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1945年 当サイト管理人の叔父が樺太で戦死



 1945年(昭和20年)8月20日樺太(サハリン)西岸の日本海に面した港町「真岡」(現在は「ホルムスク(Kholmsk)」)に、ソ連の軍艦が現れ、艦砲射撃を始めた。日本は原爆の投下を受け、8月15日にポツダム宣言を受諾し無条件降伏していたため、 8月14日にポツダム宣言を受諾する旨を連合国に通知して降伏していたため(注)日本軍は反撃に出るわけにもいかず、対応に苦慮することとなる。
(注: 日本政府は8月10日に、国体護持を条件としてポツダム宣言を受諾することを、中立国のスウェーデンとスイスを通じてイギリス、アメリカ、ソ連、中国の4か国へ伝えた。その後、8月14日の御前会議で、国体護持がポツダム宣言の第12条に含意されているものと解釈して、ポツダム宣言の受諾を決定し、同日にスイスの加瀬俊一公使(注:重光葵に随行して降伏文書の調印式に参列した加瀬俊一とは、同姓同名の別人。)から4か国へ伝えられた。翌8月15日正午に昭和天皇の玉音放送がラジオで放送され、日本国民へ終戦が知らされた。なお、休戦協定(降伏文書)への署名は、9月2日です。
 また、ポツダム宣言の条件を受諾して降伏したのであって、無条件降伏したとするのは戦後の自虐史観であって誤りだと当サイト管理人は考えます。
 1945年 日本がポツダム宣言を受諾して降伏 を参照のこと。 )

 真岡の荒貝沢にあった歩兵第二十五連隊第一大隊は、上陸して戦闘を続けるソ連軍に対して、停戦軍使を派遣することを決定した。当サイト管理人の叔父(母の兄)である市原俊美伍長は、軍使護衛の任にあたった1人であった。

「真岡周辺の地図」 「樺太南部の地図」 「真岡での戦闘略図」 現代の地図


  下に引用した文章は、市原伍長の養母(当サイト管理人の祖母で、市原伍長の実母が死んだあとに、その妹である祖母が後妻に入っていた。)が、戦後に受け取った資料です。活字になっているため、なにかの本となったものから関係する部分をコピーしたもののようです。
 当サイト管理人が、図書館で調べたところ、この記述に類似する記載のある書籍(歩兵二十五連隊の足跡を記載したもの)をみつけたが、表現はかなり違うものでした。
 少し長文ですが、細部まで記載されており、胸を打つものがあるため、ここに記載させていただきます。

 また、この同じ日(1945年8月20日)に、真岡郵便局の女性職員(電話交換手)9人が集団自決をしているので付言しておきます。北海道稚内市の高台にあり樺太を望める稚内公園に「九人の乙女の碑」が建立されています。また、『氷雪の門』と題して映画化もされています。書籍としては、川嶋康男著『「九人の乙女」はなぜ死んだか』恒友出版にくわしい。


 以下に引用した文章について、「樺太1945年夏」という本ではないかとの御指摘をいただいていますが、いまだに調査・確認はしておりません。 これに間違いないことを確認いたしました。
 「樺太1945年夏」金子俊夫著、講談社、1972年(p293-301)からの引用です。
 なお、文中の太字赤字は、当サイト管理人が施したものです。


      停戦軍使射殺さる

  荒貝沢の第一大隊は、大隊本部のほかに第一中隊第三小隊、第二中隊(第一小隊欠)、第一機関銃中隊(第一小隊欠)、第一大隊砲小隊、それに十九日上敷香から南下した田代小隊(第一大隊残留者で編成)と十八日旭川から第三中隊に着任した大和田郷少尉が、同中隊残留者で編成した一個小隊があり、のちに工兵八八連隊大四中隊の竹本小隊(竹本秀雄見習士官)が二十日朝、豊原をたって荒貝沢に急行していた。この兵力のうちから十八日には約一割の古年次兵が除隊していた。第一機関銃中隊人事係岡崎准慰は、同中隊で約四十人が除隊し、樺太関係者で家族の消息がつかめない者などはこの朝までに中隊に復帰し、その後の戦闘で戦死者も出たというが、一個中隊の人員が、七、八十人に減ってしまったところもあり、比重としては戦闘訓練の未熟な兵がふえるということにもなった。

