世界の偉人・日本の偉人 |
保科正之 1611年〜1672年。徳川秀忠の庶子。会津松平藩の初代藩主。 第2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として生まれ、彼の養育にあたった見性院(穴山信君の 正室・武田信玄の次女)のつてで信濃高遠藩主・保科正光(旧武田家家臣)の養子となった。高遠藩(3万石)の藩主を継いだ後、出羽山形藩(20万石)藩主を経て、陸奥会津藩(23万石)の藩主となった。藩政としては、信賞必罰で有能な人材を引き上げたほか、会津藩へ高遠蕎麦を持ち込んだり、社倉制度を作り平時に米を蓄えて飢饉の時に貸し与えた。養老扶持制度を作り、90才以上の年寄りに米を支給するなど、当時としては画期的な政策を導入している。 また、その謹直さと有能さが、異母兄にあたる第3代将軍・徳川家光に認められて、幕政においても重用された。家光の死後には遺命により第4代将軍・徳川家綱の輔佐役となり、幕閣で重きをなした。幕政においては、末期養子の禁を緩和、殉死の禁止、大名証人制度(幕府への人質)の廃止、玉川上水を開削などを行った。1657年に起きた「明暦の大火」(江戸の大半を焼失した。)では、将軍の江戸城外への避難について「本丸が焼ければ西の丸へ、西の丸が焼ければ本丸の焼跡へ移ればよい」と諫めて人心の動揺を抑えた。また、米倉の米を取り放題としたことにより、被災者たちが米倉の消火にあたるよう仕向けて、焼失を免れた米は被災者の救助米になった。大火の後には、必要性の低い江戸城天守閣の再建に反対し(結局現在まで再建されていない。)、延焼防止のための緩衝帯として上野広小路などを設置したほか、従来軍事的な目的で橋の架けられていなかった隅田川に両国橋を架けて避難できるようにした。この両国橋は、のちに江戸が隅田川を越えて広がっていくきっかけになった。 当時としては画期的な発想で政治を行っているほか、まだ軍事的な色彩の濃かった徳川幕府の政策を、民衆の生活に気を配る文治政治へ転換させたと言える。 彼が残した「会津家訓十五箇条」の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記されており、幕末の第9代会津藩主・松平容保はこの遺訓を守って最後まで佐幕派の中心であった。 ・参考文献 NHK BS放送「BS歴史館 今いてほしい!?日本を変えたリーダーたち(2) 保科正之」(2012年6月29日放送) 保科正之 - Wikipedia (2012/9/11)高橋竹山 1910年〜1998年。本名は高橋定蔵。 青森県の中平内村の生まれ。幼いころに麻疹をごじらせて、失明にいたる。三味線を習い、各地を門付け(人家の門の前に立って行う芸能)をしてまわるなど苦労を重ねた。その後、独自の技術を磨いて、津軽三味線の名演奏家として認められるようになる。日本はもとより海外でも演奏会を行い、高く評価された。満87歳で、喉頭ガンにより死去。 ・参考文献 MICHINOKU湾岸ネット ≫ 人物列伝 ≫ 竹山は語る 竹山を語る 1〜8、年表 旅研 tabiken.com ≫ 世界歴史事典データベース ≫ 門付け (2006/6/12)カルロ・ウルバニ 1956年〜2003年。イタリア人。 2003年2月にSARSが中国からベトナムへ広がった時、ベトナムのハノイに駐在していたWHO職員のイタリア人医師。SARSがまだ原因不明の感染症であった際に、ハノイの民間病院で始まったSARSの調査を行って、いちはやくWHOに報告した。ハノイの民間病院での対策に力をそそぎ、また、SARSの世界への拡大をくい止めるために尽力した。 本人もSARSに感染し、死亡している。 ・参考文献 NHK「NHK特集 SARSと闘った男 〜医師ウルバニ 27日間の記録〜」2004年2月18日再放送(当初2004年2月15日放送) 世界史 ≫ 年表6 ≫ 2003年 SARS(重症急性呼吸器症候群)が発生 カルロ・ウルバニ - Wikipedia 公益財団法人 社会貢献支援財団 ≫ 受賞者紹介 : 社会貢献者表彰(故.