さて、見かけは至って普通の日本史本である。前回取り上げた「中国4000年の真実」に比べるとオドロオドロしさは全く感じない装丁に安心感がある。しかも著者のお一人は著名な人気作家でありNHK大河ドラマ「炎立つ」そして再来年の「北条時宗」の原作も担当している高橋克彦氏。「日本史鑑定」という渋いタイトルも歴史ファンとしては心惹かれるものがあるだろう。
しかし!この本の内容は良くも悪くも見事にそんな期待を裏切ってくれる(笑)。この著者お二人の対談はごくまともな日本史談議をしているな、などと安心して読んでいると、唐突にとんでもないお話がポンポンと飛び出してくるのだ!「4000年の真実」みたいにハナから敵意剥き出しのデマゴーグ本に対して、なまじまともな体裁を装っているこんな本の方が恐ろしいかもしれない(汗)。 さて、どんなヘンテコ話が飛びだしてくるのか、以下を読まれたい。
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◆歴史談議に侵入する「空飛ぶ円盤」!
この本は高橋・明石両氏の「対談」という形式をとっている。そのせいか二人の話の流れのままに話題は「日本史全般」といっていいぐらい多岐にわたっている。ざっと章題を列挙してみると「日本のオリジナリティ」「正史と偽史を分ける視点」「浦島伝説で解く天皇家の謎」「日本歴史の裏側に潜むもの」「柳田民俗学が陥った罠」「東北王朝と鎌倉幕府成立の謎」「日本が誇れるもの」ってな具合である。とにかくお二人ともこれだけいろんな話題をポンポンと出していけるあたり、なかなかの博学(ただ広く浅くって気もしなくはないけど)と感心はせざるを得なかった。文化と文明の議論、東北からの歴史視点や柳田民俗学への批判提示、お二人とも著作をものされている写楽・浮世絵の話題など、それはそれでなかなか興味深く読ませてもらった。歴史趣味に深く突っ込んでおられる人同士の会話として、なかなか教養にあふれた読み物になっていることは否定しない。欄外の注も豊富なので、一読してかなりの勉強になることは確かだ。
しかし。この本、そういう内容の端々に一般的には「オカルト」としか扱われないトンデモ話がごくごく自然に割り込んできちゃうところが怖いのだ。この自然さというのはお二人が完全にそれらのことを「事実」と確信しておられるからなんだろうなぁ…。
実例を挙げてみよう。例えばこんなぐあい。
第二章で二人の話題は「道教が日本に入っていた」というところへ向かう。とくに明石氏は天皇家に道教が濃厚に入っていたはずだと主張している。ま、それはそれで一つの仮説としては言えるんだけど、そのうち明石氏は「浦島噺」を引っぱり出す。
「『水鏡』の「雄略天皇の御代に消えた浦嶋が347年ぶりに帰ってきた」という記述なんだけど、昔は今より医学が進んでいないから、人の寿命がどれほどあるのか誰にもわからなかったわけじゃないですか。だからこそ、不老不死に憧れたとも言えるけど、当時の人は浦島のことをストレートに信じたんですよ…(中略)…中でも特筆すべきは浦島の帰郷を聞いた53代の淳和天皇が、小野篁を勅使として浦島に筒川大明神の神名を贈り、54代の仁明天皇が自分の40歳の宝算を祝した折に、吉野の仙女として有名な柘姫と共に浦島の像を造ったことなんです。浦島が一介の漁師であれば、二人の天皇は浦島の長寿にこれほど狂喜乱舞しませんよ。道教を密かに信奉していた天皇は、自らの正しさが浦島によって証明されたと思ったわけですよ」(105〜106頁)
人の寿命なんて医学が進歩しなくても経験からだいたい分かっていたと思うが…(古代ギリシャでは80年とみていたとか聞いてる)。だいたいその平安時代に出現した浦島が347年前に消息を絶った浦島本人だという証明は誰にも出来なかったはず(つまり浦島の名をかたった大ウソつきがいたってことじゃなかろうか)。浦島の話は「日本書紀」からはじまって多くの書物に書かれた有名な伝説なのは確かだが、それをいきなり「史実」ととらえるのはどんなもんだろうか。「浦島伝説」はよその国にも似たような話があり、日本のもそのバリエーションの一つとみなされていたはずだ。
さて、このあたりからお二人(とくに明石氏)の暴走が始まる(笑)。
明石氏
「その後の浦島がどこへ行ったのかは誰にもわかりませんが、僕はもしかしたら今も浦島は生きているんじゃないかと思う時があるんですよ(後略)」
高橋氏
「僕はいろいろな古代の謎って、宇宙人の仮説を入れれば解けると思っていたけど、それを入れなくても解けるんですね。(後略)」
明石氏
