子規の俳句

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

65に続く)

 

(五三)  (五四)  (五五)  (五六) 

 (五七)  (五八)  (五九)  (六○)

 

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2004.7.25

子規の俳句(五三)

中川みえ

 ○ 稲刈りてにぶくなりたる螽かな

 明治二十九年作。

 稲刈りが終った晩秋の田舎道を歩いていると、ふと螽がとぶのに出くわした。夏の間元気に力強くとびはねていた螽は、この時期になると弱って動きがにぶく、とび方にも力強さは感じられなくなった、という句で、子規は螽のにぷい弱りきった動きを通して、深まりゆく秋をしみじみと感じとったのである。

 高浜虚子はこの句について

二十九年には腰が痛む痛むと言ひながらなほ時々根岸の近郊を散歩したりしてゐた。殊に居士の好んで歩いたのは  三河島近傍であって、また意識して写生句を作るやうになったのは、主としてこのころからであった。それで居士は晩秋に螽螽を写生すると言って毎日のやうに三河島近傍を歩いたことがあった。

(「子規句集講義」)

 子規はよく稲の中道を散歩して螽を研究したことがあった。そうして稲を刈ってしまう頃になると、螽は大変弱ってしまって以前のように活況に跳ね飛ばず、人が来るのにもようやくに飛び逃げるという風に、大変にぶくなる事を発見して、この句を作ったのである。この句の如きは長い日数の研究を経て出来た写生句である。

(「俳句はかく解しかく味う」)

と作句の背景を説明した上で

  一度斯ういふ句が出来て了へば誰も其事実を了解して了って、何だそれだけかと軽蔑するかも知れぬが、併し俳句界にあって初めて斯ういふ事実を発見した点に居士の写生の手柄はある。

(「子規句集講義」)

と説明している。

 松井利彦氏は「正岡子規」の中でこの句について、

  秋深いある日、ある時の感慨、議によって触発された感慨が、蚤のにぷい動作、にぶくなったという判断を通して 打出されている。子規晩年の写生句はここからはじまったといえようか。(略)虚子が大正末期、昭和初期「ホトトギス」で客観写生 と称した作風の直接の源と見てよい。

と解説しておられる。

 子規は「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」という文章の中に、二十七年七月に「小日本」が廃刊になり「余程ひまになったので秋の終りから冬の初めにかけて毎日の様に根岸校外を散歩した」と言い、「一冊の手帖と一本の鉛筆を携へて」「同じ道を往復して」「得るに随て俳句を書つけ」て、「写生の妙味は此時に始めてわかった様な心持」がしたと、

   低く飛ぶ畔の螽や日の弱り

   刈株に螽老ひ行く日数かな

   稲刈りて水に飛び込む螽かな

   吾袖に来てはねかへる螽かな

などの句を記している。毎日の散歩で、螽の生態を細かく詳しく観察したこれらの習作を経て、二年後のこの年に掲出の句が作られたことを溜意すべきであろう。

 

○ 長き夜や孔明死する三国志

 明治二十九年作。

秋の夜長は、読書の秋でもある。

中国の魏、呉、蜀が天下の覇権を争った経緯をテーマにした「三国志」を、子規はこの秋読み続けていた。緊張し、息をつめて読み耽っていた物語は、エピソードを重ねて盛り上り、遂にクライマックスに達して、この夜、物語の山場の、蜀の軍師諸葛孔明が病没する場面まで読み進んで来た。物語に引き込まれるようにここまで読み続けて来たが、ふと現実に立ち戻って考えると、これからは、この物語への関心も少しずつ興の薄いものになるのだなと、自分の心の変化を表わした句である。

 物語のクライマックスを「孔明死する」という中七に象徴し、物語の山場を過ぎた折の読手の心の変化をあらわしているのがたくみである。

 子規は少年期より軍談、講談を読むことが好きであったここの年には、

    孔明讃

  羽団扇に又孟獲を見る日かな

という句も作っている。

 

○ 行く秋の鐘つき料を取りに来る

 明治二十九年作。

 子規庵は、上野の山の北側に位置し、寛永寺にほど近いところにある。

 秋の深まったある日、寺から鐘つき料という名目で、お金を徴収しに来た。子規は「鐘つき料」という趣旨に興味をもって、この句を作ったものと思われる。

 お寺の鐘の音の聞こえる範囲に住んでいる人達に、お寺の運営の為にささやかな援助を乞うこの鐘つき料は、落語の鰻屋のにおい代とはちがって、風雅の趣さえ感じさせる事柄であったと思われる。

 行く秋の澄み渡る大気に冴え渡る鐘の音の清々しさが、この句の詩趣になっている。

 

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2004.8.25

子規の俳句(五四)

