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田中英道・著
日本史を変える30の新発見
ユダヤ人埴輪があった!」
2010年/12月発行・育鵬社

 
 
 「ユダヤ人」というキーワードはしばしばトンデモさんを魅了するらしい。世にあふれる陰謀論の多くに「ユダヤ」ネタが含まれるし、「知られざる歴史」を唱えるトンデモ歴史本にも「ユダヤ」はしばしば顔を出す。それも欧米や中東の話ではなく、本来ユダヤ人とほとんど縁のないはずの日本において、日本人とユダヤ人を結びつける言説は繰り返し繰り返し浮上してくる「人気ジャンル」である。この本はそうした流れの最新版の一つで、伝統的な日ユ同祖論やユダヤ陰謀本の流れを汲みつつ、バリバリの保守論客による日本万歳史観と結びついたところに特徴がある。


◆「歴史教科書」運動に深くかかわる保守論客が

 著者の田中英道氏は1942年生まれ、主にルネサンス期を中心とした西洋美術史の研究者として内外で活躍してきたキャリアをもつ。その一方で日本の保守言論人の一人としても活動を続けており、あの「あたらしい歴史教科書をつくる会」にも参加、「国民の芸術」という本を出したほか、一時「つくる会」の会長をつとめたこともある。「つくる会」が激しい内ゲバの末に分裂すると、分離した「日本教育機構」の方に顧問として参加している。「機構」は産経新聞系の育鵬社という出版社から歴史教科書を出しているが、今回ここでとりあげた田中氏の著作も同じ育鵬社から刊行されたものだ。

 この田中氏、出版物のリストをみると高齢にもかかわらず近年になるほど次々と歴史関係の著作を出版し、講演を行い、その動画をネット上で公開するなどますます精力的に活動している。数は多いがその内容はだいたい同じで、いずれも日本はとにかく素晴らしい、日本バンザイを連呼する歴史観でぬりつぶされている。まぁそこはさすが「保守言論人」というところである。
 だがこの田中氏、最近おかしな方向、まぁ僕から見ると歴史観自体は前からおかしかったが、そのトンガリ方が常識の斜め上方向というか、田中氏独自・独特の見解による「新発見」を披露するようになってきた。単なる日本万歳では物足りなくなったのか、もはや「トンデモ」としかいいようのないレベルの「説:による歴史観を著作や講演で繰り返し繰り返し訴えるようになっているのだ。

 とくにこも「ユダヤ人埴輪」にもとづく説、古代日本にユダヤ人が渡来していたとする説は田中氏にとってはかなり重大なことであるらしく、本書の二か月前にもほとんど同タイトルの「ユダヤ埴輪本」を別の出版社から刊行している。今回そちらではなくこっちの本をとりあげたのは、「ユダヤ人埴輪」だけでなく日本通史本の形になっているため、田中氏の「日本史観」を眺めわたしやすいと考えたためだ。

◆「ユダヤ人埴輪」そして「秦氏」

 本書は通史なので、内容は縄文時代論から始まっているのだが、田中氏がわざわざタイトルにして表紙にもその写真をドカンと載せてアピールしている、「ユダヤ人埴輪」の話から論じてみよう。

 こうした「つばつきの帽子」をかぶり、長いあごひげをたくわえ、耳の下に髪をまとめた「みずら」をつけた土偶は関東地方の各地の古墳で見つかっている。田中氏が特にとりあげるのは千葉県九十九里方面の「芝山古墳」から出土したもので、特に武装姿であることに注目している。
 確かに特徴的な人物埴輪だが、当時実際にいた男性の姿を現したものだと考えられる。それを田中氏は当時日本に来ていたユダヤ人の姿を再現したものだ、と主張しているわけ。
 なぜこの姿が「ユダヤ人」と断定できるのか。

