の最中の晴れ間をいう場合と、五月のからりと晴れ上った青空をいう場合があるが、この句は後者と解した方がふさわしいと思われる。

 

   小照自題

○ 蝸牛の頭もたげしにも似たり

   病中作          /飛ぶ

  活きた目をつつきに来るか蝿の声

 

明治三十五年作。

 七月十八日に、原千代女に求められて、自分の写真の裏へ記した句である。

 先ず前の句は、自分は長い間病床に在って体の動きの自由を失い、今では自分で動かせるのは、僅かに首だけになってしまった。こうして病臥の床で頭をもたげて、周囲の景色を眺めている姿は、角を振りながら頭をもたげる蝸牛に似ていることだなあ、という句。

  破調であって、かへつて面白くなった。意味として

 は一本に通ってゐるが、初五の「蝸牛の」.は、下へ接

 続すると同時に「蝸牛や」とでも言ふべき気味合を似

 て小休止する。すなはち俳句独特の、言葉が二重に重

なり合つたやうな表現であり、子規の自画像の上に蝸

牛のイメージが二重写しとなるのである。

 

 後の句は、蝿の羽音がする、自分の方へどんどん近づいてくる、病臥で身動きもままならない自分に迫ってくる。蝿は、自分の目を、まだ生きている自分の目をつつきに来るのであろうか、という句である。

  病臥する自分につきまとう蝿に対する不快感と、蝿

 を憎みながらもどうにもならない自己に対する自嘲の

 思いがこめられた句。

(松井利彦「正岡子規」)

 この二句を書いてもらった千代女は、子規に揮毫を依頼して、前年から短冊と写真を預けてあった。

 この日、「そっと押す表の黒門に鈴がなるのも、耳にたちはしまいかと気づかはれて」(原千代女「頂いた短冊とお写真」)と訪ねた千代女に、子規の母が「のぼさん、

先き立っておあづかりのを書いておあげたら」(「同」)と「口添えしてくれた。顔色をうかゞう千代女に、「はあ持ってお出で、書いてみよう」(「同」)と、子規は案外に心易く応じた。

  お母様は立って後の押入れあげて紙包のあまた短冊

 の中から、おぼえのしてある一包と、先生の半身横む

 きのお写真二枚とを手近うに置かれて、墨すって出さ

 れる。すり曲つて小さく小さくなつてゐる墨を、また

 御自身にすこしすって、写真を手に取りあげて、しば

 らくながめ、下へ置いて考へてゐなさるらしい。筆に

 墨ふくましてみてまたおいて、手もとの○○全集を御

 覧なさる。やがてして写真の裏へ、つゞいてあとの一

 枚へも、その御句は、

   活きた眼をつつきに来るか蝿の声

 も一ツは、

   蝸牛頭もたげしにも似たり

  自題病子規とある。筆は細い毛のかたいらしいので

 書かれるゆゑか、文字は骨ばかり、さも先生のおもか

 げのやうに。これは丁度蝿のうるさい頃。

        (原千代女「頂いた短冊とお写真」)

と、千代女はこの句の詠まれた経緯を回想している。

 「仰臥漫録 二」の、俳句のみを記したところには、この二句が並べて記されているが、「活きた眼を」の句の下五「蝿の声」の「声」の右脇に、「飛ぶ」と小さく書かれている。

 なお、これらの句を記した写真は、明治三十三年十二月二十四日に撮影したもので、横顔に口髭の一般に最も知れ渡っている写真である。この年の蕪村忌は、くり上げて二十三日に行われたが、この日は風が強かったので、子規は記念の撮影には加らなかった。そのため、翌日に一人で撮影してもらったものである。

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子規の俳句(九四)

 

○ 風板引け鉢植の花散る程に

 

明治三十五年作。

 「病牀六尺」(七月十九日)

  この頃の暑さにも堪へ兼て風を起す機械を欲しと言

 へば、碧梧桐の自ら作りて我が寝床の上に吊り呉れた

 る、仮に之を名づけて風板といふ。夏の季にもやなる

 べき。

  風板引け鉢植の花散る程に

という記述がある。

 夏になって、暑さをしのぐのに、余りお金がかからないで、人力も余り要さないですむ起風器はないだろうかということが話題になった。扇風機などまだ無い時代のことである。浅井黙語と親しい美術床屋に、天井に吊した起風器があり、弟子が紐を引くと、大きな団扇で煽ぐように風が来るという話が、皆の関心を集めた。