 二十日早朝、ソ連の軍艦が霧の中に見えたという報告がはいったとき、各隊は、武装解除の準備にかかっていた。大隊長命令で将校斥候として岩瀬少尉が兵を率いて出ていった。同少尉らはその後ついに戻らなかったが、真岡の状況は連隊砲の広瀬分隊などからくわしく報告された。仲川大隊長は、しかし、発砲を厳にいましめるだけであった。

 各隊はあわただしく沢の両翼の陣地の配備についた。無意味な時間が流れていった。と、そのとき、上空を走る雷のような弾道音が一斉に起った。
 重い霧は谷間に沈殿して、大隊本部付近では視界三十五メートルほどであったが、上空は薄霧で、その中に艦砲射撃で真岡市街の一角が炎上したらしく、黒煙の立ちのぼるのが望見された。そしてやがて、豊真山道をこの荒貝沢めざして住民がなだれをうって避難してくるのが見えた。

 避難民の中にはこの朝、引き揚げ船に乗り込むばかりに用意していた人たちもいた。しかし、寝巻き姿のまま、胸もとをはだけ、はだしのままの人たちも多かった。砲声に驚いて寝巻にゲタのまま飛び出したものの、着替えにもどることもできなかったのであろう。途中、ゲタを捨てて血だらけの足で集団からおくれまいと必死の形相の人たちもいた。

 大和田少尉は、この朝疎開荷物の荷役などの作業隊長として出発することになっていたが、この人たちをみると、武装解除のため道ばたに積み上げてあった軍服などの山に駆け上がり、「その格好では逃げ切れるものではない」とズボンやシャツ、軍靴などをやり、恐怖にゆがんだ顔に「ここはわれわれ軍が食い止める。一刻も早く豊原まで行きなさい」と声をかけてやったという。

 そのころ、後方の逢坂では、艦砲射撃の音ですでに山沢連隊長以下がソ連軍の攻撃を知っていた。山沢連隊長は、遠雷のような音、その弾道音、炸裂音によって数隻による艦砲射撃だと判断、ふとんをけって起きたという。当時、同連隊長が宿所にしていた逢坂郵便局長広瀬貞さん宅では、きみ夫人が交換台についているときに「ゴーゴーという遠鳴りを聞いたが、その直後、真岡から師団司令部にかかった電話を聞いて艦砲射撃であることがわかった。すぐ山沢さんに知らせようとして部屋に行くと、山沢さんは軍服をつけ、乗馬の用意を待てず、軍刀を片手に歩いて逢坂国民学校の連隊本部に向かうところだった」と語っている。

 連隊長は直ちに各部隊に配置につくように指示したが、第一線の仲川大隊長からの報告がはいったのとほとんど同時であった。連隊長は仲川大隊長に対しては直ちに、師団の従前からの指示に基づき、速やかに軍使を派遣することを命令した。

 真岡が艦砲射撃ばかりでなく、機銃の掃射を受けて、火災が発生し、住民の中に死傷者が続出していることははっきりしていた。しかし、仲川大隊長は交戦を許さず、現場待機を命じ続けた。そして、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近に見え始めたとの報告を受けた午前七時半、霧などによる不測の事態の起ることも心配されたが、これ以上おくれては荒貝沢の第一大隊との間に戦闘が避けられないと判断、軍使村田徳中尉の派遣を決定、村田中尉以下の随員、護衛兵を本部前に集合させ、訓示のあと訣別の水さかずきをかわし、これを送り出したのであった。

 この軍使派遣の模様を、仲川大隊長の手記「涙でつづる血の戦記」でみてみよう。(このなかで日時などの点については、ほかの資料によって訂正し、ことばを平易にしたことを、あらかじめおことわりしておく)

