子規の俳句

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

76に続く)

 

(六一)  (六二)  (六三)  (六四)  (六五)

(六六)  (六七)  (六八)  (六九)  (七〇)

 

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子規の俳句(六一)

 

松本みえ

   時鳥しばらくあつて雨到る

 

 明治三十年作。

 この春、子規は腰の痛みが激しく、背中に大きな腫物が出来て静臥にも困るようになった。佐藤三吉博士の来診を受け、三月二十七日に手術を受けたが、その夜のうちに再び腫れた来て、四月下旬に再度の手術が行われたが、これも効果がなかった。

 五月末には、四、五日間三十九度以上の発熱が続き、寝ることも出来なくて、衰弱の極みに達した。在京の知人門人が相続いで見舞に訪れ、看護者が交代で病床に侍する体制がとられ、伝え知った松山の柳原極堂が、誰かを看護のため上京させようと企てたが、人手不足で実現はされなかった。

 やや快方に向った六月十六日付の夏目漱石宛の書簡には、冒頭

 「先月末四、五日間打続きて九度己上の熱に苦められ、朝も晩も夜も一向下るといふことなければ寝るといふこともなく、先づ小生覚えてよりこれほどの苦みなし。今度は大方あの世へ行くことと心待に待をり候処、本月初より熱は低くなり今では飯がうまくてたまらぬやうに相成候。また暫時は裟婆の厄介物とながらへ申候。しかし形勢は次第によろしからず、今は衰弱の極に有之候。談話などは出来す僅に片言隻語を放ちてさへ苦しきこと多し。」

と記し、親など近親者には言えないくり言や、心弱い思いをもらした後に、

 「昨日足痛んで堪へられず(左足時々疼痛を起す)、ひとり蚊帳の中に呻吟する時杜鵑一声屋根の上かと思ふほど低く鳴て過ぐ。そぞろに詩情を鼓せられて、

  時鳥しばらくあって雨到る

ただ実景のみ。御一笑。」

と、掲出の句が記してあった。

粟津則雄氏はこの句を

 「只実景のみ御一笑」と付け加えて彼は言うがそうではあるまい。「しばらくあつて」という中七には、病床に釘付けになりながら「其日其日の苦楽に心をなやまし」ている子規の時間が、凝縮されたかたちで注ぎこまれているようだ。痛みに呻吟する子規は、しばらくの時間を、なまなましい手触りのあるものとしてとらえるのである。 (「正岡子規」)

とよみといておられる。

 

○ 看護婦やうたた寝さめて蝿を打つ

 

 明治三十年作。

 発熱で衰弱した子規のために、六月に入ってから、叔 父の加藤拓川の配慮で一ヶ月余り看護婦が雇われた。

 漱石への手紙には、「生に取てはチト栄耀過る事と存候へども」(六月十六日付)と、このことを伝えている。

 掲出の句は、看護疲れか、ついうたた寝をしてしまった看護婦が、ふと目覚めて、自分の行為を恥じるかのように蝿を打った、その行動と恥じらいを詠んだ句である。

 なお、碧梧桐の「子規の回想」には、この年の子規の「流産」と前書のある句と関連づけて、子規とこの看護婦との間に何かあったのではないかと思わせる記述があるが、信憑性はなく、筆者が御指導戴いた池上浩山人先生もこのことを強く否定しておられた。

 

   病中

○ 餘命いくばくかある夜短し

 

明治三十年作。

六月十六日に夏目漱石に宛てた書簡は、末尾に、

 「病床殆ど手紙を認めたることなし。今朝無聊軽快に任せ、くり事申上候。けだし病床にありては親なと近くして心弱きことも申されねば、かへつて千里外の貴兄に向って思ふ事もらし候。乱筆のほど衰弱の度を御察被下たく候。巳上。

    明治三十年六月十六日

 漱石 盟台

   余命いくはくかある夜短し

   障子あけて病間あり薔薇を見る

    病中数句あり、平凡不足看一、二附記、叱正。」

と、この句が記してあった。

 病床てふと目が覚めた。夏場の短夜で、もうあたりはしらじらと明るくなり始めている。睡れないままに、自分の行く末を考えると、結核でこのように病臥生活を続けている自分に、余命はどれほどあるのであろうか、きっともう長くはない。殊に今回は高熱が続いて、今迄に経験したことのない苦しみを味わった、そんな暗澹たる思いが、子規に余命を考えさせたのである。

 「子規の表現上の主張はある感情を抱いた時、その感情を表わさないで、それをひき起したもとの物を描くというにあったが、さすがに、自身の、しかも生き死の問題となると、そうした主張をはなれ、かなり生な表現、「いくばくかある」といった文字を使ったと思われるのであり、それだけに悲痛を感じさせる。」 (「正岡子規」)

と松井利彦氏は論じておられる。

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子規の俳句(六二)

 

○ 人寐ねて蛍飛ぶなり蚊張の中

 

 明治三十年作。

 人はみな寝しすまった夜、子規だけは目覚めていて、蚊張の中をとぶ蛍をみつめている、という句である。

 まわりの者はみな寝しずまった夜中に、ひとり目覚めている病人、しかも回復の希望を棄てざるをえなくなった病人の、冴えた頭の中には、とんな思いが去来していたのであろうか。子規の孤独感と寂参感が伝わってくる句である。

 加藤楸邨氏は

 「着想としては別に新味のあるものではないが、「蛍とぶなり」という把握には、蛍がいきいきと感ぜられれぱ感ぜられるほど、孤独感が惨みだしてくる句である。」 (「子規往来」)

と言われる。

 

○ 眠らんとす汝静かに蝿を打て

 