 ユダヤ人、ユダヤ教徒のなかに「超正統派」と呼ばれる一派がいる。ユダヤ教徒の中でもとりわけ保守的に昔ながらの信仰に基づいた生活を送り、近代的なものの多くを拒絶して生きる人たちで、イスラエルのユダヤ人聖地「嘆きの壁」のニュース映像などを見ているとこの人たちの姿をしばしば見かける。この「超正統派」をネットで画像検索するとたくさん例が出てくるが、この一派の男性は一目でそれとわかる特徴がある。つばのある山高の帽子をかぶり、あごひげをのばし、もみあげものばして両耳わきにまとめてぶらさげている。なるほど、その姿は例の「ユダヤ人埴輪」に酷似しているように見える。田中先生、それで飛びついてるわけななんだけど…。

 しかし疑問は次々とわいてくる。まずこの「超正統派」というのはあくまでユダヤ人の「一派」に過ぎず、それもユダヤ人全体の中では少数派の、かなり特殊な人たちだ。その姿に似ている埴輪を「ユダヤ人」といきなり断定しちゃっていいのだろうか。
 さらに言えば、この「超保守派」の男性がいつからこの姿をしているのか、という問題がある。仮に実際に古墳時代の日本に彼らが来ていたとすると、5世紀ごろにはその姿をしていた、ということになるのだが、「超保守派」の歴史を調べるとそれは考えにくい。
 「超保守派」というから古代ユダヤの文化を頑固に守ってる、という印象をもたれがちだが、「超保守派」の人々がかつては東ヨーロッパに多く、その地域で生まれたドイツ語系の「イディッシュ語」を話すことなどを考えると、彼らの文化は東ヨーロッパで形成されたと考えるほうが自然だ。また、諸説あるようだが、彼ら「超保守派」がかたくななまでに「近代的」なものを避けようとすることから、彼らの文化の形成は近代以降、さかのぼっても17世紀以後のことではないかという考えもある。

 などなど、いろいろ考察していくと、日本の古墳時代に、例の埴輪のような姿、現在の「超正統派」のような姿をしたユダヤ人が存在したかはきわめて怪しい。田中氏は「ユダヤ人」という存在を非常に単純に考えているようだが、その実態は長い歴史のなかで世界各地でさまざまな状態におかれ、複雑な経緯を経て現在のような状態にあるということを理解しておかないといけない。仮にユダヤ人の一部が日本に来ていたとしても、その姿がその埴輪そのものである、と断じるのは学問的にきわめてあぶなっかしい話なのだ。



田中氏が重視する千葉県出土の「ユダヤ人埴輪」。(同署より)
現代イスラエルに住む「ユダヤ教超正統派」の男性のスタイル。(Wikipediaより)

 さて田中氏は日本にやってきたユダヤ人とは、有力渡来系氏族として有名な「秦(はた)氏」こそがそれだと主張している。この主張自体は田中氏の独創ではなく、日本のオカルト史観業界では「日ユ同祖論」とからめて古くからある説で、田中氏はどこかでそれを知ってそのまんま自説にとりこんでいる形だ。だから「秦氏=ユダヤ人」説そのものについてはここでは簡単に触れるにとどめる。

 秦氏が日本国外から来た渡来人であるのはまず間違いない。『古事記』『日本書紀』では応神天皇の時代に秦氏の祖先が渡来したと伝えていて、とくに『日本書紀』では弓月君という指導者に率いられた大勢の集団が百済からやってきたとかなり詳しく書いている。ただし平安時代に編纂された各氏族の由来をまとめた史料では秦氏は「秦の始皇帝の子孫」とされており、それを信じるなら中国系の人々が朝鮮半島経由で渡来したことになる。といって、この始皇帝ウンヌンの話はその名前から後付けで作られた話という見方も強く、朝鮮半島の地名との照合から百済ではなく新羅系の一族とする見解もある。

 出自はどうあれ、秦氏が大陸からの渡来氏族であることは明白で、その一族は機織りなど技術を日本に持ち込み、秦河勝など有力者も多く輩出した。で、この秦氏が実はユダヤ人だ、という言説は学術的にはまるで相手にされないが、一部で根強く主張されているわけだ。
 古代日本とユダヤ人を結びつける言説は結構古くからあり、天皇家までふくめてユダヤ人とする「日ユ同祖論」から、ユダヤ人が日本に来ていたとする説まであって、このうち後者の説で「秦氏」がユダヤ人扱いされる。その根拠ははっきり言って怪しげな話ばかりだが、秦氏が中国、それも始皇帝の子孫を称するという特殊性とか、その指導者「弓月君」は中央アジアにあったとされる「弓月国」の君主のことであると考え、さらに古代中国でローマ帝国が「大秦」と呼ばれていたことと結びつけて…といった具合で彼らの出身地をどんどん西へ移動させ、ユダヤ人に結びつけるという論法が使われる。そのほかにも言語や固有名詞その他の一致を挙げたりするのだが、この手の話はなんとでもいえる、というやつで。


◆「渡来人」はみんなユダヤ系!?

