海上史事件簿その五
王直登場と鉄砲伝来
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鉄砲伝来
 さて、いよいよ「嘉靖倭寇」最大の大物、「倭寇王」なんて呼ばれたりもする王直の登場です。彼個人の経歴は「人名録」にも書いていますが、ここでも少しだぶる形で触れていきたいと思います。

 王直は新安商人のふるさと徽州歙(しょう)県の出身です。彼ははじめ同郷の友人である徐銓とともに塩商になったとされていますが、これは失敗。そこで嘉靖19年(1540)ごろ密貿易の世界に入っていったといわれています。いきなり入るのは無理でしょうから恐らく同郷人ですでに密貿易の巨頭となっていた許棟兄弟を頼ったんじゃないかと思いますが、公式史料では王直が双嶼港に入り許棟の配下となったのは嘉靖23年(1544)のこととされていまして、それまではいろいろと紆余曲折があったようです。
 嘉靖19年、王直と徐銓、そしてショウ[シ章]州出身の葉宗満・謝和・方廷助を加えた五人はともに語らい、「国内の法律は厳しく、ややもすれば法に触れる。共に海外へはばたこうではないか(原文「孰与海外逍遥哉!」)」などと叫んで広東に出かけ、巨艦を造って硫黄や綿糸などを積み込み、貿易に出かけたと伝えられています(「擒獲王直」の記事など)。しかしこの五人がどうやって知り合ったのかもよく分かりませんし、莫大なはずの貿易資本を いかにして得たのか全く記されていません。完全な憶測ですが、ショウ州出身の葉宗満あたりがもともと大手の密貿易業者で、王直はそれに便乗するという形だったんじゃないかなぁ、と考えています。

 史料ではこの時王直達は「日本・暹邏(シャム)・西洋等(せいぜいマレー半島あたりとお考えください)の国」に赴いて莫大な利益を上げたと言われています。しかしいきなり日本に行ったかどうかについては僕は疑問符をつけています。当時の貿易事情からすると東南アジア、とくにマラッカへ出かける方が利益も多いし自然なんです。さらに言えば後に王直の親分になっている許棟たちが南海貿易専門だったことも根拠の一つです。日本との貿易が莫大な利益を上げるドル箱路線になるのは、もうちょっと後のことになります。しかも、その日明密貿易ルートを本格的に「開発」した張本人が王直ではなかったかと僕は考えているところです。

 王直が日本に初めて渡った時期については当時の史料でもいささか不明確なところがあります。そして何と言っても、これに関係して大問題になってしまうのが、王直と「鉄砲伝来」の関わりです。
 あらかじめお断りしておきますが、近年では「鉄砲」なる火器じたいは種子島渡来以前にも一部の倭寇勢力の手で日本に持ち込まれていたと言われています。この文で言う「鉄砲伝来」はあくまでポルトガル人が種子島にやってきた時の話に絞っています。
 種子島にポルトガル式の鉄砲が伝来したのは1543年(天文12)という説が日本では一般に流布しています。これは江戸時代になってから書かれた『鉄砲記』という史料の記述に基づいたものです。これによれば、1543年に種子島にやって来た(漂着とはどこにも書いてないんです、実は)「一大船」に「牟良叔舎」「喜利志多佗孟太」という「南蛮人」が乗っていて、種子島の領主・時堯に鉄砲を売ったという話が出てきます。ここに、彼らと日本人の間に立って漢文で交渉を仲立ちした人物として「大明の儒生・五峰」なる人が登場するのです。
 「五峰」は王直の「号」でして、後に拠点にした「五島」にちなむらしいことから実際に名乗ったのはもう少し後のことではないかと思うのですが、『鉄砲記』じたいが少し後の書物ですので、王直のことを日本で有名になった「五峰」の名で記すことは十分あり得るわけです。「儒生」という表現にも疑問を感じますが、後に日本に居住する王直について日本側では儒学者か何かのように受け止めていたととれる資料が存在します。
 ですからこの「五峰」が王直その人であるという可能性は高いとは言えるのです。もっとも、この程度の証拠ですから危なっかしいところですけどね。話が出来すぎだという気もしなくはない。しかし『鉄砲記』はこの「五峰」について他の情報をほとんど書いておらず(島の坊さんと親しく話したという程度)、かえってそれが作為でないことも感じさせます。全く同じ時期の東シナ海という同じ舞台に「五峰」という人物がもう一人いたとも考えにくいところですし…

