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出雲井晶・著
母と子におくる教科書が教えない日本の神話」
1998/4月発行・扶桑社刊
「「日本の神話に生かされて」
1999/5月発行・日本教文社刊
 
 
 どうも、しばらく中断していて申し訳ない。実はこの「ヘンテコ歴史本」コーナー、我が広大な(それでいて全く更新しない)サイト内でもメール・掲示板等で結構反響があるコーナーだったのである。「続きを書け!」という声がしきりと…でもなく、時おり来ており、腰のムチャクチャに重い私を、ついにコーナー再開に踏み切らせるに至ったわけだ。
もう中断して一年になるけど、実はその中断時点で有力な候補作があった。ちょいと「鮮度」は落ちてしまった感も否めないが、やはりその候補作を再開の第一弾に据えるのが筋というものだろう。
さて、その有力候補作とは…このページのトップに掲げられているのですでにお分かりだろう。同一の作者による日本神話に関する本である。二冊を同時に取り上げているが、一方が母親が子供に読み聞かせることを念頭に置いた絵本で、もう一方はこの作者の講演・エッセイ集である。当初前者のみを予定していたのだが、どうも後者とセットでやる方が理解が深まるかな、と思って二冊同時採用(笑)と相成った次第である。そのためいささか長い文章になってしまっているが、そのへんご容赦いただきたい。
 

◆初めて聞く話ばかりの日本神話!

 さて、タイトルの「教科書が教えない…」というくだりをみて、この本がどういう傾向のものかピンと来た人も多いだろう。出版元を確認前に分かった人もいるはず。一連の「教科書が教えない」シリーズ(?)を出し続けていた産経新聞社系の扶桑社からの発行。この絵本の方はズバリ産経新聞に一年間連載されたものをベースとしている。
 この時点でこの文を読み進むのを敬遠する人も出るかもしれないが、いちおうご安心ください(笑)。批判的に取り上げるのは確かですけど、いろんな点で楽しくツッコミが入れられるからこそ、このコーナーで取り上げることになったわけでして。
いちおう作者について解説しておこう。著者の出雲井晶(いずもい・あき)さんの本職は日本画家である。プロフィールを見ると、内外でとった賞の数々が列挙されており、文化庁長官表彰、内閣総理大臣賞2回、美術協会大賞、文部大臣賞2回、勲四等瑞宝章…とまぁ、華々しい活躍のほどが知られる。こうした画家としての活動の一方で皇室関係の著作、そして日本神話の普及にとりわけ熱心にとりくんでおられるようで、自宅を改造して「日本の神話伝承館」なるものをつくり、その館長まで務めてらっしゃるそうだ。

 ところでこの文を読んでいる方々は「日本神話」をどれほどご存じだろうか?この本のタイトルにもあるとおり、現在の日本の学校では神話を教わる機会はまずない。そのせいもあって今や日本神話を一通り知っているという人は希有な存在になってしまっている。これについては僕も非常に残念に思っている。ギリシャ神話も北欧神話も聖書も、いずれも面白いものであるが、日本神話も相当に面白い物語で、日本に住んでいながら全く知らないというのは実にもったいないと思うばかりなのだ。もし、この文を読んでいる方で日本神話に関する知識が全くない方は、ただちに簡単な本でいいから『古事記』の解説本などを読んでおいてもらいたい。というか、事前知識が全く無いと、以下の文はちっとも面白くない恐れがある(笑)。
 そういうお前はどうなんだ、というと実は小学校の頃から日本神話については聖書と同レベルで良く知っていた(だからそれほど深くもなかったけどさ)。当時わが家にあの松谷みよ子さんの「日本の神話」という本があり、それでだいたいのところは知っていてとても親しんでいたものだ。ちなみに私は小学校で歴代天皇の名前が空で言えたという、戦中派も真っ青の子供時代をおくっている。その結果がこれだから…(笑)。
 出雲井さんは、「教科書の教えない日本の神話」の前書きで、この本を書いた趣旨をこう述べている。

 くりかえし「日本の神話」のお話にふれることで、日本人本来の明るく清らかなまことの心が、おとなにも子供にもよみがえります。
(中略)
 「日本の神話」の心を知ることで勇気が生まれ、明るい希望に向かってみんな歩き出すでしょう。ナイフを持ち歩こうとか、いじめをしようとかの次元とは全く違う、神の光の世界にすむすなおな良い子に。
 私は、占領政策によって消されてしまった「日本の神話」をよみがえらせ、伝承することが、日本に光がさし明るさを取り戻すことだと信じています。(冒頭の「智性と慈愛に満ちた、すてきな日本のお母様方へ」より)