中川みえ

  病後

○ きほへども身は蟷螂の痩腕

 明治二十九年作。

 気負ってはみたもののの、このように病身で床に就いていることが多い吾身は、しょせん痩腕を振り上げた蟷螂にすぎないではないか、という自嘲の句。

 この年の一月には、久松伯の凱旋祝宴に出席するなど、歩行は困難ながらも可能であった。

 しかし、二月頃から左の腰が腫れ、横臥したまま身動きが出来なくなり、三月に専門医の診断で、リュウマチと思っていた病気が、もっと重篤な、結核性脊髄炎であることが判明した。そのことを虚子に伝えた手紙には、

 世間野心多き者多し。然れども余れ程野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるる者多し。されども余れ程の大望を抱きて地下に逝く者はあらじ。余は俳句の上に於てのみ多少野心を洩らしたり。されどもそれさへ未だ十分ならず。縦し俳句に於て思ふままに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無窮大なるに比して僅かに零を値するのみ。

と記してあった。

 

○ しぐるるや群れて押しあふ桶の鮒

 明治二十九年作。

 冬の初めの時雨が、戸外に出してあった鮒の入った桶に容赦なく降り注ぐ。狭い桶の中では、時雨に驚いた鮒が押しあって犇き、乱れている、という句である。

 季語の時雨が効果的で、逃げまどって押しあう鮒の様子が彷彿される句である。

 

○ 木老いて帰り花だに咲かざりき

 明治二十九年作。

 子規は十一月の半頃ひどい「胃痙」に襲われた。そのため「松羅玉液」は十月二十二日付の文章の後は休載となり、十二月二十三日に再び掲載されるようになった。再スタートの記事は、五年前の京都の旅を回想する追憶の文章である。

 高尾の楓の紅葉をハンカチに打ち込んで写し、虚子と連れだって文学論を闘わしながら嵐山へ向ったこの日のことを振り返って、

 この日の興筆には書きがたし。この時われは尤も前途多望に感じたりし時なり。()目前の何が楽しきかと問はば何が楽しきか知らず。前途に如何の望かあると問はば自ら答ふる能はず。しかれども人間の最も楽しき時は何かは知らずただ楽しき時にあるなり。喜び極まりてしかも些の苦痛を感ぜざりしはわが今日までの経歴にてただこの時あるのみ。既住かつ然り、今後再びこの喜びあるべしとも覚えず。

と記し、掲出の句を記している。

 子規はこの年僅か三十才であったが、自分という木は既に老いて、帰り花さえも咲かない境遇になったことだ、と詠んだのである。

 

○ 行く年を母すこやかに吾病めり

   病中

また生きて借銭乞に叱らるる

明治二十九年作。

十二月二十八日の「松羅玉液」は、

 貧しさは 常のことながら月の末は殊に貧しく年の暮は更に貧し。()病めるはわれの常、寒ければ殊に悩ましきもなほ年々の常ながら病めるが上に病み悩めるが上に悩めること誰れかは思ひよるべき。病魔は勢に乗り五臓六腑を喰ひ裂きてなほ飽き足らず頭のつじより足の踵まで透間もあらず攻め寄せ攻め寄せ攻め落さんとすれど多年の籠城に馴れたる身は更に驚くべくもあらず。

と記して、掲出の二句を添えている。

 虚子や碧梧桐と共に、晩年の子規の看病に携わった寒川鼠骨は、「正岡子規の世界」の中で、この二句を次のように解評している。

  行年の母健かに我病めり

(解評)子規居士の境遇をそのままで、母上は健かであるに、自分がかへつて病臥して居るのは誠にすまないことだ、さうした、かなしい境涯の中にこの年も暮れて行かんとする。涙なきを得なかつたであらう。

     病中

   又生きて借銭乞に叱らるる

(解評)死ねば年くれの勘定取りも許したらうに、また今年も生きて借銭乞に叱られたとの意で、平凡であるが、居士としては実感そのままなのである。

同書では、これらの句を「作者の日常生活を描写した」「子規居士の病床実況である」と評している。

 ただ鼠骨は、晩年の子規の看病に携わって、ごく身近で病苦を見聞しているので、病人と一体となって病苦を味わい、同情的な目で句を考えがちであるが、子規自身は貧苦病苦を歎くというよりも「その苦を御して生きる趣」(加藤楸邨「俳句往来」)があったように思われる。 

 

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2004.9.25

子規の俳句(五五)

中川みえ

○ 碧梧桐の吾をいたはる湯婆かな

小夜時雨上野を虚子の来つつあらん

 

明治二十九年作。

十二月三十日の「松羅玉液」は、次のような記述で始つている。

病み初めたるは、十一月の半になん。にはかの事なれば来合せたる人々を驚かしぬ。()人々代る代るおとづれとぶらひたまひし中にも碧虚二子は常に枕をはなれず看護ねもごろなり。去年と言ひこたびと言ひ二子の恩を受くること多し。わが命二人の手に繋りて存するものの如し。わが病める時二子傍にあれば苦も苦しからず死もまた頼むところあり。

