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 創造の神達

異界の大鬼神・塵輪原始の神・尊神農・漁業の神・恵比須神仏習合の神・八幡
魔除けの神・鍾馗雨水の神・切目王子学問の神・天神荒ぶる神・須佐之男命
五方・五季の神・五神

異界の大鬼神・塵輪
 神楽の曲目「塵輪」は、日本の正史といわれる古事記や日本書紀には見あたらず、その出典は「八幡宮縁起」や「八幡宮童
訓」とされている。
 この塵輪は、地域によっては「塵倫」及び「人倫」「人林」などの漢字が充てられ、磐戸、八岐大蛇、鍾馗などと並ぶ石見神楽
で最も代表的な曲目の一つで、内容は、神が塵輪という鬼を征伐するという単純明快な内容であるが、鬼の所作は、勇壮にし
て重厚な中に、空を飛行する所作や激しく回転する所作など、極めて独特な所作がいくつか見られ、この鬼の不透明性、神秘
性をより一層高めている。
 過去、塵輪という鬼については、諸氏によって「ツングース系民族・女真軍の大将説」「熊襲と提携した新羅軍の司令官説」な
ど様々に考察されているが、八幡宮縁起の記述や神楽の詞章の内容、地域の言い伝えなどを考察するに、身体に翼があっ
て天空を自由に飛ぶことができる「塵輪」の正体とは、例年、秋に日本列島へ来襲する「台風」そのもの指摘し、この物語は、
台風の襲来によって惹起される穀物被害などの様々な災害発生を描写しているのではないかと思われる。
 古代の人々にとって、猛威を振るう台風の存在は計り知れない脅威で、八幡宮縁起の作者は、台風の襲来を鬼神の仕業と
して取り扱ったものと思われる。

1 物語の概要
  物語は、第14代仲哀天皇の時代に、異国から身体に翼があり、雲に乗って霞に隠
 れ、自由に空を飛行することができる塵輪という大将軍が、数万の軍勢を率いて我
 が国に攻めて来て、多くの人民を殺すことが甚だしい。天皇は、このような状態を放
 置しておけば、人民が非常に嘆き悲しむことは勿論のこと、自分自身の身にも危険
 が及ぶおそれがあるので、家来の高丸、助丸に命じて警戒の任務に当たらせた。数
 日後、高丸から塵輪が攻めて来た旨の報告を受けた天皇は、自ら弓矢を持って立ち
 向かい、遂に、この塵輪という大将軍を退治したとするものである。
  篠原実氏は、この物語は八幡宮縁起(那賀郡雲城村八幡宮所蔵)から採ったもの
 で、その縁起に「仲哀天皇の御宇に当りて、新羅国より数万の軍兵せめ来たりて、
 日本を討ちとらんとす。是により天皇みづから五万余人の官軍を相したがへ、長門
 の国豊浦の宮にして異国の凶賊を禦がしめ玉ふ。この時、異国より塵輪といふふし
 ぎのもの、色はあかく、頭八ありてかたち鬼神のごとくなるが、黒雲に乗て日本に来
 り、人民をとりころすこと数を知らず。天皇、安倍高丸、同助丸に仰て、惣門をかためさせ、塵輪来らば、いそぎ奏すべし。人
 民の身にてたやすく打事あるべからず。我十善の身を以て彼のもの誅伏せしめんと玉ふ。則かの二人弓剣を帯して、門の
 左右を守護しけるに、第六日にあたりて、塵輪黒雲に乗じて出来る。高丸、竹内大臣を以て此れよしを奏しけるに、天皇御
 弓を取矢をはげて塵輪を射させ給へば、塵輪が頭たちまちに射きられて、頭と身と二つになりて落ぬ。かかる処に何にかし
 たりけん、流矢来りて玉体につつがあり」 と記述されており、文句まで同じ箇所が見られるとしている。

2 仲哀天皇の事績
  古事記、日本書紀における仲哀天皇の事績は、神功皇后の三韓征伐に至るまでの前編的な記述が大半を占め、直接、
 塵輪に関連すると思われる事績は見受けられない。敢えて挙げれば、八幡宮縁起で、天皇が塵輪という鬼を征伐したとす
 る舞台である「長門国豊浦宮」が、古事記、日本書紀では、天皇が政治を執り行った宮殿の一つとして記述されているに過
 ぎない。
  日本書記によると、天皇は皇后と共に角賀(敦賀)に行幸啓し、笥飯宮におられたが、その後、皇后を笥飯宮に残して紀伊
 国(和歌山)に至り、徳勒津宮に移られた。その時、九州の熊襲が叛き反抗するので、天皇は、熊襲国を征伐するため、更
 に、そこを出発して海路で穴門(長門)に至り、豊浦宮に移られた。かねて皇后にも連絡されていたので、皇后は角賀を出
 発して豊浦宮に着かれた。
  天皇皇后は、そこから筑紫(九州)の橿日宮に移られ、熊襲征伐について協議された。時に皇后が神懸かりとなり、「熊襲
 は空しき国、海の向こうの新羅国を討つべし」と託宣があった。しかし、天皇は、「見渡せば海ばかりで国はなし、何れの神が
 自分を欺くのか」と言って、これを疑い決行せず、その後、熊襲を征伐して還幸された。その直後、俄に天皇は病気となり崩
 御されたとある。また、一書では、熊襲を征伐した際、賊の矢に当たって崩御されたとある。
  古事記の内容も、概ね日本書紀と同様で、これらの事績は多分に伝説的であるが、全てを否定することも出来ない。歴史
 学的に事実か否かその真偽の程を確かめるすべはないが、この時代に何か九州地方で重大な事態が発生したとも考えら
 れる。

3 考察上の要点
  神楽の曲目「塵輪」が、前述したとおり八幡宮縁起から採られたものと仮定して、そ
 の記述されている内容などから、塵輪を考察する上での要点を簡単に整理すれば
   ○ 場所 長門国豊浦宮
   ○ 神   第14代仲哀天皇
   ○ 鬼   塵輪(色は赤く、頭が八つ、形は鬼神、異国から黒雲に乗って日本に
        来た、人民を取り殺す)
   ○ 武器 弓矢
 となるであろうか。鬼自体については、「異国より塵輪と言う不思議の者云々」と、そ
 の呼称や姿態、様子が具体的に記述されており、考察する上で、特に重要な要点と
 なり得る。また、神楽の詞章には、身に翼があり、雲に乗って霞に隠れ、自由に飛行
 することが出来る旨の内容が見られ、更に、地域の言い伝えでは、この鬼は女性と
 もいわれ、非常に特徴を持った鬼であることが判る。

4 台風との酷似
  台風は、北緯5度から20度の太平洋上に発生して、アジア大陸、フィリピン、日本列島などに襲来する最大風速毎秒17.2メ
 ートル以上の熱帯低気圧で、直径数百メートルから千キロメートルほどの渦を巻き、風は中心に向かって反時計回りに吹き
 込む。その多くは、7月から10月頃にかけて日本列島、特に九州・中国地方に上陸し、暴風雨を伴い、往々にして海難や風
 水害をもたらす。古くは暴風の意味で「野分」とも呼ばれ、二百十日・二百二十日前後に吹く強い風で、秋を象徴するものとさ
 れている。
  鬼の呼称である塵輪の「塵」という漢字は、土埃、チリ、ゴミ、煩わしいと言う意味で、「輪」という漢字は、輪状のもの、回転
 するもの、回ること、巡ることを意味し、正に塵輪は、土埃やチリ、ゴミなどが輪状に回転する「台風」そのものを想像させる呼
 び方である。
  八幡宮縁起によれば、塵輪は色が赤く、頭が八つで形は鬼神のようで、黒雲に乗って日本に来て、人民を取り殺すことが
 甚だしいとされている。「色は赤く」とは、陰陽五行思想から発展した季節を表す語に「朱夏」があるが、この朱夏は夏の異称
 で色は赤とされ、ここにいう赤色とは、夏の季節そのものを意味していると思われる。また、「頭が八つ」とは、頭はそれ自体
 を象徴する語で、八という数字は、大きな、巨大な、多くの、沢山のとする意味にしばしば用いられ、ここにいう八つとは、巨
 大な、あるいは多くのものという意味と思われる。更に、「形は鬼神」とは、他界からこの世を訪れて、災厄若しくは祝福をも
 たらし、恐るべき霊威を持つ、異形の超自然的な能力を有する存在を示し、 この部分の記述は、秋の季節を待たずして季節
 外れの夏に襲来した、巨大なあるいは多くの「台風」を指し示しているのではないかと思われる。ここに色彩や大きさなどが
 特に記述された理由は、通常とは全く違った特異な状態の台風であったため、敢えて特筆すべき必要があったと思われる。
  「異国から黒雲に乗って云々」とは、神楽の詞章とほぼ同様の内容で、考察するまでもなく、台風の現象を想像すれば、誰
 でもが納得することができる。
  なお、ここに記述されている「人民を取り殺す」とは、直接的な人的被害ばかりではなく、間接的な穀物被害なども暗示して
 いるものと思われる。
  古事記、日本書紀によれば、仲哀天皇は、長門の豊浦宮及び筑紫の橿日宮で政
 治を行ったとされ、歴代天皇の中で、九州・中国地方に宮を置いて政治を行ったとす
 る天皇は、仲哀天皇以外には見当たらず、特別な存在である。前述したように、台風
 の多くは、7月から10月頃にかけて日本列島、特に九州・中国地方に上陸し、暴風雨
 により災害の発生をもたらす。仲哀天皇が政治を行ったとする場所が、多くの台風が
 上陸する場所と正確に合致するのは偶然の一致などではなく、八幡宮縁起の内容
 をそれらしく見せかけるために、敢えて作者が、古事記・日本書紀の中から、この物
 語を創作するのに都合の良い仲哀紀の記事を引用したのではないかと思われる。
  八幡宮縁起によれば、天皇は、弓矢をもって塵輪を退治したとされる。古事記の神
 武天皇の皇后出自の説明で、容姿麗美な勢夜陀多良比売を見た三輪山の大物主
 神が丹塗り矢と化し、比売が大便をする時に溝を流れ下って陰部を突く。比売が矢
 を持ち帰って床の辺に置いたところ、矢はたちまち麗しい男となって比売を妻にしたと
 する「丹塗り矢神話」にも見られるように、特に「矢」は、古代においては神が寄りつく神聖な物、あるいは神の化身と捉えら
 れた。この記述は、台風の勢力の衰退、台風の発生の極端な減少、あるいは台風の進路の変更などが神威によるものと考
 えられて、神が寄り付く神聖なもの、あるいは神の化身としての弓矢の神威が讃えられる内容となったものと思われる。
  地域の言い伝えでは、塵輪は女性の鬼ともいわれ、その面も他の鬼面と比較して一際大きく鬼女の面である。過去には、
 女性を象徴する言葉として「ヒステリック」という語が使われていたが、ヒステリックとは、病的な興奮状態を示し、感情を統御
 できず、激しく泣いたり怒ったりする状態一般をいうとされ、暴風雨を伴い荒れ狂いながら縦横無尽に移動する台風の状態と
 非常によく似ている。余談であるが、大西洋西部・カリブ海・メキシコ湾や北太平洋東部で発生する熱帯低気圧のハリケーン
 に、女性の名が付けられるとされるのも、このような理由によるものと思われる。
  穀物は、春から夏にかけて活動の最潮期を迎え、やがて秋の収穫となって収束する。古代の人々は、人智の及ばない天
 象、気象、地象といった自然現象を、ある時は神の為せる業とし、また、ある時は鬼の為せる業として崇め畏れ、穀物が最も
 活動の最潮期を迎える夏に襲来し、穀物に甚大な被害をもたらす台風の存在を鬼神の仕業と捉え、神に穀物の豊穣を祈願
 し、神の威徳によって台風を鎮めるしか為すすべがなかったのである。
  現在の神道の祭りや儀式は、農耕文化を抜きにしては語れないといわれ、神楽にあっても、突き詰めれば究極的には、そ
 の曲目の殆どが例外ではないと思われる。

5 万物を殺伐する大将軍
  大将軍は、一般的には征討軍の三軍を統率する総大将、あるいは軍兵を統率す
 る大将を意味する呼び方であるが、他方、陰陽道の暦では、「暦の初めは八将神」
 という言葉あるように、運勢暦の巻頭に見られ、年々によって各方位の吉凶を司ると
 される「八将神」(別名:八将軍・八大方位神)の中の一神の呼称でもある。
  陰陽五行思想から発展した陰陽道は、日本の歴史や文化に深い関わりを持ち、
 国家の大事や個人の命運まで左右してきたとされる。その中核をなすのは呪術
 と占術で、それらは膨大な体系から成り立ち、多様に展開している。
  大将軍は、これらのうちの暦術に基づき、方角によって吉凶を予測・判断するため
 に設けられた方位神で、この神は金曜星の精とされ、別名を魔王天王、あるいは方
 伯神ともいい、万物を殺伐する凶神とされる。
  大将軍は、除疫神として京都祇園社(八坂神社)に祀られ、頭上に牛の頭を持ち
 憤怒相で表される牛頭天王(須佐之男命と習合)が、櫛稲田比売と結婚して生んだ
 八王子であるとも、頗梨采女の生んだ子供であるともいわれる八将神の第2番目に位置し、殺伐の気が強烈な大凶神で、こ
 の神が所在する方位は万事に凶とされる。
  暦や方位に関する占いの諸説を集成した江戸時代の「万暦大成」には、「この方位に向かって柱を立てたり、築地石をつい
 たり、棟上げや家の造作、移従、井戸掘り、嫁取りなど、よろずのことを行ってはならない」と記すとされる。
  大将軍の方位は、その年々の十二支によって
   ○ 冬・北・水・亥子丑年 - 西方に所在
   ○ 春・東・木・寅卯辰年 - 北方に所在
   ○ 夏・南・火・巳午未年 - 東方に所在
   ○ 秋・西・金・申酉戌年 - 南方に所在
 のように変わり、3年間同一方位に止まって動かないので、「3年塞がり」と称されて万事に忌まれたとされる。ただし、これで
 は大変な不便を強いられるため、次のように大将軍の遊行日を定めて、大将軍が留守の日に限っては災難がないという日
 が設けられている。
   ○ 春・甲子〜戌辰までの5日間 - 東方に遊行
   ○ 夏・丙子〜庚辰までの5日間 - 南方に遊行
   ○ 秋・庚子〜甲辰までの5日間 - 西方に遊行
   ○ 冬・壬子〜丙辰までの5日間 - 北方に遊行
   ○ 土用・戌子〜壬辰までの5日間 - 中央(家内)に遊行
  八将神の中でも、この大将軍の方位は最も恐れられ、平安時代には、桓武天皇の平安京遷都の始め、京都の北は大徳寺
 門前、南は藤森社内、東は南禅寺前、西は紙屋川東の四方に、大将軍が祀られたとされる。これは、大将軍の災厄から王
 城を鎮護することを目的とした結界の意味があるものと考えられる。現在の大将軍社のそのほとんどは、須佐之男命を祭神
 として祀っているとされる。これは、その神性が大将軍と似通っていること、更には、その荒ぶる性格が逆に災厄を祓ってくれ
 る強くて逞しい神として信仰されたことによるものと思われる。
  「内伝」(三国相伝陰陽内伝金烏玉兎集)巻一の大将軍の説明の中に、「第二は大将軍、名は魔王天王。本
 地は他化自在天。この神の方位に向かって行うことは万事に凶。ゆえに世間では、この方位を『三年塞』と呼ぶ」とあり、大
 将軍は、神楽の曲目「八幡」の中で、八幡大神に神通の弓と方便の矢をもって退治される天道(界)の最上層に存在する「第
 六天悪魔王」と同一神としても見られている。
  大将軍は、神楽の曲目「塵輪」の中にも見える。「おお我は是、日の本征伐の大将軍、塵輪とは我が事なり」と名乗る悪鬼・
 塵輪は、穀物に甚大な被害をもたらす「台風」そのものを指摘していると考察したところであるが、この「大将軍」とは、異界か
 らこの世を訪れて、恐るべき霊威によって災厄もたらし、万物を殺伐する凶神の意味が含まれているものと思われる。
  広島県西部の沿岸部に継承されている「十二神祇神楽」の中に「将軍」(別名:死に入り)という曲目が見られ、この曲目
 は、烏帽子、鉢巻、直垂、鎧、手覆、袴、足袋、草履姿の舞人が、弊、鈴、刀、弓を採物として舞いながら最後に失神状態と
 なって、これを太夫が祈祷によって蘇生させるといった内容で、この間に「託宣」を得るというものである。この曲目も、運勢暦
 の「大将軍」に関連しているものと思われ、「毒を以て毒を制す」の諺どおり、悪を排除するため、他の悪を利用する一つの手
 段、方法と思われる。