 この人が日本神話普及にかける意図が、ここに大きく現れている。神話の心を知ることで子供が素直な良い子になるというこの人の主張は以前産経新聞でも目にしていて、思わず僕などは「ほう〜そうだったのかぁ…俺って」とうなってしまったものだ。確かにナイフこそ手にはしなかったが、こんな偉いことをおっしゃる方の本にツッコミを入れて喜ぶという、ちっとも素直じゃない子に育ってしまったんですけどねぇ(^^;)。藤子不二雄Aさんの「少年時代」なんか読んでいると、神話教育の結果いじめがなくなったなんてのは、それこそ「神話」としか思えないんだけど。それと、占領政策によって確かに歴史教育の現場からは消された「日本の神話」だが、今だって僕のようにその気になればいつでも触れることは可能だ。
 ただし。出雲井さんのいう「日本の神話」が、僕が知る「日本の神話」と果たして同じものなのかどうか、気をつける必要がある。出雲井さんの絵本からそれを検証してみよう。

 出雲井さんの語る日本神話は基本的に『古事記』をベースとしている。もう一つの原典である『日本書紀』は実は神話についてもあれこれと異説を並べて記述するややこしい構成で(その代わり編集態度としては誠実と言える)、一本の物語としては『古事記』を使うのは妥当な所だ。
 『古事記』はまず天地創造の場面から始まる。天地も未分離な混沌とした状態の中から神々が現れていくという部分だが、このくだり、出雲井さんは混沌状態を描いた後、こう描写する。

 どこからともなく天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の天地のはじまりを告げるお声が、壮大に鳴りひびいて四方八方に満ちわたりました。次に変幻自在の天之御中主神は姿を変えて高御産巣日神(たかみむすびのかみ)となり、はるか天空から下へと大きく広がって現れました。世のすべてのものを生みだす知恵の光を放ちながら。また、神産巣日神(かみむすびのかみ)ともなって深い海の底から広がりあがってきました。すべてのものを育てる愛のぬくもりを放ちながら。
(中略)
 やがて上と下から広がった高御産巣日神産巣日二神のお心はとけあい結ばれました。
 高天原からご覧であった天之御中主神は、にっこりとされました。ほほえみは光となり降りそそぎ、あたりは明るく、ほんわかと暖かになりました。すると下まで遊びにきていた黒い雲は「海さん、ごきげんよう、さよなら」とかけのぼり、くっきりと天と地はわかれたのでした。(15〜16頁)

 …いやー、感涙ものの天地創造のシーンである。このシーンの素晴らしさは何と言っても、このくだりの90%以上が出雲井さんの作り話であるという点だろう。まさか、とお思いの方は『古事記』を引っ張り出して確認してみよう。上に引用した文のうち、原典にあるのは何と登場する神様の名前だけなのである!ここに登場する三人(?)の神様は確かに『古事記』において最初に出現した神とされるが、ここにあるように一人の神がほかの二人になったという記述はどこにもない。ひょっとすると…と思うのが、『古事記』がこの三神について「この三柱の神は、独神にして」と書いていることを誤解した可能性。この場合の「独神」とはまさに「独身」のことで、この後に出てくるイザナギ・イザナミのような夫婦ペアの神ではないという意味である。『日本書紀』にはこの部分、「純男」ってちゃんと書いてあるんだけど…。
 二人の神が天と海からひろがりとけ合う部分については、古代人のそれではなく出雲井さんの想像力に脱帽のほかはない。「海さん、ごきげんよう、さよなら」に至ってはもうホントに感涙モノであった(だいたいいつの間に海ができたんだ?)。出雲井さんの発言を読むと、この人は『古事記』を何十回も繰り返し読んでイマジネーションをふくらませたというのだが、この部分の『古事記』の原文は、

 天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。次高産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者、並独神坐而、隠身也。
 (通釈:天地が始まったとき、高天原において現れた神の名は、天之御中主神。次は高産巣日神。次は神産巣日神。この三柱の神は、いずれも独りものの神で、姿を隠してしまった)

