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古田武彦・著
「俾弥呼(ひみか)」
2011年/9月発行・ミネルヴァ書房

 
 
 昨年出たばかりの本である。著者は知る人ぞ知るの古代史研究者・古 田武彦氏。このコーナーをお読みの方であればその経歴についてもご存じの方は多いと思う。しかもレッキとした学術的伝記シリー ズ「ミネルヴァ日本評伝選」の栄えある第1冊目(あ くまで時代順で、ということだけど)となる本でもある。
  当初は前回に続いて竹田日恵氏の本を2冊連続で取り上げる予定だったが、本書の内容を一読してぶっ飛び、急きょ予定を変更した。前回同様に「魏志倭人伝」 をテーマとしていること、そしてその方法論にかなり似たものを感じてしまったためでもある。僕はこれまで古田氏の説については耳にしつつもその著作に直接 触れたことがなかったのだが、初めて読んでその想像以上のトンデモぶりに驚かされてしまったものだ。この一冊は古田氏がこれまで展開してきた歴史観・主張 する説の総集編的内容になっているので、この方の研究を紹介するにも好都合と思う。


◆ 「日本評伝選」シリーズの第一冊目

 まずこの本、出版元のミネルヴァ書房は学術書出版社として定評のあるところだし、本としての仕上がりも含めて、基本的にはかなり しっかりとした学術書の体裁となっている。この「ミネルヴァ日本評伝選」は日本の歴史上の有名人の伝記をその分野の専門家が書き下ろすシリーズで、日本の ある程度著名な「歴史人物」をほぼ全員網羅、一冊一冊が専門研究者が最新研究成果を反映してしっかりと書いた学術的内容で、およそ一般向け伝記とは言い難 いハイレベルのものだ。21世紀はじめに企画されて執筆担当者もずらりと発表されたが、企画開始からおよそ10年がたつのにまだほんの一部しか刊行されて いないという状態なのは執筆者たちがそれだけ手間をかけてるからでもあり、実際既刊の何冊かを僕は読んでいるが、いずれもなかなかの読みごたえだった。

 このシリーズは出版順は執筆者任せの所もあるのでバラバラだが、一応巻末に取り上げられた人物の年代順リストが掲げられている。その栄えある第一冊目 が、日本史上最初の有名人である「卑弥呼」で あるのは当然と言えば当然。だがその執筆者が古田武彦氏 となっており、そのタイトルも「俾弥呼(ひみか)」と 独特の名前になっていることに不安を覚えた人は少なくないと思う。予告から8年を経て実際に本書が出版されて見て、その不安な予感は的中…どころか、その 予感の斜め上を行かれてしまった観がある。

 ネットでいろいろ調べればわかることだが、一応ここでも古田武彦氏という人物について簡単に書いておこう。1926年の生まれで、大 学院から研究者コースを進む歴史学者の定番ではなく、各地で高校の教師を勤めながら独学の研究を進めた人だ(のちに龍谷大学講師、昭和薬科大学教授になる)。 親鸞についての堅実な研究は評価が高く、そこから日本古代史、ことに作家やアマチュアも参加してブームとなった邪馬台国論争にのめり込みだして1971年 に著書『邪馬台国はなかった』 を刊行、「邪馬台(臺)国ではなく邪馬一(壹)国であり、それは九州にある」との主張をして大きな反響を呼んだ。さらにこれまで「記紀」をもとに大和地方 を中心に展開していたと考えられていた古墳〜飛鳥時代の歴史は実は全て九州で起こっていたことだとする「九州王朝説」を展開、批判は受けつつも熱烈な支持 者も得る。
 一応この辺まではアカデミズムにもそれなりに相手をされていたのだが、1990年代初頭に青森県で「発見」された偽書『東日流外三郡誌』(いわゆる和田文書。知らない方はお調べください…ここで もあとでちょこっと解説してますが)が 自説に好都合であったこともあって「真実の歴史を記した古文書」と認定してしまい、ここから完全な暴走状態に。このためアカデミズムからはほぼ無視された 形となって今日に至っているのだが、「信者」としか言いようのない熱烈な支持者がいるのも事実で、ミネルヴァ書房の社員(社長との話も)にも「信者」 がいるのはこの人の著 作を現在もどしどし復刊していることで明白だ。だからこの評伝選の「卑弥呼」が古田氏執筆になるのも必然ではあり、事情を知る人には「困ったもんだ」と 思ってしまうことではあった。

 念のため書くが、別にこの本をミネルヴァ書房が出してはいけなかった、などと言うつもりはない。むしろ後世に残る であろう大事業の第一冊にこんなにネタになる本(笑)を出してしまったことは出した当人たちの意図は別として「意義」はあると思っている。邪馬台国論争に 関してそれなりに耳を傾けるべき部分がないわけでもないし、アカデミズムの側にいる研究者でも邪馬台国論争についてはアマチュアトンデモ説と大同小異なと ころも多いという話は前回も書いている。だがそういうことよりも、歴史研究の方法として「こういうことをしちゃいけない」という反面教師の一冊としての意 義があると思うのだ。

◆ 「ヒミカ」は三十代半ばの女ざかり!?