 さて、では田中氏はなぜこの「秦氏=ユダヤ人」説にこれほどまでにいれあげているのだろうか。
 その答えは、この本を読み進めていくと節々で見つけられる。田中氏は古代日本に「渡来人」がやってきて進んだ文化を日本に持ち込んだこと自体は認めているのだが、それら渡来人をほぼすべてユダヤ人と断定している。そしてこんなことをサラッと書いちゃうのだ。

「日本に渡ってきたユダヤ系の人々が、機織りの技術や絹の生産技術、あるいは農業技術、灌漑施設の建設技術、そして、古墳をつくる土木技術などをもっていたと考えられます。それらは中国や朝鮮にはない技術だからです(第13章より。太字は筆者による。以下同じ)

 通説では田中氏が列挙している一連の先進文化は、朝鮮半島や中国から来た渡来人たちが日本に持ち込んだとされる。そもそも『日本書紀』など日本で作った古い文献にもそう書かれており、そうした技術や文化が朝鮮半島や中国にすでにあった、と考えるのが常識だし、それは考古学的調査でも確認できる、ところが田中氏はあっさりと「中国や朝鮮にはない」と特に根拠もなく言い切ってしまい、そうした文化はすべてユダヤ人がもたらした、渡来人とか帰化人とされる人々はみんなユダヤ人なのだ、とまで言い出すのだ。
 秦氏が「秦の始皇帝の子孫」と称していたことに関連して、「始皇帝もユダヤ人だった」とする主張があるらしい。始皇帝の実の父といわれる呂不韋がヘブライ語でどうのこうの、という珍説があるようなのだが、田中氏もやはりその説をうのみにしている。本書では触れていないが、Youtubeにあがってる講演動画の中で、田中氏は始皇帝が行った斬新な政策の数々は中国人とは思えない、とはっきり言っちゃっていた。この人の脳内ではとにかく中国・朝鮮半島は進歩がなく遅れた国々、ということになっているわけで、なるほどこの感覚ではそちらからの渡来人に文化を伝えられたなんて認めたくないだろう。

 少し時代がくだった奈良時代の遺物である正倉院に保管されている宝物についても、こんなことを書いている。

 「これが、天平時代、八世紀頃にはじまった「正倉院宝物」に、なぜ中国・朝鮮のものよりも中央アジアからペルシャにいたる広い地域のさまざまな装飾品や仏具のほうが多く収められているか、ということも理由と思われます。
 つまり、日本に西方の文化を伝えたのは、中国人や朝鮮人ではなかったのです。正倉院をつくったのもおそらくユダヤ系の大陸の人々であり、その宝物も彼らが聖武天皇に寄贈したと考えられるのです」(第13章より)

 正倉院の宝物にペルシャのガラス製品や、中央アジアのデザインとみられるものが存在するのは事実だが、そうしたもののほうが中国のものより多い、と言われるとさすがに疑問を感じる。正倉院宝物のすべてを把握しているわけではないが、中央アジアやペルシャのものは珍しいからよく紹介されるだけであって、宝物の多くはがそうだとは思えない。だいたいそうした西方の宝物も遣唐使たちが中国で入手し持ち帰ったものと考えるのが自然だ。
 また田中氏が「仏具」と書いてるのも気になる。鑑真を招いた話や最長・空海の新宗派持ち込みの歴史にみるように、日本から多くの僧侶が中国に留学して仏教文化を多く日本に持ち込んでいるはずだが、田中氏はそれ自体はさすがに認めつつも、