原始の神・尊神
 芸北地方の一部地域には、「尊神」という曲目があり、必ず「潮祓」の次に奉納することとされてる。
 この尊神は、最初は強い調子の奏楽によって鬼棒を持って荒々しく舞い、途中からは軽快な調子の奏楽によって鬼棒を御
幣と扇に持ち替えて優雅に舞う神の一人舞である。
 この曲目に登場する神は、「言葉を発することができない神」と古くから伝わっているが、その出所、由来に関しては全く不明
であり、非常に謎めいた曲目で、何らかの理由により意図的にその実体が隠蔽された可能性も考えられる。

1 大元信仰と蛇神
  大元信仰は、島根県石見地方及び広島県芸北地方の一部地域に継承されている信仰で、
 「藁蛇」(藁で作った蛇型)を主体とし、式年祭には、託太夫がこの藁蛇に寄りかかり、神懸かり
 状態で託宣を賜るというものである。これら一連の神事は「託舞」と呼ばれ、その他の祭事を総
 称して「大元神楽」と呼ばれている。
  藁蛇は、大元神の鎮座地から祭場へと運ばれ、一連の祭事が終了すると神木に巻き付けら
 れ役目が終了する。これらから推察するに、大元信仰は、蛇を「地霊」(大地に宿るとされる霊
 的な存在のことで、万物を育み恵みを与える一方、地震や風水害などの災厄をもたらすと言わ
 れている)の象徴として表現し、「大元神」として祀る民俗信仰と思われる。
  蛇に関する説話は、日本をはじめとして世界各地に分布しているといわれ、世界の民族は、
 この神秘的な生物である「蛇」を全く無視することはできなっかた。蛇は、その神秘的な生体が
 故に信仰の対象となり、他方では恐怖の対象となったと考えられる。
  宗教学者ミルチャ・エリアーデ氏は、その著「永遠回帰の神話」の中で、蛇をめぐる宇宙観を
 体系づけ、「蛇は『混沌』」であり、形無きものを象徴し、蛇を統御することは、形無きものから形
 有るものへと転移する創造の技である。形有るものとは『秩序』である。すなわち、混沌を自然
 とし蛇の世界であるとすれば、秩序は文化であり、人間の世界である」としている。まさに、この
 概念こそが、蛇を地霊の象徴とする大元信仰の根底にあるものと思われる。
  日本における蛇信仰は、原始の信仰であるといわれ、他者と同化することによって、水神、雷神、火神、竜神、風神、木
 神、山神、地神、野神、荒神、氏神などへと転化したものと考えられる。

2 正史にみる蛇信仰の痕跡
  古事記、日本書紀は、帝紀や旧辞を軸として諸種の資料を幅広く集めて編集された官撰による日本の古代を語る、いわゆ
 る正史といわれるものであるが、これらは朝廷に都合良く書き改められていることは明瞭である。このことは、古事記の序部
 分にも見られるように、「これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して偽を削り、実を
 定めて、後葉に流へむと欲ふ」とする文面からも十分に推察されるところである。
  古代、先住民族が絶対神として崇拝していた「蛇神」は、その後侵入してきた朝廷に受け入れられることはなく、正史から
 抹消されるという運命をたどらざるを得なかったのと思われる。しかし、朝廷は、古来、絶対神として崇拝されてきた蛇神を全
 て無視することも、神を蛇以外のものに仮託することもできなかったと見え、その痕跡は、古事記、日本書記の中に、次のと
 おり垣間見ることができる。
(1) 素戔嗚尊の八岐大蛇退治
   日本書紀及び古事記に、素戔嗚尊は、八岐大蛇を退治し、その尾から出た太刀を「天叢雲剣」と名付けて、天照大御神へ
  献上したとある。蛇神を崇拝する民族の製鉄技術によって作られた剣の献上を示唆している。
(2) 天つ神の子の表物
   日本書紀に、長髄彦は、神武天皇の東征に際し、饒速日命が天つ神の子のである表物として「天羽羽矢」と歩靫を見せた
  とある。饒速日命が、蛇神を崇拝する民族であることの証明を示唆している。古語拾遺(斎部広成撰、808年)には、「古語
  に、大蛇を羽羽と謂う」とある。
(3) 三輪山の大物主神
   日本書紀に、小子部は、雄略天皇の三諸岳の神の姿を見たいから捕らえて来るようにとの命令に従って、三諸岳に
  登り「大蛇」を捕らえて来て見せたとある。国つ神である大物主神が「蛇神」そのものであることを示唆している。三諸岳とは
  奈良県桜井市の三輪山のことで、古事記によれば、三輪山の祭神は大物主神とされている。この三輪山の神が蛇神では
  ないかと推察される部分は他にもあり、日本書紀神代の八段、古事記・日本書紀初代神武天皇の段、古事記・日本書紀第
  十代崇神天皇の段にも見られる。

3 蛇神を崇拝する先住民族
  日本書紀には
   「一書に曰はく、大国主神、亦の名を大物主神、亦は国作大己貴命と号す。亦は葦原醜男と曰す。亦は八千戈神と曰す。
  亦は大国玉神と曰す。亦は顕国玉神と曰す」
 とあって、大国主神は七つの名を持っている。
  また、古事記にも
   「大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は葦原色許男神と謂ひ、亦の名は八千矛神と謂ひ、亦の名は宇都志
  国玉神と謂ひ、併せて五つの名あり」
 とある。これら七つの名あるいは五つの名は、同一神の異名であるとするには無理があり、それぞれの名は、各地に分散し
 て定住した同一信仰形態を有する先住民族の領袖の名ではないかと思われる。
  古事記の出雲の段には、海を照らして来た神の物語があり、その神が大国主神に、自分を大和の青々と取り囲んでいる
 山々の、その東の山の上に祀れば、一緒に国作りを完成させようと言って告げ、これが御諸山の上に鎮座する神であると
 ある。
  前述したように、御諸山の神は大物主神であり蛇神である。このことからも、蛇神を崇拝する民族が、海の彼方からやって
 来て、それぞれ定住したことが推察される。

4 尊神の秘密
  さて、本題の「尊神」であるが、前段で長々と「蛇神」について記述してきたのは、
 それなりに理由があり、「尊神」は、蛇神である「大元神」と同一神であると考えてい
 るからである。
  伊勢神宮の外宮の祭神は豊受大神であるが、外宮は、雄略天皇の時代に天照大
 御神の御饌都神(食物を司る神)として、豊受大神を丹波国より迎えて創祀されたと
 いわれている。室町時代に、吉田兼倶が、伊勢神道の教理体系を基調として唱道
 し、明治維新に至るまで陰陽道宗家や各神道流派、仏教界にまで影響与えたとい
 われる「吉田神道」には、最高神として「大元尊神」が据えられ、古事記、日本書紀
 の初めに見える天御中主神、国常立神は、豊受大神の別称であり、大元尊神と同
 一神であるとされている。
  豊受大神は、豊かな食物を司る女神で、古事記に見える「豊宇気毘売神」、「登由
 気神」、丹後国風土記逸文に見える「豊宇賀能売命」、摂津国風土記逸文に見える
 「止与宇可乃売神」、陸奥国風土記逸文に見える「豊岡姫命」は、いずれも豊受大神
 と同一神とされ、また延喜式の大殿祝の祝詞の中に「屋船豊宇気姫命」を注して
  「是は稲の霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻といふ。今の世、産屋に辟木、束稲を戸の辺に置き、また米を屋中に散らすの
  類なり」
 とあり、特に稲の豊穣に関わる神とされる。
  宇賀能美多麻は、古事記では「宇迦之御魂神」、日本書紀では「倉稲魂命」と記述され、ウカノミタマと言うのは「稲魂」(穀
 霊)そのものの名であるとされる。この「ウカ」の語源は、南方祖語の「ウガル」(蛇)の転訛と言われ、蛇に稲の神、田の神、
 倉の神などの神格が付与された所以は、蛇を野鼠の天敵として尊重し、稲田や穀倉の守護神として信仰されたことによるも
 のと考えられる。
  吉田兼倶によって唱道され、室町時代後期以降、近世に至るまで神祇界の中心的役割を担った吉田神道は、宗源専旨・
 神道裁許状を発行して神位・神号の授与権及び祠官の補佐権を独占し、全国へ普及を図り、更に、織田信長、豊臣秀吉、
 徳川家康に近づき、地位の向上に努め、近世に入ると「諸社禰宜神主法度」(1665年)の中に、吉田家の神社支配が認めら
 れたことにより、その地位を盤石なものにしたとされる。
  吉田神道では、「大元」とは「おおもと」、すなわち原始の意味であり、外宮の神である豊受大神は最初に生まれた神、すな
 わち「大元神」(おおもとがみ)であり、万神に先駆けて生まれた最高神であるとしている。伊勢神道の教理体系を確立した度
 会氏及び吉田兼倶は、豊受大神が如何なる神かを承知していたと見え、朝廷の強大な圧力によって、その実体を巧妙に隠
 蔽したものと思われる。
  蛇を「地霊」の象徴として祀る大元信仰の神を「大元神」(おおもとがみ)と呼称しており、この大元神の実体は、伊勢神道、
 吉田神道にいう古事記、日本書紀の記述に迎合されている「大元尊神」(たいげんそんじん)と同一神であると思われる。また
 神楽の曲目の「尊神」も、「大元尊神」、「大元神」と同一神であると思われ、本項の冒頭で記述した、この曲目は必ず「潮祓」
 の次に奉納され、この神は言葉を発することが出来ない神との古くからの言い伝えは、尊神が最高神であるが故に、舞殿を
 清める「潮祓」の次に当然奉納されるべき曲目であり、また時代背景から尊神の実体を隠蔽する必要があったのではないか
 と推察される。

農・漁業の神・恵比須
 恵比須は、七福神の一人で、狩衣、折烏帽子姿で、右手に釣り竿、左手に鯛を抱えた神像で親しまれ、商売繁盛の神、福の
神として広く信仰されている。この恵比須は、兵庫県西宮神社の祭神である蛭子神(ひるこのかみ)とする説、島根県美保神社
の祭神である事代主神(ことしろぬしのかみ)とする説がある。古くは、豊漁の神として漁民に信仰され、また、農神としても信
仰されたといわれる。

1 蛭子神
  蛭子神(えびすのかみ)は、古事記では「水蛭子」、日本書紀では「蛭児」と書いて
 「ヒルコ」と読まれる。
  古事記では、伊邪那美命が伊邪那岐命に対して、「ああ、何と素晴らしい男性で
 しょう」と呼びかけ、伊邪那岐命が、「ああ、何と素晴らしい少女だろう」と応えて生ん
 だ子が「水蛭子」で、女性である伊邪那美命から先に声をかけ、間違った作法で生
 まれた不具の子であったため、葦の船に乗せて流し捨てたとある。また、日本書紀
 では、伊弉諾尊と伊弉冉尊が、「天下之主者(あめのしたのきみたるもの)」を生み出
 したとき、日の神、月の神に次いで生まれた子が「蛭児」で、三歳になっても足腰が
 立たない身体であったため、天磐豫樟船(あまのいわくすぶね)に載せて流し捨てた
 とあり、いずれも、蛭子神は、悲劇的な運命を負った神である。
  「ヒルコ」は、「古事記」でも「日本書紀」でも、流されて以後の消息については何も
 記されていない。「ヒルコ」は、中世以降、「エビス」と呼ばれるようになったとされる
 が、何故、「ヒルコ」と「エビス」が習合したかは判然としない。「ヒルコ」の著者である戸矢学氏は、そもそも日本の沿岸地域
 では、未知の彼方からやって来た漂着物を手厚く祀ることによって、福神として信仰する風習があり、海の彼方からは「福」
 がもたらされる、或いは「福の神」がやって来る、ということに由来しているとしている。
  源平盛衰記によれば、摂津国に流れ着いた蛭子は、海を領有する神としての夷三郎(えびすさぶろう)として現れて、西宮
 に「蛭子神」として祀られたとあるように、兵庫県に所在する日本に約3500社ある、えびす神社の総本社(名称:「えびす宮総
 本社」)の祭神である「えびす大神(西宮大神・蛭子神)」として再現している。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
  なお、夷三郎は、東周平王(とうしゅうへいおう)庚寅20年6月、新国を求めて日本に流着した中国東周平王の第三王子とす
 る説もある。

