2006.12.より

子規の俳句

『春星』連載中の中川みえ氏の稿

 

(8に続く)

 

(八一)  (八二)  (八三)  (八四)  (八五)

(八六)  (八七)  (八八)  (八九)  (九〇)

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子規の俳句(八一)

松本みえ

苔の上にこぼれて赤しゆすらの実

 

 明治三十三年作。

 四月頃、葉が開く前に白い小さな花をつけるゆすら梅は、小さな梅のような実を結び、夏になると真赤に熟す。

 緑のビロードのような苔の上に、真赤に熟したゆすら梅の実が落ちてころがっている、そのことだけを詠んだ句である。

  句のきわめて鮮やかな印象をあたえるのは、苔の青

 さ、柔らかさの上にゆすらうめの赤さが感ぜられるた

 めである。一切の装飾が削り去られて、感覚にうった

 える一点のみを把握したところに力がある。この句か

 ら苔の柔軟な感触をとり去ると何ものこらないのは、

 ゆすらうめだけ、苔だけの美しさではなく、その映発

 しあうところが眼目だからである。

(加藤楸邨「俳句往来」)

 

藤の花長うして雨ふらんとす

 

明治三十三年作。

 藤の花は、晩年の子規が心を惹かれたものの一つである。特にその花房が長く垂れ下がって咲くのを愛でた。

 前年にも

   手に提げし藤土につくうれしさよ

という句を作っている(四月号参照)し、この年、

   百花の千花を糸につらぬける藤の花房長く垂れたり

   公達がうたげの庭の藤波を折りてかざさば地に垂れんかもと短歌にも詠んでいる。

 掲出の「藤の花長うして」の句は、句会に出句したが、誰の選句にも選ばれなかった。そのことを自嘲して、「体温日記」に

   五月四日(体温三十九度六分)俳句会

  藤の花長うして雨ふらんとすとつくりし我句人は

  取らざりき

と短歌に仕立てて詠んでいる。

  藤の花の紫の色は、曇天の下にふさわしい。藤の花

 といえば、曇った空が感ぜられるところがあるのであ

 ろう。「雨ふらんとす」はそこに微妙に結びつく。し

 かし、この句の最も妙なる所以は「長うして」にある。

 本から末へ心をしずめて見てゆくにつれて、細まって

 まだ開かず、今や開かんとする房の感じが「雨ふらん

 とす」という、曇っていていまだふらざる感じと相通

 うところがある。病臥人の繊細な感受であると言って

 しまえぬ力が潜んでいるのである。これは俳句会の忽

 卒裡においては感じとれぬものがあったのだ。

(加藤楸邨「俳句往来」)

と分析される加藤氏は、翌年の有名な

   瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にと

   どかざりけり

を引き合いに出して、「短歌の方は、その事をそのまま詠みあげてしかもこの句の採られなかった内容が微妙に作用しているところがある」(「俳句往来」)と述べ、この短歌の精妙な把握は、「こうした藤花房の長さの感じの集積の上に大きく飛躍したものだったことが考えられよう。」(「同」)と指摘されているのが興味深い。

 

銀屏や崩れんとする白牡丹

 

 明治三十三年作。

 みごとな銀屏布が立てられている。その前には、白い大輪の牡丹の花が活けられている。その牡丹は、花の盛りを過ぎ初めたもので、今にも散り崩れんばかりである。

 豪華な銀屏布に、豪華な白牡丹の花を配し、両者の艶麗さを際立たせている。盛りを過ぎて、崩れ散る寸前の牡丹のあでやかさを表現した句であるが、あえて銀屏布に白牡丹というモノトーンの取り合せを設定して豪華さを打出し、部屋全体の荘重さを表出する句になっているのがおもしろい。蕪村の影響を色濃く感じさせられる句である。

 

追込の小鳥静まる秋の雨

 

 明治三十三年作。

 この年パリに遊学した画家の浅井忠(黙語)が出に周旋してくれて、或人の庭に捨ててあった。高さ一位の、トタン屋根の付いた、円錐形の金網の大鳥籠が、子規の病室の前の庭に据えられた。

 子規はこの籠の中に五尺ばかりの李の木を植えた。翌年の春に花が咲く頃、花の中を飛ぶ小鳥を見ようと考えたのである。この鳥篭の中へ、ヒワ、キンバラ、キンカ鳥、ヂャガタラ雀を放って、朝晩それをながめて病臥の無聊を慰めた。

 小鳥が木の葉を片端から食い尽し、とても花が咲くでは育ちそうになかったが、小鳥は、朝に夕に子規のを慰める伴侶となった。

 この大鳥籠が、遂には庭の片隅へ移されるまでの変遷を、子規は「病床苦語」に詳しく記しているが、前のガラス障子の出現と同じように、病床の子規を慰め効用は大いにあったと思われる。

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子規の俳句(八二)

 

月の秋興津の借家尋ねけり

 

明治三十三年作。

 八月十三日の朝、子規は突然喀血した。しかも、二十八年の大喀血以来の多量の血を吐いた。幸いにも喀血は一度だけでおさまったが、子規もまわりの者も驚歎した。その後は疲労がひどく、執筆その他の仕事を減らさざるを得なくなった。

 八月二十六日、和歌の方の門人である伊藤左千夫が来た折に、興津の話をして、この地への移転を発案した。気候の変化の少い、空気のいい海岸で、来客その他の煩しさからのがれてゆっくり静養したら、子規の病気のためにはよいのではないか、ということである。

 子規はすぐにのり気になった。翌日叔父大原恒徳に、

  私此頃の衰弱は前便にも申上候如くにて昨年さへ冬

 こしには困り候もの此冬の事ハ初より気遣申候処昨夜

 ふと友人の勧めにより興津転地の事俄に思ひ立候 そ

 れがため昨夜もろくに寝られぬ程の事に候

と、早速書き送っている。

 移転に要する様々な困難……どのようにして興津へ行くのか、移転後の医師の確保はどうするのか、移転先の住居の問題など……や不安はあったが、夜汽車を一室借り切る東鉄との交渉や、偶居の間取を、碧梧桐を派遣して確認するなど、子規はどんどん段取りを進めて行った。