 「同時に、中国から日本に渡ってきた人たちの中には、中央アジアでの体験を通じて日本に仏教をもたらした人たちもいたと考えられます。仏教はもともとの発祥がインドですから、中国を経由する必要はありません」(第13章より)

 と、ことさらに「中国由来」を否定したがる。奈良時代の日本にペルシャ人やインド人が来ていた形跡は実際にあるのだが、日本に来た仏教の大半が中国経由なのは、経典類がみんな漢訳であることなどで明白だし、だいたい先祖供養などインドの本来の仏教にはなく中国で加わった要素が日本仏教にはやたらにある。どう頑張っても「中国を経由してない」と言い張るのは無理なのだ

 しかも田中氏は、こうした仏教までも「ユダヤ人」が日本にもたらしたと言いたいようだ。ユダヤ人といえばユダヤ教徒、なんでそんなことをとツッコンでしまうが、田中氏は誰だかの受け売りらしいが、これら東洋に来たユダヤ人はネストリウス派キリスト教徒になっていた、と説いている。「ユダヤ系」という表現もそれとつながるのだろうが、だとするとユダヤ人独自の姿をかたどったとする「ユダヤ人埴輪」の件はどうなるんだ。

 それと本書を読んでいると、田中氏は「ユダヤ人」というのを広い意味での「西洋人」の範疇でとらえたがっているように感じる。天平文化で名高い阿修羅像など、仏教彫刻をやたらに賞賛するのは美術史家ならではだが、「天平のミケランジェロ」と言ったり、この時期の文化を古代ギリシャやイタリア・ルネサンスに匹敵と書いたりするところに、僕はむしろこの人の「西洋コンプレックス」を感じてしまった。この人の感覚ではユダヤ人は「西洋人」的なものであって、彼らが「理想郷」として日本を目指し、日本にほれ込んで同化し、多くの文化をもたらした…という田中氏の語る「歴史」は、この「西洋コンプレックス」を考慮すると、なぜそんな奇説にハマったのか理解しやすくなる。

 西洋コンプレックスの一方で近隣の中国・朝鮮半島については明らかに「遅れた、停滞した国」と見下す…というのは、残念ながら近代日本人の多くが抱え込んでしまった心理だが、保守文化人であるところの田中氏にもそれが濃厚に感じられる。この心理からすれば中国や朝鮮半島からの渡来人に文化を教わるなど、想像すらしたくないのだろう。それなら「ユダヤ人」のほうがずっとありがたい、というわけだ。

 この手の本ではお約束のようなもので、本書でも中国の「中華思想」をくさすくだりがある(邪馬台国否定論の部分)。自国を文化の高い世界の中心と考え、周囲を全て「野蛮」とみなす発想、実のところ中国文化の専売特許ではなく、世界中の文化に見られるのだが、そもそも田中氏自身がそうした「中華思想」を体現してしまってるんだよな。それでいてヨーロッパに対しては屈折したコンプレックスを持ってるみたいだけど。
 まぁ田中氏がどう主張しようと、その文章が中国で発明された漢字とそれを改造した仮名文字で書かれている時点で、渡来文化の影響があったことは明白なのであるが。


◆卑劣・残酷は全部「大陸人」の血のせいだ!?

 田中氏はユダヤ人たちが日本にやってきたのは、「日の昇る国」を求めて東のはてまでやってきたものであって、さらに日本の風土文化になじんで同化した、と説いている。それならユダヤ人に対して田中氏が非常に好意的なのか、というと、これがそうでもないのだ。

 『古事記』『日本書紀』にはヤマト政権が全国に支配を広げる過程の英雄として「ヤマトタケル」の伝説を語る。ヤマトタケルは景行天皇の皇子でオウスといったが、父の女を寝取った兄を殺したことで、かえってその力を父におそれられ、クマソやイズモ、東国といった各地への遠征に送り出される。クマソタケルを策略で倒して「タケル」の名を与えられ、イズモタケルにも策略で友人同士となり、木で作った偽物の刀と本物の刀を交換してだまし討ちにし、それがまんまと成功しておおはしゃぎしたりする。古代人的なおおらかさが楽しい英雄伝説なのだが、どうも田中氏はこれがお気に召さないらしい。ヤマトタケルについてこんなことを言い出すのだ。

