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668年 高句麗の滅亡


 BC37年の建国とされる高句麗は、強力な中央集権体制を取り入れ軍事力によって遼東郡・鮮卑・扶余・新羅・百済など近隣の諸部族と戦いながら勢力を拡大していった。
 391年に即位した広開土王は、その事跡などを刻んだ碑文で有名であり、高句麗の最盛期を作り出した。
 427年には王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から大同江流域の平壌城へ遷して朝鮮半島への南下策を取り、新羅・百済および倭との勢力争いを優位に進めた。
 しかし、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり、による統一国家が成立すると、高句麗に対する攻撃が行われた。隋は3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、内乱が起こって自滅した。次のは3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結んで先に百済を滅亡させたのち、高句麗の国内事情をみて新羅との連合軍で4度めの攻撃を成功させ、ついに高句麗は滅亡した。


広開土王以降・中国が五胡十六国の時代
 427年、王都を丸都城(がんとじょう・現在の輯安(しゅうあん)付近・鴨緑江中流)から平壌城(大同江流域)へ遷す。
 551年、百済・新羅・加羅諸国の連合軍が、高句麗から、百済の旧王都の漢城地方を取り戻した。
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を奪った。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。


中国が隋の時代
 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに朝貢した。
 586年、都を平壌城の隣の長安城に遷した。
 589年に隋が陳を滅ぼして中国を統一すると、高句麗は警戒心を強めて隋の侵入に備えた。これに対して、高祖は国書を送って詰問している。高句麗もしばらくは自重していた。
 598年、高句麗は遼西へ侵入した。隋は高句麗を討とうとするが流行病が広がり、高句麗も謝罪使を送ったので、それまでとなった。

 612年、隋の煬帝は、200万人の大軍を送って高句麗の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)を包囲したがなかなか落とせず、一方、隋の水軍は山東半島から黄海をよこぎって平壌へ向かい、いったん高句麗軍を破るが、平壌城下で壊滅的な打撃を受けた。また、30万5千人の別働隊が鴨緑江河口に集結したが、巧みな戦術により徹底的に討たれてしまい、ついに隋軍は撤退した。
 翌613年、激怒した隋の煬帝は再度出兵し、機械兵器を動員して平壌城を攻撃したが、国内で反乱が起こり兵を引いた。
 翌614年、隋では度重なる出兵で民心が離れつつあり、各地で盗賊が横行し、徴募兵も十分集まらない状況にもかかわらず、3度目の出兵が決行された。高句麗は連年の戦いで疲労困憊しており、隋の要求を受け入れて講和したが、王みずからの朝貢などその約束を履行しなかった。
 617年、隋は4度目の出兵を計画するが、中国全土に農民反乱が起こって隋は崩壊した。


中国が唐の時代
 618年に即位した唐の高祖は、国内対策に追われた。
 624年、百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。
 641年、新羅の七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)などを攻めた。
 642年、新羅から唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と百済が襲った。
 百済に攻められた新羅は、金春秋(のちの太宗武烈王)みずから高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗は百済とともに新羅の領土を侵略しようとしており、彼を捕らえてしまうが同情する高句麗の家臣に助けられて脱出する。

 642年、泉蓋蘇文(せんがいそぶん)のクーデターが起こった。泉蓋蘇文の父が死んだとき、当然、彼が後を継ぐはずであるが、彼の残忍で横暴な性格のため貴族たちはその職につかせなかった。彼は貴族たちに哀訴して父の地位を得たが、案の定その凶暴さを発揮すると王は彼を左遷した。彼をかばっていた王の弟が死ぬと、彼を誅殺する密議がおこなわれた。これをもれ聞いた泉蓋蘇文は、そしらぬふりで大臣たちを招集し、配下の兵を総動員して有力者百余名を殺したうえ、王宮に乱入して王を殺し遺骸を切断して溝の中に捨てた。王の子を即位させ、自分は莫離支(ばくりし)という官職について後見人として全権を掌握した。

 645年、唐と新羅が高句麗に出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 655年、高句麗と百済の連合軍が新羅北部の33城を奪うと、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。
 658〜659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした

 660年、唐は水陸13万人、新羅軍5万人の大軍を動員して百済を攻めた。百済王はいったん王都の泗?城(しひじょう)から旧都の熊津城にのがれたが、降伏して百済は滅亡した
 百済の滅亡後も、664年まで、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けた勢力が執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。

 661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。
 666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、668年に降伏して高句麗は滅びた



【参考ページ】
BC37年 高句麗の建国
391年 高句麗の広開土王(好太王)即位





参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2004/2/10

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cover 「古代朝鮮 NHKブックス 172 」
「朝鮮 地域からの世界史」
「三韓昔がたり」


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