  さらに念のため書いておくが、このコーナーでは邪馬台国論争そのものにはなるべく首を突っ込まないでおく。この件については学術的にも決着がついてない し、先述のようにともすれば古田氏とアカデミズム側に大した違いはないからだ。あくまで古田氏の主張で「どうみてもヘン」というツッコミどころにスポット をあてる。

 まずはタイトルになっている「俾弥呼(ひみか)」という表記・読み方について触れたい。この表記自体は特にヘンではなく、『三国志』魏書に実際にそうい う表記がなされている箇所があり、そもそも中国人にとっては外国の固有名詞だけに表記にブレがあるのは当然だ(現代中国でもよくある話)。 しかし古田氏はこちらが本文中では「はじめて出てくる」ことを根拠にあくまで「俾弥呼」が絶対に正しいと決めつける。最初にそう書いてあとから「省略形」 で「卑弥呼」と書いたのだ、と『三国志』中の「高句驪→高句麗」表記を例に挙げて力説するのだが、単に文字表記の問題であって本質的にはどうでもいい話で ある。もっとも後述するように古田氏にとってはこの漢字表記も重大問題なんだろうが。

 そしてこれを「ヒミカ」と 読ませる。一応断っておくと「卑弥呼」を「ヒミコ」と呼ぶのはあくまで便宜的なものであって、これも中国人が外国の固有名詞を仮表記したものだから当時の 日本における正確な発音を再現するのは難しく、もしかしたら「ヒミカ」だって正しいかもしれないのだ(実際他にも「ヒミカ」と主張する人はいるし、アニメ「鋼 鉄ジーグ」の例もある)。しかし古田氏は「倭人伝」に男性の名として「卑狗(ヒコ)」が出てくるから「コ」は「狗」と書くので あって「呼」は「コ」と読むはずがないとし、「『呼』 には『コ』と『カ』と両者のよみ方がある」から「カ」が正しいと主張する。だが漢和辞典で調べる限り「呼」を「カ」という音で読む例はない。これ は漢文の疑問表現で使われる「乎」を訓読みす るときに「か(疑問)」と読むのと混同したんじゃなかろうか。そもそも「呼」の当時の中国における発音を考えた場合、「カ」だろうと「コ」だろうと大差は ないのだが。
 さらに何かの辞書で調べたのか「呼」の字は神にささげるいけにえにつけた「傷」を指す宗教用語だとして「俾弥呼にピッタリ」といい、さらに日本語の「ヒ ミカ」とは「ヒ(日)」+「ミカ(甕)」であって「太陽の神にささげ る、酒や水の器」であってこれまた「ピッタリ」と言っている。そして『筑紫国風土記』逸文に出てくる「甕依姫(みかよりひ め)」を「“みか”を“よりしろ”とする“日女(ひめ)”、すなわち“太陽のみか”」と解釈して(「すなわち」以下、明らかに飛躍。この人の推理にはこの 手の飛躍がとにかく目立つ)、これこそ「俾弥呼の自署名」だとまで主張するのだ。どうも漢字表現と日本語発音の話がゴチャゴ チャになってる観もあるし、結論が分かってから読み返すと「ヒミカ」という読みを「正解」とするために強引に話を持って行っているようでもある。

 俾弥呼の年齢についても古田氏は面白いことを言い出す。手塚治虫の『火の鳥』を何かと引き合いにするのだが、卑弥呼がしばしば老婆イメージで語られてき たことを批判して、「俾弥呼は当時、女ざかりの三十代半ばの女性だったのである」(2 ページ)と繰り返し力説するのだ。『倭人伝』のなかで卑弥呼について「年已長大、無夫壻(通釈:年齢はすでにかなり上になっていたが 夫はいなかった)」と いう表現があり、これをもってみんな卑弥呼の年齢を老婆と誤解している、と古田氏は批判し、「年已長大」の表現が魏の文帝(曹丕)が34歳で即位した時に 出てくることを根拠に、「俾弥呼も同じ年代であった」と断定するのである。『三国志』の文章はあくまで『三国志』中の表現から読み解くべきである、そんな 単純なことが学界では無視されている!というのが古田氏のスタンスなのだ。
 しかしこれはツッコミどころ満載というやつ。「年已長大」は単に「か なり年がいっていた」以上の意味はなく、特定の年齢を指すものではない。文帝の場合は即位したときに当時としてはすでに壮年といえる年齢だったということ であり、卑弥呼の場合は本来なら夫がいるはずの年齢だった、ということが言いたいだけだ。もちろん卑弥呼だって三十代半ばの時はあっただろうし、女王に立 てられた時にそのぐらいの年齢だった可能性はある。古田氏は「誤解」と非難してるが、別に学界だってその一文をもって卑弥呼が老婆だったと主張しているわ けではないし、手塚治虫の『火の鳥』だって卑弥呼が若く美しい時期があったことをちゃんと描いている。老婆イメージがあるのは「倭人伝」でその死が記録さ れているためで、とくに早死にと書かれてるわけでもないのでその時点では老齢だったのだろう、というありきたりの推測に過ぎない。

 しかし古田氏は自信満々。かくして「俾弥呼は三十代なかば」と断定してしまうと、「それは『魏の使者が、彼女に直接会った』事実を示している」(2 ページ)と次のステップへ飛躍してしまう。「年已長大」と同じ表現がされている、伝聞情報であれば「〜という」といった表現が つくはず、つまり「魏の文帝と俾弥呼がほぼ同年 齢だと言い切っている」の だから直接会った上での判断であろうと結論するのだ。『倭人伝』に「(卑弥呼は)王となってからは会ったことがある者は少ない」とあるが、外国の使節には 直接会ったはずだ、と。ということは『倭人伝』は俾弥呼に直接会った使者による報告が基礎になっているわけで、その同時代史料価値はますます高い、と言い 切っている。
 『倭人伝』が倭へ赴いた魏の使者の記録をもとにしていること自体は確実視されるのだが、途中の伊都国が「郡使のとどまるところ」と 書かれていてそこが行程記述の節目になっていることから、魏の使者もそこまでしかいっていない可能性が高いとされている。もちろん邪馬台国まで行って卑弥 呼に会った可能性はなくもない(そりゃな んだって完全否定されない限りは可能性はある)が、 まず「俾弥呼が三十代半ば」というのが根拠薄弱の一方的断定であり、それをまた根拠にしてさらに薄弱な理屈で断定に断定を重ねるという論法を使っているた め、ハタから見てるとおよそ説得力がない。他の部分でも古田氏にはこの手の砂上の楼閣の上に楼閣を増築して高層ビルにしちゃうような論法が目立つのだ。


◆ ヒミカは魅力あふれる稀有な指導者!?

