『春星』連載中の中川みえ氏の稿
5(4に続く)
子規の俳句(四三)
中川みえ
帰庵
○ 行く秋を生きて帰りし都かな
明治二十八年作。
この年の三月三日に意気洋々と東京を出発した子規は、満身創痍になって十月三十一日にようやく東京へ帰り着いた。
松山の帰途須磨、大阪を過ぎり奈良に遊んだが、其頃から腰部に疼痛を覚えると言って余の之を新橋に迎へた時のヘルメットを被つてゐる居士の顔色は予想して居ったよりも悪かった。須磨の保養院にゐた時の再生の悦びに充ちてゐた顔はもう見ることが出来無かった。居士は足をひきすりひきずり、プラットホームを歩いてゐた。「リヨマチのやうだ。」と居士は言った。けれども其はリヨマチては無かった。居士を病床に釘附けにして死に至るまで叫喚大叫喚せしめた脊髄膜炎は此時既に其症状を現はし来つつあったのであった。
(高浜虚子「子規居士と余」)
この春、周囲の人達の従軍を制する声も聞き入れず、
従軍の時
行かばわれ筆の花散る処まで
従軍の首途に
いくさかな我もいでたつ花に剣
と、勇み奮い立って戦地行を決行した子規は、
大砲の音も聞かす弾丸の雨にも逢はず腕に生疵一つの痛みなくておめおめと帰るを命冥加と言はゞ言へ故郷に還り着きて握りたる剣もまだ手より離さぬに畳の上に倒れて病魔と死生を争ふ事誰一人其愚を笑はぬものやある。
(「陣中日記」)
戦地では一発の砲声も聞かすに帰国の途に就いたのであるが、船中の大喀血で「生きて帰りし」と句に詠むような身の上になってしまった非運を、どのように感じたことであろうか。
病後
なまじひに生き残りたる暑かな
帰京
稲の秋命拾うて戻りけり
死にかけしこともありしが年忘れ
など、この年の句には、「死なで」「生きて」「命拾うて」などと、生死を直接生ま生ましい言葉で表現した句が多く見受けられる。
○ 団栗の落ちて沈むや山の池
明治二十八年作。
ひっそりとした晩秋の、山の中の池の水面に団栗が落ちた。団栗は一目水面に停まったが、アッという間に澄み渡った池の底へと沈んて行った。団栗が水面に接する音に、あたりの静寂がいっそう際立って感じられる。
「落ちて沈むや」と、短い時間の中にある時間の経過を感じさせる表現となっているのが注目点である。
病中
○ しぐるるや腰湯ぬるみて雁の声
明治二十八年作。
病中であったので、坐ったまま腰から下だけを湯に浸して湯あみをした。冬の初めの降りみ降らずみの時雨に些かぬるくなってしまったお湯に浸っていると、雁の声が聞こえて来た、というのである。
「腰湯」、さらにはそれが「ぬるみて」などと、およそ風流とはかけ離れた、卑俗な日常生活の一コマを切り取ったそのままの表現てあるが、そこに雁の声を取り入れることによって、一句を写実のみならす風雅をも感じさせる句に仕立てることが出来た。
○ 稲妻や檜ばかりの谷ひとつ
○
明治二十八年作。
青々と梢を揃えるように高く林立する檜の谷を、稲妻かピカッと光って照らし出す刹那の情景を詠み上げた句。
林立する檜の深い緑の谷を、青白い稲妻が上空から襲うさまを詠んた「凄涼の感のあらわれた作」(加藤楸邨「俳句往来」)で「刹那の勢いか把握されて力づよい」(同)作風の句である。
○ 村一つ渋柿勝に見ゆるかな
明治二十八年作。
高い所からの眺望の句である。柿が実る小さな村を一望する、柿の多くは渋柿のように見受けられる、という句である。甘柿よりも渋柿の多い村の、ひっそりしたたたすまいと、静かな実りの秋を、そっと覗いたそのままを句に詠み上げたもので、村の雰囲気がよく出ている。
加藤楸邨氏は「俳句往来」に
この句を読むと、すぐ蕪村の「灯して裏梅がちに見ゆるかな」が思いうかべられるであらう。
と指摘しておられる。
子規の俳句(四四)
中川みえ
○ 凩や鐘引きすてし道の端
明治二十八年作。
冬の日がとっぷり暮れて、道の端に大きな鐘が引き捨てられたように置き去りになっている。おおかた寺に運ぶ鐘で、運搬の途中で日が暮れてしまったので、そこへそのまま置き去りにしたのであろうが、凩の吹きしきる道端に捨てられたように置かれた大きな鐘は、いかにも不気味である。
子規はこの句について、碧梧桐の「『獺祭書屋俳句帖抄』〔子規著〕評」(「ホトトギス」第五巻第十号所収)に答えて、「病牀六尺」に
これは予の趣向は大きな釣鐘を寺へ曳つぱって行く道で日が暮れたものであるから、その釣鐘はその夜一夜は道のはたに曳き捨てて置く、その時の光景を詠んだ積りなので、従って時は日の暮か若しくは夜の積り、さうして講中の人数なとは無論家に帰ってしまふて、ここには居られぬのてある。いはば道のはたで大釣鐘が独り立って居るといふやうな物凄い淋しい場合を趣向に取った積りであるから、木枯を配合したのである。
と自解している。
日が短くなった初冬の道端に、大きな釣鐘が放置されている異常な光景と共に、凩が鐘に当って響く不気味な音まて聞こえて来るような臨場感を感しさせる句である。
○ 語りけり大つごもりの来ぬところ
漱石虚子来る
漱石が来て虚子が来て大三十日
漱石来るべき約あり
梅活けて君待つ庵の大三十日
足柄はさぞ寒かったでこざんしよう
明治二十八年作。
漱石はこの年五月、神戸病院に入院中の子規に、病気見舞かたがた「小子近頃俳文に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と手紙で言って来た。第一回の句稿を九月二十三日に送って来たのを嚆矢として、三十二年十月十七日まて三十五回に渡って膨大な数の句を子規のもとに送って、批評と添削を乞うた。