 日本側の「鉄砲記」についてはこんなところなのですが、歴史資料というのはやっかいなものでして、ポルトガル側にはちょっと違った記録があります。アントニオ=ガルヴァンが記した『諸国新旧発見記』(1563年刊)という地理書に「1542年にアントニオ=ダ=モッタ・フランシスコ=ゼイモト・アントニオ=ペイショットの三人がシャムから脱走してリャンポー(寧波・双嶼)へ向かう途中嵐に遭い、日本に漂着した」という内容の記事があるのです。この記述は「日本発見」という情報のみで、鉄砲うんぬんには一切触れていません。もう少し後に編纂されたロドリゲスの『日本教会史』ではもう少し詳しくなって、1542年にこの三人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えたのだという記述が加わります。このためポルトガルでは「1542年に日本到達・鉄砲伝来」という説が長らく信じられてきたようです。
 ここに名前の挙がった三人のうち「フランシスコ=ゼイモト」が「牟良叔舎」に、「アントニオ=ダ=モッタ」が「喜利志多佗孟太」に比定できると言われています。ただ「ダ=モッタ」は姓は見事に対応するものの、ファーストネームに無理を感じますね。そのため兄弟か親戚で「クリストヴァン=ダ=モッタ」ってのがいたんじゃないかという見方もあります(ついでながら僕は以前書いた「小説」でこの説を採ってみました)。ペイショット君はどこ行っちゃったんでしょうかねぇ。それに日本側資料との一年の誤差は?

 さらに話をややこしくするのが、同時代に生きたフェルナン=メンデス=ピントが著した『東洋遍歴記』の記述。この中でピントは自分とディオゴ=ゼイモト・クリストヴァン=ボラリョの三人が日本の南端の「タニュシマ」に漂着し、領主の「ナウタキン」に鉄砲を伝えたと記しているのです。時期については明確に書いていないのですが、『遍歴記』の記事を追いかけると1545年頃になると推定されます。しかしピント君の本について先述の『日本教会史』は「娯楽のために書かれた虚偽の多い書物であり、これもまた偽りである」とケチョンケチョンにけなしています。実際その通りなので(笑)まず信用できないのですが、見逃せない点もあります。まず種子島の領主を「ナウタキン」としている点。種子島時堯は1543年に改名していて、それ以前は「直時(ナオトキ)」と名乗っているのです。ピントはどこかでその情報を聞いていた可能性があると指摘されています。また他の二人も全くの創作ではなく、「ゼイモト」は姓を残し、「クリストヴァン」は先に書いたように「クリストヴァン=ダ=モッタ」の名だけ拝借したという見方もできます(鉄砲史研究家・所荘吉氏の見解)。他にもピントの著書には前線にいた者でしか知り得ない情報が含まれていて、あながち否定しきれない部分があるんですね(「人名録」ピントの章を参照)。

 さて、真相はいかに?もうこの辺り昔からケンケンガクガクという状態なのですが、いくつか説を紹介しましょう。
 「1542年伝来説」…ポルトガル資料に基づくところもありますが、李献璋氏のように『鉄砲記』の記事に出てくる遣明船の記述に注目した研究もあります(王直をテーマにした大論文の中にあります)。ややこしい話になるので省きますが、遣明船の渡航時期と、鉄砲を模造するのにかかった年月(ネジの技術を初めて知ったというアレですね)などを考慮し1542年には鉄砲が伝わっていないとおかしいとする説です。ちなみにこの時の遣明船が日本に帰国するのは嘉靖24年(天文14、1545)でして、これにも王直が便乗していた(同行していた)ことが史料から確実視されています。

 「1543年再来説」…日本の所荘吉氏が提唱した説で、いわば日欧史料の折衷案的なもの。つまり1542年にポルトガル三人が漂流して種子島にやってきた。これはそのまま離島し、翌1543年に三人のうちの二人が種子島に自らの意志で再びやってきて、この時に鉄砲を伝えたと解釈します。確かにこれなら両史料における年数・人数の矛盾なき両立が成り立つわけです。
しかも単なる折衷案ではなく、これにはヒントになった史料があります。イスパニア(スペイン)側の「エスカランテ報告」と呼ばれる当時の史料に「ポルトガル人二人がレキオス(琉球)の島に漂着し手厚くもてなされ、翌年またそこへ行った」という内容があり、これがどうも1542年と1543年の事件と推測されるのです。もちろんここでは琉球(現沖縄)に行ったことになっていて種子島についての言及はないわけですが、これはポルトガル側からイスパニア側に情報が行く際に混乱があったのでは、という解釈です。ピントの書く「ナウタキン」についても1542年に種子島に着いたポルトガル人からピントが聞いたのではとのおまけもついてます。ついでながら所氏はガルヴァンが日本の位置を「北緯32度」としていることから1542年のポルトガル人日本到達は種子島ではなく阿久根(鹿児島県)ではなかったかという説も出しておられます。