  『倭人伝』によれば卑弥呼は「難升米」と「都市牛利」の二人を魏への使者として派遣している。この二人の名前をどう読むべきかは議論があるが、当時の倭人 の名前を中国音で表現した「当て字」だろうというのが大方の見方だ。しかし2009年に古田氏の知人の塾にコピー機会社から「都市(といち)」という姓の女性が派遣され てきて、その知人が「もしや」とひらめき、古田氏に彼女の名刺のコピーを送ってしまったからさあ大変。古田氏は彼女の一族が長崎県松浦の鷹島にいることを 突きとめると、「都市牛利は松浦水軍の指導者だ!」と 断定しちゃう。松浦水軍の指導者だからこそ「都市牛利」は魏に副使として派遣され、魏もその軍事力に期待したからこそ彼とその背後にいる俾弥呼を重んじて 過大な贈り物をしたのだ、と。
  僕は倭寇が専門なので、「松浦水軍」の名前がここに出てきたことにひっくり返ってしまった。『倭人伝』に「末盧(まつろ)国」というのが出て来てこれが現 在の「松浦」であろうというのはおおむね共通認識となっているが、この時代から「松浦水軍」なんてものがあったとは到底思えない。水軍を操る「松浦党」の 名前が史料上に現れてくるのは平安後期以後、つまり中世の話で、この時代に外国が頼みにしてしまうほどの強力な水軍があったとは思えない。都市さんが松浦 にいた、という話から聞きかじっていた「松浦水軍」の話と結びついて一気にイメージを作り上げてしまったのだろう(これも念のため補足すると、魏が対呉戦略の一環で倭を重 視したという見解はそれなりに有力な説として唱えられてはいる)
 だいたい21世紀現代の日本人の姓と3世紀の外国史料に出てくる人物の名前を文字が一致すると言うだけで結びつけること自体に無理がある。そう言われる ことは古田氏も予想済みで「そう嘲笑うことは容 易である」と言いつつも「だ が、何か、そう嘲笑い捨てることのできないsomethingをその名刺に感じたのである」とご自身の“直感”に自信満々だ(この文にも見られるように突然英語が紛れこんでくるのも この人の文章の特徴)。なお「難升米」についても中国に「難」という姓があることから渡来系かと推測するくだりもあった。

 …ともかくそういうわけで「都市牛利」は朝鮮半島から九州の海上ルートをおさえる松浦水軍の指導者ということになってしまい、卑弥呼は「水軍の長を部下にもった倭国の女王」と いう、古田氏に言わせると「今まで全く“見逃され”てきていた横顔」をクッキリと浮かびあらせることになってしまった。
 「そ の『倭国の女王』は、三十代半ばという、女性としての魅力に満ちみちた存在であった。しかも、後述するように、倭国の水軍(松浦水軍)の最高権力者とし て、確かな実力の持主でもあったのである。このようなリーダーの存在は、わが国の今日までの歴史においてもほとんど『稀有の存在』ではなかろうか。『空 前』である。そして『絶後』かどうか、歴史の女神のみの知るところであろう」(3ページ)
 …とまぁ、俾弥呼に対する大変な思い入れをして語っておられる。しかし無理な推測に基づく断定を何重にもした上での卑弥呼像であって、思い入れのあまり 暴走してしまっているようにしか見えない。

 本文内容の大半が『倭人伝』解釈に割かれているこの本だが、「日本評伝選」の一冊ということなので、一応俾弥呼の生涯を語る部分はある。といっても『倭 人伝』に記されていること以上に語るべき素材はないはずだ。ところがどっこい、古田氏はここであの『東日流三郡誌』を 持ち出して、俾弥呼の伝記を語り出すのだ。
  とっくに詐欺師によって20世紀後半に量産された偽書と決着が付いているこの「三郡誌」、前述のように古田氏とその支持者は頑として「真実の歴史書」と主 張している。その大きな理由は古田氏の考える邪馬台国九州説および九州王朝説にとって非常に「都合のいい」内容がそこに書かれていることにある。古田氏が ここ で引用する『三郡誌』史料の一部には「ヒミカ」が九州出身であくまで九州の中で活動したこと、最終的に自分の住居を「耶靡堆」に定めたといった内容が書か れて いて、いちいち古田氏の主張にかなっているのだ。古田氏自身これを読んでかねてからの自分の主張に見事に合致することに「呆然とした」と 書いてるが、なんのことはない、「ヒミカ」という読みも含めてこの「史料」の作者が古田氏の主張に適当に話を合わせて「作った」だけの話。そもそもこ の「史料」も寛政年間(江戸中期)に作成されたことになっていて、つい最近古田氏がその「寛政原本」を発見したと大騒ぎしているのだが(それまでは所有者=作者の和田氏がその「写本」しか見せ ていなかったのが弱みだったため)、それが仮に本物の史料だとしても弥生時代を遠く離れた寛政年間に書かれたものになんでそん なに信憑性を感じるのか理解不能というもの(『三 国志』は同時代史料と高く評価するんだが)。しかし古田氏はこんな一級史料をなぜ学界は無視するのだ、とそっちに怒るのであ る。

