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346年ころ 百済の建国


 朝鮮半島の南西部にあった馬韓の一小国であった伯済(はくさい・ペクジェ)が、周囲の小国を統合して支配下に置き、慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡・後に漢山城へ移る)を都として、百済(くだら・ペクジェ)に発展した。
 伯済の国名は「魏志」韓伝に見え、百済の国名がはじめて現れるのは「晋書」の帝紀咸安二年(372年)正月の条で、このとき百済の近肖古王が東晋に朝貢している。
 346年は、近肖古王の即位の年である。
(注:ただし、近肖古王は、第13代の王とされている。)


百済の建国伝説
 高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだので、弟の沸流(ふつりゅう)と温祚(おんそ)は高句麗を出て自分たちの国を建てようと南へ向かった。10人の臣下大勢の百姓がこれに伴った。
(注:「三国史記」の別伝によると、沸流と温祚は朱蒙の実の子ではなく、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘で召西奴の連れ子としている。)
 やがて漢山(かんざん・現在の京幾道広州郡)へたどり着き、2人は臣下とともに負児岳(ふじがく)という高い山の頂にのぼって周囲を見渡した。沸流は、海の見える方が気に入った。しかし、10人の臣下は口をそろえて反対し、「それよりも、こちらの方です。北に江が流れ、東に山をひかえ、南は平野、西は海、こんな究竟な、よい場所はありません。都はぜひ、こちらへお建てになることです。」そういって勧めたが、沸流はどうしても聞かない。百姓たちを半分にわけて、自分だけ海辺の方へ都を置くことになった。弥鄒忽(みすこつ・現在の仁川)である。弟の温祚は臣下たちの意見に従って、漢山の慰礼城(いれいじょう・現在の京畿道広州郡)に都を定めた。10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼ぶことになった。
 弥鄒忽は土地が湿っているうえ水が塩辛く、百姓たちもさんざん苦労を重ねた。沸流が弟のようすを見に慰礼城へ来てみると、何の不足もなく幸せに暮らしている。自分を恥じた沸流は、それを苦にして病となり亡くなった。それで百姓たちは慰礼城へ移り、人民が増えたので、国号を「百済」に改めた。
 百済は、ここから領土を広げて大きくなった。
(注:実際には、百済として大きな勢力となったのは、高句麗の建国よりも約400年のちのこととみられる。)


中国が五胡十六国の時代
 346年、近肖古王の即位。
 近肖古王の代に、博士高興が文字の記録を始めた。
 367年、百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。)
 371年、高句麗の平壌城をせめて占拠した。このとき、高句麗の古国原王は流れ矢にあたって戦死した。(注:高句麗が百済を攻めてきて、これを撃破したとする文献もある。)

 372年、東晋へ朝貢。百済王余句(近肖古王)が鎮東将軍領楽浪太守の号を授けられる。
 同372年、日本へ使節を送り「七支刀(しちしとう)」を贈った。(「日本書紀」の神功皇后52年の条)
 同372年、慰礼城から漢山城(現在の京畿道広州郡・慰礼城と約6.5kmしか離れていない)へ遷都した。
 377年、北朝の前秦へも朝貢。
 384年、西域の僧侶摩羅難陁(まらなんだ)が東晋を経て百済に渡り仏教を伝える。
 387年、東晋から、百済の太子余暉が使持節都督鎮東将軍百済王の号を授けられる。

 391年、倭が海を渡り百済などを打ち破って臣下とした。(広開土王碑の碑文から)
 396年、高句麗の広開土王が、平壌城を奪い返す。
 397年、倭と結んで高句麗と戦うため、百済の太子腆支を倭国へ送る。
 402年、百済から倭国へ使者を送る。
 403年、倭国から百済へ使者を送る。
 404年、倭軍が帯方界(現在の黄海道)まで進出する。(広開土王碑の碑文から)
 405年、百済の阿莘王が死去したので、倭国へ送られていた太子腆支が帰国を許され倭人を伴って国境まで来ると、都の解注という者が報告して言うには、「太子の弟の訓解(くんかい)が摂政をして太子の帰りを待つ間に、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して王となっている。太子は軽々しく入国しないでください。」という。そこで、太子は倭人とともに島にたてこもり、その間に貴族たちが碟礼を殺し、太子を迎え入れて腆支王となった。
 416年、東晋から、百済王余映(腆支王)が同様に鎮東将軍百済王の号を授けられる。
 420年、から、百済王余映が使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王の号を授けられる。
 「宋書」東夷百済国伝に、高句麗がほぼ遼東郡を支配し、百済が遼西郡をほぼ支配した、との記述がある。一見不自然であるが、百済は海上交通の技術に優れ、一時的に遼西郡を侵略したのではないかという。

 475年、高句麗の長寿王が3万の兵で百済の王都漢城を包囲し猛攻した。百済の蓋鹵(がいろ)王は脱出しようとして捕らえられた。攻められる前に子の文周らを南に逃した。文周らは熊津(ゆうしん・現在の忠清南道公州邑)に都を置いた。
 478年、大臣の解仇が刺客を放って文周王を殺し、13歳の三斤が王となる。
 479年、解仇らが反乱を起こし、三斤王は真一族の援けを受けて解仇らを討ち取った。
 次の東城王は、新羅との関係を緊密にし、南へ領土を広げた。
 501年、東城王が、加林城主に任じられたことを不満とした臣下に殺されると、武寧王が立ってこれを討った。

