1592年 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)日本の国内統一を終えた豊臣秀吉は、海外の国をも支配下に置こうと考えるようになった。その初めとなるのが、朝鮮であった。当時の朝鮮は、李氏朝鮮で第14代宣祖王のときである。 豊臣秀吉は、朝鮮のほかにも、ポルトガル領インドのゴア、呂宋(ルソン。現在のフィリピン。)、高山国(現在の台湾)へも入貢をうながしている。 朝鮮に入貢を求めて拒否されると、1592年3月12日、日本は約15万の大軍で朝鮮を攻めた(日本では「文禄の役」、朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ぶ。)。 朝鮮軍は鉄砲を持たず、防衛体制も整っていなかったため、連戦連敗で、首都の漢城(現在のソウル)や平壌を落とし窮地に陥った。朝鮮は明に援軍を求め、平壌は一時奪還された。 ただし、海上では亀甲船などを考案した朝鮮の李舜臣が制海権を確保し、陸上でも在地両班や義兵による抵抗が行われた。 明と日本の間で和議交渉が行われたが決裂し、秀吉は再度の遠征を指令した。 【豊臣秀吉の構想】 豊臣秀吉は、中国のみならず、天竺(インド)まで勢力を伸ばすことを考えていたらしい。 西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」p26 から引用します。なお、引用文中の (注)は当サイト管理人による注で、引用文中の太字も、当サイト管理人が施したものです。 |
文禄元年(一五九二年)、日本軍は釜山に上陸し、わずか二十日あまりで漢城(現在のソウル)を占領した。陣営をおいた名護屋(注:九州の北部にあった。現在は佐賀県。)で勝利の報に接した秀吉は、関白秀次宛てに書状を送り、彼の壮大な世界征服計画を明らかにした。要点をまとめると次のようになる。 大唐の都北京に後陽成天皇を移す。明後年には天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十カ国を渡す。日本の国内の天皇には、皇太子良仁親王か弟帝智仁親王かのいずれかどちらでもよい。日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家のいずれかとする。朝鮮には織田秀信か宇喜多秀家をおき、九州は羽柴秀俊。また朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家かに支配させる。そして秀吉自らは、まず北京に入り、その後、寧波(ニンポー)(注:中国中部(現在は浙江省)にある都市。)に居を定める。そこから諸侯各位に、予(よ)が命令せずとも天竺(インド)を好き勝手に切り取らせるようにする。 |
西尾幹二氏は、このあと更に、秀吉が文禄二年(1593年)にマニラ総督に宛てた書状などを引用して、秀吉は「東アジアの大帝国を築」いて「スペインのフィリップ2世に対抗しようとしていた」とみている。(出典:西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」p28-37。) 【会戦までの経緯】 1587年(天正15年)、対馬の家臣である柚谷康広(ゆずたにやすひろ)を使者として、朝鮮に入貢を求めたが拒否された。 1588年(天正16年)、宗義智と僧玄蘇(げんそ)をつかわし、強行に使者の来朝を求めた。朝鮮は、倭寇と行動をともにする朝鮮の叛民の沙火洞(しゃかどう)の逮捕送還を条件とした。豊臣秀吉は、これを捕らえさせ、倭寇の首魁若干と倭寇が捕虜としていた朝鮮人160人をそえて朝鮮に送った。これにより、朝鮮の使者として黄允吉と金誠一が来朝した。1591年(天正19年)、柳川調信らがこの使者を送って朝鮮におもむき、秀吉の意を伝えたが、朝鮮王はきかなかった。 秀吉は出兵の意を固め、翌年春の出兵とし、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に築城して基地とすることを決めた。 一方、朝鮮王も秀吉の襲来に備えて、全羅道・慶尚道の城邑を増築・修備させた。 【会戦】 1591年(天正19年)9月に、秀吉は諸将に対して準備命令を出した。12月には、秀吉は朝鮮の役に専念するため関白を辞し、豊臣秀次を関白とした。 1592年(文禄元年)1月、諸将に出陣を命じた。2月、朝鮮に最後の使者を送ったが、返報はなかった。日本の先鋒隊は対馬まで渡り、3月12日に進撃となった。 一番隊は、同年3月12日には釜山浦に入港、13日に釜山鎮城を攻め落として、戦闘が始まった。軍の編成は、次のようになっていた。 ・1番隊 小西行長・宋義智ら 1万8700人 ・2番隊 加藤清正・鍋島直茂ら 2万2800人 ・3番隊 黒田長政・大友義統 1万1000人 ・4番隊 島津義弘ら 1万4000人 ・5番隊 福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親ら 2万5000人 ・6番隊 小早川隆景・小早川秀包ら 1万5000人 ・7番隊 毛利輝元 3万0000人 ・8番隊 宇喜多秀家 1万0000人 ・9番隊 羽柴秀勝・細川忠興 1万1500人 合計 15万8000人 さらに、徳川家康・前田利家・上杉景勝・伊達政宗らは、10余万の兵で名護屋に布陣した。豊臣秀吉自身も渡海の意思を示していた。 上陸部隊は、釜山から漢城(現在のソウル)に向けて進撃、連戦連勝であった。5月1日に朝鮮国王は漢城をすて、平壌へ向かった。3日に日本軍が漢城に入った時には、朝鮮の退却軍に火をかけられて焦土と化していた。 日本軍は、漢城から手分けして各地の制圧に向かった。旧都の開城を落とし、平壌も戦わずして手中にした。 秀吉は6月3日、明に向かっての進撃体制を整えるため、軍の編成を改めた。 ここにいたって、明は、朝鮮もしきりに援軍を要請してくることから、祖承訓の軍隊を救援に向かわせた。祖承訓は朝鮮北西部の国境を越えて南下、7月16日には平壌を襲ったが、日本軍はこれを撃退した。 8月30日、講和派の小西行長は講和使節の沈惟敬と50日間の休戦協定を結んだ。1593年(文禄2年)1月5日、明はあらたに李叙松と4万の大軍で平壌の小西行長を囲み、小西行長は陣を引いた。開城の軍も漢城へ引き、漢城へ李如松の軍がせまると、邀撃してこれを破った。 また、漢城では飢饉のため兵糧が欠乏し、講和の気運が高まった。小西行長・石田三成・増田長盛の三奉行は、4月18日に明の使者を伴って撤収し、5月15日に名護屋に戻った。 【講和交渉】 秀吉はこの使者を厚く饗すとともに、次の7か条の条件を提示した。 1 明の皇女を迎えてわが后妃とする。 2 勘合貿易を復活する。 3 日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞をとりかわす。 4 上の条目を領納すれば、朝鮮を南北に分かち、朝鮮の北部4道と国都を返還する。 5 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。 6 去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す。 7 朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。 しかし、小西行長はなんとしても講和を成功させようと策謀し、明使節の沈惟敬と図って、明廷への国書を、秀吉が封建を求めて和を結ぶものにすりかえた。 明王からは、次の3つを条件として和好を約するとしていた。 1 日本兵はことごとく帰国する。 2 すでに封ずるも貢をあたえず。 3 朝鮮を侵すことなきを誓う。 1596年(慶長元年)9月1日に日本で使節の引見が行われた、翌日明王の国書を読み上げさせた秀吉は、その違いに気付いて激怒し、和約は破れて、即日再征の令がくだされた。 【景福宮の焼失】 1592年の文禄の役において、李氏朝鮮の国王が漢城(現在のソウル)の景福宮(王宮)を脱出したあと、日本軍の入城を前に、朝鮮の民衆によって略奪・放火されて焼失した。その後、離宮の昌徳宮が使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。(出典: 景福宮 - Wikipedia ) |
(注:李氏朝鮮の開祖李成桂は1392年に開城で即位し、1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)へ遷都し1395年から景福宮が正宮として使用された。1553年に大火によって焼失し、1592年の文禄の役において再び焼失した。 のちに興宣大院君が景福宮の再建を行い、1868年に王宮を景福宮に移した。閔妃が大院君から政権を奪った年(1873年)の12月(注:呉善花著「韓国併合への道」p124では、1876年末としている。)に「閔妃の寝殿に仕かけられた爆弾」によって出火、火災が発生して景福宮の多くの建物を焼失したため、高宗王夫婦は昌徳宮に移った(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p91)。1885年3月(出典:呉善花著「韓国併合への道」p124)に景福宮に戻り、 1895年の乙未事変(このとき閔妃が殺害された。)も景福宮で起きている。1896年の露館播遷で高宗がロシア公使館へ逃げ込んだ後、1897年から慶運宮(徳寿宮の当時の名称)が使われた。1907年に純宗が即位して昌徳宮を王宮とする。1910年の日韓併合により朝鮮の王制が廃止され、純宗は日本の皇室となった。その後、景福宮の敷地に朝鮮総督府の庁舎が建てられた(1925年完成)。 景福宮 - Wikipedia 昌徳宮 - Wikipedia ・角田房子著「閔妃暗殺」p91 ・呉善花著「韓国併合への道」p124 ) (参考) カイカイ反応通信 ≫ 韓国人「景福宮の苦難の歴史」 - 日本などが及ぼした影響(2013年5月28日付) |