「1543年伝来説」…シュールハンマー氏が唱え海外で支持者が多いと聞いている説。結論だけみると日本の通説と一緒ですが、先ほど挙げた「エスカランテ報告」に注目してガルヴァンの記事を退け、『鉄砲記』と照らし合わせて「1542年にポルトガル人が琉球到達、翌1543年に種子島に到達して鉄砲を伝えた」と考えるものです。「レキオス」と書いてあるものを種子島と解釈するのは上の説と一緒なんですが…
 この説では他にも「エスカランテ報告」に登場するペロ=ディエズなる人物の情報も参考にしています。これによるとディエズはポルトガル人数名と1544年に東南アジアの中国人のジャンクに便乗して来日したのですが、その港で中国系海賊(100隻!)の襲撃を受け、激戦の末これを撃退。その後日本貿易の有利さを聞きつけて多くのポルトガル人が琉球経由で日本にやってきたとの情報が書かれている。この情報から前年の1543年にポルトガル人が日本に着いていたのだと考えるというわけです。もちろん1542年に来ていても同じことが言えるハズなんですけど…。

 だらだら書いちゃいましたが、「鉄砲伝来」ってこれだけのゴチャゴチャした背景の中で起こった事件だったんだ、とだけ受け止めていただければ十分です(この問題について詳しくは洞富雄氏の『鉄砲』や宇田川武久氏の『鉄砲伝来』をご参照ください)。そしてその中に後の「倭寇王」王直が主役の一人として登場していた可能性が高い。後の王直はポルトガル人との関係もかなり深かったようですから(後章参照)、十分考えられることであるわけですね。

倭寇対策書「籌海図編」に載る鉄砲図解 その後鉄砲は種子島でただちにコピーが製造され、その情報をかぎつけた堺商人の手に渡って、またたく間に日本には鉄砲の大量生産時代がやってきます。伝来の数年後に日本に行ったポルトガル人が鉄砲があまりにも大量に生産されていることにビックリした、という話がしばしば紹介されてますが、これを書いているのは先述の「ほら吹きピント君」なので一応注意が必要です(笑)。まぁだいたいそのような事があったとは思いますが。
 明では日本で言う「鉄砲」のことは「鳥銃」と呼びます(左図はその図解)。これは少なくとも日本より後で明に伝わったようです。伝わったのは後の双嶼港滅亡時のことで、これまた倭寇が伝えたことになるようです。ついでながら明ではポルトガルから伝わった大砲「仏郎機砲」を早くから使用しています。

 ところでこの時期、ポルトガル人と同じく中国人海賊・密貿易業者達の日本渡航も急増しています。1541年・1542年には豊後に100人以上を載せた中国船が出現したのを初め九州各地に中国船の来航が記録されています。1542年に琉球で福建人密貿易業者が鉢合わせして那覇港で紛争を起こしており、1543年に問題の種子島来航があり、1544年には朝鮮海域で日本へ向かう密航船が拿捕され、乗っていた明人たちが明へ送還されるという事件が起きています。日本近辺の海域が1540年を過ぎた頃から急激に騒がしくなっていることが分かります。

 中国人も、ポルトガル人も、みんな日本を目指し北上を開始するのが1540年前後。このあたりから渡航が急増するのはなぜなんでしょうか?原因の一つに考えられているのが日本で大量のの産出が始まったことです。名高い石見銀山が開発され、朝鮮渡来の「灰吹き法」によって高度の製錬技術が導入されたことから、日本で大量の銀生産が1530年代に開始されていたのです。それまで銀の輸入国だった日本は(朝鮮から輸入していた)、これを境に世界的な一大銀産出国に変貌するのです。
 王直を初めとする中国人貿易商人達、、そしてポルトガル人たちはそれを求めて大挙北上運動を起こしていたのではないか…と考えられているわけです。

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