 十九日夜、ソ連軍が上陸した場合、事態を穏便に収拾するため軍使を派遣することに決し、その人選に腐心した。
 同夜の気象状況より推測し、明朝は濃霧の発生もあろうかと判断し、その中では不測の事態が起るかもしれないという予感がしたため、軍使村田副官以下の人員を決定し、軍使の口上文は日ソ両国語の二通りを通信紙に記述し、白旗も濃霧の中で軍使であることをたやすく確認できるように敷布大のものを携行せしめるなど、万般の準備をした。ときに二十日午前三時半ごろだった。

 軍使、大隊副官村田中尉、随員前岡軍曹(大隊本部書記)、通訳金山軍曹(朝鮮出身者)、兵七人、軍犬一。この軍犬は不測の事態が起ったとき放つためのものであった。

 (この人員について山沢連隊長の手記「真岡方面の戦況」には一行十三人とある。また戦後二十二年、復員局が帰還者から聴取してまとめたものによると十七人で、氏名は村田徳兵中尉、中前秀雄軍曹、金山重男軍曹、藤原栄治伍長、市原俊美伍長、原田博兵長、川合喜一郎一等兵、新谷馨一等兵、堺良一一等兵、獅子堀好正一等兵、金田永河一等兵、青海永吉一等兵、太田秀雄一等兵、遊佐武上等兵、佐藤雅美二等兵、松木重雄一等兵、宮崎正次上等兵となっている。このうち戦死の公報がはいっているのは村田中尉、中前軍曹、市原伍長、原田兵長、新谷、堺、獅子堀一等兵の八人。また生還者は遊佐上等兵=二十二年八月十三日帰国、松木一等兵=二十二年七月二十九日帰国、と太田一等兵の三人。金山軍曹、金田、青海一等兵は朝鮮人で道庁社会課の調べでは生死不明だが、このうち金山軍曹は通訳であったことがはっきりしているので、これらを考え合わせると一応、十二人までは確実である)

 軍使がソ連軍に申し入れる内容は次のようなものであった。
 一、われわれは大日本帝国天皇の軍隊なり。
 一、八月十五日正午、終戦の大命降下し、日本軍は自主的に戦闘行動を中止した。貴軍隊はこれを知らないのか。
 一、われわれは戦闘をする意志がない。よって貴軍隊は直ちに戦闘行動を中止してほしい。
 一、直接、指揮官相互において話合いを行ない、平和裏に事を運びたいので貴意を得たい。


 濃霧の中を艦隊が遊戈しているという報告を受け、いかなることがあっても発砲してはいけないと注意を与えて将校斥候を出した。しかし、その報告がないうちに、不意に猛烈な艦砲射撃を受けた。やがてその模様と真岡町の山腹付近の家屋が災焼中であることがわかり、その旨を連隊本部に報告したが、それからほどなく荒貝沢入り口付近にもソ連兵が終結しつつあるという斥候の報告がはいってきた。

 そのころ沢は濃霧で視界はわずかに三十メートル程度。この沢に向かってソ連軍が行動を開始すれば、両軍が激突することは必死であった。軍使派遣の時期を失えば、事態を収拾できないばかりか、多くの住民を戦闘の巻き添えにする心配が大きくなる----ただただ霧が一刻も早く晴れ上がることを祈るのみであった。

 午前七時三十分、ようやく視界五十メートル程度となる。これ以上、延期すれば、ソ連軍が積極的な行動に移ることは疑う余地がなかった。ついに軍使の出発を決意し、軍使村田中尉以下を本部前に集合させ、次のように訓示した。
「一、諸君は樺太兵団将兵と樺太在住民の命を双肩ににない、この難局に対し、平和裏に事態を収拾しようとする使命を帯びている。一、相手は諸君が十分承知しているとおり、わが軍がなんらの抵抗もしないのに、一方的に艦砲射撃を加え、上陸を強行、放火、略奪をほしいままにしている。一、われわれは刀折れ、矢つきて戦闘を中止したのではなく、天皇のご命令により、敵と戦うことなくして自ら矛をおさめ、自主的に戦闘を中止した帝国陸軍の精鋭である。どうか日本軍人として終始りっぱな態度、行動をとり、この大任を無事に果たしてくれるように切望する」