   窓の影小春の蜻蜒稀に飛ぶ

   胃痛やんで足のばしたる湯婆かな

   詩腸枯れて病骨を護す蒲団かな

   看病の吾を取り巻く冬籠

   碧梧桐の吾をいたはる湯婆かな

   しぐるるや蒟蒻冷えて臍の上

   小夜時雨上野を虚子の来つつあらん

   木の葉をりをり病ひの窓を打て去る

茶の花の二十日余りをわれ病めり

 子規の病状を心配して、人々が代る代る訪ねてくる。中でも碧梧桐と虚子は、いつも枕元に居て、心のこもった看病をしてくれた。

 碧梧桐が寒さをいたわって湯たんぽを用意してくれたのへ、蒟蒻であたためて胃痛のおさまった足を伸ばす。根岸のあたりは時雨が降って来たが、いつも今頃やってくる虚子は、きっと上野の山あたりをせっせと歩いているにちがいない。この雨に濡れているのではなかろうか。

 木の葉がをりをり窓を打ち、茶の花が咲き出したこの二十日余りを、子規は病のうちに過したのである。

 中村草田男氏は「明治時代の俳句」の中で、この「しぐるるや」の句を取り上げて、子規は時雨の中を上野の山を急ぎ来る虚子を、「此雨を一とかむりしたに違いないーーと暗闇の中の姿まで描き出すように思いやった」と読みとり、

 時間的経過を巧みに描いた句は、此時代から次第に数多くなったものでありますが、これなどは写生の力によって、 それが巧みにあらわされ、同時に、心理の微妙な点までが活かされて居ます。

と評しておられる。

この句に詠まれた虚子は、次のように記している。

 子規の家の庭先には裏戸があって、そこからも出入する事がたまにはあったのである。()子規の話すのには、誰かあの裏戸を開けて現れて来ないかしらと時々考へる事がある。殊に雨の降ってゐる静かな日などは、傘をつほめ乍らその戸を内に押して入ってくる人を想像してみる。が大概それは無駄な空想であって誰も現れて来ない。じっとガラス戸を通して静かにその木戸を眺めてゐるが、その戸は堅く閉ったままである。()

  小夜時雨上野を虚子の来つつあらん

といふ句がある。()腰の痛みが漸く烈しくて臥せり勝であった時の句であろうと思はれる。やはり人恋しくて私のゆくのを待ってをる句と受取れる。この句にもやはり子規の淋しい優しい一面が窺はれる。この句を通して子規と私の心とが親しく行き交ふ様な心持が今でもするのである。

(「子規について」)

 子規は前年の末に虚子に後継を委嘱して断わられた時に、激昂して五百木瓢亭にその顛末を記した手紙に、「小生は以前よりすでに碧梧を捨て申候。」「虚子は子生の相続者にもあらず」「碧梧去り、虚子亦去る」と記したこともあったが、このように病床に臥す身となってみると、やはり「わが命二人の手に繁りて存するものの如し」と再認識したのであった。二人もこれに応えてこの年大活躍したのである。

 

○ しぐるるや蒟蒻冷えて臍の上

 

 明治二十九年作。

 「胃痙」を病んだ子規は、蒟蒻を湯で熱くして、腹部を温めるのに用いていた。時雨が降ってきて、急に寒くなってきた。腹を温めていた蒟蒻も、次第に冷えてきたようだ、という句。

 病中の自分をユーモラスに詠んで子規特有の諧謔味があるが、どこかさびしさをも感じさせる句である。

  この句、「蒟蒻冷えて臍の上」にユーモアがある。ことに「臍の上」と、自分の臍を意識しながら、無雑作に言ひはなしたところ、子規独特のとぼけ趣味である。病気の苦痛を直接訴へず、臍の上に置かれた蒟蒻 の冷えを言ふことで間接に病状を詠むことが、俳諧化の方法なのである。

           (山本憲吉「現代俳句」)

  これは腹を温めるために、蒟蒻を湯で熱して臍の上あたりに置いたもので、しぐれてくると、その蒟蒻が次第に冷えてくる。そこに病臥の訴えようのない寂寥を覚えているのである。

(加藤楸邨「俳句往来」)

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2004.10.25

子規の俳句(五六)

中川みえ

  病中雪

いくたびも雪の深さを尋ねけり

 

 明治二十九年作。

 この年の「寒山落木」に「病中雪四句」と前書した連作の一句である。

    病中雪四句

  雪ふるよ障子の穴を見てあれば

  いくたびも雪の深さを尋ねけり

  雪の家に寝て居ると思ふばかりにて

  障子明けよ上野の雪を一目見ん

 子規は、この年の二月頃から左の腰が腫れて痛みが強く、医師の診察でカリエスと判明した。四月の初に僅かに立つことが出来るようになったが、病床に在ることの多い境涯となった。