2 事代主神
  事代主神(ことしろぬしのかみ)は、古事記では「事代主神」「八重言代主神」、日本書紀では「事代主神(尊)」と記される。
  古事記では、出雲国の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)での大国主神の国譲りに際して活躍する神で、服属の意志を迫られ
 た大国主神は「私はお答えできません。私の子の八重言代主神がお答えするでしょう」と答える。その時、事代主神は、御大
 (みほ)の前(さき)で鳥の遊び、魚捕りをしていたが、「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と父に語り、その
 乗って来た船を踏み傾けて、天の逆手を打って青葉の柴垣に変えて、隠れてしまったとある。この話は、日本書紀神代巻下
 の九段本書一書・第1にも見えるが、一書第2では、大物主神と事代主神が帰順し、「八十万の神を天高市(あまのたけち)
 に合(あつ)めて、帥(ひき)いて天に昇りて、その誠款(まこと)の至(いたり)を陳(もう)す。」とある。また、神代巻上第八段
 の一書第6には、事代主神が、八尋熊鰐(やひろわに)になって三嶋の溝姫(みぞくいひめ)に通い、神武天皇の妃となる
 姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んだとある。
  事代主神の命名の由来は、事を知る神、正邪を判断する能力に優れているという意味とされる。また、事代主神は、託宣
 を司る神とされ、日本書紀巻第九の神功皇后摂政前記の神功皇后の神祭りにおいては、「天事代虚事代玉籖入彦厳之事
 代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろぬしのかみ)有り」と自ら名を顕し、更に、摂政元年2月に
 は、事代主命が「吾をば御心(みこころ)の長田国に祠(まつ)れ」と神託したと記されている。画や像で、恵比須神が釣り竿
 を持ち鯛を抱えているのは、前述の美保岬で釣りをしている姿を表していると言われる。
  なお、事代主神が、「エビス」と習合した理由は、その海で釣りをする姿とエビスの海の神であることが結びつき、同一の神
 とされるようになったとされる。

神仏習合の神・八幡
 八幡神は、「ヤハタノカミ」又は「ハチマンジン」とも呼ばれ、八幡神を主祭神とする神社は、末社まで含めると全国で約4万社
あるとされ、中世には、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神として崇敬を集めたとされる。
 八幡神は、誉田別命(ほむたわけのみこと)ともいわれ、第15代応神天皇と同一とされる。また、神仏習合時代には八幡大菩
薩とも呼ばれた。

1 八幡神の発祥
  八幡宇佐宮御託宣集(神吽撰、1313年)、八幡愚童訓(作者未詳、鎌倉時代の神道書)などに
 よれば、欽明天皇32年(571年)に、奈良県の三輪山に所在する大神神社の宮司の身狭(むさ)
 の子供の大神比義(おおががのひぎ)が、三年間断食をして祈ったところ、鍛冶翁が豊前の国
 (福岡県東部から大分県北部地方)の菱形池の辺に三歳童子の姿となって現れ、竹葉の上に
 立って「我は、誉田別天皇広幡八幡麻呂(ほむたわけのすめらみことひろはたやはたまろ)の神
 なり、我をば護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいけんいりょくじんつうだいじざいおうぼ
 さつ)と申す。」と名乗り、八幡大神の託宣があったことが八幡神の発祥であるとするのが一般
 的である。
  宇佐八幡宮の創始は、この大神比義が、豊前の菱形山に応神天皇を祀ったのが始まりで、
 この人の子孫が代々世襲の宮司になったとされる。

2 八幡の語源
  「八幡」は、通常、「ハチマン」と発音しているが、「ヤハタ」ないしは「ヤワタ」と発音するのだ
 とする説がある。
  ヤハタないしはヤワタの語源については、先代旧事本紀(序文では推古天皇の命によって聖
 徳太子と蘇我馬子が著したものとなっているが、実際には平安時代初期、「古語拾遺」「新撰
 姓氏録」後の成立と見られている。)に見える応神天皇(誉田別命)が誕生したとき、天から白幡四流、赤幡四流が舞い降
 りたという伝説に基づくとする説のほか
   ○ 多くの幡を立てて神の依代としたとする説
   ○ ハタを帰化系の秦氏に結びつけた説
   ○ ヤハタを焼畑農耕とみる説
   ○ ヤハタを地名とみる説
 など諸説があるが、未だに決定的な定説は得られていないようである。
  富来隆著の「卑弥呼」の中に、「ヤワタ」の語源説と並行して非常に興味深い一説が記載さているので紹介すると、「宇佐
 宮託宣集に『鍛冶翁(かじのおきな)あり、奇異(きい)の瑞(ずい)を現(あらわ)して、一身八頭(の大蛇)となる』と記載された
 部分があり、あの一身八頭の大蛇である八岐大蛇(やまたおろち)は宇佐八幡神の姿であり、九州方言で大蛇のことを『ヤ
 アタ』と呼ぶことなどから、八幡は『ヤワタ』と読むのが正しく、特に、製鉄と密接に関係している。」と記述されている。
  この富来隆氏のヤワタの語源説はさておき、宇佐八幡神の蛇神説は、前述した島根県石見地方及び広島県芸北地方の
 一部地域で継承されている藁蛇を用いる「大元信仰」、更には、神楽曲目「尊神」に大変深く関係していると思われる。

3 衆生を救済する八幡神
  第六天魔王は、神楽曲目「八幡」の中で「おお我(われ)は是(これ)、中天竺他化自在天(ちゅ
 うてんじくたけじざいてん)の主(あるじ)、第六天魔王(だいろくてんのまおう)とは我(わ)が事(こ
 と)なり」と名乗り、宇佐八幡宮に祀られる八幡神に、神通の弓と方便の矢をもって退治される
 悪鬼として登場する。
  この第六天魔王は、元来はヒンドゥー教シヴァ派の主神で、それが仏教に取り入れられて第
 六天魔王となったとされ、天道(界)の一つである他化自在天(第六天)を支配するとされる。
  八幡神は、未来永劫修行を続け、菩薩の上の如来になることを望まず、三界の衆生を救い続
 ける大神になったとされ、「護国霊験威力神通大菩薩」、あるいは「護国霊験威力神通大自在
 王菩薩」と名乗り、神仏習合の国家神として発現している。「菩薩」とは、最高の真理を求めて、
 如来になろうとする修行者のことで、衆生を救うために如来の住む極楽の世界から派遣された
 如来一族の一員で、如来に次ぐ存在とされる。すなわち八幡大神は、如来の代理人であり、如
 来に準じた存在である。
  仏教では、真理を求める修行は、同時に「悪魔」との闘いでもあるとされる。この悪魔は、人間
 の心の内にある「迷い」を象徴していると考えられ、天道(界)の最上層に存在する第六天魔王
 は、あらゆる手段を使って修行者や俗人を誘惑しようとしている。これに立ち向かい、修行者や
 俗人を救うのが菩薩である八幡大神ということになる。
(1) 菩薩としての八幡神
   宇佐八幡宮は、八幡大神(応神天皇)を第一の御殿に、比売大神(ひめおおかみ)(宗像三女神?)、息長帯比売((おきな
  がたらしひめ、神功皇后)を第二の御殿、第三の御殿に祀るいわゆる「三神三殿」という特異な造りの神社である。
   八幡大神を祀る社殿が現在地に完成したのは、神亀2年(725年)で、それから4年後の天平元年(729年)に比売大神を
  祀る社殿が、更に、約一世紀を経た弘仁14年(823年)に息長帯比売を祀る社殿が造営され、この時点で、宇佐八幡宮に
  おける三殿祭祀の形態が完成したとされ、このような特異な祭祀形態の背景には、宇佐氏・辛島氏・大神氏といった異なる
  三氏族による複雑な主導権争いがあったとされる。
   八幡大神の発祥については、前述したとおりで、「誉田別天皇広幡八幡麻呂」という神名や「護国霊験威力神通大自在
  王菩薩」という神号からも判るように、応神天皇の神格が付与された神仏習合の神として発現している。
   弘仁12年(821年)8月15日の太政官符に引用される弘仁6年(805年)の「大神清麻呂解状」には、「天応元年(てんおうが
  んねん)、神徳(こうとく)を計量(けいりょう)し、尊号(そんごう)を護国霊験威力神通大菩薩(ごこくれいけんいりよくじんずうだ
  いぼさつ)と奉(たてまつ)った」とし、更に、「これは太上天皇(だじょうてんのう)(応神天皇(おうじんてんのう)の御霊(みたま)
  である」とされ、また、承和12年(844年)の「弥勒寺縁起」の延暦2年5月4日の託宣によれば、「名前(な)は八幡大神(やはた
  のおおかみ)、今(いま)、護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいけんいりょくじんつうだいじざいおうぼさつ)と号(もう)
  す」として、三界に化成して三界の衆生を救うために自在王の号を望んだとされる。
   宇佐八幡宮は、大陸文化受容の先進地という地理的条件から、早期に神仏習合が進展したと考えられ、白鳳時代には
  周辺に関係寺院が造営され、天平10年(738年)にそれらを統合した神宮寺(神社に付属して営まれた寺院)である弥勒寺
  が、宇佐八幡宮の境内に建立されていたとされる。
   宇佐八幡宮を代表する古式の神祭として、「放生会」と「行幸会」の二大特殊神事が存在するが、宇佐八幡宮の放生会
  は、我が国の神社における放生会儀礼としては、最古のものといわれ、本来仏教の不殺生戒(生き物を殺してはならない
  という戒め)の行事に由来するとされる。放生会とは、捕らえた生類を山野や池沼に放してやる儀式のことで、宇佐八幡宮
  においては、この儀式は、養老4年(720年)に大隅・日向両国で隼人が反乱し、その鎮定のため多数の隼人を殺生したこと
  を滅罪するため、天平16年(744年)に寄藻川河口の和間浜で行われたのがその創始と伝えられ、宇佐八幡宮における放
  生会の儀式の存在は、八幡大神の神仏習合の神性を明確に示すものといえる。
   貞観元年(859年)、宇佐八幡宮の宝殿に参籠していた大和大安寺僧の行教は、「我(われ)、近(ちか)く都(みやこ)に移座
  (いざ)し、国家(こっか)を鎮護(ちんご)せむ」と八幡大神の託宣を得た。京都移座の託宣を得た行教は、早々都に戻り、更
  に託宣を得て山城国の巽の方角である石清水男山の峰に地を卜し、宇佐八幡宮三所の神の遷座を奏上して勅許を受け、
  翌貞観2年、六宇の宝殿の神宮の造営がなり、有名な石清水八幡宮が創祀された。石清水八幡宮は、石清水八幡宮護国
  寺と称し、検校・別当らの社僧が社務組織を掌握する宮寺制の形態をとり、神仏習合が進められ、八幡大神の本地仏は阿
  弥陀如来にあてられたとされる。
   今から僅か百数十年前、明治新政府の祭政一致を全面に掲げた神仏分離令の布告により、神道と仏教は無理矢理引き
  離されるそれ以前は、神社の本殿内に仏像が安置され、僧侶がそこでお経をあげたり、護摩(ごま)を焚くなどの仏事を行
  い、全く寺院と称しても不思議ではないような神社が多数存在していたとされる。元々神道とは悠久のものであり、教理教
  説といった枠からも比較的自由で、その時代と深く関わりながら、しかもそれを超越しているといった存在であるとされる。
  だが仏教の日本伝来によって神道も仏教思想に取り込まれ、その影響を免れることはできなかった。日本は一千数百年の
  長期にわたって神と仏が融合していた。いわゆる神仏習合という抜き差しがたい関係にあったのである。宇佐八幡宮の八
  幡大神も、ご多分に洩れず、早くから仏教と融合し、神仏習合の神として八世紀には朝廷と結びつき、国家鎮護の最高神
  として存在していたのである。
(2) 仏道の妨げをなす第六天悪魔王
   仏教の説く世界観・宇宙観では、その世界像を”輪廻しない世界”と”輪廻する世
  界”との二元的な構造としてとらえている。
   「輪廻」とは、生き変わり、死に変わりすることで、車輪が回転して際限がないよ
  うに、霊魂が転々と他の生を受けて迷いの世界を廻ることで、「輪廻しない世界」
  とは、この世の一切の迷いや煩悩から解放された「悟りの世界・仏陀の世界」で、
  「極楽浄土」と呼ばれる理想の世界のことであるとされ、「輪廻する世界」とは、永
  遠に迷いや煩悩から解放されることがない世界で、一つの世界で、その生を終え
  た生き物は、来世には、また、他の生を受けるといった、永遠に転生する世界のこ
  ととされる。
   この世界は「欲界」「色界」「無色界」の三層構造になっているとされ、通常、「三
  界」と呼ばれている。この三界のうち、色界は欲界の上に位置し、欲望を脱して肉
  体を残した世界で、無色界は、色界の上に位置し、物質が消えて純粋精神だけの
  世界で、色界・無色界とも非常に水準の高い悟りの世界であるとされる。他方、欲界は、色欲・食欲の二欲の強い有情の
  世界といわれ、悪業の報いで死後、苦果を受ける世界といわれる「地獄道(界)」、悪業の報いで死後いつも空腹に苦む
  世界と言われる「餓鬼道(界)」、悪業の報いで死後鳥獣虫魚の生を受ける世界と言われる「畜生道(界)」、常に争いの絶
  えない世界といわれる「修羅道(界)」、人間の住むこの世界である「人道(界)」、天人の住む世界といわれる「天道(界)」
  の六道(六層)からなる世界で、通常、衆生(命ある一切のもの)は、この六道からなる欲界の中を輪廻しているとされ、こ
  れを六道輪廻といっている。
   したがって、一つの世界でその生を終えた生き物は、来世には六つの世界のいずれかに生まれ変わるとされ、六道輪
  廻の世界から脱して、もはや二度と輪廻することのない世界・極楽浄土へ解脱しない限り、永遠に繰り返されるとされる。
   これら六道の中で天人が住むといわれる天道(界)は、人道(界)とは比較にならない優雅な生活と感覚的な喜びが保
  証される世界といわれ、この天道(界)は、更に六層に区分されるとされる。最下層は「四大王衆天」で、帝釈天に仕え、
  四方を守護する持国天(じこくてん)(東方)・増長天(ぞうちょうてん)(南方)・広目天(こうもくてん)(西方)・多聞天(たもんて
  ん)(北方)が支配するとされる。次の第二層は「三十三天」で「利天(とうりてん)」ともいわれ、中央に帝釈天の止住する
  大城があり、周囲の四つの峰に各八天があり、合わせて三十三天で、帝釈天が支配するとされる。次の第三層は「夜摩
  天(やまてん)」で、感覚の快楽が与えられ、寿命が二千年で、その一昼夜は人間界の二百年に相当するといわれ、地獄
  に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神・閻魔王(えんまおう)が支配するとされる。第四層は、「兜
  率天(とそつてん)」で、仏教の開祖・釈尊はこの天界に住んでいたといわれる。ここは内外二院あり、内院には将来仏とな
  るべき菩薩が住むところで、現在は弥勒菩薩がそこで説法をしているとされ、外院は天衆が住むとされる。第五層は、欲
  界の楽園である「楽変化天(らくへんげてん)」で、ここに生まれた者は、自ら楽しい境遇を作り楽しみ、人間の百八歳を一
  日として八千年の長寿を得るとされる。最上の第六層は、「他化自在天(たけじざいてん)」で、「悪魔王」が支配するといわ
  れる、いわゆる「第六天(だいろくてん)」である。
   この「他化自在天」は、他人の楽事を自由自在に自己の楽として受用することができる天とされ、人の楽しみを自分の
  ものにすることができるという高尚な世界である。五世紀の半ばのインドの世親の著といわれる「倶舎論(くしゃろん)」に
  よれば、この第六天では、出生に性交といった煩わしい手順を必要とせず、ただ、お互いに見合わすだけで無上の快楽
  が得られ、子供が生まれるとされる。欲しいものはどのようなものであれ、思っただけで手に入れることができ、この世界
  に住む天人は、労働という苦役から解放され、寿命は、人間に換算すると92億2,130歳といわれ、ほぼ人間が望みうる最
  高の快楽が自在に得られる世界とされる。この他化自在天を支配しているのが「第六天悪魔王」である。この神は、通常
  「魔王」と呼称されるが、神楽では「悪」が冠せられ「悪魔王」と呼称される。仏教では、仏道を妨げる悪神は総称して「悪
  魔」と呼ばれることから、このような呼称になったものと考えられる。
   第六天悪魔王は、冒頭で記述したとおり、元来はヒンドゥー教シヴァ派の主神で、それが仏教に取り入れられて第六天
  悪魔王となったとされる。「魔王」と名付けらているのは、この神が仏教修行者を色や欲で惑わし、彼らが快楽に溺れると、
  それが自らの快楽に化成すると考えられたからで、仏道の妨げをなす第六天悪魔王及びその眷属は、仏教徒からは「天
  魔(てんま)」、あるいは「天魔波旬(てんまはじゅん)」と呼ばれ、激しく忌避(きひ)されてきたとされる。小島法師の作が有力
  とされ、応安から永和にかけて成立したとされる「太平記」に
    「第六天魔王(だいろくてんまおう)集(あつ)まって、この国(くに)の仏法(ぶっぽう)弘(ひろ)まらば魔障(ましょう)弱(よわ)く
    してその力(ちから)を失(うしな)ふべしとて、彼(かれ)応化利(おうかり)生(しょう)を妨(さまた)げんとす」
  とあり、仏道を妨げる対象として第六天悪魔王が見られている。なお、余談であるが、同書には
    「上座(かみざ)に一人(ひとり)の大人(だいじん)あり、其(その)かたち甚(はなは)だ世(よ)の常(つね)の非(あら)ず。長(た
    け)二三十丈(じょう)も有(あ)らんと見上(みあ)げたるに、頭(かしら)は夜叉(やしゃ)の如(ごと)く十二の面(つら)うへにな
    らべり。四十二の手有(てあ)りて左右(さゆう)に相連(あいつら)なる。或(ある)いは日月(じつげつ)を握(にぎ)り或(ある)
    いは劔戟(けんげき)を引(ひ)っ提(さ)げ、八龍(はちりゅう)にぞ乗(の)りたりける」
  と、第六天悪魔王の具体的な姿態も記述されている。また、安倍晴明の著に仮託される「内伝(ほきないでん)」(「三
  国相伝陰陽内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」)巻二に
    「今(いま)、この第六天魔王(だいろくてんまおう)は天界(てんかい)最上層(さいじょうそう)の他化自在天宮(たけじざい
    てんきゅう)に住(す)みながら、仏界(ぶっかい)を除(のぞ)く九界(くかい)の出家(しゅっけ)や俗人(ぞくじん)を惑乱(わくら
    ん)させている」
  とあるのも、「太平記」に見られるのと同様な意味があるものと思われる。