明治三十年作。

    病中即時 三句

  眠らんとす汝静かに蝿を打て

  蝿打を持て居眠るみとりかな

  病床に心いらちて蚊を叩く

 私は今静かに眠りにつこうとしている。うるさい蝿を打ち払ってくれるのはありがたいのだが、その昔が気になって、かえって眠れなくなってしまう。どうかそのことを思いやって、もっと静かに蝿を打ってくれないか、と詠んだのである。

 蝿を打っている者へ「汝」と呼びかけていることから、遠慮のない間柄の者への、我ままな注文であることが窺われる。子規の日常をそのまま句に詠んだものである。

 病床の苛立ちを蚊を叩くことに転化し、自分は眠ろうとしているのだから、静かに蝿を打て、と遠慮なく我ままな注文をする一方で、看病の疲れからか、蝿打を持ったまま居眠りをしている看護者を見やっている子規の率直な親愛の情が、これらの句から読みとれるのである。

 

  送秋山真之米国行

○君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く

 

明治三十年作。

六月二十八日に高浜虚子に宛てた書状に

 「秋山米国へ行く由聞きしところ、昨夜小生もまた渡行に決したることを夢に見たり。元気いまだ消磨せず、身体老いたり。一噱

という記述がある。」

 秋山真之は、子規の松山以来の親友で、「筆まかせ」の『交際』の友人分類では、「剛友」と記されている。

 子規に少し遅れて上京した秋山は、子規の在席していた共立学校に学び、子規と同じ時に大学予備門に合格した。一時は子規の発案で子規の下宿に同宿したこともある。子規は、この頃「秋山真之論」を書いたり、「筆まかせ」に江ノ島無銭旅行の顛末を記して、秋山のエピソードを書きとゞめている。

 秋山は悩んだ末に、海軍の軍人になる決意をして、大学予備門を辞して海軍兵学校に進んだ。

 明治二十六年、秋山が巡洋艦吉野の回航委員としてイギリスに派遣されることになった時、子規は

     秋山真之ノ英国ニユクヲ送ル

   暑い日は思ひ出せよふじの山

の句を送別に贈って、海外行きを羨望した。この頃の子規は、大学を辞して「日本」新聞社に入社し、病弱ながらも奥州旅行に赴き、俳句に熱を入れ、非常に多くの句を作っている。秋山の外国行に対する羨望は、体力の面ではなくて、世界を自分の目で見てみたいという旺盛な好奇心が発露となっていたと思われる。

 掲出の句は、秋山が渡米した後に「日本」に掲載された。「思ふことあり」とは、何であったのだろうか。

 病気がロイマチスではなくて、脊髄カリエスであると判明し、二度の手術も効果なく、「到底回復の見込みもなければ」(夏目漱石宛、三十年六月十六日付書簡)と不治を覚悟し、「余れほどの大望を抱きて地下に逝く者はあらじ」「俳句に於て思うままに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無窺大なるに比して僅かに零を値するのみ。」(高浜虚子宛、二十九年三月十七日付書簡)と思いを巡らせた時に、「健康な友人の活動を想いやるにつけ、病魔に捉われた自己の姿を憐まざるを得なかったであろう)(柴田宵曲「評伝 正岡子規」)ことは容易に想像される。その意味て「居士の心境を知る上から看過すべからざるものである。」(「評伝 正岡子規」)と言われる柴田氏に、筆者も同感である。

 秋山真之は、掲出の句に詠まれた明治三十年の米国行に於ける報告書が上層部に注目され、海軍の戦術、作戦のスペシャリストとして、大いに期待された。後の日露戦争では、連合艦隊同令長官東郷平八郎の参謀として、作戦を担当、立案した。日本海々戦の折の「・・本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の電文の起草者としても名高い。

 秋山好古(真之の兄。日本陸軍の騎兵の基礎を築いた)真之兄弟、及び正岡子規を主人公にした司馬遼太郎の「坂の上の雲」に、彼らの活躍が詳しく展開されている。

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子規の俳句(六三)

 

   この暑さある時死ねと思ひけり

 

 明治三十年作。

 この年八月、子規は台湾の筆と帳面を贈られたのを契機に、日記を書きはじめた。その第一日の条には、病状その他が詳しく記されている。

 「頃日用ふる所の薬餌

  一 炭酸クレオソート二粒宛三度(食後)

  一 散薬(興奮剤)一日四包

  一 水薬三度

  一 ブランデー十グラム位宛三度(食後)

  一 朝飯 難卵半熟一個、牛乳一合半位、多く糊緋を加へて飲む

  一 午餐 隔日牛肉(淡路町中川のロース二十銭)牛肉ならぬ日は魚肉三腕位、野菜一皿

  一 晩餐 魚肉、粥、野菜

  一 牛乳三合、その内半は朝飲み残りを二分して午後三時頃と八、九時頃とに飲む(湯煎)

  一 牛肉スープ隔日(一斤十八銭位なるを湯煎にす)

この外間食すること多し、医師は隔日位に来り背の包帯を更へ膿を絞る。近日体を動かすこと多きを以て膿は自ら押し出され、故らに絞るも出ぬ事多し。体温は朝六度位、夕七度四、五分位なるを例とす。左足引きつけて立つこと能はず。左の腰なほ痛む。仰向に臥しまたは左を下にして寐ぬるときは咳嗽を発す。毎日浣腸す。」

 子規の病状は、五月以来悪化し、このような状態になってしまったのである。

   四時に烏五時に雀夏の夜はあげぬ

   汗しとゞ苦しき夢はさめてけり

   暑くるし我夏痩の骨をいたみ

などの句かあって、その上でこの句を読むと、子規の痛切な叫びが誇張でなく伝わってくる。「ある時死ね」は、「堪えに堪えてほとばしり出た叫びのようなもの」(加藤楸邨「俳句往来」)であったと言わざるを得ない。

 

   送漱石

○ 萩芒来年逢んさりながら

 

