1592年 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)日本の国内統一を終えた豊臣秀吉は、海外の国をも支配下に置こうと考えるようになった。その初めとなるのが、朝鮮であった。当時の朝鮮は、李氏朝鮮で第14代宣祖王のときである。 豊臣秀吉は、朝鮮のほかにも、ポルトガル領インドのゴア、呂宋(ルソン。現在のフィリピン。)、高山国(現在の台湾)へも入貢をうながしている。 朝鮮に入貢を求めて拒否されると、1592年3月12日、日本は約15万の大軍で朝鮮を攻めた(日本では「文禄の役」、朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ぶ。)。 朝鮮軍は鉄砲を持たず、防衛体制も整っていなかったため、連戦連敗で、首都の漢城(現在のソウル)や平壌を落とし窮地に陥った。朝鮮は明に援軍を求め、平壌は一時奪還された。 ただし、海上では亀甲船などを考案した朝鮮の李舜臣が制海権を確保し、陸上でも在地両班や義兵による抵抗が行われた。 明と日本の間で和議交渉が行われたが決裂し、秀吉は再度の遠征を指令した。 【会戦までの経緯】 1587年(天正15年)、対馬の家臣である柚谷康広(ゆずたにやすひろ)を使者として、朝鮮に入貢を求めたが拒否された。 1588年(天正16年)、宗義智と僧玄蘇(げんそ)をつかわし、強行に使者の来朝を求めた。朝鮮は、倭寇と行動をともにする朝鮮の叛民の沙火洞(しゃかどう)の逮捕送還を条件とした。豊臣秀吉は、これを捕らえさせ、倭寇の首魁若干と倭寇が捕虜としていた朝鮮人160人をそえて朝鮮に送った。これにより、朝鮮の使者として黄允吉と金誠一が来朝した。1591年(天正19年)、柳川調信らがこの使者を送って朝鮮におもむき、秀吉の意を伝えたが、朝鮮王はきかなかった。 秀吉は出兵の意を固め、翌年春の出兵とし、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に築城して基地とすることを決めた。 一方、朝鮮王も秀吉の襲来に備えて、全羅道・慶尚道の城邑を増築・修備させた。 【会戦】 1591年(天正19年)9月に、秀吉は諸将に対して準備命令を出した。12月には、秀吉は朝鮮の役に専念するため関白を辞し、豊臣秀次を関白とした。 1592年(文禄元年)1月、諸将に出陣を命じた。2月、朝鮮に最後の使者を送ったが、返報はなかった。日本の先鋒隊は対馬まで渡り、3月12日に進撃となった。 一番隊は、同年3月12日には釜山浦に入港、13日に釜山鎮城を攻め落として、戦闘が始まった。軍の編成は、次のようになっていた。 ・1番隊 小西行長・宋義智ら 1万8700人 ・2番隊 加藤清正・鍋島直茂ら 2万2800人 ・3番隊 黒田長政・大友義統 1万1000人 ・4番隊 島津義弘ら 1万4000人 ・5番隊 福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親ら 2万5000人 ・6番隊 小早川隆景・小早川秀包ら 1万5000人 ・7番隊 毛利輝元 3万0000人 ・8番隊 宇喜多秀家 1万0000人 ・9番隊 羽柴秀勝・細川忠興 1万1500人 合計 15万8000人 さらに、徳川家康・前田利家・上杉景勝・伊達政宗らは、10余万の兵で名護屋に布陣した。豊臣秀吉自身も渡海の意思を示していた。 上陸部隊は、釜山から漢城(現在のソウル)に向けて進撃、連戦連勝であった。5月1日に朝鮮国王は漢城をすて、平壌へ向かった。3日に日本軍が漢城に入った時には、朝鮮の退却軍に火をかけられて焦土と化していた。 日本軍は、漢城から手分けして各地の制圧に向かった。旧都の開城を落とし、平壌も戦わずして手中にした。 秀吉は6月3日、明に向かっての進撃体制を整えるため、軍の編成を改めた。 ここにいたって、明は、朝鮮もしきりに援軍を要請してくることから、祖承訓の軍隊を救援に向かわせた。祖承訓は朝鮮北西部の国境を越えて南下、7月16日には平壌を襲ったが、日本軍はこれを撃退した。 8月30日、講和派の小西行長は講和使節の沈惟敬と50日間の休戦協定を結んだ。1593年(文禄2年)1月5日、明はあらたに李叙松と4万の大軍で平壌の小西行長を囲み、小西行長は陣を引いた。開城の軍も漢城へ引き、漢城へ李如松の軍がせまると、邀撃してこれを破った。 また、漢城では飢饉のため兵糧が欠乏し、講和の気運が高まった。小西行長・石田三成・増田長盛の三奉行は、4月18日に明の使者を伴って撤収し、5月15日に名護屋に戻った。 【講和交渉】 秀吉はこの使者を厚く饗すとともに、次の7か条の条件を提示した。 1 明の皇女を迎えてわが后妃とする。 2 勘合貿易を復活する。 3 日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞をとりかわす。 4 上の条目を領納すれば、朝鮮を南北に分かち、朝鮮の北部4道と国都を返還する。 5 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。 6 去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す。 7 朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。 しかし、小西行長はなんとしても講和を成功させようと策謀し、明使節の沈惟敬と図って、明廷への国書を、秀吉が封建を求めて和を結ぶものにすりかえた。 明王からは、次の3つを条件として和好を約するとしていた。 1 日本兵はことごとく帰国する。 2 すでに封ずるも貢をあたえず。 3 朝鮮を侵すことなきを誓う。 1596年(慶長元年)9月1日に日本で使節の引見が行われた、翌日明王の国書を読み上げさせた秀吉は、その違いに気付いて激怒し、和約は破れて、即日再征の令がくだされた。 【参考ページ】 1597年 豊臣秀吉の二度目の朝鮮出兵(慶長の役)参考文献 「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著、中公文庫、1974年 「地域からの世界史1 朝鮮」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「年表式日本史小辞典」芳賀幸四郎監修、文英堂、1988年 更新 2004/1/25 |