 病床の無職に、障子の穴を見つけてじっと見つゞけている。その穴にちらちらと見えるのは、まぎれもなく雪である。雪の家に寝ていると思うばかりに雪は静寂の中にしんしんと降り積もり、かなりの大雪の気配である。起き上って見ることが出来ないだけに、子規の心は少年のように逸り、上野の雪を一目見たいので障子を明けよと言ってみたものの、病人の自分にはそれはかなうことではない。その気持が、何度も何度もの雪の深さについての質問となって、家人に向けられたのである。

 病中の子規の境涯のにじみ出てゐる句である。不治といふ自覚はあったとしても、病気はまだ中期であって、諦念には達するまでに到らず、起きて外の景色を眺められないもどかしさもあったであろう。「障子の穴」から雪の降るさまはちらちら見えるのだが、家人の言葉から想像しても余程の大雪らしい。何度も雪の深さを家人にしつこく尋ねるのである。そしてその度に深さを増す積雪量を想像し、わづかに心をなぐさめてゐる。

(山本憲吉「現代俳句」)

と評釈される山本憲吉氏は、又次のようにも述べておられる。

 病気の子規の気持は、言はば少年の愚に遮ってゐるのである。刻々と降り積る雪に、少年のやうに子規の心は逸るのである。「いくたびも」と言ひ、「尋ねけり」と言ったところに、それははつきり表現されてゐる。その心逸りを、病人の気短さからじっと押さえてゐることができない。それが雪の深さについての幾度もの質問となって現はれる。()このやうな一見無意味なことに執着せざるをえないところの充たされない心の翳が、ちらとこの句には顔を出してゐるのである。

 日常生活の一記録としての淡々たる表現でありながら、このやうな病床吟に、子規はもはや芭蕉でも蕪村でもない独特の詩境を開いて行ったのである。

(山本憲吉「同」)

中村草田男氏は、

 此句あたりになると、装飾的な部分は、いっさい脱落し去って対象と作者とは完全に一つの姿に結晶して両者の間に何等の隙がありません。簡明を極め、単に小事実のありのままの報告でありながら、それが見事に「心境」そのものの具現となって居ります。()子規によって到達された其「写生道」の頂点に位するものと考えます。

(「明治時代の俳句」)

と評され、「子規の人柄から発する一種の『ますらおぶり』の詠歎が句全体に張切って居ます。」と言われる。

 子規の数多い句の中から、最も好きな句を選べと言われれば、躊躇なくこの句を挙げると言われる村山古郷氏は、

 病哭の日夜を送った晩年の悲惨な病状にはまだ至らぬが、病床六尺の天地に俳句の世界を求めた子規の特色は、すでにこれらの句に認められ、病境涯の味をにじませた詠嘆である。()天地を静寂に深く降りつつむ紛々たる大雪、その静けさの中に、もうどれほどの高さに積もったことであろうかと雪景を想像しつつ、いくたびもいくたびも家人に尋ねるのである。「尋ねけり」とさらりとした詠嘆に流しているが、「いくたびも」に切望と憧憬の感動が深く蔵されており、心境句として深い境涯の意味を湛えている。

(「子規全集第二巻月報3)

と述べた上で、この句が「一部の人々を除いてそれほど評価されて」いない状況に触れて、「子規俳句のほんとうの味」を見過しているのではないか、と提言しておられる。

 筆者もこの句は大好きで、この句には子規らしさが凝縮していると思うのである。

 この年の始めには

   今年はと思ふことなきにしもあらず

と詠んだ子規は、年末には病床にあって

   いくたびも雪の深さを尋ねけり

と雪の積る様子さえ自分では見ることが出来ない境涯になってしまった。しかし俳句革新の動きにはたしかな手ごたえがあり、翌年「明治二十九年の俳句界」を執筆してその成果を明らかにした。

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子規の俳句(五七)

中川みえ

○ 手凍えてしばしば筆の落ちんとす

 

 明治三十年作。

 前年の十二月に、子規の旧友柳原極堂が俳句雑誌の発刊を企て、相談のため上京して来た。

  子規帰東後も俳句熱旺盛であった松風会は、月一回の「例会に飽き足らず随時会員宅で句会を開いてその句稿を子規に送って選評を請うなど、俳句に熱心であったが、二十九年末頃から、愛松、叟柳ら高等小学校教師らが熱意を喪失し始めてからは、次第に勢いを失ってきた。

  しかし、子規の新俳句は次第に世人に認められ、各地に地方俳句会が興り、伊予全般で見れば、子規の新俳句の共鳴者、賛同者は各地に台頭してきていた。

これらの新勢力を糾合して、子規の俳句革新事業を押し進めようと考えた極堂は、「勇猛心を振って突飛なる解決方法を講ぜんものと」「ひそかに画策して」(「友人子規」)俳句雑誌「ほとゝぎす」の創刊を計画した。