粟津則雄氏は「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編)の解説でこのことに触れて、
ロンドン留学の前年、明治三十二年の十月まで、これほどの数の句稿を送り続けるのは、ただ作句熱と言うだけでは片付くまい。もちろん、ひとつには、俳句が、手紙とちがって、自分の経験や印象や感慨を端的直載に示しうるからだろうが、同時にそこには、病床の子規を楽しませたいという心配りが働いていたと見るべきだろう。
と述べておられる。
漱石は句稿に添えた手紙の中で、この年十二月に上京する旨伝えて来た。この時期漱石には縁談があって、そのことなども子規に手紙で相談していたようである。
漱石は十二月二十七日に上京して、翌日、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合をし、婚約した。
大みそかに訪ねて来るという漱石を、子規は梅を活けて、こたつをあたためて、楽しみに持っていたのである。
大みそかには虚子も訪ねてきた。
この月の幾日かに、子規は道潅山の茶店に虚子を誘い、先に須磨で言い出した後継委嘱問題を改めて切り出して、虚子の意向を問い正した。
文学者になるためには、何よりも学問をすることだ、と説く子規に、厭てたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない、と虚子は答えた。会談は決裂した。
子規と虚子の間は少々ぎくしゃくしたが、それでも大みそかに虚子はやって来た。子規は最も信頼する友漱石と、一番好きてあった虚子の来訪を心待ちにしていたのである。
漱石は一月七日まで東京に滞在して、子規庵初句会(一月三日)にも出席した。
この年を振り返って、子規は次のように記している。
明治二十八年といふ歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身は取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍らそれ程一身に大切な年であるにかかはらず俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ。(略)幾多の智識と感情とは永久に余の心に印記せられたことであらうがそれは俳句の上に何等の影響をも及ぼさなかった。七月頃神戸の病院にあって病の少しく快くなった時傍に居た碧梧桐が課題の俳句百首許りを作らうと言ふのを聞て自分も一日に四十題許りを作った。其時に何だか少し進歩したかの様に思ふて自分で嬉しかつたのは嘘であらう。二ヶ月程も全く死んで居た俳句が僅かに蘇ったと云ふ迄の事て此年は病余の勢力甚だ振はなかった。尤も秋の末に二三日奈良めぐりをして矢鱈に駄句を吐いたのは自分に取っては非常に嬉しかった。
(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)
子規の俳句(四五)
中川みえ
三十而立と古の人もいはれけん
○今年はと思ふことなきにしもあらず
明治二十九年作。
この年三十才(数え年)になった子規の、今年こそはという秘かにひとり期する気持を詠んだ句である。
前年末、虚子に後継を委嘱して断られた時に、五百木飄亭に宛てて記した長文の手紙の末尾に、
小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。死はますます近づきぬ。文学はやうやく佳境に入りぬ。
と記した気持の高ぶりが、後を引いたような句である。「あり」ではなく、「なきにしもあらず」としたところに、この病む身で果して出来るだろうかという不安と、実現へのはかない願望が、色濃く表出されている。
○ 元日の人通りとはなりにけり
明治二十九年作。
年の瀬の慌しい、騒々しい、人の往来は、大晦日を一夜明けると、前日までとはうって変って、のんびりした正月らしい雰囲気になっている。
着飾って年始回りや神詣に出掛ける人達の、改まった、ゆったりした人通りは、いかにも正月らしいものだなあという感慨を句に詠んだものである。
年の暮と新年のちがいを、人通りによって感じとり、それを無雑作に率直に詠んだところが巧みである。
従来の月並俳句では、元日の句などにはことさら趣向を凝らし、理窟や小細工を弄するものが多く見られたが、そうした理窟を排して、元日らしい人通りに着目して、そのことたけで一句を成立させたところに、かえって新鮮さが感じられる。
寒川鼠骨は、この句を「元日の」で切って、
元日の市中は余り人通りもなく、平日よりかは至って静かなものである。それが日も早や高く昇ってくるにつれて、そろそろ廻礼の人が通るやうになる。
(「子規俳句評釈」)
と解釈するが、それよりも、人通りの変化に、正月が来たことを実感し、その感慨を無雑作に詠んだと見るべきで、その方が正月気分をより強く感じさせると思われる。高浜虚子の「子規について」に拠ると、この句か出来たのは一月三日の子規庵での初句会の席であった。午後から三回の運座が催され、その一回目の出句である。
第一回目は、子規、鳴雪、漱石、飄亭、可全、虚子の六人で行い、題は、霜月、麓川(下五文字、夏季)枯野富士(冬季)暁の(上五文字、春季)鮟鱇、明けにけり(下五文字、冬季)元日、水仙、うかうかと(上五文字、秋季)雪、厨(冬季)の十二題で、袋廻しという方法で行った。