 たったこれだけしか書かれていない。まさに驚くべき想像力と言うほかはない。

 さらに大問題がある。「天之御中主神の天地のはじまりを告げるお声」なんてものは日本神話には全く存在しない。『古事記』はもちろんのこと、『日本書紀』の載せる異説のどれにもこんなものは登場しない(だいたい『日本書紀』本文は天之御中主神じたいを載せていない!異説の一つに取り上げているにすぎない)。出雲井さんの創作…と片づけるにはかなり重大な問題があることに気がついた方もいるはず。そう、これはどう考えても聖書の天地創造における神様の第一声「光あれ」だ!引用部分の最後に天之御中主神はほほ笑んで光を放っていることにも注目して欲しい。
 
 実はわざと順番を前後させたのだが、実は出雲井さんは神話本体のお話の前に「天地のはじめ1」として、この天之御中主神についてわざわざ一章を割いて語っている。そこでは天之御中主神は明らかに聖書の神同様の「創造主」として描かれている。しかもその神様がいる高天原にいたっては「人の住む世界から天体の世界まで際限もなく広がり、目にみえる天地のいっさいを生みだし、今現在もその世界を事こまかに支えている創り主の世界です」と定義している。要するにこれは「全宇宙」だ。そして天之御中主神はその全宇宙の全てをつかさどる存在とされてしまっているのだ。

 春、つくしんぼが土の中から顔をのぞかせ、蝶がとぶ。みんな天之御中主様=創り主のお力が働くのです。
 うれしい、ありがたいことですね。生命あるものすべてを生みだしはぐくむには、つきない愛と生命をお持ちです。
 これだけ途方もない数の天体、地球から観測される範囲の星雲(星の集団)だけでも三十億!聞くだけでも気が遠くなります。その天体を秩序正しく運行させるとは、スーパーマンが何十億人かかってもかなわない全能力者、叡知そのもののお方ですね。(12頁)

 …ほんと、聞くだけで気が遠くなる話である(笑)。つくしんぼから星雲まで、ぜーんぶこの神様が動かしているというのだ。スーパーマンなんて引っ張り出してくること自体間違ってるとしか思えない(ひょっとして映画「スーパーマン」の、あの地球を逆回転させるシーンを念頭に置いている?)。いや、もちろんそういう「第一動者=プライム・ムーバー」の存在を信じる、信じないは個人の自由だが、問題は出雲井さんがお書きになっているようなことが、出雲井さんが絶賛してやまない日本神話のどこにも出てこないということだ。
 「プライム・ムーバー」という発想はユダヤ教、キリスト教やイスラム教など唯一絶対神を信じる一神教のものだ(アシモフのSF小説の解説で得た知識だけど、欧米のSFにはこの手の存在が良く出てくるという)。多神教であるはずの日本神話を語ろうと言うのに、なんでこの人は一神教の論理を、しかも勝手に持ち込んだのだろうか。「天之御中主」って字面には確かに「天の中心」という意味が読みとれなくはないけど、当の『古事記』がどこにもそんなことを書いていないのに出雲井さんが勝手にそういう解釈をしちゃってよいものなのだろうか。この絵本と合わせ読んだ「日本の神話に生かされて」で確認してみたが、出雲井さんはやはりこう言っていた。

 ところが擬人化して天之御中主神と名前をつけますと、人間というのは悲しいもので、自分の目線、自分の尺度でしか対象物を見ることが出来ませんから、白髪の白いお髭でも生やした白い着物を着た神々しい神さまでも立っていらっしゃるように想像して、わが国にはそのような唯一絶対神はいないなどという人がいます。
 しかしそうではないのです。天之御中主神とは姿なくして無限の御姿がある。禅問答のようですが、一点であって一点でなく、無限の点である。それは無限大であって無限小であって、ありとあらゆるところに在す。つまり、悠久から未来永劫に続く、天地を貫く、いつ、どんな時でも、変わることのない正しい理法のことを言っておるのであります。言い換えますと、大宇宙の法則、正しい道理、理なのです。(同書、p181)

 出雲井さんがこの「天之御中主神」を全宇宙をつかさどる「唯一絶対神」と位置づけようとしていることはこの発言でも明白だ。しかも出雲井さんが大変な情熱をもって語る天之御中主神についての解説は、どうもキリスト教(しかもその中のとくに原理主義的なもの)の影響を色濃く受けているように僕には思える。あれこれと発言を見ていると、出雲井さんは日本神話を、欧米人におけるキリスト教=聖書のような日本人にとっての絶対的な精神的支柱としたいと願望しているようにすら感じられる。そのために子ども向けの本とはいえ、日本神話そのものの大胆な改作まで平気で行ってしまっているのだ!日本神話を永らく愛好してきた僕などにはこれは神への冒涜としか思えないのだが(笑)。
 