   誌名も先づ「ほとゝぎす」となし創刊発行日も略々定めし後子規に之を発表して、巳に斯く決定せし上は是が非でも御承認を願はねばならぬ、本計画の性質上貴下は必ず之を承認し進んで援助して下さるものと自分は固く信じて決行した次第である、と無理やりに押しつけてしまつた。

(柳原極堂「友人子規」)

 このような下準備の上で二十九年十二月に上京した極堂は、子規をはじめとして、虚子、碧梧桐、鳴雪、瓢亭らに会って依頼、打合せをして、三十年一月十五日に「ほとゝぎす」初号を発行した。

 子規は「ほとゝぎす」発刊の経緯を後年次のように記している。

  「ホトトギス」は四年程前に伊予の松山に生れたので、其時は極堂一人の力で成り立って居たのである。明治二十九年の節季に極堂が上京して、草盧の例会に出て来て、始めて俳語雑誌を出す事を話したので我々も驚いた位であった。極堂がいふには、雑誌を出すにつけても金の事は僕一人で引き受ける。少しも他人を煩さない、雑誌の名前に就いてもいろいろ諸君の御意見もあらうが、僕は独断でほとゝぎすと極めてしまふた。たゞ原稿の事だけは一切諸君の供給を仰ぐ積りだ

が引き受けてくれまいか、といふやうな無雑作な話なので、満座の人も直に原稿の供給を承諾した。

(ホトトギス第四巻第一号のはじめに)

「始めて俳諧雑誌を出す事を話したので我々も驚いた位であった」というのは言葉の文で、極堂は俳誌発行を前もって告げ、其の返事を得た上で上京したのである。

 極堂としては、自分が主宰していた「海南新聞」の用紙を用い、印刷、製本は、社に在席する新派俳人の手を借りれば、三十頁、一部六銭で俳句雑誌を刊行することは可能であると考えていた。

 三十年一月十五日に発刊された創刊号は、菊版三十五頁で、表紙は下村為山の筆になる「ほとゝぎす」の五文字を木版で刷った簡素なものであった。頁を一枚めくると、誌名に因んで、蕪村の「時鳥平安城をすぢかひに」を画題にした中村不折の絵があった。

 子規は「ほとゝぎすの発刊を祝す」「俳諧反故籠」を執筆し、募集句を選んだ他、前年「日本人」に掲載した「文学」の中から、「河東碧梧桐」の部分を転載した。

 募集俳句の選者を「子規宗匠」と記したことから、後になって、「月並俳句の選者称たる宗匠名を以て子規を呼ぶは笑ふべきだ」という非難の声が挙がったことがある。「子規は別に何とも言って来なかったが、妥当でないと気付いて一号限りで改めたと思ふ」(「友人子規」)

と極堂は回想している。

 「ほととぎす」創刊号を落掌した子規は、三月二十一日付で極堂に長文の書簡を記した。

  ほととぎす落掌先づ体裁の意外によろしく満足致し候。

で始まるこの手紙は、編集の方法、色紙の用い方、募集句の題の出し方、など些かわずらわしいほど細かに注文を出してはいるものの

  一号を見た時はじめはうれしく後には多少不平なりき、併し出来るだけは完美にしたいとは思ふ也。御勉強可被下候。

と記す子規のことばのはしばしから喜びが伝わってくる。この手紙の末尾には「当地昨今厳冬」と記して、掲出の

   手凍えてしばしば筆の落んとす

の句が添えられていた。

 「ほとゝぎす」の初号は、子規、鳴雪その他伊予出身者の寄稿を仰ぎ、募集俳句の応募者も大部分が松風会員という郷土色濃いものであったが、二号からは把栗、露石、六号から肋骨、左衛門、四明、八号から瀾水、野守翁、九号からは霞城山人、露月、十号には漱石、瓢雨、十一月には撲天鵬などが加わった。募集句の応募者も他地方へ広がり、従って読者も県外に広まって行った。子規はこのことを、三十一年の新年号に

  近者ほとゝぎすを読む人伊予以外に於て其数を増せりと、初め地方的性質を帯びて生れたる一小雑誌は僅に一年にして漸く地方的範囲を脱して全国の俳句界を風靡し去らんとす。吾人は俳句界のために将たほとゝぎすのために太白を浮べて質せざるべけんや

と記している。

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子規の俳句(五八)

 

中川みえ

   めでたさも一茶位や雑煮餅

 

 明治三十年作。

 正月を迎えて雑煮餅を食べている。世間の人にはめでたい正月であるが、病臥の日々を送っている自分にとっては、正月のめでたさも言ってみれば一茶位のめでたさであろうかなあ、という句。