「僕は古代史の謎、特に不老不死と言うことについては、高橋さんが『総門谷R』で試みているように時間のゆらぎの中で証明できると思ってるんですよ。…(中略)…要するに人というのは、自己存在の確認って一つしかできないけど、それは存在の意識をしていないというだけのことのようにも思えるんです。人間は無限に並列的な時間の流れを持っているけど、存在確認できる自己の時間は一つしかない。だけど失われた無意識の自己の時間というのは沢山あるはずなんです。並列的な自己を信じ、そっちへ渡ることができれば、それは不老不死になり得るんです。僕は実際にそういう人物がいるんじゃないかと思うんです」(107〜108頁)
いつの間にかSFみたいな会話になってしまった。明石氏のいうところはチト理解しがたい部分もあるがSFでいうパラレルワールド的な世界観なのかな(「並列世界」とでも言おうか)?この後に「右へ曲がるか左へ曲がるかという分岐」の話が出て、「右へ曲がると右へ曲がったという時間が成立するが、左へ行った自己も同時に存在するはず」と発言されてるのでだいたいそんな事だと思う。しかしそれを飛び越えていける人が「不老不死になりうる」という論理は僕には全く理解不能だった(^^;)。しかしこれに応じる高橋氏も「宇宙人の仮説」で古代の謎を解いていたというから凄い。さて、以下に続々と明石氏の発言を引用してみよう。
明石氏
「そして、僕はそういう不老不死の人間が円盤に乗っているんだと。円盤の形って五千年前も今も変わらないけど、それはやっぱり円盤が並立的な時間から飛んでくるから何だろうと思うんです。こっちの五千年は向こうではわずか五年に過ぎないんですよ。まさにこれは浦島の話と同じですよね。だから並列上にある自己の無意識の時間の先端に、そういう不老不死の人間や円盤があるんじゃないかと思うんです」(108頁)
さあ出た!話はどうもUFO本の世界へ突入してきた。「UFOは時間旅行者の乗り物」っていうネタはよくある話だが、それにしても「円盤の形は五千年前も今も変わらない」って発言はなんなのだろう。丸い板状のものを「円盤」っていうんだから五千年前も何も当たり前のことだと思うのだが…。それにこっちの五千年が向こうの五年に過ぎないって何のお話だ?
明石氏
「空飛ぶ円盤は数え切れない時間の中を飛ぶわけでしょう?「誰が操縦するの?」ということになれば、不老不死型人間に決まってますよ。高速で飛ぶというけど、それは電磁波の速度が違うから見えないと言うことですよ。これって全部失われた自己なんです。失われた自己から飛んでくるものなんです。特定の人間に円盤がよく見えてしまうというのは、その人が無意識の自己をどこか記憶的に持っているからなんだと思いますね。だからそういう人には本当に見えるんだと思いますよ。円盤を信じない人には円盤は見えないというけど、これはむしろ真理かも知れなくて、僕もそうだと思います」(110頁)
「不老不死型人間に決まってますよ」という意味不明ながら問答無用の断言(笑)。「電磁波の速度が違うから円盤は見えない」という摩訶不思議な理屈。僕は物理学はまるで苦手だが、電磁波(速度って?)と見える見えないの問題はまるで関係ないと思うんだが。「円盤を信じない人には円盤は見えない」ってのはUFO信者がよく主張する話らしい。そう言われちゃ否定派は反駁のしようがないもんな(笑)。
明石氏
「残念なのは、円盤を見た人はたくさんいるけど、不老不死の人とあった人がいないということなんです。これは実に辻褄が合いません。でも、みんなが思ってる意味でのSF的宇宙人であるわけがないよね。僕は不老不死の人間は、浦嶋の辺りまで、ごく当たり前に日本にも世界にも存在していたと思うし、それは今も必ずどこかに隠れていて、日常的な生活の中にいるんじゃないかと思うんですよ。サラリーマンしているかどうか知りませんけどね。(笑)必ずいますよ。」(111頁)
そういやいつだったかあの「VOW」(宝島)の投稿で「浦島太郎(漁業)」という欄が載っている電話帳があったなぁ。ひょっとしてあれのことか(笑)。それはともかく、「実に辻褄が合わない」ってことは「間違ってるんじゃないか」とは少しもお考えにならないんでしょうか、この人は。ところでこの凄い話を「私の宇宙人説より合理的」と感心している高橋さんも相当なものだ。「明石さんのおっしゃっていることは非常によく分かるんですよ。でも、うーん。ちょっとショックを受けますね」(112頁)とか言ってます。
実はこの後に円盤の構造について長々と明石氏が解説している。長い引用はもううっとうしいだろうけど、どうにも気になるので部分的に引用しておきたい。先述のように僕は物理学はてんでダメなので、分かる方がツッコミをいれてほしい。しかしそんな僕でも「ンなアホな」と思う解説である!