 明治三十年作。

 上京中の漱石が、任地熊本へ帰る際の送別の句である。同じ日付(九月六日)で漱石に書き送った書状には、

 「秋雨粛々。汽車君をのせてまた西に去る。鳥故林を恋はず遊子客地に病む。万縷尽さずただ再会を期す。

 敬具。」

と短く記してあった。

 萩や芒の季節に任地へ帰ってゆく君よ、来年又逢おう。しかしながら、来年の自分は、はたしてどうなっていることであろうか、という句。

 前年、伊予へ帰る漱石に送った漢詩に「清明期再会 莫後晩花残」という一節がある。この間に二度の手術や五月の大患を経て、子規は自分の健康に対する自信をかなり失ったことが読みとれる。

 「さりながら」という下五に、子規の健康への懸念、将来への断念、などさまざまな思いが込められていて、重く伝わってくる句である。

 

○ 椎の実をひろひに来るや隣の子

 

 明治三十年作。

 前年の秋

   榎の実散る此頃うとし隣の子

と詠んで、子規の庭へ来なくなった隣の子に寂しさを感じたことがある。「隣の子」が、同じ子供を詠んだものかどうかは不明であるが、限られた庭前の、見馴れた景色の中に、思いがけず椎の実をひろいにやってきた子供があったことは、子規の無聊な生活に、小さな波紋を生じさせた。その喜びかそのまま一句になったのである。

 

   清女か簾かかげたるそれは雲の上の御事これは根岸の隅のあはらやに親一人子二人の侘住居

○ いもうとが日覆をまくる萩の月

 

 明治三十年作。

 清少納言が、中宮彰子の問いに簾をかかげた故事と、根岸のあばら家にわび住いする自分達家族の生活を、日覆をまくるという行為を通してくらべてみた句である。

 清少納言の行為は、「枕草子」二百五十六段に

 雪いと高く降りたるを、例ならず御格子参らせて、炭炉に火おこして、物語などして集まり侍ふに、「少納旨よ。香炉峯の雪はいかならむ」と仰せられければ、御格子上げさせて、御簾高く巻き上げたれは、笑はせ給ふ。

とある。白楽天の名高い詩句「香炉峯ノ雪ハ簾ヲカカゲテ見ル」に由来する中宮の問いかけに、清少納言が即座に応じた機智を、宮は喜こはれたのである。

 そのはなやかな宮中の物語を下敷にして、子規は、妹が貧しい侘住いの日覆を巻いている境涯を、清貧を歎くというよりも、俳諧味のあるユーモラスな句に仕立てたのである。

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子規の俳句(六四)

 

  つりかねといふ柿をもらひて

○ つり鐘の蔕のところが渋かりき

 

 明治三十年作。

 十月十日、桂湖村が、京都清水に在住する天田愚庵に託されて、松茸と柿を届けて来た。湖村はこの年の初夏から愚庵の庵にしばらく滞在していて、その帰京の折に、愚庵は柿好きの子規にと庵の柿を託したのである。

 天田愚庵は歌人で、戊辰戦争の折に行方不明となった父母と妹をさがして流浪したが逢うことはかなわず、一時、清水の次郎長のところに寄寓していたこともあったが、天龍寺の峨山和尚の許に剃髪して僧となり、大阪内外新報社を退いて、詩歌三昧の生活を送っていた。

 子規と愚庵の初対面は、明治二十五年十一月のことで、上京を決した母と妹を迎えに行く旅の途中に京都に立寄った折のことであった。

 「つりかね」は、大きくて先の尖った柿で、食べてみると、蔕のところが少し渋かった。高浜虚子の小説「柿二つ」では

 「其蔕の所の渋いといふ事が少なからず彼の興味を牽いた。さういふありふれた事柄を恰も天下の大事の如く考へながら彼は又次の柿をむいた。今度の柿も同じく蔕の所が少し渋かった。此時彼は畢竟渋い位の柿でなければ旨くないのだといふ結論に達した。此渋くない柿よりも渋い柿の方が旨いといふ結論が又彼を喜ばせた。」

とこの場面を描写している。

 子規が愚庵へ礼状を認めたのは二週間以上も後の十月二十八日の夜のことで、その中に次の三句を記した。

  御仏に供へあまりの柿十五

  柿熟す愚庵に猿も弟子もなし

    釣鐘といふ柿の名もをかしく聞捨かたくて

  つりかねの蔕のところが渋かりき

 なお、この句のような過去形の「き」止めの詠み方は、古俳句では殆ど用いられなかったが、子規はよくそのような詠み方をした。現代の俳人も多く用いている。

 

  愚庵より柿をおくられて

○ 御佛に供へあまりの柿十五

 

明治三十年作。

前の句と同じ十月十日に作った句。

湖村が愚庵からことずかって柿を届けてくれた。この柿は、おおかた庭先の柿の木からもいで仏に供えて余ったもので、十五個もあった。仏縁によって届けられた柿に、愚庵や湖村の、柿好きの自分に対する好意が加味されて、しみじみと幸せを感じたのである。

 子規が愚庵へ遅ればせの礼状を認めた次の日の朝、桂湖村が、愚庵の歌を記したはがきを持ってやって来た。子規からの便りがないのを訝った愚庵は、六首の和歌の最後に

   正岡はまさきくてあるか柿の実のあまきともいはずしぶきともいはず

と詠んで、消息を問合せてきた。湖村から和歌で返答するよう勧められた子規は、追いかけて次の文を送った。

 「夜手紙認めをはり候ところ今朝湖村氏来訪、御端書拝誦御歌いづれもおもしろく拝誦仕候。失礼ながらこの頃の御和歌春頃のにくらべて一きは目たちて覚え申候。おのれもうらやましくて何をかなと思ひ候へとも言葉知らねばすべもなし。さればとてこのまま黙止て過んもなかなかに心なきわざなめり。俳諧歌とでも狂歌とてもいふべきもの二つ三つ出放題にうなり出し候。 御笑ひ草ともなりなんにはうれしかるべくあなかしこ