◆暴走する神話の超絶解釈

 絵本「教科書が教えない日本の神話」には、ほかにも神話の大胆な独自解釈や大胆な改作が多々見られる。上記の三神の次に出てくる宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)について「分子、原子、もっと小さな素粒子を生み出す不思議な力の神様」などと勝手な説明をつけている(どっから思いついたんだか全く不明である)。そして以下に出てくる天之常立神・国之常立神・豊雲野神とひっくるめて全部「天之御中主神の神の変身ですから見えません」などとまとめちゃっている。原文に「独神」で「身を隠した」と書いてある七人の神様は全部こうして「唯一絶対神」にされてしまうのだ。おかげでこの後、イザナギ・イザナミに国造りを命じる場面に天之御中主神がしっかり神々の長として登場してしまう。もちろん『古事記』ではこれらの神様は「身を隠した」んだからこの場面を含めてこの後まったく登場しない。ここまで来ると「誤解」じゃなくてわざとやってるとしか思えないんだけどな。

 イザナギ・イザナミの国生みシーンも妙な会話が勝手に創られていてなかなかに面白いのだが、子ども向けという配慮もあろうしキリが無いので割愛したい。ただ出雲井さん御自慢の「超絶解釈」には触れておこう。
 日本神話ではイザナギ・イザナミの二神が天浮橋に立って天沼矛で海(原文では「塩」)を「こおろ、こおろ」とかき回すと、矛の先から塩のしずくが落ちて島となった、というくだりがある。その島の名前を「おのごろ島」という。この「おのごろ島」に二人の神が降り立ってそこで結婚するのだが、この「おのごろ」の解釈については諸説があり、決定的なものがないのは確かなのだが、出雲井さんの解釈はこうだ。絵本からその部分を引用してみよう。

「島、島だ!」
「まあ島が生まれた!」
「塩水がこり固まって出来た島、ころころと転がる島だから、おのごろ島と名づけよう」
 地球が自ずから転がっていたのを古代人は知っていたのです。古代人の直感はスゴい!と思いませんか?(22頁)

 なんと!「おのごろ」とは「自転」のことだというのだ!これには僕も読んでいてびっくり仰天した。出雲井さんはこの素晴らしい解釈に絶対の自信を持っており、著書やら講演やらでたびたびこのことに触れている。たとえばこんな調子。

 註釈ではおのずから凝り固まった島となっていますが、それだけの意味であればおのごり島であるはずです。こおろこおろとかき鳴らし出来た島だからと註をつける人もいるかも知れません。
 しかし私は何度も読んでいるうちに、古代人は地球が自転していることを知っていたとピンと感じました。自分たちの足の下に広がる平らな大地は、丸くて、おのずから転がり回っていることを、古代人は直感で感じとっていたのだと思いました。
「科学など全く進んでいない時にスゴーい!」
(「「日本の神話」に生かされて」P157〜P158)

 …この本ではもう一カ所でこの件に触れており、やはり「わぁー、すごい!」という出雲井さんの叫びが聞ける。思いついたとき、大変な感動だったのだろう。「自ずから転がる」なら少なくとも「ごろ」とは濁らず「おのころ」「おのころび」とかになるのでは…。それとそもそもここで出来たのは海の上の「島」であって「地球」もしくは「大地」だとはどこにも書いてないのだが…。そもそも「自転」というかなり後から出来た言葉を古代人のネーミングと結びつけるというのは強引というものでは…。などと次々とツッコミが入れられそうなのだが、そういうのは出雲井さんの言う「物質文明に目のくらんだ現代人」のつまらん考えなんでしょうね(笑)。しかしさっきの素粒子の話もそうなんだけど、出雲井さんって「物質文明」「唯物論」「進化論」に対して憎悪とも思えるほどの批判を浴びせてるわりに、神話の説明で妙に現代科学と話をすりあわせる傾向があるな。