 十月五日には、もうひとりの叔父加藤拓川に宛てて、「眺望広きこと」「来客少き為め仕事多く出来得べきこと」「天気のよき日など担架にて海浜へ出て得べきこと」「興津の気候は家族の健康上利あること」など、十余ヶ条に渡って興津移転の利害を提示する手紙を書いて、転地に理解を求めた。

 しかし、拓川は移転には絶対反対であった。陸褐南も反対した。医者も不賛成であった。子規周辺の人の中では、内藤鳴雪が最も強固に反対した。

 子規は異常なほど興津に執心した。「我々が子規の心情に立ち入って、前後不可解と思ったことは、この興津転地の一件以外、さしたる記憶はない」(「子規の回想」)と碧梧桐は記しているが、それでも虚子や碧梧桐は彼らなりに子規のこの時の気持を忖度している。

  興津を考へることは絶望の彼の前途に不思議な光明

 の世界を描き出すのであった。草花を写生したり土を

 捏ねねたりすることにも興味を失って、唯うんうんと

病苦にうめく事が一番意味あることのやうにすら考へ

る此頃に在っても、一度興津問題に触れると、彼の心

は夢のやうに楽しかった。

            (高浜虚子「柿二つ」)

  子規はたゞ動いて見たかったのだ。旅らしい気分が

味はひたかったのだ。()今ならまだ車にも汽車にも

乗れる。()もう二度と其の機会は来ないかも知れぬ。

()幸ひそんなことを言ひ出してくれたのをきっかけ

に、思ひ切つて、かねての気分を満喫しよう。さう思

って矢も楯も堪らなかったのだ。

(河東碧梧桐「子規の回想」)

 結局、興津転地は、約一ヶ月半もみにもんで、十月十六日に廃案となった。「彼が絶望の生涯に最後の楽しい空想界を描き出して見やうとしたことも却って彼に絶望を重ねさすことに終ってしまった。」(「柿二つ」)と虚子はこの顛末を振り返っている。

 粟津則雄氏は、この興津転地の話が持ち上った八月二十六日という日に着目されている。

  左千夫がこの話を持ち出した八月二十六日には、昼

 間、漱石が、寺田寅彦とともに、英国留学のための別

 れを告げに訪れている。()この友との別れは、子

 規のなかに埋めようのない空虚を作りあげたはずであ

 る。興津転地の考えは、まさしくこの空虚のために激

 しく燃えあがったのだろう。

(「正岡子規」)

子規自身が無意識にいだいた、おのれの宿命から脱げ出したいという願望と、「畏友」漱石とはもう会うことは出来ないであろうと思う淋しさが、興津転地への執着という形で発散された出来事であった。

 

庭前葉鶏頭の三寸にして真赤なり

 

明治三十三年作。

庭前に植えた葉鶏頭は、草丈は僅か三寸(約十センチ)ほどであるが、日を浴びて燃えるように真赤である。ああ、秋なんだなあ、という句。

 子規庵の庭は、森鴎外から買った種から育った葉鶏頭、

  鶏頭や不折がくれし葉鶏頭

と句に詠んだ、中村不折が届けてくれた葉鶏頭、それに、向いの家から買った鶏頭の苗四本など「鶏頭、葉鶏頭、かゞやくばかりはなやかなる秋」(「小園の記」)であった。

 

○ 鶏頭に秋の夕の迫りけり

 

明治三十三年作。

 子規庵の庭は今、鶏頭、葉鶏頭が真赤に咲き競っている。釣瓶落しの秋の日がもう間もなく落ちそうで、日暮の刻がすぐそこまで追っているようだ、という句。

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子規の俳句(八三)

 

鶏頭の十四五本もありぬべし (1)

 

 明治三十三年作。

 病床から庭を見渡した句であるが、子規の句の中では評価が分かれる。そして、それ故に著名な句である。

 この句は、当時の俳人達には見過ごされ、虚子や碧梧桐の編纂した子規句集にも採録されなかったが、歌人斎藤茂吉は、この句を子規晩年の代表句の一句として、高く評価した。

 この句を最初に認めたのは、歌人長塚節である。そして、この句に「端的単心の趣」(「正岡子規」)を認め、「これから子規の進むべき純熟の句がはじまったのである。もう寸毫も芭蕉でも蕪村でもないのである。」(「俳句寸言」)と高く評価したのが、斎藤茂吉である。

 「茂吉がほめたので有名になったやうですが、私はそれほどに思ひません。」(「俳句への道」)という虚子は、この句について次のように記している。

  子規が思ひ立って私等仲間を四、五人招いて、会を 

 開いたことがあつた。それは唯、雑談会であったか、

 俳句会であったか忘れたが、兎に角さういふ会合が暫

 く無かったので病床のつれづれなるままに、子規の思

 ひ立ちで開いたものであった。その時、主まうけとし

 て、庭の鶏頭の林のうしろに白い幕が引いてあった。

 何のために白い幕を引いたのかと思ったら、鶏頭の紅

 いのを引き立たせるためであった。――この頃問題に

 なってゐる「鶏頭の十四五本もありぬべし」といふ句は

 この時の句であつたかと思ふ。

(「高浜虚子「会合」」)

  病臥してゐて実際鶏頭の数を数へることが出来なか

 ったので、十四五本位あるであらうと正直に言ったの

 である。

(「高浜虚子「俳句への道」」)

 この句の評価が分れる理由は、次のような点にあると思われる。

 先ず、上五の「鶏頭の」について、「鶏頭」は他の花でも、他の物にでも詠み替えることが出来る、同様に、中七「十四五本」についても、七、八本でも、十二、三本でも、この句は成り立つと言うのである。

 下五の「ありぬべし」に付いては、完了の助動詞「ぬ」と、推量の助動詞「べし」を結びつけて断定に用いたこの用語法は、現在、目の前に在る景を詠む語法としては異例であり、この句の下に七七を付けないと完結しない印象――短歌の上の句のみでぷつんと切れたような感じ一一が否みきれない。

