『春星』連載中の中川みえ氏の稿
4(3に続く)
子規の俳句(三三)
中川みえ
従軍の首途に
○ いくさかな我もいでたつ花に剣
明治二十八年作。
前年八月、豊島沖での砲撃が直接の端緒となって、日本と清国の間に戦争が始った。日本新聞社からも続々と従軍したので、子規は議会掛として傍聴記事を掲げたが、はなばなしい従軍記事に押され気味で、「小日本」廃刊以来の「胸中の不平は愈々欝勃として来て旅順が落ちた威海衛が破れたなどと聞く度に何時も胸の中は火の様になる。」(「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」)心中の不満は、遂に従軍決意という形であらわれてしまった。
文学に志す吾身でなかったらどうかして自分も従軍して居るに違ひない。新聞社に居ながら文学欄を担当して居るがために従軍が出来ぬといふのは実に情無い。文学者として千歳一遇の此戦争を歌ふのも固より其職務の如き者であるけれど他の人が従軍するといふなら自分が其を争ふ迄の権利は無い。且つは自分の病身であるために自ら進んで従軍せうともいひかねて居る。尤も自分では病身位かまひはせんが記者としての職務を尽す事が出来んでは社へ対して気の毒だから終始さやうな事をおくびにも出さないやうにして居る。それが実につらい。併しどうかして従軍しなけれは男に甲斐がない。
(「我が病」)
子規の健康状態を知っている人達は、こぞって従軍に反対した。
是にはさすが豪傑揃の社中でも一驚を吃した。第一そんな身体で従軍なとは思ひも寄らぬ、死に行くやうなものだから止めたらとうだと止めたがなかなか承知しない。『どうせ長持ちのない身体だ、見たいものを見て、したい事をして死ねは善いではないか』と喰ってかかる。『併しわざわざ死に行くにも及ばんではないか』と云ふと『夫れでは君いつまて僕の寿命が保てると思ふか』など駄々をこねる。到頭仕方かないから従軍と決して、三月三日広島に行く事になった。
(古島一念「日本新聞に於ける正岡子規君」)
二月二十五日、子規は碧梧桐、虚子と三人で夕食をとり、別れる時に二人宛に記して告別文を手渡した。
征清ノ軍起りテ天下震駭シ旅順威海衛ノ戦捷ハ神州ヲシテ世界ノ最強国タラシメタリ 兵士克ク勇ニ民庶克ク順ニ以テ此ニ国光ヲ発揚ス 而シテ戦捷ノ及フ所徒ニ兵勢益振ヒ愛国心愈固キノミナラズ殖産富ミ工業起り学問進ミ美術新ナラントス 吾人文学ニ志ス者亦之ニ適応シ之ヲ発達スルノ準備ナカルヘケンヤ 僕通觚ヲ新聞ニ操ル或ハ以テ新聞記者トシテ軍ニ従フヲ得へシ 而シテ若シ此機ヲ徒過スルアランカ 懶ニ非レハ則チ愚ノミ傲ニ非レハ則チ怯ノミ 是ニ於テ意ヲ決シ軍ニ従フ
軍ニ従フノ一事以テ雅事ニ助クルアルカ僕之ヲ知ラス以テ俗事ニ助クルアルカ僕之を知ラス 雅事ニ俗事ニ共ニ助クルアルカ僕之ヲ知ラス 然リト雖モ孰レカ其一ヲ得ンコトハ僕之ヲ期ス 縷々ノ理些々ノ事解説ヲ要セス 之ヲ志ス所ニ照シ計画スル所ニ考へバ則チ明ナルベシ 足下之ヲ察セヨ
これを受け取った碧梧桐は感想を
要するに行住坐臥総て自己の芸術であるが、戦争といふ人事の大波瀾中にも更に新たな芸術の世界のあることを信じ憧憬し尋ね求めようとしたのに過ぎなかった。平たく言へばどれほど註文しても生涯に再び観る事の出来ない新奇な世界を、直接戦場で味ひたかったのである。さうして其の新奇な世界の戦場気分を味ふことが、其の芸術に新たな呼吸を賦與するものと信じたのである。無謀に計画したのではなくて、生活を緊密ならしめる当然の帰結であったのである。
(「子規の回想」)
と記しているが、
居士は恃みがたき病躯を抱いて千載一過の好機に際会し、徒に内地にあって光陰を消費するに堪えす、前年来の不平と雄心のはけ場を従軍に求めたのであった。
(柴田宵曲「評伝正岡子規」)
と見るのが妥当であろう。遺書のようなこの文章は、従軍か病身の子規にとって命とりになるかもしれない予感を色濃くにじませている。
この従軍を「小日本」の延長線上の行為ととらえる見方もある。米田利昭氏は「子規の従軍」に
子規の中のナショナリスムと文学改革とは接点を求めていた。その平衡状態は『小日本』に見られる。両者は融合して大爆発を起すべき起爆剤を求めていた。戦争こそそれと思われたのである。
と記しておられる。
掲出の句は、清国との戦争に従軍することが決って、いよいよ故国を出発しようというこの時、折から桜の花が咲き乱れ、自分の手には旧主久松公から賜わった剣がある。花も剣も武士の門出にふさわしいものだ、と戦場に赴く心のたかぶりを詠んだものである。
幕藩体制の崩壊、開国を経て、国家という意識が確立してゆく中での外国との戦いに、国家の危機、存亡を強く意識したナショナリズム色の濃い発想の句で、従軍する子規の気慨が強く感じられる。
子規の俳句(三四)
中川みえ
法龍寺父君の墓に詣でて
○ 畑打よここらあたりは打ち残せ
明治二十八年作。
子規が自ら志願して日本新聞社から従軍が決ったのは二月末のことであった。三月三日に東京を出発して、途中大阪に一泊、六日の正午に広島へ到着した。同日、日本新聞社主陸羯南を保証人に、履歴書に作文一篇を添えて大本営副官部宛に従軍志願を提出し、二十一日に軍から許可がおりた。
但し、この時には既に休戦が決し、講和交渉が始っており、三十日には日清休戦条約が締結され、子規は
馬関事件巳来何となく平和風強く或は此ままに我々は泣寝入にならんかと心配致居候へども昨年来支度致居候近衛は中々承知すまじくそれが頼みに御座候
(四月五日 大原恒徳宛)
と書き送って焦燥を伝えている。
広島に滞在中に、子規は墓参のため三月十五日に松山へ帰省した。
