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391年 高句麗の広開土王(好太王)即位


 現存最古の朝鮮の歴史書「三国史記」でBC37年の建国と伝えられる高句麗は、中国の設置した遼東郡や周辺諸民族と激しい攻防を続けた。
 広開土王(在位391〜412・日本では好太王とも呼ぶ)の代になると、再び領土拡大をはかり、高句麗の最盛期を作りだした。
 広開土王の事跡などを記したが残っている。この碑文には記載されていないが、中国の遼東郡での攻防があり、それをもほぼ手中にしたようである。


【広開土王碑】
 広開土王碑は、現在の中国吉林省通化専区揖安県にあり、近くには将軍塚と大王陵(いずれも広開土王陵と比定)がある。高さ6.3メートル、幅1.4〜1.9メートルの四角柱状の角礫凝灰石で、碑文は3段からなり、第1段は高句麗の開国伝承と建碑の由来、第2段は広開土王の事跡、第3段は守墓人烟戸に関するものである。
 1880年に、苔蔓に埋もれていた碑を、この地の農民が発見し、翌年に清国の役人の関月山がその一部を拓本にとった。1884年、日本陸軍の砲兵大尉酒勾景信が日清戦争への諜報活動中にこの拓本を得て、その解読を参謀本部で行なった。倭・任那に関する碑文について改ざんを行なったのではないかという学説が出ている。

 第2段の「広開土王の事跡」の概要は次のとおり(「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著による)。
 395年、王はみずから碑麗(ひれい・沃祖地方)を討伐した。翌396年、王は水軍を率いて百済国を討った。その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、倭(注)が辛卯の年(391年)に海を渡り百済などを打ち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したにもかかわらずなお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻めた。百済王は多くの貢物をだし、家臣になることを誓ったので、王の弟などを人質として凱旋した。
 398年に息慎(そくしん・粛慎(しゅくしん))地方に出兵し、服属させた。翌年百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使が「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下とした。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。400年、5万の大軍を派遣して、新羅を救援した。新羅王都にいたると、その中にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
 404年、が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。407年には5万の大軍を派遣し、現在の京畿道北部で兜と鎧一万余領の戦利品を得るほど大勝した。410年には東扶余を討ってこれを服属させた。
(注:「倭」については、時代によって指すものが変化している。内蒙古地方の倭、中国南方の倭、南朝鮮の倭など。ここでは、南朝鮮の倭で加羅諸国を指すとする説と、日本の大和朝廷を指すとする説がある。)



【参考ページ】
BC37年 高句麗の建国
668年 高句麗の滅亡





参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2004/2/5

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cover 「古代朝鮮 NHKブックス 172 」
「朝鮮 地域からの世界史」
「三韓昔がたり」


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