 「天皇家の血筋として揺るがないけれども、彼の行った残忍で卑怯な殺人行為には、いかに日本人らしからぬ点があります。彼のそうした異常性について、今まで「異常」と見なかったことが問題といえるでしょう」(第9章より)

 ヤマトタケルの行為が現代人の感覚からはかなり問題に見えるのは確かだが(日本書紀の段階でもやや問題視はされ、改変されてもいる)、「卑怯」「異常」とまで言い、さらには「日本人らしからぬ」とまで言い出すのには驚いた。ヤマトタケルを含めた記紀神話を「史実」として教えていた戦前でもここまで言った人はいないんじゃないか。
 そして、田中氏は決定的に危ない説を唱えだす。そう、そんなひどいことをするのは日本人じゃない、と本気で言い出すのだ!

 「ヤマトタケルがむごたらしい殺しを行うのは、実は彼の体の中に、帰化人の血が流れているからなのです」(第6章)

 はあ?と首を傾げてしまったが、田中氏は以下にこう説明する。ヤマトタケルの母・播磨稲日太郎姫は播磨の吉備一族の出身だ、播磨は秦氏をはじめとする渡来系の一大拠点だ、母親が播磨出身ということはヤマトタケルには渡来人、つまりはユダヤ人の血が流れており、それが行動に多大な影響を与えているのだ…とツッコミどころ満載の飛躍しまくり、かつ偏見に満ちた連想をどんどん重ねていくのだ。この人、これで仮にも学者なんだよ。

 記紀神話もヤマトタケル以後だとかなり史実を反映したとみられる記事が多くなるのだが、天皇家の歴史はますます残忍な話が多くなる(念のため書いておくが初代の神武天皇やその次代でも結構ひどい話はある)。田中氏はそれらもみんな「ユダヤ人のせい」にしちゃう。日本は非常に平和な国民性なのに、そこへやってきた大陸的な、ユダヤ的な人々が暴力性を持ち込み、女性たちとの混血でそうした血が入ってしまった、と本気で書いてるのだ。

 ヤマト政権において強力な王権を築いたとされる雄略天皇も、骨肉の争いなど残酷な話が多々伝わる。彼についても田中氏は「その経歴を見ると、彼自身も帰化人の系統だと思われます」と、ヤマトタケルよりも根拠のない主張をしている。ご自身でも以前論文で「雄略天皇は非日本人的な暴力行為が多い」と論じたこともあるそうで。まぁまともな学術誌に出した論文ではないんだけど。
 田中氏はヤマトタケルや雄略天皇の伝説をもって「日本人の性格」と思うのは正しくない、として、そうした性格はすべて「帰化人」「大陸人」「遊牧民族系」の血筋のせいにする。「大陸人は平気で人を殺す」とか「日本人は防御のために戦うことはするけれども、テロを行ったり、あるいは人を貶めたり、不意打ちを食らわしたりすることは好まない」とか、読んでて頭の痛くなる発言がこの章では連発されている。雄略天皇が朝鮮半島に出兵してるのも彼の「血」や周囲にいた帰化人のせいってことになってるんだけど、それじゃ豊臣秀吉のケースはどうなるんだ、と。本書でそれは扱われていないが、案外これも外国勢力の陰謀と理解してるかもしれないな。
 そこまで日本人を「平和主義的」と持ち上げるなら、日本国憲法も持ち上げてもよさそうだな、と読んでいて思ってしまったが、もちろん田中氏はこの憲法や戦後民主主義を外国からの押し付けとして憎悪しまくってるわけで

 本書ではそれ以外の箇所でも、「少数派のユダヤ人たちは必ず、支配する相手の国を分裂させ、その闘いを利用して支配しようとします」といったユダヤ陰謀論的な言説がちらちら出てくる。戦国から江戸初期に日本に来たイエズス会宣教師についてもユダヤ人と根拠もなく断定していて(そもそもキリスト教徒になってるなら厳密にはユダヤ人ではないだろう)、伊達政宗の遣欧使節に関わった宣教師ソテロが日本国家転覆を画策していた、とまで言っている。ずっと時代をくだって日露戦争にユダヤ人の協力があったのは事実といて、その後のロシア革命、ソビエト連邦成立、はては社会主義勢力もみんなユダヤ人の陰謀呼ばわりしてるところもあって、結構典型的なユダヤ陰謀論者という印象も受けた。