柳原極堂の「友人子規」によると、正岡家の墓はこの当時法龍寺(曹洞宗)にあったが、伊予鉄道の軌道が表門から本堂の南横を貫通して境内を縦断したため墓地が飛び飛びになり、周囲の垣もこわされて近所の子供達の遊び場となり、隣の畑地との境界かあいまいになるほど荒れはてていた。
荒れ放題になっているが、ここに父は眠っている。春になって畑を打ちかえしている農夫よ、ここだけは土を耕さないで、物種を蒔かないで、父を静かに眠らせてくれ、という句で、「陣中日記」に、
十五日、郷里松山に行き家君の墓に詣づ。鉄軌寺中を横きりて菜花墓のほとりに乱れ咲く。蘋藻を薦めざる事纔かに三年、桑心の変心にこたへ脚ふたがりてしばし立ちも上らず。
と記してこの句を添えている。
子規の父正岡隼太常尚は、松山藩の下級藩士であった。
子規は「筆まかせ」に
我父にておはせし人は佐伯氏より来て孫嫡子となりて曽祖父のあとを継ぎ給ひしが、明治五年即ち余が六歳の時、四十歳を一期として空しくなり給ひしかば、余は少しもその性質挙動を知らす。只その大酒家なりしことは誰もいふ処にて 毎日毎日一升位の酒を傾け給ひそれが為に身体の衰弱を来し 終に世を早うし給へり。(略)父は武術にもたけ給はず。さりとて学 問とてもし給はざりし如く見ゆ。(略)父は高慢にして強情に しかも意地わるきかたなりしと
と些か手きびしく冷淡に記しているが、従軍という命の最前線に向うに当って、その墓所に参詣し荒れ放題のありさまを目のあたりにすると、胸が痛むのであった。
松山
○
春や昔十五万石の城下哉
明治二十八年作。
十五万石の城下町松山は、賎ヶ獄七本槍で有名な加藤嘉明が慶長年間に町づくりを始め、蒲生氏を経て、徳川家と親戚関係にあった---家康の母於大の異父兄弟---松平氏が城主となり繁栄した。しかし明治維新の折に佐幕の立場をとったため、維新後は冷遇された。
繁栄した十五万国の松山は昔のことになってしまったものだという詠歎を、「春」に込めて詠んだ句である。
松山松風会席上
○
僧や俗や梅活けて発句十五人
明治二十八年作。
三月十五日墓参のために帰郷した子規に、友人の柳原極堂を通して松風会から送別会開催の申し入れがあった。
松風会は、松山高等小学校の教員一同が学年試験の採点で職員室に集って座談をしているうちに、たまたま校長の中村愛松が俳句を話題にしたのが発端になって、毎週一回句会を開くことを決し、その夜伴狸伴宅に集会したことに始る。中村愛松をはじめ、伴狸伴、下間叟柳、大島梅屋、国安半石、河村青里、永木永水、服部華山、乃萬撫松、阪本伸緑、玉井馬風、白石南竹、がメンハーであった。そのうち愛松の友人下村為山が東京から帰省して新派俳句を伝え、教職員以外から柳原極堂、釈一宿(正宗寺住職)、岡村三鼠(子規の叔父)、大道寺松露(県官)、御手洗不迷(新聞記者)、天野真山(弁護士)らが入会し、会員ではない村上霽月も時折句会へ出席するようになった。
子規の送別会の席で
白石南竹であったか、先生と呼びかけて、新派の俳句はどんな風で言ったらよいのですかと発問したが、子規は室内を見まはして後「僧や俗や梅活けて発句十五人」と口吟し、先づこんな風に其実感を十七文字であらはすのですと答へた。
掲出の句はそのような場で出来た即吟である。「僧や」とあるのは、釈一宿を指したものである。
子規は二泊の後十七日に松山を発って再び広島へ赴き、四月十日に清国に向って宇品を出港したのてある。
子規の俳句(三五)
中川みえ
従軍の時
○
行かば我れ筆の花散る処まで
明治二十八年作。
広島で従軍出発を待機していた子規は、ようやく四月十日海上丸に乗船して宇品港を出帆した。
四月十日の朝晴れて心よきに疾く車に上れば日南大我南八の諸氏吾を送りて宇品に来る。道すがらの桜花桃花紅白に乱れて風流ならぬ旅路さすがに心残るふしなさにもあらねど一たび思ひ定めたる身のたとひ銃把る武士ならぬとも再び故国の春に逢はん事の覚束なけれは
行かは我れ筆の花散る処まで
出陣や桜見ながら宇品まで
清国との戦いの戦場に自分は赴く。敵の砲弾で筆がとび散るかも知れないが、その時はこの身も散り果てるであろう、そのような場所へこれから自分は赴くのであるという決意の句である。
"筆がとび散る"に"命が散る"の意を含ませ、更に"花散る"に仮託することによって浮び上らせるという技法で、自らの従軍への気慨を示した句である。
内藤鳴雪が五百木飄亭に子規の従軍を知らせた手紙に、
さて子規の従軍は昏々気遺ひ病体にてはと申たれと本人一向聞入れ不申此の上は迚皆々勇しく其行を送る事となしたり。行かん我筆の花散るところまで 是れ出艦の際親許への写真に題せしところなり決心可知矣と記してあった。
○
大国の山皆な低き霞かな
明治二十八年作。
子規の乗船した海上丸は、四月十三日に大連湾に入り、十五日の朝柳樹屯に上陸した。子規は男子一生の本懐として従軍を決意し漸く戦場に来たのであるが、戦闘はもはや終っていて、空しく戦況を聞くばかりであった。それでも、初めて見る異国の風物は何もかもめすらしくて、子規の感性は新鮮な刺戟を受けた。
靴痕車轍路かと見れば麦畑の中を横ぎり平野と見れば田圃皆山腹にあり。山巓低くして山脚長きがためなり。
大国の山皆な低き霞かな
(「陣中日記」四月十五日)
○
永き日や驢馬を追ひ行く鞭の影
明治二十八年作。
春分を過ぎて、毎日少しずつ日が長くなってのどかな春になってきた。そののどかさの中で、驢馬を追いたてる中国人が手に持つ鞭の影が地面に写るのを詠んだ句て、
東門を出でて路を東北に取り行けば一筋の小川水潺々と流れて渡らんとするに橋なし。其処に彳める土人に物も言はす背に取付けは川を渡しける。其代に巻煙草五本遣りたるもおかし。