 卑弥呼が死ぬと大きな墓(冢)が作られた、という話が『倭人伝』にある。そのサイズを「径百余歩」と記していて、卑弥呼の墓探しの手がかりの一つになっ ていることもよく知られる。古田氏はこの本でもこれまでの著作でもその墓については博多湾近くのある遺跡と断定しているのだが、その推理自体はとくにヘン というわけではない。ただここでも古田氏の異様な思い入れ暴走が発揮されてしまう。
 古田氏は俾弥呼の墓が「冢」の一字で表現されていて、この「冢」が『三国志』蜀書のなかで、あの諸葛亮が 自分の墓について「山によりて墳となし、冢は棺を容れるに足る」と遺言したという記述の中で出てくることに着目する。ここでの「墳」は大きく盛り土をした 墓を意味し、「冢」も盛り土した墓のことで、諸葛亮は「定軍山を墳の代わりにして冢は棺を入れられる大きさでいい」とひたすら質素にしろと遺言したわけだ が、古田氏は同じ「冢」が使われていることを根拠に俾弥呼の墓も「墳」ではなく質素な形であったと推測する(それでも30mぐらいはあるとするけど)。 そして『三国志』の著者・陳 寿は蜀の出身であり諸葛亮を大いに讃美している、その諸葛亮の墓と同じ表現をしているということは陳寿は俾弥呼も同様に賛美していたのだ!と古 田氏は力説する。さらには魏の文帝の詔勅の中で過度に豪華な墓の建設(厚葬)を戒めるくだりで古代の帝王・禹が会稽山に葬られたと触れていることを挙げ、 これと『倭人伝』の中で邪馬台国の位置が「会稽東冶の東」(古 田氏は「東治」が正しいと主張しているが)にあると書かれていることと結び付けて「俾弥呼の葬法は、禹の正しい葬法を継承した ものである」と陳寿が最高の賛辞を送っているのだ、とまで主張しちゃうのだ。

 だが『三国志』本文をネット上で全文検索してみたところ、「冢」は諸葛亮伝を含めて十四カ所に出てくる。その使用例は「冢をあばく」とか「冢を守る」と いった単純に「墓」を指すものばかりだ(一 例だけ「冢嗣」があったがこれも「正統後継者」の意味)。倭人の葬儀習慣の記述でも「冢」があって特に質素な墓を指している様 子もないし、『史記』の例では始皇帝陵のことまで「冢」と書いてるケースがある(古田氏的にはあくまで『三国志』の用法に絞れと言うだろ うけど)。そもそも『倭人伝』でも「卑 弥呼が死んで大いに冢を作った。径百余歩、狥(版本により徇)葬する者は奴婢百余人」と書かれていて、素直に読む限りデッカい 墓(「歩」の大きさは不明ながら)を 作って百余人もの奴隷の殉死者を一緒に埋めるという盛大な葬式をしたと書いてあるとしか思えない。実際同じ『東夷伝』の夫餘の記述に殉葬のことが書かれて いてそれが「厚葬」と明記されている。
 やや踏みこんで解釈すると陳寿の卑弥呼の墓のくだりは賛美どころか異文化らしい野蛮な行為と批判していると読んだ方が素直だと思う。古田氏もこの本では 「冢」のこととそのサイズの小ささについて力説する一方で『倭人伝』が明記しているはずの奴婢百余人の殉葬については一言も触れておらず、やはりこの件は 「都合が悪い」と意識してやってるとしか思えない。


◆ 「倭人伝」は日本語で読め!?

 この本ではなく古田氏がネット上にアップしている論文にあった話だが、かつて古田氏にある学者が「三国志に殉じた」とからかう意味で言ったことがあると いう。本人はそれでご満足らしいのだが、歴史家・陳寿を絶賛しあくまで『三国志』の記述から解読しようという姿勢のあまり、自分こそが陳寿の最大の理解者 という思い込みに走って、陳寿の言ってないことまで勝手に「解読」する事態になっているのは上述の通り。しかも『倭人伝』解釈に熱中してそのために『三国 志』全体を見渡すあまり、ついには『倭人伝』のために 『三国志』が書かれているような、本末転倒状態に陥ってしまっているようにすら僕には読めた。

 説明不要だろうが『三国志』は蜀の出身である陳寿が三国統一後の晋の時代に後漢末から三国時代の混乱期を紀伝体でまとめた歴史書だ。魏から禅譲を受けた 晋の臣下として魏を「正統王朝」と位置付けつつ、蜀・呉も独立して扱ってこの時代を立体的に構成し、簡潔・的確な文体とあいまって古来評価が高い。あまり に簡潔なので後に他史料から引用した大量の注がついてより面白くなり、それがのちの歴史小説『三国志通俗演義(三国演義)』を生み、今日のマルチメディア な三国志ワールドを形成することにつながったわけだが、そもそも元の『三国志』が名著だったからこそである。
 そしてこの『三国志』には、それ以前の歴史書『史記』『漢書』にならって周辺異民族の情報も扱われている。それが「魏書」の最後の巻「烏丸鮮卑東夷伝」 で、北方民族の「烏丸」「鮮卑」そして「東夷」の記事がある。この東夷の記事がいわゆる「東夷伝」であり、ここには夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・ 倭といった朝鮮半島北部から東方にかけての諸民族の記事がまとめて載せられている。「倭」についての記述はその最後の最後に出てくるもので厳密には「伝」 ですらない(「魏志倭人伝」というのも便 宜的歴史用語)。確かにこの「倭人条」は2000字近くもあって情報豊富ではあるのだが『三国志』全体約37万字からみれば たった0.5%という実に微 々たるものだ。あくまで計算上の話だが、陳寿が『三国志』執筆に費やした年月からすると「倭人伝」は参考資料をもとに数日程度で書き飛ばした可能性が高 い、という推測を読んだこともある。他に史料がない以上、この時代の日本の状況を知るには「倭人伝」と格闘するほかないのはわかるのだが、僕が自分の専門 分野の倭寇研究で『明史』日本伝を読んだ経験からいうと、陳寿がそれほど気にせず「おまけ」のようにして書いたかもしれない史料の一字一句の解釈で大論争 している「倭人伝」業界というのはいささか滑稽な世界にも思える。