 それでいて秦氏をユダヤ系と断じて、彼らが日本を理想郷と考えて同化した、というくだりでは妙に彼らを持ち上げたりもするので、同じ本の中で主張に混乱があるようにも見える。もっとも、戦前でも日ユ同祖論者はしばしば同時にユダヤ陰謀論者だったりもしたので、田中氏はその系譜を正統に(?)受け継いでいる、ということかもしれない。


◆とにかく自国を賞賛しまくる妄想通史
 。
 ここまで長々書いたが、本書はタイトルに「ユダヤ人」があるように、それが目玉テーマになってはいるのだが、基本的には日本の通史の体裁をとっている。全部で30章立てで、上で紹介したのはその一部に過ぎず、全部紹介すると大変なので、ツッコミどころの多いところを中心に書いてみよう。

 まず一番最初が「縄文文明」論だ。青森県の三内丸山遺跡の発見などで縄文時代のイメージがここ20年くらいで大きく書き換えられたあ、それを「文明」とまで呼んで、日本独自かつ世界最古の文明とまで言い張る、「縄文文明妄想」と僕は呼んでいるのだが、そうした意見も保守業界を中心に発展して今に至っている。この田中氏の本にもこの妄想の典型がうかがえる。
 田中氏は「四大文明」という定義が、20世紀初頭に中国人・梁啓超が言い出したものだとしてケチをつけ、「縄文文明」が他地域の文明に匹敵する、いやそれより古い文明だとまで言い出し、さらには他の文明が乾燥帯に生まれた「自然と対立する文明」であるのに対し、「縄文文明」は豊かな自然に囲まれ「自然と調和する文明」だと、まぁとにかく絶賛するわけだ。「四大文明」という言葉に対する批判は学問的にも実際にあるものだが、それは中央アメリカやアンデスの古代文明を加えるもので、「縄文文明」なんてものを言い出すのは日本の一部にしかいないんだけどね。

 「縄文文明妄想」の一つの発端は、日本で見つかった土器が世界最古と測定されたことにあるのだろうが、これがたまたま古いのが日本で見つかっただけだろう、という推測は当初からあり、実際、現在世界最古とされる土器は中国で発見されている。また、ほかの文明と違って「自然と共存・調和」と言うが、普通に考えるとそれは単に「文明を起こしていない」ととらえるべき。いや、何をもって「文明」とするか、どういう文明が人間にとって良かったか、といった文明論は人それぞれだと思うが、国家組織も作らない、文字も作らない、一万年も変わることなく自然と共存してました、ということを評価するなら、現在でもジャングルで新石器時代段階の生活をしている世界各地の孤立系少数民族が一番すごいということになる。「縄文文明」を持ち上げてる人たちがそう考えてるとはおよそ思えない。

 さらに言えば、縄文文化がその後の、現在にいたる日本文化にどれだけ引き継がれてるかはかなり疑問。大陸から「弥生人」が稲作とともに日本列島にやってきて、縄文人を駆逐、あるいは混血していったというシナリオが通説になっていて、縄文的な要素を強く残したのは東北北部や北海道のアイヌ民族だと考えるむきもある。いずれにしてもその後の「日本」という国に直結してゆくのは稲作文化を始めた弥生人の方だと考えるべきで、むやみに「一万年も続いた縄文」を日本のルーツのように持ち上げると弥生文化や以後の日本文化を全否定しかねないように思うのだが、田中氏のような人はそういうことは全く考えないんだよな。