(3) 八幡神の随身「門丸」
   芸北神楽においては、古事記や日本書紀に見える神話とは異なる八幡系統の
  神楽が奉納される。その理由は、応神天皇を武神である八幡神として讃えるため
  ではなく、その背後に見える蛇神である原始の八幡神や応神天皇を祭神とする八
  幡神に主祭神の座を明け渡し、摂社や末社に追いやられた製鉄神や稲作神であ
  る「地主神」に主眼が置かれているのではないかと思われる。
   神楽曲目「八幡(はちまん)」では、八幡神の随身として「門丸(かどまる)」が登場
  するが、門丸は極めて滑稽な所作で観衆を沸かせ、その面の表情は片目が不自
  由で、口が「へ」の字に曲がり、とても神と呼ぶには相応しくない風貌である。
   地域によっては、「かどうまる」あるいは「ひょうげだい」などとも呼ばれ、特異な
  顔面をした神である。
 ア 鍛冶を職業とする天目一箇神
   日本書紀巻第二神代下第九段の一書第二に
    「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とす」
  とある。また古語拾遺の日神の石窟幽居の段に
    「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)、斧及鉄鐸(おのまたくろかねのさなき)を作(つく)ら
    しむ」
  とあり、更に崇神天皇の段にも
    「故(ゆえ)、更(さら)に斎部氏(いみべし)をして石凝姥神(いしこりどめのかみ)が裔(すえ)、天目一箇神(あめのまひとつ
    のかみ)が裔(すえ)の二氏(にし)を率(ひき)て、更(さら)に鏡(かがみ)を鋳(い)、剣(つるぎ)を造(つく)らしめて、護(まもり)
    の御璽(みしるし)と為(な)す」
  とあり、天目一箇神は、鍛冶師の表象で、刀、斧、鉄鐸を作った鍛冶神とされる。
   伊勢の多度大社に祀られている天目一箇神の御神体は、蛇体といわれているが、古事記、日本書紀の八岐大蛇退治
  神話で、素戔嗚尊が、大蛇の尾から出た神剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けて、天照大御神に献上した
  とする記述からも、蛇と鉄は密接な関係にあったものと思われる。
   目一箇(まひとつ)とは、文字どおり目が一つで、溶鉱炉の火処(ほど)を単眼で見つめ、火の色によって溶鉱の状態を判
  断するので、長い年月には片目になってしまうといった鍛冶師の一種の職業病とされる。片目が不自由なことを「カンチ」
  という禁忌語(きんきご)があるが、鍛冶(かぬち)からきた言葉であると江戸時代の儒学者・新井白石は述べている。また、
  「作金者(かなだくみ)」とは、「金(かね)の工(たくみ)」、すなわち鍛冶職のこととされる。
   「おかめ」面と対とされる「ひよっとこ」面も、片目が不自由で口はねじれ、鍛冶との関係が深いとされる。「ひょっとこ」は、
  「火男」が訛って「ひょっとこ」になったと言われ、口先をとがらせて風を吹き込み、火を起こす表情そのままである。
 イ 蹈鞴の名を持つ神武天皇の妃
   古事記中巻の神武天皇の段に、神武天皇の皇妃選定で
    「その神(かみ)の御子(みこ)と謂(い)ふ所以(ゆえ)は、三島湟咋(みしまのみぞくひ)の女(むすめ)、名(な)は勢夜陀多良
   比売(せやだたらひめ)、その容姿(かたち)麗美(うるわ)しかりき。(中略)即(すなは)ちその美人(をとめ)を娶(めと)して生
   (う)みし子(こ)、名は富登多(ほとた)多良伊須須岐比売命(たらいすすきひめのみこと)と謂(い)ひ、亦(また)の名(な)は比
   売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすきよりひめ)と謂(い)ふ」
  とある。また、日本書紀巻第一神代上第八段の一書第六の末尾に、大三輪神の縁起で
    「此(こ)神(かみ)の子(みこ)は、即(すなは)ち甘茂君等(かものきみたち)、大三輪君等(おおみわのきみたち)、又(また)
   姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)なり。(中略)而(しかう)して児(みこ)姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたら
   いすずひめのみこと)を生(う)みたまふ。是(これ)を神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれひこほほでみのすめ
   らみこと)の后(きさき)とす」
  とあり、更に
    「蹈鞴(たたら)、是(これ)をば多多羅(たたら)と云(い)ふ」
  とある。いずれも、神武天皇の妃の名に「蹈鞴(たたら)」の語句が用いられている。
   「蹈鞴(たたら)」は、製鉄や鍛冶で火炎を強化するために用いる空気を送る大型の鞴(ふいご)のことで、日本古来の製
  鉄法は、「蹈鞴吹き」と呼称され、神武天皇の妃の出自の背後には、製鉄文化があったことが推察され、更には、製鉄を
  司る民族との通婚によって、貴重な鉄の確保が計られていることが判る。
   古事記、日本書紀によれば、「比売多多良伊須気余理比売」は、奈良県櫻井市の三輪山を御神体とする「大物主神(お
  おものぬしのかみ)」の子とされる。日本書紀巻第十四雄略天皇の段に、小子部(ちいさこべ)は、雄略天皇の命令に従っ
  て、三諸岳(みむろのおか)に登り大蛇を捕らえて来て見せた。大蛇は雷鳴のように轟き、目を輝かせた。天皇は畏れて
  大蛇を見ずに御殿の中に入り、神を岳(おか)に放させた。小子部には改めて「雷(いかずち)」という名を賜ったという記述
  があり、大物主神は、蛇神であるが雷神としての性格を持った神であるとされる。雷神は、一般的には雷を司る神とされ
  るが、とりわけ農耕民族にとっては稲作神、雨水神とされる。雷光を稲妻(いなずま)あるいは稲光(いなびかり)と呼称する
  ことからも、雷神と稲作の密接な関係が推察される。また、雷神は、その強力な落雷によって大地を焦がすことから火神
  ともされ、製鉄の神としても祀られている。
   火神として有名な「軻遇突智神(かぐつちのかみ)」に関して、日本書紀巻第一神代上第五段の一書第十二に、伊弉冉
  尊(いざなみのみこと)は、軻遇突智を生んで火傷に苦しみながらも土神埴山姫(つちのかみはにやまひめ)と水神罔象女
  (みずのかみみつはのめ)を生み、軻遇突智はその埴山姫と結ばれ、稚産霊(わくむすひ)を生んだ。この稚産霊という神
  からは、頭上に蚕(かいこ)と桑(くわ)、臍(へそ)には五穀が生じたと言う記述がある。制御しなければ全ての物質を焼き尽
  くす火、しかし、それを制御すれば作物や道具を作り出す火、そのような破壊と生成という正反対の力を持つのが火神な
  のである。
 ウ 稲の豊穣をもたらす伊勢外宮の女神
   古事記上巻の二神の神生みの条に
    「次(つぎ)に和久産巣日神(わくむすひのかみ)。この神(かみ)の子(こ)は豊宇気毘売神(とようけびのかみ)と謂(い)ふ」
  とあり、また同天孫降臨の条に
    「次(つぎ)に登由気神(とゆけのかみ)、こは外宮(とつみや)の度相(わたらい)に坐(ま)す神(かみ)ぞ」
  とある。豊宇気毘売神は登由気神と同一神とされ、前述した火神軻遇突智神の孫神にあたり、伊勢の外宮に祀られてい
  る「豊受大神(とようけのおかみ)」である。名義は豊かな食物(宇気)を司る女神で、丹後国風土記逸文に見える「豊宇賀
  能売命(とようかのめのみこと)」、摂津国風土記逸文に見える「止与宇可乃売神(とようかのめのかみ)」、陸奥国風土記
  逸文に見える「豊岡姫命(とよおかひめのみこと)」は、いずれも豊宇気毘売神と同一神とされる。
   豊受大神(とようけのおかみ)は、古事記では「宇迦之御魂神」、日本書紀では「倉稲魂命」と記述され、原始の神「尊神」
  の項で記述したとおり、特に、稲の豊穣に関わる神で、「ウカノミタマ」というのは「稲魂」(穀霊)そのものの名であるとされ
  る。
   なお、余談であるが、「ひょっとこ」が、製鉄と関連の深い「火男」が訛ったものであれば、「ひよっとこ」と対である「おか
  め」は、稲作と関連が深い「宇気女」あるいは「宇賀女」が訛ったものと思われる。
 エ 蛇神・稲作・製鉄の関連性
   日本における蛇信仰は原始の信仰であると言われ、蛇が「地霊」の象徴とされていることは、原始の神「尊神」の項で記
  述したところである。漢字の「祀(まつり)」は、神の寄りつく座として立てた台に巳(蛇)が寄りついている形を表現している
  とされ、解字からも蛇が信仰対象であったことが推察される。
   「地霊」は、万物を育み恵みを与える一方、地震や風水害などの災厄をもたらす大地に宿る霊的な存在とされる。大地
  に存在するもののうち、その最大のシンボルは「山」であり、古代人は、蛇に象徴される地霊の存在を雄大な山に感じ、
  山に神が宿ると考えた。これは、大和の三輪山をはじめとして、日光の男体山や榛名山など、全国の名のある山々が信
  仰の対象とされ、蛇神話が伝承されていることからも推察される。
   日本の縄文時代中期の土器、土偶の中には、明らかに蛇そのものや蛇の鱗をモチーフとして描かれたと思われる文様
  のものが数多く見られ、縄文人は、地霊の象徴である蛇を強烈な信仰対象として崇拝していた。その後、縄文時代晩期
  から弥生時代前期にかけて、大陸から「稲作」や「製鉄」の技術がもたらされたことにより、蛇は地霊の神格を維持しなが
  ら稲作や製鉄と結びつき、更には、祖霊の神格が加わるなど、その霊力は多様化するに至ったものと思われ、前述したと
  おり「天目一箇神」「比売多多良伊須気余理比売」「豊受大神」は、表面上は製鉄神や稲作神などの姿態であるが、遡れ
  ばその根元は蛇神に還元されるのである。
   高天原から追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、出雲の国の簸の川の川上に降り、酒を飲ませて八岐大蛇を退
  治し、脚摩乳(あしなつち)、手摩乳(てなつち)の娘である奇稲田姫(くしいなだひめ)を助けて、大蛇の尾から出た神剣を天
  叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けて、高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上したとする古事記、日本
  書紀に見えるいわゆる「八岐大蛇退治」神話は、蛇神・稲作・製鉄の関連性を最もよく表現していると思われる。
   古事記によれば、櫛稲田姫の父母である足名稚、手名稚は、国つ神大山津見神(おおやまつみのかみ)の子とされ、大
  山津見神は、山を管理する神とされるが、前述したとおり山の神は蛇神で、櫛稲田姫にとって、大山津見神は祖父に当た
  り、櫛稲田姫は、伊勢の外宮に祀られている豊受大神と同様に稲田の守護神であるが蛇に還元されるのである。大蛇(を
  ろち)の「ヲ」は「峰」、「ロ」は助詞、「チ」は「霊」で、大蛇は、つまり「峰の霊」(をろち)の意味とされ、山の神であると同時に
  蛇神であり、大蛇の尾から出たとする神剣も、また蛇に還元されるのである。
   この神話は、素戔嗚尊が、大蛇の尾から出た神秘的な神剣を、高天原の天照大神に献上し、櫛稲田姫を娶るということ
  が主眼であり、その真意は、蛇神を崇拝し、稲作や製鉄技術を有する先住民族(国つ神系)の日神を崇拝する朝廷(天つ
  神系)への服従を決定するもので、後の「国譲り」神話へと発展する前編とも言える。
   天叢雲剣は、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」ともいわれ、日本書紀において、降臨する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に対し、
  天照大神が与えた三種宝物(みくさのたから)の一種であるが、他の二種の宝物である「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」
  「八咫鏡(やたのかがみ)」も、また蛇に還元されるのである。
   三種宝物の歴史の古さを考えた場合、鏡や剣は、縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて大陸からもたらされたもの
  であるのに対し、翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)の玉は、それ以前から日本において作られていた。言わば玉こそが古代に
  おいては最大の宝物で、最も古い歴史を有しており、原始の蛇信仰と最も関係が深いと思われる。
   曲玉は勾玉とも記され、「玉」は「霊(たま)」、神霊のこととされ、この玉は単なる装飾品ではなく、祭祀又は信仰上の意義
  を有している。長野県埴科郡に所在する玉依比売(たまよりひめ)神社では、児玉石と称する子持勾玉と多くの勾玉を用い
  て、その年の吉凶を占う特殊神事が伝承されている。古事記中巻の崇神天皇の段には、蛇神である三輪山の大物主神
  の妃として「活玉依毘売(いくたまよりびめ)」が登場するが、「活(いく)」は美称で、「玉依毘売(たまよりびめ)」は、神霊(蛇
  神)が依り付く巫女の意味とされる。
   私見であるが、曲玉は、一般的には胎児の形とされるが、その形は蛇そのものである。十二支の第六の「巳(み)」という
  漢字は、蛇の形であると言われているが、曲玉の形と比較して見ると、全く同一の形をしていることがよく判る。
   吉野裕子氏は、その著「蛇」の中で、「カカ」は、「ハハ」以前に使用されていた蛇の古語で、中国伝来の鏡が「カガミ」と
  訓まれた理由は、鏡が古代日本人にとって「蛇(かか)の目(め)」、つまり「カガメ」として捉えられたためではないだろうか。
  「カガメ」は容易に「カガミ」に転訛すると述べている。
   八咫鏡は、日本書紀では石凝戸辺(いしこりとべ)、古事記では伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)が作ったとあり、
  石凝戸辺は、石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女の意味とされる。日本書紀巻第一神代上第七段の一書第一に
    「故(かれ)、即(すなは)ち石凝姥(いしこりとめ)を以(も)て冶工(たくみ)として、天香山(あめのかぐやま)の金(かね)を採
   (と)りて、日矛(ひほこ)を作(つく)らしむ。又(また)真名鹿(まなか)の皮(かわ)を全剥(うつはぎのは)ぎて、天羽鞴(あまの
   はぶき)に作(つく)る」
  とあり、石凝戸辺は石凝姥と同一で、いずれにしても鍛冶師あるいは鍛冶職であり、前述した蛇神である天目一箇神と同
  系統であることが推察される。
   なお、日本書紀に、石凝戸辺は天抜戸(あめのぬかと)の児(みこ)とあり、天抜戸は天糠戸とも記述され、「糠(ぬか)」は、
  殻の付いた物を指すことから、殻を被った穀物の意味であるが、蛇の脱皮をも連想させる。
 オ 地主神「門丸」
   「八幡神」を祭神とする八幡神社の総本社は、大分県宇佐市に所在する宇佐神宮で、その祭神は、「比売大神」「応神天
  皇」「神功皇后」とされ、応神天皇祭祀の発祥については、前述したところである。
   八幡神は、古くは「矢幡神(やはたのかみ)」とも呼称され、全国に祭祀されている最も一般的な神であるが、日本の古代
  を語る正史と言われる古事記や日本書紀には、その神名は見られず、僅かに、日本書紀巻第一神代上第六段の一書第
  三に
    「即(すなは)ち日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめがみ)を以(も)ては、葦原中国(あしはらのなか
  つくに)の宇佐嶋(うさしま)に降(あまくだ)り、居(ま)さしむ。今(いま)、海(うみ)の北(きた)の道(みち)の中(なか)に在(ま)す。
   号(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す」
  とあり、宇佐神宮の祭神である比売大神の降臨を想像させる記述である。
   各地の八幡神社では、いずれも応神天皇を主座に祭祀しているのに対し、宇佐神宮では、主座に相当すると思われる
  中央の神殿に比売大神が祭祀され、その正体は、宗像三女神(瀛津嶋姫命、湍津嶋姫命、田霧姫命)説をはじめ邪馬台
  国の卑弥呼説など諸説あるが、大神比義が、応神天皇を神仏習合の八幡神として祭祀する以前の、その土地を守護す
  る地主神であると思われる。
   宇佐神宮は、元々は御許山(おもとやま)が神体山とされ、この御許山は、元は大元山(おおもとやま)と呼称され、この神
  体山を拝む神社である「大元神社」は、今でも存在しているとされる。御許山山頂付近には、三つの巨石の磐座(いわくら)
  があり、古神道本来の姿である「神籬岩境(ひもろぎいわさか)」の祭祀形態が見られるとされ、原初の八幡信仰は、奈良
  県の三輪山に所在する我が国最古の神社である大神神社と同様に、山を御神体とする原始の信仰であったことが推察
  される。
   前述したように、富来隆氏は、その著「卑弥呼」の中で、宇佐八幡神は蛇の姿であるほか、製鉄と密接に関係していると
  述べている。
   皇室の神器である三種宝物の一種である八咫鏡の「八咫」は、一般的には「ヤタ」と読まれているが、古事記に
    「八尺(やた)を訓(よ)みて、八阿多(やあた)と云(い)う」
  とあり、「ヤアタ」が本来の読みであったと思われる。播磨国風土記の賀古郡の条に
    「御腰(みこし)に帯(お)びられた八咫(やた)の剣(つるぎ)の上結(うわゆひ)に八咫(やた)の勾玉(まがたま)、下結(したゆ
   ひ)に麻布都(まふつ)の鏡(かがみ)を懸(か)けて」
  と見え、剣、勾玉にも八咫が冠せられている。
   八咫とは、「巨大な」「見事な」の意味とするのが一般的であるが、古事記や日本書紀、古語拾遺、風土記などにも、皇
  室の神器である鏡、剣、勾玉と神武天皇東征で先導に当った八咫烏以外にこの呼称を用いた例はなく、特別な意味を持
  つ特異な呼称であることが判る。前述したように、三種宝物は全て蛇に還元することができ、また島根県石見地方の一部
  地域に伝承されている藁蛇を主体とした大元神楽では、「八岐大蛇」を「八咫」(やた)と呼称することなどから、「八咫」(や
  あた)は、神格化した蛇を指す特別な呼称であったと思われる。
   八幡(やわた・やはた)、八咫(やた・やあた)、八岐(やまた)は、呼称の奇妙な類似はさることながら、蛇神を主体として、
  製鉄や稲作と密接に関係している。応神天皇を八幡神として祭祀したとされる大神比義は、蛇神である三輪山の大物主
  神を祭祀する大神神社の宮司の身狭(むさ)の子供とされ、比義が、原初の八幡神が大物主神と同一系統の神であること
  を認識していたとしても不思議ではないと思われる。蛇神である宇佐地方の原初の八幡神は、大神比義によって応神天
  皇を祭神とする神仏習合の八幡神として変容し、八世紀には朝廷と結びつき、国家鎮護の神にまで上り詰め、手厚い加
  護を受けることとなった。
   原初の八幡神にも見られるように、かって各地において、先住民族(国つ神系)によって崇拝され、蛇神から発展した製
  鉄神・稲作神である地主神は、朝廷(天つ神系)の強大な圧力によって、古事記や日本書紀に迎合した神名、あるいは、
  大陸からもたらされた仏教と習合した神名へと改変や置き換えを余儀なくされ、その出自や本来の神性が喪失し、全く別
  の神格が付与され、正体不明の神となってしまったのではないかと思われる。
   応神天皇を祭神とする八幡神に主祭神の座を明け渡し、摂社や末社に追いやられた製鉄神や稲作神である地主神は、
  外国から渡って来た神・蕃神、あるいは、その土地や氏子との縁故の新しい神とする客神として、「客人社(まろうどしゃ)」、
  あるいは「門客人社(かどまろうどしゃ)」などと呼称される小社に祭祀されている場合が多い。この客人(まろうど)、あるい
  は門客人(かどまろうど)は、地域によって「カドマロウドサマ」「カドマリサマ」「オキャクサン」「マロトサン」などと呼称され、
  目・草履・鉄製下駄の神様などとして信仰されている。
   八幡神の随神「門丸(かどまる)」は、応神天皇を祭神とする八幡神に主祭神の座を明け渡し、摂社や末社に追いやられ
  た「門客人神(かどまろうどがみ)」で、本来は、その神社の本社に祭祀されるべき主祭神であり、先住民族(国つ神系)に
  よって崇拝されていた、蛇神から発展した製鉄神や稲作神の地主神と推察される。