明石氏
「円盤は超高速で飛ぶんだから、熱の問題で金属ではダメなんです。だから円盤というものは、本質的にセラミック円盤じゃなければ理屈が合わないんです。γ線を特殊プリズムで集めて増幅し、これを誤差京分の一以下の完全な鏡面に照射するんですよ。鏡は二枚あって、この真ん中に重水素とか三重水素のペレットを設置するんです。γ線はその中央で激しく衝突を繰り返して、その表面が超高温のプラズマ状態になる。このプラズマが外側に向かって超高速で噴射すると、その反作用でペレットが圧縮され、ペレットの固体密度は一万倍以上にもなって、数億度の超高温を求めることができるんです。核融合が起き、照射したγ線レーザーの数千倍のエネルギーが得られるってわけです」(114〜115頁)
ご自分で何言ってるのか分かっているんだろうか、という不安が頭をよぎる。この対談でこれだけのややこしい話を正確にスラスラと言えたとするとそれはそれで驚異だが…なんか元ネタがあるような気もするな。そのうち「と学会」が本で取り上げてくれそうな気もするので、それに期待したい。
ところでこの個所、この対談全体の3分の1ぐらいのところで登場するのだが、その前後は比較的まともな歴史談議なのである(もちろんチラチラとヘンな話が登場するが)。これだけの「大脱線」をやっておいて、このあと話題は天皇家と道教の関わり、ストーンサークルや神社の話に移っていく。それもまたごく自然な流れになっているところがこのお二人の凄いところである(^^;)。
◆日本史に潜むオカルト勢力!
僕も歴史ミステリーは嫌いじゃない。表の歴史には現れない存在がひょっとしたらあるかもしれないな、とは思う(専門の「倭寇」に多分にそういうところがあるからかも)。だから高橋さん明石さんが「日本史にひそむ裏勢力」なんてもんを出してきても別にそのこと自体に驚きもしないし面白いと思う。だけどどうもこのお二人の話は無茶な飛躍があるように思うのだ。
例えばあの奈良時代の怪僧・道鏡の天皇即位について、和気清麻呂が宇佐八幡宮にうかがいをたてたところ道鏡即位を許さぬというご託宣が出て道鏡の野望が阻止されたという話がある。これについて高橋氏は「神社を牛耳っている勢力というのが天皇家と別にあって、そちらの意向を聴きに行ったということも考えられますよね」(143頁)と推理する。その裏勢力が何かというと高橋氏は「山の民」であり、そこには物部氏の存在があると言い出すのだ。で、「物部」の「もの」は「もののけ」で、それを扱う「一族」ということになり「これは苗字じゃないですよね」と言う。これを受けて明石氏が「天皇家と表裏一体になっているもう一つの裏の勢力があった。そして、それはやっぱり天皇家と同じで苗字を持たない一群だったということですね」となんか納得してしまっている。日本国民のほとんどに苗字なんて長い間無かったと思うんだが…。もうこの調子で二人で飛躍のキャッチボールをやってしまい、話がますますとんでもない方向へ行っちゃったりするのである(そしてその飛躍にご本人達が何の疑問も持たない)。
また明石氏は「鬼」の実在を信じている。「まぁ角があったかどうかは別として」(152頁)とは言ってるんだけど…それがある人間集団の比喩としての「鬼」ではなく人間の世界に挑戦してくるもの、ととらえているようだ。そして高橋氏も、
「僕も基本的に鬼は実在したと思ってるんです。ただ、その鬼というのは『聖書』に出てくるモーゼに十戒を与えた神と同じ存在で、やっぱり宇宙人だと思うんです。僕はこの発想でずーっと全部来てしまったからね。でも、逆に言うと、僕の場合は妖怪そのものに興味を持っているわけじゃなくて、鬼だとか天狗だとか、宇宙人との繋がりのありそうなものに興味を持つんです。河童に興味を持っているのも、なぜか縄文時代の遺跡が出る辺りに河童伝説が多いからなんです。それを全部そういうふうに宇宙人に結びつけているんですね」(158頁)