袋廻しというのは、「銘々の前に状袋が二つあり、一つには霜月と、一つには麓川(下五文字、夏季)といふ題が記されて居り、それが順に廻送されて、各人が題の数だけの句を作るといふ方式」(「子規について」)で、「その時分の月並宗匠のやって居った方法を踏襲」(「同」)して行ったのであるが、そこで作られた句は、幼稚ながらも「月並臭は全く脱却して居った」(「同」)と虚子は証言している。
互選の結果は、子規十二点、鳴雪九点、虚子八点、飄亭六点、漱石四点、可全三点で、次のような句である。
元日の人通りとはなりにけり 子 規
暁の白粥うすき桜かな 虚 子
暁の夢かとぞ思ふ朧かな 漱 石
うかうかと風引く秋の夕かな 虚 子
うかうかと我門過ぐる月夜かな 漱 石
第二回には、鴎外と碧梧桐が加わった。但し鴎外は遅く来たので、この回は選句のみに参加した。
課題は、冬住居、野末(夏季)霜、日影かな(下五文字、冬季)紙衣、干網(春季)神輿部屋(下五文字、秋季)うつむいて(上五文字、冬季)蒲団、蓬莱、冬木、赤い実の(上五文字、冬季)煤払、鷹、の十四題で、虚子十六点、飄亭十四点、碧梧桐、漱石、子規各十三点、可全六点、鳴雪五点という結果であった。
うつむいて物申したる寒さかな 碧梧桐
蓬莱の小さく見ゆる書院かな 子 規
ものものし冬木聳ゆる門構 飄 亭
めでたしや凡そ蓬莱熨斗昆布 虚 子
歌書いて詩書いて紙衣贈りけり 飄 亭
第三回も同じメンハーで、多少疲労したからか、日暮になった為か、露、土手の上(下五文字、冬季)雪洞(冬季)冬川、夕烏(冬季)の五題であった。
井戸端の鍋も盥も霰かな 鳴 雪
冬川の家鴨よごれて集ひげり 碧梧桐
おもひ切って出で立つ門の霰かな 鴎 外
雪洞に千鳥聞く須磨の内裏かな 子 規
互選結果は、子規八点、飄亭、漱石、碧梧桐各六点、鳴雪五点、虚子四点、可全三点、鴎外二点であった。
ちなみに、碧梧桐はこの時の選句で、鴎外の「おもひ切って出で立つ門の霰かな」を天位に採った。
鴎外が子規庵の句会に出席したのはこの時が初めてであり、子規、鴎外、漱石が一堂に顔を揃えたのもこの時が初めてゞ、そして又終りででもあった。
子規の俳句(四六)
中川みえ
○
春風にこぼれて赤し歯磨粉
明治二十九年作。
春になって暖く柔らかく心地よい風が吹くようになった。朝、顔を洗おうと思って歯ブラシに歯磨粉をつけたその時、思いがけない強い風が吹いてきて、歯磨粉がパッとあたりにとび散った。その歯磨粉は鮮やかな赤い色だった、という句で、歯磨粉の鮮やかな赤い色の色彩感がこの句の中心である。
この句について虚子は、
この句が当時我等の注意を惹いた主な点は、歯磨粉といふやうな卑近なものを材料として、斯ういふ句を成し得たといふ、未だ写生としては初歩であった時代の我等に強い刺戟を与へた。
(「子規句集講義」)
と評している。
松井利彦氏は、
写生――事実に基いて発想するとするゆき方が、漸く一つの新らしい傾向、印象明瞭な句風を生み出しはじめた、その子規に見られた実りであったといえよう。
(「正岡子規」)
と評価しておられる。
流暢体
○一桶の藍流しけり春の川
明治二十九年作。
山の雪解けなどで水量の増加した春の川へ、染物屋が一桶の藍を棄て流した。はじめは川水に溶け込まず、一すじの藍色の帯になって流れていた藍は、川水と混り合ってまたたく間に藍色の水に変ってゆく。無色透明の川の水が瞬時に藍色に染ってゆく変化が、一句の中心である。
子規はこの句について、碧梧桐の「獺祭書屋俳句帖抄(子規著)評」に答えて、次のように記している。
この句を評して「一桶の」といふのは実際桶に入れて蓋を棄てたといふので無くて染物を洗ふ為め水の染んでゐる具合を云々といふてある。併し余の趣向はさうで無い。実際一桶の藍を流したので、これは東京では知らぬが田舎の紺屋にはよくある事てある。
(「病牀六尺」)
流暢体は、子規の分類した句体の一つて、この年の一月から四月に渡って「日本」に発表した「俳句二十四体」では、「真率体」「即興体」「即景体」「音調体」「擬人体」「広大体」「勇壮体」「勁抜体」「雅僕体」「艶麗体」「繊細体」「滑稽体」「奇警体」「妖怪体」「祝賀体」「悲傷体」「流暢体」「桔屈体」「天然体」 「人事体」「主観体」「客観体」「絵画体」「神韻体」と多岐に渡る作風を提示している。
このうち「流暢体」については、「句調の安らかに語呂の滑らかなる句をいふ」と定義している。
○
行く春やほうほうとして蓬原
明治十九年作。
蓬は菊科の多年草で山野に自生する。春の初めにはここで摘草をして、蓬の若い葉っぱで草餅を作ったものだが、その蓬も今はもうすっかり伸び繁って、ここはぼうほうとした蓬原になっている。ああ、もう春も終るのだなあ、という惜春の情を強く詠歎した句である。
○
目さませば我裾に春の月出たり
明冶二十九年作。
夜中にふと目か覚め。 病臥の裾の方に目をやると、大きな春の月か出ていた、という即事の句。
「常臥の床にゐた子規居士の境遇に居るのでなければ、ちょっと思いつき難い句」(寒川鼠骨「子規居士の世界」)であり、「みずみずしいうるみを帯びた春の日が、病床にもたらしたおどろきとよろこびが、『我裾に春の月出たり』というところにみごとに把握され」「病者の孤独な夜の姿が生きている」(加藤楸邨「俳句往来」)句である。