 このような訓示に加えて、視界がきかないので充分注意してほしい。そのため五十メートル間隔で逓伝哨を配置し、その先端は荒貝沢入り口(いちばん沢が狭くなっているところのカーブの橋)で、逓伝哨の指揮は田代正広軍曹(札幌市出身)がとる。もし不測の事態が起きたときは、まず軍犬を放して本部の犬舎に帰し、伝令を逓伝哨先端の位置に走らせること。金山軍曹は村田軍使のことばを、忠実にソ連軍に伝えるよう努め、もしその意図が通じない場合は口上分二通を相手に渡し、身ぶり手ぶりででも相手に日本軍の意志を伝えてほしい。市原伍長以下は軍使らを護衛し、その指示を忠実に実行してほしいと、細かい注意を与えた。

 軍使村田中尉は、これに対し、「ただいまの訓示ならびに注意事項を守り、帝国陸軍の軍使として正々堂々その任務を果たしてまいります」と、ふだんと変らず力強く答えた。水筒のコップで水さかずきがかわされた。大隊長は軍使一行を第一戦陣地の位置まで見送った。村田中尉がさしのべた手を「しっかり頼む」と堅くにぎり返したものの、その心中、実に名状しがたいものがあった。

 同地点で待機していた田代軍曹は逓伝哨を指揮して軍使のあとに続いていく。何人目かの逓伝哨をかすかに見える位置に残してその一行が霧の中にすいこまれるように消えていくとき「どうか不測の事態が起きないように。無事大任を果たして帰りつくように……」と神に手を合わせる思いであった。時、午前八時やや前であった。

 連隊本部への有線電話は砲撃のためか切断されていたが、そのころようやく補修され、軍使の出発を報告した。ソ連軍の動静と軍使のことを心配しつつ、本部にて図上の諸計画を考えているうち----午前九時少し過ぎ、四囲の静けさを破り、突然、自動小銃の断続音が三回か四回、沢の入り口方向にした。濃霧いまだ晴れやまず、視界ようやく二百メートル程度であった。
 不安がかすめた。同九時半を過ぎても逓伝哨からはなんの知らせもこない。軍犬も帰ってこない。焦燥がしだいに心中に黒い大きいかたまりにふくれ上がっていく。午前十時ちょっと前、軍使の護衛兵だった松木一等兵が、第一線の兵に付き添われ顔を血に染めて帰ってきた。その瞬間、不安が的中したことは疑う余地がなかった。
「部隊長殿……村田副官殿が、やられました」とのみ。あとは感情が高ぶって声を立てて泣くばかりであった。

 直ちに軍医に命じてメンター酒を含ませ、注射をして感情を静めるとともに応急手当をしたのち同一等兵の報告を聞いた。そしてこのことをすぐ連隊長に報告し、今後とるべき道について指示を仰いだ。この指示がくるまでの間、村田副官の写真を取りだし大隊本部にあてていた農家の仏壇に飾り、香をたいて軍使一行の霊に合掌し、こみ上げてくる怒りを押えるために、静座を続けた。しかし、激する感情をころすことはできなかった。



      戦闘の火ぶた切る

 仲川大隊長が松木一等兵から受けた報告については、戦後、同一等兵が軍使の父にあてた手紙があるので、それをここに紹介してみよう。

 朝、私たちは激しい艦砲射撃に中で陣地配備についていた。応戦の命令は出ず、私たちの身にも危険の迫ってくることを覚えた。「早く、早く」陣地ではみんなが射撃命令をじれったそうに声を出して待っている。

 そのとき一人の伝令が陣地に走ってきた。命令を読む、次々と氏名を呼び、直ちに大隊本部に集合せよという。私の名前があった。二中隊からは分隊長市原伍長以下十二人、そのほかに大隊本部の下士官中前軍曹らの名前もあった。(人数については確実ではありません)私物の整理を終え、敵弾が散発的になったところをねらって、私たちは大隊本部に走った。

 大隊本部前に集合した。仲川大隊長と村田副官が本部から出てでた。大隊長の訓示があり、その間、大隊長の目の光が印象に残っている。「各自は四二部隊(歩二五)を代表する軍使村田副官の命令を守り、はずかしくないよう行動してほしい。副官の命令がないかぎり射撃してはならない」と注意を受け、村田副官のことばのあと、別れのさかずきをかわした。各兵の目が内心の緊張と興奮のために、ギラギラと光ってみえる。周囲の人からみれば私も同じであったにちがいないのだ。

