この宮は陽気の随一である。初伝に「その心、愛し易くしてまた離れ易し。にぎやかなることを好む」と書いてある。この性は一見利口らしく見えるが思慮が浅く目先の利口にすぎない。いたって虚飾を好み、見え坊で、取り締まりがなく、ダラシないものである。人と交際しても一見旧知の間のようにすぐに親しくなる。しかし、長持ちしないで直ぐに離れてしまう。何でも珍しいもの、派手なもの、目立つものが好きで、色も赤を好む。新しい物珍しい物となると、どんなつまらない物でも欲しくてたまらず、借金してでもすぐに買ってくるが、大切にして永く保存するかと思うと二三度持てば嫌になってうっちゃってしまう。そうしてまた新しい物を欲しがる。それから「にぎやかなることを好む」ということで、だれしも大概にぎやかな方が良いけれども、この好むという二字に病根がある。映画にしても変わり目毎に往くのではなく、同じ映画を何度でも見たい。飲酒が大好きで、だらしなくいつまでも愚にも付かぬことを大声で話ながら飲んでいる。従って酒席などで合の人が交じれば忽ち座が陽気になってくる。これは合の一徳であるが、腹の中に締めくくりがないから秘密を守ることが絶対にできない。悪意や故意があるのではないが借りた物を返すこともせず。その代わり貸した物の催促もしない。人のものと自分の物との見境がない。真面目な仕事が嫌い、小遣い帳を付けるなどは大嫌いである。腹の立ったときは直ぐその情を外に表して自分を制することができない。川柳に「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し口先ばかり膓(ハラワタ)はなし」というのは合の気質をよく言い表している。表面はいかにも元気そうであるがものに驚き易く胆力、忍耐力に乏しいから何事をしても持続することもができない。色欲もっとも深く、そのため身を誤ることが多い。合は物事に離れる気運をもっている。そのため男女とも夫婦も二三人代わらなければ一生を送られない。
 老気というものは極く気が弱く、親切丁寧(テイネイ)で、優しい、勇気のない、決断力のないものである。初伝に「その心、丁寧にして曲がることを好まず。綺麗好きなり」と書いてある。丁寧ということ、綺麗好きということは決して悪いことではないけれども、過ぎたるは及ばざるがごとしで何事も中庸を得なければならない。老気の人は掃除を一つするにも人任せにできないで、自分が何度でも掃除をする。その掃除の仕方も中々並み大抵のことでない。絹篩(キヌフルイ)的の遣り口である。そういう性質で、自分のやる通りに人もやってくれないと満足できない。人を使っても家内にものをさせても、中々自分の思うようにしてくれないから気に入らない。そうするとそのことを気にして不愉快になる。綺麗好きだから障子の骨も一本ずつ拭ってあるく。品物を畳の上に置くにも畳の目なりに置かねば気が済まない。親切過ぎるところから「人の疝気を頭痛に病む」の諺の通り、人の難儀を引き受け、始終心配して胸を傷め、迷惑事絶えず、本人が豊合の人などならば一向平気でいるにもかかわらず、老は独りで心配して、夜も安眠ができないこともある。また感情に溺れ易く、少しあわれな話になると直ぐに涙ぐみ、首をうなだれ陰気になる。話をするにも、前置きが長く要領を得ないで、聞く者をうんざりさせる。取り越し苦労が多くて過ぎ去ったことをいつまでも思い出しては後悔し、判るはずのない将来のことを苦慮して胸の休まることがない。