 昭和三十年前後、この句をめぐって「鶏頭論争」が発生した。山本憲吉氏の「現代俳句」にその経緯が詳しく論じられているが、それによると、発端は、志摩芳次郎の昭和二十五年の発言である。

  病床で寝てゐた子規が、ろくに精魂もうちこまずに、

 子規の言葉をかりれば、庭の景色を、かるく写生した

 のである。身辺に見えるもの何でも、俳句にして子供

 のやうによろこんだ。

と志摩はこの句を非難し、

   花見客十四五人は居りぬべし

   はぜ舟の十四五艘はありぬべし

などの句を並べたてて、鶏頭の句のゆるぎなさを否定しようとした。

 同様に、斎藤玄は、

   枯菊の十四五本もありぬべし

   鶏頭の七八本もありぬべし

と詠み替えて、美しさの相違を言い立てた。

 これに対して、山口誓子は

  鶏頭が立ってゐる。群つて立ってゐる。十四五本に

 見える。あはれ、鶏頭は十四五本もあるであらうか一

 一鶏頭を、さう捉へた瞬間、子規は、鶏頭をあらしめ

 てゐる空間の、その根源にあるものに触れたのである。

 自己の"生の深処"に触れたのである。

と述べ、この誓子説の延長上に、山東三鬼は、

  非常に多数であること、これがこの句の要因である。

 鶏頭といふ植物は誰も知る通り、太くたくましい茎の

 上に厚肉の赤黒い鶏冠を頂く。太く、たくましく、赤

 く、黒く、無骨に強健を誇る。しかもそれが十四五本

 も群立してゐるのだ。作者子規は云ふまでもなく命旦

 夕に迫り、苦痛に日夜号泣する状態である。子規の消

 え去らうとする一箇の生命の前に、十四五本の弱硬、

 頑丈な鶏頭が立ふさがつてゐる。子規は十四五本の鶏

 頭によって「己れの生の深処に触れた」のだ。強健無

 比の十四五本の植物に彼は完全に圧倒され自分の生命

 の弱小さをいやといふ程見せられたのだ。

と言う。この両論について、山本氏は

  面白い意見だが、死までまだ三年を余す子規をあま

 りに瀕死に追ひこんでゐるきらひがある。むしろ面白

 すぎる説である。「あはれ、鶏頭は十四五本もあるで

 あらうか」と言ふ誓子があまりに病者の感傷にもたれ

 すぎてゐるのと同じやうに、三鬼も病者の論理を前提

 に置きすぎてゐる。

               (「現代俳句」)

と言い、自分がこの句から受取るものは、「健康さそのものであり、死病の床にあってなは生きよう凝視めよう描かうと願ふたくましい意志だ。」と言われる。

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子規の俳句(八四)

 

鶏頭の十四五本もありぬべし(U)

 

 松井利彦氏の研究によると、この句の初出は、新聞「日本」の十一月十日号である。句が作られたのは、九月九日の子規庵の句会で、即吟である。

 門下生十八名が参集したこの句会の、二回目の句題が「鶏頭」であった。子規は、

   鶏頭や二度の野分に志なし

   誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や

   朝顔の枯れし垣根や葉鶏頭

   萩刈りて鶏頭の庭となりにけり

   鶏頭の花にとまりしばった哉

   塀低き田舎の家や葉鶏頭

の句と共に掲出の句を出句したが、この句は選句の点数が低く、句会の記録「東京俳句会」(「ほとゝぎす」三巻十二号)欄には「以下略」として採録されなかった。

 大岡信氏は、「鶏頭の十四五本も」という文章に、右の松井氏の研究を紹介した上で、子規のこの時の出句が、掲出の句以外は客観写生の句、触目の句であるのに、この句だけが「ありぬべし」と完了の助動詞「ぬ」と、推定の助動詞「べし」という用語を用いて、現在ただいまの景を詠んだ異様さを推理しておられる。氏が着目されたのは、前年十二月の「根岸草盧記事」である。

  外の草は皆跡も留めぬやうになった冬の初に、十本

 余りの燃えるやうな鶏頭ばかりが残った。()虚子

 に障子を明けてもらふて庭を見ると、例の鶏頭が並ん

 で居るのがたまらなく愉快であった。其真赤な色に段

 段黒みを帯びて殷紅色といふやうな色になってしかも

 光沢がある。其の色の善さは身に入みる程であった。

 ()我拙い筆にでも面影を写したいと思ふたが此色

 は油画でなければ出ぬ色だから仕方がない。()

 れから三日ばかりして、これ見よ、と障子を明けられ

 たから見ると、驚いた。あれ程美しかった鶏頭は霜に

 打たれたか全く枯れてしまふて実に見苦しき残骸を留

 めて居た。アア残念した。若し自分の思ひ焦がれて居

 る恋人の肖像を画かう画かうと思ひながらまだ画かぬ

 さきに其恋人に死なれたら、こんな心持がするであら

 うか。

(「根岸草盧記事」)

大岡氏は、この記事から、

  子規は「鶏頭」の句題で触目の写生句をいくつか案

じたけれど、意に満たなかったのではないか。()

頭が句作への集中から少時放たれたのではないか。

 ()そんな心に、ごく自然に、去年の冬一文を草し

 て鶏頭をたたえたことが思い出された。()「恋人に

 死なれた」ほどの気持にまでさせられたあの去年の鶏

 頭をたたえたのが、この句だったのではないか。

         (「鶏頭の十四五本も」)

と推理されている。非常に興味深い説である。

 筆者は、本稿執筆に当って、掲出の句が念頭にあって、三、四年前の子規の忌日に、子規庵を訪ねたことがある。

 子規の病室であった奥の六畳の間に、庭に向って正座して、顎が畳に着くほどに低く体をかゞめて、病床の子規の視線に近い位置から、庭の鶏頭を眺めたことがある。

 この年の鶏頭は丈が低く、花も非常に小さいものであったが、そこに子規が見たであろう燃えるような鶏頭の群を想像した時に、この句が納得出来たように思われた。

 健康人の視線では見逃してしまう鶏頭の群立を、常に病床に在って見ていた子規は「十四五本もありぬべし」と力強く捉えたのであろう。そのことを見逃がしてはならないと思う。