 さて、神話はこのあとイザナギ・イザナミが結婚し日本の島々、多くの神々を生み出す展開になる。予想通り原典のこの場面のかなりストレートな性描写は避けられ、仲良く手をつないで眠って朝起きたら島が出来ていた、なんてほほ笑ましいお話になっている。まぁ子ども向け絵本ですから(^^;)。この辺のことについては「ちょっとHな日本神話」という本も出てるぐらいなので、興味のある方は各自で調べてください。ある意味見事な性教育の題材なんだけどな(笑)。
 島々を生んだ後、何か淋しいと感じた二神が「天の神様なぜでしょう」と聞くと、天から「子どもたち、子どもたち」とお声が降ってきた、なんていう全く初耳の話がここでも出てくる(この「創作」の意図もよくわからん)。鳥之石楠船神という神が生まれる所では「古代の私たちの先祖は、物文明がきわまったはてには、やがて飛行船やロケット弾まで出現することを、直感で感じとっていたのかもしれませんね」とこれまた超絶解釈。
 すさまじいのはイザナミが火の神を生んだために死んでしまうくだり。

「おかあ様、もう一度、目をおあけください」
「おかあ様お返事して!」
 子どもの神々は伊邪那美様の手をにぎり、体にすがり、口ぐちに泣き叫びました。
 けれども伊邪那美様は、目をさますこともなく、とうとう、なくなってしまわれました。女神のお体にとりすがり、みんな大声で泣きました。(36頁)

 もちろん、『古事記』の女神の死ぬ場面にこんな描写は全くない。このあと、苦しむ女神のおう吐物・排泄物から神様が生まれた話はさすがにちゃんと触れていたけど…その女神のオシッコから生まれた神に和久産巣日神というのがいるのだが、「出雲井神話」では生まれていきなりこんな台詞を吐く。

「母神様は、自分がこの世にいなくなっても、ずーっと、兄弟仲良くくらすようにと贈り物をしてくださり、黄泉の国へと旅だっていかれたのですよ」と、皆をさとされました。(37頁)

 おいおい(汗)。どうせ創作するならお父さんのイザナギの台詞にすべきだったんじゃないのか。それにしてもなんでこんな大幅な創作を付加しなければならないんだろうか。といいつつ理由はだいたい察している。この人の講演・エッセイを読むと家族の結びつきの大切さを非常に強く訴えており、この場面には子どもの情操教育上、どうしてもこのような泣かせるシーンを挿入したいという思いにかられたのだろう。このあと妻に死なれた怒りの余りイザナギが火の神を殺してしまう物語(史上初の子殺しである)があるのだが、出雲井さんはいちおうこれには触れつつ、これは火山の描写だとして「古代人はすごいですね」という話にすりかえてしまっている。
 このあと有名なイザナギの黄泉の国訪問の物語になる。イザナギはイザナミに出会うが、そのウジのわいた醜い姿(要するに死者そのものなのだ)にビックリして逃げ出す。真の姿を見られたイザナミは激怒して黄泉の国の鬼たちにイザナギを追わせ、自らもイザナギに追いついて口論となる。史上初の夫婦ゲンカだ。『古事記』によればイザナミは「あなたがそういうことをするのでしたら、あなたの国の人間を一日に千人をくびり殺そう」という物騒な台詞を吐く。
 この部分を出雲井さんがそのまま書くわけはない。案の定、「あなたの国の人びとを一日に千人ずつ、黄泉の国に呼び寄せ、迎え入れましょう」とかなりソフトな会話となっている。しかもイザナギがこんな台詞まで言う。

 「伊邪那美よ、私たちは国づくりに励みました。しかし、目に見えるものをつくることばかりに夢中になりすぎて、あなたも死なせてしまいました。でも、黄泉の国であなたとお会いすることができて、あなたも、すべての人も、この世のいのちは終わっても、いのち=魂は生き続けていることも知りました。私もいつか、この世から姿を消す日が来ても黄泉で生きつづけることを。
 それは、手にふれず目には見えないがたしかにある、いのちの泉。その泉がつきることなく湧きでているからだということも知りました。そして、これも皆、天之御中主神のお力であることも。伊邪那美の神よ、ありがとう」(51頁)