魔除けの神・鍾馗
 神楽の曲目「鍾馗」は、「釈日本紀」巻七所引の備後国風土記逸文の疫隈国津社縁起譚の「蘇民将来説話(そみんしょうら
いせつわ)」が、金春禅竹氏信作の謡曲「鍾馗(しょうき)」の影響を受け、蘇民将来説話を進士鍾馗伝説(しんじしょうきでんせ
つ)にすり替えて、創作されたものではなかろうかとされている。

1 進士鍾馗伝説
  唐の玄宗は、開元年間(713〜774年)に驪山(りざん)で軍事演習を行い宮城に帰ったが、瘧
 (おこり)に侵されて1か月余り臥していた。ふとある夜に二人の鬼の夢を見た。一方は大きく
 他方は小さかった。小さい鬼は虚耗(きょこう)といい、赤い褌(ふんどし)を着け、片方の足は
 靴を履いていたが、他方の足は裸足であった。その鬼は、楊貴妃(ようきひ)の紫色の香袋
 (こうぶくろ)と玄宗の玉製の笛を盗み、後殿をぐるぐる駆け回っていた。大きい鬼は、破れ帽
 子をかぶり、藍色の裳(もすそ)を着けて角帯を結び、片肘をたくし上げ、革の半長靴を履い
 ていた。やがて大きい鬼は小さい鬼を捕まえ、小さい鬼の目をくり抜いてから体を裂いて食
 べてしまった。玄宗が大きい鬼に正体を問い質すと、「私は、終南山(しゅうなんざん)の麓に
 住む挙人(きょじん)の鍾馗で、科挙(かきょ)に合格せず自ら命を断ったとき、皇帝より手厚く
 葬られた男です。皇帝のご恩に報いるために、天下の禍を取り除くことを誓います」と答えた。
 皇帝が夢から覚めると瘧(おこり)は急に治ったかのようで、体はぐっと元気になった。そこで、
 絵師の呉道子を召して夢のことを告げ、「私のために絵を描いてみよ」と命じた。命じられた
 呉道子は、無我の境地で何かをじっと見つめているようであったが、すぐさま筆をとって書き
 上げ献上した。玄宗は、非常に喜んで百金を与えて労い、天下に布告した。(「夢渓筆談」北
 宋の沈括著)
  進士(しんじ)とは、隋・唐の時代に官人となるための試験科目の一つで、進士の試験に合
 格した者をいい、試験科目には秀才、明經、俊士、進士の四種類があったとされる。鍾馗は、
 進士の試験を受けて及第する際に憤死(ふんし)したが、その後、屍骸(しがい)に緑袍(りょくほう)を賜り「進士」を贈官された
 とされる。鍾馗は「鍾葵」とも書かれ、中国では疫病を防ぐ鬼神とされ、巨眼・多髯で、黒冠をかぶり、緑衣を着け、長靴をは
 き、右手に剣を握り、小鬼を掴む姿で表され、我が国でも謡曲(「鍾馗」「皇帝」)に作られ、その像を五月幟に描き、五月人
 形に作り、また朱で描いて疱瘡除(ほうそうよけ)の護符(ごふ)とした。