三月三日古白の遣稿など取り出したるに
○ 雛祭古白に妻はなかりしよ
明治二十九年作。
古白は藤野古白。前年、子規の従軍中にピストル自殺をはかった、子規の従弟。
古白は遺書に「願わくは余の死後に拙劣なるわが文章筆蹟などを棄却し給へ」と記したが、子規は「余のこれを集むるにまた幾はくか伝うるに足るものあるを期したり」と手元にとどめ置き、翌年、遺稿に「藤野潔の伝」や追弔詩文を添えて「古白遺稿」を刊行した。
古白の遺稿を取り出してみた。折から三月三日の雛の節句である。飾られた雛の顔を見ているうちに、ふと前年の春二十四才の若さで衝撃的な死を遂げた従弟の古白に妻がいなかったことに思いが及ひ、同しように妻がなく、これからも要ることはないであろう自分の境涯に、思いが及ふのであった。
子規の俳句(四七)
中川みえ
○ 萩桔梗撫子なんど萌えにけり
一八の一輪白し春の暮
明治二十九年作。
子規の健康状態は、一月中は久松伯凱凱旋の祝宴に出席するなど外出も出来たが、二月頃から左の腰の痛みがひどくなり、身動きも容易に出来なくなった。
三月十七日に医師の診察を受けて、それまで自分も周囲の人達も僂麻質斯であると思っていた腰痛が、結核性の脊髄炎であることが判明した。
僂麻質斯にあらぬことは僕も略服定して居たり。今更驚くべきわけもなし。(略)然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臓の鼓動を感ずる迄に驚きたるにはあらず。医師に対していふべき言葉の五秒間遅れたるなり
と虚子にこのことを伝えた三月十七日付の手紙には、更に次のように記してあった。
世間野心多き者多し。然れども余れ程野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるる者多し。されども余れ程の大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句の上に於てのみ多少野心を洩らしたり。されどもそれさへ未だ十分ならす。縦し俳句に於て思ふままに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無窮大なるに比して僅かに零を値するのみ
(三月十七日付 高浜虚子宛書簡)
医師から結核性脊髄炎という前途の短い病であることを宣告された子規は、一時世間的野心の問題で頭か混乱したが、残された体力や時間を推定したときに、やはり俳句に立ち戻らざるを得なかった。
この年の四月二十一日から年末迄、子規は「日本」に「松羅玉液」を連載した。子規の四大随筆と称されるものの最初の一篇である。
「松羅玉液」という題名は、最終回(十二月三十一日)に記した「松羅玉液子を祭る」によると、中国産の墨の銘に由来する。この愛用の墨を駆使して、子規はさまざまなことを論じた。
過去の記憶を延らせ、書を繙き、興味を持った事柄を自在に論した。ベースボールの紹介文では、独自に野球用語を訳出、造語し、詳細な説明を克明に記して、子規の面目躍如のおもむきがある。
「松羅玉液」の書き出しは、掲出の二句を添えた「病やや間あり」である。
○病やや間あり杖にすがりて手のひらほどの小庭を俳個す。日うららかに照して鳥空を飛ぶ。心よきこといはん方なし。二、三本の小松は緑のびて凌雲の勢をあらはし一尺ばかりの薔薇は莟ふくれて一点の朱唇を見る。秋草はわづかに芽を出していまだ萩とも桔梗とも知らぬに一もとの紫羅傘は巳に一輪の白花を開く。雨後土いまだ乾かぬ処にささやかなる虫のうこめくはこれも命あればなるべし
萩桔梗撫子なんと萌えにけり
一八の一輪白し春の暮
(「松羅玉液」)
四月の初に、杖にすがって庭に立ち、春の庭のおもむきを楽しんだよるこびが、「命あればなるべし」の語と共に、二句に凝縮されている。
○
春雨のわれまぼろしに近き身ぞ
明治二十九年作。
しとしと降る春雨に、ふと思うと、自分は今にも消えゆくような、まぼろしに近い身であることよ、という意。
四月十九日、不忍弁天僧房に於て、藤野古白の一周忌の追悼句会か催された。当日は雨天であったし、気分がすぐれなかったので、子規は出席を断念した。
○古白一周忌とはなりぬ。うたて古白今頃は何処に迷ひをるらん。(略)古白かってわれを恨めり。今や白雲の中よりわれを招くが如し。その追悼会にも得行かざりけれは
春雨のわれまぼろしに近き身ぞ
(「松羅玉液」四月二十三日)
三月十七日に、腰痛の原因がリウマチではなくて、脊髄カリエスであると、医師から知らされた子規のショックは、なみなみならぬものであったと思われる。脊髄カリエスという事実に、子規は死をいよいよ身近に感じざるを得なくなった。
そういう状況になって古白の死を改めて考えてみた時に、古白は「今や白雲の中よりわれを招くが如」く感じられ、わが身は「まほろしに近き」と思うのも当然のことと言えようo
寒川鼠骨は「子規居士の俳句研究」に「平凡だが、居士として見れば、寂しい気分がする」と解評している。
四月十二日の夜に記した「寒山落木」巻四(明治二十八年)の「ことわり書」には
此日藤野古白の一周忌に当る。余一月下旬より腰痛みて足立たず三四日前よりやうやう杖にすがりて少し許り歩む程になりたるに快極まらず今昨年の俳句稿を浄書し終りて更に心身の豁然たるを覚ゆ余未だ死せず
と記してあった。
