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BC218年 第2次ポエニ戦争(〜BC201年)


 第1次ポエニ戦争でシチリア島を失ったカルタゴは、イベリア半島の開発に力を向けた。ハミルカム・バルカスはイベリア半島に渡り、原住民を征服し、銀山の開発などを行って富を蓄えた。彼の子が、有名なハンニバルである。
 ハンニバルは、陣営に生まれ、戦陣のなかで育った。幼い頃から、ローマに対する復讐心を燃やしていたという。BC221年に25歳で将軍に選ばれた彼は、さまざまな原住民からなる傭兵部隊をみごとに訓練した。この部隊には、象の部隊もあった。

 BC218年、イベリア半島の東海岸にあったローマの同盟市サグントゥムが内紛に陥ると、ハンニバルはこれを攻め、8か月の攻囲の末に陥落した。第2次ポエニ戦争のはじまりである。
 ハンニバルはイベリア半島から、ローマに向かって進軍を開始し、ピレネー山脈を越え、雪のアルプス山脈を越えた。ポー川の戦い・トラシメヌス湖畔の戦いでローマ軍を破ってイタリア半島を南下した。ローマ市よりも南側に回り込み、BC216年にはアドリア海側のカンネーで決死のローマ大軍を破り、BC211年にはローマ市に迫ったが戦線は膠着した。
 ハンニバルは、イタリア内部にあるローマの同盟市がローマから離反することをあてにしていたのであるが、これは期待はずれであった。BC207年に、ハンニバルの弟ハスドルバルが、大軍をひきいて援護に向かったが、密書がローマ軍に漏れ、メタウルス川の戦いで全滅させられてしまった。ハンニバルはしだいにイタリア半島南部へ追い込まれていく。

 一方、ローマ軍は開戦当初からイベリア半島を攻めていたが、BC206年(注:BC209年としている文献もある。)に将軍プブリウス・スキピオ(大スキピオ)がついにこれを制圧した。ローマに凱旋したスキピオは一気にカルタゴ本国を攻めることとなり、BC204年に北アフリカへ上陸、BC203年に北アフリカのヌミディア王国と連合してカルタゴ軍を破った。
 BC203年、カルタゴ本国政府は急遽ハンニバルの軍隊をイタリアからカルタゴ本国へ呼び戻し、再びローマとの決戦をいどんだがBC202年にザマの戦いで敗れた。

 BC201年にカルタゴはローマの提示した厳しい講和条件を受諾した。その内容は、カルタゴは20隻以外の全ての船をローマに引き渡し、50年間に渡って毎年200タレンタの賠償金を課すものであった。また、ローマの了解なしにアフリカ内の近隣国と開戦することも禁じられた。

 ハンニバルは将軍職を辞した後、BC196年に最高行政官であるスーフに選ばれて国制の改革を断行したが一部貴族の猛反発とローマの介入にあって翌年失脚し、シリアへ亡命した。シリアがローマに破れると逃避行を続けてローマへの反抗を続けるが、小アジアのビテュニアに亡命していた時、ローマの追っ手が身柄の引き渡しを求めたが、毒を仰いで自ら命を絶った。BC183年であった。



【参考ページ】
第1次ポエニ戦争
第2次ポエニ戦争(このページ)
第3次ポエニ戦争





参考文献
「世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教」弓削達著、河出文庫、1989年
「クロニック世界全史」講談社、1994年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「新制版 世界史辞典」前川貞次郎・会田雄次・外山軍治編著、数研出版、1983年


更新 2003/10/13

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