城門を出て遠近の柳かな
永き日や驢馬を追ひ行く鞭の影
という記述が、ゆったりした大陸的な気分をよくあらわしている。
○ 梨老いて花まはらなり韮畑
戦のあとにすくなき燕かな
明治二十八年作。
戦後の金州の風景を詠んだ作品である。
杖を携へて郭上に登り城内城外の景色など洽く見渡すに杏花は全く散り尽くし今は桃梨菜花など誰が為とは知らで盛を競へり。原頭の草色さへ漸く深うして亡園の地とも知らずやあるらん。園破れて山河在りとそぞろに口ずさまれて哀れなり。
花盛ふるさとやいま更衣
梨老いて花まはらなり韮畑
外濠の水腐りけり蛙の子
戦のあとにすくなき燕かな
(「陣中日記」五月八日)
青々とした韮畑に、梨の老木がまはらに花をつけている。それを見るにつけても、壊れつつある老大国清に思いが及ぶのである。
戦後の金州の風景に杜甫の「国破山河在 城春草木深」が胸中を去来し、折から燕の多い季節であるのにその姿を見ることが少いことに、戦闘の激しさを感じとったのである。描写を省いて燕の少いことをそのまま詠むことによって、感慨を一層効果的に表出している。
「陣中日記」は、この翌日の九日に「講和なれりとの報あり」、十日に「講和成り万事休す。一行七八人金州を辞して柳樹屯に向ふ。悉く本図に帰らんとなり。」という記載があり、子規は帰国の途についたのである。
この従軍中、子規は一発の砲声も聞かすに立帰った。俳句も格別のものは出来なかった。たゞ、戦場の経験を句にしたほとんど最初の記録というべき作品である。
子規の俳句(三六)
中川みえ
○
春や昔古白といへる男あり
明治二十八年作。
四月二十四日、金州滞在中の子規のもとに東京の碧梧桐より古白の訃を伝える手紙か届いた。
古白藤野潔は、子規の母のすぐ下の妹の長男で、子規より四才年下の従弟であった。母を早くに(七才の時)失ったせいか、潔は孤独で偏狭なところがあり、神経過敏で我侭で、他人と調和することか不得手であった。
九才の時に父の勤務の関係で藤野家は東京に移ったが、明治十六年に上京した子規は、一時藤野家の世話になり、潔と一緒に須田学舎に通った。この頃の潔は、友人とよく口論し、時にはナイフで相手を傷つける騒きをおこし、神経症が昂じて巣鴨病院へ入院したこともある。子規はそうした潔の庇護者となって、説教をしたり、松山への帰省に同行したりと、兄のように支えた。
潔は十九才(明治二十三年)の時に古白と写して俳句を始めたが、
二十四年の秋、俳句句合数十句を作る。趣向も句法も新しく且つ趣味の深きこと当時に在りては破天荒ともいふべく余等儕輩を驚かせり。
今朝見れば淋しかりし夜の間の一葉かな
芭蕉破れて先住の発句秋の風
秋海棠朽木の露に咲きにけり
の如きは此時の句にして、此等の句はたしかに明治俳句界の啓明と目すべき者なり。年少の古白に凌駕せられたる余等はここに始めて夢の醒めたるが如く漸く窺ふを得たりき。俳句界是より進歩し初めたり (「古白遺稿」)
と後年子規か記しているように、俳句を始めた翌年にこのように新鮮でみづみずしい抒情性と感覚を持つ句を作ったことは、この時期旧派から完全には抜け切れていない俳句開眼前の子規を瞠目させるものであった。
「今朝見れは」の句は、子規の俳句開眼未だしの明治二十四年の作として見ると、驚くべき新鮮さを持っている。字余りになっている姿も、自由てのびのびとしている。俳句を作りはしめて一、二年の人の作とは思えないほど、詩思豊かに発想は巧みである。その抒情味は近代的感覚てあるとさえいってよいであろう。
(村山古郷「明治の俳句と俳人たち」)
しかし、新派俳句の先駆のような古白の俳句は、二十七年頃より月並調を学び些細の穿ちなどを好むようになり、「月並の句を作りて独りよがり」(伊藤松宇宛書簡) と子規を失望させるものとなった。
古白は生来文学好きで、早稲田大学の前身の東京専門学校に並び、小説「椿説舟底枕」(「小日本」に掲載)を書き、卒業論文には戯曲「人柱築島由来」を執筆した。この戯曲は坪内逍遥の主宰する「早稲田文学」に三回に分けて掲載されて、古白は得意になったが、上演の申込みは一件もなく、古白は俳句では子規を、演劇では同級生の島村抱月を越えることは出来なかった。
四月七日、古白は「現世に生存のインテレストを喪ふに畢りぬ」という遺書を残して頭をピストルで撃って自殺をはかったが、すぐには死ななかった。
大原恒徳から知らせが届いたのは、従軍前夜のことであった。子規は早速古白の父に宛てて見舞と問合せの手紙を書いたが、出発を見合わせることはしなかった。
子規のもとに碧梧桐から古白の計を詳細に伝える四月十四日付の手紙が届いたのは、四月二十四日の事だった。
此日東京なる碧梧桐より一封の手紙届きぬ。披き見ればわが従弟古白の訃音なり。夜半人静まりて後独り蝋燭をとほして手紙を読めば病床の事こまごまと書きつゞけたるに一字一句肝つぶれ胸ふたがりて我にもあらぬ心地す。人世は泡沫夢幻。世界は一夜泊りの木賃と覚期して猶四鳥の別れこそ惜しまるれ。思へば十年の昔一窓を同うし艱難を共にする時彼之れは我之を叱り叱りて聴かざれば先生に訴たへて苦訓を受けしめたる事もありき。其後其弱さ意思を助けんとて向島の寓居に彼を励ませしを如何に感じけん答へもなさで只ほろほろと泣き出でし事もありき。二月の前東京を出で立つ時我家に来りて何くれと旅の用意などととのへくれたる其顔は猶目にありながら己に幽明処を異にせりと書中に言へり。書中の古白実ならは眼中の古白は幻影に過ぎじ。眼中の古白実ならは書中の古白は知らす何物そ。つくづく考へ見れは古白猶存在せるが如し。