  横長い胴につけた、切れ地の垂れが揺れる仕掛なの

 だ。この構造を大体見覚えて来て、竹の骨組から、ヒ

 ダのはいった下の垂れまで、変テコな不恰好なもので

あったが、それをどうやら病室の天井にとりつけた。

輪車を通した紐を、お律さんが病人の足もとに坐って

引いたり緩めたりされる。団扇で煽がせるやうなもの

ぢやァないと、私の功名になつた。

(河東碧梧桐「子規の回想」)

 病側のお伽の延長のようなこの起風器に、子規は「風板」と名を付けて、夏の季語になるのではないかと、御気嫌であった。

 看護のものよ、この夏は碧梧桐手製りの起風器風板の紐を引いてくれ、枕元に置かれている鉢植の花が散るほどに……と、その好意をよろこんで詠んだのである。

 

          /魚ヲ取ラズナリヌ

○ 柳伐って翡翠終に来ずなりぬ

 

明治三十五年作。

柳の木が伐られてしまった。あの柳にとまって魚をねらっていた翡翠は、足場を失って来なくなってしまった、という句で、原句は「魚ヲ取ラズナリヌ」となっている。

七月二十一日の「病牀六尺」に、

  梅に鴬、竹に雀、などいふ様に、柳に翡翠といふ配

合も略画などには陳腐になる程書き古されて居る。

 ()それにも拘らず美しいといふ感じが強く感じられ

 て()柳に翡翠といふのを題にして戯れに俳句十百

 を拾ってみた。

と、次の十句を記している。

  翡翠の魚を覗ふ柳かな

  翡翠かくす柳の茂りかな

  翡翠の来る柳を愛すかな

  翡翠や池をめぐりて皆柳

  斐翠の来ぬ日柳の嵐かな

  翡翠も鷺も来て居る柳かな

  柳伐って翡翠終に来ずなりぬ

  翡翠の足場を選ぶ柳かな

  翡翠の去って柳の夕日かな

  翡翠の飛んでしまひし柳かな

前年の春、春水の鯉を題材に十句作った(本年四月号所載)ことにならったのである。両者を比較して、

 春水の鯉は身動きもならぬ程言葉が詰まって居たが、

 柳に翡翠の方は梢ゆとりがある。従って幾らか趣向の

 変化を許すのである。而してその結果はといふと翡翠

 の方が厭味の多いものが出来た様である。

と言い、このような作句方法は、一時の戯れに過ぎないが、句法の研究には最善の手段であり、「俳句を作る時に配合の材料を得ても句法の如何によって善い句にも悪い句にもなる」ことがわかつて面白い、と記している。

 子規は病床に臥すようになって、配合ということを頻りに考えるようになっていた。

 

○ 草花を畫く日課や秋に入る

 

明治三十五年作。

長い病臥の慰めに、枕元に置いた鉢植の草花の写生をするのが、この頃の日課となっている。もう秋に入ったのだなあと実感することである、という句である。

  このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何

 よりの楽みとなつて居る。

 (「病牀六尺」八月六日)

 子規は元来画が好きで、二、三年前に不折の使い古しの絵具を貰って、枕許の活花盆栽などの写生を楽しんでいたが、この年の六月下旬に、蘇山人から贈られた画帳

に青梅を描いたのを菓物帖の描き初めとし、八月一日からは、別な画帳に草花を描いて、これを草花帖とした。

  草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して

居ると、造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。

(「病牀六尺」八月七日)

  或絵具と或絵具とを合せて草花を画く、それでもま

だ思ふやうな色が出ないと又他の絵具をなすってみる。

()神様が草花を染める時も矢張こんなに工夫して楽

んで居るのであらうか。

(「同」八月八日)

という珠玉の言葉はこうした体験の中から発せられた。

 

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子規の俳句(九五)

 

○ 病む人が老いての恋や秋茄子

 

明治三十五年作。

 八月二十二日、門人の鈴木芒生、伊藤牛歩の二名が、病臥の慰めにと、同じく門人の皆川丁堂和尚所有の百花絵巻を携えてたずねて来た。子規はこの絵にひどく心を動かし、和尚に話して譲ってもらえまいかと言い出した。