 老は雷鳴を痛くこわがる。少し空模様が怪しいと、ただちに雷鳴の起こるのを感知して真っ青になってしまう。また嗅覚が非常に鋭敏なもので、臭気を感ずることが甚だしい。十二宮の中で気を疲らし、血を減らす、一番損なものである。また謙遜に過ぎ遠慮深いために反って人の感情を害することもある。老宮は「住所に労することあり」と初伝に書いてある。これは常に心配の気が満ちているから他所へ行っていても自分の留守中に人が来はしないか、子供に怪我をさせないか、火事でも出しはしないかという風に、少しの間も安心して座っていられない。それが住所に労するということで、必ずしも度々転居しなければならないということではない。
 老の長所を挙げれば、老は思慮精密なもので事物を詳細に研究することを好む性だから哲学、文学あるいは宗教の分野には最も適している。日蓮、親鸞、白隠あるいはマルチンルーテルまたシェイクスピア、杜甫、馬琴、頼山陽などの伝記を読んで見るといずれも非常に老気の強い人ばかりである。ただ下らないことにのみこの気を使って、自分の血を減らし、気を減らすのは極悪いが、これを文学、哲学等の学問に応用して煉気と組み合って往けば一大事業も成就することができる。
 緩は「他の十一宮に口火を差して歩く」と淘宮の方では言うが、非常なお世話焼きで、耳も人一倍働き、目も人一倍早く、口も人一倍おしゃべりである。一寸気が利いて弁才もあるが、無駄事多く、何事も詳細に学ぶことが嫌いである。一を聞いて十を知ったふりをするがその意味事柄をよく理解しない。性質は軽躁浮薄で、落ち着いていることができない。人と対話をしながら、キョトキョトとして前後左右を見回し、瞬き忙しく、首を振り、膝を動かし、話の中に嘘を交え、落ち着いて相談事をすることができない。今言った事が目の前で嘘と分っても平然として恥じるようすもない。自惚れの強いところから、自分が世の中に居なかったら世は暗闇にでもなるかのように思っている。「世話事を好んで辛苦絶えず、また衆人と和せず」と伝書に載っている。合には「にぎやかなることを好む」とある。この好むに弊害があると言ったとおり「世話事を好む」の好むに問題がある。世話をすると言うことは、人間誰しも当然のことでべつに悪い訳ではないが、好むとなるといけない。世話も人から頼まれてやむを得ずするか、お互いの関係上為さねばならぬ訳でやるのは無論よろしいが、緩は頼まれもしないのにこちらから出しゃばって世話事を買込んでする。そうしてそれが旨く往かなければ心配して老気になる。理屈が出て煉になる。無駄な時間を費やし、彼方此方を飛び回って金も掛かるから滋気も生じてくる。仕事が旨くまとまれば俺が骨折ってやったればこそできたのである、これだけの金を使い時間を費やしているのに碌に礼にも来ないといって立腹し、滋煉が出て来る。一緩宮のために色々のものが引き出されてくる。これを称して口火を差して歩くというのである。
 緩はとかく落ち着きのないもので、人間が安っぽく見えていけない。それで淘祖は緩の人をいましめて道を歩くときは大名が行列を組んで歩くような気持ちで歩きなさいと言われた。また緩のセカセカしているのを淘げるには生卵を頭に載せて歩く気持ちで居れとも教えてある。また緩の放心ということがあって、物事を度忘れしてしまう。仕事が立て込んで来れば来るほどセカセカとして落ち着きがないから、することが前後したり、あるいはすっかり忘れてしまったりする。最初に投げやりにしておく、すなわち緩み滞っているから、それが集まってくると今度は急き込んでくる。緩には緩むと急き込むと両方の癖がある。緩も滋と同じく吝嗇であるが、その行き方が違う。滋は如何なる粗衣粗食をしても、忍耐して金を蓄めようというのだが、緩は目先のことばかり欲張って些細なことにも口喧しく損得を争い、勘定をかれこれいうが元来思慮が浅いから滋のようには福禄を保つことができない。嫉妬心のことで止宮のところで述べたが緩にも中々嫉妬心がある。しかし、止とは大いにその趣を異にしている。止は慎み深いから腹に思っていても口外しない。緩は直ちにこれを顔色にも口先にも出し胸に包んで置くことができない。自分より弱い者に向かっては大いに威張るけれども少し強い人に対してはピョコピョコ頭を下げてオベッカを使う。