 一茶は小林一茶。宝暦十三年(一七六三)五月五日、信濃国水内郡柏原村の中程度の本百姓(自作農)小林弥五兵衛、くに、の長男に生れた。

 三才で母と死別、祖母に愛育されたが、八才の時に父が再婚し、弟が生れるが、継母とは折合が悪く、継子のひがみも加わって、激しい反感をいだくようになる。

 十四才の時に、一茶をかわいがってくれた祖母が没すると、継母との対立はいよいよ激しくなり、困り果てた父は、翌年一茶を江戸へ出すことにした。長子相続が通例であったこの時代、長男である一茶が故郷を離れるということは極めて異例のことで、一茶と継母の確執はそれほどに厳しいものであったと想像される。このことから、一茶は父の財産を相続することに、強いこだわりを持つようになる。

 江戸へ出たものの、十五才の一茶は手についた職もなく、流民同然の渡り奉公の窮乏生活を送ったが、そういう生活の心の支えとして、いつしか俳諧に興味を持ち、葛飾派の今日庵元夢や二六庵竹阿に学び、初号圯喬または菊明の名で葛飾派の諸集に入集するようになり、俳諧に糊口の道を求めるようになった。

 竹阿没後は葛飾派三世溝口素丸に入門し、西国行脚、四国、九州遍歴と旅をして、各地の有力俳人と交わり、俳諧修業に努めた。しかし足かけ七年に渡る俳修業から江戸に帰り、竹阿の二六庵を襲名したものの、江戸の俳壇に於ける一茶の地位はまだまだ低いものであった。

 享和元年三月、一茶は久しぶりに帰郷するが、それを待っていたかのように、父が傷寒(チフス類)にかかってあっけなく没してしまった。父は病床で財産は一茶と弟とで折半にするように指示していたが、継母、弟との確執から、財産はもらえないまま江戸に戻り、以来父の法要に帰郷する度に遺産分配の交渉をするが、結着がついたのは十三回忌を営んだ文化十年のことであった。

 この間一茶は、江戸で俳人として確たる地位を得るべく精進し、有力俳人とも接触して努力を続けるが、一家を成す目安は一向に立たなかった。

文化十年、五十一才で帰郷した一茶は、ようやく手にした父の遺産で、郷里に安住する身になった。江戸帰りの宗匠として敬意をもって迎えられ、有力者や素封家の門人もかなりあって、江戸在住時代と打って変って、余裕のある生活を営むことが出きるようになった。

 翌十一年四月、初めて妻を迎え、二十八才の年若い妻に農事をまかせて、門人の間を巡回して指導に当る生活を続けることになる。

 この妻との間に誕生した長男は、生後一月経たないうちに死に、一年おいて生れた長女も一年余りで死亡、その後も次男が生後三ヶ月で死去、三男誕生の翌年には、妻が病没し、後を追うように三男も死去、と次々に不幸が襲った。

 一周忌を経て再婚した妻とは折り合いが悪くて三ヶ月で離縁、翌々年三度目の結婚をするが、大火で居宅を類焼した上以前思った中風が再発して、仮住居の土蔵で六十五才で急逝した。これが一茶の生涯のあらましである。

 さて掲出の句についてである。この句は一茶の

 から風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける

   目出度さもちう位也おらが春

を念頭に置いた句であることは、想像に難くない。

岩波文庫「一茶俳句集」(丸山一彦校註)によると、前書にある『あなた任せ』は、「阿弥陀仏にお任せすること。他力本願の浄土真宗で用いられる語」、句に用いられた『ちう位』は、「あやふや、いい加減、どっちやかず、の意の信州方言」である。

 この句の所収されている「おらが春」は、文政二年一年間の日記体句文集で、前年五月に生れ、この年六月に痘瘡で突然没した長女さとの、かわいらしさとその死の悲しみを精魂傾けて詠み記したものである。

 ようやく郷里に安住し、妻を娶り、最初の子は夭逝したけれど、前年五月に生れた長女さとは可愛いさかりであった文政二年の正月を、一茶は「あなた任せ」に迎えたと言い、「目出度さもちう位」と詠んだものの、前半生を思えば、細やかな幸せの中で迎えたことであろう。

 子規は掲出の句を詠んだ年の七月に「俳人一茶」を刊行しているので、当然一茶について詳しく調べていたと思われる。悲痛波欄の一茶の生涯に思いを及ぼし、自らの境涯に思いを重ねた時に、病臥の自分の正月のめでたさは、まあ一茶位のものかなあと、思い至るのであった。

 子規は病臥がちの生活の中で、俳句革新に力を注ぐ生涯を選択せざるを得なくなった。折から興隆してきた日本派の新調を「明治二十九年の俳諧」と題して一月二日から「日本」に連載するのと時を同じくして、前年末に急に俳句雑誌刊行の話が興り、一月十五日に「ほとゝぎす」の創刊を見るのである。