十月二十九日  つねのり

  愚庵禅師御もと

   みほとげにそなへし柿のあまりつらん我にぞたびし十あまり五つ

柿の実のあまきもありぬかきのみの渋きもありぬしぶきぞうまき

籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん

世の人はさかしらをすと酒のみぬあれは柿くひて猿にかも似る

おろかちふ庵のあるじがあれにたびし柿のうまさのわすらえなくに

あまりうまさに文書くことぞわすれつる心あることな思ひそ吾師

発句よみの狂歌いかゞ見給ふらむ

「おるかちふ」と「あまりうまさに」は挨拶の歌である。「みほとげに」の歌は、前項の「御仏に」の句、「柿の実の」の歌は、「つりかねの」の句、「世の人は」の歌は、「柿熟す」の句をふまえたものであることは言うまでもない。「籠にもりて」の歌も、愚庵に宛てた手紙には記されていないが、

   渋柿や高尾の紅葉猶早し

   故郷や祭も過ぎて柿の味

といった句を踏まえた歌であることは明白である。これらの句は、子規が再び和歌を作るきっかけとなった。愚庵へ送った歌の創作過程から、子規の初期の和歌の創作の軌跡が窺われて、非常に興味深い。

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子規の俳句(六五)

 

  ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて

○ 三千の俳句を閲し柿二つ

 

 明治三十年作。

 子規の病床の傍にカステラの空箱が置いてあって、俳句の投稿を散らかさないために、そこに入れるようにしつらえてあった。はしめのうちは、少し投句が溜るとすぐに選句をしていたが、このところ少々延び延びになって、蓋がもち上るほど嵩高に句稿が溜っていた。この日は昼すぎから選句にとりか かり、とうとう夜にまで及んでしまった。

 枕元には、子規の大好物の柿が二つ置いてある。投句を入れた箱の句全てに目を通したら、この柿を食べようと慰籍の料にとっておいたものである。

 「彼は楽しげに盆の上の柿を見遣った。柿の赤い色は媚びるやうに輝いてゐた。抑へてゐた彼の食欲は猛然として振ひ起った。彼は餓えた虎が残念な眼を光らせて兎を掴むやうに忽ち其柿の一つを取上げて皮をむき始めた。」

と虚子の小説「柿二つ」は描写する。

 「三千」というのはもちろん実際の数ではなく、非常に多くのという意味であるが、それに配した「柿二つ」は具体的な数で、しかもこく少数である。その対比もおもしろく、そこに子規の疲労感、解放感などが巧みに盛り込まれていて、ユーモラスな味も感じ取られる。

 この句は十二月十日夜の直野碧玲瓏に宛てた書簡に、

  三千の俳句を点し柿二つ

という句で付記されていた。このことから「三千の俳句を閲したのは、「新俳句」刊行のための選句と考えられる。

 「新俳句」は、明治三十一年三月に民友社から出版された。

 「芝白金三光町にあった北里病院から『新俳句』という句集の現われたことも思いがけない出来事であった。それはその病院に入院中の上原三川君と直野碧玲瓏君とが--その外に東洋、春風庵という二人の人もいた--『日本新聞』 の句を切抜いて持っていたそれを材料として類題句集を編み、それを国民新聞社にいた中村楽天君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万端出版上の面倒は楽天君の隠れたる努力であった。」 (高浜虚子「子規居士と余」)

「我々の句集がもう出てもいい頃、誰しもがそんな気分を持ってゐた。廿八年神戸病院ても子規からの話があったので、「日本」俳句欄を切りはりすれば、十日か廿日の労力で済むやうに思ってゐた私は、子規から神業だなどと笑はれて手をつける元気もなくなってしまった。事務的な仕事の落第生は、当時「国民新聞」にゐた、上原三川、直野碧玲瓏の二人が肝入って句集を作る話にも、さほど興味を持ち得なかった。」 (河東碧梧桐「子規の回想」)

 子規のこの年三月十八日付の上原三川宛の書簡には、「冬の部も取捨致置候少しは書き加へも致候」と記され、五月二十三日付には「先日御稿と碧玲瓏子のとを併せ()内二点(○○又は◎)の分だけ新俳句に御書入可然候」、九月十三日付には「発句集の儀虚子へたのみ置候処同人も一向にやり不申終に小生又々引受申候員の部だけは大方校了碧梧桐に再閲相頼居候」と記されているので、三月頃から計画されていたものと思われる。

 この句集を共編した上原三川、直野碧玲瓏は、北里病院入院中に知りあった。

 上原三川は教師であったが、肺結核で入院中に、碧玲瓏、春風庵、竹采庵らと同室となり、俳句を始め、子規に師事するようになった。

 直野碧玲瓏は国民新聞編集局に勤務し、子規に師事して俳句を始めていた。北里病院入院中に知り合った上原三川と共に、「日本新聞」「国民新聞」などから、子規、鳴雪、虚子、碧梧桐らの選句約八干句を書き出し、この中から更に子規が厳選して五千句をえらび出すという作業を経て、「新俳句」を刊行した。

 子規派の句集を作ろうという計画は、明治二十五年頃からあった。子規の早くからの俳句仲間であった新海非風の手によって、「案山子集」と題する稿本が残されている。二十八年年にも、須磨滞在中の子規と碧梧桐の間に話がもち上ったが、立ち消えとなってしまった。

 この他、筆者は以前に、楠本憲吉、池上浩山人両先生より、「なじみ集」というものについて聞いたことがある。

 上原三川、直野碧玲瓏その他によって分類された句稿が子規の手許に届けられたのは、子規の病苦が最も厳しい時であった。そのため、子規は碧梧桐、虚子の手を借りて選を進めるつもりてあったが、三川宛の手紙に見られるように両人共消極的で、結局子規自らの手でやり遂げざるを得なかったのである。