我に四歳の弟なる古白が幼き時は真に愉快なる生活を送りたり。彼が其家の後園を駈け廻りつつ蝶を捉へ蜂を打ちし時は或は羨ましく或は妬ましく我も此の如き花園に住まましとのみ思ひ悩めり。然れども古白は母を他郷に失ひしより後始めて世の憂さを知りぬ。四歳の兄なる吾が読書文章の上に一歩進めし時彼は且つ羨み且つ妬み怒りつ笑ひつ嘲りつ終には吾より更に一歩を進めぬ。吾一歩彼一歩共に浮世の海原に分け入らんとする瞬間古白は怒涛の舟を覆すを待たずして自ら舟を覆し了んぬ。我の未だ古白に負かさるに早く巳に古白の我に負くを見る。とは言へ古白或は白雲に乗じて我れの艱難を嘲罵せんとの意なるかも知るべからず。見よ見よ我れ未だ離れざる間に古白の霊あに四大に帰し去らんや。
春や昔古白といへる男あり
(「陣中日記」)
子規の俳句(三七)
中川みえ
○ 卯の花の里を氷のやけどかな
明治二十八年作。
五月十四日、子規は佐渡国丸に乗船して、大連湾から帰国の途についた。後年「病」に
明治廿八年五月大連湾より帰りの船の中で、何だか労れたようであったから下等室で寝て居たらば、鱶が居る、早く来いと我名を呼ふ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰が出たから、船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった。血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで著ている外套のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。
と記しているが、これが大患のはじまりであった。
船中での喀血であったので吐く容器がなく、子規は甲板に出る体力かあるうちは海の中へ吐いていたが、周囲の人への気がねもあって、後にはそのまま呑み込んでしまっていた。その為に胃が悪くなって食欲か失せ、衰弱して容態は急激に悪化した。
船が馬関に入ったのは十八日の午後であったが、船中でコレラが発生して、一週間の停船命令か出て、すぐには上陸出来なかった。
喀血は止まらず、二十三日に和田岬の検疫所を出た時には歩くことも容易でなく、途方にくれて、道端に重い荷物を置いて休んでいたところを、大毎の従軍記者であった相島虚吼か通りかかって手配してくれて、釣台に乗せられて神戸病院へ入院した。
間もなくこのことか日本新聞社に伝わって、折から京都に来ていた高浜虚子のもとに陸羯南から電報か届き、虚子は直ちに病院へかけつけた。
私は恐ろしいものに近つくやうに足音を立てず廊下を歩いて行った。さうして今受付で聞いた番号のトアをかすかにノックした。(略)
「正岡の部屋は!」
と聞くと、女は頷いた。中に入ってみると子規は寝台に向う向きに寝てゐて、今蒼白い手を挙げて女を招いてゐるところであった。女は心得てコップを子規の口に当てがった。子規はそれに八分目許りの血を吐いた。私がそばに行くと子規は私に目でものを言った。さうして幽かな声で、
「ものを言つてはいけないのだ。」
と云つた。
これは神戸の病院に入院してをる子規を見舞った時の最初の印象であった。
(高浜虚子「子規について」)
子規は激しい咳漱と共にコップ半分位の血を一日に数回吐くという症状で、喀血は止まらなかった。そこて、肺部を氷嚢て冷してみることになり、大量の氷を氷嚢に入れて、カーゼも当てないで直接皮膚に当てて胸部を冷しづめにしたために、夏であるのに凍傷を起すという失敗をしてしまった。一人の若い医師か「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりや血はとまりやしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる。」(高浜虚子「子規居士と余」)と言った言葉が頗る子規の気にかなったようで、自らの発意に基く凍傷に苦笑しながら、病の重さを納得したのであった。
掲出の句は、このようなエピソードを踏まえて、やや回復してから虚子に書き留めさせた句である。
二十八日は喀血が数回に及び、主治医から家族、親戚に電報を打った方かよいだろうとまで言われたが、この日がおそらく峠であったようで、不安な一夜を通り越すことが出来てからは喀血もやや間遠になり、病状も序々に回復に向った。
子規は栄養物摂取を心がけ、東京から碧梧桐が子規の母を伴って到着した六月四日頃には、血色も次第によくなっていた。
余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソップも飲む事が出来なんだ。そこで医者の許しを得て、少しばかりのいちごを食う事を許されて、毎朝これはかりは闕かした事がなかった。
(「くだもの」)
病人の慰めと栄養摂取のため、虚子と碧梧桐は毎朝共に、あるいは交替に、苺を摘みに行くのが日課となった。
露あかしいちこ畑の山かつら
もりあげて病うれしきいちこかな
六月十日に至って喀血を見なくなり、二十日あたりからは頻りに句作をし、医師の許可を得て半身を起こすまでに回復した。
子規の回復に安堵して、子規の母は碧梧桐に伴われて、七月九日に東京へ帰った。子規は病床から初めて椅子に腰をかけて、虚子が到着以来書き認めていた病床日誌を読んだ。「僕の病気が軽くなかったことは知って居たが、それ程重いものとは思はなかった」(「子規について」)と虚子に言い、それ以外のことは何も言わなかった。子規はこの時自分の病気か「大病であったとは思っていたが、もと通りにならぬまでも、或る点迄健康は恢復するものと思ってゐたらしい。」(「子規について」)と虚子は推測している。
子規の俳句(三八)
中川みえ
神戸病院を出でて須磨に行くとて
