瓦氏(がし)
広西・田州に住むチワン族の部族長(土司)・岑彭の妻。チワン族は勇猛で知られ、「狼兵」と呼ばれ明軍に動員されることがあった。嘉靖33年(1554)、倭寇の対策にあたっていた総督・張経は以前広西で軍務にあたっていたことがあり、倭寇に対抗する軍事力としてチワン族部隊を動員することを決定する。これに応じて土司の妻・瓦氏が部隊を率いて浙江に赴くことになった。
嘉靖34年(1555)3月12日、瓦氏率いる「狼兵」部隊は倭寇が押し寄せる浙江・海塩に到着した。狼兵たちは兪大猷など各武将の部隊に分配され、とくに瓦氏が率いる部隊は女性に指揮されていることもあって実に規律正しかったという。
瓦氏は早く戦功を挙げようとたびたび出陣を願い出たが諸将は守りに徹しようとしてなかなかこれを許さなかった。4月9日に瓦氏の甥が武勇を頼んで一人で哨戒に出て倭寇の襲撃を受け、敵六人を殺したが戦死してしまった。瓦氏は鬱々として早くも故郷に帰りたいと思い始める。
4月21日、柘林に巣くう倭寇のうち2、3千人が金山に出撃し、白都司が兵を率いてこれを迎え撃った。しかし白都司は敵の包囲を何重にも受けてしまい、瓦氏は自らの部隊を率いてこれを救出に向かった。瓦氏は馬で突撃して重囲を破り白都司は脱出に成功する。その後の王江の戦いでも狼兵らは大勝に貢献し、5月5日にも瓦氏らは金山で残敵を掃討している。倭寇たちも瓦氏の武勇を知り、5月10日には報復のため柘林を留守にして金山に攻め込んだりもした。
しかしその直後に張経が趙文華の讒言により更迭されてしまい、瓦氏もこれ以上官軍に付き合う必要がないと思ったのだろう、7月3日に田州へと引き上げてしまった。
なお、瓦氏には甥どころか孫もおり、かなり年配の女性だったのではないかと思われる。
主な資料
采九徳「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」
「明実録」
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