○病やや間あり杖にすがりて手のひらほどの小庭を徘徊す。日うららかに照して鳥空を飛ぶ。心よきこといはん方なし。二、三本の小松は緑のびて凌雲の勢をあらはし一尺ばかりの薔薇は莟ふくれて一点の朱唇を見る。秋草はわづかに芽を出していまだ萩とも桔梗とも知らぬに一もとの紫羅傘は巳に一輪の白花を開く。雨後土いまだ乾かぬ処にささやかなる虫のうごめくはこれも命あればなるべし
萩桔梗撫子なんと萌えにけり
一八の一輪白し春の暮
(「松羅玉液」)
四月の初に、杖にすがって庭に立ち、春の庭のおもむきを楽しんだよるこびが、「命あればなるべし」の語と共に、二句に凝縮されている。
子規の俳句(四八)
中川みえ
○
凛として牡丹動かず真昼中
○
明治二十九年作。
五月二十五日の「松羅玉液」に、蕪村の牡丹の句に触発されて作った牡丹の句十句が掲載されている。
廃苑に蜘の囲閉づる牡丹かな
牡丹伐って其夜嵐の音すなり
宰相の詩会催す牡丹かな
薄月夜牡丹の露のこぼれけり
卓一脚香消えなんとする牡丹かな
廊下より手燭さし出す牡丹かな
凛として牡丹動かず真昼中
昼中の雲影移る牡丹かな
篝火の燃えやうつらん白牡丹
花震ふ大雨の中の牡丹かな
これらの句には、蕪村調、あるいは蕪村の句が背景に色濃く感じられるが、掲出の句は、真昼中の牡丹の張り満ちた動かぬ姿が、「凛として」という言葉と共に、確かな実感として伝わってくる。
子規の蕪村への関心は、明治二十六年頃からで、初期の俳論に於て中興俳諧を代表する俳人としてしはしば名を挙げているが、そこでは、也有、暁臺、蓼太、闌更などと共に(「歳旦閑話」「大島蓼太」)、あるいは暁臺闌更と共に(「芭蕉雑談」)言及されているにすぎなかった。
明治二十七年五月に「小日本」に掲載された「俳諧一口話」の「天明の五傑」では
俳諧は元禄以後全く地に堕ちて徒らに卑しき俗なるものとなりしを安永天明に至りて中興したるなり此間に出でたる五傑あり即ち 夜半亭蕪村 暮雨庵暁臺 半化坊蘭更 春秋庵白雄 雪中庵蓼太なり
と述べ、蕪村の句の特色として「漢語を多く用うる」「句体の硬き方に傾むる」を挙げ、五人を比較して「俳諧の価値より評せんに佳句の最も多きは蕪村」であると言いながらも「五人各々巧拙ありされど終に天明の五傑たるに恥ぢざるなり」と評価し、この時点ではまだ蕪村を芭蕉と対比し得るようなぬきんでた俳人とは見ていない。
当時蕪村句集が容易に手に入らなかったこともあるが、子規が写生に目ざめ、これを作句の柱としたことから、蕪村の空想を発想とする手法の句を評価することについては、微妙なゆれがあったからだと思われる。
ところが、
子規帰東後のことと思ふが、蕪村の「新花摘」の発見は、サァ根底からと言ってもいい程、先づ子規を動かし、その感奮が我々にも伝染して、初めて俳句の大鉄槌で脳天をなぐられた驚きを感してゐた。俳句の神様にしてゐる芭蕉は、世間で崇拝する程の仕事をしてゐるかどうか、随分月並臭い句が多いぢやないか、と世間に追随することを潔しとしなかった独特の反抗も手伝って、古人恐るるに足らず位の気焔を挙げてゐた我々も、「新花摘」には一も二もなく参ってしまってゐた。それまでに持ってゐた俳句の概念が、俳句とはかういふ程度のものだと多寡を括ってゐた観念が「新花摘」によって動揺したのだから、我々の俳句観念もここに一エポックを画したと言ってもいいのだった。
(河東碧梧桐「子規の回想」)
蕪村の新花摘の句をいたく感心したのは此年の一小出来事である。新花摘といふのは蕪村の日記であって而かも蕪村の死後に出版せられたものであるから少しも選択の無い所即ち蕪村の木地が見えて居る。それが蕪村と逢ふて話しでもするやうに思はれて非常に愉快を感ずると同時に蕪村調の俳句の味が始めてわかったやうな心持がした。
(「獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」)
子規は「新花摘の句は同じ題で七八句位作ってある。而かも其れが同じ日の中に書いてある」(「同」)ことに倣って、掲出の牡丹十句を試みたのを塙矢として、一題十句ということを頻りに行うようになった。
○一題十句といふことをものし初めたるは今年夏の初なりけん。
(「松羅玉液」八月二十四日)
一題十句は、子規のみならず、この年の夏以来毎月十人内外が子規庵に参集して行われていた句会の参加者にも採用され、やがて十句集、回覧式十句集も始った。
蕪村調といふものが、どんなものであるかも十分研めず、単に其の形骸の模倣に努め、「新花摘」によって示された一題十句を、句作の最善の方法だと心得たりして、半ば浮かれ調子であった当時の我々は、言はば傍若無人でもあったが、其の余勢に生れた、虚子を先陣としての我々の新調、又た乱調なるものは、とりも直さす、我々の当時の雑煩的心境を反映したものであった。我々の不平不安、心の焦燥、どうともなれ、構ふもんか、と言った捨鉢的な気分の濃厚な雰囲気に、蕪村の魂が乗り移った。そんな気のする新調であり乱調であつた。
(河東碧梧桐「子規の回想」)
蕪村の句に触発されて新たな句作指針を掴んだ彼らは、「明治二十九年の俳句界」に論述される新調を生んだ。
子規の俳句(四九)
中川みえ
○ 塔に上ぼれば南住吉薄霞 鳴把野
山門に鹿の寝て居る日永かな 鳴
阪道や桜の上に寺一つ 肋楽
禅寺に何もなきこそ涼しけれ 鳴愚東
時鳥雨をあびたる小寺かな 玲
僧吝し本堂脇の茄子畑 繞基碧墨
僧房を借りて人住む萩の花 碧
芭蕉青く鶏頭赤き野寺かな 玲肋愚墨
明寺の霜枯に蹄く鼬かな 玲肋炭東