 もういちいち書きたくないのだが、もちろん『古事記』のどこにもこんな台詞はない。恐ろしいことに出雲井さんは勝手にこんな長いセリフを創った上で、イザナミを「物文明の象徴」と決めつける。「一見華やかな物文明はそれにかたよると、死の影がつきまといます。自然破壊や原爆へいきついてしまいます」とまで話を展開させている。物質文明一辺倒な考えではなく精神文明も重視しなさいという主張は分からないではないのだが、それを言いたい余り神様の言葉まで捏造するというのはいかがなものか。そしてここにも「天之御中主神」が絶対神として登場していることに御注目。
 「「日本の神話に生かされて」に収録されているエッセイには精神世界、霊界の実在の主張が延々と綴られている部分がある。そこではオカルト業界に詳しい方なら一度は耳にしたことがあるであろう、霊界との交信をしたというあのスウェーデンボルグ氏のお話が物凄く熱心に語られている。この手の話と日本神話を結びつけてしまうところがこの人の新味なんだろうけどねぇ…出雲井さんはどうも「日本神話」を物語としてではなく、「事実」として認識して欲しがっているようにこのあたりにも感じられますね。

 以下、キリが無いので割愛するが、「教科書が教えない日本の神話」を読んでいくと、この後にも出雲井さんの勝手な創作(案のじょう、天照大神も天之御中主神の化身とされちゃっている!)や超絶解釈(天の岩戸の前で神々が相談する場面で「アメリカにもらう前から民主主義があった」とおっしゃったりする)があちこちに登場する。つくづく思うのだが、こんなのを産経新聞という大新聞(しかも保守系読者が多い)で一年間も連載していて、その筋から抗議とか批判はなかったんだろうか。全編を通して何度も出てくる「天之御中主神」を創造主・絶対神とするセリフの数々なんて、本物の日本神道の信者からみれば冒涜行為以外の何者でもないと思うんだけど(しかし奇怪なことに神社本庁のHPには出雲井さんの名前を見ることができる)。仮に神話を学校で教えることがあったとしても、こんなのはまさに「教科書が教えない神話」というものだろう。あ、タイトルとあっているか(笑)。
 出雲井さんの講演によると、こんなトンデモない本をTVで竹村健一氏が取り上げて「この出雲井晶さんというのはよく研究している」と持ち上げていたそうな。やれやれ。

◆神話の世界以外でも…

 「教科書の教えない日本の神話」は神武天皇が出てくる一歩手前で終わっている。この続編のように「教科書の教えない神武天皇」という著作も出雲井さんはちゃんと書かれているので興味のある方は見て欲しい(笑)。ま、ざっと見た限りそう変な改変はしていなかったけど。最近では「誰も教えてくれなかった日本神話」(講談社ソフィアブックス)という本も出しており、ざっと見る限りここでツッコミを入れた件はそのまま全部入っていて、まさに「誰も教えてくれるわけのない日本神話」となっている(笑)。『日本書紀』や外国神話も少しは参照していて多少は冷静かも知れないけど…やっぱり「天之御中主神」を絶対神扱いし、ご丁寧に聖書との比較もやってくれている。

 ところで今回副読本として使った「「日本の神話」に生かされて」には、この出雲井さんという人の日本神話以外の事も含めた日常的な思索・主張がたくさん書かれている。ここまでに触れておいた物質文明批判と精神文明の強調、唯物論と進化論の否定のほかに、現代社会の病んだ部分への憤りやフェミニズムへの懐疑、「謝罪外交」批判・特攻隊賛美・靖国神社崇拝・皇室への熱烈な崇敬の念など、その方面ではおなじみの主張がたっぷりつめこまれているのだが、いくつか面白い点があったので紹介しておこう。
 
 出雲井さんは世の中が「邪馬台国が大和か九州か」と騒ぐたびに「いい加減にして」と憤る。出雲井さんに限った話ではないのだが、日本神話教育をすすめたがる人にとって教科書に「邪馬台国の卑弥呼」が載っていることは我慢のならないことであるらしい。講演でこんなことをおっしゃっている。

 中学とか高校の教科書の巻末に付いている世界文化史年表の一世紀の所には、「倭奴国王、後漢に朝貢」と書いていたでしょ。二世紀にもまた、「倭国王、後漢に朝貢」、三世紀には、「邪馬台国の卑弥呼、魏に朝貢」と書いています。
 倭奴を昔の辞書で引きますと、昔、中国が日本を軽蔑して言った語とちゃんと出ています。
(中略)
 「邪馬台国の卑弥呼、魏に朝貢」、これはもっとひどい。邪馬台国、皆さん、おわかりでしょう。邪という字には少しもよい意味は含まれていません。よこしま、正しくない、いつわり、心がねじけている、悪者、人の病を起こさせる悪気、有害なもの、という意味です。つまり邪馬台国というのはよこしまな馬のような形をした国、卑弥呼の弥はいよいよですから、いよいよ卑しいと呼ぶ女王という意味です。何もそこまで汚く言わなくてもいいと思いますのにね。(201頁)