  これは鶏頭が十四、五本立っているというだけの句

 ではない。「ありぬべし」というところを見据えると、

 一群の鶏頭の心を惹く感じに、きっとあれは十四、五

 本あるにちがいないと感じている点が中心なのである。

 鶏頭を見てきた来し方の、いろいろの場合、たとえば

 一本だけの場合とか、十本ほどの場合とが、あるいは

 数えきれない場合とか、そんな体験の上に立って、「十

 四五本もありぬべし」と、頃合の一群を肯定している

 態度なのである。

  (加藤楸邨「俳句往来」)

  何ら他奇なく、事実を精確に報告しているだけです

 が、形態、色彩、情趣、殆どあらゆる要素が連想とし

 て豊富に我々に伝わって参ります。小にしては庭前の

 一小景でありますけれど、幾度か自殺を思いたった程

 激しい病苦の中にあって、やや心のおさまった時、ひ

 とり眼を放てば、いつもこの十四、五本の真紅な鶏頭

 が無心に立っていて、必ず眼をたのしませて呉れる-

 −という子規の、「世の歓び」其物にさえ直接に通じ

 て居ます。

 (中村草田男「子規、虚子、松山」)

  鶏頭の無骨さ、平凡さ、ぶざまさこそ鶏頭の宿命に

 外ならぬといふ発見である。言ひかへれば、「十四五

 本もありぬべし」といふ在りやうは、鶏頭のもの自体

 なのだ。そこには鶏頭の法則が顕現されてゐると言っ

 てもよい。()

  深紅に燃え立つひとむらの鶏頭がそれ自身の存在と

 法則とを明らかにする。病床の子規の眼が個々と真紅

 に燃えたつ。たぐひなく鮮がな心象風景となって、一

 句に結晶するのである。

(山本憲吉「現代俳句」)

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子規の俳句(八五)

 

筆禿びて返り咲くべき花もなし

 

 明治三十四年作。

 この年の初めに

   大三十日愚なり元日猶愚なり

と詠んだ子規は、一月から「日本」紙上に「墨汁一滴」という題で随筆を連載した。

 掲出の句は、一月二十四日の頃に、「墨汁一滴」連載の動機について述べた後に添えられている句である。

  年頃苦みつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強

 くなりて今ははや筆取りて物書く能はざる程になりし

 かば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。斯くて

 は生けるかひもなし。はた如何にして病の床のつれづ

 れを慰めてんや。思ひくし居る程にふと考へ得たると

 ころありて終に墨汁一滴といふものを書かましと思ひ

 たちぬ。こは長きも二十行を限とし短きは十行五行あ

 るは一行二行もあるべし。病の間をうかゞひて其時胸

 に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書か

 ざるには勝りなんかとなり。されど斯るわらべめきた

 るものをことさらに掲げて諸君に見えんとにはあらず、

 朝々病の床にありて新聞紙を被きし時我書ける小文章

 に対して聊か自ら慰むのみ。

  筆禿びて返り咲くべき花もなし

(「墨汁一滴」一月二十四日)

 「墨汁一滴」の第一回が「日本」の紙面に登場したのは、一月十六日のことであった。子規は、連載の第一回目の稿を一月十三日に、二回目の分を翌十四日に「日本」へ送ったが、十五日になっても紙面には掲載されなかった。そこで、当時「日本」に在席した寒川鼠骨に、

  ソコデ朝ハソレガ出テ居ルダロト思フテ急イデ新聞

 ヲヒロゲテ見ルト、無イ。ツマラヌ ツマラヌ。何モイ

 ヤダ。新聞モヨミタクナイ。(寒川鼠骨宛)

と書き送って、失望を訴えた。

筆も禿び、返り咲くべき花とて無い、と詠んだ子規のこの随筆執筆への思いが伝わってくる句である。

 

  題釜

氷解けて水の流るる音すなり

 

 明治三十四年作。

 「墨汁一滴」三月二日所載。

 二月二十八日、歌の方の門人伊藤左干天、香取秀真、 岡麓のはからいで、子規は初めて会席料理を体験した。

 左千夫が大きな古釜を持って来た。この釜の蓋は、左千夫の意匠によるものを秀真が鋳たものである。麓は、利休手簡の軸を持って来て掛けた。

 左千夫が茶を立て、麓が主人役を勤めて、会席料理が供された。

  余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべし

 とて心覚のため書きつけ置く

とこの日の献立と会食の作法を書きとゞめたのが、三月二日の「墨汁一滴」の記事である。 点灯後、茶菓が出て雑談の折に、左干天が「その釜に一百を題せよ」と乞うた。「湯のたぎる音如何」との子規の問いに、左干天は「釜大きけれど音かすかなり、波の遠音にも似たからんかと」と答えた。このやりとりから生まれたのが掲出の句である。

 

鯉の背に春水そそぐ盥かな

 

 明治三十四年作。

 盥に放った鯉の背が水面から出ている。そこへ春水を注ぎかけるという句であるが、加藤楸邨氏は

  鯉の背に充実してきている力の感じが、「春水そそ

 ぐ」によって、ぐっと緊張した感じを与える。弛みの

 ない健康な句である。(「俳句往来」)

と言われる。

 この句の生れた背景を「墨汁一滴」は次のように記す。

  ある日左干天鯉三尾を携へ来り之を盥に入れて吾病

 床の傍に置く。いふ、君は病に篭りて世の春を知らず

 故に今鯉を水に放ちて春水四沢に満つる様を見せしむ

 るなりと。いと興ある言ひざまや。さらば吾も一句も

 のせんとて考ふれど思ふやうにならず。とやかくと作

 り直し思ひ更へてやうやう十句に至りぬ。さはれ数は

 十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみ

 たるのみ。

   春水の盥に鯉の噞喁かな

   盥浅く鯉の背見ゆる春の水

   鯉の尾の動く盥や春の水

   頭並ぶ盥の鯉や春の水

   春水の盥に満ちて鯉の肩

   春の水鯉の活きたる盥かな

   鯉多く狭き盥や春の水

   鯉の吐く泡や盥の春の水

   鯉の背に春水そそぐ盥かな

  鯉はねて浅き盥や春の水

(三月二十六日)

