任環(じんかん)
倭寇と戦った官僚の一人。字は応乾で長治の人。嘉靖23年(1544)に進士となり、各地の地方官を勤めて才能を示す。「大倭寇」が発生した当時、ちょうど蘇州の知事となっており、他の役人がまるで戦争の役に立たないのを嘆いて、自ら戦陣に身をさらした。
嘉靖32年(1553)の蕭顕らの倭寇が各地を襲うと、これと戦闘を交え、接近戦で三個所に傷を負う奮戦を見せた。翌嘉靖33年(1554)
に倭寇の大軍が蘇州を攻撃した際、当初城門を閉じて防戦を図ったが、周辺の住民が城を囲んで助けを求めると、ことごとくこれを収容し数万の命を救った。その後も各地で兪大猷らと共に倭寇を相手に連戦した。

嘉靖35年に急死、まだ四十歳であったという。任環は士卒と寝食を共にし、受けた恩賞もことごとく彼らに分け与えたという。緊急の時は野宿・数日の絶食をすることさえあった。あるとき自分の姓名を身体に書き付け「戦死は運命である。私の死体は後日収めて葬ってくれ」と言い兵士を感激させたともいう。蘇州には今日まで祠が残り、任環を祭っている。

主な資料
「明史」任環伝
「嘉靖東南平倭通録」

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