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子規の俳句(五九)

 

 

  碧梧桐天然痘にかかりて入院せるに遺す

痒からう寒からう人に会ひたからう

 

 明治三十年作。

 この年一月、碧梧桐は天然痘に罹患して、一時神田の避病舎へ入院した。病気は軽症で、入院後すぐに熱も下ったが、痘痕が消えるまでは退院出来ないので、約一ヶ月退屈な日々を過した。

 掲出の句は、碧梧桐へ送った見舞の句である。

 ごく親しい間柄の碧梧桐のもとへ送った句であるので、打ち解けた親しさと、病状を心配する思いやりが、口語調の詠みぶりに溢れている。

 子規は以前にも、母のことばをそのまま句にした

  毎年よ彼岸の入に寒いのは (二十六年作)

のような句を作っているが、掲出の句も同様に、子規の口にした言葉そのままを句に記した様式になっていて、入院中の碧梧桐を親身に思いやる気持が溢れた句になっている。

 

   野道行けばげんげんの束すててある

 

明治三十年作。

 この年二月の「十句集」に出句した句である。野道を歩いていると、束ねたれんげの花が棄てられているのが目についた。そのことに焦点を当てて詠んだ句である。

高浜虚子はこの句を次のように解評する。

  野道を歩いておると、其処には菜の花も咲いていよう、田の中には五形花も咲いていよう。しかしそれらは目に入らぬので、野道に束ねた五形花の棄ててあるのが著しく目についたのである。我より先きにこの道に遊んでいたものは子供で、それは五形花を摘んで束にして遊んでいたのが、終に飽いてかく地上に棄てて去ってしまったものであろうというのである。唯一点の五形花の花束を地上に描き出したところに単純な色の力がある。

(「俳句はかく解しかく味う」)

 

   夏野尽きて道山に入る人力車

 

明治三十年作。

前の句と同じく、二月の「十句集」に出句した句である。

 夏野を通り過ぎて、山路にさしかかった人力車を描写した句であるが、高浜虚子は次のように解評する。

 夏野を正面から描かず、広い夏野は遠景の方にばかしてしまって、目前の景色はその夏野の果になって、これから山路にかかろうという所に、一人の旅人を乗せた人力車を描き出したのであった。()この句は夏野を正面に描いていないにかかわらず、やはり夏野の広大な感じは想像されるものである。(「俳句はかく解しかく味う」)

 大谷繞石の「十句集のことども」に依ると、前の「野道行けば」もこの「夏野尽きて」も、共に三十年二月の十句集に出句した作品で、この回の課題は「字余り」であった。子規の十句のうち最も高い得点を得たのは、

   奥の院へ十町と記す石に涼む

の五点で、次いて掲出の二句が四点ずつを獲得した。

 題を「字余り」としたことについては、次のようなエピソードがある。

 蕪村の「新花摘」に触発されて発生した日本派の新調は、乱調をも生んだ。特に虚子の奔放自在な詠みぶりは、五七五の十七字に納まりきらない、新調の極みとも言うべき乱調に傾くものになり、それが又、他の日本派俳人に伝播して、更に甚しい乱調が偏愛される風潮が、地方俳人にまで広まって行った。

 こうした奇警、畸形の句に対して、内藤鳴雪や大谷繞石らは危惧を抱き、繞石は「帝国文学」に匿名で次のような文を寄せた。

 虚子嘗て「日本人」に「日本」に、俳句の叙景に通して叙情に適せず、客観的なるべくして主観的なるべからずと唱道せる時に当りてや、切りに叙情主観の月並派を排し、編へに景の明かに想の新なるを喜ぶ風ありしが、今や殆ど想の如何を措い調の奇なるを賞づる を見る。……強ひて漢字を用ゐ、徒らに数字を長くするが如き、日本派の俳句は終に散文の断片たらんとするか。然り而して彼らが月並調と為す毎日国民の一派は次第に新進の俳人を容れ、近時の句作大いに見るべきを加ふ。秋声会再び振うて宗匠一派も亦未だ甚だ衰へず、天下の俳運それいづれにか帰せん

(大谷繞石「十句集のことゞも」所収)

 日本派から直ちに「碧虚等二三を取って直ちに我日本派を評するは既に穏当を欠けり」と反論があり、それに対して繞石が「強ひて奇警な形を択ぶやうな態度は厭ふべきである」と再反論し、日本派も「更に一言す」を掲げ、論争となった。子規はこの論者が繞石であると本人から打ち明けられて、何も言わなかった。そんなことも関係して、それでは字余りで佳句を作ってみようということになり、十句集の二月の課題が「字余り」と決したのである。

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子規の俳句(六○)

