海上史事件簿その六
双嶼港の隆盛
史劇的な物見櫓のトップへ/俺たちゃ海賊!のトップページへ
さて、前章で触れたように「鉄砲伝来」が行われた1543年ごろから、日本の九州への外国船渡航が頻繁に行われるようになります。そして、王直が「鉄砲伝来」の現場に本当に居合わせたかどうかは別としても、王直がこの時期の日本交易ルート開拓の立て役者の一人であったことは間違いないところだと思います。この章では王直の日明往復活動を中心に、「双嶼港」が国際的密貿易の基地となっていく経緯を描いてみましょう。
『籌海図編』という当時の倭寇対策の集大成本とも言える史料によれば、王直は嘉靖23年(1544)に許棟の配下に入ったとあります。「その四」の最後に書きましたが、許棟とその盟友・李光頭は前年の嘉靖22年(1543)に双嶼港の主におさまっています。許棟は王直と同郷の徽州出身ですから、これ以前からお互いに何らかの繋がりがあったと考える方が自然です。ただこの史料がハッキリと時期を明記していることから正式に王直が許棟の部下になったのはこの時だったと考えて良いでしょう。前年に許棟は恐らく抗争の結果として双嶼港の主となり、王直はひょっとすると種子島で「鉄砲伝来」に出演し日本との関係を持つようになっており、お互いに一つの画期を通過しています。両者が主従関係をハッキリと結ぶようになった背景にはそうした事情も大きくあったかと思われます。
許棟は部下となった王直に「出納を司らせた」と前出の史料に書かれています。他の史料でも「管櫃」などと記されており、王直が許棟集団内のいわば「金庫番」的な役目を与えられたことが分かります。部下となっていきなりこのような重要な役割が与えられた理由はいくつか考えられます。一つはやはり同郷人であり信用がおけるという点。そして実際に王直がこうした実務能力に長けておりその意味でも信用がおけた、という点です。これは僕自身の勝手な想像ですが、王直の「直」という名、これは本名ではなく海上活動者の異名、「あだ名」でありまして(王直の盟友・徐銓の「銓」もそうです)、どうも「直=まっすぐ、正直」といったイメージから名付けられたのでは…などと思うこともあります。その後の王直が日本人やポルトガル人などから厚い信頼を寄せられている点からもあながち的外れではないのではないかな、と考えてるところで。
「実務能力」とダブる話ですが、王直にはかなりの「教養」があった可能性も高く感じます。前章でも書いてますが日本における王直のイメージは「儒生五峰」といったものでしたし、晩年に書かれた彼自身の上奏文も立派なものです。荒くれ連中の多い業界内にあってかなり目立つ教養人だったのかもしれません。
許棟の重要な部下の一人となった王直ですが、彼の仕事は単なる「金庫番」にとどまるものではなかったようです。この1544年に日本の商人達と接触し密貿易を行っていた形跡があります。
日本の商人が双嶼港にこの時期いきなり来ていたのか?どうもこれ、前章でチラッと触れた1543年に種子島を経由して明へ向かった日本の遣明使節の人々と接触したようなんですね。この遣明船は「釈(什が入る?)寿光」なる人物が代表となっていて、ルートからすると細川氏が派遣したもののようです。しかしこれは例によって突っぱねられ(だって「十年一貢」の規定なのに1538に来たばかりなんです)、北京までは行けずにやむなく1545年に帰国することになります。王直はこの遣明船と行動を共にして日本に渡航したと前出の『籌海図編』は記していまして、どうもこの船が種子島を経由したとき、すでに王直となんらかの連絡があったのでは、とも思えますよね。
『籌海図編』『日本一鑑』といった史料によると王直の日本初渡航はこの時(1545)のことであり、しかもそれは許棟のために行われたものだと記されています。王直は許棟集団の金庫番をつとめる一方で許棟集団の対日交易ルートの開拓という重要任務を託されたというわけです。こんな重大な任務をいきなり与えられたのも、やはり前年に種子島から九州に渡って事前の情報収集やら人脈作りを王直が行っていたからだとも推測できます。