とのたまい出す。縄文の遺跡なんて日本中あちこちにあるんだから、「その近くに河童伝説が多い」って言われてもなぁ。これを受けて明石氏も「鬼は神だ」と言い出す。この世に住む超能力者の集団が「鬼」なんだそうだ。で、「どうしてそれが明治以後になるとバッタリ途絶えてしまうのか。どうして超能力者に人間がいつも勝つのか。そこがやっぱり一番の謎ですね。今でもどこかにいるんだろうと僕は思ってますけど」と不思議がっている(…)。
で、高橋氏の考える歴史と「宇宙人」との関わりとはどんなものなのだろうか。いわゆる「オーパーツ」について高橋氏は「古代に人類を指導した神(宇宙人とイコール=筆者注)がいたんではないかという痕跡」と考えている。
高橋氏
「宇宙人の痕跡が悉く無くなってしまったというのは、結局は今のキリスト教世界が滅ぼしたからですよね。かつての宇宙人文明というのをね。だから結局こういう形で。ただ、ずーっと古代史なんかをやっていくと、神というか宇宙人が介在して、文明というか文化を形成していったとしか思えないということが沢山ありますからね」(164頁)
SF歴史モノではおなじみのネタかも知れないな。しかし古代史をずーっとやってるとこう考えるようになっちゃうもんなんですかね、どうなんでしょ、古代史専攻のみなさん!?それと細かいツッコミかも知れませんけど、世界にはキリスト教世界よりもそうじゃない世界の方が圧倒的に広いはずですけどね。
他にもいくつか日本史ネタの凄い話が出てくるのだが(全編そうだというわけでもないのがやっかいなところ)きりがないのであとは天皇関係の発言にだけ触れておこう。
この対談で二人は柳田国男の「遠野物語」への批判を行っているのだが、その直後に話題が天皇のことに及ぶ。
明石氏
「僕が今の日本の民俗学に疑問を感じているのは、なぜ天皇家の祭祀について真剣に検討しないのかということですね。天皇は今でも、大嘗祭でもなんでも、神が降臨すると大真面目でやってるわけですよ。どうしてそれに対して検討しないんですか。あれだって立派な民俗学の対象ですよ。…(中略)…だからそう見ていくと、超能力者を大真面目で求め続けているのは天皇家だけなんだと思いますよ」
天皇家の祭祀についての研究なんて結構行われてると思うのだが、どうだろう?それと大真面目でやってるかどうかは分かりませんよ(笑)。それに「超能力」なんて勝手に言われちゃったら天皇が困っちゃうでしょうに。
その後明石氏は三種の神器についても言及し、これこそが「国体」だと言い出す。なんでも昭和天皇が終戦間際に「名古屋に米軍が来たら熱田神宮の神器(草薙の剣)が守れない。それでは国体の護持がはかれないではないか」という理由で降伏したってのが根拠だそうだ。
明石氏
「昭和天皇がおっしゃった「国体」とは三種の神器のことですよ。神器さえ残っていれば日本は永久不滅だと、それさえあればツクヨミとアマテラスとスサノオのご加護によって万世一系の天皇のもと、神国日本の国体の護持は永久にはかれると。神器を取られてしまうぐらいなら戦争はやめようというのが昭和天皇の考えで、べつに原爆が落ちたから止めたわけじゃないですよ。それなのにどうして近代史やる人達って、戦争を止めたのは三種の神器を守るためだと言わないんだろうね」(208頁)
今度は近代史やってる人に聞きたいところだなぁ(^^;)。ちなみに原爆が落ちたから戦争止めたっていうのはもう俗説扱いされてると思う。実際原爆落ちても即降伏には結びついていない。実のところソ連の参戦の方が決定的だったとも言われているはずだ。それと…草薙の剣って平家滅亡の際、壇ノ浦の海底に沈んじゃってとっくに失われているはずですが(笑)。その後は別物でごまかしてるんだけど、ひょっとして明石さん、ご存じないのか?