 前半部分の件だが、確かに「倭奴」という語はあり、日本を指して言われた時期もある(僕がみている明代の史料には「日本の過去の名称」として良く出てくる)。ひょっとすると金印をもらったのは「委奴国」という国だとする説もある。しかし皆さん、歴史の授業で「倭奴(わど)国」と一単語で教わったことがあるだろうか?ほとんどの方は「倭の奴(な)国」と分解して教わり、しかも北九州の小国として習っているはず。実は出雲井さん以外にもこの「教科書は『倭奴』と差別語を教えている!」と吠えているのをみたことがあるが(そうそう、このコーナーの記念すべき第一号「中国4000年の真実」もそうなんですよ)、どうも現実の教科書や授業を知らないで勝手に誤解しているように思われる。いや、実は意図的な情報操作、あるいは「積極的誤解」だと僕は思っているのだが。
 「邪馬台国の卑弥呼」、これはもっとひどい(笑)。「邪」には確かに出雲井さんが怒濤の列挙をされているようにだいたいロクな意味はない。しかしこの「邪」の字、『古事記』であのイザナギ・イザナミのお二人に「伊邪那美」などと使っていることをご自分でも書いていてどう思われているのだろう(ちなみに『日本書紀』は「伊奘諾」と書いている)。「馬のような形の国」って解釈も意味不明だし(「台」を「形」ととった?)そんなに悪い字なんだろうか。そして「卑弥呼」を「いよいよ卑しいと呼ぶ」なんて読んだら「文法がムチャクチャだ!」って漢文の先生に怒鳴られます(笑)。中国人が周囲の国に対して意味のよくない字をあてて発音を記録することがあるのは事実だが(それは時として中国人自身にも行われる)、お得意の超絶解釈を根拠にしてそれを批判しては説得力もない。まさに「何もそこまで汚く言わなくてもいい」と思いますね。
 はっきり言ってしまえば、こうした主張をする人たちは、「中国に朝貢した」という話自体が気に入らないんだろうなぁ。ここで引いた以外の部分で邪馬台国の卑弥呼を「九州辺りの大和朝廷に従わない勢力が倭の王を称して使いを送った可能性も考えられる」というあたりにもその気分が濃厚に感じられる。「倭の五王」なんて論外だろう。そういえば、この出雲井さんの本でも三内丸山遺跡を引っ張り出して四大文明より前の文明扱いしていたな。鹿児島の上野原遺跡は九千年前…なんて話も混ぜている。「遺跡」は全部文明扱いなのか。

 ほかにも「唯物論で教育を受けたからオウムが出た」と良く分からないこともおっしゃるし(別の宗教で洗脳すればよかったと言いたいのだろうか?)、「大東亜戦争」を悠久の大義とか絶賛する一方で、戦争に反対した平和主義者として昭和天皇も絶賛し、その御心を悩ませた当時の軍部暴走を嘆きもする(このねじれ現象もこの方面の方にはよく見られる)。クリントン大統領の不倫騒動を批判しつつ、離婚もしないで耐え忍ぶ(実情は知らないけどさ)ヒラリー夫人を女性の鑑とばかりに絶賛するなどユニークな所も目につく。またネット社会の進行に触れて「インターネットというのは操作するのにある程度の知識がいります。それで一方で、それができない子どもたちは薬物に走ったり、援助交際とか、いかがわしい宗教に取りこまれたりする」なんて発言もしている。 まぁとにかくいろいろとツッコミが入れられて楽しい本ではありましたね。

 最後に日本神話の話に戻っておこう。
 この本を読んで、僕は心底「みなさん、ちゃんと日本神話を知っておきましょう」と呼びかけたい思いにかられた。こんな勝手な歪曲を平気でやっちゃってる人に「神話教育」などと叫ばれたらたまったものではない(笑)。よく西洋の「ゴッド」と日本の「神」は違う、と力説する人がいて、どちらかというと反西洋・日本民族主義を好む方々にこれを好んで使う人がいるはずなのだが、明らかにそちらに近い立場の出雲井さんが西洋的な一神教の論理で日本神話を改造しようとしているのはなぜなのか、非常に興味深い問題である。僕なりにそれに対する推理はしているのだが、ここから先は皆さん各自のご想像にお任せしましょう。


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