 柴田宵曲「評伝 正岡子規」によると、「十月中には大体の業を卒えた。」ようなので、掲出の句 三千の俳句を閲し柿二つが、「新俳句」刊行のための選句を了えた時の句てあるという見方は、妥当なものと考えられる。

 「新俳句」は、翌明治三十一年一月に子規が序を記し、三月に東京民友社から刊行された。

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子規の俳句(六六)

 

   我境涯は

○ 萩咲て家賃五円の家に住む

 

 明治三十年作。

 子規が日本新聞社に入社したのは、明治二十五年十一月十九日のことであったが、この時に陸羯南から提示された初任給は、月俸十五円ということであった。当時子規が母と妹を迎えて東京でくらすには、おおよそ二十五円は必要であったが、日本新聞社の内規でそう定められていた。羯南は他の新聞社を紹介しようかとも言ってくれたが、子規は十五円で日本に入社することを決めた。

 月俸は入社数ヶ月で二十円となり、二十七年一月には三十円になった。明治三十一年七月十三日付で河東詮に書き送った墓碑銘では「月給四十円」と記されている。

 上根岸八十二番地の子規庵は平家で、玄関(二畳)、母の八重のいる茶の間(三畳)、妹律の部屋(四畳半)、客間(八畳)、子規の居室兼書斎(六畳)、の五室で、家賃は、はじめが四円、やがて四円五十銭となった。

 萩の花咲く庭を覗めながら、ふと自分の境涯に思いを及ぼした。家賃五円の家はいかにも侘しい。しかし自分は、この家賃五円の境涯に安住しているのだなあと、しみじみと思うのであった。

 後年、友人間の家賃比べを文章に書いたことがあって、ちょっとした波紋を生じたことがある。

 「仰臥漫録」にも〃家賃クラべ"という記載があり、虚子(九段上)十六円、碧梧桐(猿楽町)七円五十銭とある中で、母、妹と共に住むこの上限岸鴬横町の家の家賃は、六円五十銭と記されている。

 

   犬が来て水飲む音の夜寒かな

 

 明治三十年作。

 しずまりかえった秋の夜更の、眠りにつけない子規の耳に、庭の方からかすかな音かきこえてくる。耳をそばだてて聞いていると、その音は、どこかの犬が用水桶か何かの水をぺちゃぺちゃと甜め飲んでいる音のようだ。野浪犬だろうか、この夜更けに、などと考えていると、静寂な秋の夜寒が急に身に感じられるのである。

 

○ ちらちらと障子の穴に見ゆる雪

  雪こよひ積まんと言ひて寝ぬる哉

 

 明治三十年作.

 障子の破れた小さな穴から雪の降るのを眺め、今夜は積もるかもしれないと思いながらねむりにつく姿には、前年の

  病中雪三句

   いくたひも雪の深さを尋ねけり

   雪の家に寝て居ると思ふばかりにて

   障子明けよ上野の雪を一目見ん

に詠まれた状景と相通するものがある。ただ、前年の子規は、積雪の嵩を幾度も尋ね、一目見たいので障子を明けよ駄々をこねるのであるが、この年二度の手術、五月の大患を経て自分の健康を考えたとき、心充たされないことではあるが、障子の破れの小さな穴から静かに雪を眺め、たぶん今夜は積もるだろうなと言いつつ、眠りにつくのであった。

 

 この年(明治三十年)は、子規にとってきわめて多事な一年であった。

 先ず何よりも、年頭の「ほとゝぎす」の創刊が挙げられる。伊予松山の中学以来の友人で、松風会の会員てもある柳原極堂の手で刊行されることになった「ほとゝぎす」は、子規の新派俳句の裾野を広げることに大きく貢献してゆくことになる。そのことは、子規のこく近くに在った俳人達の作句熱を刺戟することにもなって、日本派の新俳句は、この年大いに振ったのである。

 但し、子規の体調は、この年も次第に悪化の途をたどった。

 腰痛がひどく、筋肉が腫れ、二月に佐藤三吉氏の来診を受け、三月末には手術を受けた。二度の手術にもかかわらず、良い方へは向わなかった。

 この間、二十八年四月に自殺をはかった従弟藤野古白の遺稿集を発刊するために、子規は単独で材料を蒐集、編纂し、俳句は一日半で選了し、「藤野潔伝」を三月一日に一日半で書き上げるなど、かなりハードなスケジュールをこなした。しかも出版については、資金をめぐって藤野家との間に意見のくいちがいがあり、子規は「ほとゝぎす」に「古白遺稿収支決算報告」を掲げるなど、こまかなところまで気を使って、心身共に疲労したようである。

 五月末、子規は激しい腰部の疼痛と、四、五日間三十九度を越す発熱か続いて衰弱し、重態におちいった。在京の知人門下が見舞に訪れ、交代で病床に侍す日々もあったが、叔父の加藤拓川が一月ばかり看護婦を雇ってくれたこともあつて、七月には元気を取り戻した。

 十二月二十四日、はじめて蕪村忌を子規庵で修した。旧派の芭蕉に対する自派の旗印を明らかにしたのである。参集者は二十名で、以来毎年修されるようになり、水落露石が大阪から天王寺蕪を送ってくるのが恒例となった。

 

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子規の俳句(六七)

 

○ 遅き日の四時打ち切りし時計哉

 

明治三十一年作。

 時計が四時を打った。冬の間、四時といえばもうあたりが薄暗くなり始めていたが、春になって日が永くなり、今時計が四時て打ち切ったのに、まだ窓の外はこんなに明るいてはないか、と日の永さに春の到来を感じとったのである。

 病床ですごす日々の子規は、季節の変化をこのようなところにも敏感に感じとっていたのてある。

 

○ 幼な子や青きを踏みし足の裏

 