○うれしさに涼しさに須磨の恋しさに
明治二十八年作。
子規の病状は次第に回復したか、医師は「快方に赴きてのちもこの地近傍に止まり市街を離れて養生すべし」(「病床日記」)という意見であった。陸褐南も今後の子規の健康問題を憂慮して、須磨あたりへ移転したらどうかという意見を洩らし、初めは僻地にぼんやりすごすことを躊躇していた子規も次第に乗り気になり、七月二十三日神戸病院を退院して、虚子に付き添われて須磨保養院へ移った。
須磨の保養院といふのは、松林の中に二間か三間が続いてをる建物が所々にあって、其処には胸を思ってをる人が下宿同様の生活を営んでゐた。
(高浜虚子「子規について」)
須磨保養院は松青沙白の間にあり、夏涼しく冬暖かい快適な環境で、子規はそこに一間を借りて、病後の体力回復につとめた。
保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちてゐた。何の雲翳も無く、洋々たる前途の希望の光りに輝いてゐた居士は、之を嵐山清遊の時に見たのであったが、たとひ病余の身てあるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸ってゐた居士は之を保養院時代に見るのであつた。
(高浜虚子「子規居士と余」)
二、三日を共に過ごした虚子と連れだって須磨寺に遊んて敦盛蕎麦を食べる子規の健啖は、すっかりもとに戻っていた。朝夕は松原を散策し、
人も無し木陰の椅子の散松葉 子 規
涼しさや松の落葉の欄による 虚 子
などの句を作った。
須磨にて虚子の東帰を送る。
○贈るべき扇も持たずうき別れ
明治二十八年作。
二、三日を子規と共に過ごした虚子が、いよいよ東京へ帰るという前日、子規は夕食に一、二皿の特別料理を誂えて、次のような意味のことを言った。
今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸に自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命か其は自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。折角自分の遣りかけた仕事も後継者が無けれは空になってしまふ。御承知の通り自分には子供が無い。親戚に子供は多いけれど其は大方自分とは志を異にしてゐる。其処でお前は迷惑か知らぬけれと、自分はお前を後継者と心に極めて居る。
(高浜虚子「子規居士と余」)
と言い、ひとりで静かに学問をする工夫をするようにと論した。
虚子は予期しない後継者委嘱の話を光栄と感じながらも、身に余る重い負担を背負わされた窮屈さを感じたが、その委嘱を謝絶する勇気もなく、ただぼんやりと頷くのみであった。
その夜、虚子は蚊帳に入るとすぐに睡ってしまったが、大事を打ち明けた子規はなかなか眠れなかった。
蚊帳に入りて眠むがる人の別れかな
翌日、虚子は掲出の
贈るべき扇も持たずうき別れ
の句をはなむけに、東京へ帰って行った。
後継問題はこの年の冬に再燃した。虚子を道灌山の茶店に誘い、再び学問をすることを勧め、文学の相続者になってくれるよう強く希んだか、虚子は受け入れなかつた。子規は五百木飄亭にその顛末を知らせる激烈な長文の手紙を書き送って、自らの文学の前途を憂えた。
病起
○夏痩の骨にとゞまる命かな
明治二十八年作。
七月二十七日付内藤鳴雪宛の書簡に、
自分ハ死ぬると迄も思ハざりしか医者さへ気遣ひしと聞てハ今更夢のやうに覚えて半ハうれしく半は恐ろしくはては老耄人の如くつまらぬ事二心配致候やうに相成候
拙句 夏痩の骨にとゞまる命哉
と記してあった。二十九才の子規は、老耄人の如く自らの命を心配する境涯になってしまったのである。
夏になると食欲が衰え体重が減るのはごく普通のことではあるが、大病で一時は死ぬかと思った命を、かろうじてとりとめることが出来たこの体は、すっかり痩せ衰えて、ごつごつ骨ばったものになってしまった。この骨にかろうじてすかりついて、命をとりとめたのだなあ、という感慨を一句に詠んだものである。
「骨にとゞまる」に、良くも助かったものだなあという思いと、完全に元通りの体に戻るのだろうかという不安、命が助かっただけでも良しと思わねはというあきらめ、それらが重なりあって、暗い翳を留める句となっている。
子規の俳句(三九)
中川みえ
瓢亭六軍に従ひて遼東の野に戦ふこと一年命を砲煙弾丸の間に全うして帰る
われはた神戸須磨に病みて絶えなんとする玉の緒危くもここに繋ぎとめつひに
瓢亭に逢ふことを得たり 相見て憫然言ひ出づべき言葉も知らず
○秋風や生きてあひ見る汝と我
明治二十八年作。
約一ヶ月の須磨滞在の後、八月二十日子規は郷里の松山へ向った。途中岡山に一泊して、七月末に帰国して予備病院付として引き続き広島に在った五百木瓢亭を訪ねた。ここで、
秋風や生きてあひ見る汝と我
と子規が詠み、瓢亭が、
計らざりき君この秋を生きんとは
と詠んで再会を喜んだ。この顛末を瓢亭は「夢か」と題して「日本」へ送った。
瓢亭は看護卒として出征し、子規は従軍中一発の砲声も聞かなかったもの」、帰国途次の喀血で生命の境をさまよった。「生きてあひ見る」は、決しておおげさな表現ではなかった。
加藤楸邨氏は「俳句往来」で、この句を、芭蕉の
命二ッの中に生きたる桜哉
が心にあったものか、と述べておられる。
法龍寺に至り家君の墓を尋ぬれは今は畑中の
荒地とかはりはてたるにそぞろ涙の催されて
○粟の穂のここを叩くなこの墓を
明治二十八年作。
父の眠る法龍寺墓参の句。