 だから古田氏の「倭人伝」解読における邪馬台(壹)国への道程説についてはアカデミズムの方も大同小異と感じているわけだが、それにしても、とビックリ しちゃう解釈は目につく。先ほど書いたように古田氏は『倭人伝』に出てくる「都市牛利」を現代の姓「都市(といち)」と結び付けちゃっているのだが、そも そも「トイチ」という読み方は「音+訓」の「重箱読み」である。中国側が倭人の名前の発音を漢字表記したとすれば「都市」と書くはずはない。普通ならここ で結びつきを否定するところだが、古田氏は「三世紀において、倭人 はすでに漢字の音と訓を用いて、自分たちの固有名詞、国名や官職名や人名などを表記していた」(63ページ)と断定してしまう。そ して「倭人伝」に出てくる固有名詞を当時の中国発音で読んでもムダ、日本語の呉音(古い中国発音を残しているとは言われる)と 訓読みで解読してよいというルールを勝手に作ってしまうのだ。
 卑弥呼の時代に倭人たちが中国との交渉で漢文を使った可能性自体は否定できないが、その後の古墳時代の鉄剣銘文の例からしても「訓読み」がすでにあった とは考えにくい。だがこうだと決めつけてしまったらもう止まらないのが古田史学、この件については「いかなる苛烈な批判も、喜んで受けたい」(94ページ)と 書いているが、ここまで言い切っちゃってドンドン先へ話が進んでいる以上、批判があっても耳も貸さないと思う。

 古田氏はかねてより「邪馬臺(台)国」は誤りで「邪馬壹(壱)国」が正しいと主張している。これは現在残っている『三国志』最古の宋代の版本に「邪馬壹 国」と書かれているのが根拠だが、『後漢書』に「邪馬臺国」と書かれていること、そして『太平御覧』(こっちの方が「三国志」最古本より古い)に 『三国志』からの引用として「邪馬臺国」と書かれているといった理由から、「臺」が正しく「壹」は誤字だろうと推測するのが通説。古田氏はこれを「邪馬台 =ヤマト」とコジツケるための改竄と痛烈に批判していて、「臺(台)」は魏の皇帝の居場所を指す語だから使うはずがないという論法まで持ち出しているのだ が、そういう「忌避」による改字(他の史 書でも実例はある)だとするとむしろ「実は臺が正しい」ってことにならないか?というツッコミもできる。
 ともかく、古田氏の世界ではあくまで「邪馬壹(ヤマイチ)国」という読みが正しいのである。その「解読」だが、「ヤマ」が「山」のことなのはまあいいと して、「イチ」を「イ」と「チ」に分解、「イ」とは「神聖な」という接頭語(根拠不明)で、「チ」は 「神」のことで(いろいろ理由を言ってる が理解不能)、つまり「ヤマイチ」で「山 における神聖な神」の意味になるという。その「山」とは福岡にある高祖(たかす)山で、日向(ひなた)峠があることから『古事 記』で天孫降臨の地とされる「筑紫の日向の高千穂」は実はここと断定し(古田氏は筑紫をあくまで北九州に限定するが、通説では九 州全体を指し、「日向」も「ひゅうが」で現在の宮崎である)、さらにはまた『東日流外三郡誌』を引っ張りだし、そこに「筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして全土を掌握せし手段 は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波(ニンポー)より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂に降臨せし天孫なりと自称しける」と いう文を見つけてこの「筑紫日向」「筑紫高千穂」も福岡の高祖山・日向峠のこととしてしまい、「補強」したつもりになっている(この文、「掌握」「手段」といった現代的表現があるのも ツッコミどころだし、「寧波」という地名は明代に初めてできたもので古代に出てくるはずがない。それとこれの作者は「日向」「高千穂」を通説通り宮崎と考 えてることもわかる)

 こんな調子で「倭人伝」に登場する固有名詞を次々に解読していくのだが、いちいち書いてるとキリがないのでカット。訓読みの話ではないが「対馬国」が 『三国志』の版本の中で「対海国」と書かれていることに着目し、「『対』 は“こたへる”の意。『海』は“水の大神”である」として、これを『古事記』に津島(対馬)の別名として出てくる「アマノサデ ヨリヒメ」と結びつけ、「対海」=「海の大神の 『アマノサデヨリヒメ』にお答えする祭を行う国」と解読しちゃうくだりなんかは、前回取り上げた『魏志倭人伝の陰謀』と非常に 似たものを感じてしまった。


◆ 「三国志」はアメリカ大陸を記述している!?