 明治三十一年作。

 もえ出する若草の青きを踏んできたのであろうか、幼な子のやわらかい足の裏にも、草の青さが染めついている、ああ春が来たのだなあという句。

 旧暦の三月三日、野に出て芽吹いたばかりの草々を踏んで、宴を催すという習俗が、昔の中国にあった。

 

   菓物の常食をやめて

○ 薔薇ちるやいちごくひたき八つ下り

 

 明治三十一年作。

 五月二十九日付夏目漱石宛の書簡に

 「当地俳句先ヅ衰頽の方也。しかシ月次例会に八七、八人位ハ集まり申候。多少人に変りハあれど絶えも致さず候。」

と記し、虚子、碧梧桐、紫影の消息を短く伝えた後に、

 「この頃ハ庭前に椅子をうつして室外の空気に吹かるるを楽ミ申候。昨今ハ丁度昨年発熱の満一年なれバにや多少発熱あり。」

と書き送った。その追伸に

 本月初以来菓物の常食をやめ候ところ、いよいよ元気欠乏致候。

   薔薇散るやいちごくひたき八ッ下り

   若葉陰袖に毛虫をはらひげり

   若葉風病後の足のおぼつかな

と記してあった。

 

○ 薔薇を見る眼の草臥や病上り

 

明治三十一年作。

 子規の病状は、この年も決してよくなかったが、それでも前年の後半からこの年にかけては、比較的安定していた。そのためでもあるまいが、病気の句は、前年までと比較するとかなり少〈なっている。「それは病気か快くなった為ではない。病気についての子規居士の考へ方がやや変って来つつある」(寒川鼠骨「子規居士の俳句研究」)と鼠骨が記しているように、子規は不治を自覚し、病床に在ることが自分の日常てあると、ありのままを受け入れる境地に至ったと考えるべきであろう。

 この句も下五に「病上り」とあるものの、句の主眼は、眩しいまでに美しい薔薇であり、その美しさを見続けている時の目の草臥を、率直にそのまま詠んだものである。

 「薔薇の眩しいまでの美しさに惹かれてみつづけているときの目の草臥をしすかに肯いているような趣がある。「草臥や」から「病上り」につづくところがそれである。こういうところに、ありのままを肯定する写生の態度を通して、子規の特異な境涯がごく自然な姿で生かされてきたことが考えられよう。」 (加藤楸邨「俳句往来」)

と、加藤楸邨氏は解説されている。

 この年には、薔薇を中心にして身辺の事を詠みあげた

   病間あり

  椅子を置くや薔薇に膝の触るる処

  薔薇咲いて夏橙を貰ひけり

    菓物の常食をやめて

  薔薇ちるやいちごくひたき八ッ下り

  薔薇散て萩の葉青き小庭哉

  薔薇の花マリー呼ぶは妹なり

などの句を作っている。

 

   病間あり

○ 椅子を置くや薔薇に膝の触るる処

 

 明治三十一年作。

 長い病てあるが、近頃やや体調が良い。そこで椅子を庭へ持ち出して、地植えの薔薇が直に膝に触れそうな処へ置いて花を眺めている、という句である。

 「椅子を置くや」に、長わずらいの病人の体力のほどが窺われ、それだけに、外へ出られた喜びが大きいことも伝わっている。「薔薇に膝の触るる処」と、椅子を置いた場所を詳細に言うところにも、病人の喜ひが伝わってくる。字余りが気にならない率直な口調が、子規の喜びを素直に伝えている。

 この年同じ前書で

  椅子を移す若葉の陰に空を見る

  若葉陰袖の毛虫をはらひげり

  若葉風病後の足の定まらず

などの句も詠んでいる。

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子規の俳句(六八)

 

をととひは喀痰きのふは発熱

○ 今日は又足が痛みぬ五月雨

 

明治三十一年作。

 一昨日は喀痰か激しく、昨日は熱が出た。今日は又足が痛む、と自分の病気を詠んだ句であるか、病苦を激しく訴えるというのてはなく、歎くということでもなく、ありのままを「みずからうべなう独語的な発想」(加藤楸邨「俳句往来」)で句に詠んでいるのが、この年の病臥の句の特色であろう。

  我病んで桜に思ふこと多し

    病中小照自題

  写し見る鏡中の人吾寒し

など、いすれも沈潜した詠みぶりになってきている。

 

○ 一群の鮎眼を過ぎぬ水の色

 

明治三十一年作。

群れ泳ぐ鮎が、眼の前の清流をさっと泳ぎ過ぎた、という句であるが、その鮎の泳ぐ水の色に着目したのがこの句の主眼である。

 子規の初期(明治二十五年)の句に、

    石手川出合渡

   若鮎の二手になりて上りけり

というのがある。川の流れが二つに分れているところで、若鮎の群が二つに分れて行った景を詠んだものであるが、厭味を感じないまでも、些か発想が観念的であると思われる。掲出の句は、同じように清流を泳ぐ鮎を詠んだものてあるが、鮎のす早い動きの溌剌さと共に、下五の「水の色」に川の流れの清澄さか表現されていて、いきいきとした写生句になっている。

 

○ 朝顔や紫しぼる朝の雨

 

 明治三十一年作。

 朝から雨が降っている。濃い紫色の朝顔の花にその雨が降り注いで、紫色の雫になって地に落ちる、と詠んだ句である。

 朝の雨の清々しさ、朝顔の紫色のあざやかさ、その色に染まる雨の雫を、「しぼる」という一語に集約して、色彩感溢れる佳句に仕立て上げた。

 松井利彦氏は、この年頃から子規の写生観に「一つの屈折」が見えはじめると言われる。

 それは、写生を単に、事実に即して発想する(空想から発想するに対)という、発想の問題としてではなく、作品の上にあらわれた傾向を含めて考えるようになることて、前年には「印象明瞭」の語を用いている。()この素朴な写生から印象派的写実への脱皮が「紫しぼる」という語となって集約されてくるのであって、そこにこの句の価値かあるといえよう。