 大隊長に見送られて陣地を出た。深い霧の道を声もなく進みつつ、私は映画や絵で見たシンガポール陥落の歴史的な情景が脳裏をかすめた。そのことを小声で前をゆく村田副官に話す。副官はただ「うん、うん」とうなずくだけ。しばらくして「恥ずかしくなく、万一のときは清く死す」ぽつんとこういった。そのとき私は信頼している副官のそばにいることに心強さを感じた。

 みんなは無言。先頭は遊佐兵長の白旗。そのあとに整然と隊伍を組んで進む。いろいろなことが脳裏を去来した。荒貝沢入り口が近づいた。そこまでの距離は実に近く感じた。酒屋があり、付近に住宅がまばらにある。むろん人影どころか犬一匹見えない。

 前方のようすがわからない。停止した副官は眼鏡を取り出してみていたが、右手の小高い丘には何も見えない。前進、三十メートルほど進んで鉄道踏切にさしかかったとき、突然、その丘の上にソ連兵が姿を現わし、軍使の停止を求めながら近寄ってきた。

 私の分隊は踏切の上にいた。副官は白旗の遊佐兵長、中前軍曹、通訳金山軍曹とともに前に進み出た。分隊との間隔十メートルほど。副官は通訳を通して話している。指揮官との会見を求めたのであろうが私たちのところからは聞こえない。

(ソ連軍と踏切りで会ったときの状況が松木一等兵の手記では触れていないので、仲川大隊長が聞いた報告をもとに補足しておこう)

 先に出た軍使を取り囲むようにして、十メートルほど手前でいったん止まった。ソ連軍は、銃を置けと要求、村田中尉の指示で一行が道路端に叉銃すると、同行している軍犬もそばの電柱にしばるように要求、その指示に従った。

 こうして武装を解いたあとソ連軍が近づいてきた。

ここで再び松木一等兵の手記に戻る

 軍使の申し入れに対し、ソ連軍はまるっきり受け入れるようすがなく、一人のソ連兵が銃をかまえて村田副官に立ち撃ちの姿勢をとった。副官は胸元の銃口を手で横に押しやって、なお話をする。金山軍曹が懸命に通訳に当たっていた。そのとき、さきほどのソ連兵は突然副官の体に銃口を向けるなり銃を乱射した。

「伏せろ」だれかの叫び声で、私は副官の倒れる姿をみながら線路わきの排水溝に飛び込んだ。ソ連兵が最初の乱射と同時に駆け集まって、自動小銃をかまえていっせいに撃ちはじめた。

 私は自分の小銃をとって排水溝を三十メートルほど走った。溝の横が小高くなっているので、それ兵の位置からは死角になって気付かなかったのであろう。そしてさらに走って小山に登り、防空壕を見つけて飛び込んだ。ところがどうだろう。現場から五十メートルほどの壕内に逃げおくれた住民がはいっている。北からの避難民であったようだ。五、六分銃声がやむのを待って「夜になったら逃げて部隊のいる方にくるよう」にいい残して、飛び出し、夢中で本部に向かって走った。

 まもなく重機を中心に散開している友軍陣地が見えた。軍使に出たことを知っている戦友が手を振ってくれた。私は状況を報告した。仲川大隊長以下そのときの顔などは覚えていない。二十分ほどおくれて遊佐兵長、太田上等兵が負傷し、血みどろになって帰ってきた。大隊長はこのとき、初めて戦闘の腹を決めたのであろう。

