663年 白村江の戦い朝鮮半島の百済は、660年に、唐軍13万人と新羅軍5万人の連合軍に攻められ、百済王はいったん王都の泗沘城(しひじょう・錦江下流域)を捨てて旧都の熊津城(錦江中流域)にのがれたが、降伏して百済は滅亡した。 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。 なお、多くの百済人が日本へ亡命した。 【日本書紀の記述】 日本書紀に、大要次のような記事がある。 斉明天皇6年(660年) 百済の滅亡後、鬼室福信と余自進がそれぞれに、散らばった百済兵を集めて城を守った。鬼室福信は、唐人の捕虜百余人を日本へ送り、日本の援軍を乞うとともに、日本へ送られていた王子の余豊璋を迎えて国王としたいと伝えてきた。 斉明天皇7年(661年) 斉明天皇は、百済へ援軍を派遣するため筑紫(現在の福岡県)に移られたが、ここで亡くなった。のちの天智天皇が後を継ぎ、即位しないまま筑紫で政務をとり、百済への援軍と武器・食料を送らせた。その後、百済の王子豊璋に冠を授け、妻をめとらせたうえ、5千人の兵を添えて百済へ送った。百済では、鬼室福信が迎えて、豊璋に政務を任された。 天智元年(662年) 高句麗は、唐と新羅の連合軍に攻められて、日本に援軍を求めた。日本は兵を送って疏留城(そるさし・都々岐留山(つつきるのむれ))に構えたので、唐は南進できず、新羅は西進をはばまれた。日本が勅して豊璋を百済国王とし、また、福信の労をねぎらった。この年は、百済を救うために、武器を整え、船を準備し、兵糧を蓄えた。 天智2年(663年) 日本から2万7千人を派遣した。百済王の豊璋は、福信に謀反の心があるのを疑って、福信を斬り殺させた。良将であった福信が斬られたことを知った新羅は、百済王のいる州柔(つぬ)を取ろうとした。この計画を知った百済王は、自分は日本の援軍を白村江(錦江の河口付近)で迎えてくると諸将に告げて城を出た。その後に、新羅が城を囲んだ。また、唐の軍船170艘が白村江に陣をしき、日本の先着した水軍はこれに敗れた。翌日、日本軍と百済王は、隊伍の乱れた中軍を率いて作戦もなく先陣を争って戦い、唐軍に左右から船をはさんで攻撃され、大敗を喫した。百済王は数人と船に乗り、高句麗へ逃れた。その後、州柔城も降伏した。日本軍と余自進を含めた多くの百済の人々が、日本へ引き上げた。この年 、対馬・壱岐・筑紫国などに防人(さきもり)と烽(すすみ・のろし台)を置き、筑紫に大堤を築いて水を貯えた。 【参考ページ】 346年 百済の建国 660年 百済の滅亡 【LINK】 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える ≫ 朝鮮半島南部の前方後円墳&任那日本府&ヒスイ製勾玉は糸魚川のみ産地(2012年3月17日付) 縄文と古代文明を探求しよう! ≫ NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映(2009年6月17日付) News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース ≫ 韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ 今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」(2013年5月1日付) |
このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図 武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)] 純陀太子 在日1世(日本に人質に) 斯我君 在日2世 法師君 在日3世 雄蘇利紀君 在日4世 和史宇奈羅 在日5世(和氏に改名して日本に帰化) 和史粟勝 在日6世 和史浄足 在日7世 和史武助 在日8世 和史乙継 在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る) 高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)] ・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。 彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。 逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。 ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。 また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。 さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。 そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。 』 |
参考文献 「日本書紀(下)全現代語訳」宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年 「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「世界文化史年表」芸心社、1990年 更新 2013/5/2 |
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