(松井利彦「正岡子規」)

 

○ この頃の蕣藍に定まりぬ

 

 明治三十一年作。

 夏の間色とりどりに咲いていた朝顔が、咲き進み、盛を過ぎて、平凡な藍色のものばかりになった。もう秋が来たのだなあ、という感慨を、朝顔の花の色のうつろいに着目して表現した句である。

 「我に二十坪の小園あり。()ありふれたる此花、狭くるしき此庭が斯く迄人を感ぜしめんとは曽て思ひ よらざりき。況して此より後病いよいよつのりて足立たず門を出つる能はさるに至りし今、小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。余をして幾何か獄窓に呻吟するにまさると思はしむる者は此十歩の地と数種の芳葩とあるがために外ならす。」 (「小園の記」)

と、この年の十月に書いた「小園の記」によると、子規庵の庭には、朝顔、萩、芒、ききょう、葉鶏頭などが咲き乱れ、外に出られない子規は、それらを俳句に詠み、絵に描いた慰めとしていた。

 この句の場合、見えてゐるのは何時ものやくざな朝顔に過ぎぬ。私は無造作につぶやくやうに、「藍に定まりぬ」と言ったたけてある。そっけない表現である。だが誰がこんなありふれた景色を何の技巧もないやうな言ひやうで句にする者があらう。()母か妹か誰かにふと洩らした言葉をそのまま一句に仕立てたやうだ。それ程表現が淡泊であり、無技巧であり、一本に通つてゐる。

と読み解かれる山本憲吉氏は、

 「この句は、朝顔のことを言ひながら、心は必すしも朝顔にあるのではない。このころの充たされない欲求であり、孤独な心境である。色とりどりの盛りを過ぎて、朝顔が藍一色になってしまったといふ庭前の一些事すらも、大きな波紋を描いて彼の孤独な寂寥を触発させるのである。」 (「現代俳句」)

とも述べておられる。

 病臥の子規は、庭前の草花に我々の想像以上に深く鋭い親近感を寄せたのてある。

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子規の俳句(六九)

 

  午前四時

朝顔の垣や上野の山かつら

  同 六時

   朝飯や日のあたりたる萩芒

  同 十時

  紫苑活けて机に向ふ読書哉

  午後零時

  鶏頭に大砲ひゞく日午なり

 

 明治三十一年作。

 この頃の子規の日常の身辺のことがらを、時間の推移につれて詠み上げた句である。

 午前四時頃目覚めて、朝顔の垣根の向うに上野の山を眺め、朝日が当ってみずみずしい萩や芒の植えられた庭を見ながらの朝食は午前六時、十時には、紫苑を活けた机に向って書きものをする。やがて正午を告げる大砲が、鶏頭の咲く庭にひびき渡るのであった。

 「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家、まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翻る様もいとゆたかに眺められる。」 (「小園の記」)

とこの年十月に執筆した「小園の記」には、「小園の図」が添えられている。そこには、

  朝顔の垣や上野の山かつら

の垣があって、その向って右側に萩があり、その後に、

  うしろ手に百日草や萩の花

と詠んだ百日草が植えてあった。

 同じくこの年に詠んだ句に、

   ごてごてと草花植ゑし小庭かな

とあるように、子規の小園にはさまざまな草花が植えられていて、外出することが出来なくなった子規は、それらを句に詠み、絵に描いて、病臥の生活の慰めとしていたのである。

 これらの草花の中で、子規が最も気に入っていたのは、萩と鶏頭であった。

 「我小園の見所はまこと萩芒のさかりにぞあるべき。今年は去年に比ふるに萩の勢ひ強く夏の初の枝ぶりさへいたくはびこりて末頼もしく見えぬ。葉の色の去年の稍々黄はみたるには似ず緑いと濃し。空晴れたる日は椅子を其ほとりに裾ゑさせ人に扶けられてやうやく其椅子にたとりつき、気晴しがてら萩の芽につきたるちひさき虫を取りしことも一度二度にはあらす。桔梗や撫子は実となり萩は一つ二つ綻び初たり。飛び立つばかりの嬉しさに指を折りて翌は四、あさっては八、十日目は干にならんと忠ひ設けし程こそあれ、ある夜野分の風はげしく吹き出てぬ。」 (「小園の記」)

 子規は限られた天地に生活することを余儀なくされたが、その分庭前の草花に寄せる情愛は、我々の想像以上に濃いものであった。

 「対象の豊かさから拒絶されるに至って、かへって子規の眼は爛々と輝き、子規の誌心は激しく掻立てられた。あらゆるものがナイーブなまでにはっきりと見えるやうになった。」 (山本憲吉「現代俳句」)

 

   野分して蝉の少きあした哉

 

 明治三十一年作。

 昨日の野分のせいであろう、前日までやかましく啼き競っていた蝉の声が、ぐっと少くなった。きっと昨日の野分が、吹きとばしてしまったのであろう。すがすがしい秋の朝に、ふと蝉声の減ってしまった淋しさを感じたのである。

 佐藤紅緑宛の書簡によると、九月六日の夜の野分で、御院殿の坂の上の大きな杉の木が倒れ、庭先の秋草を吹き倒した。その次の日の朝、虚子がたずねて来た折に即興で作った句である。

 虚子来訪の用件は、「ほとゝぎす」のことであった。

 前年一月、子規の友人柳原極堂が松山で発刊した「ほとゝぎす」は、一年ばかりで、早くも続刊困難を極堂が言い出すようになった。極堂はその理由を、「要するに予の俳道心の退転である。元来遠大なる目的と鞏固なる決心なく、唯一時の意志に駆られし其薄志弱行の結果である。」(「友人子規」)と記しているが、売先が松山よりもむしろ他の地方である雑誌を、原稿は中央に依存して、仕事の片手間に発行を継続することは、なかなかむずかしいことであったと思われる。