 「倭人伝」では邪馬台国よりさらに先にある国についても言及がある。「女 王国の東に海を渡って千余里ゆくとまた国があってみな倭種である。また侏儒国というのがその南にあり、身長三、四尺の人がいる。女王(国)を去って四千 里。また裸国・黒歯国というのがその東南にあり、船で一年はかかるだろう」というのが通釈。「侏儒」とは「こびと」を指す漢語 だし、「裸国」「黒歯国」にしても想像上の国と考えるのが普通。『三国志』東夷伝を見渡せば「女しかいない国」の伝聞情報もあるし、かなり時代を下った明 代でも妖怪世界的な想像上の国の話がまじめな地理情報に載っている。同時代のヨーロッパだって地図に同様のことを描いているもので、洋の東西よくある話、 なのである。しかし古田氏はこの文章をも陳寿は正確な情報を記したはずとして「解読」してしまう。

 これはこの本で初めて出た話ではないが、古田氏は「侏儒(しゅじゅ)国」は高知県黒潮町の「鈴(すず)」という漁港のある場所だと断定している。これな ら発音の話になるのだが、「陳寿の記述は絶対正しい」とする古田氏は「侏儒=背の低い人」という意味にもこだわっていて、その地域にもそういう人たちが多 かったのだろうと推測する。その両方が成り立つというのはハタからみるとヘンなのだが、「倭人伝」に出てくる固有名詞は当時の日本人が漢字で書いたんだか ら無問題、ということなんだろう。
 ま、ここまではまだいいとして、凄いのは「裸国」「黒歯国」の解釈だ。これもずっと前から主張しているもので知る人ぞ知るの珍説で、なんとエクアドルと チリ、南米大陸太平洋側と主 張しているのである。その根拠は「船で一年はかかる」という記述で、当時の倭では春と秋とで年を数えていたとする「二倍年暦説」(これ自体は他の学者の主張だが本来は「記紀」の寿命の長 さを説明しようとするもの)をこれに当てはめて「船で半年」と解釈、堀江謙一らのヨット航海の例を引いてちょうどその辺にな る、としているわけ。これに加えてエクアドルやチリ北部で発掘される土器が日本の縄文土器に似ているから縄文人が太平洋を渡ったのだとするメガーズ・エバ ンズ夫妻の説をとりこみ(この説も日本の 学者により検証はされたが「一部地方の土器との偶然の類似」以上のものではないとして否定された)、似た土器が出た九州と関東 の三浦半島が太古に火山活動の被害を受け、それで太平洋を越えた人々がいたとして、これも自説の補強材料としている。弥生と縄文ではかなり幅のある時代差 があるというツッコミもできるが、さすがにそれにはちょこっと触れていて今後の課題とはしていたけど。

 さて「裸国」「黒歯国」も「倭人伝」がそう書いている以上、それは「日本語(倭語)」であり「倭人の命名した国名」ということに古田説では「当然の帰結」としてなってしまう。 「黒歯」を「コクシ」と日本語で読み、「コ」と「クシ」に分解、「コ」は「児島(こじま)」「越(こし)」などの「コ」で、「クシ」は「チクシ・ツクシ」(古田氏にとっては「筑紫」とは福岡県限定)の 語幹だから、「「コ クシ」とはいわば「福岡県分国」という意味をもつ」(167ページ)のだそうな。それに 加えて「黒歯」という文字も「歯を黒くしている」ことを加味し、さらに「黒 は『黒潮の黒』であり、“神聖な”の意味」「歯は『葉』であり、『根』や『幹』に対する“広い場所”をしめ す、常用の倭語」だから、「『クロハ』とは『神聖 な広い場所』をしめす、古代日本語の表記」と断じて「黒潮に乗じて行き着く場所として絶妙の発音表記法」と 絶賛する(168ページ)。「裸国」のほうは「さらに絶妙」だそうで、「ラ」は「ウラ」と同じで海岸部のこと、これは「ミウラ」に通じる、三浦半島と言え ば例の土器が出た所じゃないか!という論法で三浦半島の縄文人が渡って作った国だとするのだが、「絶妙」と思ってるのは本人と信者だけのような気がする。 というか、音読みでも訓読みでも意味を読みとっちゃうとか、もう何でもアリでしょ、これじゃ。結局これって「倭人の命名」を絶賛しているようで、それを 「解読」した自分はなんてすごいんだと自画自賛して酔ってしまっているのだ。
 縄文人が太平洋を渡ったという説自体かなり無理があり、仮に海流に乗って渡った者がいたとしても、それがあちらで「国」を作り、それを倭人たちが命名し 記録するためには縄文時代以来何百年にもわたって継続的に互いに行き来があると考えなければならない。「倭人伝」の時代まではそれがあったとしても、その 後はそんな記録が出ないことからその交流が急に失われたことになるが、それでも記憶の痕跡ぐらいは残るはずだ。その根拠として「足摺岬の縄文灯台」なんて もの(詳しくはお調べを)ま で持ち出す人たちもいるのだが、ここまで来るとほとんどオカルトである。

 古田氏は魏の使者は俾弥呼に会っただけでなく「侏儒国」すなわち高知県足摺岬近くまで来たと明記している。「倭人伝」のどこにもそんなことは書いてない が(そもそも卑弥呼に会ったとも書いてな いけど)、古田氏は絶対に行ったと主張する。なんでかといえば魏の使者たちは遥か太平洋の彼方にある「裸国」「黒歯国」の存在 を確認しなくちゃいけなかった、のだと。さらにそれはなぜ?というと、古田氏は唐突に『三国志』に至る「中国の歴史書成立史」を語り始める。
 司馬遷は『史記』の中で張騫が旅した西域諸国の情報について、「従来の書物で主張されていた怪物がいるといった西域情報は荒唐無稽であった」という趣旨 の評を書いている。さらに班固は『漢書』の中でさらに西方の情報を記し、「條支国」から海を渡ってさらに西に百余日行くと「日の入る所に近いという」との 伝聞情報を書いている。この條支国というのは班固の弟・班超が「大秦国(ローマ帝国)」に派遣した部下・甘英が「ここから先は海だけだよ」と現地人に言わ れてそこから先へ行くのをあきらめたという国で、地中海に面したシリアあたり、もしくはペルシャ湾かカスピ海沿岸ではないかと推定されている。しかし古田 氏は「百余日」と日数があることに目を付け、コロンブスが百余日で大西洋を渡っているからと、この「條支国」はジブラルタル海峡付近であり、「日の入る所に近い場所」 とはアメリカ大陸だと主張しているのだ。
 それはそれとして、それが「裸国」「黒歯国」とどうつながってくるのか。実は陳寿が『倭人伝』を執筆した「究極の目標」は女王国ではなく、その先にある 「裸国」「黒歯国」なのだという。つまり司馬遷が、そして班固が遠くの国の情報を知ってその地理認識を拡大しそれを歴史に記してきた、陳寿もそれに学んだ のだ、ということらしい。陳寿は司馬遷・班固も及ばなかった「日の出る所」、すなわちアメリカ大陸の認識を使者を通して倭国の極限の地「侏儒国」の人に問 い、それを歴史に書き残したのだ、と。「中国の歴史書成立史」をみれば『倭人伝』執筆の目標が「裸国」「黒歯国」なのは「当然の帰結」とまでおっしゃるの だが…それにしても、それだとこの時代に全地球的な地理知識がそろったことになるのだが、それがその後の時代に全く出てこないのはどういうわけだ?