「一意を十様に」と言うものの、掲出の句が、ぬきん出て躍動感を持っていると思われる。

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子規の俳句(八六)

 

五月雨や上野の山も見あきたり

 

明治三十四年作。

 「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句と同様に、歌人斎藤茂吉が賞揚したことで有名になった句である。

  子規自身でも棄て去るべき句ではないと思って居た

 だらう。門馬春雄君所蔵の五月雨十好の軸の書きぶり

 を見ると、それがよく分かる。僕の独断言によると此

 は佳句であって棄つべきものではない。……然るに此

 句は碧梧桐虚子選の子規句集に収録されてないばかり

 でなく、俳壇にゐるほかの人も真に此句を論じたこと

 はない。

(斎藤茂吉「俳句寸言」)

 明治二十五年作の、

   五月雨やけふも上野を見てくらす

をはじめ、子規には多くの上野を詠んだ句がある。直接句に上野の文字がなくても、背景に上野が感じられるものがたくさんある。その中で、掲出の句は、「見あきたり」とつき放した言い方で、しかも「たり」と強く結んでいるところが興味深い。

  鶏頭に較べると力が弱いが、悪い句ではない。梅雨

 時の病床にある身の所存なさがよく現はれてゐる。書

斎の南に庭があり、垣の外に上野の杉が見渡せるので

ある。臥して眺められる景色は何時も変らぬ上野の山

なのである。「見飽きたり」の語法は、「萬葉集」に多い

「見れど飽かぬかも」あたりから来てゐるであらう。そっ

けなく突放したやうな言ひ方だが、イロニカルな味があ

り、「たり」と結んだところ力強い。「見飽きたり」と言ひ

ながら何か朝夕眺める上野の山への.一種の親近感を受

け取ることができるのである。

(山本健吉「現代俳句」)

  子規の晩年の作を読んで感ぜられることは、病苦のあ

んな激しさにもかかわらず、その作には余裕の感ぜられ

ることであり、遊びが生きていることだ。この年は病苦

も募り、()そうした境涯からの叫びの洩れた稀な一つ

であると思う。

(加藤楸邨「俳句往来」)

 子規にとって、上野の山は単に眺める風景というよりも、生活の一部であった。その上野の山への親近感が、病気の所在なさのはけ口になったような句である。

 

 夕皃ノ実ヲフクベトハ昔カナ

夕皃モ糸瓜モ同シ棚子同士

夕皃ノ棚ニ糸瓜モ下リケリ

鄙ノ宿夕皃汁ヲ食ハサレシ

 

明治三十四年作。

 この年の九月二日から、子規は自分だけの病床日誌ともいうべき「仰臥漫録」を記している。公表を念頭に置いた文章ではなく、あくまでも私記で、生前は近親者にすらあまり見せなかった。

 明治三十四年九月二日から十月二十九日迄のものと、翌年三月、六月、七月の断章とがある。

 心のおもむくままに、句を書き、歌を書き、時には絵を画き、感想を記した。新聞の切り抜きや、会計の覚書まであって、公表を前提にしていないため、子規の面目が赤裸々に綴られている。

 たまたま虚子がその一部を目にして、「ホトトギス」の「消息」に「『墨汁一滴』の更に短きが如きものにて甚だ面白く覚え候。行く行くは本誌に掲載の栄を得べく候」と書いて、公表を考えていなかった子規に叱責された。

 掲出の句は、八月二十六日の俳壇会席上の作で、「仰臥漫録」初日の夏に書きとゞめた。夕顔と糸瓜の蔓が同じ棚に巻きついているのを、店子同志と戯れたのである。

 

  病床ノナガメ

棚ノ糸瓜思フ処へブラ下ル

 

明治三十四年作。

 子規の病床から、ちょうど良く見える所へ糸瓜棚の糸瓜がぶら下った。横になっているままで見ることが出来るので、子規の無聊をなぐさめてくれることを、好運に感じた。「思フ処へ」によるこびの気持が表されている。「仰臥漫録」九月二日記載。

 

子ヲ育ツフクベヲ育ツ如キカモ

 

 明治三十四年作。

 病床から見える糸瓜棚に、瓢箪が実を付けた。その実が、日毎に大きくなってゆくのを眺めながら、子供を育てるのもこんな気持なんだろうな、と感慨深く見仰ぐのであった。

 前項の句と同じく九月二日の作で、他に

  糸瓜ブラリ夕皃ダラリ秋の風

  病間ニ糸瓜ノ句ナド作りケル

  野分近ク夕皃ノ実ノ太り哉

などの句を、この日の「仰臥漫録」に記している。

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子規の俳句(八七)

 

 

○ 鶏頭ノマダイトケナキ野分カナ

 

明治三十四年作。

 この句も「仰臥漫録」初日(九月二日)に記されている句である。

 この句の中七「イトケナキ」を、上五の「鶏頭ノ」にかゝるか、或いは上五・下五の「鶏頭ノ」「野分カナ」の両方にかかると見るかで、句の味わいが微妙に変ってくると思われる。

 上五にかかると考えると、秋の強風に、あたりの草花は殆ど倒れてしまった。庭のまだ稚ない小さな鶏頭も、十分に育たないうちに荒々しい野分に吹き倒されてしまった、という句意になり、「イトケナキ」鶏頭の哀れさを、淡々と詠み上げた句と見ることができる。