 子規は「東京にて出すには可なり骨が折れて結果少しと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思ふ存分の事出来申候」(極堂宛書簡)と松山での続刊を熱望し、面倒な募集句の清書くらいは手助けする、経済的な救済も考えよう、とあくまでも松山での続刊に執着したが、結局三十一年十月から、「ほとゝぎす」は虚子の手で、東京で刊行することになった。

 掲出の句が出来た朝の虚子の来訪は、まさにその「ほとゝぎす」を移行して発刊する相談のためであった。

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子規の俳句(七〇)

 

  元光院

〇 三十六坊一坊残る秋の風

 

 明治三十一年作。

 十月二日、「日本」の陸羯南の主催で、上野寛永寺の塔頭元光院で、立待の月(陰暦八月十七日の月)を観る会が催され、子規も誘われて出席した。

 元光院は、元来三十六の坊が備わった伽藍であったが、今はわずかにその一坊が残存するばかりであった。そのさびしさと、秋風のうらさびしさ、望月を過ぎた月光、それらが合さった雰囲気を、一気に詠み上げた句である。

  今はその一坊か残存するばかりだという、うらさびしい気持ちが秋風と惨透しあったところに、季感のみごとな発揚か見られる。ことにこの句の、一気にうたいあげた声調は、子規の雄健な一面を生かしえたものといえよう。()

  荒廃と秋の風の感触とのみごとな合致である。 (加藤楸邨「俳句往来」)

と言われる加藤楸邨氏は、更に

  子規の絵画に対する写生論からいうと、こういうゆき方はいわゆる「輪廓的写生」「理屈的写生」ではなく「感情的写生」になり、在来の写生から一歩踏みだしているわけである。

とも記しておられる。

 

  旧暦八月十七日元光院

○ ある僧の月も待たずに帰りけり

 

 明治三十一年作。

 前の句と同じく、元光院に於ける観月会を詠んだ句である。

 羯南と交友のあった文彦、青崖、樗園、釈清潭、湖村らが列席していたこの座へ、病身の子規はやや遅れて着いた。しばらくすると、同しく寛永寺の塔頭である浄名院の憎釈清潭が、月の出も待たずに帰っていった。

 立待の月をめでる会であるから、月の出は名月よりもやや遅れるか、ようやく日も暮れて、もう間もなく十七日の月が昇ってくる頃である。その月の出を待っている間に、ふと席を立って帰って行った客のことを、子規は気にとめたのである。別に顔見知りでもないし、その場で話をしたわけでもなかろう「ある僧」が、月見の催に参加しながらも月の出る前に中座退出したことを、同じ座に連なる者として、何となく惜しむ気持が湧いたのであろう。

 中座した憎を、不風流と非難するのではなく、たゞありのままを淡々と詠み放ったところに、むしろおもしろ味が感しられる。

 山本憲吉氏は、「凡兆の『ある僧のきらひし花の都かな』が頭にあったかも知れない」(「現代俳句」)と言い、この句の「ある僧」が、

  その座における存在を子規に意識せしめてゐたことは事実である。だからそれがゐなくなったことが、彼 に一抹の寂寥感を興へるのだ。平凡なちょっとした出来事であるが、子規の気持を掻立てるものがあったのである。淡々と客観的に殺しながらデリケートな心の動きが籠ってゐる。 (「現代俳句」)

と記しておられる。

中座した僧を、不風流と非難するのではなく、たゞありのままを淡々と詠み放ったところに、むしろおもしろ味が感しられる。

 山本憲吉氏は、「凡兆の『ある僧のきらひし花の都かな』が頭にあったかも知れない」(「現代俳句」)と言い、この句の「ある僧」が、

  その座における存在を子規に意識せしめてゐたことは事実である。だからそれがゐなくなったことが、彼に一抹の寂寥感を興へるのだ。平凡なちょっとした出来事であるが、子規の気持を掻立てるものがあったのである。淡々と客観的に殺しながらデリケートな心の動きが籠ってゐる。 (「現代俳句」)

と記しておられる。

 子規は後に

   アル僧ノ月ヲ観ズシテ帰りケリ

の句を清潭に送っている。

 

   馬追の長さ髭ふるラムプ哉

 

 明治三十一年作。

 夕方薄暗くなってきたので、ランプをともした。あたりがパッと明るくなった。よく見ると、そのランプのほやに馬追がとまって、長い髭をゆっくり動かしている、という句である。

 ほの昏い夕暮、ランプに火を入れると、あたりは一度に明るくなった。しばらくして、そのランプに注目すると、馬追がとまっている。その馬追は、体よりも長い髭をゆっくりと動かしている。と子規の視点は徐々に徐々にせはめられてゆき、やがて馬追の細く長い髭を凝視する。ズームアップの方法を描写に用いることによって、写生に広がりが生じた。

 十月六、七の二日間にわたり、子規は新聞「日本」に「立待月」と題して百句を発表している。前項の「三十六坊」の句と共に、この「ある僧の」の句もその中の句である。その他

   一群は庭に話すや草の露

   屋根に置く露の光や根岸町

庭に酌むや芋も団子も露の中

月曇る観月会の終りかな

瓶花露をこぼす琵琶三両面

精進に月見る人の誠かな

御船と襖隔つる寒さかな

月代もなくて月出る野末かな

芋阪に団子の起り尋ねけり

老僧に通草をもらふ暇乞

等の句が掲載された。

 ほの昏い夕暮、ランプに火を入れると、あたりは一度に明るくなった。しばらくして、そのランプに注目すると、馬追がとまっている。その馬追は、体よりも長い髭をゆっくりと動かしている。と子規の視点は徐々に徐々にせはめられてゆき、やがて馬追の細く長い髭を凝視する。ズームアップの方法を描写に用いることによって、写生に広がりが生じた。

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