 

   一つ落ちて二つ落たる椿哉

 

 明治三十年作。

 椿の花が咲いている。その一つがぽとりと散り落ちた。続いて又二つ落ちた。ただそれだけのことを詠んだ句である。

 他のことは一切省いて、椿の花の色彩感と、一つ散り、又二つの花が散り落ちた、その時間の経過を句に表わそうと試みた句である。

 この年の一月二日から三月十五日まで「日本」に連載した「明治二十九年の俳諧」では、虚子と碧梧桐の二十九年の俳句を「新調」として詳しく論じた。

 子規は碧梧桐の俳句の特色を、「印象の明瞭なる句」であると言い、「印象明瞭とは其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂」うもので、「写生的絵画の小幅を見ると略々同じ」として、

   赤い椿白い椿と落ちにけり  碧梧桐

を例句として挙げた。

 掲出の子規の句は、この碧梧桐の句法に、更に時間的な要素を加えたものであるといえよう。

 

○ 足の立つ嬉しさに萩の芽を検す

 

 明治三十年作。

 前年十一月に胃癌を病んだ子規は、十二月に入ってやや快方に向い、十二月三十一日には、仮に病褥を出て新年を迎えたのであるか、腰の痛みが激しくなり、筋肉が腫れてきたので、二月十九日に佐藤三吉博士の来診を乞い、三月二十七日に手術を受けることになった。

 手術の前に、当日始めていた新体詩の押韻について記した、夏目減石に宛てた手紙に、

  腰がまたまた病を増した。少し筋肉が腫れた。医者は手を打て病気ハ今やうやう分ったといった。病気といふはルチュー毒類似の者ださうだ。それで明後日、佐藤三吉に来て見てもらって、いよいよ外科的の刃物三昧に及ばなければならぬといったら僕も男だから直様入院して切るなら切って見ると尻をまくるつもりに候。尤も切り開いたら血も出ることと存候。膿汁も出ることと存候。痛いことも痛いことと存候。切ったために足の病が直ったら、しめこのうさうさだけれど少くもびつこになる位のことはあろと覚悟してゐる。

 僕の身はとうから捨てたからだだ。今日まで生きたのでも不思議に思ふてゐる位だ。しかし生きてて見れば少しも死にたくはない、死にたくはないけれど到底だめだと思へバ鬼の目に涙の出ることもある。(二月十七日)

と記してあった。

 三月三十七日の手術には、碧梧桐が立会った。

  成程脊髄の中央部に腫物でもなければ、筋肉の膨脹でもないエタイの知れない大きな隆起がある。()当時天下無二の国手の手術といふのが、鋭く長い漏斗状をした銀色の管を、力に任せて贅瘤の肉へ突き刺す無雑なものであつた。

(「子規の回想」

 局部麻酔などない時代、子規は身を震わして痛みに堪え、「これで安臥出来れば結構さ、と暗に明日からの幸福を夢見てゐるやうだった。」(「子規の回想」)が、患部は一カ月半もたつとまた腫れてくるから、その時再び手術する、という医師の言に反して、その夜のうちにもう腫れてきた。

 母の看病のため松山に帰っていた虚子に、翌日認めた手紙には、

  少くも寝返りだけは自由ならんとたしかめ居候ひしが右の次第にてそれも叶はず失望致候 小生のこそ誠に病膏盲に入りしものどんな事したとて直る筈はなけれどもそこは凡夫のこと故若しやよくなりはしまいかと思ふことまことに浅ましさ限りに候 去年は上野の 花見をしたがことしハそれもむつかしからんか腹の立つことに候

と記してあった。

 五月三日の夏目漱石に宛てた手紙にも

  再度ノ手術再度の疲労一寸先ハ黒闇々。

と記され、二度の手術も良い方へは向わなかった。

 掲出の句を、前後の句と共に考えてみたい。

   庭ふんで木の芽草の芽なんど見る

   足の立つうれしさに萩の芽を検す

   きのふも見けふも見る萩の芽ざすかと

 「寒山落木」には、これらの句が並んでいる。

 長い間病床に在って、庭を踏むことさえなかった子規にとって、「足の立つ嬉しさ」は、言葉に言い尽せない格別の思いであったにちがいない。

 久し振りに庭へ出て、木の芽、草の芽を見た感動、殊に、萩の芽が出たかどうかを、昨日も今日もたしかめて、その喜びを無雑作に、卒直に詠み上げた。「萩の芽が三寸位になれば去年の例に従ひ少しは心よくなるべきか」(大原恒徳宛)というささやかな願望が、そこには内在されていた。

 寒川鼠骨は、「子規居士の俳句研究」に、普通の健康人はおそらく見逃すであろう「萩の芽を唯一の生命としてゐるやうな」病子規の「心淋しい生活」が窺われる句であると記している。

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