で、これを受け止める高橋さんも凄いんだ。
高橋氏
「そういえば大嘗祭のときに、会津の松平容保公の孫に当たる松平保久君と話をしたことがあるんだけど、彼も「大嘗祭のときには本当に神が降りたらしいですよ」と大真面目で言ってましたね」(208頁)
…これはそれを信じた高橋さんよりも、その「保久君」にどうしてそんな話が出来るのか聞いてみたいところ。あと、こんな事も言ってる。
高橋氏
「誰でしたか、神器を見たとかいう話がありましたよね。天皇になりたいとは思わないけど、三種の神器というのは見てみたいですね。鏡にシュメール語が刻まれているという噂もありますからね。(爆笑)でも、見ずに死んでいくんだろうなぁ」(208頁)
いちおう(爆笑)と入っているけど、高橋氏がこの説をかなり本気にしていることがうかがえる。この本でも他の個所で日本文化の原点はシュメールだという趣旨の発言がある。
そういえば明石氏は漢字以前の日本の固有文字といわれる「神代文字」(当然ながら学術的に本気にする人はほとんどいない)について、「神代文字はひらがなだ!」と確信していて、ひらがなの50音が梵語(サンスクリット語)の配列に似ていることから「ひらがなはサンスクリット語と同じ語源を持つ」とか言ってるんだよな。長くなるからこの件は後日掲示板に書こう。
◆アカデミズムは大嫌い!
さて、こういう物凄い事をポンポンとおっしゃるお二人である。当然ながら自分達の主張を「オカルト」として批判もしくは全く相手にしないアカデミズムへの憎悪が時として吹き出してくる。
「正史」と「偽史」の問題について論じるくだりで、とくに明石氏が「何をもって偽書とするのか」というあたりから文句を学者達に向け始める。
明石氏
「だからアカデミズムの人たちには、書誌学、分類学でもよいから史料のランク付けをもう少しきちんとやってもらいたいと思いますね。その作業もしていないくせに、アカデミズムはなんで邪馬台国がどこにあるのかというようなエンターテイメントの分野に参加してくるのかなぁ?邪馬台国がどこにあるのかなんていうことは、もともと僕や高橋さんの領域のことじゃないですか。倭の五王だとか卑弥呼なんていうのは、アカデミズムが扱うジャンルじゃないですよ」(71〜72頁)
ちょっと待てぃ!どうしてそういうことになるんだ!邪馬台国がどこにあったか、倭の五王とは何かってのは日本の成り立ちに関わる重大問題だろうが!それこそ歴史学者のお仕事じゃないんですか?あなた方「歴史推理マニア」がそういう問題をオモチャにする(ご本人がエンターテイメントって言ってるもんな)のはご勝手ですけど、「専門研究者は口を出すな」ってのはムチャクチャじゃないですか?で、口を出して批判するとこういう人達って激怒するんだよなぁ(笑)。それでいて相手にしなくても怒るけど(笑)。
じゃあ歴史は何をすればいいのかと思ったらこんな事を言っていた。
明石氏
「彼らのやるべきことというのは、もっと違うところにあるんだと思うんです。天皇学であるとか法令学的なことをやっていただければ良いんだと思うんです。聖徳太子のことにしても、アカデミズムは、彼が作った十七条憲法がどういうものでハンムラビ法典やマグナ・カルタと比べてどうなんだということをやってくれれば良いんですよ。僕は聖徳太子をエンターテイメントとして捉えたいんであって、そこのところは歴然と違うはずなんですけどね」(74〜75頁)
なるほど、歴然と違いますね。アカデミズムに半分ぐらい足を突っ込んでる立場から言わしてもらいますが、明石さん、「歴史」そのものや「歴史学」に対してなんかとんでもないカン違いをされてるんじゃないかな?この下り、読んでいて本気で腹が立った部分である(あとは爆笑していただけ)。エンターテイメントにいちいち批判をする学者なんていないと思うんですけどね。批判を入れるのはそういうことを「小説」などでなく「事実」として言いふらす場合です。
そうそう、なぜかエジプト考古学者の吉村作治先生も叩かれてましたぜ。
高橋氏