 弥生時代から古墳時代にかけての部分では、田中氏が独自に編み上げたとみられる、面白いといえば面白い「歴史」がつづられる。田中氏は関東地方に古墳が多いとか、鹿島神宮・香取神宮の存在といったいくつかの理由から、古代に東国あるいは東北を指していた「日高見国」がこの地域に実在したと考え、おまけにそれが「日の昇る国」であり、「日本」の原型だとまで言い出す(日本を指して「日高見国」といった例があるにはあるらしい)。そして、日本神話に出てくる神々の世界、皇室のルーツとなる「高天原」もと関東にあったのだ!と主張するのだ。
 まぁもとが神話だから、この手の話は当たっているか外れてるかという議論はしにくい。別に天皇家のルーツが関東にあったって、騎馬民族説なんかと比べれば現実味はあるだろう。ただ、そう設定してしまうと困った問題も起こる。神話では「天孫降臨」は日向国(宮崎県)の高千穂でおこり、初代天皇とされる神武天皇はそこから「東征」を行って奈良盆地へ入り、「建国」をするのだ。田中氏は神武紀元の使用を主張してるくらいで神武神話も史実の反映と考えてるようだが、高天原が関東だとするとかなりオカシイ。

 これは田中氏も苦労(?)したみたいで、神武神話の中で神武より先に「天孫降臨」したとされる饒速日命に目をつけ、彼は関東kから大和に入った第一弾の「天孫降臨」で、ニニギは第二弾の「天孫降臨」で、こちらは関東からいったん九州に下って、その子孫が大和入り、というシナリオを提唱している。関東からいきなり九州へ、というのがえらく無理を感じるが、まぁ検証もできないしな。
 そもそも田中氏はなぜ高天原を関東に設定したのか。本人は古墳や神社などを自分の足で歩いて調べた、文献中心の歴史学者とは違うんだ、と言ってるんだけど、どうも「縄文文明」の設定をするとどうしても東日本を中心地にせざるをえないからではないか、と僕には思えた。そういえばこの本でも弥生人が大陸から来たとか、吉野ケ里遺跡のこととか触れてないんだよな。
 弥生時代がらみでは邪馬台国の卑弥呼の話は中国の創作として全面否定している。これもこの手の論者に目立つ話で、さかのぼれば江戸時代の国学者たちの「日本版中華思想」みたいな発想が根源にあるのだが、田中氏が「古事記や日本書紀には書いてないからウソ」とまで言ってるのは間違い。『日本書紀』はちゃんと『魏志』を参照していて、神功皇后(応神天皇の母)が卑弥呼と解釈して年代のつじつまあわせを行っている。

 古代と江戸時代以降に比べると中世史の記事は少ないが、これは作者の関心があまりないせいかもしれない。やたら「平和を愛する日本人」を強調してると中世日本史を語る際あちこち矛盾が生じてしまうので意識してか無意識のうちか避けているのかもしれない。元寇に勝利した件は防衛戦争だから問題ないのか、世界史的大事件とばかりに持ち上げてるけどね。
 田中氏は美術史が専門なので、絵画や彫刻に関する章がいくつかある。鎌倉時代に運慶が作った「無着像」のモデルが西行だとか、フェルメールの絵画には当時貿易をしていた日本の影響が強くみられる(モデルの顔が東洋的、とか自然と調和してるとかを理由にしてる)、といった独特の説が主張されていて、その当否については門外漢の僕には判断つきかねるが、どうも田中氏の主張は彼自身が見た目でそう感じた、そうに違いない、というレベルの、非常に感覚的なものであって立証はまずできないと感じる。それは上述のような美術以外の歴史説明にも通じる点だ。
 江戸時代の浮世絵師・東洲斎写楽についても、田中氏は以前から「正体は葛飾北斎」と断定している。長らく「謎の絵師」とされてきた写楽も、当初から伝えられていた能役者・斎藤十郎兵衛が正体とする記録があり、当人の墓も確認されたことなどでほぼ定説になっているのだが、田中氏はその流れに抗してあくまで「北斎説」を熱烈に主張している。その根拠もやぱり田中氏自身の目から見た感覚的なものでしかないように読めるんだけど。

