海上史事件簿その四
海へ向かって大脱走!
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大脱走
 さて、ではいよいよ本コーナーの主役である「倭寇」の主力構成員とも言うべき密貿易業者たちの登場です。もっとも、明は政策として完全に私貿易を禁止しているので、個人が行う貿易は全て「密貿易」ということになっちゃうのでありますが。
 16世紀以前にも密貿易活動は綿々と続いていました。特に中国の南部、広東と福建の沿岸地域においては南海方面へ中国商品を輸出する密貿易が、ちっとも「密」ではなく半ば公然と行われていたようです。政府も分かっちゃいるんですけど、何せ中国の沿岸地域は長大で、完璧に取り締まることなどほとんど不可能。沿岸の防衛にあたる軍隊や地方の有力者などが結託して密貿易のスポンサーとなって利益を上げているケースも多く、地方行政レベルではこれを禁じることなど出来なかったというのが実情でした。
 密貿易の基地として有名だったのが福建の月港というところ。その名は港の形が三日月に似ていたためについたといわれ、近くにショウ[シ章]州という商業都市を抱えています。このショウ州はこののち登場してくる多くの海賊・海商の出身地となっていることから分かるように、密貿易との関わりが非常に密接な土地柄でした。中国各地の物産がこのショウ州、そして月港に集められ、東南アジアへと輸出されていたのです。この時期、すでに東南アジアには今日の華僑・華人の元祖とも言える中国人移住者(やはり福建・広東出身が多い)がおり、密貿易はそれとの連携で行われていたようです。

 16世紀に入りますと、この中国周辺の貿易事情に大きな変化が生じます。一つには第二章で触れたポルトガル人の到来とその北上運動です。正式貿易を拒絶されたポルトガル勢力は、中国の密貿易市場に参入し、中国人貿易商人達と結びつくことになります。この動きはまず密貿易活動そのものの拡大と活発化をもたらし、そしてより大きな市場を求めて密貿易の拠点を北上させていくことになるのです。
 その結果、新たな密貿易の拠点として成長することになったのは浙江省の沖合に浮かぶ舟山群島でした。この地域は明が成立する過程で太祖・朱元璋に敵対した群雄、方国珍・張士誠らの勢力圏であり、、また倭寇と結びつく住民が多いとみなされた(恐らく事実)ため、明王朝が成立すると住民の強制移住が行われ公式には無人地帯とされていました。それでも海辺で漁業や製塩業を営む人々がいつしか住み着きはじめ、公権力の及ばない一種の自由空間が存在していたのです。こういう土地の特性が密貿易活動の拠点として好都合であったのは言うまでもありません。

密貿易拠点 中でも古来からの貿易港として名高い寧波のすぐそばである双嶼(そうしょ)は、やがて史上最大の密貿易港へと成長していくことになります。「双嶼」とは「双子の小島」ということですが、どうやら港に入る目印となる地点に二つの小島があったことから付いた名前のようです。
 この港の名が初めて史料上に登場するのは嘉靖5年(1526)。第三章で触れた「寧波の乱」の3年後ですね。この年、福建出身のトウ[登+おおざと]リョウ[僚のケモノ偏]という人物が南方の「蕃人」を引き入れて双嶼にやってきてここに密貿易の基地を作ったという話が「日本一鑑」という史料に出てきます。この史料では、このトウリョウが浙江で密貿易活動を行った最初の人間とされています。しかし福建出身であるという以外は全く経歴不明のトップバッターです。彼はもともと投獄されていて、脱獄して海に出たといいますから恐らく密貿易に早くから関わっていたのでしょう。
 トウリョウが双嶼港を最初に開いたころから浙江の海上に大きな変化が生じたと、後に後期倭寇と戦う武官の万表は「海寇議」という文で記しています。それまでは浙江の海では漁業や柴刈り(燃料をとるために島に出向く)が細々と行われていた程度で、密貿易といっても福建に出かける程度だった。しかし嘉靖10年頃から密貿易が浙江の海上でも盛んに行われるようになり、密貿易業者が互いに利を争い、海上は弱肉強食の様相を呈するようになった。自衛のために彼らはグループを作るようになり、数十、数百隻規模の密貿易集団が組織されるようになった…と言うのです。