「ピラミッドの発掘やってる吉村作治さんも、どんな謎の遺跡も人間が造ったものだという見方をする人なんだけど、あの人はどんどん現実に近づけていって、つまらない解釈へ行く人なんだよね(後略)」
明石氏
「(前略)例えば、吉村作治さんは自らの目筋で三内丸山古墳(注:原文のママ)を見つけて掘っているわけじゃない。三内丸山古墳の中を掘っているだけの人ですよ。それは「発掘」とはちょっと違うんじゃないのかなって。大変恐縮ですけど、彼がエジプトで何を発見なさろうと、どういうことをなさろうと、結局それは学問としてやっているというより、彼自身のビジネスのように思えるんですよ。僕にはなぜそれを「発掘」と言っているのか分からない」(158〜159頁)
前半の高橋さんの発言の趣旨は分かりますね。ようするにそういう遺跡は「宇宙人」が造ったといいたいわけ。現実的な見解を「つまらない解釈」と一蹴されちゃ考古学者のみなさんもたまらんなぁ(笑)。
しかしもっと凄いのは後半の明石氏発言。何度読んでも意図が分からない!「例えば」って入ってるから架空の話なのか?ひょっとして吉村さんが「三内丸山古墳(なんじゃそりゃ)」なるものを発掘中と本気で思っているのでは…(汗)。それは置いといても、吉村さんも自分の発掘についてこんな言われようされたらたまったもんじゃないだろうなぁ(あ、ビジネスってのは多少あるかもしれないけどね。でも発掘資金にしてるようだし)。どうも明石さん根本的に吉村さんについての知識が無かったんと違うだろうか。相手してる高橋さんも分かってるハズなんだから少しは教えてあげろよな。
円盤とか不老不死の話についてもこんなことを言ってる。
明石氏
「高橋さんの空飛ぶ円盤、僕の不老不死と同じように、道教って空飛ぶ話とか水上歩行の話とか不老不死の術とかそんなこと言っちゃうからなんでしょうね。それってアカデミズムが最も嫌うところだものね。大槻教授やタレントの松尾ナントカみたいのが出てきて「憑拠!」とか言われたってさ、「作用反作用です」とか言われたってさ、どうにもならないじゃない。違う問題なんじゃないかと僕は思うんだけどね」(119〜120頁)
松尾ナントカ…貴史さんも可哀想に(笑)。しかしあの人もアカデミズム扱いなんだな。しかしこの人って話が合わない人とは「違う問題だ」とか言っていつも逃げちゃってるような気がするんだが。
不老不死の話について明石さんが確信に満ちていることは先述の通りだが、浦島噺のところではこんなことも言うのだ。
明石氏
「不老不死の浦島が蓬来山へ行き、その後五百年にわたってそのことが正史に書きつづけられて、予言通り帰ってくると、その事実に時の天皇が狂喜乱舞する。こういうことがごく当たり前に行われているんですよ。それなのに、今はどうして講談社の『歴史大辞典』に不老不死の人間がいたと書かれないんだろう。その方が余程不思議ですよ」(114頁)
あんたの発想の方がよほど不思議だ!と言いたいぞ(^^;)。だからさぁ、エンターテイメントでそういうこと言う分にはいいの。それを本気にして事典に載せろとか言うから批判されるんじゃないですか。しかしなぜ引き合いに出されたんだろ、講談社の『歴史大辞典』(笑)。
さてと、長くなってしまったのでまとめに入ろう。
この文章でお分かりだと思うが、この本、明石氏が過激にすっ飛ばし、それに見事に高橋氏がついていってるという構成になっている。「トンデモ本の世界」でも書かれていたが、高橋さんってホントに何言われても信じちゃう人なのだ。この本にもそれがよく出ていたような気がする。
何度も言うが、まぁまぁ真面目な歴史ミステリ論議もあるので、この本を全否定はしない。しかしそこにムチャクチャとしか思えない話がポンポンと挿入されているところが恐ろしい。しかも両氏とも根本的なカン違いや知識不足が目立ち(後日掲示板に書こう)、それを根拠に物凄い歴史観を提示してくるから困っちゃうのだ。
ま、こういうツッコミ入れても「アカデミズムは口を出すな!」と言われちゃうんだろうなぁ。あーあ。