 緩の最も慎むべきは軽躁浮薄と悪世話にある。つねに心を落ち着けて人情を察し、親切忠実を専らとして人の世話をするならば、もとより機転の利く持ち前だから社会的成功もできる。豊臣秀吉は堕緩の最も良く成功した人物である。
 堕は十二宮中の知恵を司るものである。緩のように辻褄(ツジツマ)の合わない話をしたり、合のように自分の腹中を人に見すかされるようなことは決してない。知恵分別があるから相手の性質を良く見抜いて如才無く、気に入るような話をする。利口で、気が利いて、万事に抜け目がない。しかし、人の悪いもので相手の器量を測って調子を合わせてやり後で舌を出して笑うような風がある。堕は「大いなる事を好んで身を破る」と初伝にある。これも「好んで」というのが癖で、一獲千金を博したいという風のことを、知恵にまかせてやりたがる。順序を踏み、一歩づつ進んで行くようなことは大嫌いである。商人ならば米相場に手を出すとか、鉱山事業に掛かるとか、一足飛びに成り金の仲間入りをしたいという山師風の事業が好きである。しかし、知恵があるので種々に心が迷い、決断力なく、艱難に耐えることができず、結局は成功しない。女性でこの気を享けた者は邪推深く、他人の意中を想像してことを為すため知らず知らず陰気になってしまう。たとえば、客のある時口を利くのは極まり悪く、利かなければ具合が悪い、相手は何と思うだろうと邪推する癖がある。堕の知恵はこれを良い方に働かせれば、知恵ほど結構なものはない。人を助けるとか、他人の間に葛藤を生じた場合にこれを調停するとかいうようなことに、知恵を使えば、佳く双方の腹中を量り、その人の気に入るように話すから成功して、人も喜び助かっていく。「事を治る義には至って吉なり」と初伝にあるのはここのことである。一方堕の知恵はとかく「密密にて謀ること凶なり」と伝書にあるように陰密に謀るというほうに用いるから悪いことに違いない。多くの談合や贈収賄は堕の働きであろう。
 堕は「医師大吉」と書いてある。医者というものは、病人の脈を診てその病根を洞察するような場合に堕の知恵が働けば、人の苦痛を助け、まことに結構である。堕は生まれつき器用なもので、習わずして諸芸に通ずる。一寸細工などをしても、経師屋の真似もすれば、大工もする。裁縫もする。音楽も楽器をいじらせても何でも少しずつやる。誠に器用なものである。
 淘祖は淘宮術を煉気から工夫されたということで、煉というものは、忍耐力のあるもので百折挫せず、自分の仕掛けたことは押し抜いてやる。誠に結構なものであるが、しかし甚だ薄運なものである。「その心内へ怒る気強くして凝る、故に意地悪るし」と伝書に載っている。内へ怒る気強しというのは煉で外へ怒る気強しというのは奮である。怒りの形が奮と煉とは内外の別があって、反対である。煉は腹で理屈をこねている。口でも随分理屈をいうが、腹の中で種々の理屈を並べ立てていることが多い。故に始終不機嫌なものである。「煉は義を保つ」と初伝にある。義理堅いもので、良く人道を守って、人には義理を欠ない。然るに自分は甚だ運が悪い。淘祖は煉のお体で、奥さんの連れ子があって、それは義理ある娘だからというので、貧乏の中から嫁入りをさせて、祝言の席へ、御自分の着て出られる麻裃や、腰の物さへ見苦しくて、一時他所から借りて間に合わされた位な境遇でも連れ子の為には相当の金を掛けて嫁入りさせて居られた。その娘さんが病気に罹って淘祖のお宅に帰って療養中に死んでしまって、まだ葬式も出されぬのに火事に遭われ、間もなく類焼は免れないとて死体を庭の隅に埋めて避難をしようという矢先に鎮火した。