 「マダイトケナキ」が、鶏頭と野分の両方にかかると解するならば、まだ幼ない弱い野分に吹かれて、稚い鶏頭がそよいでいる、と読み取れる。

 後者の立場で、山本憲吉氏は次のように記している。

  この句は八月の作であるから、鶏頭がまだいとげな

 いのと同様に、野分もまだいとけないのである。「イ

 トケナキ」に「植物の瑞々しさ」を感ずる、と誓子は

 言ってゐる。同時に子規の心のみづみづしさを感ずる

 ことができるであろう。かういふ句を見ると、子規の

 個性がはっきりして来たのは、彼が自己を没却するこ

 とによって掴んだ境地であることがはっきり分るのだ。

 小主観を棄てることによって、物がはっきり見え、物

 の形が澄明な眼に飛び込んでくるのだ。これが子規の

 到達した写生の究極なのである。後に意欲的ではある

 が物欲しげではないのである。

               (「現代俳句」)

 そして山本氏は、「仰臥漫録」の句には「仰臥漫録」体とも言うべき一種の特色があると言い、それを「あまりくだくだしい技巧をこらさない無雑作で、わが儘で、こだはらない、淡泊な詠みぶり」であると指摘しておられる。

 幼ないものへの愛情のこもった。季節感を鋭く捉えた掲出の句には、子規の心のみずみずしさが十分に感じられる。

 「仰臥漫録」の初日に当るこの日は、前月号に紹介した糸瓜の句や掲出の句など、「勝手放題の句」(山本憲吉「現代俳句」)が十九句書き付けられ、その後に、

 朝 粥四椀、ハゼノ佃煮、梅干砂糖ツケ

 昼 粥四椀、鰹ノサシミ一人前、南瓜一皿、佃煮夕 奈良茶飯四碗、マナリ節煮テ少シ生ニテモ 茄子一皿

  コノ頃食ヒ過ギテ食後イツモ吐キカエス

   二時過牛乳一合ココア交テ

     煎餅菓子バンナド十個許

   昼飯後梨二ツ

   夕食後梨一ツ

とその日食べた物を書き記している。大変な食欲である。案の定「今日夕方大食ノタメニヤ例ノ左下腹痛クテタマラズ 暫ニシテ屁出デ筋ユルム」「午後八時腹ノ筋痛ミテタマラズ鎮痛剤ヲ呑ム 薬未ダ利カヌ内筋ヤヽユルム」ということになってしまった。

 この日は子規の枕元で、母と妹が裁縫などしながら、三人で松山の話などをした。その折に、松山木屋町の法界寺の鰌施餓鬼が話題に上った。

  松山木屋町法界寺ノ鰌施餓鬼トハ路端ニ鰌汁商フ者

  出ルナリト 母ナドモ幼キ時祖父ドノニツレラレ弁当

  持テ往テソノ川端ニテ食ハレタリト 尤旧暦廿六日頃

  ノ闇ノ夜ノ事ナリトイフ

    餓鬼モ食へ闇ノ夜中ノ鰌汁

と書き記している。

 鰌施餓鬼ということで、闇の深い夜に、川端で鰌汁を商う店が出ている。餓鬼道に落ちた亡者よ、お前も出て来て、この鰌汁を食わないか、という句である。

  子規の妖怪趣味の句となったのであるが、「餓鬼モ

食へ」という語の中に意外な切迫感があるのは、食物

だけに楽しみを見出していた子規の生活の反映がある

のであろうか。

(松井利彦「正岡子規」)

と松井氏は言われる。

 この日は、

  十時半頃蚊張ヲ釣り寝ニツカントス 呼吸苦シク心

 臓鼓動強ク眠ラレス 煩悶ヲ極ム 心気稍静マル 頭

 脳苦シクナル 明方少シ眠ル

という記載で「仰臥漫録」の初日をしめくくっている。

 

○ 物思フ窓ニブラリと糸瓜哉

 

明治三十四年作。

 「仰臥漫録」九月四日の項に記されている句である。

長い間病床にあって、あれこれ考えてもの思いにふけることが多いが、ふと窓の外を見やると、糸瓜がぶらりと垂れさがっている、という句である。「物思ふ」と詠みながらもユーモアを感じさせるのは、いかにも子規らしい。ただ、この句を記した前の行に、「家庭ノ快楽トイフコトイクラ云フテモ分ラズ」と書いているのが気になる。家庭の快楽ということが分からない、実感できない、という子規のもの思う秋を想像すると、言いようのないさびしさをも感じさせられる句である。

 

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子規の俳句(八八)

 

 ○  人問ハバマダ生キテ居ル秋ノ風

 

    牡丹ニモ死ナズ瓜ニモ糸瓜ニモ

 

    病床ノウメキニ和シテ秋ノ蝉

 

 明治三十四年作。

 「仰臥漫録」(九月九日)所収。

 自分はこの秋もまだ生きている。初夏に咲く豪華な牡丹の花も見た。晩夏のまくわ瓜も食べた。秋の糸瓜もこうして覗めている。そして病床の自分のうめき声に和して、秋の蝉が啼いている。

 新暦の重陽のこの日、子規はたくさんの句を「仰臥漫録」に記している。

 子規の病状は、

  此頃ハもう昼夜とも苦痛煩悶のみにて楽しき時間と

 いふもの少しも無御座候 朝から晩迄晩から朝まで泣

 いてわめいてたは言など申して只地獄にでも落ちたや

 うに苦しんでゐるとは御祖母様はじめどなたも御存あ

 るまじく候 (六月一日付 大原恒徳宛)

と、苦痛の休まることなく、寝返りをするにも人の手を借りるようになり、天井から綱をぶら下げ、畳には麻で箪笥の環のようなものを縫いつけて、それらにつかまってようやく身動きが出来るというありさまであった。この叔父宛の書状には、