 近現代史に入ると、また文量が増えてくる。近代日本は西洋文明と対峙したとか、西洋的価値観からの脱却をすべきだとか、はたまた太平洋戦争はルーズベルトにひきずりこまれたとか、戦後民主主義はアメリカによる日本を社会主義国化する陰謀だとか、まぁこの方面の人たちにはおなじみの主張がズラズラ並べられている。それらは特に目新しくもないので割愛するが、太平洋戦争の終結のあたりには目を引く記述があった。ひとことで言えば「日本は『敗戦』などしていない!アメリカにおう思いこまされたのだ!」という主張だ。
 その根拠の一つのつもりらしいのだが、田中氏はこんなことをサラリと書いている。

 「最近の研究により、日本自身も併合していた北朝鮮の興南で、原爆実験に成功していたことがわかってきました。その実験成功は、八月十二日のことで、この成功が一か月早かったら、あるいはアメリカの広島、長崎投下が回避されたかもしれません」(第28章)

 日本でも原爆開発を陸軍・海軍それぞれで極秘に進めていた事実はあるが、参加していた研究者たちですら「今次大戦中には原爆は完成しないだろう」と言っていたほどで、予算も材料も設備も乏しく、とてもじゃないが原爆開発などできなかった。一応アメリカも戦後に日本の原爆開発を疑って関係者を調査してるが、それでもやっぱり原爆開発は無理だったと確認している。ところが田中氏はどこから聞いた研究なのか知らないが、何と原爆実験にまで成功していたと主張するのだ!そこまでやってて何の痕跡もアメリカ側が見つけないはずないだろうに。
 日本が実は原爆開発に成功していたが昭和天皇があまりに残虐な兵器だからと中止させた、というトンデモ主張はすでにあの五島勉氏らによって流されていたことがある。それがさらに「実験成功」にまで発展してるのは、その実験場の設定からして近年の北朝鮮の核開発の話とどこかで混線した妄想ではないかと思える。
 田中氏は講演でも同様の主張を繰り返していて、つまりは日本も原爆を作っていた、タッチの差だったんだ、つまり負けてはいないのだ、と主張したいらしい。正直僕には理解しがたい心理であるが。

 原爆のことだけではない。すぐ続けてこんなことまで書いている。

「十万人以上も死亡した東京大空襲とともに、日本は大打撃を受けましたが、しかし天皇はご無事でしたし、政府も安泰だったのです。つまり大空襲や原爆投下にもかかわらず、国体が守られていたことを決して忘れてはいけません(第28章)

 このくだり、読んでいて僕はゾッとした。実際当時の軍部の指導層にはそういう発想があったようだが、国民が何十万人死のうと、「国体」つまり天皇制が無事であり、政府が安泰なら負けてない、という理屈はもはや狂気だ。だからこそ本土決戦を叫ぶ一部強硬派を抑え込んで昭和天皇の「聖断」という形でポツダム宣言受諾、敗戦にいたったのだ。確かに天皇制維持は裏取引的に条件にしたフシはあるのだが、もうどうにもならなくなって無条件降伏した、要するに日本は「敗北」したのだが、田中氏みたいな人は断固それを認めない。
 その有様を見ていると、吉本新喜劇の池乃めだかのギャグ、「わしを怒らせたらどうなるか…」とやってから、ボコボコに殴られたあげくに、「今日はこのぐらいにしといたるわ」と殴られてたほうが言ってみんながずっこける、あれを連想しちゃうんだよな(笑)。

 まぁとにかく全編にわたって根拠薄弱で妄想に満ちた日本絶賛、あるいは一方ていな被害者意識、それと連動する外国嫌い、そして田中氏自身の学者として屈折した自意識が感じられる一冊。似たような本をこの人何冊も出しているんだけど、それはそういう言説を喜ぶ人も少なからぬ一定数いるということも示している。
 それにしても、ネット上でこの本が紹介されていた時に指摘されていたことだが、この本、各章の末尾に掲載されている「参考文献」が、すべて「拙著」つまり田中氏自身の書いた論文や書籍ばかりというのが凄い。普通参考文献って、執筆にあたって著者が参考にしたものを掲載し、その文章の裏付けにすると同時に読者にそれを紹介する役割をもつものだが、それを恥ずかしげもなく全て「拙著」で済ませてしまうというのは…よくまぁこの人「学者」をやってるなぁ…と思うばかりだった。


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