2 蘇民将来説話
  昔、北の海にいた武塔神(むたふかみ)が、南の海の神の娘に求婚しに出かけたが、日が暮
 れてしまった。そこには、二人の兄弟が住んでいて、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しく、
 弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福であった。武塔神はまず弟に宿を借りようとしたが、弟
 は惜しんで貸さなかった。兄は、粟柄で御座を作り、粟飯などでもてなした。その後数年を経て、
 武塔神は八柱の御子を連れて報恩のため戻り、兄の蘇民将来の娘に茅の輪を付けさせる。
 その夜、蘇民将来の娘一人を残し、皆ことごとく疫病で滅ぼされてしまった。武塔神は、自分が
 素戔嗚神(すさのおのかみ)であることを告げ、後の世に疫病が流行したら、蘇民将来の子孫
 と言い、茅の輪を腰に付けた人は、その疫病から免れるだろうと言った。(「備後国風土記逸
 文」「二十二社註式」)
  武塔神とは、「秘密心点如意蔵王陀羅経」の武塔天神王から出たとする説、あるいは、朝鮮
 の巫女の神とする説など諸説あるが定かではない。この説話で最大の問題点は、武塔神がな
 ぜ素戔嗚神と結びついたのかということであるが、日本書紀巻第一神代上第七段の一書第三
 に、髭や手足の爪を抜かれて高天原を追放され、根の国に追いやられた素戔嗚尊が、青草を
 結って笠・簑とし、神々に宿を請うが、汚らわしいと断られ、激しい風雨の中でも泊まり休むこと
 もできないで辛苦をしたとあり、この素戔嗚尊の行為が武塔神の行為と類似していることから
 習合したとする説、また、素戔嗚尊の荒ぶる性格が、逆に災いを祓ってくれる頼もしい神として
 の信仰を生み、病気を流行させる疫神・武塔神と同一神とされ、蘇民将来の伝承と結びつき、
 更には、除疫神として京都祇園社(八坂神社)に祀られる、頭上に牛の頭を持ち憤怒相で表される「牛頭天王(ごずてんの
 う)」(インドの祇園精舎の鐘の守護神ともいわれている)とも習合したとする説がある。

3 鍾馗大臣と素戔嗚神
  鍾馗大臣は、その伝説から疫病を防ぐ鬼神とされ、巨眼・多髯で、黒冠をかぶり、黒衣を着け、長靴をはき、右手に剣を
 握り、小鬼を掴む姿で表され、特に、「鍾馗髯(しょうきひげ)」という言葉があるように、頬の多髯は、鍾馗大臣の風貌の最
 も顕著な特徴である。
  一方、素戔嗚神は、高天原における数々の悪行により荒ぶる神として出雲の国へ追放されたが、出雲の国では、一転し
 て勇敢で秩序をもたらす神へと転神し、悪神から善神へと転化した。
  素戔嗚神は、古事記では、国を治めず、長い髭が胸前(むなさき)に垂れるまで啼きわめき、その様子は青々と茂る山を
 泣き枯らし、河海まで泣き乾らしたとある。また、日本書紀本文及び一書では、勇ましく残忍で、常に泣きわめき、国内の
 人民を多く若死させ、青い山を枯れ山としたとあり、別の一書では、物を壊すのを好む性質であるとある。更に、別の一書
 では、すでに年長けて長い髭が生え、しかも天下を治めずに泣きわめき恨んでいたとあり、荒らぶる神の代表的存在とし
 て表現されているが、その後の八岐大蛇退治神話では、古事記・日本書紀ともに、人助けや忠誠を尽くす徳を備えた神と
 して表現されている。
  素戔嗚神の悪神から善神への転化について、本居宣長は、須佐之男命の悪性は禊祓いが不十分で、黄泉の穢れが残
 ったままのその出生に原因があるとし、解除(はらえ)をきっかけに穢悪(けがれ)が除かれ、清浄に立ち返らせたと解釈した。
 特に、髭・爪を抜かれた穢悪は罪犯のある人に科せられるあがないの意味があると考え、罪をあがなったのであるから、
 穢悪された時点でもはや悪神ではなく、しかも「全体の心の善悪」であるから、悪心から善心への単なる変化ではないとし
 ている。また、平田篤胤は、天照大御神の荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)からの解釈を試み、須佐之男命にも同様に
 荒魂・和魂があり、これはなにも天照大御神や須佐之男命に限らず、神も人も汚いことや悪いことを憎み怒り、善神・善人
 と言えども怒って荒ぶることもする。それは禍津日神(まがつひのかみ)の御霊(みたま)を享(う)けるからで、反対に、憎み怒
 る心を和らげ静めて聞き直し思い直すのは、直毘神(なおひかみ)の御霊を賜っているからであるとしている。
  古事記で、五穀の神・大気津比売を殺したことや大国主神に数々の試練を与えたことは、反面解釈によっては、大気津
 比売が殺された結果、蚕や稲・粟・小豆・麦・大豆といった人が生きていく上で必要な食物が生じており、大国主神も須佐之
 男命の娘須勢理比売(すせりひめ)の助力を得て、最後は葦原中国の国土経営を担い、繁栄と秩序への布石をなしている。
 日本書紀では、出雲での素戔鳴尊の言葉が、「詔(のる)」ないしは「勅(みことのり)」として語られるように、統治し安定をもた
 らす神となっているのである。
  このような素戔嗚神の荒ぶる性格は、前述した説のように、逆に災いを祓ってくれる頼もしい神としての信仰を生み、病気
 を流行させる疫神・武塔神と同一神とされ、蘇民将来の伝承と結びついたものと思われる。神楽の曲目「鍾馗」は、古事記・
 日本書紀の素戔嗚神が、長い髭を生し十握の剣を所持するという風貌や蘇民将来説話の茅の輪が疫病を防いだとする記
 事が、多髯で剣を所持し、疫神を祓うという鍾馗大臣に近似していることなどから、素戔嗚神を鍾馗大臣と同一神と見て、
 茅の輪と宝剣によって疫神・虚耗を退治するという物語として創作されたものと推察される。
  ところで、神楽の旧曲目「鍾馗」の神の言い立て部分で、「我、其の昔、唐国(からくに)に渡りしとき、自ら鍾馗大神と名乗
 り…」と「我、其の昔、三(み)つの韓国(からくに)に渡りしとき、自ら鍾馗大神と名乗り…」の二通りの詞章が見える。「唐国」
 とは、古代の中国を指す語で、進士鍾馗伝説の舞台である唐(とう)の国との合致を見ることができるが、「三つの韓国」とは、
 古代の朝鮮を指す語で、馬韓・辰韓・弁韓又は新羅・百済・高句麗の総称で、進士鍾馗伝説や蘇民将来説話の内容との合
 致を見ることができない。それでは何故「三つの韓国」という国名が詞章に取り入れられたのであろうか。日本書紀巻第一
 神代上第八段の一書第四に、悪行を働き高天原を追放された素戔嗚尊が天下った場所を指して
   「其(そ)の子(みこ)五十猛神(いそたけるのかみ)を帥(ひ)いて、新羅(しらぎ)の国(くに)に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂
   梨(そしもり)の処(ところ)に居(ま)します」
 の記述が見え、この記事が、「三つの韓国」として詞章に反映されたものと思われる。

4 茅の輪
  「茅(ち)の輪(わ)」とは、茅(ちがや)を束ねて大きな輪としたものである。茅は古名
 を「チ」といい、イネ科の多年草で荒れ地などに群生し、春に柔らかい銀毛のある小
 花を穂のように多数付け、葉は広く長い線形である。穂は「つばな」「ちばな」といい、
 強壮薬とし、また古くは成熟した穂で火口(ほくち)に用いたとされ、根茎は漢方で白
 茅根(はくぼうこん)といい、消炎・利尿・浄血剤などとされる。蘇民将来説話では、
 「茅の輪」が疫病を防ぐことに重点が置かれているが、なぜ「茅の輪」なのか定説は
 なく、植物を輪にした鬘(かづら)に魔除けの力があるという思想と関係があろうとす
 る説、あるいは、青々とした植物の葉に再生の力があるとする説、また「茅の輪」は
 必ずしも茅でなくてもよく、季節や環境によって菅や稲藁も用いられたとする説など
 諸説あるが、いずれも「茅」にはっきりとした意味が見いだされていない。
  今日、多くの神社に見られる旧暦6月晦日の夏越の祓(なごしのはらえ)(名越の
 祓)の神事で、茅で編んだ大きな輪を社頭に立てて、参詣人がこれをくぐるという儀
 式は、罪・穢れを祓い浄め、災厄を防ごうとするもので、釈日本紀などによれば、疫
 病神・牛頭天王が、一夜の宿を貸してくれた貧しい男・蘇民将来に授けた秘法とされる。地方によっては、茅の輪を付けた
 札に「蘇民将来の子孫」と書いたものを戸口に貼付したり、小さな茅の輪を腰につけるなど様々な習俗が見られる。その昔、
 原因不明の疫病や気の塞ぎは、すべて疫鬼・疫神や物の怪、呪いによって発生すると信じられ、「祓」は身体についた穢れ
 という魔を取り除く極めて有効な手段とされていたのである。茅の輪は、蛇を形どったものとする説や注連縄に変化したと
 する説が存在するが定かではない。
  全くの私見であるが、素戔嗚神が蘇民将来の娘に付けさせた茅の輪の「チ」は、八岐大蛇(やまたのおろち)や句句廼馳
 神(くくのちのかみ)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)などの「チ」と同様に、霊威や勢威を示す語ではないかと推察する。つま
 り茅の輪は、罪や穢れを祓い浄め、災厄を防ぐことができる霊妙不思議な威光を持つ輪と解することができるのである。
  観世小次郎作の謡曲「皇帝(こうてい)」は古名を「明王鏡(みょうおうきょう)」といい、唐の玄宗皇帝の寵姫(ちょうき)である
 楊貴妃(ようきひ)が、病に侵され臥して悩んでいるところへ鍾馗大臣の精霊が来て、その病鬼である悪魔を退治したとする
 物語であるが、鍾馗大臣の精霊の教えのとおり、明王鏡を楊貴妃の枕の近くの几帳に立て置いたところ、鏡の中に鬼神の
 姿が映ったとあり、神楽の曲目「鍾馗」で、茅の輪の中を通して疫神の姿を見ることができるとする伝承は、この物語に由
 来するものと思われる。

5 十握の宝剣
  十握の宝剣(とつかのほうけん)は、日本神話の中で最もポピュラーなものとして、多くの人々
 に知られている八岐大蛇退治の物語において、素戔嗚尊が八岐大蛇をずたずたに斬るときに
 使用したとされる劔(つるぎ)のことである。日本書紀では十握劔(とつかのつるぎ)、古事記では
 十拳劔(とつかのつるぎ)と記される。握(つか)は長さの単位で、一握は小指から人差指までの
 幅で、一握が約11センチメートルとすれば、十握劔の長さは約1メートルということになる。
  十握劔は、日本書紀巻第一神代上第八段の一書第二では、剣の名は「麁正(あらまさ)」とし
 て、今は石上にあるといい、同一書第三では「韓鋤劔(からさひのつるぎ)」として、今は吉備の
 神部のところにあるといい、同一書第四では「天蠅斫劔(あまのははきりのつるぎ)」とする。ま
 た古語拾遺では名を「天羽羽斬(あまのははきり)」といい、石上神宮にあるとする。一書第二
 の「麁正」も一書第三の「韓鋤劔」も韓から伝来した小刀の意味とされ、また一書第四の「天蠅
 斫劔」の蠅(はは)及び古語拾遺の「天羽羽斬」の羽羽(はは)は、古語拾遺に「古語に、大蛇を
 羽々と謂う」見え、大蛇のことと認めることができる。
  古代において武器は、単に人を殺傷するだけの道具ではなかった。したがって、古事記・日
 本書紀においても、武器は神性で、また神が寄り付くものとして描かれている。素戔嗚尊が八
 岐大蛇を斬ったときに、その尾から出たとされる「草薙劔」がその一例である。十握の宝剣が
 銅製であったか鉄製であったかは別として、古代の剣である銅剣は、細形−中細形−中広形
 −平形へと変化し、特に、中細形以降は大型化が加速され、実戦用の武器としての機能を失っ
 て祭器へと変化したとされる。つまり剣は、神性にして神意、霊威を持つと考えられていたからにほかならない。

6 疫神
  疫神は、疫病を流行らせる悪神で、行疫神や厄病神とほぼ同義語に用いられる。古くは神の祟りで起こされるとも考えら
 れ、古事記崇神天皇の段に、疫病が大流行して国民が絶滅しそうになったので天皇は夢の中に現れた大物主神の言葉ど
 おり、三輪山に意富美和之大神(おほみわのおおかみ)を斎き祀ったところ、疫病はすっかりやんで、国内は平穏になったと
 ある。
  行疫神は、生前恨みを抱いて死んだ者の霊、即ち御霊の発現と観念とされ、古代社会では、疫病神は外界から襲来する
 と考えられ、疫鬼が京城に入るのを防ぐため、京城四隅の道に迎えて饗応する祭りである道饗祭(みちあえのまつり)を行
 い、また晩春に花が散り風が吹くと、花粉に乗って疫病が流行すると考えられ、花鎮祭(はなしずめのまつり)などが行われ
 ていたとされる。中国との通交が始まってから、疫鬼・疫神によって疫病が発生するという思想が広まったとされる。
  京都の三大祭りの一つである「祇園祭り」は、京都東山の八坂神社のお祭りで、毎年7月17日頃を中心に行われ、八坂神
 社は、明治維新までは祇園社と呼称し、牛頭天王を祀っていたとされ、もともと平安朝中期に怨霊を鎮めるために、京都郊
 外で行われていた御霊会(ごりょうえ)が、東山八坂郷の祇園寺に牛頭天王が祀られるに及んでここに固定し、御霊又は疫
 神の祟りを避ける祭りの代表になったとされる。祭りの時期も疫病の多く発生する旧暦6月が選ばれ、中世以後は、6月7日
 から14日までという日柄が守られていたとされる。
  鬼は、日本書紀において、初めて、天皇に仇成す討たれるべき「諸(もろもろ)の順(まちろ)わぬ鬼神(おに)」として登場す
 る。それらは、天皇権力に敵対する蝦夷(えみし)や粛慎人(みしはせびと)を魅鬼(もこ)として蔑視するものであった。こうした
 有形の鬼は、死して怨霊と化し、天皇に害を及ぼす無形への鬼と変貌し、更に、穢れに満ちた鬼神は、疫病や災厄の元凶
 と考えられて恐れられ、一般民衆に浸透していったと思われる。
  神楽の曲目「鍾馗」に
   「おお我(われ)は是(これ)、春(はる)の疫癘(えきれい)、夏の瘧病(ぎゃくびょう)、秋の血腹(ちはら)に冬の咳病(がいびょ
  う)、一切(いっさい)の病(やまい)を司(つかさど)る大疫神(だいえきしん)とは我(わ)が事(こと)なり」
 の詞章が見える。疫癘は伝染病、瘧病はマラリア、血腹は赤痢、咳病は咳の出る病気のことで、古代、疫鬼・疫神は、陰陽
 五行思想にいう陽気と陰気の去来する時節の変わり目に生まれると信じられていた。これは、現在でも無病息災を願って
 行われる七草、節分、雛祭、端午の節句、亥の子、七五三などの風習からも推測される。