  今更何の望も無之迚も此苦痛のやすまる事もあるま

 じけれハ早く御暇乞したくと存候へとも精神まだたし

 かなにて今直二死さうにも無之此ままでいつ迄苦しめ

 らるる事かと困居候 今年の夏ハ到底むつかしくと存

 居候へともそれも分り不申候 昼夜苦み候ため癇癪ハ

 常ニ起り候()せめて飯くふ間だけどうかして楽な

 体の置様ハ無之やと存候へども思ふやうにハ成不申候

とも記してあって、まことに無慚というほかはない。

 少し前の四月九日の「墨汁一滴」には、

 一  人間一匹

 右返上申候但時々幽霊となって出られ得る様以特別御

 取計可被下候也

   明治三十四年月日        何がし

    地水火風御中

という記載があって、思わずはっとさせられる。

 しかし、悲痛なことを全く悲痛から離れて、自らの死を客観的に眺めている部分もある。

 「墨汁一滴」五月二十一日の記事は、閻魔大王と自分との問答形式となっていて、「御庁よりの御迎が来るだらうと待って居ても一向に来んのは何うしたものであらうか来るならいつ来るであらうかそれを聞きに来た」という子規に、「その名前は既に明治三十年の五月の張消しになつている」と閻魔に答えさせている。その張消しになった理由を、「根岸の道は曲りくねって居るのでとうとう家が分らない」、再度行くも「町幅が狭くて火の車が通らぬ」からと記しているところなど、いかにも子規らしい。

 非常に多くの句を記した九月九日の「仰臥漫録」は、

   コホロギヤ物音絶エシ台所

   サマザマノ虫鳴ク夜トナリニケリ

   夜更ケテ米トグ音ヤキリギリス

   痩臑ニ秋ノ蚊トマル憎キカナ

の句を以って、この日の記述を了っている。

 

 ツクツクボーシツクツクボーシバカリナリ

 

  ツクツクボーシ明日無キヤウニ鳴キニケリ

  

ツクツクボーシ雨ノ日和ノキラヒナシ

 

  家ヲ遶リテツクツクボーシ樫林

 

  夕飯ヤツクツクボーシヤカマシキ

 

 明治三十四年作。

 「仰臥漫録」九月十一日所収。

 蝉が啼きしきっている。その声をよく聞くと、晩夏に啼くツクツクボーシの声ばかりである。ツクツクボーシが、明日という日が無いかのように懸命に啼いている。かえって病人の自分の方が、明日も生きているつもりであるのに。雨が降っても晴れても、天気に変りなく、ツクツクボーシは啼きつゞけるものだなあ。家をめぐって、樫林にツクツクボーシの声が充満している。その声は、夕飯時になっても啼き止まず、やかましいことだ。

 秋も半ば、一日中啼き続けるツクツクボーシの啼き声に、病人の作者は閉口しているのであるが、しかし一途なまでにくり返すその啼き方を愛でてもいるのである。

 どの句も表現が平明・素朴で、稚拙ささえ感じられるが、気ままに、思い付くま」に書き付けるという「仰臥漫録」の非公開性と、目の前のことがらをそのままに叙す--事実そのままを求めて、巧拙可否は平気である(寒川鼠骨「子規居士の俳句研究」)--子規のこの頃の句作態度をよみとることが出来る。

 病床に在るうっぷんを、句を作る。書くということではらそうとしたのであろうか。

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子規の俳句(八九)

 

○ 朝皃ヤ絵ノ具ニジンデ絵ヲ成サズ

 

明治三十四年作。

 九月十三日の「仰臥漫録」所収。

 病臥のつれづれに、朝顔の絵を描いた。その絵は、絵具がにじんで、思うようには描けなかった。

 この日の「仰臥漫録」には、一輪の朝顔の花びらが茶色くなった絵が描かれている。その絵をとり囲むように、

  朝皃ヤ絵ノ具ニジンデ絵ヲ成サズ

  朝顔ヤ絵ニカクウチニ萎レケリ  コノ句既ニア

                  ルカ

  朝顔ノシボマヌ秋トナリニケリ

  蕣ノー輪ザシニ萎レケリ

の四句が記されている。

 

○ 枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル

 

明治三十四年作。

よく実の入った枝豆を茹でて、その莢を押したところ、枝豆は三寸ばかり宙を飛んで口にとびこんだ、という句。

 前項の句と同じく「仰臥漫録」の九月十三日に記されている。そこには枝豆の句が十二句並んでいるが、後に

 「週報募集俳句ヲ閲ス 題ハ枝豆」とあるので、選句に触発されて多くの枝豆の句を作ったものと思われる。この日子規庵では、芋名月(旧暦八月十五日)と豆名月(旧暦九月十三夜)を一緒に修したようなので、枝豆が身近な句材になったのであろう。

 

    欲睡

○ 秋ノ蝿叩キ殺セト命ジケリ

 

 明治三十四年作。

 前年の子規は、

  眠らんとす汝静かに蝿を打て

と詠んだ。しかし今は、躊躇することなく「叩キ殺セ」と命じた。寒川鼠骨はそのことを、「叩き殺すくらい平気になった。阿仏罵祖の概である。」(「子規居士の俳句研究」)と評している。

 この年、蝿や蚊を詠んだ句には、

  残る蚊や瓢々として飛んで来る

  秋の蝿蝿たたき皆破れたり

  病室や窓あたたかに秋の蝿

などあって、即事即景、眼前のことがらを、ありのまま、 思ったままをことばにして詠んでいることが見て取れる。

 

    即事

○ イモウトノ帰リ遅サヨ五日月

  母ト二人イモウトヲ待ツ夜寒カナ

 

明治三十四年作。

 「仰臥漫録」九月十七日所収。

 この日、子規の包帯を取り替えた後に、妹の律は四谷へ出掛けた。行先は加藤と記されているので、叔父の加藤の家へ、手土産に"笹の雪"を携えて出掛けたのであろう。

 用事が出来て出掛けた妹が、なかなか帰ってこない。母と二人で妹の帰りを待っているが、何分にも夜寒の季節である。なれない外出で思いの外手間取っているようだが、風邪をひかないか心配である。薄着をして出掛けた妹が、こんなに遅くなって夜寒の中を帰ってくることを心配しているのである。

 昔の女性は、外出しても夜まで帰らないということはめったになかった。平素は家にいて、外出などあまりしなかった妹の帰りの遅さを、母と二人で心配しながらじっと待ちつゞけたのである。