従軍出発前の三月十五日にこの墓地を訪ずれた時には、伊予鉄道の軌道に寺の境内か分断されて、荒れ放題になっていたのを歎いて、折から畑打ちのシースンであったことから、
畑打よここらあたりは打ち残せ
と詠んだのである(拙稿三四回参照)が、今回この墓地を訪れてみると、今はみのりの時期で、父の墓のすぐ傍まて粟が茂ってみのりの穂を垂れている。その粟の穂に、どうか父の墓だけは垂れた穂で叩かないでくれ、そっとしておいてくれ、と詠んだのである。
春の「畑打よ」の句と対句のような関係の句で、墓の荒れたのを歎く感情をそのままに表出した句である。
昭和二年、子規の母八重の遣骨を松山に分葬の際に、正岡家では寺とも協議の上、先祖来の墓を正宗寺(臨済宗)へ改葬した。正宗寺の一宿が、子規と懇意であったことからてある。
漱石の寓居の一間を借りて
○桔梗活けてしはらく仮の書斉哉
明治二十八年作。
広島に二日滞在した後、八月二十五日に子規は松山へ帰省した。はしめ太原恒徳方に居たが、すぐに松山中学の英語教師をしていた夏目漱石の下宿へ移り住んだ。この間のいきさつを漱石は「正岡子規」に、
僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、 此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。
と記しているが、これは文章のあやで、実際には八月二十七日付書簡で、
今朝鼠骨子来訪貴兄巳に拙宅へ御移転の事と心得、御目にかかり度由申居候間、御不都合なくば是より直に御出あり度候。尤も荷物杯御取纏め方に時間とり候はゞ後より送るとして、身体丈御出向如何に御座候や
先は用事まで早々
と、自ら来宿を促している。
子規と漱石は大学予備門の本科当時から親交があり、漱石はこの年の四月に松山中学に赴任して来ていて、この時には二番町の上野義方という人の離部屋を借りて住んでいた。この上野義方の孫娘が、後のホトトキス派の女流俳人久保より江である。奇しき因縁であろうか。久保より江は当時十一才で
今でもめに残ってゐるのは子規先生の外出姿、ヘルメットにネルの著流し、稍々よこれた白縮緬のへコ帯を痩せて段のない腰に落ちさうに巻いてゐられた。
(「二番町の家」)
と、後に回想している。
僕は二階に居る、大将は下に居る。其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕か学校から帰って見ると、毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もとうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方てもなかったか、兎に角自分の時間といふものがないのだから止むを得す俳句を作った。
(夏目漱石「正岡子規」)
と、これも些か大げさな記述であるが、この家の二階に漱石が住み、一階に子規か住んで、連日松風会の俳人か訪ねて来て句を詠むのを見ているうちに、漱石もその中に加わるようになったということである。
子規の俳句(四○)
中川みえ
はじめて古白の墓を訪ふ
○我死なて汝生きもせで秋の風
明治二十八年作。
帰省中、古白の墓に詣でて手向けた句。
古白の死については三月号に述べた。
子規は従軍前夜に、古白がピストル自殺をはかり死にきれないでいる、という知らせを受けた時には、問合せの手紙を送ったものの、出発を中止することはなかった。
金州滞在中に、碧梧桐から古白の死の顛末を詳細に記した手紙を受け取って、切々たる哀悼の辞を「陣中日記」に記した。
春や昔古白といへる男あり
という追悼の句は、古白についての生き生きした回想の文章と相俟って、非常に抒情味溢れる惜別の句となっている。しかしこの句は、非常に親しくしていた兄弟のような従弟の死をあくまでも哀惜するもので、「死」を共感する心境ではなかった。
従軍帰国途次の大略血で、自らが死と直面するという体験を経た今は、古白の「死」を自らの生命と同列に、他人事ではなく感じるようになったのである。
石手寺の御籤に「二十四凶病事は長引也命にはさはりなし」とあり
○身の上や御籤を引けば秋の風
明治二十八年作。
子規は松風会員を誘い、あるいは漱石を促し、時には単独で、病後の試歩がてら松山近郊に前後五回の散策吟行を試み、その紀行句集「散策集」を残した。
今日はいつになく心地よけれは折柄来合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀仏庵を立ち出つる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず玉川町より郊外には出てける見るもの皆心行くさまなり
と記す初回は九月二十日午後で、碌堂(柳原極堂)を伴って石手寺の方へ向った。石手寺は聖武天皇の祈願所として行基が創建し、四国霊場五十一番の札所である。
大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけハ其側に落ち散りし白紙何そと開くに当寺の御籤二十四番凶とあり中に「病事は長引也命にはさはりなし」など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり
身の上や御籤を引けば秋の風
(「散策集」)
病後の試歩がてらやって来た石手寺の大師堂に腰かけて、ふと目についた白紙を手に取って開いてみると、それはこの寺の御籤で、「二十四番凶」と書いてあり、病事は長引く、命にはさわりなし、との文言が、子規の身の上とぴたりと当っている。自分の病は長引くと予言されたわびしさと、秋風が吹き抜けるわびしさが相俟って、いっそうきびしい運命を感じとっているのである。