カルロ ウルバニ) (更新 2012/10/24)空海(弘法大師) 774年〜835年(異説あり)。佐伯氏、幼名は真魚。 讃岐国で地方豪族の子に生まれ、大学への入学を認められるが、これをなげうって修行の旅に出る。804年の遣唐使に加わり、中国で青龍寺の恵果から密教を学び遍照金剛の号をおくられ、多数の仏像、曼荼羅、法具、経などを収集して帰国した。 高雄山寺、高野山金剛峰寺、京都の東寺を中心に、真言密教の布教に努めたほか、讃岐国で満濃池の修築、京都で庶民の教育施設である綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の設立などもおこなった。まれにみる秀逸の人で、筆も、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と称されるほどであった。835年に死去、921年に弘法大師の諡号をおくられた。 現在も盛んに行なわれている、四国八十八箇所霊場巡りは、弘法大師ゆかりの霊場を回るものである。 ・参考文献 「日本の歴史4 平安京」北山茂夫著、中公文庫、1973年 「年表式日本史小辞典」文英堂、1988年 密教のホームページ ≫ 弘法大師 について 弘法大師空海と高野山への旅 掬水へんろ館 伊予鉄道 ≫ 四国八十八ヶ所 ≫ 四国八十八ヶ所ガイド 放浪の旅 遍路日記 四国遍路 八十八霊場をゆく (更新 2006/6/2)上杉鷹山 1751年〜1822年。上杉治憲。 米沢藩(現在の山形県米沢市周辺)の藩主上杉重定の養子となり、危機的な状況にあった米沢藩の財政を改善するなど藩政改革を行った。「君主は民の父母である」、「為せば成る」との強い信念と高貴な人格により藩政改革を断行した名君とされる。現在の会社経営者や管理者などから、模範として尊敬されている。 置賜(おきたま)総合情報サイト★いーよね★ ≫ 複眼で読む上杉鷹山公秘話 国際派日本人養成講座 ≫ JOG(130) 人物探訪:上杉鷹山 (更新 2003/5/5)私の偉人だと思う人 とりあえず、名前のみ揚げておきます(順不同)。上に掲げた人物は、除きます。 アーノルド・J・トインビー(歴史学者) ヘロドトス 釈尊 孔子 ゾロアスター 始皇帝 フビライ ナポレオン フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) 聖徳太子 平清盛 織田信長 徳川家康 シェークスピア マルクス ヘーゲル ニーチェ デカルト ピタゴラス ニュートン ダーウィン アインシュタイン ハッブル 吉田松陰 勝海舟 西郷隆盛 坂本龍馬 高杉晋作 久坂玄瑞 伊藤博文 ガンジー マザー・テレサ 高橋是清 山本五十六 石原莞爾 ビスマルク チャーチル F・ルーズベルト ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判の判事) 吉田茂 明石康 サッチャー メルケル 李登輝(追加) 安倍晋三 稲田朋美 山中伸弥 西尾幹二(学者) 松下幸之助 土光敏夫 池上彰 水島総 黒澤明 手塚治虫 宮崎駿 庵野秀明 チャン・イーモウ(=張芸謀・中国の映画監督) ビートルズ マドンナ 中島みゆき 覚和歌子(作詞家) 野村克也 野茂英雄 イチロー 松井秀喜 田中将大 三浦知良(サッカー) 澤穂希(女子サッカー) 石川遼(ゴルフ) 錦織圭(テニス) 【LINK】 ◇偉人&史上最高最大の人・物ベスト100ランキング コンピュータ偉人伝 ちえの和webページ 偉人データベース (リンク切れ) 国際派日本人養成講座 ≫ 人物探訪:コロネル・シバ 1900年北京での多国籍軍司令官 義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦 |
更新 2014/2/28 |