ふりやむや雪に灯ともる峰の寺 繞肋碧墨楽
明治二十九年作。
蕪村の「新花摘」に触発されて始った一題十句(前月号参照)は、更に派生して、十句集や回覧の十句集ということが始った。一題十句は、一つの季題によって十句を作り、十句集の方は、寺とか女とかという題材を定めて、それによって十句作るというもので、回覧十句集は、在京俳人を中心に、十句集の回覧を行ったものである。
もちろん子規の発案で
幹事へ締切日までに課題に対しての十句を送る。幹事は出句者の名を現はさすに句だけ半紙に連記し、綴つて回覧に附する。出句者は出句全体のうちから所定数の好句を選んで幹事へ送る。幹事に返って来た句集に、 句の下へ出句者の雅号を記入して再び回覧に供するといふ仕組であった。
(大谷繞石「十句集のことゞも」)
掲出の句は、明治二十九年九月の回覧十句集の子規の作品で、実際には選者名は句の上に記してある。
この回の課題は「寺」で、十四名が出句した。最多得点句は
市中の小さき寺や初桜 碧梧桐
で、子規の「ふりやむや」が次点、トータルで最高点を獲得したのは子規であった
ちなみに、選者名の、鳴は内藤鳴雪、把は福田把栗、楽は中村楽天、肋は佐藤肋骨、東は岸本東雲、愚は折井愚哉、玲は直野碧玲瓏、墨は梅津墨水、碧は河東碧梧桐、其は中村其村、繞は大谷繞石、である。
回覧十句集は、在京俳人を対象にした企画であったが、非常に盛況で、参加希望者が多いので、三十一年八月の「洋語十句集」の表紙裏に、あらためて参加資格(o東京市内居住者、o東京在住中の投句者で転居した者、o前二項の概当者と同一市町村に在住する者)を掲載して参加者を制限するほどであった。
この年の夏以来、子規庵では毎月十名前後が集まって俳句会が開かれるようになっていたが、課題を定めて十句を作り、その出来栄えを競うという十句集の試みは、これらの人々にも受け入れられ、句作熱を刺戟した。句会に出席しないでも参加出来る回覧十句集には、更に多くの人が参集したのも当然のなりゆきであろう。
この頃、子規の傘下には、佐藤紅緑、石井露月、夏目漱石、福田把栗、梅津墨水、中村其村、など新進の作者が集まって来て、例会の作に、新聞の句に台頭し、先輩の虚子や碧梧桐の背後に追って来た。松風会の発生メンバー野間叟柳、後に加わった柳原極堂、村上露月の活躍も刺戟になり、虚子や碧梧桐も焦燥感にかられて、放埓な生活を続けるわけにはゆかなくなって、句作の先頭に立つようになった。
機は熟したと言えるであろう。後輩の台頭に刺戟されたところへ、蕪村の「新花摘」の発見による俳句開眼、更に一題十句が起爆剤となって、子規派の特に虚子と碧梧桐の俳句に自覚しい変化が派生した。「明治二十九年の俳諧」(明治三十年「日本」)にはなばなしく取り上げられた、いわゆる“新調""乱調"である。
子規はこの論で、碧梧桐の俳句の特色を印象明瞭と言い、虚子の特色を、短詩型俳句に不向きな時間的活動を表現し得た点と、複雑なる人事を取り入れた点にある、と分析した。当時一部に流行した変調の句についても、「虚栗」その他の古句を例示して破調を論した。
当時の虚子の奔放自在な詠みぶりは、一時新調の極みとも言える五七五調を逸脱した乱調に至り、ものめずらしさからこれが地方にまで風靡し、極端な乱調が流行して、日本派内部に批判の声で挙がったこともあったが、やがてその弊害が目につくようになって、一年はかりで沈静化した。
乱調のおさまった後のことであるが、子規は一題十句の効用を次のように語っている。
一題十句を作るといふのは無理なやうであるが、題に対して自己が目前に見る自然、もしくはその題の事物を、わざわざ見聞に行くなどして作れば何でもないことであり、また見聞に行けぬにしても、かつて自己が見聞したことを想ひ起して、それにより、その題であるところの事物の自然に生ずるところの、さまざまの趣を捉へて作れば、少しも無理でもなければ困難でもないばかりか、かへつて面白い句が出来るものである。題に出た事物を静かに子細に観察してゐると、そこに思ひもよらぬ面白い趣を発見するものである。つまり一つのものを、上からも見、下からも見、縦からも見、横からも見るといふやうに、丁寧に観察すると、その見る方面によって異る趣があり、意外な発見もあるものである。
(寒川鼠骨「子規居士の俳句研究」)
子規の俳句(五○)
中川みえ
○ 夕風や白薔薇の花皆動く
明治二十九年作。
夕方になって、涼しい風が心地よく吹いて来た。その風に白薔薇の花がみな動いている、という何でもない景を詠んだ句であるが、白薔薇の清楚さと、花を揺り動かしている夕風の軽快さが伝わってくる。
五月二十日の高浜虚子宛の書簡に記されている句で、他に
赤薔薇や萌黄の蜘蛛の這ふて居る
の句が記されている。
○
山門に雲を吹きこむ若葉かな
明治二十九年作。
山門は寺院の門で、楼門や二階造りの楼門などをもいう。ここでは「雲を吹きこむ」と詠まれているので、高く費え立つ堂々とした古寺の山門であろうと思われる。
初夏になって、木々がみずみずしい若葉をつけて、その艶が照りかゞやいている。若葉にとり囲まれてどっしりと立つ大きな山門に、雲が吹きこまれるように見える状景を詠んだ句で、大きな山門と雲の動きを写生的にとらえた初夏らしい景趣が、清々しく雄大に表現されている。
○
潮引いて泥に日の照る暑さかな
明治二十九年作。
潮の引いた後に現われた泥に、真夏のギラギラした太陽が照りつけて、その照り返しは、たまらない暑さである、という句。