正宗寺一宿を訪ふ
○朝寒やたのもと響く内玄関
明治二十八年作。
「散策集」に記された二回目の吟行散歩は翌二十一日の午後で、城北を歩いた。愛松、碌堂、梅屋に促され、病院下を通り抜け御幸寺山の麓で引き返す行程てあった。
二十五日の朝、鼻血か多量に出た。次の日も夥しい鼻血、二十七日は少量、と鼻血は続いた。自分ては「逆上の気味にて寝つ起きつ運坐連俳などに心をつからせしめたため」(「散策集」)「ふと逆上の結果鼻血と相成り二三日間難儀致候」(五百木飄亭宛書簡)「毎夜運座に夜の更け候ため逆上に及び」(内藤鳴雪宛書簡)と記しているが、大病の直後の療養中の出来事であっただけにまわりの者は心配して、訪問を一時自粛した。
「散策集」三回目の吟行散歩は、鼻血が全く治まって四、五日を経た十月二日で、この日は只一人で出掛けて藤野、大原両叔父の家に憩い、そこから郊外へ出た。
四回目は十月六日で、「天気は快晴なり病気ハ軽快なり」(「散策集」)と、漱石を誘って道後に遊んだ。
五回目が掲出の句を作った十月七日で、以前から子規に頻りに来訪を促していた村上霽月の宅を訪問した。
今日七日ハ天気快晴心地ひろくすがすがしければ俄かに思ひ立ちて人車をやとひ今出へと出て立つ道に一宿を正宗寺に訪ふ同伴を欲する也一宿故ありて行かず
朝寒やたのもとひゞく内玄関
(「散策集」)
秋が深まり、朝方寒さを感じるようになると、大気が澄み渡り、身の引き締るような清々しさを感しる。内玄関で来意を告げる声も澄み渡って、清々しく響くのである。「内玄関」から、親しい人の訪問とわかる。
正宗寺には、子規や漱石の選句稿なと筆跡が多く残されていたか、昭和八年二月の火災で焼失してしまった。
村上霽月はこの日の子規の来訪を「散策集に就て」に
此の日弊廬来訪は予告なく突然であった。丁度吾輩は雛鶏の痘疸に薬を塗って遣り居る庭へ、人力車が門前に停つて子規居士が恬然と見えたのてあった。シャツの上にネルの単衣を著て、兵子帯を締めて居られたと記憶する。
と記している。
子規の俳句(四一)
中川みえ
○観念の月晴れにけり我一人 (我観)
色かへぬ松は愛でたし竹ゆかし (愛松)
小山田や箕に干す粟の二三升 (箕山)
秋風や白雲迷ふ親不知 (不迷)
鐘を撞く叟の頭に柳散る (叟柳)
六寺に一人宿借る夜寒哉 (一宿)
石女の舜の花に漱かな (漱石)
行く秋や梅若寺の葭簀茶屋 (梅屋)
僧もなし山門閉ぢて萩の花 (花山)
石に触れて芭蕉驚く夜半哉 (半石)
売馬の進まず風の花芒 (馬風)
竹の窓南に秋の山近く (南竹)
秋の暮狸を伴て帰りけり (狸伴)
稲妻や天遠くして外が浜 (天外)
鼠追へば三匹逃げる夜寒哉 (三鼠)
馬牽くや松の下路乱れ萩 (松露)
碌堂といひける秋の男かな (碌堂)
明治二十八年作。
十月十四、五日頃、子規は体調が回復したので、帰京したいと言い出した。松風会員は申し合わせて、十七日の午後、二番町の料亭花廼舎て送別会を開いた。
明治二十八年十月十七日松風会諸子余のために祖筵を花廼舎に開く競吟終り酒めくる事三行戯れに坐中諸子の雅号を読み込みて俳句十有七百を得たり
(「留送別会」)
子規がこの時に出席者十七名の雅号を詠み込んだのが、掲出の句である。
この試みについて、上田都史氏は「酔会の一興としてなんの咎むべきところはない」と言いつつも、次のような苦言を呈しておられる。
俳句を文学として大切にし、厳粛に俳句に対するなら、敢てその戯れを俳句に遊はないのか、旧派宗匠俳句を完膚なきまてに批判し、「景物懸賞品を得るための器用として之を用うる者、其目的巳に文学以外に在り」と自らを自立させた子規の筋ではないであろうか。都々逸ても、端唄ても、河東静渓に指南を受けた五言絶句てもよい。潔癖に心をおかざるを得ないストイシスムこそ、あらまはしきものである。
(「近代俳句文学史」)
まことに摘切な指摘である。俳句を文学として確立しようとした子規は、そもそも「戯れに」なと句を詠んではならなかったのである。
漱石に別る
○
行く我にとゞまる汝に秋二つ
明治二十八年作。
柳原極堂の「友人子規」に依ると、子規は送別会を了って去るに臨み、「今夜これから三津浜に下り回漕店久保田に泊って君等を持つから、暇のある人は明日同慶へ遊ひに来給へ」と言い残し、翌日参集した松風会員らに見送られて、三津浜を発って行った。
掲出の句は、その時に漱石に贈ったものと思われる。
自分は今、ここから船に乗って東京へ向う。そして漱石君、君は僕の郷里の松山にとゞまる。昨日まで一緒に暮らしていた二人は、別々に住んで、別々の秋を迎えることになるのだなあ、という感慨を詠んだ句である。
この句を贈られた漱石も
子規送別
此夕野分に向いてわかれけり 漱石
御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花
秋の雲たゞむらむらと別れかな
見つつ往け旅に病むとも秋の富士
の送別の句を残している。
山本健吉氏は「現代俳句」に
この句は五十日ほど松山に滞在して、十月十九日に上京するとき、漱石に与へた留別の句である。「秋二つ」といふ表現が面白いので、採録した。もちろん