雨水の神・切目王子
 神楽の曲目「羯鼓」は、五体王子神社に仕える神禰宜が、熊野大社の御祭礼御神楽にあたり、同社の宝物である羯鼓を、
切目王子が気に入られるような最も良い場所に据え置くので、切目王子が御出現されて御祈祷される際には、極めて静粛
に拝まれるようにと、羯鼓を採物として、非常にひょうきんな所作を繰り返しながら舞う曲目である。
 この曲目は、神楽の曲目「切目」の前編的な性格のもので、「切目」の曲目の詞章に羯鼓が出てくることから、後に付加さ
れたものとする説があるが定かではない。地域によっては、「切目」の曲目のみで「羯鼓」の曲目は存在しないとされる。
 切目王子と羯鼓の関係は、その昔、高天原から紀伊の国牟婁の郡の音無川の辺に羯鼓が降ってきたので、その羯鼓を
打ったところ、数多くの神々が集まったが、五体王子神社の切目王子が羯鼓を打ち鳴らし始めると、その音は遠国・近国の
隅々に至るまで響きわたって、五穀、特に、稲は長くしなやかに撓んで良く稔り、農民は豊かになり国家は繁栄した。このた
め、その羯鼓を宝物として熊野大社に奉納したとするものである。

1 鞨鼓の由来
  「羯鼓」は、雅楽で管弦と左方の舞楽に用いられる打楽器で、長さ30センチの筒(胴)の両側に、直径24センチの鉄の輪
 に張った革を八つの穴から皮の緒で締め付ける。これを大調べと言い、音の調子を整えるために絹の緒で締め付けるの
 を小調べと言うとされる。
  鼓面は胡粉で白く塗ってあり、筒には樫や桜の木が用いられる。装飾には蒔絵が施されている。これを26センチの唐木
 で作った撥で打ち鳴らす。一つ打つのを「正」、連続して打つのを「来」、両手で交互に打つのを「諸来」と言うとされる。
  この鼓は、後漢・晋の頃、西北方から中国本土に進入・移住し、山西省上党郡武郷県羯室の地に居住した五種の塞外
 (さいがい)民族(五胡)のうちの一種族である「羯(けつ)」から日本へ伝わったことから、「羯鼓」と名付けられたとも言われ、
 「鞨鼓」「揩鼓」「鶏婁鼓」などと多種に記される。
  羯鼓の原型と思われるものは、中国の敦煌(とんこう)莫高窟第220窟北壁の伎楽図(ぎがくず)にも見られるとされ、その
 発祥は中国大陸であったことが推察される。日本へ伝わってからは、光仁天皇在位の宝亀9年(778年)、皷生従八位下・
 任生駒麿が打ち方を定め、この頃に格式が確立して現在に継承されているとされる。

2 切目王子の本地
  切目王子は、熊野権現の御子神である九十九王子の中でも、特に格式が高く、貴人達にも
 慕われた五体王子(藤白・切目・稲葉根・滝尻・発心門王子)の一つで、切部王子、分陪支王
 子、御所王子とも呼ばれた。
  切目王子は、鎌倉時代に成立したとされる「諸山縁起」に、「切目の金剛童子は十一面観自
 在菩薩の黒炎の体なり」とあるように、御子神のほかに仏教の十一面観音を本地仏とする金
 剛童子を原像にもっている。十一面観音は、サンスクリット語のエカーダシャ・ムッカ(11の顔
 を持つ者)の意訳で、その起源はインドとされ、バラモン教において天候や雨水を支配し、一
 度怒れば生き物や草木をも滅ぼす11の顔を持つシヴァ神といわれる。
  本地仏とは、本地垂迹思想に基づく、神の本地(本体)は仏であるという考え方で、本体であ
 る仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現れたのだとするものである。金剛童子
 は、西方無量寿経仏の化身で、憤怒の童子形を現じ金剛杵を執る。
  切目王子は、「五躰王子宮御鎮座并御宮造営記」によれば、人皇10代崇神天皇67歳庚寅9
 月に、地神五代の五躰の御神が垂迹座し、覆天雨宮五躰王子と顕れて御鎮座したとあり、
 「天を覆う雨の宮」とするその名称から、雨神としての性格を有する神であることが推測される。
  雨や水を司る神としては、弥都波能売神(みつはのめのかみ)や闇淤加美神(くらおかみのか
 み)、更には龍神や龍王が一般的であるが、切目王子も、また、雨水を司る神として顕現してい
 るのである。
  切目王子の旧社殿は、天正13年(1585年)の兵火で焼失したことから、現社地に移されたとされ、旧社地は「太鼓屋敷」
 呼ばれ、大塔宮記念碑が建てられている。
  雨水を司る神として特に有名なのは、江戸時代前期に活躍した京都の絵師・俵屋宗達の風神雷神図屏風などに見られ
 る「雷神」で、雷神もまた前述した十一面観音と同様に、その起源はインドとされ、バラモン教の神々から仏教に取り入れ
 られたとされる。
  雷神は雷を神格化した神で、風神とともに千手観音の28部衆の眷属と戦って敗れ、仏教に帰依したとされ、水神・火神と
 しての性格を有し、その姿態は、背後に小太鼓を輪にめぐらせ、両手に撥を持ち、肩に布を掛け、上半身は裸で下半身に
 は裳を着て雲を配した岩座に乗っている。農耕民族にとって雷は、大地に恵みの雨をもたらす農業の神なのである。
  日本書紀巻第十四雄略天皇の段に、小子部(ちいさこべのすがる)は、雄略天皇の三諸岳の神の姿が見たいという
 命令に従って、三諸岳に登り大蛇を捕らえて来て見せた。大蛇は雷鳴のように轟き、目を輝かせた。天皇は畏れて大蛇を
 見ずに御殿の中に入り、神を岳に放させた。そこで、改めて小子部(ちいさこべのすがる)に名を賜り、雷(いかつち)と
 したという記述が見える。大蛇が雨水を司る神であることは、古事記、日本書紀の記事からも容易に推察されるところで、
 雄略紀の記事は、大蛇を雷と同一視している。
  なお、神の名の「雷」という漢字は「イカツチ」と読まれるが、それは荒々しいさまを表す「イカシ」と霊を意味する「チ」から
 なる言葉で、解字は、覆っている雲から水滴がおちる様の「雨」とかみなりのゴロゴロなる音を表す「田」(省略字)からなる
 とされる。また、雷が神とされる所以は、漢字の「神」に使われている「申」は稲妻の走る形とされ、注連縄や御幣に取り付
 けられる垂も稲光を象ったものとされることからも伺い知ることができる。

3 呪具としての太鼓
  太鼓は、日本の民族音楽の最も重要な基本的な楽器で、太鼓を使わない民族芸能は極めて希で、神楽をはじめとする
 諸種の民族芸能において、古来より太鼓を神聖視する傾向が見られる。
  西日本に広く分布する民族芸能の一つに太鼓踊りがあるが、太鼓、あるいは羯鼓を身に付けた一団の者が、花笠や神
 籬を背に付けて踊る風流踊りで、羯鼓踊り、諫鼓踊り、白太鼓踊り、楽打ちなどと呼ばれ、その殆どは雨乞いに用いられ
 るところから雨乞い踊りとも呼ばれ、田楽や田楽躍が風流化したものと見られている。
  雨乞いは、農作の過程において降雨を祈って行う呪法で、農耕民族にとっては必要不可欠なもので、その方法には様々
 な方法が存在するが、前述した旱魃(かんばつ)の時などに雨の降ることを祈って踊られる雨乞い踊りもその一つの方法で
 ある。雨乞いに太鼓を用いる最も大きな理由は、その大きな音が雷鳴に似ていることにより、類感呪術として効果を期待す
 るためと思われる。
  神楽曲目「羯鼓」で、五体王子神社の切目王子が羯鼓を打ち鳴らし始めると、その音は遠国・近国の隅々に至るまで響
 きわたって、五穀、特に稲は長くしなやかに撓んで良く稔り、農民は豊かになり国家は繁栄したとする内容は、大地に恵み
 の雨をもたらす雨水を司る神としての性格を有する切目王子の神威を如実に物語っているといえる。
  なお、神楽曲目「切目」では、「…かざすや波の、太鼓の拍子を揃へて、とうとうとうと踏む足音に、鳴る雷を踏みとどろこし、
 あめもはらはら晴やかなり」の神楽歌が見え、切目王子自体が雷神そのものと見なされているものと思われる

学問の神・天神
 「天神」は、「菅原道真」を祀り、学問・文学の神として広く信仰されている。道真は詩文に優れた人物であったとされている
が、なぜ道真だけが天神として広く崇敬されるのであろうか。
 道真は幼くして衆に秀で、五歳の時に和歌を詠み、十一歳で詩を賦し、白楽天の再来と称えられた。朝廷に仕えて、右大
臣・右大将という高位まで上ったが、左大臣・左大将の「藤原時平」一派の讒言(ざんげん)によって、延喜元年(901年)、突然、
太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷された。配所において道真は、恩賜の御衣(みぞ)を捧じた詩を詠んで、断腸の思いを
述べたことは有名である。配所にあること3年、延喜3年(903年)2月25日、59歳をもって没した。
 菅原道真は、俗に「天神様」として庶民に親しまれ、現代では、合格祈願の受験生で賑わう学問の神とされている。次の二
首は道真の神詠であるが、「誠の道」と「清き心」は神道の根本であるといわれている。
  「心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん」
  「海ならず たたえる水の 底までも 清き心は 月ぞ照らさん」

1 道真の出自
  道真は平安初期の公卿・学者で、承和12年(845年)6月25日、菅原是善の三子と
 して生まれ、祖父は遣唐判官として唐に渡り、弘仁9年(818年)に儀式・衣服を唐風
 に改めることを提案した菅原清公である。元は土師姓で、曾祖父の古人から大和
 の居住地にちなみ「菅原」姓に改め、代々儒者を輩出した。

2 道真の事績
  道真は、幼少より学問にいそしみ、貞観四年(862年)に文章生、元慶元年(877年)
 に式部少輔・文章博士になり、同4年に父是善が没すると、学界の一大勢力をなし
 ていた菅家の私塾を背負うことになるが、その隆盛を喜ばない学者達の嫌がらせ
 により讃岐守として赴任した。讃岐国において地方民の生活を直接知る機会を得
 た道真は、4年後に都に帰ると、宇田天皇に重用されて順調に官位を昇った。
  道真は、寛平九年(897年)に権大納言・右大将に昇進したが、権門の藤原時平も
 同時に大納言・左大将に昇進し、醍醐天皇の即位後、昌泰2年(899年)に道真が右大臣・右大将、時平が左大臣・左大将に
 また同時昇進した。藤原時平一派は他氏の地位の上昇を快く思わず、道真が天皇の廃位を密かに企てていると讒言し、
 延喜元年(901年)に道真を太宰権帥に左遷することに成功し、道真の4人の男子も官途を失った。
  道真の太宰府での生活は苦しく、病魔に冒され、同3年2月25日に没した。

3 怨霊の祟り
  京都では、道真の没した翌年・延喜4年(904年)は疫病があり、4月は雷電が激しく
 起こり、7月は旱魃が続き、5年4月は月食と大彗星が現れ、6年はまた雷雨暴風が
 激しく、8年は炎天が継続するなど天変がうち続き、延喜8年(908年)に藤原菅根が、
 また翌9年に藤原時平が39歳の若さで亡くなった。いずれも道真配流の主謀者であ
 った。延喜13年(913年)には道真配流の後を受けて右大臣となった源光が横死を遂
 げた。その他京中に大火・事変が続き、時の人々はこれを道真の「怨霊」のなせる
 業と噂した。
  延喜23年(923年)3月には時平の娘を妃とする皇太子保明親王が21歳の若さで崩
 御するに及び、遂に道真の官を右大臣に復し、正二位を追贈し道真左遷の文書を
 破棄して大赦の令が発せられた。しかし、なおも時平の一族に不幸が重なったため、
 このような不幸や災難は道真の「怨霊」の祟りによるものと人々に信じられた。

4 怨霊から天神へ
  延長8年(930年)に異常な旱魃が継続したため、殿上において雨乞いの修法を協議していたところ、清涼殿に落雷して藤原
 清貫が即死したほか数名の死傷者が出た。農民にとって雷は、大地に恵みの雨をもたらす天の神・農耕の守護神であり、
 最初、怨霊として恐れられた道真は、この落雷事件を契機に「天神」と意識され始められた。
  その後、道真が学者、文人、政治家として優れていたところから、詩歌、文筆、学問の神として庶民に崇敬されるようになっ
 て、京都の文子天満宮や北野天満宮に祀られ、全国に勧請されるに至った。

荒ぶる神・須佐之男命
 「スサノオノミコト」は、古事記では、「須佐之男命」、日本書紀では、「素戔鳴尊」と記される。
 須佐之男命というと、すぐに思い浮かぶのは八岐大蛇神話で、八岐大蛇を退治して、草薙剣を天照大御神に献上し、出雲の聖地・須賀に宮処を定め、助けた櫛名田比売と結婚するという善神としての須佐之男命の姿である。
 この神話は、古事記、日本書紀の中でも須佐之男命が高天原を追放されて出雲に天下ってからの姿で、高天原では、天岩屋戸神話に見られるように、営田の畦を壊し、溝を埋め、大嘗の神殿に大便を散らし、逆剥ぎにした天斑馬を機織屋に投げ込んで、天衣織女を死に至らしめるなどの悪事を働いた荒ぶる神であったのである。
 備後国風土記逸文では、疫病除けの蘇民将来の主人公・武塔神(むたふがみ)は、須佐之男命と同一神とされ、また、京都の八坂神社の祭神・牛頭天王(インドの祇園精舎の鐘の守護神ともいわれる。)も須佐之男命と同一神であるといわれる。
 須佐之男命は、その神性が疫神と考えられる一方、その荒ぶる神性から疫気を祓う威力を発揮すると、古くから信仰上で捉えられ、一名を「糺神」ともいわれるのは、人々を悪疫から守り、秩序ある状態に導く善神と意識されたからと思われる。