潮の引いたあとに、砂ではなく泥が現われたというのであるから、この句に詠まれたのは、市街地に隣接する河口の近くであろう。
真夏の太陽に灼かれた地面の照返しの暑さは格別のものである。それでも、砂浜に灼かれたのであれば、からっとした暑さであるが、この句に詠まれたのは、潮の引いた後のべたべたした干潟であるから、そこに照りつける太陽の照り返しは、たまらない暑さである。
「暑さ」を写生によって具体的に表現した句である。
○ 親はまだ衣更ふべくも見えざりき
病中
人は皆衣など更へて来りけり
明治二十九年作。
更衣の時節になった。子には更衣をさせたが、自分の身にまでは及ばない親の哀れさを詠んだのが前の句、詠ねて来た人がみな、夏らしい軽快なよそおいであるのに、病臥の身では更衣なども忘れている、今更ながら病人であることを実感する、というのが後の句である。
冷暖房の整った、季節感の薄れた現代とはちがって、この時代の人々は、きちんと暦通りに更衣を行っていた。定め通りに更衣を行わないでいる自分の生活を思うとき、世間から取り残されたようなさびしさ、疎外感をふと感じて句にしたのであろう。
「衣を更へて」ではなく、「衣など更へて」と詠んだところに、「限りない羨望の情が流れている」(「俳句往来」)と加藤徹郎氏は評し、「子規独自の境涯が生かされてきている。」(「同」)と言われる。
足の立たぬ病にふせりて
○ 羽ぬけ鳥腰ぬけ鳥は人なりけり
明治二十九年作。
夏が来て、羽の生え替るため鳥の羽は抜ける。そのことから諧謔して、羽の抜けたのは鳥で、腰のぬけたのは人=自分=であった、と詠んだ句である。
この年の春の句に、
腰の疾にかかりて
起たんとす腰のつがひの冴返る
病
鴬のなけども腰の立たぬなり
がある。二月の寒さの冴え返る季節に、起とうとしたが、腰のつがいがぐらぐらして起き上れなかった、というのが最初の句、春が来て鶯が啼いている、しかし自分はまだ腰が立たないので、春が来たのにさびしく床に就いている、というのが後の句である。
この二句では、待ちに待った春が来たのに、自分は立とうとしても腰のつがひが冴え返る寒さに動かない、鶯が啼くようになったのに、まだ腰が立たない、と春になっても腰の立たないそのことを、そのまま句にしているのであるが、この時には、もう少し瞬くなったら、また立てるようになるだろうと、希望を抱いていたにちがいない。ところが「羽抜鳥」の句では、前書に「足の立たぬ病」と記して、足の立たぬままの身になってしまったことを受容して、自らを腰ぬけ鳥と囃し、「人なりけり」と他人事のように表現した。ユーモアを交えて、自らを憐み、自ら慰んでいる句であるが、子規の境涯を思うと、さびしさ、哀しささえ感じられる句である。
子規の俳句(五一)
中川みえ
漱石新婚
○ 蓁々たる桃の若葉や君娶る
明治二十九年作。
六月九日 夏目漱石は自宅で中根鏡子と結婚式を挙げた。子規は漱石の結婚を祝して、掲出の句を贈った。
「蓁々」は、「詩経」周南の「桃之夭々 其葉蓁々」に由来し、盛んに茂るさまから、繁栄を祈念する祝意の語として用いている。
子規も漱石も漢詩の素養があったことから、このような表現になったと思われる。
漱石からは、結婚式の翌日の十日付の短い手紙に
衣更へて京より嫁を貰ひげり 愚陀仏
の句が添えられていた。
○
夏嵐机上の白紙飛び尽す
明治二十九年作。
暑い夏の日に、さっと吹き渡る涼しく強い風に、机の上に積み重ねてあった白紙が飛び散ったという句である。「飛び尽す」と詠まれているので、白紙はある程度の嵩があったと思われる。それが全部飛び尽すまでには、何度も涼しい強風が吹いたと解釈するか、それとも、部厚く積まれた白紙を、強い風がさっと一時に吹き飛ばしたと解釈するか、二通り考えられるが、いずれにしても、暑い夏の日に強い風に吹き飛ばされて散らばっている白紙のすがすがしさは、夏らしく句趣である。
加藤楸邨は「俳句往来」に
机上の白紙が飛び尽すところに壮快な勢いを感じとったもの。響くような声調が力強い。
と言われ、同じ年に作られた
夕風や白薔薇の花皆動く
(前月号参照)と、この句を対比して、「夕風や」の句は「繊細な味わいを声調に生かしたもの」であり、この句は「響くような声調が力強い句である」と鑑賞しておられる。
○ 洪水や下駄も真桑もほかほかと
明治二十九年作。
梅雨出水であろうか、それとも台風の大雨の被害であろうか。大雨の後の洪水に、下駄や真桑瓜がほかほかと浮いているという句である。
洪水の句でありながら、洪水のすさまじさ、恐ろしさではなくて、下駄や真桑が浮いているというユーモラスな場面を切り取って句材にしたのが面白い。下駄や真桑の浮んで流れるさまを表現する擬態語も「ほかほかと」という長閑なのんびりした瓢逸味のあるものを用いて、洪水のピークが過ぎ去った後のあたりの情景を、写生句ならではの生彩のある句に仕立てている。
この年十一月に「日本人」に発表した新体詩「洪水」には
見る見る水は背戸口を
くぐり来りて庭さきの
凹み凸みを盈たしつつ
小草を浸し石を洗ひ
床の下迄押し行けば
只一面の泥水に
足駄ただよひ箒浮き
萩も薄も水草と
さそはれつつぞ騒ぐなる
という一節がある。
仏国にて写されたる叔父君の写真を見るにいたく肥えたまひければ
○ ふらんすに夏痩なんどなかるべし
明治二十九年作。
この句の前書にある叔父は、子規の母八重の弟の恒忠(拓川)である。