いま王直が事前に情報収集・人脈作りをしていた、と書きましたが、その対象はどこの誰だったでしょう?ここで「寧波の乱」の章で書いた日本の対明貿易事情を思い出して下さい。当時の日本には二つの大商人都市が存在しています。畿内の堺と九州の博多です。両者は日明貿易の独占を狙って激しく争い、バックにそれぞれ細川氏と大内氏という大名の後ろ盾を持っていました。それが「寧波の乱」という武力衝突時件を起こしてしまったこともあったわけですが…両者の貿易紛争は依然として続いていましたが、この1545年の時点ではほぼ大内氏、その保護下にある博多が優勢となっていました。王直が日本との交易ルートを作る際に博多商人に接近したのはこの点からも必然であったと言えるでしょう。
そしてもう一つ。前章で触れた「銀」の問題があります。王直はじめ当時急増していた日本渡航組の目的物は石見銀山から大量に産出されつつあったこの「銀」であったようなんですね。で、その石見銀山は誰が握っているのかと言えば山口に拠点を置く大内氏。石見銀山の銀採掘に実際に携わり運送しているのは博多商人。これじゃあ王直が博多商人と結びつきを強めるのは当たり前というものです。
1545年の王直の日本渡航がどのような成果を上げたのか、詳しいことは何も分かりません。ただ、その後の経過から察すると、王直はこの渡航時に、後に自らの拠点となる五島の福江島や松浦の平戸に立ち寄り、地元の勢力と結びつきを持った可能性があります。そしてそこを足がかりに博多商人と接触したと思われます。
王直と関わりを持った博多商人は『日本一鑑』という史料に名が記されています。「博多津倭助才門等三人」とそこには書かれているのですが、これを中国の学者で「博多津・倭助・才門の三人」と解釈した人がいます。そのため「忠烈図」という台湾製倭寇映画ではこの三人が羽織り袴で登場、「博多津」をサモハン=キンポー、「才門」をユン=ピョウという今考えてみると大変な豪華キャストになっちゃっているのですが…あ、これは脱線ですね(笑)。「津」というのは「港」のことですから、この部分は「博多の港の倭の助才門ら三人」と解釈すべきでしょう。他の二人が気になりますけどね。この助才門なる博多商人ら三人が王直と結びつき、その誘いに応じて双嶼港へと赴くことになります。「助才門」は「助左衛門」のことと言われますが、一応このままにしておきます。
王直は助才門らを連れてその年のうちに双嶼港にトンボ返りしたようです。そして翌嘉靖25年(1546)にまた日本へと渡航することになります。この頃から王直と相前後して中国人・ポルトガル人の日本渡航ラッシュが起こっています。あのメンデス=ピント氏もこのラッシュに巻き込まれていたようで、彼の『東洋遍歴記』にはそのラッシュに乗って双嶼港から日本に向けて出発し、嵐にあって「ゴトン(五島)」に漂着したというくだりがあります。もちろんピント君の記述をそのまま事実と認めることははなはだ難しいのですが、どうもこの人の行動範囲は王直のそれとやたらダブるんですよねぇ…。
このピント氏が双嶼港のことを「リャンポー(寧波の福建音)」として『遍歴記』に描写しています。それによれば「1000戸の家、2つの病院、1つの慈善会館があり1200人のポルトガル人やその他の国のキリスト教徒3000人が生活している。知事・判事・警察官・公証人など官吏も設けられている」のだそうで。まるでポルトガルの街がそっくりそのままこの東洋の片隅に存在していたかのように書いてるんですが、いくらなんでもこれはそのまま信用できるものではありません(この人、とにかく物事をオーバーに書くクセがありますね)。ただポルトガル人達の大規模な居留地が存在していたことは事実のようです。後に双嶼港が明の官憲によって破壊された際にも多くのポルトガル人、その奴隷の黒人などが逮捕されています。当然その時に日本人も何人か捕まっています。詳しくは次章「双嶼港の滅亡」で触れますが、滅亡時の逮捕者の多彩さ、その供述内容などからも双嶼港がいかに国際的な密貿易基地となっていたかがよく分かります。