 この日の「仰臥漫録」は、

  律帰ル、オ土産ハパインアツプルノ缶詰ト素麺

という文章で了っている。

 子規の家は、母と妹と三人暮しである。この年、母は五十七才、子規は三十五才、嫁に行ったもののすぐに帰って来て兄の看病にたずさわっている妹の律は三十二才である。早くに夫を亡くした母は、子規と暮らすために、出戻ってきた律を伴って、故郷を離れて東京に出て来た。しかし子規は病弱で、そのため妹の律が主として看病や家事を担当するようになっていた。この日の外出も、本来ならば、子規が行くべき用件であったのだと思われる。その妹が、暗くなっても帰ってこないのを、母と二人で安じている家族的愛情や、家庭的雰囲気が伝わってくる句である。

 

○ 大関ニナラデ老イヌル角力カナ

 

明治三十四年作。

 「仰臥漫録」九月二十二日の記載に、「角力」と前書して、掲出の句と共に七句が記されている。

 「大関ニナラデ」の文字は、野心の何分の一かを実現

 したのみで死を迎えようとしている。子規の心中を反

 映したものといえよう。    (松井利彦「正岡子規」)

と記された松井氏の説が興味深い。

 

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子規の俳句(九〇)

  

草木国士悉皆成仏

○ 糸瓜サへ仏ニナルゾ後ルルナ

  成仏ヤ夕顔ノ顔ヘチマノ屁

 

明治三十四年作。

 「仰臥漫録」九月二十一日所収。

 「草木国土悉皆成仏」は、仏家の偈文「一仏成道、観見法界、草土国土、悉皆成仏」をふまえた前書である。この偈文は、謡曲などに多く引用されている。子規はこの頃しきりに偈のような語を草していた。

 法華教では、生きとし生けるものみな仏になると説く。この糸瓜さえ仏になるのだから、人間の自分が仏道を成就しないで、おくれていてよいのであろうか、自分もおくれまいぞ、という句である。

 そして後の句では、前の句をふまえて、ところであの夕顔が成仏したら、どんなかっこうだろうか、とふざけてもいる。

 加藤楸邨氏は、これら「仰臥漫録」の糸瓜の句について、

  臨終前の糸瓜の句を心に置いてみると糸瓜に寄せら

 れた心の経過が理解できると思う。

(「俳句往来」)

と言われる。

 

○ 鶏頭ヤ糸瓜ヤ庵ハ貧ナラズ

 

明治三十四年作。

 九月三十日の「仰臥漫録」に所収。

 この日、日本新聞社から月給が届けられた。四十円であった。その給料を手にして、子規は「日本」入社以来の自分の収入を振りかえっている。

 明治二十五年十二月に「日本」へ入社した時は、月給十五円でのスタートであった。すぐに翌年一月より二十円になったが、薄給であった。

  余書生タリシトキハ大学ヲ卒業シテ少クトモ五十円

 ノ月給ヲ取ラント思へリ ソノ頃ハ学士トリツキノ月

 給ハ医学士ノ外ハ大方五十円ノキマリナリキ()

 族ヲ迎へテ三人ニテ二十円ノ月給ヲモライシトキハ金

 ノ不足スルハイフ迄モナク故郷へ手紙ヤリテ助力ヲ乞

 へバ自立セヨト伯父ニ叱ラレサリトテ日本新聞社ヲ去

 りテ他ノ下ラヌ奴ニオ辞誼シテ多クノ金ヲモラハンノ

 意ハ毫モ無ク()

  三十円ニナリテ後ヤウヤウ一家ノ生計ヲ立テ得ルニ

 至レリ今ハ新聞社ノ四十円トホトトギスノ十円トヲ

 合セテーヶ月五十円ノ収入アリ昔ノ妄想ハ意外ニモ

 事実トナリテ現レタリ以テ満足スベキ也

と記して掲出の句を書いている。

 その後に、この月の支払を書いているが、子規の食費にかかわる支出が突出していることが覗われる。

 

○ 病床ノ財布モ秋ノ錦カナ

 

明治三十四年作。

 「仰臥漫録」十月二十三日に、

  赤黄緑三色ノ木綿ヲ縫ヒ合セテ財布ヲ作ル 之ヲ頭

 上ノ力綱ニ掛ク中ニ二円アリ コレ今月分ノ余ノ雑

 用トシテ虚子ヨリ借ル所

という記載がある。さらにこの句を記した二十五日には、

  余モ最早飯が食へル間ノ長カラザルヲ思ヒ今ノ内ニ

 ウマイ物デモ食ヒタイトイフ野心頻リニ起リシカド突

 飛ナ御馳走(例 料理屋ノ料理ヲ取リヨセテ食フガ如

 キ)ハ内ノ者ニモ命ジカヌル次第故月々ノ小遣銭俄ニ

 ホシクナリ()考へタ末終ニ虚子ヨリ二十円借ルコ

 トトナリ巳ニ現金十一円請取リタリ

ということが記してある。

 赤黄緑三色の木綿を縫い合せて作った財布を、病床の天井からつり下げた。その中に、虚子から借用したお金が十数円も入っている。これでうまいものも食べられると思うと、この財布は秋の紅葉の綿のように美しく、自分を満足させてくれる、という句である。

 子規は、死に頻しても二十円ものお金を工面することが出来たことを、「余ニシテハ先ヅ上出来ノ方也」と記して、非常に喜んでいる。

 このお金を使って、二十七日には母と妹に会席膳をとって振舞った。

  明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今

 日ニ繰り上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内

 三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテ

 イササカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余

 ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。

(「仰臥漫録」十月二十七日)

 

○ 驚クヤ夕顔落チシ夜半ノ音

 

明治三十四年作。

 前項の句と同じく、「仰臥漫緑」十月二十五日所載。

 家の者が寝静まった夜中、ふいに大きな音がして驚いた。きっとあのぶらぶらぶらさがっていた夕顔の実が落ちたのであろう、という句。夕顔は、病床の子規には片時も忘れられない景物であった。

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