 嘉靖九年(1530)には福建の侯官というところで大規模な脱獄が起こり、林汝美や車小二といった人物が海に出て密貿易に携わっています。さらに嘉靖十年代も後半に入りますと、さらに名のある首領に率いられた集団がいくつか登場するようになります。
 福建出身の金子老なる人物が嘉靖18年(1539)年にポルトガル人を率いて双嶼港に拠点を構え、交易を行っています。彼自身についてはほとんど分かることがないのですが(先述のトウリョウと同一人物とみる意見もありますが、僕は採りません)、彼から始まる人脈は豪華なものとなるんですね。
 嘉靖18年か19年、福建の福州でまたしても大脱獄事件が起こります。脱獄した者の中に福建出身の李光頭(李七)、そして徽州出身の許棟(許二)という人物が含まれていました。いずれも密貿易に関わっていた罪で投獄されていたようです。「ようです」と書いたのは、先ほどのトウリョウと同じで史料中に「罪によって投獄されていた」とだけあるからなんですが、その数年前からこの二人はマラッカまで出向いてポルトガル人達と交易していたと思われるので恐らくその現場を逮捕されたんじゃないかと考えています。そして、この年になって方法は不明ながら彼らは役人を殺して脱獄し、そのまま海へと逃げてしまいます。そして密貿易の巨頭として頭角を現してくることになるのです。
 李光頭(ちなみに「光頭」とは「はげ頭」を意味する)は船団を率いて双嶼港に現れます。すでに彼の名は海上の「梟雄」として知られており、先に書いた金子老の集団に合流してその「羽翼」となります。これが嘉靖19年(1540)4月のこと。
 もう一人の許棟ですが、彼は四人兄弟で許松(許一)許楠(許三)許梓(許四)という兄弟がおり、いずれもやはり密貿易に従事していました。彼らの故郷である徽州(安徽省)は中国全土にネットワークを張り巡らせていた新安商人のふるさとで、許兄弟はそうした新安商人が海外貿易に乗り出したものだったと推測されます。福建出身の李光頭とどこでどう結びついたのかは不明ですが、許棟もこの時点ですでに「海上の雄」とみなされていたようです。
 このあたりから浙江海上は風雲急を告げるという有様になってきます。ついでながら後に「倭寇世界」を制覇する王直はこの年に密貿易の世界に身を投じたと言われています。彼もまた許棟と同じく徽州出身なのですが、これについては次章で詳しく触れたいと思います。

 翌々年の嘉靖21年、金子老が唐突に双嶼を離れ、福建に帰ってしまいます。以後、彼は海上世界に姿を見せることなく消えて行くんですが、このあたり何か複雑な事情があったことが想像されます。金子老の集団はその片腕だった李光頭が引き継ぎました。
 翌嘉靖22年、トウリョウが福建沿海で海賊活動を働いたことが史料に見えます。密貿易業者たちはもともと非合法な活動をしているため武装していますから、トラブルがあるとただちに海賊行為に走る傾向がありまして、これもそうした事件の一つだったろうと思われます。ところが不思議なことに福建の官軍はこれを許棟一味の仕業と断定して、許棟兄弟を鎮圧しようと攻撃をかけたのです。しかし、許兄弟はこれを返り討ちにして撃破してしまいます。
 このあたりも、ちょっと陰謀めいたものを感じるところなんですよね。この年に許棟は正式に李光頭の集団と合流して双嶼港に入り李光頭と共にその主となります。その一方でそれまで双嶼の主だったはずのトウリョウはこの年以後まったく活動の記録が出てこなくなります。これはあくまで推理ですが、この数年間は密貿易集団の間で世代交代と同時に集団間の抗争が行われていたんじゃないでしょうか。その結果、李光頭と許棟の連合集団が勝利し、トウリョウ集団は滅ぼされてしまったのではないかと。

 李・許を新たな主に迎えた双嶼港は、南からのポルトガル人ばかりでなく、さらに東からの日本人をも迎え入れて、一大密貿易拠点に成長します。そこに登場するのが、先ほどもチラリと触れた王直なのですが、それにつきましては次の章で。

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