 子規のあまりの執着に、両名はこの日とりあえず絵巻を子規の手元にとゞめ置いた。

 子規はこの絵巻への執着を恋と呼び、絵巻を 〃お嬢さん"と呼んで、「病牀六尺」へ一篇の恋物語を記した。

 永い病臥生活で、自分は年老いてしまった。その病人が恋をしてしまった。相手は、自分がお嬢さんと呼ぶ南岳の描いた絵巻である。この絵巻を自分のものにしたいという執着は、秋になると味を深める秋茄子に対する執着と同じようなものだ、という句意である。

 杉山一二宛の書簡に

  茄子難有候。今日は思はぬ恋の失望に朝来煩悶致居候。

と記して掲出の句を添えているので、「秋茄子」はそのことに由来する。

 

○ 断腸花つれなき文の返事かな

 

明治三十五年作。

 子規はどうしても南岳の百花絵巻を自分のものにしたいと思った。しかし丁堂和尚は、あの絵だけは手離すことは出来ないと言う。それでも諦らめきれず、翌日、芒生へ宛てた手紙に

  草花巻の事委細承知致候。御手数奉謝候。旦又和尚

 に対し失礼なること申上候段、貴兄よりよろしく御詑

 いたし置可被下候。

と記して一度は断念したものの、すぐに追伸を認めた。

 丁和尚に対して突然此草花巻譲り下されと申したと

 ころで和尚の承諾なきは固より明かな事に候、そこを

特別なる貴兄の手腕にて若しうまく行くこともやと心

 だのめに致し居候

とわざわざ別紙に書き、掲出の句を添えた。

 二通を同封して投函させたものの「煩悶に堪へぬので」(「病牀六尺」)更に同じ日に第二便を記した。

 前便さし上候後猶やるせなくいろいろに考申候。小生生れてはじめてこれ程の恋に焦れ候。

という文で始る第二便には、何かと交換か、若くは二、 三十円位なら出してもよい、などと記して、末尾に、

   草の花つれなきものに思ひけり

の句が添えてあった。異常なほどの執着であった。

 

   丁堂和尚より南岳の百花書巻をもらひて朝夕

   手を放さず

○ 病牀の我に露ちる思ひあり

 

 明治三十五年作。

 ようやく自分に譲ってもらうことが出来た百花絵巻をひもといていると、草花からこぼれ落ちる露のようにすがすがしい気持になる、という句である。

 子規の絵巻へのあまりの執着に和尚との間に立った芒生、牛歩は困惑した。遂に碧梧桐が間に入って和尚と交渉し、子規を欺く事となったが、解決をみた。それは、子規には譲ってもらったと話すが、子規没後は返却するという条件で、そのことを列座三名が保証した。

 絵巻が自分のものになったことを喜んで、子規は、

  予が所望したる南岳の草花書巻は今は予の物となっ

 て、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となく

 あげては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延

 びるやうな心持がする。

と「病牀六尺」(八月三十一日)に記した。

 絵巻が自分のものになった時に、子規は七枚の短冊を書いて、取り敢えずの謝礼とした。

     丁堂和尚より南岳の百花書巻を贈られて

   草花帖我に露ちる思ひあり

     読幻住庵記

   破団扇夏も一炉のそなへかな

   草市の草の匂ひや広小路

   草市や雨にぬれたる蓮の花

   遠くから見えしこの松氷茶屋

   暁の第一声や松魚売

   夏野行く人や天狗の面を負ふ

 掲出の句の初案は、上五が「草花帖」となっている。

 丁堂へは、八月末になって、更に短冊十枚を贈った。

   龍を叱す其御唾や夏の雨    弘法大師賛

   此杣や秋を定めて一千年    伝教大師賛

   御連枝の末まで秋の錦哉    親鸞上人賛

   鯨つく漁父ともならで坊主哉  日蓮上人賛

   念仏に季はなけれども藤の花  法然上人賛

   十ヶ村いわし喰はぬ寺ばかり  大漁

   苗しろや第一番や善通寺

   豆の如き人皆麦を蒔くならし

   盆栽の梅早く福寿草遅し

   猩臙脂に何まぜて見むぼたん哉

短冊に添えたはがきが、子規自筆の最後の書信となった。

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子規の俳句(九六)