 感心もしてしまうのだが、古田氏はこの説の検証のために遠くエクアドルを旅して地名調査までやっている。現地に「日本語地名の痕跡」があるはずだと。そ れでいろんな地名に「日本語」を見出してしまうのだが、これもいちいち書くと頭が痛くなってくるのパス。微笑ましかったので、エクアドルにある「マナビ 州」を解読する部分だけ引用しよう。
 「『マ』は“真”。『ナ』は“大地”だ。 『ビ』は『日』。末尾のため、濁音化している。したがって『真実の大地に輝く太陽』、これが古代日本語による意義である。この州はまさに赤道直下に当たっ ているから、そのものズバリの『古代日本語地名』なのである。周知のように、国名のエクアドルも、スペイン語で『赤道』を意味する。その国の中心部が古代 日本語でもやはり『赤道』にふさわしい『地名』となっていたのである」(182ページ)
 全てこんな調子である。同種の研究は他にもやってる人がいて、中には著名な言語学者がやっちゃったケースもあるが、要するにこじつければ何語だって読みとれる、というも のである。


◆ たとえ地球が滅びようとも!?

 さて、ここまで紹介すると、僕が先ほど「倭人伝のため に三国志が書かれている」ような本末転倒、と書いたことがお分かりいただけるだろう。古田氏が「解読」してゆくにつれ、陳寿の 『三国志』は三国時代の中国の歴史ではなく、「おまけ」のはずの外国地理情報の拡大が主要目的になってきてしまうのである。そしてついに、古田氏はこの本 が出る前年に行き着くところまで行ってしまった。
 「昨年(2010年)十 月中旬、例年より遅い金木犀の花の香る頃、一大変転が訪れた。倭人伝に対する、従来のわたしの『視界』を一新する発見に遭遇したからである。――三国志全 体に対する『陳寿の序文』の発見である」 (「はじめに」より)
 『三国志』にある程度詳しくないとピンと来ないかもしれないが、この文章でズッコけた人はかなり多いと思う。実際『三国志』には本来冒頭に陳寿の序文が あったが失われているという話はある。それが「発見」されたとしたらそれこそ世紀の大発見なのだ。しかし報道でも全然聞いたことがないはず。そんな大発 見、どこからしたんだ?と首をかしげる人もいるだろう(い ないかな?)。古田氏いわく、「あのエドガー・アラン・ポウの『盗まれた手紙』と同じこと、眼前に、あ まりにも、明々白々と存在していたからこそ、今まで誰一人気づかずに来ていたのである」(「はじめに」)だ そうだ。
 んで、どこから発見したのかというと――それはなんと、『三国志』の本文中、魏書第三十の、ずばり「東夷伝」の最初の部分、いわゆる「東夷伝序文」こそが実は『三国志』全体の序文だった!と いうのである!(「なんだってーー!」っ てお約束のツッコミが入るところだな)

 ここで「序文」と言っているのは、記事本文に入る前の導入部、「まくら」として書かれている部分を指している。古田氏も言うように『三国志』中で歴史叙 述ではなく陳寿自身の言葉を述べる「序文」にあたるものは三カ所あり、ひとつは蜀書第五の諸葛亮伝の末尾にその著作集「諸葛氏集目録」に陳寿が寄せた序文 がそのまま引用された部分。これは陳寿自身が「諸葛氏集」の編纂者であり、陳寿が諸葛亮に対して敬愛を抱いていたために特別扱いで付け加えたものとみられ る。もうひとつが魏書第三十の「烏丸鮮卑東夷伝」の最初にある文章で、これは烏丸・鮮卑の記述を始めるにあたって北方遊牧民との闘争の歴史をまとめて導入 部にしているものだ。
 そして同じ巻の「東夷伝」部分の最初にも「序文」のような部分があり、これを古田氏は「東夷伝序文」と呼んでいる。そこでは西域と東夷との交渉の比較が 述べられ、西域の方は漢代に遠征・置県して交渉を持ち魏の時代になっても情報が詳しく入るようになっていたが、東夷の方は遼東の公孫淵の勢力がいたため交 渉が断絶していたこと、その公孫淵の滅亡により東夷諸国との交渉がもたれるようになり(邪馬台国と魏の交渉もそれが契機と見られている)、 高句麗との紛争があったがこれを討伐したことで「東は大海に臨む」ところまで魏の勢力が広がって詳しい情報が入るようになり、それを記録できるようになっ た、と簡単にまとめればそういう内容が書かれている。