 512年、百済が日本へ使節を送り、任那4県の割譲を要請し、認められる。(「日本書紀」の継体天皇6年の条)
 513年、百済の将軍らと五経博士(儒教の博士)を日本に派遣し、判跛国(はへこく(はひこく)・現在の慶尚北道星州郡)が百済の己汶(こもむ・現在の全羅北道南原郡と任実郡および全羅南道谷城郡)地方を奪ったので審判のうえ返還してほしいと申し出た。判跛国も珍宝を日本に献じて、己汶の地を与えてくれるよう願い出たが、日本は己汶と帯沙(たさ・現在の慶尚南道河東郡)を百済の領有と認めた。(「日本書紀」の継体天皇7年の条)
 514年、判跛国は帯沙と子呑(ことむ・位置不明)に城を築き、各地にのろし台を作って日本にそなえた。また、新羅にも侵入して被害を与えている。(「日本書紀」の継体天皇8年の条)
 515年、百済から日本への使節であった将軍らが帰国を願い出たので、物部連を伴って帰国させると、判跛国が軍備を増強しているとの情報を聞き、使節の将軍らは新羅を通って帰国させ、物部連は500人の海軍を率いて帯沙江へ行ったが判跛国軍の襲撃を受け命からがら逃げ延びた。(「日本書紀」の継体天皇9年の条)
 516年、百済は物部連らを己汶で迎え入れ、多くのねぎらい物を与えた。帰国の際には、新たな五経博士を送って先の博士と交代させた。また、これとは別に百済の使節が高句麗の使節を連れて日本へ行った。(「日本書紀」の継体天皇10年の条)
 538年、百済から日本へ仏教が伝えられた。

 538年、都を熊津から泗沘(しひ・現在の忠清南道扶余郡扶余邑)に遷した。錦江によって25kmくだったところで、要害の地から平野を見下ろす丘陵に移った。
 551年、百済の聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧王都の漢城地方を取り戻した
 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、漢城地方を新羅に奪われた。百済と加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。

 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅郡を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。
 562年、加羅諸国が新羅に占領される。


中国が隋の時代
 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに 朝貢した。
 百済は、隋が成立すると、しきりに高句麗を討つよう要請している。
 597年、百済の王子阿佐を日本に派遣する。(「日本書紀」推古天皇5年の条)


中国が唐の時代
 618年、唐が成立する。
 624年、百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。

 636年、漢江流域の孤立をねらって、新羅の独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を襲う。
 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 642年、百済は、新羅の国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を奪い、さらに新羅の唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗とともに襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を奪って、大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻を殺した。

 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅が呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に百済は新羅の西部と加羅地方を侵略した。
 655年、高句麗と百済の連合軍が、新羅の北部の33城を奪い、新羅は唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。

 658〜659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした
 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し、山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう・錦江の下流域)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城(錦江の中流域)にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した
 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊璋などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間にわたって唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗した。古名をとって、「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。



【参考ページ】
660年 百済の滅亡
663年 白村江の戦い

BC37年 高句麗の建国
391年 高句麗の広開土王(好太王)即位
356年 新羅の建国



【LINK】
LINK 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の利権を現場で考え真実を伝える朝鮮半島南部の前方後円墳&任那日本府&ヒスイ製勾玉は糸魚川のみ産地(2012年3月17日付)
LINK 縄文と古代文明を探求しよう!NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映(2009年6月17日付)
LINK News U.S. 中国・韓国・在日朝鮮人崩壊ニュース韓国人「日本人は百済系だからウリ達と兄弟ニダ!!」 ← バカ  今の韓国人は百済とは何の関係もなし!!!!! そもそも日本は百済を統治する立場に!!!!! 劣等遺伝子民族は真の歴史を知り発狂憤死すべきである!!!! 2ch「天皇が半島の子孫なら、なぜ『日王』などと呼ぶのか。嘘と妄想と手のひら返しを繰り返しすぎだろ」(2013年5月1日付)
 このサイトのコメントとして、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。
『★現天皇のゆかり発言で有名になった桓武天皇の母親の高野新笠の系図
武寧王[461年日本生まれ第25代百済王(在位501-523年)]
純陀太子  在日1世(日本に人質に)
斯我君   在日2世
法師君   在日3世
雄蘇利紀君 在日4世
和史宇奈羅 在日5世(和氏に改名して日本に帰化)
和史粟勝  在日6世
和史浄足  在日7世
和史武助  在日8世
和史乙継  在日9世(娘を天皇家に嫁がせて高野姓を賜る)
高野朝臣新笠 在日10世―桓武天皇[第50代天皇(在位781-806年)]
・・・つまり桓武天皇の母親の高野新笠は10代前に渡来し、6代前に日本に帰化した百済系10世なのです。
彼女の百済系の割合は1/(2^10)=0.00098。パーセントにすると0.098%となります。
逆に日本系の割合は99.902%で、血筋から見ても帰化している事から見ても正真正銘の日本人です。
ましてや125代の今上天皇との関係は「0」と言って差し支えありません。
また「百済≠韓国」である事も強調しておきます。
さらに「武寧王の父の東城王は日本(倭)からやって来た」と韓国の古文書に書かれている事も付け加えておきます。
そして桓武天皇が即位したのは781年・・・つまり660年百済滅亡の121年後なのです。百済の政治的な関わりは「0」です。 』





参考文献
「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年
「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年
「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年
「三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年
「物語 韓国史」金両基著、中公新書、1989年
「日本書紀(上)全現代語訳」宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年
「クロニック世界全史」講談社、1994年


更新 2013/5/2

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cover 「古代朝鮮 NHKブックス 172 」
「朝鮮 地域からの世界史」
「三韓昔がたり」
「物語 韓国史」


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