 

 ○ 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

   痰一斗糸瓜の水も間にあはず

   をととひのへちまの水も取らざりき

 

 明治三十五年作。

 子規の辞世の三句である。

 へちまは、若い果実は食用にもするが、しっかりと実ったものは垢すりやたわしなどに用いる。茎の切口から採った水は、加工して化粧水として用いる外に、痰切り、咳止めの薬としても用いられた。子規のところでも、咳止め、痰切りに使用していた。

 病床の窓の外に糸瓜棚が作られている。その咲き残った花を眺めている自分は、長い間結核をわずらって病床に在り、今痰が切れずに苦しんでいる中で、死が迫っているのを感じている。今や自分は生きながら仏になっているのだなあ、というのが第一句である。

  自分を客観して「痰のつまりし仏」と言ひ切ってい

るところに、並々ならぬ子規の強靭さが出ているよ

うに思う。

(加藤楸邨「俳句往来」)

「痰のつまりし佛かな」と単刀直入に死の寸前の己

れを突放す。「佛」とは大変な断定であり、成佛直前

の痩駆を客観化した言葉であり、俳諧化、滑稽化が

この語によって完了する。

(「山本憲吉「現代俳句」)

 第二句は、咳と共に、痰が後から後から出てきて止まらない、もう痰を切る効能があるという糸瓜の水も役に立たないほど、死が迫っている、という句である。

 「痰一斗」という漢詩的誇張表現を用いることによって、死の直前の自分を淡々と客観視している句であるが、一種のユーモアさえ感じさせられる。

  第二の痰一斗などの言ひざまの豪快な筆法は、やや

 漢詩流だなどといふかも知れぬが、間にあはずとは蕪

 村といへどもついにこれをいひ得ないだろう。痰のつ

 まりし佛かなは無量の哀韻があって然かも現実的であ

 り、客観的の佛であり、然かもすさまじからず、混乱

 せず、如是の力量は決してこれを芭蕉・蕪村に見出す

 ことが出来ないとおもふが奈如。

(斎藤茂吉「正岡子規」)

第三句は、糸瓜の水を採るのは旧暦の八月十五日が良いと言われるが、それは「をととひ」であった。その日に茎を切って水を採るべきであったのになあ、という死の直前の子規の感懐の句である。

  「をととひ」とはすでに過ぎ去って還らぬ日である。

 そして彼の生涯は今まさに過ぎ去らうとしてゐるので

 ある。「をととひ」と言ひ、「取らざりき」と言ったと

 ころ、彼の脳裡をふと過ぎ去った悔恨が刻印されてゐ

 る。

(山本憲吉「現代俳句」)

 この三句を作り記したのは、九月十八日であった。この頃の子規は、

  支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分は

 きのふ以来昼夜の別なく、五体すぎなしといふ拷問を

受けた。誠に話にならぬ苦しさである。

(「病牀六尺」九月十二日)

 人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しか

しそんなに極度に迄想像した様な苦痛が自分のこの身

の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。

(「同」九月十三日)

  足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。

足あり、大盤石の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触

るれば天地振動、草木号叫。

(「同」九月十四日)

という病状になっていた。

十八日の朝、碧梧桐が呼ばれた。子規は、痰が切れないので苦しそうな咳をしながら、画板に唐紙が貼付けてあるのへ、筆を執って、先ず

  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     .

と認めた。四、五分後に

  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

と記し、又小休止、数分後に

  をととひのへちまの水も取らざりき

と書き流して、筆をすてた。

  この三句は絶筆であるとともに絶唱である。この三

 句を獲るために子規の俳生涯があったと言ってもいい

 かも知れぬ。芭蕉の「旅にやんで夢は枯野をかけ廻る」

 蕪村の「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」などと

 比べてみても、子規の辞世の句ははっきりした特色を

 持ってゐる。一番無造作で、やんちゃな駄々ッ子のや

 うな表現で、天真爛漫であり、作為の跡がないのであ

 る。

(「現代俳句」)

と山本憲吉氏は総括される。

 子規は、最後の句を記した後はこの日はあまりものもいわず、昏睡状態が続いた。この夜は虚子が一人残って泊っていたが、その夜半、誰も気付かぬうちに、子規は静かに没していた。九月十九日午前一時のことであった。

()