双嶼港には大きく分けて五種類の人間が集いました。一つはメインとなる許棟や王直をはじめとする中国人海商たち。次にメンデス=ピントを含むポルトガルの冒険商人たち。この両者は1520年代から明と東南アジアを結ぶ密貿易を共同で展開し、1540年代からさらに日本へも渡航して日明間の私貿易ルートを開拓・展開していきました。これに伴い第三の勢力である、博多の助才門をはじめとする日本人商人たちがこの双嶼にやってきて積極的な密貿易を展開するようになります。
さて、では「第四」「第五」の種類の人間とは何者でしょう?ここまでに挙げた三種の人々はいずれも双嶼現地にとっては「よそ者」であることに共通点があります。許棟や王直は徽州人ですし、李光頭など他の多くの密貿易商人は福建の出身です。ポルトガル人や日本人は言うまでもなく遠い国からの「よそ者」です。では双嶼近辺、舟山群島や浙江周辺の住民は何をしていたのか?これが「第四」「第五」の勢力として双嶼港に関わりを持っているのです。
まず舟山群島は第四章で書いたように、明の政治権力の及ばない自由空間という性格を持っていました。明初にこの地域の住民は全て内陸へ移動させられ、「片板も下海を許さず」というほどの徹底した海禁政策がとられたのですが、もともと漁業や塩業など海に生活の基盤を置いている住民たちですので、少なくとも近海上での活動は認められていました。そしていつしか海禁規制の緩みもあって次第に舟山群島に人がまた住み着くようになっていたのです。また、浙江から長江河口付近までの沿海に住む漁民や製塩を生業とする「竈戸(そうこ)」といった人々も舟を乗りこなし、この辺りの多島海を舞台に活発な活動を行っていました。
操船技術にたけ海上生活にも詳しい彼らが双嶼港の密貿易を一番下から支えていたと考えられます。彼らは操船技術を生かして水夫や水先案内として密貿易商人に雇われたり、自らも生活必需品などを密貿易船に売りつける「接済」と呼ばれるちょっとした「密貿易」も行っていたようです。彼らはこのような形で双嶼港の密貿易に関わりを持ち、そこから大きな利益を得ていたと考えられます。このことはあとで「倭寇」の問題と絡んでくるので記憶しておいてください。
さて「第五」の勢力が残っています。それは中国側の地方有力者、歴史用語で言うところの「郷紳」の存在です。彼らは科挙合格者=中央官僚を出した家で、その引退後も地方において大きな影響力を持っています。そういう家ですから資産家が多く、その資産を密貿易に投資する者も少なくなかったのです。福建のある大物郷紳などは地方において私設の行政府のようなものまで持ち、おおっぴらに密貿易に乗り出しており、それを次章の主役の一人となる官僚・朱ガンに非難されています。こうした地方有力者が双嶼港の密貿易にも多く関与しており、物品を港に運んで売ったり密貿易船に投資したりといった形で関わっていたようです。ただ、彼らはこうした非合法活動に関わりながらも自らは安全圏にいるわけで…このことが後に双嶼港滅亡の一因にもなります。
ところで、双嶼港が全盛期を迎えつつあったそのころ、同じ舟山群島の少し離れた横港という港に、やはり密貿易の基地ができ、ここに拠点を構えた海上勢力がありました。そのリーダーの名は陳思盻(ちんしけい)と言います。出身地は広東とか福建とか言われてまして、要するによく分からない。彼にはトウ文俊・林碧川・沈南山といった部下達がおり、一大密貿易基地と化した双嶼港とあえて対抗する勢力を目指した様子がうかがえます。陳思盻らは日本の「楊哥」に赴いてそこで交易等を行っていたと『籌海図編』に書かれているのですが、これはかつて前期倭寇の拠点の一つでもあった佐賀県の呼子(よぶこ)ではないかと言われています。双嶼港に対抗して別ルートで日明間の貿易をやろうとしていたのでは?と考えられるわけです。
この陳思盻が、のちに王直の最大のライバルとしてたちはだかり、死闘を演じることになるのです。
次章「双嶼港の滅亡」へ