恒忠の父(子規の祖父)大原有恒(観山)は藩の儒者で、三津浜御舟手の加藤重孝の第三子に生れたが、大原恒固に嫁した姉に子が無かったので、養嗣となって大原家を継承した。
有恒は、藩の漢学賛歌原松陽の娘しげと結婚して、四男三女を持った。長男小太郎は早世したので、次男恒徳(蕉雨)が太原家を継ぎ、正岡家の後見をもつとめた。三男恒忠(拓川)は、父方の加藤家を継いで再興し、四男恒元(三鼠)は、祖母家岡村を嗣いだ。長女八重(子規の母)は、正岡隼太に嫁し、次女十重(古白の母)は藤野漸に、三女三重は岸重細崔に嫁した。
恒忠は東京へ出て、当時司法省が秀才養成のために設立した司法省法学校(東京大学法学部の前身)に進学して法律を専修する傍ら、中江兆民の塾でフランス語を学び、卒業後は外務省に入った。法律学校時代の学友で、生涯の友誼をむすんだのが陸褐南だったのである。
子規は上京希望の思いを何度も恒忠に書き送り、その都度反対されていたが、恒忠が旧主久松家の当主の随行でフランス留学が決したことから、上京が許された。掲出の句は、そのフランスに居る叔父に思いを及ぼしたもので、日常的な軽快な句調で、飄逸味がある。
子規の俳句(五二)
中川みえ
○ 砂の如き雲流れ行く朝の秋
明治二十九年作。
天高く澄み渡る秋には、鰯雲、鱗雲、鯖雲と呼ばれる漣のような、鱗のような、小さな斑点状の雲が出ることがある。この句は「砂の如き雲」と表現しているので、あたかも砂のような目の細い雲が天高くあらわれ、そして流れて行く景色であろう。
砂の如き雲が流れ行く朝の大空に、子規は全身で秋を感じとったのである。「秋の朝」や「今朝の秋」ではなく「朝の秋」と詠んで、特に朝に秋を感じているのである。
大ざっぱに「砂の如き」と促へたところが、秋の朝らしい爽やかさを感じさせる。「朝の秋」といふ措辞は特殊だが、「秋の朝」では満足できなかったので、朝の秋らしい感覚に焦点を置いたのである。
(山本憲吉「現代俳句」)
爽やかですがすがしい秋らしい景色を、独特の詩情を込めて表現した写生句。
○ 梨むくや甘き雫の刃を垂るる
明治二十九年作。
梨を剥いていると、みずみずしい果汁がジワジワと湧き出てきて、それが雫となって、剥いている刃物の刃を伝わって垂れてきた、という句である。
子規は、梨を剥く作業を視覚のみならず他の感覚をも鋭敏に働かせて、些細なところまで観察しているうちに、刃物を伝わって垂れる雫を見ただけで、食べる前からその梨の甘さを感じとったのである。
視覚によってとらえた梨の果汁を、食べる前から「甘き雫」と味覚をも感じとっている表現になっているのが、この句の注目点であろう。
○ 榎の実散る此頃うとし隣の子
明治二十九年作。
以前はよく子規庵の庭に遊びに来ていた近所の児が、この頃は姿を見せなくなった、という句である。
榎の実は小豆ほどの小さな実で、秋に黄赤色に熟れ、小鳥が啄むが、甘味があるので、子供も食べる。
以前よく子規の家の庭へ遊びに来ていた子供があって、子規も病床のつれづれをなぐさめられていたのであるが、子供が好む榎の実が熟して散るようになったのに、この頃どうしたことか顔を見せなくなった。子供の親が、子規の病気をおそれて、庭へ来るのを禁じたのであろうか、などと思うと、深まりゆく秋に、やや寂しさを感じたのであろう。
○ 蟷螂や二つ向きあふ石の上
明治二十九年作。
石の上に、二匹の蟷螂が互に向きあっている。たゞそのことだけを詠んだ句である。
子規の写生句は、この頃微細なものを対象とすることに向けられ、それを絵画的に表現する作風になっていた。この句もそうした純粋な写生句である。
子規の俳句は、さらりと詠み放したような作品が多く、それゆえ俳句革新の業績と比べると、近来あまり高く評価されてこなかったように思われるが、子規は俳句(作句)をどのように考えていたのであろうか。
蕪村の「新花摘」を読んだ感想を、次のように述べていることに注目したい。
蕪村が頭をなやまして頻りに修正などして居る句が余りよい句でもない。又た自慢の意を洩らして居る句も余りよい句でもない。吾々が最も感心する所の句は多く一題七八句の中にある句で、つまり無雑作に出来たと思ふ句なんである。之れで見ると蕪村のやうな老練の大家でも、頭をなやまして頻りに考へて作ったからといふて必ずしも名句を得るわけでない。かう直したらよいと思ふて骨折って直した事が矢張り愚にもつかぬつまらぬ句であったり、或は自慢して居る句がそれほどよい句でも無かったりするのを見るといふと、俳句のどういふものであるかといふ事が略ぼ理解せられたのである。
(獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)
子規は、蕪村の「無雑作に出来たと思ふ句」に佳句の多いことに着目したのであるが、このことこそ、子規の俳句の特色でもあった。
村山古郷氏は「子規全集」(講談社)第二巻の月報に於て、子規俳句の写生と即興に基本を置いた単純平易な表現が、単なる報告と見なされて、俳句界で高く評価されなかったことに触れた上で、子規の作風を、「一句一句に精魂を籠め、彫心鏤骨の苦吟をする」タイプではなく、「軽く即く詠みなす」と分析して
極めて大胆に率直に、簡潔に明快に、写生と感懐を十七文字の世界に示した手法は、俳句の近代的特色であり、子規以後の近代俳句の原典ともいうべきものである
と述べておられる。筆者も全く同感である。