 素直に読む限りこれから東夷諸国の記述をするにあたっての「前置き」にすぎないのだが、どういうわけか古田氏は「これこそが埋もれていた『三国志』序 文」だと「大発見」をしてしまったのである。そう気付いたきっかけは『三国志』中に「序文」が三つある、しかも同じ巻に二つもあるとはアンバランスだ、と 気付いたことなのだそうだが、一つは他の本の序文の引用、あとの二つはいずれも読者にはなじみのない外国情報の導入というだけのことで、とくに不思議はな い。だが『三国志』は『倭人伝(東夷伝)』のために書かれたと言わんばかりのレベルになってる古田氏の「眼力」にかかると、この「東夷伝序文」の中で「長老が説くには異面の人がいて日の出る所に近いという」と ある部分(これは前後の脈略からすると 「そういうことを言ってた老人もいたが、詳しい情報が入るようになった」といった意味にとるべきだと個人的には思う)で「日の 出る所に近い」とあるのが『漢書』の「日の入る所に近い」と対応するとして、班固がアメリカ大陸の情報を書きながら国名を記せなかったのに対し、陳寿は 「裸国」「黒歯国」といった国名を明記した、「こ れが、陳寿が三国志において、まさに誇りとするところ、その肝心にして核心をなすべき、枢要の一点だったのである」(196ページ)と 言い切って、だからこれこそが本来『三国志』全体の最初に掲げられていた序文だ!と断言しちゃうのだ。じゃあなんでそんなところに移動していたの?と素朴 な疑問がわくが、陳寿が不運な人生であったということを書き連ねているだけで明確な説明はない。他の論文で書いたらしいのだが、どうやら陳寿の意に反して 何者かが場所を移して東夷伝の前に「封じ込めた」という見解らしい(なんでわざわざ)
 しかしこんな序文が『三国志』全体の前に置いてあって、その直後に魏書武帝紀(曹操の伝記)が始まるという方が、それこそアンバランスとは思わないんだろうか。

 初めて古田氏の主張を知った方はここまで読んでビックリしちゃったと思うが、既知の方はあまり驚かなかっただろう。この人とその信者の暴走解釈は今に始 まったことではないからだ。『東日流外三郡誌』をあくまで真書と言い張るため、その中に出てくる「進化論」「銀河系」「光年」「ビッグバン理論」、はたま た福沢諭吉『学問のすすめ』の冒頭の「天は人の上に人を作らず」などといった江戸時代中期に使われるはずない言葉の数々について、「進化論やビッグバンといった発想の源は近代以前からヨーロッパにあり、 三郡誌作者はそれを長崎でオランダ人から聞いたのだ」とか「福沢諭吉が三郡誌から引用したのだ」といっ た、当人たち以外には「屁理屈」にしか聞こえない反論を堂々とやってきた経緯があるのだ。つい最近でも『東日流三郡誌』の中に『天皇記』『国記』(聖徳太子が編纂、大化改新で大半が失われたとされる歴史書)の 引用を見つけたと騒いでいるので、『三国志』序文をその本文中から「発見」するなんて朝飯前だろう。

 古田氏、この本の中でも自分の主張、彼に言わせると「明白な事実」をかえりみようとしない学界への批判を繰り返し繰り返し書いている。だが実のところ、 読めば読むほどこの人が学界から相手にされなくなった理由が分かってくる。最初のうちはまだマシだったんだろうけど、功を焦るというか、他人が言わない奇 矯な説を唱え、それが批判されると頑として自説にこだわって反論し、やがて屁理屈としか言いようのないところまでエスカレートしてしまう、その拡大再生産 の研究人生だったと思う。

 この本は今年(2012年)86歳となる古田氏の業績の総集編的存在であり、古田氏も命を注ぎつくした「畢生の書」と言い切っている。そしてこの本文の ラストはこの人の絶叫とも思える「名文」だ。以下に引用しよう。
 
 しかし、もしそれ(筆者注:古田氏に対する批判のこと)が 現在の数兆倍、数京倍の声と なろうとも、それらはわたしの提出した、一つの真実、一片の野の花をおおうにも足りないのである。歴代の虚偽が、この地球の重さ以上に積み重ねられたとしても、 たった一片の真実に対して「代用する」ことは不可能なのである。「真 実の神はただ一つ」代替しうるものはないのである。
 「邪馬台国」も同じだ。すべてのメディア、す べての教科書、すべての学術論文、そしてすべての教育者が例外なく、相ひきいて、「これほどの多数が支持してきた『邪馬台国』が正しい。古田一人の論証な どでこれをくつがえすことは許されない。」といかに呼号しようとも、一 切無駄だ。真実の歴史を求める真実の神は、億兆の虚偽に対して一顧も与えたまうはずはない。たとえ地球が亡ぶ日が来ても、地球の上に積み上げられた無数の虚偽が「真 実」と化することはありえないのである。(363ページ、太字は筆者による)

 …もはや宗教のレベルに達してますなぁ(汗)。歴史本もまともなのからヘンなのまでいろいろ読んできたつもりだが、「地球が亡ぶ日が来ても」という表現 はさすがに初めてお目にかかった。八十代半ばの老齢となって「恐 れるべき何物をも持ち合わせていない」と豪語する古田氏、確かにもはや神がかりの領域に入っていて、だから熱心な「信者」もい るんだな、と妙に納得。こうなると新興宗教とおんなじなのである。
 ただし、自説に執拗にこだわって屁理屈を言い続けるという現象自体は、まっとうと言われる研究者でも全くないとは言えない(「学界」の隅っこにいたので、いくつか覚えがありまし て)。また研究者に限らずこういう意固地な人は案外身近にいるもの。一歩間違えると同じ轍を踏むかもしれないな、という自戒を もつようにしたいと痛切に思ったものだ。


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