「行く我」の秋と「とゞまる汝」の秋との二つであり、惜別の情が二つの秋の内容を色づける。「秋二つ」といふ表現は、蕪村の「秋ふたつうきをますほの薄哉(永西法師はさうなきすきもの也し、世を去りてふたとせに成けれは)」から獲たのであろう。この句ては、「秋ふたつ」が時間的に並んでゐるが、子規の句では空間的に並んでゐる。「秋十とせ却て江戸を指す故郷」(芭蕉)「木曽路行ていざとしよらん秋ひとり(故人にわかる)」「去来去り移竹移りぬいく秋そ(古人烟舟亭をおもふ)」「身の秋や今宵をしのふ翌も有」(以上三句、蕪村)などの言ひ方が、参考にならう。なほ子規には、この前後に、「(前書略、出征してゐた飄亭が命を全うして帰り、須磨に療養中の彼を訪ねて来たときの句)秋風や生きてあひ見る汝と我」「我死なで君生きもせで秋の風(はじめて古白の墓を訪ふ)」なとの作もある。発想に共通したものが認められる。ただし、「秋二つ」と間接的に殺して、内に籠るものを豊かならしめたこの句の方が、まさってゐる。
と述べておられる。
子規は三津浜から広島に着き、須磨を再び訪ねた時には腰の骨が痛んて歩行困難になったが、ややよくなるのを待って大阪に出、奈良へ向った。
2003.8.26
子規の俳句(四一)
中川みえ
客舎に臥して
○行く秋の腰骨いたむ旅寝かな
明治二十八年作。
十月十九日に松山をたった子規は、広島を経て須磨を再び訪ねた時には、腰痛で歩行が困難になった。大阪から碧梧桐に宛てた手紙には、
小生も大分よろしくなり候故あつまの秋もこひしく須磨迄出稼候処婁麻質斯にや左の腰骨いたんで歩行困難に相成候 当地にては全く動けぬ程なりしを服薬の効によりて今日は大分心よく相成候 明日は少しはあ るき得べきかと楽み居候
と記してあった。この時子規がリウマチであろうと思っていた症状は、実はこの後終生彼を苦しみ悩ませることになる脊椎カリエスの最初の徴候であったのである。
奈良角定にて
○
大仏の足もとに寝る夜寒かな
明治二十八年作。
東京へ帰る途中の十月末の三日ほどを、子規は奈良に遊んだ。この時に宿泊したのが、前書にある「角定」で、対山楼ともいい、文化人の利用する宿泊所であった。
松井利彦氏は角定を訪ねて、子規在宿の折の宿帳を確認しておられる。そこには、
明治二八年十月二十六日
東京下谷区上根岸八十二番地
士族 無職業 正岡常規 二十八年
と記してあった。(「正岡子規」)
その宿は、「東大寺は自分の頭の上に当ってゐる位」(「くだもの」)のところにあり、子規は「大仏の足もとに寝る」と実感したのであった。
法隆寺
○行く秋をしぐれかけたり法隆寺
明治二十八年作。
法隆寺の伽藍の甍に、晴天のままバラバラと時雨が降ってきた。降ったと思うと、たちまち止む。蓑は濡れるほどもなく、行く秋の奈良の風情を、いっそう極立たせている。
行く秋を惜しむ気持と、晴雨模様が、古都奈良の情景と相俟って、ひときわ情趣の深い句となっている。
法隆寺の茶店に憩ひて
○柿くへば鐘か鳴るなり法隆寺
明治二十八年作。
子規は「くだもの」という随筆に
此時は柿が盛になってをる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいへない趣てあった。柿などといふものは従来詩人にも歌よみにも見放されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかった事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕食も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食へまいかといふと、もうありますといふ。余は国を出てから、十年程の間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速持て来いと命した。やがて下女は直径一尺五寸もありさうな錦手の大井鉢に山の如く柿を盛って来た。流石柿好きの余も驚いた。それから下女は余の為に庖丁を取て柿をむいてくれる様子である。(略)
やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうつとりとしてゐるとボーンという釣鐘の音が一つ聞えた。彼女は、オヤ初夜が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。余には此初夜といふものが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。東大寺が此頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですといふ。余が不思議さうにしてゐたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。成程東大寺は自分の頭の上に当ってゐる位である。
と記している。
この翌日かに子規は法隆寺へ行ったのであるが、そこの茶店に休んで鐘の音を聞いた時に、彼の意識の中では前夜の東大寺の鐘の音と、この時の鐘の音が一つに結びついて、
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
の一句が生れたのであろう。好物の柿と鐘のひゞきが、古都奈良にふさわしい趣のある句を生んだのである。
後年の「病牀六尺」に
○ホトトギス第五巻第十号に在る碧梧桐の獺祭書屋俳句帖抄〔子規著〕評の中に
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
この句を評して「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれ無かったであらうと書いてある。これは尤の説である。併しかうなるとやや句法が弱くなるかと思ふ。
という記載がある。碧梧桐の提示した句よりも原句の方が、無造作な詠みぶりながら十分推敲した、おもむきのある佳句であることは言うまでもない。