1 須佐之男命の誕生
  古事記では、黄泉国から逃げ帰った伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊
 祓いをした際、左の目を洗った時に天照大御神が成り、右の目を洗った時に月読命が成り、
 鼻を洗った時に成った神が「建速須佐之男命」であった。
  伊邪那岐命は、三貴子を得たと歓喜し、天照大御神は、高天原を、月読命は、夜の食国を、
 須佐之男命は、海原を、それぞれ分担して治めるように委任した。しかし、須佐之男命は、国
 を治めず、長い髭が胸前に垂れるまで泣きわめき、その様子は、青々と茂る山を泣き枯らし、
 河海まで泣き枯らしてしまった。この悪神のたてる音は、蠅が湧き上がり、万物は災いに見ま
 われた。伊邪那岐命は怒って、この国に住むことを許さず、須佐之男命を追放したのである。
  須佐之男命は、赴く前に姉の天照大御神に会いたくて天に上がるが、その時、山川が動き、
 国土が揺れ動いたため、天照大御神は驚いて、須佐之男命には善心がなく、国を奪おうとし
 ていると思い込み、男性のように髪を美豆羅に結い、千入の靫を背負って雄々しく叫んで、そ
 の理由を問い質した。すると須佐之男命は、邪き心はなく、妣の国に行きたくて泣いていたと
 ころを追放されたと事情を説明し、自分の心が清明であることを証明するために、子供を生も
 うと答え、天の安河を挟んで天照大御神と宇気比をすると、五男三女神が誕生した。
  日本書紀も同様の内容で、本文では、伊弉諾尊と伊弉冉尊が神生みの際に天照大神、月
 読尊の後に「素戔鳴尊」を生んだとあり、一書には、「神素戔鳴尊」「速素戔鳴尊」と記される。
  この神は、勇ましく残忍で、常に泣きわめき、国内の人民を多く若死させて、青い山を枯れ山にするので、父母は、その無
 道を理由に天に君臨すべきではないと判断し、根の国に追放した。別の一書には、伊弉諾尊が首を巡らして後ろを見た時
 に生まれたのが素戔鳴尊であるとし、物を壊すのを好む性格なので、根の国に下して治めさせたと記される。次の一書に
 は、伊弉諾・伊弉冉尊が柱を巡る時に女神の方から先に言葉を発したのが道理に違い、蛭子を生み、次に生んだのが素戔
 鳴尊で、本文と同様に性割にして泣くことを好み、国民を多く死なせ、青山を枯らせるので国を治めさせず、根の国に下した
 と記される。
  高天原の段では、天照大神は、高天原を、月読尊は、青海原を、素戔鳴尊は、天下を治めるように詔が下る。ところが、素
 戔鳴尊は、既に年長けて髭が生え、しかも天下を治めず泣きわめき恨んでいた。伊弉諾尊がなぜ泣くのかと尋ねると、母の
 いる根の国に行きたくてただ泣いていたという。伊弉諾尊は、それを憎々しく思い、思うままに行くようにと追いやった。
  素戔鳴尊は、根の国に向かう前に高天原の姉に会ってから退ろうと許されて天に昇る。その時、大海は轟き、山岳も鳴り
 響き、その性格が荒々しいことが歴然としていた。天照大神は、素戔鳴尊が暴く悪いことを知り、しかも国を奪おうとしている
 と疑い、髪を上げて鬟にし、裳をからげて袴にし、千箭の靫を背負って勇ましく素戔鳴尊をなじる。素戔鳴尊は、汚い心のな
 いことを主張し、清き心を明かすために誓約により子を生むこととなる。五男三女神の誕生により、清き心が証明された。

2 天岩屋戸事件
  古事記では、須佐之男命は、宇気比に勝ったおごりから天照大御神の営田の畦を
 壊し、溝を埋め、大嘗の神殿に大便をまき散らし、そのとりなしにも反省せず、なおも
 悪しき仕業は止まなかった。更に天照大御神が機織り屋で神に供える衣服を織って
 いたところに逆剥ぎにした天斑馬を投げ込んで、天衣織女を死に至らしめた。遂に天
 照大御神は、天石屋の戸を閉じて中に籠もってしまった。
  八百万の神々が天照大御神を石屋から引き出すと、須佐之男命に多くのあがな
 いの物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。ところが、今度は、大気
 津比売神に食べ物を請い願ったところ、鼻、口、尻から種々の御馳走を取り出して
 作ったのを見て、汚い物を奉るのだと思い込んで、大気津比売神を殺してしまった
 とある。
  一方、日本書紀では、素戔鳴尊は、天照大神の御田に種を重ね播きし、畔を壊し、
 まだら毛の馬を田に放した。これに怒った天照大神は、天岩窟に籠もった。諸神は、
 素戔鳴尊にあがないの物を取り立て、髪や手足の爪を抜いて、その罪をあがなわせた。ここまでは、概ね古事記と共通す
 る内容であるが、一書には、追いやられた素戔鳴尊が青草の笠蓑をかけ、神々に宿を請うが、汚らわしいと断られ、風雨
 の中を泊まり休むことも出来ず辛苦を受けたとある。

3 八岐大蛇退治
  高天原から追放された須佐之男命は、古事記、日本書紀ともに舞台を出雲国に移
 し、八俣大蛇を退治するなど、一転して勇敢で人助けをする善神としての役割を果
 たすのである。
  古事記では、須佐之男命は、出雲国の肥の河上の鳥髪という地に降り、嘆き悲し
 む足名椎、手名椎の老夫婦と、その娘の櫛名田比売と出会った。嘆き悲しむその訳
 を尋ねると、私の娘は、元々八人いたが、あの高志の八俣大蛇が毎年襲って来て
 娘を食ってしまった。今年も、その大蛇がやって来る時期となったので嘆き悲しんで
 いるという。須佐之男命は、櫛名田比売を妻に欲しいと請い、自分は、天照大御神
 の弟であることを告げ、守備良く身に付けていた十拳剣をもって八俣大蛇を退治し、
 大蛇の尾から出てきた太刀を天叢雲剣と名付けて天照大御神に献上した。その後、
 出雲の清地である須賀に宮処を定め、助けた娘の櫛名田比売と結婚したとある。

4 悪神から善神への転化
  本居宣長及び平田篤胤は、須佐之男命が悪神から善神へと転化したことについて、魔除けの神・鍾馗の項でも記したよ
 うに、次のように解釈している。
  ○ 本居宣長説
    本居宣長は、須佐之男命の悪性は禊祓いが不十分で、黄泉の穢れが残ったままのその出生に原因があるとし、解除
   をきっかけに穢れが除かれ、清浄に立ち返らせたと解釈した。特に髭、爪を抜かれた穢れは、罪犯のある人に科せられ
   るあがないの意味があると考え、罪をあがなったのであるから、穢された時点でもはや悪神ではなく、しかも、「全体の
   心の善悪」であるから、悪心から善心への単なる変化ではないとしている。
  ○ 平田篤胤説
    平田篤胤は、天照大御神の荒魂・和魂からの解釈を試み、須佐之男命にも同様に荒魂・和魂があり、これは、なにも
   天照大御神や須佐之男命に限らず、神も人も汚いことや悪いことを憎み怒り、善神・善人と言えども怒って荒ぶることも
   する。それは、禍津日神の御霊を享けるからで、反対に、憎み怒る心を和らげ静めて聞き直し思い直すのは、直毘神
   の御霊を賜っているからであるとしている。
  古事記で、五穀の神・大気津比売を殺したことや、大国主神に数々の試練を与えたことは、反面解釈によっては、大気津
 比売が殺された結果、蚕や稲、粟、小豆、麦、大豆といった人が生きていく上で必要な食物が生じており、大国主神も須佐
 之男命の娘・須勢理比売(すせりひめ)の助力を得て、最後は、葦原中国の国土経営を担い、繁栄と秩序への布石をなして
 いる。日本書紀では、出雲での素戔鳴尊の言葉が、「詔」ないしは「勅」として語られるように、統治し安定をもたらす神とな
 っているのである。

五方・五季の神・五神
 舞殿に設置される「天蓋」は、地域によっては「白海」、あるいは「玉蓋」とも呼ばれる。
 宇宙の概念は、道教・老荘の哲学から起こったもので、「宇」は天と地及び四方の空間、「宙」は時間を意味しているとされ、本来、この天蓋は、古代中国の「陰陽五行思想」の法則に基づいて方位や季節などを明確にし、宇宙の秩序を表現しているものと思われるが、現在では一部の地方を除いて、専ら舞殿の装飾的役割に終始している。
 神楽曲目「天蓋」は、舞殿の天井から吊された天蓋を奏楽と神楽歌に合わせて長い綱で自由自在に操つる曲芸的な儀式舞で、天蓋が飛遊する様子は、まさしく神が天蓋に乗り移っているのではないかと錯覚させる動きである。この天蓋は、参拝客が唯一参加することが出来る曲目で、参拝客も天蓋を引くことが出来る。
 その昔は、天蓋の飛び方によって来期の作柄の吉凶などを判断したとも伝えられ、数ある神楽曲目の中でも極めて特別な存在である。

1 天蓋の配置
  天蓋の配置については、舞殿の宇宙観の項でも記したところで、舞殿中央の天井には縦横12本(地域によって相違)ず
 つの竹を組み合わせ、黄、緑(青の代用?)、赤、白、紫(黒の代用?)の垂を無数に垂らした、一面が一間半(地域
 によって相違)の枠が取り付けられる。この枠は、「雲」と呼ばれる。
  天井に取り付けられた雲には中央に六角の「大天蓋」が、東、南、西、北の四方(地域によっては、南東、南西、北西、北
 東を加えた八方)に四角の「小天蓋」が吊され、中央の大天蓋には波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)(土の神)、また
 東、南、西、北の四方の小天蓋には久久能智神(くくのちのかみ)(木の神)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)(火の神)、
 金山毘古神(かなやまひこのかみ)(金の神)、弥都波能売神(みつはのめのかみ)(水の神)の古事記に登場する五方の神
 が充てられる。
  天井から吊された天蓋枠には中央、東、南、西、北や春、夏、秋、冬の文字、また舞殿の周囲には春、夏、秋、冬や松、
 竹、梅などの慶事物を切り抜いた「切り飾り」が貼られる。

2 五方・五季の神達
(1) 久久能智神
   「ククノチノカミ」は、樹木を司る木の神で、古事記では「久久能智神」、日本書紀
  では「句句迺馳」と記される。
   古事記によれば、伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美命(いざなみのみこと)は、神婚
  による国生みの後に神々を生み、その十二番目に産まれたのが木の神「久久能
  智神」である。また日本書紀では、伊弉諾・伊弉冉尊は木の祖(おや)「句句迺馳」
  を生んだとあり、木の生みの祖である「句句迺馳」を生んだと表現されるとことから、
  間接的に木を生んだことになる。本居宣長は、神名の「クク」は茎のことで、草木の
  幹の立ち伸びるさまを表し、「チ」は男性の美称であるとしている。
   久久能智神は、東方に配置される天蓋に充てられ、季節は春、色は青色とされ
  る。

(2) 火之迦具土神
   「ヒノカグツチノカミ」は、古事記では「火之迦具土神」、日本書紀では「火神軻遇
  突智」と記される。
   古事記によれば、伊邪那美命(いざなみのみこと)が最後に生んだのが「火之迦具土神」で、「火之夜芸速男神(ひのやぎ
  はやをのかみ)」「火之R毘古神(ひのかがひこのかみ)」という別名を持ち、日本書紀の一書では「火産霊(ほむすび)」の名
  が見える。いずれの場合も「火」という文字が用いられているところから火の神とされる。古事記では伊邪那美命は、この
  神を生んだときに陰部を火傷し、それが原因でなくなったとされる。カグツチという神名は、火が燃えるさまを表す「カグ」と
  神霊を意味する「チ」からなっているとされる。また別名である「ヤギハヤヲ」は、「ヤギ」=焼くと、「ハヤ」=速い、男神を表
  す「ヲ」からなり、短時間い速く物を焼いてしまう火の勢いの強さを表した神名であり、「カガヒコ」という神名は、火が輝く様
  子を神格化した男神を示しているとされる。これらの神名は、いずれも火の燃える様子から付けられたものとされる。
   迦具土神は、南方に配置される天蓋に充てられ、季節は夏、色は赤色とされる。

(3)  金山毘古・金山毘売神
   「カナヤマヒコノカミ」は、古事記では「金山毘古神」、日本書紀では「金山彦」と記される。古事記では女神「金山毘売神
  (かなやまひめのかみ)」が登場し、金山毘古神と夫婦神とされる。
   古事記によれば、迦具土神を産んで陰部を火傷して苦しんでいた伊邪那美命が嘔吐したときにその嘔吐物に成ったの
  が「金山毘古神」「金山毘売神」である。金山は「鉱山」の意味で、嘔吐物が鉱石を火で溶かしたときの状態によく似ている
  ことから、このような記事になったとされる。日本書記の一書にも金山毘売神は登場しないが、同様の記事が見られる。
  いずれにしても、これら神は金属に関連した神であることに疑う余地はないと思われる。
   金山毘古神は、西方に配置される天蓋に充てられ、季節は秋、色は白色とされる。

(4)  弥都波能売神
   「ミツハノメノカミ」は、古事記では「弥都波能売 神」、日本書紀では「罔象女神」と記される。
   古事記によれば、伊邪那美命が迦具土神を産んだ後、陰部を火傷して病に伏した際、最
  後に小便から成った二柱のうちの一神が「弥都波能売神」である。日本書記の一書にも同
  様の記事が見られる。弥都波能売神の「ミツハ」は「水走(みづは)」で、水を湧出し走らせる意
  味とする説、あるいは「水生(みずは)う」「水這(みずは)う」など水蛇と関係があるとする説があ
  る。農耕に関する水を司る神とされる。
   弥都波能売神は、北方に配置される天蓋に充てられ、季節は冬、色は黒色とされる。

(5)  波邇夜須毘古・波邇夜須毘売神
   「ハニヤスノカミ」は、古事記では男神を「波邇夜須毘古神」、女神を「波邇夜須毘売神」、日
  本書紀では「土神埴山姫」「埴山媛」「埴安神」と記される。
   古事記によれば、伊邪那美命が迦具土神を産んだ後、陰部を火傷して病に伏した際、その
  苦しみの中、糞から成った二神が「波邇夜須毘古神」「波邇夜須毘売神」である。また日本書
  記の一書では、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火神軻きに、臥しながら「土の神」を生んだと
  ある。この二神は、土の男女神とされ、「ハニヤス」とは、「埴粘(はにやす)」(祭具の土器を作
  る粘土)のことで、「ハニ」は神聖な威力を持った泥、「ヤス」は美称であるとされる。つまり、
  単に土の神であるだけではなく、粘土を練り整え、火で焼いて祭器を作る材料としての神聖な神々であるとされる。
   波邇夜須神は、中央に配置される天蓋に充てられ、季節は四季の終わりに訪れる土用、色
  は黄色とされる。

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