 この軍使がソ連兵の射撃を受けたとき、逃げおくれて近くの家の物置小屋の陰から見ていた住民もいた。前田貞夫さんは、戦後、そこに住んでいた阿部安太郎さんの母親にその状況を聞いたという。当時六十歳ぐらいだったその人は、次のように前田さんに語ってくれたという。 「この朝の引揚げ船に乗るため、港に向かう途中、ソ連の軍艦を見てあわてて引返した。いつか家族とも別れかわれになり、再び家を出ようとすると、ソ連兵はすでに踏切を渡って二、三十メートルのところにきていた。あわてて引返し、物置小屋の陰に身をひそめて、じっと動かずにいた。ところが荒貝沢の奥から将校と一団の日本兵が、白旗を揚げて進んできた。その先頭が踏切にかかったとき、飛び出してきたソ連兵が停止を命じた。そして手まねで銃を置けと命じ、自動小銃で撃った。そのとき日本の将校は軍刀を抜くが早いか何か叫んで敵の方に突入し、それに兵も一団となって続き、ソ連兵はどっと道を開いて逃げたが、将校は少し走って酒屋のそばの橋の付近に倒れた。あとの兵隊も自動小銃の乱射で傷つき、バタバタと倒れた
 阿部さんの話は恐怖の中で物陰から見ていたこととて正確な観察といえるかどうかはわからない。

 それからしばらくして付近の住民はソ連兵につかまり、北浜町の塩倉庫に連行されたが、その人たちの話では、倒れている軍使の一行のそばを通り抜けたときはまだかすかに息の残っている兵もあったという。

 村田中尉のいとこ平田富夫さん(当時歩兵砲大隊本部書記)は、「十九日菅原歩兵砲大隊長と真岡にいっているとき、第一大隊からソ連艦隊が近づいているという連絡を受けて帰る途中、第一大隊本部で村田副官に会った。そして、いよいよくるらしい、互いにしっかりやろうということばをかわして別れたのが最後。翌二十日、大隊長と通信兵を乗せて車で第一大隊本部にいったときは、軍使射殺のあとで、逃げ帰った兵の一人は、銃剣で刺され、手で払ったが、甲を突き抜けた。それで谷にころがり落ちて小川伝いに逃げてきたといっていたのを聞いた」と語っている。

 仲川大隊長からの報告を受けた連隊本部からは、しばらくして「衛戌勤務令第十一条、第十二条に基づき行動するように」という命令があったという。これは歩哨が剣を用いる場合の条項で“自衛戦闘”のことをいうもの。直ちに村田軍使以下の惨殺の状況とともにこのことが各隊に命令された。

 やがて、ソ連軍が豊真山道はもちろん、荒貝沢の両側の山からも一斉に前進してきたという報告が、斥候や第一線の各隊からほとんど同時に大隊本部に入ってきた。時刻は正午をちょっと回ったころ、第一大隊は初めて戦闘の火ぶたを切ったのである。







 当サイト管理人の叔父の遺骨は、遺族の元に戻っていません。小さな骨壺には、遺骨の代わりにお札のようなものが入っています。
 当サイト管理人の父の話によると、叔父が戦死したのは終戦後であったため、叔父は 靖国神社には奉られず、札幌にある護国神社に奉られているそうです。これは、訂正が必要なようです。LINK 靖国神社 - Wikipedia の「合祀手順」の項によると、戦後に「合祀促進運動」が起こり、これを受けて厚生省(当時)は1956年(昭和31年)に新しい合祀手順を定めており、これにより靖国神社にも奉られた可能性があります。とすると、両方の神社に重複して奉られているのでしょう。
 また、叔父は戦死によって勲章を授与されています。叔父の養母(当サイト管理人の祖母)は、遺族として恩給を受けていました。






【LINK】
LINK 戦争を語り継ごう―リンク集― 〜戦争体験、戦争記録などへのリンク集
LINK 国際派日本人養成講座地球史探訪:終戦後の日ソ激戦〜北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。
LINK 樺太の戦い (1945年) - Wikipedia
LINK 樺太 - Wikipedia
LINK カムイミンタラ樺太の名所案内
LINK Secret of Sakhalin Island (Karafuto)Sakhalin (Karafuto) related Web Pages 〜英語のサイト。リンク返しです。
LINK 全国樺太連盟 〜樺太引揚げ者の団体
LINK 日本国外務省外務省本省・アジア大洋州局・外地整理室案内
LINK YouTube ≫ 映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編
LINK 日本テレビ霧の火〜樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち 〜日本テレビが2008年8月に放送したドラマのサイト


更新 2014/1/23

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