このような不運であったが、奥野南卜に就いて天源術を学ばれてから御自分は煉の運であることに気が付かれた。初伝にある「早朝より気を晴れやかに持つべし」を実行されたのである。煉は自分の考えたことが正しく、人の言うことは皆間違っていると始終考えて、自分の方に理屈があると思っているから人のすることが気に入らなくて機嫌が悪くなるのである。故に煉気を淘げるには、常に愉快であったこと、楽しくあったこと、面白くあったことばかりを胸に思起こして機嫌良く気を晴れやかにして居るということが肝要である。しかし辛抱強く忍耐力のある点では煉ほど結構なものはない。煉と老と組み、又は奮と組んで学術技芸或いは事業を為せば成功しないものはない。「煉は義を保つ」とある。この義を保つことは良いことであって淘げて止める筋はない。しかし、煉はとかく「身内には不和、他人には義理」という方の義になりやすい。自分の家族に困難があっても打棄っておいて他人のために骨を折り、金銭を惜しまず助けてやるという軽重親疎を逆さまにするようなことは本当の義ではない。煉はよく板挟みに遭うことがあるという。甲に付けば乙に済まず、乙を助ければ甲に言い訳がないという苦境に遭遇するのである。奮のときに述べたように良い方に用いれば、鍛練、精錬、熟練、練習、練達などという熟字の通り誠に結構なものでこの力に依らねば何事も成功することはないのであるから、淘宮を修行してその性質の長所を保存し、養成し、活用し、短所を矯正し、淘汰し、排斥するようにしなければ修行の効果はないのである。
 実は十二宮の最終である。この気は一を聞いて二三を悟る性質を持っている。その性質はワダカマリなく、竹を割ったように潔白である。しかし一刻一途で前後を顧みず、我意を押し通すのが持ち前である。親兄弟友人の忠告を用いず、失敗に陥り自分で気が付くまで止めない。正直ということは一つの美徳であるが直情径行は往々人の感情を害したり誤解を招く。実は一本調子で言葉に少しも艶気がなくて角々しいので、こちらでは親切のつもりで言うことでもポンポン遣ってしまうから当たりが強くて、受ける方では剣突くでも食らっているような気がして、少しも嬉しくも有り難くも思わず、かえって不快を感ずることがしばしばである。滋のところで初念に就けということを説いて置いた通り、人間は一番初めに胸に浮かんだことが気質の交じらない本心の知らせであるから、その初念に就けば大抵は誤りがないが、この実に限って二念に就けと説くのである。気短で一刻だから精密な調査をするとか錯雑した仕事をするとかいうことは大嫌いである。また人を訪問しても、長座が嫌いで自分のいうことだけの事を言ってしまえばサッサと帰ってしまう。
道を歩いていてもわき見をしない。外出して帰ったとき空模様はどうだったか聞かれても判らないという。星でも出ていたかどうかと聞かれても空は見なかったから知らないと答える。往来に何があってもそんなことは少しも気が付かない。これが緩であったら、道を歩いていても、気忙しく前後左右に眼を配り、人が二三人立っていてもすぐ近寄り耳をそばだてて眼を留めてその様子を見ると言う有り様で実とは正反対である。実は外出から帰宅すれば門口から小言を云いながら入る癖がある。実は芸事等に掛かれば終わりまでやり徹すという勇気がある。
 以上は一つずつの気の説明であるが人は決して一気だけで働くものではない。幾つかの気が重なって、たとえば滋煉とか緩老とか組み合わせによってそれぞれ独特な雰囲気を生ずるものである。要するに淘宮は十二の気質を十分に会得してそれを自分の行動に引き当てて見ること、そして自分の気癖がどれに当たるということを知り、気質が出ればとり出れば取りしてゆくのである。そうすれば常に気分も晴々としてことに当たって心の知らせに就くことができるようになるのである。