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第6回(平成10年 1月27日) |
メジロドーベル8着とは実は何の関係もない競馬コラム |
1/27 1998. |
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日曜日(1月25日)は中山に行っていたので、日経新春杯は記者フロアにある某室でテレビ観戦となった。で、その発走直前に同行者と話したのがこんなこと。 「例えば、このレースでメジロドーベルがバキっといったらどうするよ」 なんて縁起でもないことを言う人でしょう。自分だよ。いや、誤解してもらっちゃ困るよ。別に故障を祈ってるわけじゃないよ(当たり前でしょ)。そうじゃなくて、もしそうなったらどんな事態になるか、という話である。だから話は別にドーベルに限ることではなく、人気のG1ホースがそうなったら、という話なわけだ。あと、時期としての日経新春杯ね。 まず悲劇ブームが再燃しますな。 これは言ってみれば助走ですよ。次に、拳振り上げちゃってどこに下ろしていいのやらみたいな話になってくるでしょう。目に見えるところではギャロップの読者欄が大繁盛、とか。こんな感じで。 いや、なんか抗議マニアの人はもっといいレトリックを持ってるんだろうな。京都コースを「殺人コース」と呼ぶとか。日経新春杯については「テンポイントの悲劇が教訓になっていない」とかさ。興味ないけど。 ライスシャワーの時みたいになるのなら、メジロバッシング(←馬名ではない)や大久保洋師バッシングだって起きるかもしれない。 などなど。これももっとインパクトのある修辞技巧が存在するのだろうが、いい加減アホくさくなってきたのでやめておく。 さて、ここまで書いてきたのは決して突飛な空想ではない。逆に、実際今までにあった事柄をもとにしたものである。メジロドーベルに何かあったら、本当にこんな騒ぎが起きたことだろう。 一流馬が死ぬと騒ぎが起きる、というのは最近の常である。その死を惜しむ気持ちは古来からあったわけだが、最近でいかんと思うのは、その埋め合わせに誰かを吊し上げなきゃ気が済まない、とでもいうような騒ぎが起きる点だ。結局それは、正義を振りかざす自分に酔っているだけのことであって、現実の競馬を良くする効果は持たないだろう。そりゃ、言えばいくらでも言えるのである。なにしろ、生きているメジロドーベルを例にとってもあれだけサンプルが作れたくらいだ。死んだ馬をダシにJRAなり関係者を叩くことはいくらでもできる。しかし、それが時に暴走にまで至っている現況を私は容認したくない。 もちろん、競走の安全性を向上させることは重要である。しかしそれなら、少なくとも競走馬総合研究所の研究成果くらい勉強した上で発言すべきだろう。そこまでは無理でも、とにかく感情論で語ることではない。 いい加減長くなりすぎたので、まとめに入る。「ファンの声は重要」という美名の下に抗議マニアの暴走が放置されているが、それを許している一部マスコミの姿勢はどうなのかということがひとつ。その影で実効性のある議論が成立しなくなっているということがひとつ。 「須田鷹雄商店」を見にくるような物好きの人たちは、まだ思考能力を残しているはずである。どうか皆さんはレベルの低い騒ぎに加わるのではなく、意味のある議論を成立させるべく考える力を維持強化していただきたい(その意味では私の主張を全肯定していただかなくてもよい)。また、後出しの感情論ではなく、客観性ということを頭に入れて考えるクセをつけていただければモアベターだ。逆に、「須田鷹雄商店」読者でさえこの原稿の意味を理解できないというなら、私は転職準備を急ぐ必要があるだろう。 特に一流馬が死んだわけでもないこの時期にそんな原稿を書いたのは、まさにそんな時期だからなのである。!? いや、騒ぎの最中だったらもみくちゃにされてウヤムヤでしょ。ある意味予言含みで書いておこうと。とりあえずメジロドーベルの例ほどじゃないが、エリモダンデイー骨折については載るね、ギャロップの読者欄。冬問題と京都問題の絡みで。 あ、ドーベルを例にしたマクラのところで、こんなネタ入れときゃよかった。 堅い話が続くのはどうかと思うんだけど、記念レースと顕彰馬の話を次回書くことにしようか。 長文失礼。 |
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